junna-note

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85 6/17 (mon) /18

85 6/17 (mon) /18

宇宙は必然の奇跡であり偶然の当然でもあるように自由意思と未来,運命が既に存在している全決定が同時に在るのなら、では自身意思へ生起し与えられ来るvisionとも呼べる未来の姿からによる選択や変更は、しかし実は変更されていない唯一未来のみしかなかったのだとしたら、それは唯一未来を起こす為に高次元の何物からかによりて有り得ない未来の相の感得へと操作されたようなものであったのか? それともそれも有り得た重なり合いの別ルートの行き方であったのか?

そしてその分岐はまた必然的な連関により規定の流れへ収束されてゆくのか?それとも別進行のパラレルへ移行し二度と戻れない形で重ね合う又は別宇宙となる。のか?

つまり唯一Aの未来へ行く為の偽Bという未来予知を起こすもの、又はそのどちらもが有り得た真実未来の可能性だが重ね合いて同じような結末性へ収束,連繋するのか平行に交わらない(そこにも干渉しあっている重ね合いごとの面はあるかもしれないが)分岐後の独立世界性のみへ移行するのか?の問いの部分である。

流れの自身観測的な経験上は、未来が既に存在していても全てが決まっているわけではなく(素粒子の各自の出現位置や振動形態までは未決定だが系としては、ほぼ同じ決定へ向かう。 しかしバタフライエフェクトのように一つの波紋が、まるで違う様相へ変化させてしまう事もあろうが、それは又別の相の中で捕殺,調整されていくようにも思われる。 そしてマクロではサッカーの足の置き方1mmのずれや呼吸,心拍などもの完全な一致はないが、そのゴールには結び付く。 ビリヤードなら0.01度のずれと弾かれる玉は速度などでも加減され全体の連結を極度に変化させるまでには至らない。等)自由な運動の入り込む余地は働いているが全体,系としては相殺,補関された必然性へ動いていると思われる故にも未来は(分岐するとしても)無数に分岐し続けるわけではない運命的な不動,完全性ではあり、そこへ宿される別未来のvision等は本当に有るものではなく、やはりその必然,唯一未来へ向かい起こす為の想起であるように思われる。

では、その想起を起こす主体は自身内部であり、その決定された必然性からの逆算のように行動や選択の各自現在に宿る潜在的な流れからの感得や適合ごとに動いているのみであり、それを魂的段階の自己や全体からの生起や宿りということも出来るが、
流れに触れ未来からの現在を適合させようとなどしていなくとも、それは各自という個的なミクロからの総体の段階や役割へと勝手に起こり宿り来るそれぞれを行くが良いだけがある。 ならば、この私性質への生起のままに魂(潜在,高次元)的階層へと触れゆきて逝き、流れを生み出すへの操作ではなく自然な流れに乗り適合していきたいと思うのもは私の自然な示現ではあるが全てが既なる必然である自然な示現であるならば、これ以上に魂階層へ触れた存在の高次元化や3次元存在化などへと向かい至る必要すらがあるのだろうか?

進化の目的や知性生体の到達地が高次元への移行であると仮定して進む事は出来るが、只もう既に決められた必然の自然生起を現実3次元世界の存在のままに行われていくのみがあるのだとしたら、その次元超越方向への動きもは一つの必然的自然の動きではありても、唯一絶対の目的地であるとは今の処は未だ言えないだろう。

世の流れを催す既なる決定への連繋,配置はミクロにも高次からにもの複雑性の中で絡み織られ生み起こされている。 その3次元的な現実での行為体へ与えられ動かされている主体の一つであり被操作者でもある我々は高次自身の我々へ至ろうとする事もなく、その必然を行われるのみへの覚悟と全肯定による安心へ至る事が出来るという心のみによる理解と現実3次元世界の超越へ向かい生きるだけが有り、出来るというのか?

それらの答えに決着がつけば、目指し在るべき方向や魂の質性に関する理論の基準化もが私に持たせゆく事が出来る。


選ばれた事の後に流れが合いてついて来ているのなら全てが必然なのでもなく、知覚出来ないというだけで大きな分岐は全くに違った他の世界線へ移行されてしまったのか? いや、もっと複雑に全体が絡みあいて行われ創り出されている強固な必然性が(未来と過去の全てが既に写真のように存在しているとしても、そうでないとしても)為されているとも思われるが、ではその高次元の自身(それは同時に存在している別次元の意識状態の私へ至るのでなくとも、そこへ渡りている現次元での私が近づくにおいても)へ結びついても、流れの変更への関与は出来ず必要もないという事か?

それとも流れの変更にも関われるようになる事もが流れと必然の内であり、ではその目指す処が流れの変更,操作にも関われる状態化であるとしたのならば、それは只肯定と交感に喜ぶ傍観に至り在る事のみにも為される境地への道や至り方であるのか? もしく心の境地がそこまで至っていなくとも只の徳の高さや破壊も自由に為す魂の役割に触れた高さ等にもよって、そこへは至れてしまうのか? そもそもそれは目標地でさえもあるのか?


時の流れは one line でなく無数に派生しているのなら、補正されながらも少しづつに塵積もり溜まったバグやキャッシュメモリのように、そしてエラーや進化上の特異点は生まれ続けリセットやデバッグされなければ大きな違いへ発展してしまう事もあるのではないか? しかしその関数を取り入れても進んでいるように、そんな事が制御されていないわけがないとも思われ、例え無数シミュレーションが行われていたとしても、やはりその中から選ばれているのは一つ(又は数個程)の現実ではないか? それともこれだけ強固に全体系からの必然が連関されていると思われるものすらもは自由選択と無限分岐上の後付け解釈的な必然と見える自己肯定的な納得などでしかないと言える余地もが未だあるのか?


私のタオルや靴下の畳み方向にさえも流れ見る、それは大した流れ適合の意味などがないのだとしても流れの観察義務のような日々の習慣でもあるが運転や歩くこと等もに見られるのは、どのラインへの角度や速度を取り何処に足を置き呼吸や心拍とも連なっているか等にも自身統合の個体化が感じ動かされていくか、の全体系へ気付いているアウェアの感覚やマインドフルな気持ち良さの存在にも通ずる、自律意思による流れとの適合,決定への交感ともいう立ち会いの遊びだ。

生きていられるだけの喜びや子供を生めることの代わりに生きる苦しみは大きいとも言えるが、それだけこの生きているだけの事などもは凄いとも言えるのだ。

そして状況の中での解消を選ばれていくにしかなく、それが与えられなければ押さえ込み耐える苦しみの中での肯定化の歩みと味わい,交感の旅をゆくにしかないのだとしても、私の現状は良くはなって来ており解消へ金などを用いる機会なども与えられ、こうして生きていられ実際的な苦しみの大きさも少なくなった私の状況が(私の方向設定によってもに)現じられても来た。が、それはこの肯定の傍観性へ抜けてゆく道を辿って来た結果や効用によって生まれ来たものとは言えるのか?


しかし、ようやくにも私における行い方の見えて来たように、それは少しづつと必要な私の経過を通ってしか身にも付かず達しなかったものであるから、やはりそこには流れの最然が在り行われ、これ以上の存在化は存在しなかった。 (もし他の行き道を行けて創造の仕事が現実化していたとしても、その状況の世界には更に響かず又は後になってから更に自身が苦しんでいたかもしれず、どちらにしても苦しまず楽観的な浅薄化の自分にはならなかったのだろうし)このままの流れに合いて運ばれゆけば良い。

私のままに現状を行い、準備していく。 只、愛と光へ屹然と澄み済ませても行ける私を在りて、望みもがある欲とのバランスは取りながらも存在の方向は積極を行わず受け取るのみの方向へ流し捨てゆくだけを自身化させゆき、その上で目指される愛の意識への道や技術との結合,結果としての共生などへの至り方と至りた状況,目標地の設定を見い出す為の探求が私にはあり、しかしそこへも至りゆく道自身としてもの私の最善が最高に起こる、そこへの信託の祈りでのみ在るが良い。

自身が只、愛を味わうだけの愛となりては周りへも愛と肯定的世界の現実化するへと変えていく方向も、質により正しい欲望なのだとしても流れの操作であるとも言い、楽観,享楽的な生存や共生,利便の生活や存在体となる中で侵害し合わない関係に個人を深めゆけたらば良いだけであるのだとしたら、この現在地における未来への行為,関わり,行き方,生き方の選択点を自身への実験と観察を通して見い出す為の問いと世界への適合自体が役割の形の私だ。

基本は愛の超越へ受けるだけの私へとなる傍観と平安に充して流し去っていく、空の意識に味わうのみの無分別的分別と知性,感性状態である肯定と交感へ至り向かうが方向ではあるが、そこへの現在過程の道の与えられ方である状況の全てにおいて苦しくても如何に適合する選択を自身に為しえ、人為世界との関係に対応し過ごすか?への研鑽の日々にも在りて、では愛となり嫌という区別,分別もなくさなければならぬという試行の現実が持たらせ来る中での私にとっての苦行をゆかねばならぬは避けられない試練であるのか?

肯定,傍観による道が達しゆく結果であり唯一の道?
高次元の全体的私(魂)自身と、それは潜在により繋がるか? 又、その生体3次元存在における状態。
その流れの操作側へ抜けるのかどうか。や徳や人為を越えた人為的破壊への必要役割(とらわれにもよる悲苦の創造者)もが、そこに流れあるならば尽くされなくばならぬのか? それとも才能ありても方向性によりて、それをも越えるへ生くべきか?

それとは必要悪のように消費材となる生命段階への肯定に対して、しかしそこへの肯定へも引き寄せられ過ぎず、私にとっても欲を肥大させず創作的能力と役割を抜けていく役割方向へ生きるがあるのか?