junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

119 8/19

119 8/19 (mon)

愛を送る~愛で在る~只、存在するだけと成る。ことのみでの愛へ、戻り来るへ辿り着く道と経過を辿り来ては、自身のみこそが愛の状態となるだけだったのだ。へとも長い時間をかけては戻って来た。 そしてそれはしかし、常に既に私に知られ私と共に在りて私への必要の象りへ過程を与えられて辿った。 愛と存在のみの到達からの、現化体,色象の私たちを問いて、その道を形取る、それら全てが愛であるという事。

愛や潜在的に深く達している感得状態での存在ですらなくとも只、存在するのみで既に愛も潜在もの全ては必然を起こしており、その肯定の意識のみにおいて肯定的な現象も起こりてしまうと設定してしまえば、それは心にも情況にも或る程度は現実化するのかもしれない程のものである。

悲観を持った自分でも、その存在のままに回旋(回線)の中心となるように、愛と光を世界へ生み出していく存在と創造性もの媒介となるへ渡る。

誕生日の時刻を正刻へ正した動きは僕の(凄く恵まれていて運も良いが流れ去り、何も得られてはいかないような)流れを設定してしまったかもしれない。としても僕はその選択を正しいと思うが、それもはその選択により生まれた流れをずらしてでも正しさを求める流れや僕化された悲観にもよる後付けの肯定であったのかもしれないが、それでも僕は楽観的に上手く行くが真に深められなかったよりは良かったと思えているように、思い込みと現実化への意識の力を用いながらも真の幸福や本質へ近付き達しゆくには(問題も身近と私の内のみで済ませられ、それこそが深く掘り出しゆける道でもあったように)私の歩みは完全な程に最善であった。

では意識の設定や方向によりて肯定の心と現実状況を起こしてしまうだけでは、やはり駄目なのか?

宇宙の総合体(それが実際何かの知性状態でないとしても全情報量の中の一部で特異な形としての知性,自我という突端)から現れた各自の知性において(そこに持ち得られる情報可能性の中で最後に統合でき)最終的に感知出来るは愛なのだから、世界の全てが最善,必然であり愛の感得、又は肯定の存在状態だけが在る。のみにあったのならば、何が現象化するかなど些細なことではある。 綾へも現実化手段の浅きへだったし母は生活へも実際現実が好転していか事への囚われであったし、観察の深さなどを求めるのも現実へ対してでありて私は現実に囚われ過ぎているのか? しかし例え与えられるを受け為されるだけなのであったとしても、現実で生き選択するのは変わらないし殺され奪われていくを何とかしようとするも(それが愛だからかどうかの判別でもなくて)我々の現実だ。

仏陀の釈迦もキリストのイェシュアも成るがままに成されるを選んだだけ。の?それぞれの行為と結果を為されただけであったが、それは例えばキリストにおいて神からの声により受け入れるを選んだのであり、それが無く自身の性質や状況からの選択であったならばムハンマドのように徹底的に闘うという手段や行い方を選んだかもしれない。 つまりここでも生も死ぬも越えて為されるへ投げ出し受け入れながらも選択する主体は、そこにある現実行為への自分なのだ。

ヨーロッパやタイでも瞑想や祈りは用いずとも存在は抜けていた。 しかし目的への現実化はせず、そこにもの必要が行われていたのだとしても、やはり実際の身体は苦しかった。

呼吸もvipassanaも潜在の深さもartmanも光もあみだぶつもdikshaもmindfulも浄化もetcは一体に在ることは事は出来るし、至れている時は存在へ深めようとさえ思わずに存在だけで叶っている。が、至れない時は心と共に揺らいで(呼吸のみ的な)分かり易く至り易い心チューニングもの方法が未だ僕には無く、苦も学びや味わう事が出来る生命体験の喜びと最善であるが苦の心の状態である時はそれを認めながらも実際に苦しいのだ。

創造よりも存在のみへ。 現実や欲を投げ捨て愛のみへ。の否定道的な縮小を辿りて今はまた、存在のみの基盤を経て、しかし創造へ。 愛のみ、からの現実化へ。 捨て流し去りては求めるへ。 無関与,無行為からの選択,行為へ。の現在と流れへ転換していく現実化への肯定道にもあるのかもしれず、しかし私は常にその一体の空と色の統合へ私を行われ離れず観察し続けてはいるが、その中間に揺られ過ぎてもいる。

そしてもしかしたら、そこに愛と闇の相対が繰り返されているのではなくて私においての現実化と心の内面深化は肯定による現実化と現実化せぬ中での肯定という道での深め方などが起こされているのかもしれず、ならばそれを現実化と肯定、苦でなき幸福での真の幸福へもの成長。などへ転換させていく事など出来るのか? 又は、しても良いのか? (現状の私としては、それを目指すを肯定するが。)

この心や体調の何処もが調整と連結の無駄なき必然性に行われてはいても、そこには揺られ過ぎぬ安定の調和と均衡が取られても欲しいが、それも幾度も現化させて来た静寂に平坦な心と自身の受け方でもあったように、そこにもそれで在る時とそう在れぬ時の現化されるを受けるのみの揺られ流されゆく私への必然と意味があるを又も感じ見ていくのだろう。

そして結果に依らずとも俯瞰とは現在にも行われている総体的な連結において為される(全てを知るは出来ぬが)私や世界に起こるを見ては、そのあまりにも必然的な連関を見て判断を越えて為される世界を受けるに在りての歓びにも味わう視方だが、そこには想像や思い込みの力も用いられている事を自覚されていなければならないとも言えるとは思う。 例え各自のみがあり本質へ深めるも観察の力などの必要もなく判別も知性もなく、浅く思い込みだけでの判別であるも良いのだとしても。

運転中に他の車に道を譲るかへの瞬間的な判断にも周りや後続車の状況や現在速度なども読み取られた上での適合へ重きを置き、その上で為された事は譲らなかったとしても良いのだが、今は僕さえが選択,行為すれば皆(全員ではないだろうが、その場の繋がりの大体において)にも良かった私が為すべき流れの連結点であったというに気がつかず行わなかった時には、しまった。と 感じるように(その解消機会も大体は来るものの故にも、あまり気にかけ過ぎる事はないが)流れの選択と検証において私は、気付いていたかに重点や私にとっての喜びを置いている。 それが真に必然かどうかに関係がなくとも、流れとの選択を感じての適合が為し得られた時には、それが嬉しく喜びである味わいではあり本質的な遊び方でもあると思っている。

そして僕の音楽やFlowのArt(流れの芸術)の凄さや提示していきたい価値とはそこに在り、(魂が本当かや本当としても、そこに触れていく必要もなく世自体の完全に為される各自の完全が在るだけであるとしても)流れに観察して世界の本質を問い堀り出していくという道と知性生命の歓びがあると思われてはいるのだ。 ならばその道を自身にはこうして歩みながらも、示し出してゆくものは答えではなく観察の喜びとも言っては良いかもしれぬが、それでは響く人々の受け取るものは、当然の事だよな。程度で済まされてしまうにおいては、あまり僕に思うそこへの意味は起こらない。

行うことと行わぬこと。や言うと言わぬ。等もは、例えば事故などのクロックアップ時にも、為されるに任せながらも少し自己行為も持つというように私においては観じ取りながらも中間的な最善性は既に常にも取られているとも思われる。 そしてならば人等の各自も観察の深さや如何んに限らずとも、そのままでの世界の必然的連関への性質,選択は生起されているならば。と、ではそこへ何もを関与せず放り出しているだけで良いのか?

運命か意志かにも関係なく、そして必然に見える流れが全て決定の必然なのか、為された後に必然的に絡み合っていくのか。にも関係がなく、どちらにしても世界に在りて関与,行為し関連していくのは自身の選択や置き方なのだ。 神や宇宙人などの声が聴こえるのでなければ又は聴こえたとしても、それを信望し選ぶかも自身であるしシミュレーション的な幻像,仮象としての自身でしかないのだとしても、如何にこの現実,状況,制限の世界でも何を感じ如何に選ぶかは、この自身ごとであるしかないが、(デカルトは此処でも顕在。)ではその観察と適合の喜びの(知性やFlowの意味や)価値を通して示し与えられれば人の意識は真の肯定や交感もの幸福状態へ進化されていけるというのか?

(だからこそflow出ぬactには(歌の内容を分かつ事などの以前に、それ自体が目的でもでもあるのだからにも)納得が出来ぬのでもあるが。 それは深き観察とも同じ潜在的能力による連結性の素晴らしさ。だけでなく(この書き連ねも)、その本質,根底の存在性だけ。の価値や凄さを催すなら良いのなら、その流れへの観察による力や価値と道は如何に示され又は必要ないともいうのか?

私のみが在る。において科学や近代が興きたが、これからの否応もなき意識の時代における又はそこへ興すへと関わる為へもの生き方の道とは?と問う事は私と私の役割の為だけでなく皆誰でもが共通の必要ではあるだろうが、限定された知性や生活余暇なき状態においても皆も逝かねばならぬ。のでもなく役目の誰かが為しゆかねばならぬにはあるが、そこに示されているのは皆にも必要とされていく過程へも関わりゆく為の発明,発見の必要でもある。 そして基本的に人の大多数は消費的享受者であるを理解し、では開発を託されてしまった側の犠牲的な生は業が深いとも言えるのかもしれぬが業や徳の高さなどの区別に意味が多分あまりなく、全ての事態と状態はそれごとへの(業や徳とも言うような)必然連関のみが起こされているようには見ている。

如何なる事件や問題が世界に起きても、私たちには何も出来ない、せめて周りで起こる事や状態へ対応を当てていく程度にしか基本的に出来る事などがないのだ。という理解の上に世界への関与もの方法を考じられなければならない

全てが必然的完全に為されているだけか。にも関係なくても、世には均衡同士の働きと現在の(playerである生命たちにもよる)知性進化段階や光と闇の両方バランスの上にも、調整は取られているように見える為にも、何処にも判断が出来ない。

では行うと行わぬの狭間に自然な自身化の流れと存在状態化が起こっているとしても、例えば僕が現在の香港市民として歴史への結果にも関わるプレイヤーであったり(シリア市民であったならば逃げるという選択が家族の為にもへの最もなる優先度であったかもしれぬが、香港は未だそれ以前であるし世界への種となるかもしれぬ実験の萌芽でもあるに)した場合、力へ対する力使用の効力も知るのに、認めず関わらず自分は力を用いない又は現在自身の指摘性のようにも暴力に過ぎぬとしても、ここまでの力と提起はしよう。などという何処を選択するのだろうか? 又それを、あくまでも自身はそこを選択する。と思い示しても、それが故に暴力的行動への肥大やそこへの対応による被害の増大。 又は更なる不自由への種となるへ力をかしてしまうのかもしれぬ可能性も感じるなら、その責任にも立ちて何処を選ぶのか? 抵抗せざるを得ない状況とは友や家族が巻き込まれる又は目の前に暴力が迫った時ではあるが、それ以外は又はそれ自体もは感情的囚われによる対応ではあり(その人間というものも認めているが)私は感情的には選択したくないという基本においては、やはりそこでも選択の基準として積極的に採用はされていない。

結局、私は調整者として動けない事を基準とし、そこに覆す機会が起こりていても又は同じ方向を持つが抵抗や暴力へ立つ友や弱き者たちの選択,行動へ力をかさぬ。という(そこへ他者を巻き込まず、もしかしたら意見さえも提示しなかったとしても)逃げ離れて関わらぬが選択であるという事か? そしてそれは個人選択としては尊重されるとしても皆への共通化は出来ぬし、では共同体的選択をせねばならぬcouncil等へ関わるにおいてさえも意見せず、又その意見への共同を募る事もないというのか?

例えばAltanativeな世界種子の繋がりの力や共同体への提携の基準も(投資も同じく大体の方向性の近さや、友であるからという人情性にもよる判断は有り得ても、何をやっているのかも仲間なのかも本当には分からないように)判断できぬのだし、そこへの相互補管的な防衛や経済流通にもおける軍事的なアライアンスなどを組まぬとも緩やかな提携を選んでおくのだとしても、やはり暴力にさらされていくかもしれぬ種たちへ共同の力を提供しあう事は大切であるし何処までも無関与を選択するというのなら自身等の自治自由区域も守り自立するには徹底的な自衛抗戦意思を持ち物理労力的にも用意しているしかなくなるように、そうした状況が世界に現していくならば、何処をとっても地獄の中での選択である。

そして現実的状況が何処に現じるかの判定ではなく、可能性想起の上での選択の問題であるこれらにもおいて、金を使わぬ生活選択肢を持ち行く。等のような肯定的な道の提示と思想をかざしていくのみの状態であれば良いのだが、その革命の方向や手段の現実生起が暴動などのような社会の選択や不可避であった場合にも(シリア等も、それであった。)又は家族が奪われた等のような自身現況化においてもの選択においても、今そこに殺されていく仲間たちへ(例え自身一人が加わってもあまり意味がなくても又は出来る事があった場合にも)力をかさなくても良く、自分はひたすらに自分の想いや思想的提示または生活のみをする。 又は傍観のみを方向とし灯し逃げ語らず生き延びる又は同じ地球上にありて離れる事等も出来ず無関与において生命達が殺されていっても(現在世界は既にこれでもあり、この非共生に対しての何が為せるかの私の現在と問いでもあるが)殺されるを待つのみというような選択肢を持つのが正しい在り方と示し得る基準でもあるというのか?


120 8/20

同じ惑星からは逃れられない、運命共同体でもあるというのに。

存在のみからの愛と常在の変革へとありながらも、それは本当かも分からず現実への探究と試しをゆく。 未来などが分からなくても。 愛ですらない超越の相へ、僕は語りかけられている。

肯定と否定の両端や多様を知りて全自由の上に、空と現色の狭間に選択されゆく自動生起に判断を越えた私への幻しを追えば、中間性の夢と曖昧が果たされるのか?

傍観と観察と自個と縮小と無関与と思想と静寂に向かい果たすが自身を置けば、種の未知は分化ともなるのか? 流されるしかない非情を僕等は逝く、全体だけがあるを知る。

真実を追い、感じられた真実のみになど取り込まれるな。 Flowに宿る連結の行方を僕は観つめる。 存在への流れを身に宿し、歌われる事もなき歌を歌った。

記録、宇宙からの声。 連綿の相が織られゆく各自が自由と一体の運行からの記憶、瞬間たちとの出会いが私へとも至る。

放浪に流れるままと言われた運命にも流し去られて、自身なる意思を試し挿し込んで来た、世界と言う大いなる幻想の上に、根を張る現世(うつつよ)を僕等は生きているんだ。 重なりあった次元に合わせて知性の突端に現れた私への選択を為されて巨大に進む総体からの声を鳴く。

けして分からぬものがあり、進化と具体への方向は、それさえも自然(jinen)のままが起こるだけ。 必然などが自身等の後か前かはどちらでもある運命と意思は同時の絡まり。 業と徳とは全ての状態が背負いた存在と形への呟き。(度合いや固着点つまり性質的な違いは勿論あるが。)

人の動きと感情ではない、そこに流れを観てはいるのだ。 心一つからの肯定という一つの結論にはありて、苦しみも味わえる生命の体験と歓ぶは、それ逝く歓びと非情なる覚悟なのだ。<夕方~

今ここのみという日常と瞬間ごとの歓びを感じていくはmindfulな気付きの喜びと心の状態化や安定を持たらす道や効用として認め使用もするが、それだけでは現実物理的な苦痛の味わいから抜けられない。 抜けられるとしても、肯定とは基本的に操作への無関与に全てを受け入れること。

囚われなく揺るがぬ心の平静へ達す事のみが全てであるならば、それににより殺すも奪うも突き抜けた自在となる故にも、その性質や能力的artが先天性としても人為操作性により生まれたものでありても、それが生まれ来た自身を必然の役目に果たす最高と認め放り出すのみなのか? それとも、やはり苦を越えるのでもなく苦を味わえる生の喜びへ抜けるがのみの生体の意味,道,価値,達成と創造存在のartなのか?

それは、生の真の目的などが我々なる制限知性の現在には分からなくても、その生命体験の意味付けによる価値定義を何処に置けるのか?ではあるかもしれない。

苦労し努力して現時点までの自身の最高と向上した物を作っても、報われず失敗する現状の世界に対して、それが労苦を味わう為に生きている幸せなのだ等とは(人間的感覚性の制限のみからでもなく)僕は言えない。 欲を抜けていく自由の為にも肥大させず最少へ減らしていく事は道と効用だが欲や自己がいけないのでもないと思いてもいる。

苦の効用,必要性を感じ、享楽,利便だけの幸福だけではないとも思うが何故、皆が平等に富めるを目指してはならぬか? 又その幸福の質に本質的か等の評価基準を持たらす必要があるのか?

苦と自己による本質や幸福への欲の方向と使い方によりて進む、その達する先は如何であるのか?

欲,自己,苦,生体などは全て道であり、それはそこへも使える道具の一つというだけでなく、それこその超越がこの次元での我々に至りゆける可能性として与えられているのではないか?

生存を保つ為すらもへの現世界での方法において、見通しや準備や資本の投下量が少なかったからであるという指摘は確かに言えてはいるが、結局それでは資本へ吸収されていく現在人為社会の土台での構築,強化でしかなく能力により奪われる者と奪う者に分かれてしまうような強者の理論でもあり、又それ程の余裕や期間などを用意できない故にも賭けでもあるような勝負に出るしかない情報と分析力だけでなく選択肢の無さでもある中で、弱者を強くして一部の勝ち組を産み出す為に知恵を付けさせる活動に従事するのでもなく(その動きも必要かもしれぬに否定はせぬが)僕は弱者に寄り添うような変革へもの方法が求められている方へ自身を用いたい。

良いものは広がる。とは言い切れぬ世界で生き延びる為の必死の労働ではなく、自身の行いたい事で創造し与えられた役目果たすによりて分かつ喜びへ向かうへの関与と力をおとしていくのは破壊側面での(暴動や扮装などのような)創造ではなくて自己の存在と創造の用い方としてありて良く、ではこんな世界は間違っている。と言う私の(それは真理の一側面への判断ではありたとしても)指摘や対抗も、その手段の内に入るのではないか?

例えそれらは享楽的な利便的幸福と苦の減少による真へ深められなくなる経過へ通じてしまうとしても少しでも生き易い世界を創り出すへ関与する事は必要なのではないか? それとは例えば政治では本質的には変わらないが少しでも良くなりそうな情報や判断にも(メディアや教育も)労力を使いてでも立ち会い、平和主義への理想へと軍事力は減らすのみを選択肢とした極性への引き付けに関わるのではなくて(又はそこも使いながらも)武力対応の世界の中での安定と適合の方法を考え提起していく事や、理想主義や非暴力だけでなく(その側面手段として暴力,政治,情報力もあったように統合された思想への進展を目指すにおいても)政治,デモ,言論,扇動(船頭),暴動的対立力にもよる(長期的視点では何も判断できぬが故にも却って)短期的目標への力の投入や行使も恐れぬ事や、Bi実現がその先の金を必要ともせぬ世界の実現を阻害し新たな管理を生み出してしまうかもしれぬとも、そして自身には金の価値無力化方法を考じながらも今よりは生き易く生きられる段階への歩の進め方と現実に適合を持たらし地に足着いた少しづつの進展を目指すのか?の進め方と選択の仕方の問題であり、それともその労力投下の全てに関わらないというのか?

意識面においては、浅い楽観と幸福の中間的意識発展段階社会による共生などは嫌だが、そこへの進展力へ賛同し力を貸すのか反対の姿勢や対抗もを辞さないのか?等もそうした共生的社会の創造を目指す方向者たちの動きや運動や組織的力化への提携,協賛,共動などを何処まで持ち、阻害する事になっても何処までを否定,対抗し線を引くか?等とも同じ事であり、yesのみでないcounter(beat)なchoiceを持つは良いとしても無限に自由な選択肢の中から、どの立場を採り何処までのantiをどの対象に対してまで持つのか?や、Alternativeな自立体ごとの運用や個人としての私の立ち方,姿勢の示し方などに(如何に考じ選択方向を持ちていたとしても結局は、その時の現状までに結び付いた自身と現場に与えられて選択するしかないとはしても)、人間的手段としての暴力も認めるのに暴動的な変革力は認めず理想主義のみでしか現実へ対応せず、そこにもある新たな世界への種を潰されても関わらず、革命の手段は例えば金の社会から抜けるのみといったような非暴力性の線を引きて力を貸さぬばかりか、その動きへの否定すらするというのか?

その結果が新たなものを産み出したとしても自分の想いや状態で突っ走る愚かさを僕は否定し対抗まではせぬとも違うと思いているが、その人間たちの浅きが無駄を通しても世界を行わせ作りていくも認め眺めて、では私は何処に関わり否、そんな状態世界と人間中に関われぬなら関与せず、只この存在での思想面とその外形的形の創造行為面を人へ響かず分かてぬとも行いているのみであるへ抜けて、自身のみではなく世界に立ち会う代表表現媒介者なる因果と苦しみを放棄して自分の事のみへと尽くす自然により創造の遊びは分かたれるならば生かされるも良いという程の自由を得られるへ化し熟成し完成されていくへもの期間を使用されてもいる、唯ここが私の最善を生かされているように身体,物理的苦しみはありても恵まれた時との出会いを濃密に充足してもいる。

虚無と冷徹の眼差しからではない、何とも緩い環境からの慈悲でしかない者たちへ、共感共苦の効用を投げ掛ける為にも浅き進展の強制を作り出す位なら苦しんで成長して来いと思ってしまう自分も居るを、いや私は何処へも自身の意思などで操作を及ぼさずその未知の影響からも離れていようと意識でのリセットをかけては来たが、嫌という程そうした浅さに打たれて仲間に成れぬのは私の側の(怒りや爆発の)理由ではないと(そこでの私自身への成長は得取られるとはしても)分かっても来たように、離れ無関与でありても自身の存在と創造のみを遊ぶように生く(生命自体の味わいと遊びだけではなく)姿のみへと自身を変換して生きてしまうへ向かうのだろう。 原始仏教も自身変革のみへは関与しながらも世界の人々の生み出す業や現実性へでの社会変革や戦争や貧困や病の克服へ関与しなかったように(それで良いのか?の問いではあるのだし、未だ正しいとは言い切れないが)そこを一つの基準や中間的在り方であると示してくれていた信頼と信憑性の高い道の可能性は(僕に迷ったというだけではなくて無関与可能性を否定されぬ為の権威付けでもあるが)ありてはいるのだ。

自身の信じられるものと流れとの適合に可能性や機会が生まれたからといって、現実的行為の具体や勝算を欠いたままに試した自身の現状把握が足りていないと言われればそこは認めるし自分では見えないものがあるからこそ人から見えるものを教えて貰える相談,対話の効用があるも知っているが、こんなにも環境要因や自己の分析も(適合への囚われを否定されそうな程に)行ってはいる私に、それが無いから駄目だと言われても、その先の相談やアイディア出しの以前に、また浅く一方性の意味,価値づけと正当化をしただけのように思うし、私の状況と似て叶うと叶わぬの両方にあるティベットも同じように滅びるのではなく亡命政府を隣国で樹立し生存と戦略への命脈を保っているという意味では凄く恵まれているが自国内での自治圏獲得と復興などでは現実化していないのに、そこへ聞いたことへの答えも為されず只、感情的反応と自己正当化が返って来ているだけであると(もっと進んだ意識からに比較すると私も制限的な知性や判断での反応ではあるだろうには恥ずかしいが、この対人間間においては外から誰が(ある程度以上の知性,観察的視点と評価を持った者なら)見ても僕は、何度か読み返してみても全く間違っていないと思われる。

例え経済的な支配と搾取が終わろうとも、こんなにも愚かな者たちが力を握っていくならば、そして種々の教えや感得や知恵が仏教的な形などへさえにも現されて来ていても曲解や薄浅や想像作品的な解釈にしか利用されていかないように、では突き抜けて現実具体や日常的関係へ関わらず又は表面的に付き合う程度で済ませるならば良く提起するものへの適合は超越的な自身のみへの道と変革であれば良いのだとはしても一体そこに何を語り如何なる方法であれば伝えられるものとなるというのか? を、この繋がりにも見い出すへ問いている。

全てが良いにおいては勿論に指摘も関与も操作も判断もなく放棄だけがあるのだとしても、それらとの関係や関与に対して包括よりも僕は敵と設定してしまいているのは打たれ共有不可であったからでもあるし新たな支配階級と共同していくのも嫌だから分かち合いの方法を指摘においても模索しているのでもあるとは言えるが、では響くか響かぬか利用のみで終わるか等に関係もなく自身にとっての真実が見つけられたのなら行い示せば良いのだとしても、それらへの進化へと伝える事が目的なのだから、それらが如何に受け取り起こるであろう可能性にも観察し学びては如何に響くものとするかや又それだけでもなく、それらからの学びを経て真に自身が真実と思えるものを掘り出すへの研鑽へも尽くす過程に在る事からの問いを続けている。