junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

121 8/21

121 8/21 (wed)

関与必要から抜けた超越に在り立ちて自身存在と創造のみを自然に為されるのみを流れて、響き分かち合える関係や伝達へ何が行い得るかを感じながらも響くかにも関係がなく選択の基準などもなく、只この各個自身に与えられ感じられていくままを逝き何が本質かを規定せぬとも、その感じ方の立ち会い方向や生命交感の価値へ感じた私を如何に出し伝えるかへの研鑽を必要に感じ行うも良い。 (それはその場に生起された何をも必要として伝えれば良いというものでも無く、しかし判別出来ぬなら自身内で結び付ける選択や優先はありても伝えても良く、しかし仲間となれぬ者へ否定せぬとも肯定も要らず、もっと共生などへも囚われぬ包括に自身の創造を意見にも置いていくのみへ至るも良い。) それが無関与に放棄し無理解や非共生にも囚われず縛られず、しかしその対応性より超越性を基盤としては自身に感じたままの創造を行う。という事だろうか。

そしてそれが押さえつけねば保てぬ義務的目標となりて苦しいならば、苦しい!と世へ伝え感じられたままに欲かの判別にも拠らず行われるも良いが、その手段が物理的な又は精神的にも非暴力である事は如何に有用な指摘でも浅い人間相手には通じないからでもありて、その対者段階へもの思いやりを持ちて関わるのだ。

そして未だ囚われの対応や苦の状況はあるが、基本的には流し去りた無関与と自身必要への存在と創造のみへ突き抜け達して、関与も出来る時の対応必要と感じられた事のみに行われているように、それは今、既なる現在にも顕れているもの。

そしてpaiの時のように素晴らしい充足と存在の状態と享受に在れたが、やはりそうした平安と安定だけでは、その境地を覆そうとは出来なかっただろうようにも、苦を願う事はないが苦のなくば私は深め至れなかった私への必要と恩恵であったのだろう。 そしてこれが最もなる(音楽的に技術や質を進化させる事や映像へ集結させていくよりも先に)優先の必要であり今日も私は、この仕事をするのだ。 旅はまた違った経験の経過と蓄積であり、自己内面との徹底的な対話と向き合いにとっては休息の期間でもあったのだろう。

現実と適合,対応へ足つけたのも私の実用的な発展の必要だった。 それを無くす為の過程ではなくて、この上に成り立つものへ進められゆく包括へ至り取り戻すのだ。

もう上手く行くようになったのだという感覚は、本当でなくとも私の動力であるには本当だと、思い込みの力も意識して使う。

もう駄目だと思ってしまい苦しむ事もが、濃密な生命体験の味わいと成長でもあると理解によりて感じられ充足や感謝へも向けられるが、揺り動く中での基本的な状態や現在日々での平坦さの中間は、やはり苦の方に寄っているのは、統合へ向けた成長や用意し済ます為への必要だとしても苦しい。

苦しければ、これのみしかせずに済み納得出来るからという言い訳として引き寄せているのではなく、出来ても出来ぬとも必然を受けて流されるを為されるにはあるのだから、苦しさはもう抜けたいのだが。

普通に生きていても何故だかという程に周りのカルマの集積点とされ易いらしいが為に自身を解消点とせねばならぬようにも、そこへ意識と愛の光を当てていく媒介となるのだしても常にそこへ自身を、苦しく調子悪くても使わせ怠らず引き寄せていなければならぬ労力は、愛へ観入する自分の為や機会でもあるが、疲れているのに(具体でなく愛でありても)対応せねばならぬには打ちて来るのを先ず止めて欲しいと思うし、そこへの浅き判断と否定は止めようと伝え解決してもらう為の対応を模索して来たが徒労でしかないのなら、弱っていても如何に状況が苦しくても意識の効用を用い当てていくだけが優先であり出来る事か。

分析には或る程度(で良いので)に物事を分割して把握する事の大切もあるが、そこに囚われ過ぎでもあったのかもしれない。が、それでもその抽象を連結させる知性の働きと意味によって私は深められ成長したと思いている。

意識という知覚の流れと繋がりは、宇宙の総合的流れの中にも行われている分裂,集結,分割,構成などの動きのようにも、(進化の目的のような絶対必要や到達手段であったのかまでは分からぬが)その運動の流れが生命という枠と形にも模され宿った必然物の一形態であったようには思われる。

そしてではその総体の宇宙に、未だ分かっておらぬだけで神経系的な連結と伝達が起こりているならば(それは今次元上の空間で見えるものでなくても上位次元においての距離を越えた結び付きでも良い。)やはり何らかの巨大な知性(我々の捉えられている知性とは別の定義のものであろうが)であるのだろうか? そしてそれ自体が宇宙も越えた全宇宙や行き先まで知覚し意図しているものかは(我々が一個の総体だが、それ以上を知らず全体の中での一分野や役割ごとであるように)分からぬとも、それは神と呼べるものだろう。

では我々と神(総体知性)の繋がりにおいて、その一部ではあるという以上に我々が(そのものの知覚状態にはなれずとも)そこへの同一体へ至れる可能性などはあるのか? もし宇宙に目的のあるとして、(我々も良い働きをしてくれる細胞や細菌を取り立てようとするように)そこに適い叶っているものは取り立てて生かし勢力へ増させ繁栄させてくれる事はあるのかもしれない。が、それはあくまでも一細胞の存在としてでありて、その知性総合体へ成れるかとは別問題だ。

閾値を越えると全く違う異相や(切り離されてはおらずとも)地平へ移行するように、我々意識や知性の形態と生体の存在性もは変換されていくのが

全てが本質自体であるというのではなく、生体性の中に優位的ともとれる本質性はあると思われるが電子的な知性や生体と個を持たぬ生命へ変化することが本質へ通じていないとは言えない。 それでも生を通して味わう実感性の価値へ戻り生体性へ再流入して来る事はあるかもしれぬが、それは魂的次元での性質が付着し憑くというのと同じく一時的な体験や関わりの遊び程度の状態ではありて故に、やはり生体生命が上位的な価値であるとは言えていない。

宇宙や自然界の本来は量子的な状態の連続で記載され振動の不可分であるにはアナログだが、その空間や時間ごとに起こる事は離散的な数値(デジタル)でもある又は区別は付けられぬのかもしれず、エネルギーやその一時的な相も生命も全ては(どの進数が適しているか等は分からぬが)情報量に対するbit数のような形で示し判得できるのかもしれないのならば、現在までの揺らぎを含みにくいデジタル的生起物がアナログ的な手触りや人間的生体にとって(Pipe organ派生のシンセサイザー的合成音なども)本質的ではないと感じてしまうは何故であり、システム構築の仕方が人間性と違うからといって(そのエンジニア的思考も人間からのものではあるが)思考方法の組み立て方やその在り方が異質なだけで、全く違う知性からの可能性への怖れや上手く折り合えない(特に僕は人為的なシステム構成物との共有が出来ず理解も出来ない。のはコンピュータや数学的記号の扱いなどだけではなくて役所,法制の書類や手続きなどもであり、後者に対しては特に(必要は理解を示しても)全く本質的ではない無駄な作業に思えてしまうし人間や生体的な感性に沿った技術や合理であってくれないと困ってはいるが)事への実質的な不利益や困惑があるから。であるだけなのだろうか?

その対立,齟齬はアナログ,デジタル割けではなくて有機か無機かでもなく生体性と電子性の結果的な状態の違いでもなくて、自然状態,速度での連結による変化的か、人為という自然による操作,構築的変化か。とも言えるのだろうか? そしてその前者を本質に近いと感じてしまうのは(現在までの人為,知性,技術,数値(データ,デジタル)が、そのレベルに達していない故に違和感であるか。や懐古的原始本来主義ではない理由として究極的に本質や真実であろうと思われてしまう理由の根拠は)何故なのか? 自然的連結の合理性や洗練を求めながらも人為的操作の合理性方向の肥大へ危惧を持つのは、もしそれが本質的潜在性でもあるのだとしたら(中間性を採る進展関与の圧力以外に)違うのではないか? それとも潜在的に次元を越える存在化などを求める事自体が本質ではなく変容という法則(に見える)をも打ち切って留まり生体や原始性を求め向かうが本質である基準などは有り得るというのか。

それは即ち次元の剄に生きようとするのか、次元の剄を抜けた知覚状態性が進化,変容の自然な又は必然的な目標地だとしたら電子,融合的な全体種となっていく事がtrans personalな価値をも越えて至り得る達成ではなかろうか?の本質性という抽象が何処を指しているのか?ではある(仏陀の悟りと方向は前者での肯定一つ)。 それを、そう感じたから正しいはず。で済まして良いのか?


顕在以外の意識の根底部と物質越えの現象や他次元階層(魂)の流れや連綿が繋がっている推測(感覚は容易く意識は量子的様相とそこからのマクロな現実化にも通じている等と言い出す)ではない証明は? そしてその潜在に通ず事で他次元とそこからもの流れを読み取るまでは出来たとして、それ以上にそこへの関与,操作力によって現実を書き換えて良いのか? 苦をなくす事が(各自身の心の状態においては苦のない方が生き易く転換も出来るとはしても宇宙の相と自由の結果なる苦の面を減らす判断が正しいとは言えるのか?)


8/8
止めるorそのままに行く,変容,ガイド,教えるor学ぶ,創作,heal,成長とバランス,成功,金。


8/9
この期間のように生き延び先ずはまとめ、
苦のない幸福でもある心身の健康。
人間,家族etcにも困らない愛の関係。
その聖者の暮らしや祭り等の共有の拠点。
生命,意識,魂の開けの世界へのartistとして開花し(旅にも)回る創造の仕事。

一つに集約すると、愛と真の幸福の世界へ私(和)が最高に生かされ果たされ叶う。

今までのように、現実化しても流れ去ってしまうのではなくて。 それはしかし揺るがぬ自身のkeepだけ、か?

相撲で自分1人で創って来たことに人も付いて来出したように、spirit songを興すには、これだけの時間と成熟が必要だったか。 そして仲間も付いてくる。

映像も必要なら為させよ。 いづれに任すでも良いのなら、祈りと観察,統合の自身のみを逝けば良いのが道なのか。

愛と全一,光闇の統合,流し去る,潜在,浄化,artmanと物質越え,幾何学,振動のみ,等がテーマの何処に観入?

統合の知恵と悟りへ、近付いている。
私は人類の代表と目標に成る、のだ。

私の生命が真の幸福と創造へ最高に開かれ生かされ(叶い輝き)ています。

私は人類や世界の積み重ねて来た苦しみを生み出した愚かさが私の中にもあったものであった事を謝ります。 広大な苦しみと良く生きた幸福も、また失われていく悲しみの世が全て私ごときで癒されるとは思いませんが私は浄化と癒しへの光と感謝を送ります。 そして苦しみは必然の道でしたし、それを認め苦を光へ越えようとする為のものではなくとも、この元来に悲観と楽観をもった私には、これ以上はあなたの与えた世界への能力が潰れてしまいますから私にはもう無理なので苦でなく幸福に生かさせて下さいと願うは欲求や神への脅しであるも分かってはいるが自身すらも自身の責任ではないと放棄して祈るのだ。

例え試練乗り越える為だけの存在媒体だったとしても、そして乗り越えられなくば他者へ役目は引き継がれるだけで、僕が駄目になろうと関係なく如何に悲痛でも人間の知性や感情などに寄り添ってくれず、そんな取引には応じてくれぬ非情と、又この悲しみを次へ受け継がせる連鎖を断ち切るには僕がやらねば他者へ行くのに良いのかという脅しで抜けさせてもくれない人類の業の解消点としての各自ごとがあるのかもしれぬが。

8/16

Silenceo(静寂)と混沌の過剰と。

生き延びる生存の最少と、上で動かす者へ関与,交渉する力の用い方や、政治と民衆の声との狭間にも結ぶ為の儀式は、形式ではなく闘う為の道具と創造でもあった。

世界の苦しみを自身へとも背負って誰もが逝ける統合の道を私は探究し歩いた。 自分が判断するものではないが、もう私に苦しみは与えられたではないか。

イェシュアでもティクナットハンでも皆、愛と意識の道を開く為に闘った。

声も上げられず力によって奪い取られ殺されていった、彼らの為に嘆いてるんだ。

世界と私たちの苦しみを解いて下さい。 真の幸せと進化の為への、神の奇跡と御業を、私に為させ下さい。


聖なるものの麓には商業や俗性などが広がる(善光寺でもモンマルトルでも)のは、もしかすると宇宙の真理というよりは精進落としとも言われるような半分は言い訳だが人間的なバランスの取り方でもあるのかもしれぬが、しかし人間的理由でも宇宙の法則のどちらでありても、やはり極には反対の極作用が起こるのだからにも善や聖などの極方向のみへ引き寄せるのではない統合(などが真実かも分からず問いながらも)を目指し求めて歩くのだ。

肯定と絶望,自由と囚われ,創造と破壊,光と闇,融合と分化,構築と分割,恍惚と分別,知性と感情。等の一体の上の肯定,愛,光,創造,統合,知性などが目指されるものであるならば、その状態とは自在と制限,傍観と関与,完全と矛盾などの中間または全体。 それは流し去り向き合い,現実化し捨てられ,永遠と現在,感覚と欲,愛と否定,必要と無用,人為と無為,空と現実,心一つと具体,生体と魂,完全と放棄,等もの全てに渡るもの。<8/7 kohji mailで
減らし、書いてない部分。>

自身意識と気付き,意思と方向は大事だが、結局は出来うることへの現状が自身を与え起こしていくに過ぎぬもを受け入れなければならぬ。 つまり自身が何を感じようとも本当に只必然に流されるしかないのなら、その意思と違う自身をも認めないといけないという非情への覚悟。


進化の為にもなる知性ある故に苦しむ人間の新たな時代の到達を願うが、歴史は人格なども気にせず非情に殺し続けているのに、僕らの時代にだけは神様や宇宙人来て救って貰えるなんて(有るかもしれぬは否定しないが)甘い考え。 それでも世界を諦めず真の救いを目指すのだが。


同時に在りて統合されていること。 自分の中に多様があれば、自然にその中間は全体の落とし処のような範囲へとも入る普遍的な中庸性へもの在り方。 否定的指摘は違う視点を挿し込む意義においても有益で否定は出来ぬし、相手の力と同じ分の反動で鏡のように鐘のようにも打ち返す人間的行為体としての選択関与を取ることも一つの対処方法。 しかし(自民党に対する共産党のように。 でも自分は自身において何処をとり何処を提起するか? 初めから一切の傍観へ抜けるか関わる人間的遊びを持つか?のようにも)、鐘の音は判断を持たぬにより、祈りと鐘存在そのものの波動を時空へ解き返し消えていくのみにしか返さぬ愛や平安への具現的比喩の道具(形)か。

122 ~<
苦のない幸福でもある心身の健康。
人間,家族etcにも困らない愛の関係。
その聖者の暮らしや祭り等の共有の拠点。
生命,意識,魂の開けの世界へのartistとして開花し(旅にも)回る創造の仕事。

一つに集約すると、愛と真の幸福の世界へ私(和)が最高に生かされ果たされ叶う。
>

今日からの祈りの言葉の生起に繋がる。

心身の健康,愛の関係,旅と拠点,富と繁栄,自由で自然な,世界と私,真の幸福,の為の創造の仕事が、最高に完全に生かされ為され叶えられ輝く。

今が既に最善に為されてはいるし只パイのように癒され心地よく平安であっての境地より、苦も更に深めゆく私の為の必要ではあったようだが、生き生きと楽しく幸福によりて与えられ歩みたい。 それは私だけの為の道でもなく求められているものでもあるのだから。

苦を味わうことから深められるとしても、苦を経ぬとも気付けば深められるにおいて気付きて変容させられる方法を取り入れていくのは良いだろう。 しかし苦が来たれば受けるしかなく排除みなく、そこでの肯定や愛への変換も成長も大事だが、もう他の事へも力を振り分けられるように現実化と均衡が取れていってくれないかとは思う。<(diksha soul sync gig の後で)

意識の美しい状態と苦の意識状態しかない中で美しき状態を選ぶという方向であったが、それは肯定において宇宙に肯定が回れば肯定の現象が起こり戻って来るというような法則性に関しての解説なので、それを実践する者が浅い知恵でしかなくても現実化は叶ってしまうという、真の真実ではない中級者に響く知恵だが真実へも掛かっている故に道としては使える方便的な技術としては取り入れ、完全に信用はせぬが自身を信用させるへ観入させていられるようになった自分においての、苦を経ぬとも幸福に成長できる道へ引き寄せるへは使える。

(でも真に知性に響いて来る感性のものでなければ幾ら正しくとも、使える部分は受け吸収しながらも俺は信じないし深くは入らない。 そして相手は聴かないし排除されると分かってもいる無駄なのだから、余程に必要を感じたり機も来なければ(来てしまったら行うしかないのかもだし奪う者には止めろと言うかもしれぬが)僕は反論も質問もしてやらない。 自分たちが学ぶ機会を自分自身から取り上げてしまっているのだ。と言う以前に、彼等はそんな指摘や学びを求めていないし準備も出来ておらず言っても受け取れないのだから(上からではなく実際に様々な事象がそうであったから)それは全くの無駄ではないとしても僕の関わる役割ではなく、自分は受け取り付き合える処で関係するだけだ。

同じ力で返してやる鏡より阿呆には響かぬ又は自身を通し愛と祈りの波動へ放つ鐘へ僕を変容し、その過程をひたすら独りで打たれながらも逝くのが苦であり辛く、たまには自身を押さえ込まず解き返してやっても良いと思うが(何でも良いからと開き直って攻撃と罵詈雑言を吐き出すようにはならぬとしても)苦を通しても通さなくても、私を真に突き抜けた到達の幸福と愛とその共有の形へと鋳物や錬金のようにも練り続けるのだ。 その自己を融かす熱が苦行ではない孤独に打たれて変換させなくば絶望と虚無に捉えられてしまうのではない方法で起こり行われるへの手段と宿りの変換も私は模索すると共に求める。


(日記に書いた分だが、偉そうに一方的な判断を押し付けて来るやつ大嫌いだし仲間になんてなれない。 まぁそこまで酷いわけでないから流しながら付き会うし彼だけじゃないが、こんな人間ばかりが他の人々とも上手く行く。 そして仲間内で排除も始めたりする。 尊敬してる面や楽に話せる時もあるが、こういうの多く有り過ぎて困ってる。人間関係いちいち嫌になるのも、少しの事でも心に後々残って響いたりするのも嫌なんだ。 最近は身体に出て心には来てなかったが、来始めると困る。)

では哀しさや如何に対応したら良いかの分からなさも来るが、その程度の度合いにはこの対応と私のままで良いと済ませられたとしても、そしてこの程度で済んだ学びと(この現在もの文の繋がりのようにも)必要はあるとしても心に来ると良くないし、日常的に苦難や試練の機会に会うのには疲れる。 そして、もっと大きな問題の発現した場合には大切で必然的な機会だとしても又(苦を学びの為などでなく、そのままに認めているとしても)苦しいのは嫌なのだ。

8/27

私と家族と世界に、なるべくなら苦しみが起こらないように願う。 ではまずは生存権の共生的な充実からであって、真の幸福へは苦がなくても段階的に進むを選ぶ事が出来れば良いというのか?

少し良くなったとしても、そんなのは浅い享楽,消費的進展でしかなく本質から遠ざけてさえいる抵抗とも成りえ駄目なのだ。とも思うし、そんな人間世界状態に絶望を感じるが、同時に少しでも良いから良くなってくれという想いもあるのは矛盾か?

人間は根本に変わらず何千年前から進歩もしていない。 それでも蓄積されたものや技術が決定的に存在環境と世界を変えてしまうを待ちているのかもしれぬとしても、滅びるのでもなく悪くなるか良くなったとしても真に深く達した真実,本質の統合的知性や意識存在となれる希望はほぼ無いと見える中での享楽的共存状態の強制と生存を深められず他の縛りへ移行するだけで、又その拡大による問題の顕在化による苦難が来たる可能性に関しても、あまりにも人類の種と未来は無明で暗惨としていて希望が無い。

虚無に殺されず虚無に触れ合い、現生の私たちと私が、ここでこそ生きる意味があり悟れるのだという機会を与えられているのだとしても、生きる事は愛と感謝と歓びでありながらもの苦しみだ。という事を先ずは知る事からもの変革と統合と肯定だ。 楽観は素晴らしい力でもあるが、浅い肯定などに何の意味がある?!

人に柔らかく開けていられる人たちと違い僕は僕への経過によってこうなってしまったというだけでなく自身で在る事での平安や柔らかさの以上に人へ合わせられるように生きていく必要はない。が、こんなにも叩かれたりもせず生き易くなり上手くいく中での生を選びたかった。 しかし(それが自己意志によって定まるものではないだろう事の以上に)、それでは上手く行かぬ人の気持ちへそこまで寄り添えなかったであろう故にも、やはりこれで良かったというのか? それでも成長と共に抜けていきたいが無理なのか? ゴッホもイェシュァも殺したじゃないか。 まだ彼等は残したが、僕は残してないぞ。 死なぬとは思うが、この生で生きていくのは苦しいぞ。

あまりにも無知性な判断ばかりだ。 その中で、それでもあなたが幸福と感じているのなら良いよと僕は言えぬし、そんな風に思えなくて良いと思ってる。

全体や他の流れの業の解消地になるのは、そこへ愛や光の意識と存在の変換媒介となるのは自身作業とは良いとしても、そこへイチイチ人からの判断,否定と不利益などを当てられ受けるのは無駄だし愚かだと思いてしまう。 そこにも誰かを責めたり悪者にしなくては済ませられない人間たちへの調整的媒介地となっているのかもしれぬとも、僕はもうそれが嫌なのだ。 今思ったにではなく、ずっと嫌だった。 それをいい加減に抜けたいのだ。 その役目にあったを果たし独り抱えていくだけで、それは僕に根本,致命的な問題があるからではなく(そこについては振り返り直してもいるし)僕の問題だけの責任にされて終わるのでも現状判断出来てないからのせいでもなく、愛への解消地なるを僕には宿され課され、役目と必然を一人一人が為され流されている事にすらの理解がなく責め来る人の愚かさを感じる度に絶望を感じる。

そして彼等の生み出す業の解消地になって生く事などを僕はもう止めさせて欲しい。 それ程に僕自身の業があるのか? その仕事を(それも思い込みかもしれぬが、その位までの俯瞰では可能性がある。 人間としては、もっと大きな段階から把握出来ぬ面もあるが)幾らやっても決して感謝などはされず責められ正当化されるだけ。

やっと生きてんだ。 思い込みばかりで思いやりも何も無い奴等、お前らが世界を悪くしてるんだ。 囚われFight backしてしまう自分の問題はあったが、お前らの業を何故に俺が背負い解消せねばならない!? それは全体への必要であったとしても、そんな人間の間に暮らしていくのは、独り愛への解消と変換へ闘い生きるのは何とも苦しいと人間としての俺は(そこを独りでの変革と超越へ抜けてはいきながらも)言いたい!

浅い指摘に対し受け流すだけでなく、それは違うと言ってやる機会でもあるのでは? 表面で流し折り合っておくよりも、しかと自身の意思や想いを示し提起していった方が自身精神衛生上の理由だけではなく例え結果は意味がなく相手は学ぶ事もなく排除されても怖れず世界に可能性への提案を残していく事の意味もあるのではないか? 受け流し方としては、こんな処には尊敬も出来るのになぁというような柔らかさだけで対応しておけば良いのか?においては、そういう自分も試して来たが何も学ばれず変わらない同じ事が自身の状態に関わらず起こって来るのは終わらない中で、少しでも生き易く自分の為し方への現実化を願うもは間違っているか?

答えが見え存在もそこへ入りてゆくのだとしても、心は揺らぐ。 しかし、そこからに学ぶ、自身への意味はある。 が苦しみの在り方を与えられる現状と成長の道からは抜けたい。 柔らかく誰とでも上手くやれる人には成れぬかもしれぬし成れぬとも良いが、打たれ続け仕事成されず仲間もおらず独り愛へ向けてのみへ生きるのは疲れたと何度も言っている。 (少しのキッカケでも、その根本の因に関して考えてしまう。 それでも少しで済むようにはなったのかもしれぬが。)

そして共有必要の分以外は離れ放り出しておけば良いとするのだとはしても、しかし或る程度に関係も持ち話せる相手で感性は良く根本的には正しい面もありても表面でしか見ないという人に、(例えば江戸時代が理想的社会であった等や、その故に金を使って居なかったなど。へ対して実際には先物市場がある位の金融先進国であったし貨幣改鋳や戦争もあったので金銀は鋳潰したから現物が現在は少ないのだろうと思う事や、人を疑う社会より皆が良い人ばかりだから防犯などを教える必要もないと言うに対して僕は人間誰しもが持つ善悪両方において危険性や対処方も知るべきと思う。等においても)それだけではないのでは?を挟み込みていく事は、そこに出来る自分の置き方であるとも思える。(凄く必要を感じたのではなくとも、そして多少に話の腰を折ってでも自分の基本的なスタンスとして良いのではないかと思っているし相手にはよるが、それが出来る対者とは相乗的な連結へも話しは出来るのだろう。)

人間自然の暴力性を見せず隠してしまうは良くないが、それを広めれば引き寄せてしまったり拡大される可能性がある事へもの(表現の自由も同じように、影響への判断は付かぬし暴力だけではなく消費材となるもの全てにも(hollow やviolentだけでなくentertainment自体が)同じであるが)暴力や拡大へ参与してしまう責任への自覚が足りて行っているのか?等は各自に問われていなければならないと思う。(かといって罪に問うことは出来ぬ倫理,道徳的な方向や努力目標としかならぬが。

指摘も、その深さからの質に拠るとは思うが、それを認めていてしまうと人へ対しての意見などを(大体は他者からの評価に左右されたイメージに依る判断であり自律的意見ではないが)何か言いたくなる人たち(性質や自己誇示したくなる人間自然の人為操作性においても)の浅き評価,判断などによる指摘の風潮も助長してしまう。 では私における、そこだけではなく他方面から見る事への 提起,指摘,意見もは例え真に近く相手に良いものであったとしても、告げられず押さえる方が良いのか?

受け入れる事で助長させてしまい押し付けられるばかりになって共有も取れぬなら、そこへ自分が責任をもって殺すなども必要であり認められた選択ではないのか? (それは実際には嫌だし、そこへの安易な判断を催させる力へ利用されたくもないが人間と暴力の可能性の問題に対する形而や理論的考察として。と、当然の事も言い置いておかぬと誤解や判断基づく無駄な排除や労力が生まれ易い自己防御の為へもの説明や弁解を僕はなるべくに置こうとする。)

力へ力で返さず発散されなかった時の人間のストレスを愛への転換へ押さえても良くないならば、自分こそはそれを目指すのだ等とする事もなく皆の道としてもに、愛の自身のみを目指しながらも世の不合理へ世の一端としての私を吐き出し(意見という自己判断であるも分かり、真実ではないかもしれぬと気付く大切さにより押し付けぬとはしながらも)ても良いのではないのか? そして認めず押し付け来る者へ対して抗戦する選択を持つ、非暴力,不服従と暴力の間の何処もが自由で良い中で何処を選ぶというのだろうか?

8/28

それにしても嫌われてる。 そんなにrudeな事は(多少はあるとしても)してないと思うのだし、それでも相手の状態やそうさせた気持ち等にも思い致し理解はするが、相手はこちらに思い寄せ理解しようとした事での折り合おうとせず、つまり思いやりなく流した上での付き合いなどの修復も出来ず(僕はそのスタンスで関わろうとはするが)僕の側の原因だけに責任転嫁される。 僕もそれ以上に修復への関係や言葉を持とうとせず、そんなやつとは付き合ってやらないよと離れてしまおうとする面はあるが、それは行動,態度で更に進めようとしても徒労(だけでもなかったが労力は大きい。)であった今までの経過によりてもの離れる事への進歩としての現在でもあったはずだ。

自己能力や存在への承認を求める欲求かの以前に、単純に嫌われ上手く行かないのは楽しい状態ではない。 独り愛の転換点となるへ従事し続け振り返られる事もなく打ちて良い人間として否定や攻撃を受け続けるのは、僕はもう幾ら成長の為であっても止めて欲しいと願い伝えてる。 こちらの原因は1~3であっても6~9で嫌われたり排除されるは幾ら鏡でありて自身のみが全ての原因であるというのが、もし文字通りの本当であったとしても自身への学びや役割として否応なく行わなばならぬとも、それが全体の業の僕への集積であり必要であるとしてさえも僕は嫌だと言う。 全てを認め肯定していくは本当で、これもその変換への機会と受け取り行いながらも嫌だ止めろと意思表示もしたいのだ。 抜けられねば一生ここに惑うのかもしれぬとも肯定自己存在へ向かう以外に如何に(制限知性矮小な自己でも)意見も伝え関わるかへ現在の自身のままにおいては関わりていたいのだ。

それは皆へもの道であり、皆誰もが道の為などとも思わずとも自身へ出来ず為されぬ事ならば諦め哀しくとも捨て離れよという流れが起きているのかもしれぬとしても、関係から抜けたからといって僕が幸せになれるわけではないのは本当に分かり会える人が最少に居る幸せがありたとしても他からは攻撃されて防御労力もかけて暮らさねばならぬし、知恵を一般化させるへ囚われ過ぎぬとしても人類種にも普遍な共通真実を取り出したいという目的(現在だけかもしれず未来の知恵とは成り得るかもしれぬが)にも適っておらず、本当に心開けて心地良くほどけた肯定性ではなく陰の場所での仙人となり哀しいが肯定するというような、現実状況を受け入れなければならぬから受け入れざるを得ないという在り方までしか叶わない事を(それしかないなら受け入れるとしても)認め欲求を捨てて行かなければならぬのか?と同じく、関係や言葉を全て諦めていく(諦めて行うのではなく諦め捨て一切を行わない)しかないのか?とは、全てが叶わなければ幸せになれぬという制限と欲求には陥らない為にも、結局つまり幸せでない状態も受け入れ肯定していく幸せのみにしかあり得ないが結論なのか?

8/29 (thu)

自己に在る大切さもあるが自我を張らなければ上手く能力同士が関わり繋がり共有,相乗出来る単純さも有り得るのに人間にはそれが難しい。

操作への魔法は使わず、自然との流れに任せて均衡を取る在り方をするのだ。 人為よりも受け為されること。 その為の各自役割があり、賢者は自己の運命現在も認め見渡しながら聖者となる時の到来が機に至るを夢見てもいる。 そこでの責務がある事と放棄できる事もを自覚しながらに。

不必要だったか必要だったかは判別が付かない選択の上に、現在の結果時点を見返していくしかない。 しかし結局は判別など取れず選択と行為の無意味の上に、感覚で感じ取る以上に基準もなく自己が納得出来たか?しかないとも言えるにおいては事後の意味付けによる自己肯定という安易さも亦、認めて然るべきかもしれぬ。 しかし意味付けの無意味さや浅はかさも知りて、何でもを結びつけようとしない知性である事も、やはり言われて置きたいのだが。

意識で解消されたり方向が良ければ良いものも多いが、意識したから全てが良いわけではない。 抽象と漠然と各自の運行と判別に任せても良いのかもしれぬが、そこを明確にせぬで良いのか? 又、明確に近い指針がありても、その説明と共有には複雑(弁証的な結び付きの経過と)が要るのではないのか?

それでも如何なる主張や自己を放棄,捨身に置いていき肯定と為される以外の何をも置かず示さぬを通常基準と成した無関与,無行為性を獲得されていくが共通においてもの正しさなのか? 又は曲解され人為へ利用されるが分かっていても詳しくは示さずキィワード的なcodeの封入だけに置かれていくが良いのか? 愛という言葉だけでは真相は伝わらず浅はかさばかりが広がるというのに。

裏を読み過ぎるでも情報を入れないのでも入れ過ぎるのでもなく両方,多方を見る。という感性を挿し込んでいくにありては、真なる統合への動きは誰もには出来ぬとも人の自己のみ視点による判断,強制,押し付け,慈悲のなさ,対立,等の無駄と破壊へも解決と共有を持たらしていけるか? (感性の良い方の人間であってさえも未だこの位の事を言わねばならぬような幼稚な段階人類だと知って来た。)

必然が為されているようには見える世界と流れの、その我々を越えた上位次元に規定された運命性へ関わろうとする必要はなく又は今次元が各自の動きに連関が起こっているだけがあるのかもしれぬが、その私が行為からによる操作や共生などの判別にも関わらず、その因果の連結に関わらぬ肯定のみの自身と最少影響性へ抜けてゆくだけが必要な私や個人への道の歩ませ方なのか?

如何に流れに従いゆくか?を考え感じ試すこともなく感じるままで在り行う事と最少自己へ減らしゆく方向と存在化を流れて、では流れを産み起こしているものは確かに人為も含めた動物としての人間に依るものも多くあり、そこに関与し会いていく事によりて流れが生まれるという意識によればそれは起こるだろうが、その意識への囲われも外している事で、もっと人為的な流れの創出を越えた自身存在と自然そのものの呼び寄せる関係と因果もへの流れ方に化してゆく事は出来、その方が人為との関わりや折り合いを減らしながらも均衡とも適合していける姿であるかとは思う。 が、では人間世界の方向に対しての過程の選択など(Biや政治的関与、又は社会的な活動を取るか?等も)へ対してもと同じく如何程に関与と無関与の判断出来ぬ選択への調整的在り方を置くのか?への存在と問いばかりが在る。 そしてそれは中間的な現在との適合点を取っていく事ではないのか?

結局、全ては肯定であり苦しみも只味わえる生の喜び一体であり、そこへの調整も解体も如何なる操作はなくて良いのだとしたら、私はただ任せ流されるにおいての生を感じ歓んでいるという以外に何を為す選択と必要などがあるのだろう。 そうだとしても実際なる痛みでもある苦と心の反応から逃れ離れ捨てていくのは難しく大変だが。