junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

166,12/14,

166 12/14

私とは宇宙の力であり、それとは光と闇を統合し越えた光。
~I am the force of the universe, which is light that integration light and darkness.~

全てである私から浸透し挿し込まれて来る光と愛への充実と、宇宙の媒体自身が私を味わう事象自体でもあるに与えられて流れる、現在と生命を味わいて存在を生きゆくだけの真の幸福,創造,歓喜へ充たす祈りともなる。

楽観でも悲観でもない。 人や生命の悲哀を知りて感じて眺め、個別への解答づけを持たせずとも(そして共生的享楽でもなく)全てのものの意識的な進展にも伴う共生や存在内化の幸福が成されます事を微笑むようにも佇みて吐き出されている然化の私を放出でもなく宇宙が内包し我々を包み込むように照らす自然が流れを照応していく。

その私という自然の然化(流れへの)存在は静寂,寂性でも多弁や表出においてもなくとも、又は俗にありても聖にありても既には一体へと越えた、汚れる事がなき意識の澄んだ深然からの淵と境界にも渡りながらに棲んでいる越境の自由者となりて、物質を転換する魔法を越えて物質へも転換させてしまう統べた術自体と成りてゆく(この私自身が)道。 beyond & on awake. look forword to unificate.

方向性を用いずとも自然が全てを変化させるが意識の照応は光へと事象を済ましていくように世界は鏡であるとは、その流動の質に関しての本当ではあるのだろう。 そして方向性とは意識においてもの進化という自己選択へ引き寄せる変化現実を創り出しゆく自覚の持ち方でもあるにおいて我々の知性や判断は分別でありても使用させている事も(絶対の価値であるかは分からぬが)出来るとは言えて良いと思われはする。

世界は鏡という言葉もは全ては自分次第とも言えるが、全てを自分の責任と変革のみへ向けるというのも自己責任的な考え方ではあって(その通りでもあるが、頼る事も弱さもを認められず折れるか過剰に強さを求める事にもなりかねぬ)、そこには同時にも自分の能力や責任を越えているとも言えるだろうし世界に映された自身でしかないのだという逆接も成り立つのであるからにも私は映され移されたままの自身に在りてを肯定,納得し自己と責任をも放棄されながらに、その愛の照応へ世界を変革する自己と責任へ立つ事との同時,一体は有るが、だからといって自己の心(意識)のみによりて現実化を持たらす操作などが有り得たり操作へ留まらぬ為には認めて良いかという部分への問題を提起しもするのだ。


愛や自由や平和のようにも様々な意味面もを内包する故にも一つの言葉や事象を取りて(又、その連なりにおいても)共通のものとする事は基本的には出来ぬのだからに、全ての事には(今次元と現宇宙では)二面性や相極性があり、どの全ての状態や段階にも近似性が現れているとも言えるし(巨と微のフラクタル)、その全てが相似であるわけではないとも言えるように何処か一方には偏れず又は常にどちらもが有るのだ。

例えば判断せぬという言葉を一つとっても判断せぬ事へは判断せぬというような一層と包合の解釈ごとにもの入れ子的な肯定と否定や創造と破壊の連綿と一体の構造でもがあるように、我々人間においても肯定へ流し去ると流さず振り返り向き合い否定もある事などもの結び付いた統合へ私を渡す方向は(どちらみが分かる事によって進展が阻害されたとしても)我々が一人づつの進展の先へも組み込まれていくべきであるとは思うのだ。

生命は自体が歓喜であり悲苦でもあるように、しかし(どちらかへ至らせようとする事だけではなく更に)極相を統合しようとする事すらもしなくとも実はこの、どちらもの有る自身と状態に在る事が既なる統合でもあったとは知るのだ。

心身の具合などによって強制的な手段で症状が出なくては休めないと対症されるしかないのではなくて、もう僕は自身と流れ(生命)への立ち会いで自在に、休め指令の流れも拾えるように(少しづつではあるが)なりて来てもいる。 それは自然の流れに感じ、入り、従う事で対症しておくという(意味は少し違うとしても)未病への予防のような状態(それが予期でありてもなくても)の持ち方でもあると言えるだろうか。

(12/15)
人から、何をしている人なのかと聞かれて生きている事ではあり生存の仕事であると言うてもいるが、それは格好つけの言葉ではなくartistであるという以前に(生存は僕にとってのartだが人々の思うartとしては説明されない故に創作活動の方を言葉上は選択された方が良いのだろうし、又そうでない表現には確かに活動面へ生かせず生き延びるしかない自身への卑下や謙遜も混じってはいるのだが)実際的な僕の実感ではある。 そしてその生きるのみの姿と本質性の提示でもあると思われてもいるのだ。

そして為すべきを求め追い過ぎるよりも、余裕を持ちて(人間的な進行の感覚度合いにおいての)時空とも立ち会い、もし間が空けば何が今その時の自身には求められているのか?にも立ち会う事が出来、追われていなくとも立ち現れるように必要が見えて来る、気付きの瞬間ごとにも生きる事が出来る。という、流れへの乗り方の価値や方法をも示すへと灯す。

良き悪しきの垣根も判断もがないのだとしても、良きという(現在での判断だが)方向への発見であり固くなさなど縛り(の効用も有り、そこにも完全に区別は出来ぬが)の方向でなければ自分のままでありながらにも、しかし真の自由と真理,本質へと向かいゆく為にもへの手段としての個人基盤において振り返り、たがを外していく事の効用は(antiやcounter的な発想でもあるが)有ると言われて良いとも思う。

自己犠牲の本質とは全ての幸福の為に自己など如何にも小さなものと観念され、その自己を尽くし使用するへも又は尽くされるままに使用されて生きるのだという事へもの放棄へ超越しては生きる自由を手にする事でもあるのだが、この人間社会においては(東洋と西洋で周囲の為か神の為にか等は違うが結局)その全体主義的な全体または上位構造である人為への協力義務や強制へ操作,利用,吸収され絡め取られる依存でもあり、そこでの自己放棄は真の無私ではなく、又そうした自己を為す事によりて何が為せるのか?の圧力によりて行う事への欲求や動機が肥大されてゆく方向へとも使用されてしまう故にも、私に想う創作の自然的な示現の価値や在り方や方向とは(宇宙的連関の必然にも為され尽くされる非情な運命性への諦めと使用されているのみの自己犠牲でもある事や使命的な性質,能力においての自己選択を共生,相乗など全体幸福へ向けての判断方向へ伸ばそうとするにおいての行う人間活動の人為や自然も認めているには同じでも)創作的価値の肥大においての結果が行うべきことや自己を犠牲にして尽くさねばならぬという自己の肥大からも抜けてゆく、引いた事による自身と全体の最大効用化の目指し方であるが言われ示されていきたいのだ。 それ自体が難しいし、その説明も難しいが。

そしてその流れに為され生きるとは他律や人為に操作,利用,迎合されるのではなく自律で判断,選択,決定し生きる為にもと違わず同じ、世界自体である流れと自身の本質の自然や真実自己というものへ渡りていくことであり(それを何処までかは果てなくとも魂と呼んでいる自己を越えた自己へ触れてゆくこと)それが生命の生き方と到達地点どちらもの質として求められる、(如何なる方向も答えや法則もなく根本であるから正しいのでも又は決して至れず至る必要もなき全てが完全なのだとしても)方向や質的判断であり問われて然るべきでありても良いと言えるのではないのか。

しかし如何に言われ自身へと立ち会い世界を掘り出す気付きの効用と手段が真の創造と生存であるなどと示されたとしても結局は人間の浅さへ利用されていくしかないのなら、(それは時代ごとにも然じ置かれる一雫の関わりや人為進行の世への対抗力とも残されてありゆき未来指針となる意味や活動であるのかもしれぬとも、)示されぬ方が無駄を生まず良いというのか? それでも此処に立ち会い生き続けるにしかない自分へは納得していくにしかないのだとしても。

これら自己を越えた魂的流動の次元の自己と流れに近付き本質性へと触れてゆく本質(という判断)方向へ向かいて生きる味わいと気付きの生存を基盤として、与えられた能力や性質,環境などもの状況の使用方向を為される事が、自己のままでありながら自己を覆し続けるへも向けていく(共生,相乗などもが結果と過程へもの)質なのでもあり、又その全体の為に行われゆく自然の自身も世界もを認め放棄していくと同じに全体主義的人為からは抜けてゆくという判断差別の分別を用いていく事などもは、多分この繰り返された一つの結論,決着地の持ち方としては正しいとも言えるのではあろうとも思われるが、しかしその上でも問いは終わらず真の統合,到達,真理への欲求によりてもに深め,進み,覆し続けるのだ。(という生の姿勢と方向をも示す。)

私は他者への(自身でもだが)物事や対象の把握への言葉的伝達が簡易化も出来ず説明するのが不得意ではあると思ってしまってもいるが、いやそれは聴く側の能力の問題でもあるのだと転嫁されてしまうもの両方が正しいのであるから(どちらかに囚われ偏らずが良いとも同じく、他者の責任だけ方向へ肥大はせぬとも)自分の側の努力が足りぬせいだと(それは自己を進展もさせるが社会段階などとの適合労力へ繋ぎ止めてもいる枷とも成り得る又は成っている)思い過ぎたり自信を失う事もない。

よりて、それは聴く能力や努力の足りなさ故であると言い置いてしまうもが一つの提起性ではあるが、しかしその方向の同意が挿し込まれてしまいた者は(僕と同じようにも)この現人間的関係や状況の社会の中では生きづらく他者へも深く観る事や方向努力を求める厳しさもを持ちてしまうかもしれぬのならば、やはりそれが如何に真実へ近く良いのだとしても、その影響への私を置かぬ方が良いのか? 例え本質へ深め近付くという気付きや味わいへの分別作業が質づけや優位性へもの判別でありてたとしても、聴く事で感じてゆく価値は問われ言われても良いのではないのか? それさえもから抜けて如何なる影響をも生み出さぬ方向のみへ向けて生きるしかないのが到達の答えでもあるというのか? (もしそれが正しいのだと将来にも分かるのだとしたら正に今、僕は既に(創作活動化出来ぬ事も子ども達との生育へ関われなかった事も)それを完全に為され尽くされていたとも言えるのではあるだろうが。)


しかし与えた後は各自の捉え方ごとに任せた考えるヒント程度に使われれば良いのだという(仕方なさ又は強制せぬ為の効用でもある)納得では、ほぼ正しくなど立ち会われず使用もされず誤解的曲解や利用されるに過ぎず自己関与や言葉化の労力や伝達されたかった事の意味などは意味を成さぬならば、そこへ言葉を持って関わらぬ又は説明をなるべくに尽くそうとする事は必然的な帰決や結論では(囚われ過ぎぬならば)あるのでもなかろうか?<(日記より)
しかし話しの内容が針金虫のように人間も操られているのではないか,一神教の自己犠牲を強いる搾取構造の事,などを、それぞれの一視点の浅さごとからにしか見えない状態の人々に(全員がそうかは判断せぬが話し同士もが表面的な部分で噛み合わなさにあるのは常の事)言葉や首を挿し込む無意味さも感じるし疲れてもいるので関与もせず。 自分で感じ考えようとしている分に良いのかもしれぬとも、しかしあまりに短視眼同士の意見のやり取りや、もし食い違いが膨れたり更に一方から言われたりさえもするかもしれぬような世の段階の相と低さを見ては為せる事などは(多少にありたとしても、この場での必要は)なしと自身の言葉化へ試す事すらからも離れいる。

多神教でも一神教でもなくて0神教なのでないかと言う言葉とideaだけの二元相対性は、汎神論基盤や有無の質としての0でも無いらしく又、その0との一体には何処までいっても(無限の近似値は無限と見なすというのではなく0.00000...1でも0ではないというようにも)至れぬという想起は、どれだけ自分を越えた本質へ近付けるのかという意味においての考察としては正しいが、神の状態を規定するには狭く一方方向であるにより的がずれている。 そして人々は空や無という言葉(それでもそれを一つの基盤へ組み込んだ事の意義は有ると認めるが、)の語感的土台(浅いイメージ付けによる判断,解釈)に操作され過ぎているのでもあるのだろうとも発見され、つまりは考えようとしている分だけ良いとはしても(その各自と過程だけでなく)結論が浅いのではあり、その段階性での交流同士に意味はある事も認めるが論点はずれているし、それは僕に思う思考使用の正しい指向性ではないとも言え知性の使い方への(それも一つであるとは認めるが)質を、やはり僕は問いてしまうのだ。

そしてそこへ言葉を挟むには、浅く挿し込むか集約を試しながらにも或る程度の言葉数で応対するか。しかなく又、しばらくの間は(口を挟んだ責任で)その話しの連なりへ付き合い続けなくてはならぬ労力可能性も増すにおいても、自身での判断と結合の結果を表出する事に意味や必要が置かれる時も有るのではあろうが基本的には、突き抜けて捨て眺め置いていながらも結合への言葉化や表出の機会に行き当たれば、そこへの集約を挿し込みては(自己にとっての判断である自覚は持ちながらに)手放すのではあり、その機会の現ぜず必要なさそうであれば私はその段階での話しに巻き込まれては消耗するも意味を果たしたと喜ぶ事もの、どちらもが無いので良いのだろう。
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ではつまりは分かち合われる伝達の意味や結果の為に労力を費やす事もなく否定されて哀しむも伝わったと喜ぶもがないという基盤の上で、しかし言える機会あれば少量と集約を試しながらも挿し込んで離れてもいる位が良いのか結果に関せず膨大,過剰で整理されておらずとも感じ出現するならば行うが良いのか又は、それ以前には話さず関わらぬ処までへと突き離れているべきなのか?という最少,過剰,傍観の何処であるかへ此処でも戻り来るのであり、ではもっと自由な超越の故に出来うる在り方や自在としてもの、浅さへの表層的適合にも返し労力も楽しむ程に付き合いていながらに少しの隠された程の本質性を挿し入れておく位の在り方であるが良いというのか?

通じ会えぬが基本であるどころか、そこに否定までされるかもしれぬ可能性を犯してまで労力をかけて付き合ってあげる意味は(相手が聞ける者でないのならば)あまりないと放棄していてしまうもが良いのかもしれぬし、又は聴ける能力の差はありたとしても同じような差幅内での度合い差程度でしかなく人間や関係の大部分は曲解同士の交流でしかないとも言える故にも自身許容量が遊び程度と思える範囲以上は(生命をかけてでも闘うという関与方向への動きも有りて良い世界の上で)行わない。という決定や基準を基盤や共通のものとしてしまう事さえもが有りて良いのかもしれない。

一方的視点や判断の限定的知性で自覚すらもなき人間と、その向き合う努力のなさのせいで分かり合うも分かち合うも出来ぬが(それは理解能力の事ではなく聴こうとする意識の事であり)、その意識一つさえがあれば(僕の知性が素晴らしいからでもなく、この限定,制限的な知性の人間にも)流通は可能であり軽やかな多様の取り入れごとの交流,交感的交換の遊びともなれるのだというように、僕に言っている事とは(怒りへ囚われてしまう程に心が反応してしまった面では依存でもあるが、共有関係への依存や理解の強制などでもなく)実にシンプルだと思うのだが。

論点がずれていても相乗的な感得の仕会いとなれる連関や想起,感得となれる関係にある時は例えそれが、それ程に互いの進歩となるわけでなくとしても交流としては楽しめる。が、浅さ同士の観点が積み重なる時点では(時に冗談ほどの挿入は出来ても)それを統合的に運用し流通を催させる程の土台へ乗せるなどのような言葉化は僕には出来ない又は成しても意味をほぼ成さないであろう。ならばその言葉化によって図られる存在の深さなどを判断されたくもないように(そして合わせられない事は知性の質の違いの証明であるというようにも自負すらを持って抜けているもが良いように)やはり自然相乗的な場合の関係以外には、抜けていた方が(否定,対抗,労力の自己利益の為である以外にも)真理への曲解や利用を生まない為にもへの意義があるのかもしれないではないか。

しかしでは、もっと深く如何に感じとられたかという立ち会いと知性の質などを対象として判断しなくとも(ミィやメグのようにも)感覚のままに或る程度は深く(しかも楽しくや他者流通の交流も持って)生けるのであれば、それが如何に浅く又は途上の思い込みなどであろうとも(全てが本質と完全であるという意味ではなくて)本質に近いなら、そこでの(言葉化や)交流の深さなどもは求めずに各自同士がそれで良い。の上に表面的な付き合いと表出を関わっていけば良いというのみであるのか? しかし共有必要または共鳴可能な場合(家族や子供なども)においても、そこへの伝達をしないという方向のみへ諦め為さぬ基準へ手放しているだけになくてはならぬのか? つまりそれらは基準化せずとも勿論には、柔軟な状況ごとの対応だとはしても、知性的進展の意味も度合いや質も問わぬのか?や、更にはその本質に近くとも近くなどなくとも全てが本質であるにおいて放棄され関わらず又は表面的のみに関わり放り出しているという事のみが正しいというのか?<(メグへのmail12/14),子供同士の事で),
性質の違いはあるけど、その埋め方が分からない2人でもあると思う。 言っても理解しない方と理解しなくて良いと思ってる方ならば折り合えないし嫌になるのも当然で、僕たちのやって来た事とも同じこと。

だから僕が子育てへ生活共同していられたら(そこには僕の問題も大きかったから出来なかった面もあるのも分かっているよ。 でも打ち切らぬ事へ協力してくれてたら僕の状態も、もう少し良くなっての付き合い方も出来たと思うという伝達とお願いはして来ていた。) そこへの提案や2人の間を埋める作業も出来ただろうし、メグに言ってた子供達に同じ事を繰り返させない為にも、僕らの間を埋めていく作業から逃げずに統合されていかねばならぬと言っていたのも、そういう事ではあったんだよ。

これも僕のメグが好きだから一緒に居たかったみたいな感情の話ではなくて、何が本当に大切で感じていくべきであるかという流れの話であったり、無理して一緒にやっていくというのでもないけれど向き合うことの大切さと言われて来たものでもあるとは思うんだ。

だから全ては肯定に流し去るだけの真実は一端であるけど流し去るだけの自己肯定ではなく、そこへの作業をお願いして来てもいた。

越えられなかったことは互いにも仕方ないけど、越えられなかったならば、そこへの向き合いの問題が自身進展の為に繰り返され続けるか、自分が諦めたなら他の誰かがやらなくちゃいけなくなるんだ。 絶対にではないけど、大概にはね。

仕方ない事だしお説教ではないけども、そういう意味ではあったんだよ。という僕の側での伝達ね。 言い方は、ようやく柔らかくもなれて来たようだけど。

ちなみに先程(上記)の事も、それだけが全ての原因だと言っているのではなくて、その面としてへの意味や理由や解決策もあると僕の観察や経験によりても感じられた部分での補い(一つの答え)があるというだけだから、それも聞いて貰えたらとは思いて伝えるけど、これだけが正しく唯一の原因だという意味ではないからね。
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私は感情の話(そこには感情も伴うだろうも分かるが)ではなく、何が本当に大切で感じていくべきであるかという流れの話をしていると言うたようにも、そして別個の問題同士でもあるを混同せぬ二元的進行によってもの統合への作業でもあるといえるにおいて意味や効用はあると思いてもいるが、しかし向き合い解決していく方向への作業などもは真には必要ないというのか?


12/16
それでも言える事があれば(意識置く最少限の自由性だけでなく)試し関わりゆくも(例えそれが排除されても)良いのではないのか?

子供等の生育に関われなかったのは僕だけの責任でもなく協力してもらえたら協同も出来たのだし(それでも出来なかったかもしれぬが)例えこの苦しみは必要だったのかもしれぬとも僕の状態も良くなっていたかもしれぬし、怒りも助けての意味であるから、そこで切らないでくれる事へと助けてくれたら僕も押さえられるようになって来ていたので協力して欲しいとも頼み続けて来ても、向こうはその反応(してしまうは理解しても)を直そうと振り返ることもなかったのに、常に悪いのは僕の方だけにされ自分は肯定しかしなかったのも、その逃げと否定の強制が次の課題を残し自身が成長出来なかったのも、その故に子ども達の課題に残されてしまったり自身の見直す余地の為に返されているのも、分担出来ず僕は関与したかったのに出来ず子供たちを全部を看なくてはならなくなった負担もを向こうが背負い込むというアンバランスも一方的に決定を押し付け選んだのは彼女の責任であるのに、それもが僕のみが悪いと責められるを受け入れるしかないという苦に独り向き合い乗り越えようとする日々の地獄(これが僕の学びと成長の最善,最高だったかもしれぬとしても)を与えた事への自身すらにも気が付こうとしてくれぬ無慈悲と、自身側の理屈のみの感情的で利用的な提案または寄り添いへの決定へも僕は子供の為や彼女への思いやりでありながら子供と会える等の自己利益ともなる故にも(自己の意見は言いながらだが)対症的対応で否定面を返す事もありても基本的に僕は彼女の決定や気持ちに付き合い子ども達への方向提起する機会すらもほとんどに与えられていない事は変わりていないのだが、それさえにも気付いてもいない(言い伝えても理解しようとさえしない)というのは、表面的には良い関係になれて来たとしても良い関係などではないのだが言いても相手が分からず変わらぬのは少し状況が好転したとしても未来にも変わらないであろう中での関係と対応が強制されている事もは、やはり変わらないのだろう。

しかしそうした非共生的な強制の愚かさによる無駄や影響もを起こす過程取りもが、そのままでありても人為が破壊でありても反省による方向への進展などがなくとも、そこに生み出されてゆく結果が、"これで良かった"への帰結を生み起こしてゆくのなら、結局は放り出して自己の意見や意思すらを挟まず関与せず強制へ受け入れ迎合していくのみでさえもにあるのだろうか?

そして自己の言葉と関与を減らしていくのなら意識により想う変換へも(つまり識という行為,自己)関わらず抜けていくべきという事なのか? 全ての行為自己を減らしゆき、その意識と存在の方向とは真理に近付きては如何に伝えるかでもなく只、真理との一体自身に在るのみであるべきなのかもしれぬとも、私はその現実行為へ渡す流れと私の受け採られゆき方を模索してはいる。 全てを越えて包括する意味での愛と光の最少へ私は抜けて立つ存在へと化するへ向けて生き、では色象もが無いと越えた処からの色現象としての世界を受け取る行為の質と選択の仕方を、その減らしゆく実践の中で問いている。

今日は意識の使用と質の方向を何故に全てが無しであると制限自体から抜けるのに、生体を抜けぬ価値が有るのか?へとも感覚を通して実感していってもみる為に、生命自体の瞬間の味わいにfocusしてみながらに歩き来てもみたりする生命体験の味わいを(少しだが)通して私は成長し結果に達すとも達さぬとも関係なく、この過程を生きゆきて観ている。

生体は不便であり自己は縛りと次の連関への無駄な破壊などもの人為や世界の運行を催してしまう可能性の故の不要であると個をなくすのみが良いのだとしても、この個に拠りての世界との交感に交流,交換されて生きてゆく成長への道の両方が有るのなら、そのどちらを採るか?又はどのように融合や統合させてゆくか?なのでもあり、ではこの各自自然の流れを受けて為されるのみの、その質をも問わず人為利用からの流れに流される事もは宇宙の必然性からに味わい為される事とも何が違うのか?や、与えられたものを受け取りてゆくのみの一端素子同士であるのなら、その非情の運行に関与せず自己自体を捨て抜けてしまうもが真に生も死もなく自己を越えた、死んだ状態で生きる更に死んでしまうという答えではないのか。 そしてならば電子的知性の情報体と成りゆくによる世界の味わい方や次元の越境へ化されるが何故に良くないと(例え生体の理由や優先意味があろうとも)言えるのか?


人は超越を求めるものである故にも、個性の上位づけや納得によるidentityの裏付けと自己肯定を取り得ようともする承認への自動反応へ(その依存にも気付かず)起こされている(者が多い)。 だからその目指される超越の方向を見つけては与えてあげる事もは現在と今後の世界への大切だとも思うのだ。 そしてそこへ関わる創造を生み起こしたい私ではある事をも卑下せずに納得しながらも、伝わらぬ事が分かってしまった(そこへの制限にも陥らぬとも)行い方と術の無い自身の(意識と行為の)置き方を探してはいる。

いづれどちらにしても死ぬ(とも限らぬが)ならば、現在を最大に生きようという動機づけは正しいとしても、それは行う事へと駆り立てる理論へも使用されてしまうようにも私の高校時代に感得された感覚と想起の指針づけ等は真に近いが(その時にも既に知っていたように完全ではなく)深度は足りていないものでもあったように、そうした一つの(ニーチェ永遠回帰などものような)感起,感興に取り込まれていては良くないのでもありて、では超人思想は或る意味で正しいとしても優性判断や技術的進展へも取り入れられていってしまうようにヒトラーの言う神人やユダヤ選民思想ものようにも、それらは同じ覇権方向同士の争いでもあったのであるし、又はそれが正しい又そこからの掘り出せる可能性もが有り得たとしても宗教や科学的知見からにも洗脳されず取り入れながらも覆されていなければならぬような統合の知性が必要ではあり、例え文化的消費量が基準となる現社会であるが、それが優性的に優先される姿や存在であると思い込まれた差別的判断に取り込まれた者の質は既に浅く愚かだと言わざるを得ないという転換を持たらすへの可能性にも私は接続されて行為する者としての姿に成されたい(つまり真に悟りのみへ抜けて超越の自己化へ生の段階を抜けるよりも、その可能性への私を犠牲にしてまでも、この世界と現在を進展させる方へ私を使われたいという方向性にも選択され生きているとも言えるのだ。)

何処かへの依存へ頼りた判断を(一つの可能性としては取り入れながらも、だが人の限定的で浅い判断の能力では大概に、そこへ取り込まれてもしまうを理解していなければならぬのでもあるし、故にその弱さにも寄り添う手段としてもの信仰の道なども否定はしておらぬが)基準として採用している事は、それ程に愚かで弱い事の露呈でもありて選民性などの判断基準の取り入れ方へ自身を委託,委譲してしまった者もの殆どとは、その愚かさである(駆逐される 側でもあるという)事を自覚せねばならぬと示しもされるであろう。

そしてではその判断基準は企業社会~創作価値~存在する事のみ。へと移行され得たとしても各自独存性にある以外にはAiだとしても地域共同体同士を繋ぐ仕組みだとしても(つまりそこに人間が関与しても、しなくても)現在のような顔でも消費材化への発出能力の有無などでなく精神の深さや潜在的質性の到達度で判断されるようにもなった(しかし彼等が真に正しいかは分からぬし、だからcouncilの相談や意味もは有るのだとしても、増長による権力の執行の逆らえなさや政治的な交渉性などもが亦も起こってしまうかもしれぬとも)超人といわれるような上位概念の(全ては一つの如来の変化した姿だが階層建ての構築性自体は曼荼羅の中にも現然と組み込まれてもいるように)置かれ方とは想定され得るのではないか。

しかしその進む先は多分、技術の文明よりも愛による文明と生存の姿ではないかとも 思われる方向性を(しかしそこにも囚われず、引き寄せられてしまわずとも)模索し示されたいとも望みているのだ。 そして死んだ後に融合されていく(かもしれない)宇宙の状態や次元生命の度合いが、もしかしたら(分からぬ事だからにも一つの納得として)更なる上級霊のような存在一体へ化される可能性もあったのだと知り、生きている間にもっと自身の進化や所属文明への貢献を行えていれば良かったと後悔されぬ為にも、より良く生きての生命を使うのだという動機,動力に生きる事とは一つの目標取りの在り方としても間違っておらず取り入れられても良いような気もする。

宇宙(全体性という意味での便宜性で気軽にも使ってしまうが)の壮大さとは壮麗,荘厳にも過ぎるのだ。 一体この中には、どれ程の文明が興り滅し進化の過程を辿り又はその段階をも越えて発達を楽しんだり諦めたり争ったりもしている事か、と想いを馳せる私もがいる。

あまりにもその創造と破壊の行われ方もは壮大に過ぎて、私等が貴重な唯一素子の為の意味や無意味さすらも気にかけてもくれぬ運行と又は一体の揺らぎのみが在るのかもしれぬが、それでもせめて、この宇宙の又はこの種族,文明,惑星圏の私が属する(という垣根づけでもあり把握と制限でもあるが)範囲の未来と過去と現在においてもの哀しみを真の救いと幸福へと変換され返還されていく事を祈るへ立ち合える為もの、この味わい方との生命もが在るのだ。

我々は此処(という生命)を行われていく以外に宇宙の如何なるかへも関わる術などは無く、その至る先が何処かにあるのかもしれぬとも規定もされず、理由(わけ)もを知らず尽くされていくがばかりの、その行われる意識と行為の質を問われて見い出されゆくへの生命と知性を歩き歌う救いへの祈りの現在と統合を(既なるようにも)逝け。


その時代への現化ごとによる適合を超人的な価値が担う事もないとは言えぬが、転輪聖王などの施政性に委託してしまうが究極的に正しいとも思えない。 そして権力が腐敗するというのは、つまり何処でありても力のある場所に居れば、そこでの力の乱用は起き易いという人間自体(が腐敗する)の問題だ。

王道などもは王権を持続させる為に行うのでなく、いづれ変わるのだから(その移行期間などを動乱ではなく安定させられるかどうかの必要は用意されなければならぬが)その期間中に目指し置かれるものとは如何なる人々の生活や良き世界の進展の為のものが培える背景などを用意させられる運営が出来たのかの現在だけがあり(企業なども同じこと)残り渡されるのは結果、文化だけでもあると言えるのだ。

又それらとは血によって育まれる優位性や専門技能化の面は確かに有り得ても、この野蛮で遅れている人間性の未来が(多少の進展などしても発現種子としての根本は、あまり変わらず)そこに頼るわけには行かず民主的な交代や全員参加性による技能者の選別などもが組み込まれている仕組みは王権や貴族(そうした階層立てをした理由と、それ以外には無かった事も認めるが)の血統継続でない為にもへの有効な進展であったとは思われもする。


では子供にも教えてあげられる事のように、自身に立ちて決めていく決定者であるような生の在り方としての帝王学と、しかし弱き自身同士でもある故にシェアするへ結ぶ事などのバランス(や他者との適合,共有の仕方も)は大切である事などもや、その者の能力差や環境に依らず共通の価値観としても取り得られていく事などは必要であるとは思われもするし又、折り合いが取れていなくとも突き抜けて自身を行い、その裁定,決定,実行への指揮を取る者の行い方とは例え正しくとも、又は間違っていてもそのような場合や者は出るにおいても、やはり選択や共有方法の行われ方とは
見い出されゆく必要があるとは思われるのだが、しかしそうした決定の強制への者へ対する共有体の中での納得は(僕自身も、そう思うようにも)得られない。

そして身近者との関係においても、上からいってあげるのも対等である基盤にいる事もの、どちらもが大事であるように、そうした事ごとへの自身観察による日々選択と交感の中に折り合い又は自身の行い方とは見い出されゆくにしかないとしか言う事もは(それはしかし能力により左右されるが)出来ないのであろうか。

学校カリキュラムと平等な発達への平均性の有用生もは有るが、それはglobal化とも同じく共通への適合へ多様や個を制限されるにも通じてはおり、伝達や共有の仕方とも同じく何が正しいか等が(時代の判断や何処までいっても誰かが定めたものの以上には)分からず見い出され得ないようにも教育の最適化もは出来ない中で如何に何を教えられるというのか? その一つは感性の育成であると言えても、だからといって潜在的な深さや感覚的にはそこへ深くても(メグ,ミィなども結果は正しく又は全体が適合の既に為されているだけであるかもしれぬとも、潜在的に正しいからといって人為による破壊も良いならヒトラーが戦争や扇動の天才であったように、そのままで在るが良くしかも対抗もせず関与せず放り出していなければならなくなるようにも)結果として正しくとしても従い受け入れてのみいれば良いというのでもないし、又は理智的な(数学なども)作業が疎かになって良いという事でもないように(最近言われたりもする右脳主義的な主張もは片方面への操作でもある)、その民族や文化圏ごとの民衆状態に合わせた適合の多様性は有り得たとしても全体に強制して良い基盤的な共有は(法は真実的に基準を同じくしていくのかもしれぬが同じ施政圏から抜け出す自由選択性が保たれていなければならぬようにも)有り得てはいけないともいえるように、その意識の変換が進化されていけば付いて来る結果は任せておくというだけではなく、その行き方と行き着く先への基準もは同時に見い出されていく事が私の身近にも社会関与の提起性にも皆にもの必要と思われてもいる。

順位付けや自身を為さねばと思わされる夢という洗脳と同じく)の弊害は、自覚されている以上に大きく作用していると思われるように、競技ではなく運動自体を楽しむ運動会の在り方などもは正しいと思うが、そうした情報も単的に示されて取り入れるだけでは、自身過去経験からの印象などで競技によりて強い心身も育つ意味も有るのだというような判断を下してしまい易い(それも間違いではないが一方面への加重)人間であるに気を付けている事などもが(自身にも他者にも)必要だが、やはりそうした事もに能力などの制限は共通の基盤化されないならば段階ごとの生存を放り出しておきながら共通の社会現実面では誰かの決めていった、その社会での最適解答的な規律基盤に自身等もを寄せて生きていくのが良いというのか?

無や空という基盤もは一つの真理的な感得ではあるが、そもそも仏陀が言ったわけでもないように(その可能性の種は含まれていたし、それが有った故の発現と発展経過が結び着いたのではあったとしても)その一方面のみにも捉え囚われ込まれず、どの段階や状況にも含まれる普遍や統合の真実と真理への発展を(それが即ちに人類などへの基準化されなくとしても)私にもゆこうとする、それがこの歩みの姿なのだ。

しかし法などというものが本当に有るかも分からず有りたとしても適合出来るかも又は適合される必要があるかも分からないのだから、法や真理などの言葉さえへも依存されるな。

究極的な答えとしてよりも、人類の発展が到達性からの退行と進展を同時に行いて来たように(そして仏教的にも多種のvaliationを生み出した変節にもの各宗派ごとにも本質的なものへの道は保存,継承されているようにも。 そして退行と進展は今でも続いているようにも)それはその時代に合わせての必要,基盤としての一つの段階でありていても、しかし全ての者の苦を消滅させる唯一的な方法ではなく移り変わりていってもいるのではないか。 そしてそれらの全てにも渡る真実というもの(が有るかも分からずとも)へ向けての私を、(何処まで達せられるかも結果などは分からぬとも)歩ませていたいと私への自然は起こりて、歩まされてもいるという事だ。

ではしかし思想や伝達の方法にも依らず、(例えそれが、人為操作低でもある基準化技術へ吸収されてしまう可能性もがあろうとも)例えばhyper sonic soundなどのような環境的な設定の持たせ方に拠りてにもの人間,生体,共生的需要への生存性の変化を持たせていくような自然的価値へ寄り添った人為的変換性を快方向への生体使用の方法(刺激的消費もの一体と認めての)としていく事は出来るのか? 私の手段においても可能か? 出来ても何処までしても良いのか?などが人間社会の進展と挑戦の行き先の故に任せていくだけではなく見い出されていかねばならにという方向性には提起し得るものを提起されてゆきたいと思う。

そして、人間の快原則にも合いながら快楽依存せぬような方法と日常内での在り方の一体というような言葉にも言えている事は出来るかもしれぬが。 では今後に起こって来るvirtualな追体験に生命や生存が置かれていってしまう状況が社会の大概へと現れ実現されて来た時に(しかもそこには問題点の肥大と同時に新たな効用もが生まれているであろう故にも私も大多数にも抜けられぬ又は抜けにくいかもしれぬ状況での)そこで快依存性へ吸収されず均衡を取り、こちらへも利用しゆける(又は完全に抜けるのか?)への答えや活用性を見い出す事が求められている(いく)だろうが、そこに立ち合うよりも現実生活に取り込まれ短視点でしか捉えられない人々の代わりに私に行われても来ている役目と分担でもあるとは思われ(しかし時間があるからこの作業が出来たというのでもなく、この私の才能と役目と行うべきと思われ行われたかった可能性が自身方向によりても身につき実現へ呼び寄せられたとも思われているように例え結果は答えに至れなくとも提起されていく事へ時間と労力を用い従事して来た)るのだ。