junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

169 1/1,/2,

169 1/1,/2,

私と世の光と愛,真の幸福,最高の歓び,自然の開花,自由な遊び,共生,調和,全てが完全に生かされ為され果たされ叶えられ輝いています,ありがとうございます,

世界の真の幸福へ,私の生命が最高に生かされています,なむあみだぶつ,

呼吸にもオーラ(チャクラや周天を含めたイメージでもある後光や羽や蓮華状の流動エナジーの流れも、又は宿すことも出来る幾何学的結合の状態も)意識により拡大されていく私,人々,地球,銀河,超銀河,宇宙同士のmultiverce的な光の連結帯泡,光と暗黒の両方の宇宙と集約の光,~流動の形化,粒子,細胞,全体を包む光のみ,の包括の光体(全である、あみだぶつ)の私,へと戻り来る、私に世界が揺れている光と幸福化へも繋がる意識のみへと体験と手段を身に付けていく意識の澄むへ済んだ状態化段階と味わう知性への到達を生く。

光と幸福の体験状態を呼び起こせていくにもよりて私の根底と意識はそこに既に繋ぎとめられた。 その既に時空を越えた超越の光と存在が、この時の場所と身体に動いている私という(人間でありながら神意識的な存在と場であり、現実や生体でもありながら悟りにも在るような融通無碍,無限との共通の中に)ゆっくりと(生命の現場を)味わいている。(を感じるに生きている。)

何を起こそうと行為しなくとも自然に最高に現実が起こりゆき、相乗も尊敬も価値も伝わる創造と関与など世界への現実性への反映もは(自身が上位優位意識によるものではなく、徳の高い奉仕者たちの安定とは違うかもしれぬとも)都合の良い解釈かもしれぬが、私のままに為されるままで在りてもの必然が起こされていくにも任され、そこへ為されるしかないであろう非情への諦観と同時に、選択にも宿る意思なる私の為されるべきを為すという私を越えた流れに流される事と、そこへの方向へ関与する性質への生存を生きるという両方もの勝利が有り得るように、最少へと為される事と最大限度に為そうとする事は同時,統合的にも在り、私における聖者であり創作者という在り関わり方を自身へ突き抜けながらも他者へ奉仕し適合ともされていく在り方の灯され方と(結果は通じても知らねども)歩むしかないのならば歩むもが良いのだと生きてしまうも良いのだとも私は生きる。

痛みや苦しみも味わえる状態の一つだが、それを望まず無くとも良いように至りゆくも良いという方向には私を得られ導かれ、(そのままで良いが方向性を取り入れるという説明の、分かり易い言い方としての"これで良いが制限せぬ"。があるように)こんなにも肉体的制限の私だがそれを最大限にも味わい楽しみていく現在という存在の場と生存の質だけが在る。 そして余裕や放り出しておく為にも現在の未熟な私と私を成長させていくだけがあるが、しかしその過程での対応があるどちらもの良しである。

私ではなくても誰もが本当は至り歩める道ではあり、観察への時間と真実への生命を向かわせた方向のみが必要であったのではあるが、そこへ私を歩ませた方向(という進化なる変転への意識,知性,自個による選択に行き会いてゆく交感生命の関わり)のように方向への性質が起こされ行われる為の資質とは必要であった上で結晶化ともされた性質の私とは、この現世界の一相面での真実を解き明かすへの働きへの結合の紡やぎ。

流れ~flow~とは流動の状態の生み出す時という流れ化での連結された現生的状態の私たちを越えた完全性からに繋ぎ停められてしまったものではあるが、現化された私たちという既なる世界全体の自身とも一体であり、制限された私を越えているが既に現制限次元の私がそれを生み起こす流れへの関与体である同時には在るのではあり、その連結の(速度はslowにも時に早くとも、辿るのは最少でも過剰でも)流れ自体に乗るように奏でている状況が如何に潜在的にも深く居られていくのか?が問われていくflow状態の意味と質でもある。

一人となり立ち止まって(風呂のようにもrelaxし)解けていく時間や状況を自身へと持たせている事の大切さと同時に、しかしそこで何へ立ち会うのか?が大切な中で、(weedなどのような自己本質へ深める脳の領域や回路の繋ぎ使い方の変容の体験を、ただ気持ち良いrelaxや消費的娯楽性だけではなく本質への精神の持たせ方として使用していく事が出来る可能性への大切さでもあるように)自身との対峙を深める瞑想の効用と必要などをも、もっと自身と日常にも取り入れていなければとも感じながら、しかし既に離れず日常化へとも身に付いた私の段階を世へも解き放ちてはいる。

(こうした自己状況の説明であるへ繋がりた以外にも、その真実へ深める問いと提起の発現は同時に既に此処にも行われ置かれてもいるとは 説明しておこう。)

良くも悪くも判別は出来ないという意味で判断などは無いし、全ては平等に神と奇跡の体験だが、その神秘や美しさを味わう為での過程と結果には意識の使い方の側面である知性や判別が介在するへも在る。

1/3,
脳の開花,腸の共同,遺伝子の変換などのように意識と(のみではない)、全身の目覚めを私に行う。 次元を越える融合的到達度の知性生命存在へと進化しゆくへの変化の道を辿りている必然に例え我等の行き先と過程の現在が有るのだとしても、それらにも依らず減らしていく事で達せられる生存の味わいと全体総合流通の境地への叶え方は常にも全て(の仏性)に既に在り、それは苦や制限による修行ではなくとも享受的な楽(つまりは自身の創造的な遊びと同居の一体,無分別の消費者自身自体を生く事)であるにすらも叶えられゆく可能性は在るが、だからといって、この生体的な生存の(動物的とも言える)能力開花の歓びを捨てた快楽や便益性のみに至り委ねていっても良いものなのだろうか? 例えそれが不可避な必然的進行の行き道(それが正しいかも分からぬが上位次元者からの関与に規定されてしまった連結である可能性によってからも)であったのだとしても。

意識のみの働きと意識という作用に拠りて悟りの恍惚,超然,肯定の歓喜自在は叶ふるが、意識のみへと頼る依存や肯定や愛で在り自身の実現へ楽しく向き合い現実利益と幸福を持ちて生きゆく事にも、取りこぼされ置いていかれ利用へ吸収される面もは有りている事を知りての肯定的吸収は大事だが洗脳(例えそれが結果的に正しくとも又は支配や抑圧側の力の使い方には、いつも正しき中に誤用させる反対方向性などを潜ませられて来た故にも)されぬようにも気を付けていなければならず、だからにも例え高次元的知性存在からに言われたからといって如何に真実に感じられる事にへも信じてはならぬ基盤の上に自身で考え感じ立ち会う事が必要であるのだ。 所詮こんなにも制限された存在の我々には、そこに答えなどが出せないのだとしても。 そしてそれを肯定的に感じなければならぬから信じ行動してみなくてはならぬ等という操作を挿し込んで来る者の言い分に対しては、僕は(それが全ての人にとって正しいかは知らねども)一応は疑いている距離を(判別の心であり未一体であると評価,否定され責められるかもしれぬとも)おいて観るに立ち会いてはみるのだ。 だから観じなくばならず遅くても、この歩み方を私には必要とし又、仏陀の(禅のとも言えるが)疑えという基盤スタンスや、そしてあくまでも(各自の能力や段階などに縛られていたとしても一人独りが自己の歩みと道程をゆかねばならず)何処までも自分一人のみしかないのだ。という面にも、共感と真実への信用を感じる。 (そして幾ら本質,潜在的な原型や物語を宿しているものにも信じよと強制し来るものへ,<
(この文章朗読,録音,此処まで),
>

(そこにも学ぶが)私は信用を置かない。)

だからにも例えもし宇宙(外来)的知性存在からの声やguidanceが聴こえて来たとしても、それが正しいかも分からぬのだから(ヒントにはなるが本当かは分からず、何かの意図隠された上位段階からによる操作かもしれぬによりて)答えを教えてくれたのだとしても結局、問うことは僕にとって同じなのでもあり(又はその状況になったら、その経験を基準として取り入れてしまうかもしれぬ可能性の故にも私は)、何も聴こえなくともの人々に同じく(ブッダゴッホものように)流れに触れゆく作業を浸り見い出してゆくのは、あくまで自己という同士のみでしかない生き方だけが在り又は示すもが出来るものなのだ。

しかしそれをゆけぬ者が簡易に技術で叶えられる仏性開花の結果を得られる又は仏性などでなくとも(つまり現生的幸福も真の幸福もの)快楽便宜の現実実現をも得られるならば、その平等利益を能力,役割主義にも取り込まれずに求め行われる事は何故に違うと言えるのか?

知識は精神性を持たらさなかったが、それは導き方や教育がその方向でなかったからだけでもあるのかもしれず、技術が精神の道具ともなりて開発,進展されるのならば、それが何故に良くないと言えるか?

愛の方向へ生く事のみが在れば良く、世界を変えようとせぬとも自己と意識変革一つの生き方だけが在り、自己に感じられる創作や行為の喜びによる生存を生きていくのみだという言い分が、愛と放棄が全体性や電子的融合の夢へと生体と味わいと開花の価値を失わせ、自身へと生きる事が世界から目を逸らさせ、又は自己のみを生きるという実現の欲求を肥大させていく動力へと吸収させ利用されていくへ繋がりていくのかもしれぬのだからに、やはり幾ら正しき統合地でありても(方便的に断片や過程を表出する事は有り得ても)一方のみへ偏る事は出来ず、そこには統合への取り出しと、そこの為へもの説明というものが必要とされているとも感じられはするのだ。

故にも実現の欲求と潜在的自己本質からの感覚の判別できぬ未分化にありてもの選択による流れとの立ち会い必要と手段が必要な過程として有るとも言えるのだろう。

私の観じる能力は統合へ問い結び着けようと働く性質と効用を持つようにも感じられているが(これは為されるしかない非情であるのにも関わらず、結果は知らずとしても何とも恵まれた道を与えて貰えた恩恵を有り難くとも感じる)IQは108であり平均的な知能でしかない(しかも狭く極度にではないが分野集中されている)多少の分別と知識的な網掛けを用いているに過ぎない、(このcpuやmemoryが空いてあり計算速度がは早ければ、もっとall mightyな活動にも成り得たかもしれぬが限定的でも最少の方向や在りのままの生存を希求しているのだから、これで良いのだ。と有り難く受け取る。)そして如何なる優性的な血脈でもない事の(血統の意味や結合の奇跡は勿論にも有るし、それとは性質も環境も等の諸条件がその者となる為の必要であり、その各自にしかないものではあるが、知能指数や文化的な吸収の蓄積背景などという血筋を問うに拠らぬとも生まれ育めるという)私自体の生存が証査でもあるによりても、この在り方に宿り来たものと価値が分かち合われ通じていく世界へ伝わり繋がればとも私は思い願うものだ。 (そして、万能である方向からは、私は既に抜けている。)

しかし立ち止まる事は大切だが情報が過剰になれば、そこに立ち会う以外の方向性の選択肢が無くなってしまう事(自身の中でのフレーム問題)へと、自分もが吸収されてしまい何も出来ぬ無力化への力を生み、真実などは分からぬ、故にも疑え。という動きのみを生み起こす力へと荷担してしまう事で変革への動力を阻害してしまうかもしれない。 ならば、愛の変革自己への旅のみを生きて観じ眺め問い深め肯定に至れと云う以外の言葉や存在表出が必要なのではないのか?

そして(日本人と他国のように)他者と同じことで抑圧,洗脳されてもいるが、私は人とは違うという個人~自我的なidentity~であるによりて団結の力から削がれてもいるように、自律的個人を目指し伝えながらも同時にどちらかのみへ片寄らぬよう、自身のみで在り自身でもなくという事の単純な真理を、しかし自我などを説明の基盤としなくともに伝える努力,工夫や発明,発見が必要とはされてもいるのだが、こんな僕の制限知性の現在地には未だ至らず見つけられぬではいるのだ。

これら統合への言葉(以外には伝えられぬような)の効用もは、有るとも思われ感覚的な抽出の流出入と相互干渉(テレパス)性だけでは細かで相対的な把握と認識運動の知性に分化された効用を(例え説明により余計に分かり難くなっているも知っているとはしても。)通じ合えぬではないのか?

(1/4)
自己承認欲求の為にも自分は知っていると思い又は思わせ、それを自身は伝えられるのだからと成り立たせ行おうとするような(つまり分かっている。 これが本当だ。という)人よりも、真実は多様なので本当にどうかは分からないねと言っている在り方の方が真摯で正しい存在の置き方であるのかもしれない。と(自分の状況肯定へ引寄せられているだけではなく)僕には思われさえもする、ならばやはりは何が現じたかの外界に動ぜず又は動じながらに眺めては対応し選択と流れに感じ会いていきながらの生存状態のみの現在こそを味わいてゆく自身という生命の置き方だけがあるというのみであり流通(せねば人限界とは表面的にしか関係出来ぬし又は、価値が分かてず伝わらなくば否定されたり軽んじられたりによる現実的な非実現や不利益も多いが、それがタオの弱く柔らかく突き離れている事と超越の充足か?)などせぬとも良いと自身と自身への自然が宿り来るへ立ち会い(しかし操作へ流されぬ真実希求方向への自身自律へも立ち在りて)突き抜けて生く事だけが(静観や沈黙でも又は偏りた過剰でもに在るが)良いと云えるのか。

孤独自体が超越の証査ではないが高く違うからこそ孤独である事は有り得ると同様に高く超越でも孤独でなく楽観的に人々との共有に交わることも出来るだろうが、それはその超越と充足の悟りの表出への性質的な質が肯定と否定の(二元や相極の世界で)どちらもの正しさから何処を取り出しているか?による違い程度のものなのだから、(あらゆる相に質や方向性の違いがあり又、あらゆる質の違いにも多様の相が有るように)悟りの段階にも別の相面や意味が同時にも宿りていることは在るのだろう。 (例えとして愛という相にも超越と自在も依存と執着もの質が違い、超越的肯定境地と絶望の質の違いにも成長という進展への相や価値が在る。というように。)

地位や名誉は人限界における必要的な要請でもあり、それがなければ格差付けられた現在社会や関係の中では弱き得られぬ者とならざるを得ない自己承認欲求だけでなく実利面からにも求められた当然ではあり、それは人間の問題が解決されれば必要なく済むだけのものではあるが現在においては、それを解決する為の発言,関係,影響などの力を用いるへ人が付いて来る為へ(の利益欲求を利用し方向のみを正しい事へ使わせる私という世の転換点性となるも出来るが)地位や名誉を(自身は自身を為し世への価値と貢献を残したという以外に)求める意味もあるへ肯定は出来るが、例え私にそれが為せたとしても現実利益の享受を得られた自分だけが良いとは済まずに、人類や共生文明への創造の力や存在となりていきたい、その為の現在を研鑽し歩いているのだし、又それを私は望まずとも叶うような(地位,名誉,金の実現せぬともの)充足の在り方を身に付けてもいる、それらは同時にも在る。を往く現在であるのだ。

神仏精霊などは人の量などにも関わらず、そこに宿る質に呼応するのだろうようにもエネルギーの流動状態によりて見える世界の眺めにより(本当に視覚的に見えてなどいなくとも)把握も出来うる自身の置き方や意識と存在の立ち会わせ行い方などもが見えても来たりする(推測的認識でもあるが)ように、現実界の見える面からの判断ではなく流動のエネルギーの宿す私に輝くあみだ佛のような質が如何であるかという状態へ関する意識の使用を本質への自己を知るにより目指される方向の把握とも云われて来たものであり、又それを出来たらば私の常時化されたものへ近付けていこうとする存在の現在経過瞬間ごとをゆく成長への過程と味わいがあるのだ。(という結論にはありても即ちが、その経過を飛ばしての知覚や意識,存在状態へ成れてしまえば成長への過程と感得は必要があるか?への答えではないのだが。)

一人の生命には力が在るように、集まって行うに起こる力も場所や時間での波動が分配されるような事も有るように人の多さにエネルギーが乗ずる面は有りて、ではそれは空間に依らぬエネルギー(熱量ばかりではなく波動的な流動の質としての違い)の作用の仕方もは有る(現科学的未証明だが)と思われてはいるのであり、例えば人気とは人々からの気の集約点となりている事でもあるだろうようにも本人の意識が高度であるかに関わらず上手く行ってしまったり逆に阻害力が働いたりする事もはあるのだろう故にも、名誉や地位に付属する利益や影響の代わりに失うものの可能性も有る中で、そのエネルギー的な状態を利用するへ乗じる事や防御的なコントロールを持たせていく事は(出来るのだろうが)如何に(そしてどれだけ)行えば良いと言えるか?(それも能力者との共同関係であったり、魔法であると言う事も出来るであろうが。)

人気という評価状態に付いて来る拡がりや人の創作に乗って行っているだけの役割者へも、浅くとも自信もち編集,集約し伝える事の出来る者の操作や、そこに洗脳される人々へも更には表現も出来ず人と繋がりて行い起こせず何の価値を世へ分かち合う事も出来ずに軽んじられたり否定もされる(という弱者の自分達の代表として自身に感じさせられている)自分にも、少なくはなったが絶望感を感じる中での立たせ学び歩ませなくばならぬ道と途上にはありて、上手く行くようになった部分もは有るが、それでも未だこうした繰り返しの中で生きていかねばならぬのだろうか?と問い惑いながらに与えられたものを受け取りていかねばならぬが自身の現段階と必要なのかもしれず、何が良いかの判断が出来ぬ故にも(判断できるし判断して行うも良いのかもしれぬとも)囚われなくば現在経過の生存生命を味わうだけで良い与えられなくとも 与えられた最高なのかもしれぬとはしても(自身を最大に発揮し生かす可能性欲求へ追われずとも)自身を発揮されるへの必要と未現実化なものを方向としてもに求めるは本質希求のように良いのではないか?

浅く又は本質的で深いが騙し利用しているのかもしれぬ表現の他者と(それは単純な自己表出,創造の達成,充実感や他者からの承認(地位,名誉,肩書き)を得られぬ事からの不利益への抑屈感情(ルサンチマン)などからの情動ではなく故に、為せぬ自身の恨みを先ずは解決せよなどという意見や否定に立たされる人の代弁を置いておく)如何に判別もなく立ち会い提起し対応し、共通の方向への仲間ともなれるか(又は、判別し区別し距離を取り全ては同一だから等という平等に吸収されず俺と貴様は違うし共に世界の幸福を創るへ向かう仲間などとならず否定するという闘いや又は放棄,無関与の対応も良く)又、例えば愛が全てと言う言葉と目標で全体主義を啓蒙しようとしているかもしれぬ者へ、それは本当だねと愛というcode(方向を示す言語)や具体面でもの共通部があるからといって賛同してはならぬように自己を用いて疑い把握に努めていなくてはならず、ではその目指す質方向が違うのに共通部の目標の為に共同するが良いというのか? それは敵の敵は味方というのでさえもなく、共通目標への共同可能性ありとも質を判別し(判別せぬ肯定などと言われても同意へ吸収されず)問い、仲間ともならないという対応の中でも打ち響き合う事の出来る本質の描きを、只ひたすらに自身において見い出しながらにも吐き出し分かつ共通へとも相乗される可能性への進展の基盤ともしていくような在り方が(それも亦良いというのでもなく)統合的な在り方としてもに良い、世界への作用力の自身であるという事か? そして、では言葉的対応にも意味は有ると考えるのだが、それは言葉を越えた本質面のみへの自身の創作性との関わりにおいて、相手が何を感じようと利用しようと任せ放棄してしまった自身のみに在りて為すという対応と行為選択の自在を(具体には放り出すも 言及せぬも説明するも言葉尽くすも等の種々可能性は有り得るが)基盤としていくだけがあるのだろうか。

そして意識が上位で進化した存在で、ならば他の人間が進化への抵抗勢力に過ぎぬのなら殺しゆくも(価値を生み出していないから金も得られず意識して選択できず洗脳される側の民は商品など自己の消費欲求の方向性と自己責任においてソフトキルされていくというように)良いという支配的な上位者観念の自己洗脳たちの思い描くような優性性に取り込まれるのとは距離を置きながらも(只それが絶対に間違っているかも分からず判別も出来ぬが故に私は、その勢力の思想とも折り合う事は出来ぬかもしれぬが対話(する余地が彼等に有るのなら)する事も出来るかもしれないとも思われる。 しかし実際には、そこまでの労力も疲れるしリスクは高いし(例え呼んで貰えたなら参加しても良いか位に以前は思っていた政治と同じく今は絶対に無理だし嫌だし同じような思想を持ちながらも政治的な役割への者が居るであろうを生かされれば良いし、そことの交流と成り在れば良いというようにも)その役目は負いたくないのだからにも、そうした行為へ化され課されなくとも私の楽と自由でも上手くいく設定で居ようとは思うが)、こんな愚かな人間たちの現在と悲哀を哀しいと思える分だけ私は未だ正常だと思いている事は出来る。

それは、全てを疑い気付き洗脳されずとも自身の意見や提示の意味合いも最大に為せるのか?は分からなくとも、彼等のような愚かな者は殺しても良いという愚かさからは身を引いて立ち会いている事もが出来る基盤の私には在れている。 そしてでは如何に、どのようにしてそれらと関係する事が出来るのか?という対応への想定と戦略の設定においても巡らされて来た考察ではあったが、しかしそれとは何度も既に繰り返されて来た身近者との試みにさえも通用しなかった分かち合いの無意味さを知りており(それは現在地点までの結果ではあり最終結論ではないとしても、では例え今後に上手くいくようになったとしても、それが正しい道であるとは言えぬ事を知れたという経験でもある。)分かり合えぬが基盤であるのだから分かり合おうとなどせぬと良いというのではなく、分かり合えぬ異質自己同士であるを知りながら、しかし如何に分かち合い相乗や共生を創り得るのか?(その関係内では作れなかったとしても、関係を打ち切るしかないという創造方法の結論が有り得るのかもしれぬとしても)という方法を問いているは正しき問いとも私に思われてもいるのだからにも(例え結果や究極真理はそうであったのだとしても、分かち合いや共生を投げ出せば良いなどという一面からの人間判断の側面には)洗脳されるなという方向をも(それが無行為や反対性だけを生み起こしてしまうかもしれぬとしても)私は示し置きてはいきたい。

では自身のままでの自然な共有関係の相乗ばかりへ上手く行かぬなら早い内に捨て、上手くいく処と行かぬ処の折り合い点を採りての利益と不利益のマネージをしようとさえせず、そこでの過程と成長を取らなくてさえにも独個生存と共鳴可能性の利益中にだけ暮らし、しかもそれでも意識と存在の成長も出来るとしたら、それを人類へも自身へもの方向として設定しても良いのだろうか?

自然があり良い場所に住んで又は泊まり、良い飯を食べて温泉とマッサージとsexもあってherbesも用いるというような、生体交感も共有も共生も成り立ちている幸福であるもは人間の享受享楽の在り方として、それだけでも良いのではないか? 気持ちよくほどけ達して生き暮らせるようになれれば(宇宙の進化にも関係なく、又それだとしても)知性により深められるか?も、その為の苦も成長もは要らず欲望を肥大させぬ生命的な文明の到達のみあれば良いという事でもあるのだろうか?

もしくは生体的にも遊びたいし自然な共有もしたいという本能的な欲望にもとっての(自個だけでなく家族の価値を普遍でなくとしても求めるようにも)理想象を描いてしまうというだけのシンプルな関与と創造性が有るのみで良いかもしれぬとしても、僕は真実を見つけ出す事に(これは執着や欲求だが)優先として、探求の意味として(結果に意味がなくても)にも求めてしまうし創造以前に生命交感の最もなる楽しみ方でもあると感じ、その価値や方向を創造し 得たらと想起されてしまうのだ。 それら究極へ達した答えへ達してゆくへ生きるという生き方と、その価値や道の創造へとも自然に展開されていく事を優先にも求め、しかし同時に達せられておらず表面的には深められた伝達価値であるかもしれぬ共生などの価値方向や人間生命的な理想を描いてしまうこと。や、又その内容説明伝達性を言語外のものへ託してしまえるかどうかへ対してもの超越的で流動的な本質状態の流れや本質に近くとも見えず数値化出来ぬ(今の処は)ものを現実人間世界ともの流通の仕方へ転化する方法を探し続けてもいる私ではあり、これら思考へ置かれ換えられた流れの連結性は説明に過ぎるし過ぎぬとはしても生命や流動の情報は(現在の処は)繋ぎ方によりて価値を持つのだからにも、私にはこうして言語外のものへの言語的な 理解や発見と到達性(そのものの究極状態へ至れているというわけではない)からもの分化の作用による統合への作業を経る私への必要を行っている。 そして文章化されたこれらは浅く見られてしまうだろうが、これ以上の集約は僕には出来ず又、感じられた要請のような紡ぎとの出会いを流れの過去と未来が織り合うような連結の奇跡(の文章化という枠に)を味わい為されていくを感じ生きているでもあるのだ。(1/5)~

例え必要の要請という理由に欲望との区別が付かず他律によりて自我を利用される事などへも吸収させてしまうものとなり得てしまうかもしれぬとも、では最少へ減らし自己を滅すのみにしかないというだけへと吸収されるのでもなく、その必要と感じられるものの質を何が本質的な自己世界同軆からのものであるかへ通じさせる事が大切であると共に、そこに(人間的資質として呼び起こせるから行い使用し伸ばすのだという理由だけではない宇宙の本質に内在的な理由として共生や慈悲の理由が見つけられれば)本質性に為されるのみの非情ではなく(それに従い自身性質と役割を破壊へ向かわされる事からも自覚的に抜け)共生や慈悲の意思や方向というものを組み込む転換へも生きられる事が"生きられる"自体の価値ではないのか? つまり各自の必要や流れの必然性(へと近付く意識や努力に依りても依らずとも)に従い生く事と同時に目指し自身へ取り入れる事も出来るかもしれぬ慈悲や共生という根拠が見つけられれば(それが正しいのか分からぬとも人間的心には、そう感じるというだけでも良いのかもしれぬが)破壊も創造であるが自身には破壊を生まぬ自覚的な最少ともの適合点を取り入れていく事も出来る方向ともなるということ。

愛と慈悲で分かち合えば支配も武力的対抗という交流もなくなっていくが現在状況の世界や人間段階においては武力や搾取力へ対向し守る為の防衛必要や自己責任を負う事などもが生じてしまう(netを使うならばsecurityせねばならぬし、車に乗る便利を享受する代わりに自分の為にもベルトせねばならず、ドライブレコーダーなども管理や把握される道具としての販促でもあるが証拠と防御の為に、そうした可能性が分かっていたとしても自己の選択によりて導入せねばならず自動運転も全体最適解だが、そのせいで殺される犠牲者が出るへのクジ引き状態であるを理解した上で使用されねばならぬ)ようにも便利を使用できる権利の代わりに対応の責任を追わされ、必要が新たな必要への要請を呼び寄せる状況は、武力や人為破壊性へ対する防衛,交渉などの力を必要とする事や謎が謎を解答が問いを生み起こす科学的発見のようにも技術の進展が更なる自縛への自己選択を生み出すと同じく、自身への必要が新たな行為と因果的な連関を生み起こさせてしまう事へも(それが全て間違っているとまではいわぬとも)慎重に立ち会い感じていく事は必要な現代と今後への判別的な生存と知性使用の方法でもあるとは思われる。

しかし、人を疑わないという楽観,信用性(究極には自身他者同一の信頼への魔術でありても)と同時に、悲観に想定し楽観に行為するというように防衛の為にも二面性の組み込まれた人というものを知るが故にも疑い信じない事は大切であると同じく、安全保障が安全を保証せず戦争抑止への経済的繋がりが戦争を起こし参加を強制させnetも車も家を持てばにも財産へのsecurityの為などの便利さの為に対応が肥大する。 不便や手間を減らす技術が新たな手間や無駄や不便や問題を増させているようにも、人間の抱える肥大の問題をも直視してからによる解決への道へ向かえねばと思うが、では例え(そこには問題や犠牲が含まれ、それは自分へも来たるかもしれぬに責任も持ち行う為に)自覚していたとしても便利さが故にも導入する結論や行いが一緒であるのならば知覚判断は一切に為される必要がなく他律操作へ流される事さえが正しくなるとも言えるのか? 自己を減らす事は即ちが全体主義や他律ではないが、そこへも用い得られてしまうものであるによって明確に区別された生存方向の示し方とならねばならぬという事だ。 私はそれら一方面をしか映さない聖者たちの知恵や言及に対してもの(例え彼等が正しく又は私には真実を解くも説くもの能力が欠如しているのだとしても)問いの質と方向を挿し込み示す事は出来るというような役割上の分担なのかもしれぬ。

私などは特に、他に何もが出来ぬように偏った存在だが全ての創造や存在や行為には(芸術だけでなく)その創造の質が問われるというようにも、その生存の質の基準点が問題となるだけで(例え各自生存の全段階が役割を果たしているような運動でありたとしてもと同時に)、為され表われてゆく質の優劣における格差,差別,分離,は有り得ても当然の良しであるのかもしれない。というならば、しかしそうした理由の延長や同時によりてもの優性学の復権や、又は人類の分化は避けられぬようにも見える。

それは、やりたい事を為すのでもなく存在にも行為にも内容の質を問いては向き合えという判断性であるによりて、しかしその者の質を行いた内容によりて判断,評価,格差付けられてしまうへ繋がるのでもあるという事ではあり(sportsや学者などものprize者を社会的称賛や、その基盤ともなる経済的基準に拠りても取捨されるように)ではもし例えそうではなくとも潜在的本質による数値化が起こりての格差や優先的な判断ならば良いのだとしたの(良くないと思われるが問いの仮定である過程として)ならば、しかしそこへ点数付けられぬ人格などへは点数を付けずに潜在的深さだけで判断するのだとしたら(彼は囚われによる問題が大きかったからとは言え、天才ではあったヒトラーのようにも)破壊的役割者もこそさえが良く承認,放置され又は潜在的に深く高い対抗者からの対抗が生まれる事や、その対抗や先導,扇動に拠りて動かされる動きとなるに任されるしかない事へもの容認となるしかなくなるのでもあり、そうした現実における決定や尊重への判別を持たすならばの対象としてもの超人とも言われる者への基準は、知能,身体能力,経済,政治力などでもなく又は人格や性質(の宿る職業,専門性)も問わず、また愛の深さだけでも計れない潜在的本質性と同時に愛や共生,慈悲などとの混合に指針付けられた基準が問われなくばならず、そこには破壊的不平等などは組み込まれないでもあろうとは楽観に過ぎぬ範囲で予測する。

それでも支配層における芸能者の取り込みや尊敬とは、全般的優秀である人間集団の群体だけではない偏った優秀さという多様を挿し込む役割が有り得るのかもしれず、真の尊敬ではなくシステム設計上の必要や変数のようなものであるのかもしれないと 共に芸能の役割とは消費的娯楽材としての生存を許された奴隷的な従属というように必要とはされるかもしれぬとはしても、彼等の社会に僕のような御せぬ(又は悲観的な)者は必要とされぬだろうし、故にもし生き残る側へ誘われ入れたとしても、それは私の望む状況ではないと理解もしておこうと思う。 ならば電子的生命化への優越の権利が家族にも付与されるという条件を出された場合にも、それを私は受け付けず分化可能性も適用せず地球的生存環境での(原始時代的な退行と悲惨な人類の歴史の繰り返しの可能性もの中での)生存や又は地球と共に滅していく事などを採り、家族の生存意思への強制さえともなるべきであろうか?という問いもは有るが。

又、もしかしたら電子的生命化の特権者の選別とは、そこへ利用された者たちの行き場なのかもしれず、0.1%程の支配層は身体を共にした価値を自分たちは知り独占享受しようとしているかもしれない。 そして又sportsの奨励はカタルシス発散の消費材としてだけでなく(現在の兵隊なども既にそうだろうが)一部の特権階級入りの他の大部分をゾンビ化する遺伝子発動の機会後において破壊力の大きな者へ生み出す為にも利用されて(その駒である各自は、そんな事は知らず各自を一生懸命に行っているだけだが)いるのかもしれない等の可能性もを検討,推察していってもみたりする。

では、生体的な遊びを持てるのは現在でも環境はあっても登山家のみが高山に登れるというように或る意味での(それが出来る身体への特価条件を充たせる)特権階級のものとなり、その同時的追体験も(sportsと同じく)を含めてvirtualな世界で過ごす比率が普通となりゆくのだとして、Aiや電子的な又cyborg的な融合だけでもなく遺伝子,vioでの改編が進むcyberneticsや拡張の方向が(全て悪いわけでは勿論ないが)肥大されていく中での格差(差別や優位性だけでなく単純に分化した性質の異差でもある)が膨らんでいくかもしれぬであろう中での有機的生命や生体性を保とうとする変化への抗がいの価値とは如何であるだろう?

もしくは生命連関の織り為した既なる奇跡や遺伝子改編の危険性(作用の出方の制御の難しさからも相当に慎重にならねばならぬ)が理解されることで、又は技術やvirtualの進展によりても格差は補関されたり血の優性性が必要なくなる可能性もあるように科学や技術の進展(又は可能性欲求と挑戦)を恐れ排除しているだけでも違うのだ。

身体は不便であるし、生体へ囚われぬとも身体の活動性の中に(獅子や巫女の舞い等もの芸能や馬,船,弓,銃などがレジャー性も自然界との五感的な交感による共生への働きや衣食住,手工業にある事なども)宿る歓喜に生きられる人間の実存的価値(実存というのも本質的な実質存在という意味でも僕には使われる幅広い言葉だが、ここでは原義の現実的存在のこと。)が私には感じられ、そこでの自身性質を伸ばすような楽しみにも生きられる事での歓びが有れば良いと基本的には思うし、この生存自体を用いて神性や本質とも交流していく事が簡易な又は直接な超次元的存在であるのとは違う歓びであるとも思うが、技術や電子化されていくによって直接的に高度,上位の階層段階へ至らせていく事が悪いとも言えず、それはこの存在と意識のみにも仏性は開花し得るとは言えども能力や資質に依らず誰もがゆける平等を生み起こせるのであり、ではそれを強制されたとしても自然界との共生だが資源を使用し奪う事で成り立たせて来た人間的営みによる生活体から離脱してゆく非生体非自己全体の意識のみの次元越境存在へ向かう事が(それが例えrealでなきvirtualだとしてもreal世界もvirtualな脳の感特でしかないのだからに、新たな認識,知覚のリアリティへ融け移行していくは)何故に違うと云えるだろう?

そしてartistだからといって存在としての創造質が高いわけでもないとも同じくしてspiritual系であるからといって人間の質が変わるのでもないように浅はかな地点での判断や思い込みに進んでいるのは同じでもあり時代が変わっても人間の質根底は同じ事を繰り返している。 そして迷いや生の苦しみの中に生きていかねばならず役割と 段階のみが行われている制限生命であるという意味には同じであり平等だが、あまりにも動物的で愚かな人間。という価値観を(正しき把握としても持ちてはいるが)認めてしまうならば、そこには優性的な思想も宿りてはしまう。 それでもその生存や方向能力にも関する、生きる事への基準や質の判断は、現在の経済支配基準から転換する為にも、例えそれが新たな格差でありたとしても支配と搾取の奴隷化でないのならば分化されていくも良いという存在や創造方向への必要ではないのか? 如何に本質を見い出し本質へと生きる事が出来て、それを如何に示し分かち、どのように何処までを行為,表現,するという強制,操作しても良く、もしも進歩と世界への必要であるならば格差,優劣,分断が生まれても良いのか?などへの答えを発見する為への理解担当の生き歩み方である私は、しかしせめて苦のなく心にも現実実際にもの輝きを持ちて、生かされていきたいとは望む。

私と全ての光と愛と真の幸福と最高の歓びが、(自然に自由に完全に)為され果たされ叶えられているへの味わいの(感謝,充足と交感)存在に調和と共生と開花を開く、私と在ります。

そして抜ける先とは、生存なくしての電子化などではなく生存のままに享受され更には、為されるままであるが上位次元の連関やオーダーに遣わされるのみではない自由存在であるへの方向を私は想う。

そのように私は、真の到達と超越へと突き抜けていきたい。


1/6
何が自身のArt~詩~であるか?のみへと、その質や慈悲の意識が持たれていたかにも拠らず、何が良いかも何が調整されたのか等もの判断がなく只、流されるだけを受け受け入れていくという在り方を映した一つの表現の在り方に、たがも外され覆される経験を与えられ持ち得たように、どの真実も私は疑い自身に見い出された全てが自由で創造も破壊も一体が在るのみである肯定自在の上の(又はそこへの過程での)慈悲や共生を、愛や本質にありての質や方向として判断もするという正しさの基準付けへの発見による真実への歩みと進展も又も自身へ覆し続けては深められて来たように歩むのだ。

意識を済ませ減らしていく事は日常と私にも取り入れているにより言語的立ち会いへの過剰側面だけではないが、世界の出来事による情報識別であると同時に、その意識に澄むへ進みてからにも出て来る意識をも繋ぐ、流し去り忘れ捨て流れの連結を書き留め置きゆく同時在に在るを往く。(逝くという表現は好きだが最近は、やはり一般的語義として生命の継続によりての過程を行きている様は往くなど、なるべく他の語にするようにしている。)

(1/7)
自意識ばかりが高く(確かに高いし、それとは個人を持たぬ社会に生まれ育てられてしまった故の反動的な現れであるに過ぎぬのかもしれぬけど)て、世を批判しながらも自分の創造へは為して来なかった人間と思われてしまう判断の形を受けるかもしれぬけど、これでも僕は為そうとはして来たんだ。 (個人よりも他者となり易く現実性に絡め取られてゆく風土的な性質は、個人の性質や責任だけでもなく国土自体に有るとも感じられる。)

そして、良い表現が出来れば自然や本質へ自身を思い出させにも行くと言えるが自分に自信ないによりても日本から逃げる為などという一端面での表現をしてしまうし、フラフラしていたいだけというよりは表現は放浪などとなったが、それも自身を積極に歩ませているような肯定性での言葉とは示せていないによりても他者のイメージや感情の生起に対して、上手く伝え渡す事も出来ていないのだろうと思われる。 それは日常面でもの部分だが、母など話しが基本的に出来ぬ相手へ簡易のみに表現する機会には短縮され説明をも経れていない言葉を一方的に(流通が出来ないのだから伝えるだけしか出来ない故にも)放ち置く事しか出来ず、それ以上の説明を断念し、それにより理解して貰えるかもしれぬ可能性へも断念して、聴かぬ相手には話す事も出来ず最少を投げ掛ける以外には方法もがなく、こちらの話しを伝える機会さえも奪われており(相手が自分の想いを伝える機会くらいは有りても良いが、それも大概には用を得ぬ言い訳であるにおいて)話しを聞いてもいないのに投げ返された相手からの言葉は聴く価値もなく(幾ら意識は赦しや愛となるへ向けるとしても現実具体的に、流通できぬ相手とは流通の努力も、その手段もがなくなりてしまいているのだ。 それは相手を変えようとする努力を持たないか等の以前に決定的に流通不可能で言語的伝達の以外にも具体や必要(凄く必要なのではなくとも、共有できれば生み出したり折り合えたり無駄を相互や全体の利益にも避ける事も出来る)への共有が持てず、そして変わらず多様の共存,相乗ではなく異質さの対立しか持てない、人間現実の愚かさを突きつけられ続ける事への絶望感や現実的不利益を受けさせられて交流も創造も無駄でしかない事が目の当たりに現じる事への対処不可能性に対しての惑いでありて、彼等の弱さを認め赦す事という心の変換価値や方法とは別(勿論、同じである面もある)の事として対処されなくばいけぬ面であるのだが、そこへの自身の為し方は、自分に行われた事は相手の出方へも返り変えていく事もあるようだ。という現実的側面での成果や行為への実験でしか確認は取れていない。 そしてこれも自身への(他者関係に裏打ちされて来た絶望感にもよる根拠の有る)肯定感のなさとも同じく、どちらにしても人間の根底は変わらぬし自分が何かで関われても世界や人を幸せにする事などは出来ず小さな事しか関われないという、(自己制限というより把握,再確認されて来たものであるように)私には無限の可能性存在でもある奇跡自身の行為であり世界へ拡張された一体の自己を為している意識の変革者である自負と同時に、何にも意味がなく変えること等もは出来ず(謙虚に変えようともせずという意味では価値だが)大それた望みなどは持ち得るべくはないという諦めもが共存している。 それを排除せぬとも、一体の働きとして運用し統合の境地と歓喜へ至りゆけたらば良いのだが。

そして私は直感的な知覚拡張のような状態での行為や存在と選択を持ち得てもいるが、情報を或る程度に揃えてからの検討を経過せぬと納得出来ぬ面も持ち、そこには時間労力も必要とされてしまうが私にとっては必要な要請であり、その併用可能性の実現への実験にも行われているようなものでもあるのだ。と、現実世界との適合などを無視しても自身のみへと突き抜けてさえしまえば良いのだとしても僕は全てを救う理を探し求め続けるように、両極を併用しながらに統合されていくへの道の発見と道の自体を現在にも自身へと為されては歩むのだ。

この国の性質は超越ではなく軟化させる上で思想的な実践への結び着きは精神性なる価値と日常へも収束するように、地域各部ごとの性質に育まれた、それぞれの在り方を往くにしかないのでもあろうとは思われる。ならば、その統合の本質的基準の運用へは至る必要もないというのか?

捨てた自由とならねばならぬという真実もあるが集めた物や培い創り上げた愛着の故にも捨てず、あくまでもそこへ残りての生存を活動するというしがみつき方もが良い人間的姿であるように、その動物,物質的本能性というものを生かす方向ではなく、捨てていかねばならぬのか?

技術や人為,人工的な改編,編集の効用と危険性の折り合いが採られていく為にも、その規制や抑止や人為の法(複雑化)と執行力などもは必要ではないか? 思想は背景とはなるが新たな利用や反対方向への萌芽の種ともなる可能性も知りて、それ以外の方法や(言語,伝達なき事も含めて)伝達を如何に持つへ試すか?(とは囚われに拠らずとも私の性質(性質が囚われへ転化するへ注意は必要だが)における自然が涌いて来る創作への問いや実験である。)

この生によりて見い出し自身で獲得されていく進化への過程の価値もが必要なくなりてゆく事は、苦の成長や動力の糧としての必要もが捨てられていっても良いように、認められて然るべきなのだろうか? 又はその変換されてゆく先が、依存なき又は依存でありてもの享楽,快楽,利便,効率性にもよる人為,人工,電子的な方向への変移でありても又は宇宙の小市民的な自己文化内だけに充足した自然共生や変容意識伝統などでの快方向へ集約されてしまう事もは良いとも言えるのだろうか? その全て良いと言えるだろう中で、あらがう事も出来ず流されていく自然の必然と決定だけがあるのかもしれぬとも自己選択へ関わる現在的な生命の置き方としての方向性を見い出し問い示しゆく事は必要ではないかとも感じられ(所詮は限定的な知覚意識だとしてもに)思われてもいるのだ。<(以下一段,1/7の日記より),
(ちなみに、最近見るようにもなった車のナンバーは今も1001に次いで17が来たというように、それは常に多様が現れている中で自分の意識に引っ掛かったものだけを選択しているにも過ぎないが、そこにも何か連結の意味が起こり行われているのかもしれぬ潜在意識からの気付きかもしれぬにおいても一応(未来の判断に任すとして)は記載しておこうというようなものだ。)>

というようにも使え都合が良い言葉である(又は本当に更に深い層での世界と私意識の一体が有り得るのかもしれぬとしても)潜在意識という発明とも同じく、私たちは全てを説明し得る言葉を求めると同時に、そうした意味付けと一面の理解へ依存するへ吸収されてしまってもいけないと思う。 それは科学や発見が進んでも同様のものであり、自身によりて全てを知覚する事は出来ぬとも自身によりて立ち会われ何か真実と思われるものの一面や言葉やイメージへ取り込まれ利用されぬ事は意識されている事が必要とも思われる。が、そうした個とは表面的に行為する一総体としての突出の場のみのものであり、そこへ繋がり起こす一段深い層においての集合意識的な分化,結合,統合の働きのみが有り持たらされれば(個人性にとっては関係なく非個性化されてもに)、それは勝手に働いて結び着け潜在的な流れの繋がりへ接続されて生きられる従うのみの個人と個の選択不要となるかもしれぬ事もが、しかし何故幸福でないとは言えるのだろうか? 自律意識によりて気付き味わい成長しゆく効用は有り得ても絶対必要だとは言えぬのだからに。 (それが、Agiが意識を持ち制御を離れるか?や個人が吸収され形を失わせてゆくか?や、brain interfaceやvirtual界との融合がどれ程までに進み、そのような仕組み~system~が試され発明され組まれるか等にも拠らず(遺伝子的変容などの問題もは、こうした個の性質の問題とも同時並行に進む事も有り得るが、一端そこも置いておくとして)とも進みてはしまう当面に起こり得る思想的対処事態の設定ではあろう。

つまり自身は潜在的自己へ繋がり深める事もがなく、深い層(どれくらい?かは技術の進展による)に繋がった全体が集合的集約への連結運動による現在最適解を勝手に行い起こし、その選択に従うのみとなれば良いのかもしれず個の役割とは個別性質のprogramとしての多様に置き換えられて運用される、そうした相対の運動や作用をもたらし取り込む働きとなるだけのものか? であれば自身という生体上の個は私を失い電子的作用の一端へ融け込んでいくか個性を失い従いて生きるか個性のままに生存しながらも従い生きるか等の様態しかなく、そうした潜在や自己本質という基準,上位概念の自己設定によりて導き出されたものに支配された上位自律による他律生とならねばならなくなるかもしれぬ。という思考実験の内容は如何にも現在の進行に対する必要項ではないかとも感じられながらの私が作業ではあるを生く。 (問い書き整理しては置く以外に分かつ事もが出来ぬが現在ではあるが。)

しかし例え真実に近いと思われる現在の解を見つけ出され、幾ら人間生体にとっての幸福や本質性へ留めようとしたとしても既なる世界には(絶対ではないが多分)手工業の時代と歓びは一部の者の以外に取り戻されないように、自然性質としてもの人為的肥大の傾向を宿す人間の(単体での)動きの今後もの進み方は、もしも一端に止められ転換させられたとしても意識が変わった位では、極性の種子は内包され有り発芽可能性が有る故に取り戻せず(又は人為の意思と操作,支配を越えてしまうかもしれぬ故にも)自個,生体を失いゆく方向への進展や融合は止められず、そこへのalternativeな選択や提案など(無意味ではなく分化後にも他の可能性を残しゆくかもしれぬが)は少数の対抗力にしか過ぎないと諦めた上で、ではそのような技術化進展への逆張りをゆくか又は技術使用と段階的進展の中で、せめて良い方向への変化へ関わるか?という選択の違いと行き先の持ち方の発見や自己納得を持たらさねばならぬだろう。(単純に、これが真実だ。と感覚に従うという在り方が全くに駄目だとは言わぬし、そうした者の歩みは結果にも正しく楽観的選択の性質は幸福を持たらすかもしれず、こうした発見と把握,知覚,理解などにもよる納得や選択など情報と同じように不要なものとして排除され、必要となどされていないのかもしれぬとしても、私の歩みには必要だ。)

そして生体も自己も成長への生存と気付きの過程を生きる意味や価値も失いてゆくが良いのだ等と例え分かってしまった、もしくは納得せざるを得なくなったとしても、だからといってそうした恐れにも又は希望にも洗脳されず、私は何が真実かを見い出し引き上げる事へと諦めぬ一生命の(現在までの)形ではあるが。

仏陀が言い残しておいてくれた価値と世への贈り物(その発展経過たちも)の恩恵には浴せるが彼が言い置いた、"変化せぬものはない","自己を捨てていく"等もは生体を変化させていく進化の方向などにも寛容で又は解釈利用もされ易く(勿論、天上天下唯我独尊や犀の角のようにも自己を拠り所とする指針は遺してもくれているが人為的な抽出や読み替えにおいても)、この自主や生体の必要なさは他律や全体へ従う方向を創起させたり動機として使用されるかもしれぬ、やはり此処にもその種を含んではいると見られる。 究極の到達段階や相にも結局は反対側面もを含んだ質の違いや(全てが内包されているによる創造的破壊も人為の破壊も人為と自然も区別は出来ず何にも判断は出来ぬ)極面への利用が有るように、例えそれが究極に正しくとも疑い(真の到達以外にはendlessだが)如何なる権威にも従わぬというような自我の作用にも意味と効用があるのだ。 (これが私に起こり、私だけのものではなくなるであろう相極面による統合への動きと知性や知覚の使い方、でもあると私は思うのだ。)

全ては愛であるという中にも自己を最少へ向ける事にも又は自己を行えという方向にもの全てに反対への作用可能面がある。 それは、一端での真実を真実と思い込んでしまう人間の性質や意識の現段階の故にも浅き一端での解釈へ利用,転換されてもしまい易い(現時点での愚かさだけではなく内包された性質であるにおいても常に発現再起されて来る可能性が有るのではあり、例えそうでなかったとしても、その可能性を含み込んで考えておいた方が良いようには思われる)ものであるにおいても、これが真実であるとは絶対の真実に至るまでは、例え真実的な震撼に覆され感得され得ようが言えまいと思われ、その面でも私の子供時代によぎり来た"絶対がないという絶対が在る"という考えの側面は(絶対が有るとしても)"判断は出来ぬ","全て自由だ"。という悟りや実感の奥や向こうにも広がる、自己等に取り入れられる真実の側面としてもに価値が有りたと今からにも感じられ、挿し込まれるを待たれている言い得る一つの基準であるのかもしれない。 故にも、肯定と交感(信じず気付きゆけ)へ戻る集約が有るとも言い得るのかもしれぬが。

瞑想的にも澄ませていく実践的方向による知覚性による感得は、だからといってそれが完全に正しいとは言えぬのだが、しかし価値がある意識(や潜在自己本質)への作業ではあると思われ価値は認めると同時に自身へとも使用してもいくが、我々に知覚し得る全ては脳の反応による仮想現実でしかないように結局どれ程に深められた真実に近いと思われる状態さえもが真実であるかは分からぬというのは(虹の身体級に抜ければ、この現実界を超越した真実相が知れるかもしれぬが、そうした次元の越境もの先に更なるリアリティ(この宇宙を越えた真相)が有るかもしれず何処まで行っても何が真実であると言い得る事は出来ない)吾想う故に吾が在るという命題は(再定義は出来たとしても)未だ変わらず抜ける事は出来ぬのでもあろう。

脳における反応や自己という知覚の状態は拡張し得るし、それが新たなリアリティや実感を持たらす事は有り得ても信じ込む事は(信じる事で救われ思い込む事で現実も化され幸福に生きられるかもしれぬ事まで積極的にまで否定はせぬが違うとは思う)無い。において何もが無いという般若心経は自己どころか救いも道も無いと言い切り活破してくれるによりての全ての実相は空(全てを現じさせる総体現象土台としてもの空間背景という意味の以外にも)にして識の反応にも、それ以前の色の起こるもに本体などは無いと識りてゆく効能が(実際の変性意識などへ入らぬとも知性の働き面のみにおいても)有るとは思われ、それは信仰という委ねへ自己を放棄してしまう事を受け付けず排しながらも自己の放棄と大自在,自由へ融け込ませる両面を即義にも持つ。 ならばそのように両面を宿す真実は伝えず賛同も共同的な共有もせぬというのでもなく、解釈いかんは後の世界と人間たちに任せ段階判断などもせず無責任にも放り投げ、全てが愛と肯定と交感的な生命味わいの歓びであれば良いじゃないかと、単純な真実に寄り添うように行動してしまうが納得さえ出来れば良いというのか?

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自己も真理も疑いて、しかし肯定と交感というようにも見い出され来たkeyword集約の基盤は独覚(junyana)と信仰(bakthi)の、否定と肯定,縮少と拡大,自身と全体,意思,選択,方向と流れ,運命,そのまま,等もの相極性の両輪を用いるという在り方には言え、では禅語に言われ現された祖始をも殺し竿の無き先まで歩め又は和敬静寂というような詩的断片のみの単的さへ集約し示し人間界へも置いておく事のように、結局は日常の各自解釈段階へ取り入れられ見返される事も有るかもしれぬ位の方向性を置いておく事くらいしか出来ないのかもしれぬが、しかし良いものを生み起こそうとしても、その結果は何処に使われ繋がるかも分からず判断出来ず手放していなければならず自身を行い成すだけなのだとしても、一期一会のように日本人の心性に合いているが解釈利用ばかりされて意味を転換されたもの以外には意味を成さぬように、自身の精一杯を行いたのだから後は関係ないと放り出す事とも同時に、愛や生命共生の為に行いた事が全体主義的支配や自己と生体を失わせた方向への利用へ吸収されてしまうかもしれぬを知れる知性によっての如何に何を自分は為すかという自己の責任を取り入れている事もは、流し去っていく事と振り返り立ち会うことの同時,両義の価値として併用された統合性へ向かうべきであろうと私なる生命への形には思われ、どうしようもなくも紡がれてしまうのだ。

そうした感情生起的な実感面としての愛や全てが自由という放棄の感覚と自足の方向や存在の在り方だけでは(それは正しく、正しさの中に質方向の違いとして正しくない事も含み込まれた統合的な正しさでもあるのだとしてさえも)正しくない質方向へ使われてもしまうのだからに、せめて(僕に出来るのは、これが真実だ。と言う事ではなく、これかもしれぬがこれもある。 故に両方を取り入れての統合を目指す。という方向と生き方へ提起,参画する為への説明でしかないのかもしれぬが。)そこへの自己関与の責任の立たせ方として(例え伝わりにくいものにしか成らなかったのだとしても)真理へ近付く為の考え方を示し置くに(他に出来ず、これしか仕方がないからではあるが)自身を歩ませる肯定点を持ち見い出されてはいるのだ。

つまり、これが真理だ。付いて来いというのではなく、真理であるかもしれぬ周縁を巡りながらも、各自の段階そのもの同士によりての歩みの中で気付き生きていく歓びとなりて真理へと近付いてもいく生き方の道としての問い向かう方向性の存在態度を呼び掛けていこうとする意識変革への呼び声となる魂(という生命の根底,本来,自性,流動,全体,本質性)の唄と在りゆく事なのだ。と自覚出来たのならばの故にも流れの凄さを現す事は主目的ではなく副次的産物や空的な自身の本質に触れている事による自然に生み起こされて来るflow的な流れの選択による本質面への示唆であり、ならばそこに示されるものや表れる歌詞的な内容とは愛,肯定,平安,自由,歓び,などと絶望,闇,破壊,囚われ,苦しみ,などのような世界二極面の両方であるだけでなく、全てが渾然一体となった揺らぎの相(複雑系)が顕れているだけであるも良く又は悲苦に寄り添う面だけではなく愛や光だけである統合の基点からにおいて、それとは多様の相を内包し故にそれらは既なる完全であるが、そこでもの質や内容を真の到達の本質,真実へ向ける方向へと歩み、その生存の歩みこそが奇跡であり歓びであり生きる価値である。という在り方の提起へと繋げられたら、それこそのみがもしかしたら私の役割の必要なのかもしれない。

意識と存在が光となりゆくのみへ向かうが良いという方向にも置いていかれ、表面で克服に見えても押し殺してしまい閉じ込めた事での反動の起こり来るかもしれぬように副作用が有り得るのだからにも(そして意識だけで良いという思い込みの力に呼び寄せられているだけかもしれぬようにも、意識と設定をリセットし又キャンセルがけしていく使い方も良いようにも縛られず)覆し又は直接的に観入し深めてゆくだけでなく段階を踏む必要(や直接示唆せぬ事での方便性を置いておく事)も有りて良く、意識だけでも光や愛の方向だけではないという事を、しかし言葉で伝え語るには説明面は必要ともなるが、それを上手く置き換えられぬならば作品への挿入も諦め、この書くだけとなるも良く、では観察的思索者としての在り方が創造へと直接には反映し得ない創造者としてもと二地点を基準としてに立ち在る自身を認めながらに少しづつの転化,融合へ適合されていくへの過程もを試しては往くのか。

創造へ転化され得れば私の為し得たかった自己実現の形にも宿り、それを全くに捨てなければならぬとも(現在地点では)思わぬが、その仕事と役割の分かち会われる創造へ移行され得れば私の為したかった共同や関係も伴った共生世界実現の為の活動や開発や投資へも繋げられるのだからの故にも(それとも自分の然化速度が遅すぎて間に合わず、いつまでも自身の事しか行う余裕などはないのかもしれぬが)それを為し行い与え人類と宇宙の文化的発現を目指した種と可能性を遺し撒く事となるをも望むのだが、その為の金,地位,名誉などが手に入らなくとも私のままに少しづつとも形となりえてもいく(欲望ではなくともの方向の故にも得る事にも囚われず得る事も排除せず)囚われず流しながらに、生と世界の奇跡への味わい生命のみの化され生き方となるへ生きて生かされ、(例えいつも創造の素材ばかりが溜まり自分には膨大過ぎてoutputへ化し生かせぬとしても間に合っている最善的最然性が為されているように)生存を歓びては行われ与えられていく私を然ずるがままの、旅,拠点,創作,身近な関係,心身の健康といったような基軸へとも還りゆく、自然との暮らしが出来得たらば良いと充足へ減らし仏けてゆけば良い。のかもしれない。

こんなにも愚かで小さく制限された私とも同じく人類の歩みも段階を踏むように必然(とは絶対に覆せぬわけではないかもしれぬが、此処では段階性というものも有るという意味で)的な過程を歩み育ちてもいるのだろう。 しかし人間が、それ自体の生き道を自己に選択する能力と同時に決められぬように、私もは中庸にして統合の自身を方向として希求してもいるが、この総体を起こす全体性の流れの内の作用反作用中の一人にしか過ぎず、そこに起こされる事象を受けては対応してゆく自然生起の結果に過ぎぬ私を越えたものに為されるしかないという運命性への、感情故の非情にして、それを味わう事も出来る感情知性である故の歓びでもあるが私と選択と方向の全体と運命必然と流れの自由と縛りや悲哀と歓喜は全て同時に(どちらの可能性も内包しており繰り返し現れる等というのではなく、どちらもがそのままに含み込まれた統合と 完全の既なる状況や全体の様態としてに)在りているのだろう。(という、その統合へ向けては歩み、しかし統合は既に為され在るのだとも知るへ歩むのだ。 つまり二極面や多様の統合は既に全てに含み込まれ為されてあるが、それを知りながらもその二極面の統合へ向かう旅路を往きて終わらぬ過程における自身と生命の気付きを各自のままにも方向として為され、為してゆくという事なのだ。)

では異質だが共有可能でもあり分かり合えぬが惹かれ合う男と女という仕組みがあるように異質の結合や統合への歩みとしても(それは宇宙の相極,二元性があると見えるから等という理由性への判断によりて、その為に設計され組み込まれたものなのか等は分からなくとも、そこへ我々が利用し得るものではある)において、自身が独り一個体の中に両方を宿した統合へ向かう事とも同時に二人(以上の場合も有る?)での統合を必要とし求める意義とは如何に何故に有り(有り得る理由は分かるが絶対必要であるかは分からぬ)交感の為の異質多様他者の存在を利用しての関係共有の遊びと学びの両方による成長は、自己の為のみという名目による全体性(人類,惑星,宇宙)へ自己が利用されているに過ぎぬとしても、では関係以外に自己のみを成長,交感させていく事が成り立ち得れば、それ以上に関係と共有を必要とする意味などは(人間とは他者を求める生物種であったからによりて、寂しさを埋める方面での喜びの為への関係に依存するというという以外に)有るのだろうか?

もっと性の喜びが解放されて良いと思える反面、(幾らsafe sexが進んでも又は、体液交換の不特定多数という不浄観念が間違いであるかもしれぬとも)開放され過ぎても良くないと僕には思われ(これも両方真実を宿す働きであろうが)二律背反的な矛盾も感じ抱えていてしまう(freeでありながら自分の物であって欲しいというような嫉妬へも繋がる支配,所有、又は信頼関係への共同作業を求める欲求へも通じる)中で、減らし抜けていく方向と同時に(どちらにしても抑えつけ過ぎては良くないが)欲に取り込まれ肥大させぬには適度に与えられている平等な豊かさを得るという道も悪くないのではないかというのとも同じく、(そして、しかもその矛盾への課題が解決されぬまま行われて来た状態と、ではそれを抑え込み超克しようとする方向(それが間違っているとも言えず、その結果は超然的な能力や悟りにも結び着く確固とした又は一部の為に気が狂ったり惑いたりする者は救済せぬ最適解の輩出システムであったのかもしれぬが。)にしか、ほぼ人類には行われて来ずに走り続けて来てしまった)欲により苦を作り行い膨らませ続けて来た動きと、それをなくす事で越えようとした方法や到達の以外には試みられず又は到達へ失敗して来たようではあるが、ではその欲と自己をなくした故の歓喜到達以外にも得ることや生命を楽しむ事で、しかし充足や幸福の故に止まらず深め達せられゆく道との統合や併用が(どちらもの真実に対して人々は深く問われたわけでもなく、何となく(感覚的に正しく、そう生きられる徳がある幸せであるのだろう事は認めるし、それらの全てが間違っているのでなく統合された者も居るであろうへは観じ入るが)に減らし欲のない歓びと幸福と言うだろうが、そうではなく)真に見い出されていく事は私にとってだけでなく必要であると(多分)思われては探す。

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奇跡とは既にこの身の中に起こりてもいる、そしてその身体以外の処からに隔てられずに行われ合っている生命現象化同士の連関の奇跡。である事もを言い、(それが如何なる乗数倍などが確率なのかは知らぬが)神や化身が物理現象越えの事象を起こさぬとも、此処に現じている、生きているだけ。での信じられないような壮大な神秘が行われている自身と世界を体験し味わうだけで良いということではありて、仏教は奇跡も捨てろと言うかもしれぬし、又はこのような奇跡に見える連結と運行は上位のcomputer的な状態が、いとも簡単に作り出している幾多にも存在するsimulationの一つに過ぎぬのかもしれぬが、もしもそうした(宇宙という計算と実行装置であり又は宇宙自体が仮定計算の中の一つであるとしても)幾つもの平行現象的世界が同時に行われ又は儚し泡のように瞬間ごとに消えあっていたとしても私等は、その中の儚く無意味な仮定存在の内の一人でしかないのでなくて、そんな無限大数のような可能性の中で現自身一つのみへと結び付いての生を感じ味わいていられている奇跡なのだと転換して生きていく事は(それではそれを越えたものへ達しようとする挑戦や進化が必要とされなくなってしまうが)可能だ。

この身一つの奇跡を味わう世界の鑑賞者として何処にも抜けず越えようと目指さず最少自己での充足へ生きるへ達してゆく方向へのみ生きるが生存の目的と(目的などがないとしても)達成の先であるのか?

又その知恵と存在化の歓びという生き方と方法を、教え説こうとする為のものなのか実際に自分が(常に多数の真実を観じ同時に立ち会い持ち合わせていなくばならぬとしても)到達された実感で、その歓び存在のみの自身に居れているのか?も問われるが、それは現在の私において、そうで在る時もそうでない時も両方が有る中での一つの生存の目標の持ち方ではありているとは言えるだろうか。 では生きて在る事自体が奇跡なのだから生きねばならず殺し奪いてはならぬという方向を持つ事は正しいが、それが自己も生体性などもを捨てるという仏教的基軸の観念(生体は糞袋であり無用なものであり重要なのは意識の純度,深度だけであるという捉え方も)や破壊も判断もなく放り出すという価値観と相対であり対立する間を中間へ取るだけでなく如何に統合的に運用されるかへ抜けるのか? (只、突き抜けているだけではなく、その突き抜ける質が大切だ。 僕はその問いと生命の総動員的働きに突出された世界の(そこに限定,制限されぬとも)顕れだ。)

命の奇跡は科学によっても明かされ感得し易くなるかもしれぬが、私に巡り来る世界の事象を通して見られる流れの必然的に絡み合った奇跡は、自己という観察の方向のみにおいて見い出し得られる。 そして私はそこに触れては生きている。

欲の問題に関しては、老いていけば欲からも更に抜けていかれる人間の自然な様態を見て、(快楽は悪い事ではなく共有もされただろうが快楽が肥大や依存への奴隷化を生み起こすであろう潜在的危険性と反自律性をも知っていたであろう古代人や人間の麗明原始期間の長きにも感得されていたであろうにおいても)その囚われから抜けていく精神の次の飛躍や進展の段階に枯れたような真実性への目標的在り方が感じられ自然と性欲を無くした状態が悟りであると思われて来た伝統的な意味や人間共通への内在化もあったのであろう事も理解出来るし、それは自分自身にも感じられて来たものでもあるが、しかしだからといって唯一の目標到達方向と道の本当か?は問われなくてはならぬだろう。

何故、欲も性も平等に富みながらも肥大させずに済むという在り方は無され得ず減らす事でしか(それは確かに肯定の歓びだが)悟りと幸福は有り得ないと断定し得るか?(生命奇跡の生存を往く事もは、それ故の最少へも通じられるが欲望の肥大へ通じる事が出来る種ともなる故にも、肥大でない共存,均衡をへの動力としてもに向かわせ使用する事も出来る。 これも全ての価値や質方面を宿す一真実側面の方向や使い方のことである。)そしてそれは幸福でありながらも更に真に深めるという方法が次の時代や進展の段階にも必要(何となく波動が変わったから出来てしまった、では真に成長,解決されていない故にも)なのであろうようにも、超越(を自身へ求め歩ませながらも)だけでなく現在や人々(それらも現じられた各自そのままに生けば良く関係なく放棄した自由で在るが良いとしても)へも適用可能な真実と向かい方への適合を為し得たいと思いては進む(そこに結果の意味がなかろうとも)僕であるには生きているのだ。(再確認し続けなければならぬ程に弱く自信もない自身だが、その肯定面を肯定するならば弱き者の在り方を通しての生きる道の創造へ謙虚にも向かいゆき、そして分からぬ内は語らず止まりては考え本質へと問うに立ち会うという本質性には(仏陀の先ずは毒を抜けのように)従事していると納得し得るようにも、言葉では語り得ぬものを私には語りながらも生くのだ。 (歩みは遅く繰り返しに感じられるだろうが更新され続けている過程には、在る。)

制限や節制が修行ではなくなる喜びの体感と遊びゆき方となるのなら良いと言えるのかもしれぬが、制限や節制などによる修行ではなく物質的豊かさや快楽方向が本質性への修行や遊びともなるのなら、そのままにそれもは取り入れられて又はそこへ転換されてしまっても良いのではなかろうか?

それは例えば非生体による交流や脳分野の刺激による快楽などで済ますへ転用できるのなら、欲や本能を抑え込んでは良くないとも言えず(これからの時代に仕方がないから合わせられる面というだけでなく本質的な方向へも適した方法とも成り得るかもしれぬに)良いと言える面が有る(勿論あるだろうが積極的な本質への使用面として)のではないだろうかとも探るのではあり、(反対の質方向と思われる事へも囚われず探求を制限せぬ。 それによりて、これとこれも真実であるかもしれぬという統合の方向へ関する説明や又は断定的な挿し示し方を持つにしか自身のスタンスを取れないとしてさえも、それは私にとっての必要な事。)ではvirtualならば(残虐な殺人ゲームは何処まで許容されるかや制限せぬで良いのか等とも同じく)自己の意思によりても他者からの提示や状況的必要からの要請でありても人工的に(その質や目的が真実的な知覚性や共生であるからといって)改編されて良いのか? 自己選択の自由以外に人為的規制,制限されぬとも良いのか?や脳変容ならばchemicalなdrug,神経接続,電磁波とも融合の生体,遺伝子操作,ナノやバイオ技術などもの全般であり、それはロボトミーや優性学の復権(しかも強制ではなくとも自己選択の自由による)とも、あまり変わりがない中で何処までが許され又は許容せぬとも勝手に進んでしまう流れを少し遅らせたりしている中で、未だ良い方向への働き方が試し行い得るという程度の為に費やされていく我ら人間の生という悲しさと必要が置かれゆくに過ぎないのかもしれない。

そして欲も肯定しての欲と節制などの均衡点を取られようとなどせぬとも、欲の肥大によりても幸福が叶うなら(新たな宇宙の創造主となるなどへも肥大するだろうが)又はその幸福の質もが本質などへ向かわせられるものとなるなら(例えそれが強制であっても)良いと言えるのではないか?

僕らは一度現じられてしまった便利を捨てられない。(それは肯定出来ぬ側面や可能性が有ると知っていても(居なくてもと同じく)スマホもnet購入も止められないように、この前まで親しみ使いていた紙に書いたものも自分でさえも読む気がしないように文章も失われ振り返られぬ既に過去の遺産のようなものであるのかもしれず記憶力なども失いているのだし又はカメラによる防犯や自衛の為の武力とも同じくであり)利便や必要によって既に人間能力を自分と時代がみるみると捨てていっており自己は技術への拡張へ移転されていくのを留められる術は無い。

自衛武力に関しては核兵器などもpresenceを持ち得る手段や現実的抑止力の面としてもの実際効用がある事実においても、減らせたとしても無くせぬし(無くせても鉈は無くせない)危険性がある以上、相互不審や対抗可能性の為の武力保持は無くせないのだから、ではその中で如何に使用し得るものを使用させぬか。という手段への関与を意識の変革だけでなく環境的背景の転換として関わらねばならぬのではないか?

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幾ら僕が高め変え深めゆこうとも、あまりにも違う段階の人たちとの流通は取れないし、感性面だけでなく身体的な感じ方などにもの全く違う感覚を伝え出す表出の方法は行いながらも、やはり手離して関われぬ彼等世界とは触れ合いながらも離れているにしかない。 以前より生き易くもなって来たが結局この国の人々と本当にほどけて気持ち良い関係を常にも在る事は難しいのであろうし、今後の戦争や核被爆など以外にもb兵器(細菌)の可能性も有り得る感染などを避ける為にも社会から離れ例え今後移住し山に住んだとしても人々との交流も難しいのだし又、この国では自立的な生活区域を設け客人はもてなす位の関係は持つようになれたとしても監視はきついし自由にはいられないのだから、やはりこの国での生存の形への種なる場所を今から作ろうと思うより、国外での生存の場(同時並行できるなら、それも良いが)を持つへ方向は移し逃れる事が良いと分かってもいる。

しかしどれだけ本当に共有者や家族が着いて来てくれるかは分からぬし(身近な者との共有が得られれば守るものが増えるが)子供たちと会える為にも近く(長野)にとも思うが。

今までは僕の+1に相手の-3で僕が+7反応し-10の結果となる事が多かったが、今は僕の+0.3に彼女が-1不機嫌なったりするへ引き寄せられるので、戻って来ようと伝え0へ取り戻す作業をせねばならぬのは小さな原因と小さな問題の少しの労力での解消ともなれて来ているが僕も関係労力に疲れてもいるし-1へ引き寄せられるのが直らずに、ずっと続くのは困るとも思う。 それは僕の側と彼女の側の引き寄せ合いの対立の事ではなくて良い方向へは引き上げていかれたらと思うし、その為にもの阻害と無駄の悪循環性や停滞には居たくないという事の提案と関係作りの方向の事でもある。 (ちなみにこの+-9は右左の軸性であり良悪の事ではないし、+0.3とは僕も寄せているのでそれ程に気分悪くしたり膨らませる点でないとは思う故の非対称ではあるが彼女から見たら0.5かもしれぬし僕からは0.1位のキッカケに過ぎないと思いている故にもの間をとっての概数だ。)<(1/7の日記抜粋),
最近の僕は女性は女神で尊敬し自然にlady firstする等の過去自身よりも(おい、お茶。と願うような)亭主関白,良妻賢母のように、僕の為へ尽くし支え尊敬し(合い)てもくれる人や関係を求めるようにも変わって来ている。と感じてもいる。>

認め受け入れ、僕だけを愛し支えてくれるような母性を求めているも認めている私の、それは現在までの関係と経験に疲れているからでもあるが、こうした最近の良くなって来た状況の中で感得されもする元々からの自分の(何が出来ぬという事にもの)弱さにある事も感じてもしまうが、それでも出来ぬ事は行わぬ私に在りて良いのだ。 性質には人それぞれだが、何を行うべきという方向の成し方からは抜けていくが良いと思われているにもよりて。

そして弱い方へ流れるのは、そうした本質統合の側面としてだけでなく開発の労力を持たずとも待ちて先進技術を享受し得る側という在り方も(それだけで良いとも思わぬし、それは徳によるというより各地多様ごとの環境による役割分担であると思われもするが、無駄な破壊過程は省いている)良いであろうように行わぬ価値というのは、そうした形の部分にも有り示せるが、では弱く行わず楽な方へと入り在りていくのは手工業どころか料理すらもしないような簡便な生存の過程に吸収されてしまいかねない側面部分もは有る。 そこにもやはり、減らすや愛などともいう一つの事象に対してそこだけで良いとは言わず(例え表現が上手く出来るようになれたとしても)その質の内容や方向に言及されてはいなければと思う。 (そして料理の必要がなくなっても、火を使いて調理するというように手間をかける事で立ち会う生命に在る事は絶対の価値ではなくとしても人間的喜びの価値にはある。 利便さにとって代わり過ぎ去ってしまったものは取り戻せぬが大体でもあるが(それでも共生という関係を外してしまってはいかぬ事とも同じく)では火と手間も持たせた交感の形のような価値を(失うべきでないと制定などせぬとも)私には持ちていくのだろうとも思われるのだ。

自分に為せる事は行うという事の内容についても、精一杯に為そうとするを目指すのではなく(結果そうなってしまう仕方なさは有りても)、なるべく引いていく中での関与であり(言い伝えようとし過ぎるのでもなく)慈悲を持ち、自分のままに出来ることは行いながらも放り出していくという在り方である。それは例えば世の噛み合わぬ対立や議論へ挟み込める対峙の置き方はほとんどなく又は言葉を挿し込んでも良いが聴いている静寂が基盤ではありて、そこへの何か価値へ伝わるものを与えられるか等は試すも良いが、まぁそれら偏りた方へ引き寄せられていない方が良いと思うよという転換へ(誤魔化しているのではなくて)動画や音楽に宿る本質性や素晴らしい学び的な恵みを紹介し流しておく位でも良く、それ以上は自身が音楽で踊っている。という程に、自身で楽しみ放棄し在れば良い。

自信なき自身である故にも創造や私の創造に宿る価値への納得を見い出そうとしたりもしている私であるが、人に伝わらぬ価値であるのかもしれぬとも又は限定的な歌詞や旋律の創作品であるとはしても、しかし此処には各音種を一人で完結出来てもいるような最少の創造性を表し渡していけるという意味でもの既なる価値が在る事もを自己には把握する。

自分で見返されず他者へも分かち合えるものとならずとも、これは書き遺して置く事で、未来の評価へ託しているような為の作業。 もしも一部だけでも書き換えられただけで全く違う意味となりてもしまうかもしれぬ私の文を、それでも残し置く以外には(朗読録音への転化は可能だが)出来ないのならば行うが、その可能性も示唆してはおく。

167,12/17,

167 12/17

私の生命とは与えられて味わう既なる消費材ではあり、苦が実際になくとも私と世界を助け真に救い下さいと意識転換しているのみでも良いが、しかし苦なき享楽的消費だけでは、此処まで来れただろうか?

苦の絶対必要かは断定できぬとも効用には有りた事も確かだと改めても思うのであり、しかし悪を生み出して何が悪いという開き直りと他者にとっての悪いものを為して良いのかという狭間で葛藤するような生命状況には生まれ変わらないところまでは進展できている(絶対かは知らぬが)自信は有るように、そうした修羅を生産し繰り返す影響への関与からは例え生まれ変わっても抜けていられる私ではあろう。 それは私を越えた流れによりて成された私というもの自身にもよりて辿り着いては来たものだ。 故にもそうした苦の生産へ関す衆生と生き方への慈悲を持ちながらも、そこから離れられた努力の成果であるを受けられる幸運をも祝ぎ感謝している事との同時には在りて、共に惑わずとも世への苦を滅する祈りと祈りも意識の働きも手放してもの一体と在る存在からの関与,行為体としての私と世界を同時に眺める私には化して在る。 そして故にも苦は必要とされる場合も有るし必要なく生ける場合もある、各自ごとの(段階差別の判断ではなく)必要が現じられていくのみなる連関に、此処でも委ねられていくしかにはないのだろう。 故に未来の可能性における苦を滅してしまっても良いのだろうか?へは(苦を人為で生み出す必要もないと同じく人為で変換させていく事も必要はないとも言えそうだが)、その現じた意識や状況には拠るのだろうというのみの事か。

苦もなく苦をなくす事も、その道もない。 そこに至れば、(そこへの成長の為に)苦を必要とされることもない。へ抜けて生きてゆく事もが出来るのかもしれない。 何もが無い上で如何に生きるのかではあるが、その行為の質や選択判断への受け方は、なるべく最少へ減らしてゆくという自由性の道は既に私には知られ目指されているようにも無という方向性は意識の澄ませ方とも同じく、では本然の(潜在的深さや根底と共通でもあるかもしれぬ他の次元流通性)自身に近付き至りて(途上にも)からの欲求とは何を如何に何処まで取ろうとするのかとの感じ立ち会いの中でも交感されていく自身均衡や適合の中にも育まれていく選択はそのものが手段となるを、生きていくもの既にが良いのだ。

この分別と社会関与方向の私もがいるのは良いとも思うが結局ひたすらに行った判別と結合の観察の結果に見い出せ示し得るのは結論(としての私は持てない)ではなく、その方向性であるにしかない私ではある為への道と歩みの労力活動を行い続けなくばならぬ自己性質と制限の縛りでもあるが、又はその限定自己と到達地ではない事を自覚して現在の結論性を(もっと自信を持ちて)これで良いのだと言っていられるようになるか?の、どちらかでもあるだろう。 しかし偽ることなく、現在の自身に見い出された一つの方向性でしかないという自覚の故の謙虚さには在る必要はあるのだが、それもはやはり、その時に感じられていく立ち会いの中でのバランスの問題だ。


そしてではその自身に至り来た状況や段階に拠りては、流れが全て合って来るのか?もは苦と現実化が如何に有り得るかと同じく自身の状態に完全に規定されたものではないとしても、例え世界に苦が充満していようとも苦も因果連関も全てが無く全てが良いと眺め自己意識を減らしていける事で苦の事態からは減らすへ抜けていけられるように(悟りておらぬとも流れに合い現実化を呼ぶ事も出来るし、悟りていても苦の現実が起こり得ないとは言えないが)そうした自己へ変換されていくによって流れには現実もが照射され差し込んで来るように意識が最少限へ減らし澄んでいるならば(全ては澄ます必要もなく既なる完全だが、それ自体となる意識に渡るには澄みていく過程と結果両方ほ必要がある。 故に、あの禅話においてもの悟りとは一方でもありて真の境地とは、どちらもがあると言えるね。の柔らかき包括だ。)結果としての流れにのみへと為される受け取り方へ触れている事は出来、それが人為の無駄を排した自然(全てが自然と最善だとしても)に起こされていく事が出来るという自身化の価値と方向ではあると言える。

その故にも流れに乗り繋ぐという意識方向と交感の手段は目的自体ではなく、しかし目的に達した事から自然に現れて来る結果へ至る為の手段ではあるとは(これも繰り返され得られ来たものであるが)言えるが為にも、流れに乗りているかにも囚われず全ては流れ(ではないかもしれぬが)であるにも関わらず、しかし人為を減らし意識を澄まし結果としての流れからに流れ出されて来る流れに触れてゆく手段への交感においても、最少にして受け取る世界の感じゆき方という方法と方向が持ちいられていくが良いと感じられるのだ。

その次元を越えた流動同士の連関が全体に渡る決定もしく揺らぎでありたとしても、その流れを書き換えるへの自己もが絡み合い起こされる流れには書かれている連なりであるようには感じられるし言えても良いとも思われるが、では量子状態により発現される現実マクロの状態や意識への連なりにおいての作用は起こりているとは言えても、その意識の潜在的根底が実在し更にはそれを生み起こす量子的振る舞いからに通じ規定され連携されたものであるか?は未確定,未証明ではあるのであるも知らねばならず、つまりは物質を生み起こした色によりて意識の状況もが発現,連結されていく自動現象性において意識は量子的状態の揺らぎや連関に規定され繋がっているとも言えるが、かといって故にその潜在的根底という層段階もの全てが量子的段階からの全決定であるか等とは言えず確定もされておらず又、例え意識の全段階を量子流動やそれを行い起こすもの(全体ではあり自分でもあるのかも)の関与からによって規定されているのだとしても、ではその意識に(深く達することに)よりて可逆的に量子的状態の現実化へ関われるか?もは分からぬのであり、そうした力は想定,推測は出来るが例えその書き換えが為し得たとしても、この世の全てが仮定に過ぎぬかもしれぬように、やはり証明されてはいない経験的な(それは今現実での、それを作り出す自身と納得においてもの感覚的真実であるかもしれぬとも)実証性にしか過ぎない。

では量子的な連結からによる物質,現実化にあるマクロな結果としての臓器や世界の現象や環境にもおける脳的機関への統合,集束の状態における個別化された(粗雑で仮象的な、とりあえずの総体であるが自己という奇跡でもあるもの)意識に知覚感得され起こる連結は、世の流動を起こす流れからに或る程度や完全に規定されていたとしてもおかしくないが、その集合無意識的な全体の共通根底に渡る渾然で精妙な意識の状態(が実在しているかも未証明だが)においても全規定であるのか? そこに触れれば人類やそれを越えた全体(というものが何か?という把握も必要だが)生命の根底普遍に渡る全体意識への書き換えや関与へ加えられるかと、そこからの現実化は有り得たとしも、それが即ち量子的状態を書き換え関与したという事にはならないのであり、例えば意思の力が宇宙のforceへ通じ物理越えの超常的現象を起こせるか等もは(想いによって現実化を起こすと見える事象も、各自に見えた真実が真実と思われるという仮称的宇宙だけでの真実であるかもしれない。)同じ問題であるのかもしれない。 そしてしかし、潜在,共通,源流,普遍,根底的な集合無意識へ触れた状態(と、そこへの責任を為し得る段階者)には可逆的な量子の連結への状態へ(数学的な見え方や経路である計算に依らぬとも)、つまり総合意識や意識が生み出す現実象への関与ではなくて意識を生み起こす物質化自体への現実象化(意思による物理状態の変化や利用)というものが有り得るというのか? 有り得るとしたらば如何なる機構に為されてあり如何に触れ行く手段となるか?その条件とは何か?へとも達すへ深めゆく事が出来るへの問いでもあるのだ。

では因果の起こる順番とは基本的は量子->現実,環境,物理的連結->意識,ではあるが、その潜在的意識状態とはnear=,なのではなく次の段階としての->(forward)にもよる->量子的状態や又は一部の量子的状態への関与ではない全体性への関与でもある集束,可逆的帰還性,もしくは、もっと大きなものの一部としての知性,生命段階への拡大,進化方向へ向けた段階へ通じているのかもしれぬなら、その観点からにおいてもの"魂"(や生命の在り生き目指すものと行き方)と云うものを見い出していかねばならぬと思われる私ではある。

(12/18)
このようにして全てが完全であり又、その意識の機構などを解き明かそうとしなくとも起こるに任せてゆくが良くとも、これが最少へ流し去り澄みた私へ向かわせながらも起こるに任せた感覚と欲求にもよる性質や役目的ともいえる宇宙と人類と現在でもの、私においての流れと生き方への問いと立ち会いと交感の私化を生きての(全てはそれだと放り出されながらも自身をもって関わる事への必要性を感じての世の必要に為される納得,自覚にも又は如何なる覚悟などでもなく放棄にも在りてもの)進化の方向へ対する現在の生き在り方というものを私においては、この自身という基準によりてにも見い出されゆこうとする世界への立ち会い(人によっては完全に自己を捨てていく方法かもしれず、それらの何処もが良いとも言えるし、どちらもが利己や他律へとも吸収されかねない危うさも持ちているとも言えるが)であるのでもあり、ではそれはこの進化や自己や種としてもの拡張の方向と方法の違いでしかないのかもしれない。 つまり各自がままに生き、良しと放り投げ、最少へ澄ませ受け取り、しかし自身のままにを与えられ為されて生きて、その拡張の行き先への質が人為や技術効率などの為ではなき進化の本質性に関する事ならば、その欲求もの自身のままに求める拡大の方向にも生きて更にその自己を基準とした全体との適合,同一という私の置かれ方でありながら、そこに拡大されるのは自己の最少であるという方向でもある事。

それはもしかしたら本質ではないものへの対抗性という拡張性の出方かもしれぬし、例えそれが時代から要請された私に現れた人為と他律社会方向への原始回帰的原理性における対抗の働きであったのだとしても(究極的統合到達点ではなく、そこへの為の反動力的な置かれ方として反人為や生体価値自体による最少の方向など)そこへと問い私のままを為され、ではその人為や(それも反本質という本質)他律傾向の社会などへの対立的反動を自己創作以外の対話性などでの否定的提起や私は影響が図れぬ故にも一見正しい活動からも引いていくというような在り方を当てる必要からも離れていくのだろうか?等はやはり選択の問題への交感ではあるのだろうが。

無い方向ばかりが正しいわけではなく原始仏教での四聖諦にも言われたように、有るものを十二因縁へと解体していく過程をも取るように、そして悟り体験における全てが無く全てが自由だという脳分野の反応にもおける真実獲得性というものは人生にも非常に有益な変革経験であるが、それのみをもって真理自体であると言うのは、この仮定現象かもしれない私たちを真実であると思い込んでしまうような進展への思考と進化の停止でもあるに、無を識りての有と合一する事と方向が私たちの必要とされている(絶対の帰結でなくとも対応してゆく過程として)と思われ、無の観点や帰結点からによりて、私たちとは如何に在るか?の自身を見い出されていく事と見い出そうとする事の同時にも還り来るのだ。

結果が意味なくとも又は反対になろうとも、それは我々には図れず図れたとしても従うのみの他律体とはならず(例え現在と世界の全てが既に他律であり私などが存在も自己決定などしていないとしても。だがそれは又、別に問われる事である)自身にしか出来ないかもしれぬと感じられた必要や、その行為への意味(が判断出来ぬとも)と自身納得の為にも又は、それ以外の如何なる意味合い判断を越えて為されてしまうものとしてもに現在に出来るかもしれぬ事は為そうとしてしまうのが、この良い悪いを越えて連関を起こしゆく人間というものならば、それによる世界の進行もは必然的な流れとの一体とも諦めるようには観つめながらに、しかしその行為責任体である各自己が、なるべく囚われなき視野で物事を見ようとしている自己解体というものへの自己努力は、無駄なく済ませてゆける意識を澄まし世界の必要を聴き取りてに動くという必要ではあると示し挿し込みてゆく事は可能で行いても良い働きかけや関与方法の方向でもあろう。

しかしそうしたものも思想的な文化や時代の背景化だけであり、各自多様と動物的な人間の段階には響かぬものとして諦めてはいなければならず放り出されて現時代への私を送られてゆくだけではあるのだが。

12/20

統合の時代へ、上がる呼び声の一つだ。 数々の感起は同時発生的な時代の現象だが、それら各個の現れ方は違う故にも、私に為されなかったものは誰かが為すかもしれぬが、それでも私における為され方は私だけに為されるはずだったもの。

機会の満つるを待つは偶然の結果ではなく早すぎても意味を最大に為されないのは、今までの歴史にも見えていること。 例え現在を行い置きながらも現在世界への意味は成さず人々に利用されぬのに活動的関与へも関われず価値の再発見される事すらもない、あまり役に立たぬが私でありても、そうした各自の行われる運命と必要を流れのままに行われるしかなく、これが私への流れと最善なのだと信じられる程には経験の過程が(それが信用に値する真実であるかは別だが)ある。

12/21
それは自身意識の観察的な裏付けによって引き寄せてしまっているものや、この仮象に過ぎぬかもしれぬ私たちにおける起こる現実的真実でしかないのかもしれぬとも、それを越えるまでは強固で通常また普遍的でもある大概に流通されている真実性では有ると思われる故にも、その土台によって考察されていく流れと必然的な連関性へと耳や眼や意識を澄まし聴き取ろうとしていく事は(ずらされたものも決定された流れであり無駄ではない絡まり上の完璧さではあるが、)無駄なく受け取るへ気付く味わいへ生きる事が出来る歓びと共に歩みて、その存在へ化せゆく為に生きる事が出来るという生存の方向ではある。

つまり魂的次元との流動に揺られ時の連関においては起こる我らが生命というものが流れ自体の意味であり(宇宙が仮定でも、これは今宇宙と次元の感得体たちにとっての(それが存在する場合には)強固な必然性は有ると思われ又その感得と意識の作用を思い込みで呼び寄せていないかと覆しては気付きながらも生きゆきて、全ては流れと必然であり気付きへ進展するのかどうかも定められたものではあるが、その自身と各自であるを諦め認め為されながらも目指し為す方向は、意識を澄ませ人為的な無駄な破壊の進行を催さず世界の自然に乗り近付き触れてゆく為の生命,知性,生存であるという事ではあり、では欲求を減らす事が目的ではなく達した結果に催されるものや過程手段のどちらもに現れているものが、そこを目指すという欲求と方向ではあり、その流れに達す為に意識を澄ましていく存在を叶える過程を味わい楽しむという欲求は有りて良く正しく、しかしそれが欲求でもあったが為にも流れを違えたり、ずれてしまった場合に囚われもしまうが未だ完全ではない自分(や人間)にはそんなものなのだと楽に構えて失敗も当然として超若泰然泰然自若としていられる基盤方向の寛容,包容さと、その学びも与えられていく有り難さと観つめては受け取り過程自体を生く事の価値をも灯して、しかし方法としては意識澄ませば体調や流れの最善性などにも左右されず又はずらされた流れも、休みたり感じる事を通して再度にも調整しゆく事も出来るという在り方である。が、それも思い込み又は間違えでもあるのかや、それ以前に意識の在り方による調整などを入れようとせぬとも全て上手く行っている。の意識自体において解きほぐし流れを違えぬ在り方が出来るのか? それが出来るならば良いのか? 又は流れが呼び寄せ起こるに任せては自身の方向,性質や生かすへもの欲求と違えていたとしても自身の想いへ引き寄せる操作なく任せるのみであろうというのか?

そして、例え流れを違えない存在へ意識と現実を融かし込み在りておらぬとも失敗も楽しみ包容し学びの恩恵と受け取りながらも、そうした本然性の自身化へ歩ませながらに最少生起の自己判断や意思,選択性が流れの自然や人為とも食い違っていようとも委ね変更を加える力へ意識を使用したりはせぬというのかでもあるし、本然の流れ又は本然へ近付きながらも自身にとっての必要判断の流れもが為されず、心が揺れてしまい寛容に流し去るにも在れず、しかも外部因もに追いたてられ協力もして貰えない場合などに自身をそこへ保てなければ(その揺られる心のままに行われ分かち合い吐き出されるものも、その時の必然だとはしても)上手く調整も機能せぬ場合の自分は如何ようにするが(自身に納得面にも)良いというのか?

その流れの乗り方とは創作の現場においてもの事であり、しかし失敗しても失敗なく完全が為され在り自己人為の操作なく空となりて現況の流れを撮すのみと在りながらも、自身には出せるはずのものが人為からによりてずらされ自信や変性的意識の方法にもよる調整が難しい時や(取り戻せずに取り戻そうと慌て行う泰然ではない自分も良しと認められた超越へ泰然としていると言えるのだとしても)、flow出なくば置けるものの意味合いとしてだけでなく自身にも疲れるだけで楽しめぬ時に(囚われ過ぎて怒り程ではなくとも取り戻す作業が上手く行かなかったり状況にも自身にもその余裕がなかったりした時というのとも同じく)どうするかでもあるのだが、では始めから何を調整する事態にもならず完全に上手く行くのみの意識へ澄ましては済ましていく事や又は気付きによって始めにキャンセルかけておくという在り方などもによって、意識澄みた根底に至れば最少の自己の想いと役割や性質の生かされる方向判断などとの本然性とも人為が起こすものとさえもの介離などは為されず全くに起こら無いという事のみへと至りゆけるのか?へは試すを行いながらもに問う現在である。 そして、それは流れに乗れぬ不利益を楽しめるかという判断や心の面(でもあるが)だけではなく、この世と自身真実への実相へ如何に近付けるか?の為の欲求と惑いにも拠る動力であり(人はそれを解き放つべき囚われの下らなさであり止めてしまえと判断するかもしれないが、その欲求によりて私は真実へ導かれ(それが勘違いであったとしても)てはいると言えるという解釈も、こうして此処には置いておこうとも思われるのだ。

では意識のみでの全最善(最然だけでなく此処では上手くいくという意味で)、又は意識の気付きによる可能性へのキャンセル的な対応行為などを方向として機能させても良いと設定しても良いならばの上に試しゆくと同時に、空と余裕の立ち会いに感じる事にもよる寛容や、これも良しであり学びとなる感謝へ受ける対応態度によりても自信と土台に自身を保ちながらの新たな、その時点からの流れへの調整へ立ち会いてゆく事にも同時併行に行き、しかし自己による本然への判断へ本然を操作せず意識を最少へ済ませる事で、上手く行かぬも人為破壊とのずれや無駄さえの非共生をも放置した"これで良い"。のみへ在る全ての肯定へ泰然と在る空への自信だけに還り着くへ尽くされるのみが必要で在るという事か?の方向でもある発見への旅である。 (そして知性の働きと観察のみによりても果たされていく機能効用の用いられ方は有る。)

それらとは世界の事から身を引いた最少や隠居的な自身の置き方としてもの生命交感的交換を持たせ楽しんでいく味わいへの道でもあり、しかし最大に行えるべき世界と自身の一体にして弱き者の行われ方としてもの普遍,恒常的な誰もが行える方法でもある到達と統合へ共通し、能力差に依らず又は能力差ごとに行えてもいく生命の歓び方という道の生起を提起していくを目指すものである。 故に、流れに拘らず捨てた自由と至る為にも私は流れに拘りての真実へ向き合いてゆくに良しとして、その価値を解き放ち(此処での言葉にも)示すのだ。

良くは出来ていても震えるようなものがないような作品は、それ程のものでしかないように(今回のstar wars等も)私のartへも、流れと連結に凄いと感じさせては引き寄せる方向見せの提起と意味はあるが、もっと感動によっての人へ寄り添い響く直接の心や意識の転換へ(それが操作ではあっても)導き一時的な悟りの体験,感興だけでなく実効力を持ちての、深く真の肯定と幸福の愛と調和を持たらせてしまうような解体と創成の一因への私を(それが達せるか結果は分からず、判断でしかなくとしてもの)深く達し空となった故だけもの自在に在りての私の媒介存在の行わせ方に至り行わせ在り近付きゆきたいと私現在の性質的必然や方向生起には言われ紡がれるのだ。

forceと言われたものは良いも悪いもない宇宙の力の人間的使い方の性質に伴う方向による(それぞれへの方法論と共に)技術や術の質を分けた判断や分断へ使われたものでしかない(と見られるが)、その源にして玄なるものの時間化に伴った流れというものへ化された宇宙の流動自体の生み起こす力と状態そのものを自身存在によりて繋ぐ利用の方法でしかないが、そこで物質越えの物理的力を及ぼせるか?や、その操作性の力を持たせず離れた統合性へ浸りゆくが全体に中での動きである相対を生まぬ自身内での統合到達の道ではあるか?

それは良い方向のみしか見ない事は人間の本質を見ていないという事(人を信用する方向ばかりを見て疑う心を持たせない等)とも同じく、良いも悪いも信用も不信もの両方を見ては、その統合へ意識を使用されていくバランスの取り方や培い自身による世界の均衡点(解消への犠牲ではなく不要を生まずともの調整とも成りていられる)となる事でもある。

12/22

またも相対作用を生み出す一方への偏りや正しくと見えても力の使用へ立たせるではなくて世の相対作用を見ては抜けていく、どちらでもない又はどちらでもあるという在り方の立たせ方を独り突き抜けて在りては又そうでなくとも示す事もが良いのだとしても、しかし人間界においては(それは将来にも渡る絶対普遍でなくとも)対立によりてバランスが取られている部分も大きく有る中で、(自民へ対する共産の対抗も必要作用であったように)しかしどちらが先であったか?を別として、各々の動きとは対応処置である因果的連関ではなくとも(もしくは因果的連関でありても対応しているだけではなく、各自は自身が良い事をしていると信じているにおいても)の原理主義的な極同士や、これが唯一の真実だという主張同士でなければ対抗し合わぬとも違いを埋め無理がなくとも折り合える事は人間界の如何なる層や段階や様相にも見えるのであるし、そうであれば性質が異質であるからといって離れ独りへ抜けなくとも相互の違いや多様は学び合いと肯定基盤への材料ともなるだけであるのだが、しかし一方がそれを行えず押し付けてしまったら、やはり抜けて関わらず統合のみを示す独個への覚悟し味わう肯定の喜びのみへと至る方向か対立し力を用いてでも対抗せねば奪われる事からも防げず極相の反対力も含めた対応を当てていかねばならなくなるは同じである。 そしてそれは真なる在り方には宿る共生的帰結性が有り得ても、この現実的世界への対応の必要は、各自に感じられたからというだけではなく組み合わされる連関での流れ的な必然と進行にとっても為されている相反作用に伴われる流れであるとも思われるのだ。 ではそこへの自身または人間行為の指針としてもの関与への在り方とは統合の自身化のみへ抜けていく姿と提案のみか、反対であるという否定や武力また能力における力(政治的な交渉も創作なども同様に)を当て示しゆ事くもは必要ではないのか?

star warsに感じられる意義の一つは、それら人為的な力同士の(しかも今よりも技術やscaleの)拡大された時の様相と繰り返される問題を見せてくれてもいると思える。が、ならば新たな業と因果的な連結を生み出さぬ為にも引いていくばかりではなく、しかし力へ対して力では返さないが提案,流通力の共鳴性をも持った統合の在り方の持たらせ方とは如何なるもので、しかもそうした真意が通じるかは又も難しく故にも私に問われ立ち合われているものであるが。 それらが通じず安易な解釈や浅薄化が為され、ヒーロー的善性方向への欲求が生まれるばかりであるかもしれず、しかも下手をすると私が辿ったように流れへ触れる生命味わい方向への囚われとも同じく、分かり合おうとはせぬ一方のみの強制他者へ対する否定的対抗や許せなき怒りという反応を(それを通してもの必要が生まれるかもしれぬ可能性もが有るが)生み起こしてしまうかもしれぬ事への力としか、私に果たし為し得たものにさえにも宿らず利用しては貰えぬ、統合ではなき世の反作用的働きにしかならぬのかもさえしれない。 とは、やはりが統合的な存在の到達地への在り方や、その示し方へ変換の力にも関する自身が意識の置き場所と用い方への考察必要面でもあるに通じてはいるものだ。


光と闇が互いとも無くなりたとしても闇に触れて後に光側へ立ちたという経験だけでは即ちが統合されていくわけでもないのだが、その一端リセットされたによりて蓄積されて来たり獲得された知恵もが受け継がれなくとも、また生み出され繰り返される非業の連関の中で非情にも残されて生きていかねばならぬ者たちの生命ドラマと少しづつでの進展への道が与えられて在るだけなのかもしれず全員が同時期に同等に覚りへ向かい達せる方法も目的もは、初めから組み込まれてすらもおらず連関の宇宙の中では悪も善も起こりて少数の者だけが(と限定はされぬとも良いし多数が至れる時期的な収穫期も有り得るかもしれぬが基本的な宇宙には無数に生み出され続ける生命達の活動のみが有り、その一種の始めからが悟りと幸福に至れるかどうかなどは気にもされていないのだから。)抜けていける道もがありて、時にその偶然的でもある必然の結晶が生まれる事も在るというのみや又はそれを生み起こすという目的の為に苦も行い生み出す生命現象たちが必然的必要のデフォルト要素として与えられてしまっている非情の中を生きていかねばならぬ覚悟だけが必要なのかもしれぬ。 しかしそれを知りて自己の知性に組み込める存在ならば、それを眺めては悟り在れていく統合への境地存在へも近付いてはいけると云う事も出来るのだろうが。(そしてそれは技術や知識を否定せぬとも、その方向によりてもの技術などの進展の質を使える事も出来はすると思われるのだ。)

ではそのような善悪統合とバランスは抑圧でもない向き合いである事や、もしかしたら或る一部の達成も継承すらも途切れ又はその真価も理解はされず浅薄利用されるのでありても、宇宙に生み出される生命とはそんなものであり、その中での悟りゆける可能性を辿れる者も出るのかもしれぬという壮大な視点を組み入れる為もの、哲学的な理智が物語化された一つの結実が(一般的には英雄譚としてのentertainmentと捉えられ分かりにくいかもしれぬが)、このフォースのバランスなどへもの考察,感得への片鱗を残す事へ成功はしており、これもがなかった人類や地球文明であるよりも奇跡的な恩恵のような作品ではあったとも言い得るとも思われるようにも、文化的な背景化への文化的創造を(物語化出来ぬのならば知性の観察面の流出に依ってでありても)生むもが良い私(の性質,能力化)へもの方向や望みなのでもあろう。

交換的な原理とは宇宙にも見られる根拠のようにも思ってしまうが失われた分は与えられるはずだという見え方のように(反動で推進する力学やエントロピー増大における時間の流れや過去が去っていく事で未来へ動いていく(それは反動ではなくて現象に過ぎぬとはしても)事などもの二元的な現次元の様相ではありても)それは人間的な判別上の意識の納得のものでしかなく、意識が転換されれさえすれば何かを失わず動力として使用されなくても得られるのかもしれない。

そうしたエネルギーの取り出し方や用い方において意識の流通力に拠りて何かを達せようとする事は、例えそれが自身への必要に照らされての自然的運動であったとしても操作への世界現象の利用でもあるとは言え、如何に本質であると思われる正しさが見い出されたとしても告げず伝えず能力もを使用せず捨て放棄しゆくのみがありての現実世界へ対する意識,存在のみの関わり在り方へと移行させていくのみがあり最少の意識からは生み出される如何なる欲求への望みも判断もがなく、その目指されるべき到達としての地点へと歩む為には、この人間的生命体との適合的な統合を取ろうとする事すらからも抜けて如何なる欲望肥大への種をも抑圧してさえも否定していく事のみがあるというのは正しいというのか? 僕に在りたいと思われているものの現在は人間や生体とも繋ぎ誰もが辿りゆけるような統合の道への歩み方と発見,進展,関与ではあるのだが、その前提すらもが違っており誰もに使用可能な道などを目指すすらが蛇足と無駄ではありての全てを捨てる、のみだけが有るのか?

空~kara~の意識で(とは操作や意図すべき意識の向かわせ置いた質などの事でなくて無心と曰はれるような只、行われているに感得するのかもを問わず流され出され来る自分を通しての世界からのflowに流され出されているような状態の事でもあり、そこへの考察や科学ももっと必要ではあるが又はそれの事ですらなき)意識作用の起こらぬ状態へ化した最少にして起こらぬ意識の自身へと化されて全委託し在るのみでの、(12/23)つまり前述の只、呆然と明け放たれたrelax状態の無心のように紡ぎを結ぶのか更に意識すらもが澄んでいて深く想起されるものが無い段階までの無心であるのかによっての質は近いようで違うのだから、それらの内どの状態を私へ結び付けるのかであり又それとは何処までもではあるが、このflow状態を発現させる要因としての無心の要件や用い方としてではあり又はzone的状態でなくとも自由にflowを乗せてしまうような自由境地へ日々と選択もが至る為には他の手段もがあり、無心の方法や段階などである必要もがないという事なのか?

空とは、現象界における全ての発現種子を内包し精緻なレベルでも更に分解され得てもいく粒子的振る舞いや流動での充満した空という空間の性質における例えや状態の事を言いてもおり、それらを産み出す根底背景の事でもあるが意識においても(それが物理的な量子状態などと流通し、どれ程に現実化を起こすか等は分からず未証明でもあるが)その空の性質の名付け方を融通させておく事は可能であるという意味で、無心という遥かな旅に更に精緻な意識現象の根源根本背景自体に分解しゆく事は判断に囚われぬ自由をもたらす。という論理は言い得るのでもあるが、それのみが完成と喜びの唯一の道と必要であるか?は未だ、こうしても問いており、流れを最少労力で感じ与えられたままを為される自動人形としての生命に意識知性の気付き感得もなく味わう至福,恍惚のみであれば良く、それによりては判断なき世の流れの媒介としてを受け取るのみの選択に触れた自在なflowの創出へとも至り在れるのか又はその必要もがなく生存や生体的な生命味わいの交感すらも捨てていくのか?へも達するへ戻り来ては、ならば死して生きるへ還る為でもなく死のような未分化の生命状態を直接的目標としてもに設定し向かいゆくだけがあるのではないのか? 創造,使命,役割,関与,行為,選択,自身,意思などがなく明け放たれて為されるを受け取るだけが、人為も人為欲求の質を求めることも如何なる操作もがなく自然の流れや繋がれるべきflowというものもは繋がりの凄さと連結のartでもなくて意識を越えた愛に為される姿と存在のみの到達へ流されて生きる判断なき恍惚の自身化と存在のみという方向,欲求,質,生存,納得,無分別,肯定などである解答へと還り着くというのか?

量子的揺らぎや全時空を通した揺らぎではなくとも、この動的平衡という揺らぎではある私たちの流出入の定常状態という曖昧なアナログでマクロな仮定的に固定化された自覚自己としての自我存在には在りて、どの状態もが揺らぎであるとおう意味では同等や相似であるかもしれとも言え、では生命は流れであり自己を解体しては変換し続けてはいるが、その新たな実験の変化へ関する性質と傾向による方向の自然自動化運動は例え無意識(というのは意識の段階であり無の意識自体での事はないが)の内にも現実化を起こすへ働いているようには生物界を見るにもおいて考えられる。

流れを為すへの流れに為される、その無心や無意識とも云われる段階の深さや精緻,精妙な階層の何処までに至れるか?だけがあり、その本源的状態の定常性へ自身のみが至れば死とも同様の自由が得られるのでもありて生へ生きている必要からも解き放れられる最終的で進化の物理的変化の状態にも(時間や技術をかけて少しづつに至れゆける意識や生体の移行や果てしなく長く労力もかけた旅をゆかぬとも意識一つでの転換)関わらずに至れる境地ではあるのかもしれず、そこへと至る為へ歩く間だけの知性や観察の味わいという気付きと交感の生存と生命の歓びがある存在のみであり、意識の最下層(つまり本質という共通)には一端一端ごとの現象的変化と実験の過程の根底に、その最終到達地への欲求動力方向が組み込まれてもいるのかもしれず、それが仏性と言われて来たものかもしれぬようにも、そこへの(科学的未証明かもしれぬが)意識を澄ました存在開花の生と死の中間存在性へとも解き還していくことのみが本質とも私には言われた目指す先と意味でもありて、そこへの動力と向かい方を世へと(この人間の私と形を通してだが、宇宙と全生命の普遍にも通じている)motivateする存在からの自在と歓喜を映し換えてもいく自己存在のみの方向と潜在的なflowへも通じた選択性にも宿された創造的流出へも流環していく事が(即ちにも真実とは決定づけられないが)私には求められて来たものでもあるのだとは言えよう。

潜在的意識の根底に触れ達していく、それが仏性や本質(自体かも未だ分からぬが)といわれ思われた状態開花へと向けた動きや根源欲求にもよる向かい方の方向と方法ではありて(とも今のところは言えていて)、その精緻な意識の根底に在る事からの自然的な結果が世の流れへ、最少,自在で在りながらも愛の実現への生命創造の味わいを為され与えられたものを受けて諦め全てを投げ出しながらも歓喜であるという存在の道を渡し又その自在的選択の質にも表れて来る創造やflow(という選択)へも化された生存からの自然結合性の存在を宿し見せるがのみの創出の質となりゆくのだとしたらば、その流れへの選択状態をzoneともいわれるようなflowのartへ、しかと転化されているかへと拘る事もは如何に自身が本質へ達し在るかの証明でもある故からのもの(それを求めるは自身分別の心の照査ともなってしまうものだが)としての意味にも私には求められて来ている(と同時にそれだけではないとも)と感じられる現在地での把握ではある。

その潜在的意識の達し常在化もした深さによりて実現されていくものは量子的な連結や他の次元階層へ働きかけるかとしてではなくとも、そして操作を抜けてもの現実化を起こし、その意識の澄み渡った境地存在のみが目的地ともなる既なる存在にもおける完成への転換でもあると言えるが、その本質的最少へ抜けてゆきては無一物にして一元的な愛の歓喜に在りゆきての姿を映す創造への選択自在は如何ように顕れ出され来る自然の示現と成りゆくかでの現実界的な質の基準もを(存在のみであるに関係して、しかし存在以外の創造,選択の判断にも)見い出し又は為したいとも思うに問う私における旅と道の歩みと行方の現在だ。

自身を無くした流れに非情でも為される事と、そこへの意識の澄まされた実相,本質へ達しゆこうとする欲求,運動,方向に在りて進みゆく事や、その成果によりて選択の創造や現実化が起こったかへと(ちなみに深ければ創造が凄く感覚的な選択に優れ現実化は実現するという事とイコールではなく、深さからもその存在へ現れて来るものもはあるという事での)感じ質を問うのは判断ではあるが肯定のみへ至る道の歩みへも利用出来る過程判断の効用でもある。

では選択やflowでもの流れ為されぬとも、これが現在の私に化され置かれた最高だと私を為した納得に満足し充足していく事と、決して充足せずに目指し続けることによりての(人間的愚かさではありても)進展や成長にもありゆけ本質への道としてもの効用においても、指摘や判別性によりては把握し問い返し振り返りていく(自身内と又は他者間にもよる)交感や関係もの共有価値はあるのだが、それでも無分別,無反応の意識根底一つへ充足してゆく肯定のみが正しいと言えるのか?は、つまりは感じるによる道と感じる一切をも打ち切った道のどちらかとも言えるのでもあり、肯定的納得に在れたら現実的な結果や(ここでの結果とは、結果を恐れぬという欲望と判別へ囚われるかどうかへの心の問題の事ではなく実際に何が起こったかという事実側面の意味)成果が起こるかにも関わらずflowや創造の最大化が為されぬとも在りのままに有りたこと 全てを良しとしてあり、では生命交感,交換における結果として現れて来るものの価値や手段を通さずに肯定恍惚のみの自己を(行う行為性を通してさえも)現実中の自己を、そこへ転換されていくという方法ではあり更には(自然を通すのみの自己によりて為された事の全ては良い故にも)これで良いが起こったからというにも喜ばず感情的な生起すらをも捨て抜けていく事や行為自体を無くさねばならぬ事との(しかも人の感情にも通じ伝わる)整合性は如何なる点へ収束し終結すると(人へも)言えるのだろうか? そしてそれは恍惚のみの無自我,未分化とは何が違うのか?でもありて、自己を通しての気付きにより至りゆくという価値(が絶対とも言えぬのだが)が証明されず無いのなら(有るとも言えるが、それのみが全てではないかもしれぬ)ば、我々の生きている意味もなく脳分野を切りて植物状態となりたり技術的に個人や自我を変容させてしまう方向も強制すらもが正しくなってもしまうだろう故にも真理と紙一重な狂気や破壊にも接近し向かい合いながらも、その真実一側面のみ見て判断し肯定しない知性や判断と指摘,振り返る能力や作業は必要ではないかとも、僕には思われるのだ。 真実は単純だが複雑に絡み合った重奏でもあるのだからに。

例えばそれらはメグの言う流れがずれたかや自身創造の最大が為せたかに関わらず、これが自身と現在の最高と自然の顕れだと納得,肯定してしまうは良いとも思うが、かといって流れに乗れず出せなかった側面も見つめたり、そこへの気付きとしてもの批評,判断,分別,指摘を自身に問い振り返る事や他者ともの共有という過程によりても進展可能な成長への必要(絶対の必要かは、やはり分からぬが)を持続してゆく作業の効用を打ち切っても良いのか?でもあるし、肯定のみで良いならば全肯定の愛と充足には在りたとしても、何が失敗でもなく私を為し置けた故に嬉しいというような感情生起への依存や感興もがないのか?や自然に為され私を行うという行為必要もがなくなるのではないか?や、又その肯定が恍惚でありても無感情でありてもの肯定のみであり知性も気付きも交感も、そこでの生命の味わい方などもがないならば自己を通して過程を通る手段と行為もの全てがなくなり無自己という目的への直接,強制的な人為的改編すらもが良くなりてしまうかもしれぬ世の可能性へも対応する知性や分別と気付きによる多様な真実の深め方ではないかとも思うという事と現在実際が、その作業従事の(それは自己肯定でもあるが実質面の把握の)私でもあるのだ。

ではそうした根本への想起的観察の以外に戻る、流れとの合い方の方法と自身や他者の人為によりずらされた時の調節方法、又は納得の仕方という問いにおいてもの私は欲ではなく流れで選ぶという欲にも在りてはしまいているのだが、もしかしたら此処は流れを違えたかもしれぬとも、仕方なしでの流れを流し済まし楽しむにてもに試す行為を行いて観ることや、現況においては破壊的レベルまで流れを違えなければ合格であるし実際にも現じているのだから良しとして更に違えた場合への対応方法や態度などを囚われぬという以外には放り出して考察すらもしなくて良いのか?や(それは慈悲から離れるとも思うが)、最高の状況が起こっていなくとも既に普通の状態ならば噛み合っての現状を楽しんでいられる状況が自身にも周りにも既に起こっているならば、それで良しとしているというように済まし最悪を想定しての囚われぬ方法や、その自己化を試す必要すらもはないのであれば良いのか?

(12/24)
又は身近な小さな部分で起こった事は大きな事とも共通の種であるから流し去るのみへは済まさず、解決する動きへ繋げ済まさなければとしなくとも些細な事は良いかと流して後は意識のみでの愛や最善への転化や祈りの存在なるのみで済ませられるならば、それで良いというのか。 そしてそれは大きな世界の問題にも同じであり放り出して自身行為や具体提案を持たぬとも良いのか、や又は最少限には言動するも良い以上には行わぬというのか例えそこには押す事で流通出来る可能性や発現を待つような種が有ったのだとしても。

そしてもし自分がその対応となれたとしても相手は流し去らず対応,関係してもらう事を求め納得せぬかもしれぬし例え互いにそこへ慣らせたとしても自分を押し込めぬようにしての愛と受け入れのみで在る事は難しく(過去に私があったようにも相手や 世界を認め理解し自身は引いて受け入れの愛となるへ抑え込んでしまったようにも)混同しての愛の強制ともなり易く抑圧(の爆発)とも紙一重であるにても、言わず行わず又は最少のみに関わる中での愛の存在転化だけでは(今の私には出来るようにもなれて来たのかもしれぬが、しかと示せなければ渡すにも)危険性すらも高過ぎる。 故にも基本や方向や具体にも愛への転化体で在るのみで良く言動,表出の質をも問う事がなく最少性の自己と澄んで済ませている肯定の充足へ近付けながらも、それだけを自身へも世界へも(強制力であるつもりや意図がなくても)告げる訳には行かぬのではないか? それの故にも愛となるへの方向,基準,方法経路,等を、しかと見い出しての受け渡しとなれねばならず、その為には自身が本質存在に浸り実現した姿を見せているだけではない言語的な説明などの力と置き方が必要ではないのか?

つまり相手の受け取り方も否定などもへの問題を放り出し、説明による関係,共有などをも捨て去りての自身が愛となるによりて導かれる対者にも世界にも私ともの最善が起こるへ任せ委ね肯定しながらも、その愛や肯定の質とは受け入れるのみの充足の歓喜と震えのようにも澄まし済まされる事とも一体にしてある、自身や他者もの人間的自然や関係,生体,言動の欲求などを押し込めた我慢を強制してしまうへ引き寄せや操作するへも同時である(これが本当だと言ってしまうでもなく振り返る能力の故にも)可能性があるにおいても、真の愛とは抑え込んだ愛ではない。等という言葉のみでも済まさず、(又は判断なく過ぎ去るを観つめゆけば良いのだとはしても、観つめれば過ぎ去るなどという段階だけではなく流し去らせずに立ち会う恐れや破壊の効用からも世界の一相が行われているようにも学ぶ大切さがあるとも思われるようにも)一相面のみへ済ませていく事は偏りた真実であると僕には思われてしまい例え言い切れるようになる(と納得し、その手法も使う)のだとしても、そこをしかと把握し統合するへも常に向けられた自覚の自身において発せられねばならぬではないかとも思ってはしまうのだ。 それ故にも、幾ら正しそうでも一方的な真実を持たせている表出へは(愚かさからの判断ではなく本質に近いかもしれぬとも判断の愚かさや強制を感じてしまうようにも)違和感がありたり距離を保とうとは思いてもしまうのだ。 (これも書くことで、その違和感に対する自身の気持ちの整理が出来るのだが。)

愛といえる充足のみの交感実現状態が本質であり存在と生存の全てはそこへ向けられるが良いのだとしても、では真のその状態と、そこへの至り方への方法や交感の在り方というものを問いて観じてもいるのだ。

真の幸福とは誰もが知性的に達せられる事を求めているのでもなくとも、その者のままに生き易く生きられるだけではなく何が如何に本質であるか?を問い方向としても見い出し近付いていく事と、その本質的な到達地へ至りゆく為の最善が起こり行われ(又なるべくならば苦を通さぬとも幸福的な現実を通してもに)いけることとしてもを求めている私における発見への旅を生きてゆく。 しかし聞いて対応し自身の経験も含め(控えめに状況にも合わせてのだが)対者の段階に合わせて(本当に対者の段階に合っているかは知らぬし、それは判断による制限や侮りではなく感じて対応する事ではあるが)表面的共有において言い得る事を言い関係にも楽しむ事くらいは僕にも出来てはいるが、表面的利益にも合うような共有は求められたとしても、それ以上は他者を放り出し自身の向かう本質と思われる方向へ引き寄せようともしない(又は表出が下手でもありて)出来ない僕ではあるのだが、正しきと思われるものならば(その判断性を自覚しながらも)引き寄せたり言い切りてでも伝えようとする又は強制力へ批判,対抗の力による変換を持たらそうとする事すらもが良いのだろうか?(浅く判断する正しき者は大概において、この問いについても変えようとする力は用いなくて良いのに何を言いているのかと断定しがちだと思われるが、彼らが真実だと思いて何かを伝える力と行為を持つ事はそこへも通じている共通であるという事には、これだけ伝えていても気がつかぬのだろうが。)

幾ら正しくとも性質と発見の自身のままにも能力と力を生かし(そこへの自覚なくとも有りても)強要し来る者(と、その人間的な愚かさともの関係)つまり良いと思われる判断同士の連関である共有と分かち合いの多様による進展と効用ではあるが、引き寄せの強制力でもある者に対して、又は
強く否定するでもなく柔らかく受け入れるような態度で(つまりはそこへの自覚意図なくとしても)結果的には騙すようにして否定や排除し現実,関係,可能性などをも奪う者への対応や提案などは如何に、この表現が下手で本質という方向提案と理解への説明は時に出来たとしても分かりにくく労力もかけさせてしまうし操作,強制へ奪う事とならぬ為にも正しいからと引き寄せてはならず(最少程度を目指して伝えたり過剰や言い切りも交換の会話として楽しむくらいには、つまりそれも表面的な交感の遊びと自在としてであるには良いが)本質へ転換させる創造を持ちたいが持ちたくはない、又は出来ないでいる私において置かれるが良いというのか?という存在とその表明段階からの迷いではあるにおいても、現状には本質と思われたものを最大限に放つには?という以前の発してはならぬかどうか?との調整からに問うが私の惑いではある。が、しかしそれは、より本質の基盤に関わり向き合う最少からの必要へ対しているとも言えるのではあるには肯定できる自己役割の(仕方ないから肯定するという以上に世界への必要とされた)本質性への問いと発見の自己最少と存在に関わる仕事と役目を既に成しているという肯定面でもあるとは言える。 (その世界での本質作業の一面を成す私の存在意義づけとしての納得や自信が、より本質的な者の到来により覆されるかもしれぬとも、これを行うにしかなかったという一井,一介の同等に人間を為すにしかなかった小さき私にも、行われるべきを行いたという自己肯定と納得は出来得る。) 為されるにしかない非情だが宇宙のartを創成されている自身には生くのだ。

助けて下さい。 私は如何にも小いぽけで何を為すことも出来ずに憧れてもしまうような愚かな判断ばかりの人間で、これが如何に正しい歩みであると自覚,肯定できたとしても肯定にすがる程にしかなく自信もなく承認を求め依存するような凡夫であり人類の代弁性でもあります。 何を如何に言い為したが良いかすらも分からずに、けれど与えられ学びてはいる恩恵にはありますが成長と引き換えに生きねばならぬ歓びと苦しみの両方にもいての声をあげる慈悲と英知の混合です。 極性を統合し真の幸福と自由の愛の超越と現実へもに適合の境地と存在にもよりての最然と最高を為し得られますように私を生かさせて下さい。 私と世の全てが最高に生かされ真の幸福へ救われますようにと、今日もこの愚かにして聖なる存在の顕現された私の同時を、存在にも培い吐き出して歩む祈りと結実の一体を宿された完全と統合の現在と完成を歩み泳ぎ流され流し去っては逝く者の一つの詩であるを詠われ衝動と観察も同時の閃~つらめ~きに繋がり連なる宇宙自体の一つの叫び声と代弁なる時空の表出,人なる形への突出です。 創造には価値がなくとも欲求に依存なくとも私は私の創造と真実在への欲求に渡されての、この私という存在からの時点と事態を肯定,承認するにしかない俗と聖の歌い声を唄われている塵と瞬間からの声と永遠への記憶なのです。 この声が、鳴り止まぬように響き渡る残響に吸収され消えていく即興上に想起された宇宙の夢なる私自体を解き還す、いつかと果てなる涯てを夢みるように本体への帰還を願い既なる叶えの道を歩いていくのみの哀しき生命を光明で充たし給え!とも嘆く一塊にして瞬間の星の残り火の束の間の結実です。


ではこのような声と求め(祈り)の私において在りゆくを自身には認め、しかし心は揺らぎてもいる。 それは統合へ導く多様の極や真実同士と、その狭間での迷いの効用でもあるがマインドは惑いを生み起こす為だけの仕組みであり肯定面のみを見ていくに照らすのみが大切であるという意見もは世に在る中で、多様による効用に触れれば感得への機会ともなりえる(divergent域ににおける侵食同士のように)豊穣への分配は関係という創造と表出同士の効用でもあるが私は違和感にありても表明はせず私の中での醸成へと培うばかりの流通しか生めぬようにも聴くには立ち会い、例えそのような単純で実直な生命方向による開花の方が本当で、そうした態度の表明性における表現,創作手段,関係,カリスマ的な魅力や人徳などへも生かされている在り方には生命の使い生かし方として憧れもするように(各自それぞれの役目ありて自分以外となろうとせぬとも自身と性質のままにを用いて本質へ向かうが良いのだとしても)、そしてそこへ従ってしまえば気持ち良くはなれるのだとしても、それは自己に築いたものを揺るがされるのが怖いから受け入れられぬのでもなく幾ら(偏っていても本質的には)正しくとも僕は自身の交感へ吸収しながらも吸収されてしまわぬように引いている(違和感にも囚われず、しかし違和感にも尊重するように。であり、これも又バランス。)姿勢で、距離を保ちながらも観ていく事を大切にもするし、ではそれと同じく幾ら私が正しくとも無批判に引き込まれてしまわぬ事を他者へも私は私からにも提起するへも向かえる歩みも発見し持てるのだ。

本質といわれたような潜在,根底的な流れへ触れて為されるによって人為的な操作や破壊の無駄が為されないならば、そうした意識の置き処や生命性の使い方の部分だけが開発,流通されれば(技術はそこへ伴うものとして使用や発見されるが良いものともなりて)全てが上手くいくようになってしまうによりて(善悪をどちらも内包している人間の発現可能性は変わらないものと現在までの過去からには判断,観念してもしまうが把握による制限でもあり)善悪が統合されてしまうような意識の進化が結実されてさえしまえれば、そこには如何なる分別的な交感にもよる理屈も知性も要らぬと言われればそうでもあるのかもしれぬが、それでも私は(現在までの自身を否定せねばならぬへ自己を揺るがされてしまうから自己を承認するへ保護する為などではなくて)知性にもよる道(各自のそれぞれにおいて全員の道でなくとも良いが)と発見による統合への歩みと実験の世界の形は、少なくとも今は未だ(本当に必要かは判別出来ぬとしても)必要と感じられるのだ。

正しい選択が分かってしまえば他者関係による対話や相談もを必要としなくても自身のみを行い、その存在的な波動性を用いて引き上げてしまうだけがあるとも指針の一つとしてはいえるし時代を先導しゆく者には(良い悪いは質判別も出来ぬとも)必要な資質であるのかもしれぬが、諦めとしても肯定面としてもに私は、この私を行われるに行いてゆくにしか仕方ないのだ。 自身の資質以上には(幾ら方向の効用が有り得ても)求められないを肯定してからの生となる道へとも(自身効用の肯定面を見い出そうとしているでもなくて)拓こう。 そしてそこからの本質への歩みと導き出され方は宿り着いてもいくような私の生存と創造の自己を解き放ちながらも生きて流れよ。

(12/25)
しかしそうした面の違和感へ対しての処置や僕自身存在の結び付け方への気付きへと考察機会を利用しているだけで、彼のような人は(自身で発見したのだとしても人真似であったのだとしても)面白いし、自然に引き込むようにpositiveな波動や包容を持ちての良いものを人へ広めている表出や存在に在れる事や徳は凄いと思うし憧れもするように、僕も自分を生かし良いものを人へ与え繋げられるようにはなりたいし、その存在だけでなく現実も含めて転換してもしまう、何故か誰のお陰かもが分からなくても流れも来たり現実化も上手くいってしまう恩恵を振り撒けるような神様みたいな仕事の役割を為せるに(自分以外の者となろうとしなくて良いとはしても)成りたいとは思う。

愛と自然と本質へ最高に開花する。を祈りにも渡す。

静かに存在を映しとる。 痛いくらいに、本物の生き方。 苦を人が抜けたとしても、過去の人類という遺物を懐かしがる保守性懐古の為ではなく、その質は(人々は様々の理由づけをしたがるが)苦悩や熱情や色彩にあるのでもなく存在に至り着いている本質的な高さを結び付けられた生存に宿りた震えにも触れられる故の創作物に真実在の流れを感じとりて感動もする、つまりは存在からの流れの移し取り方の創出を味わいゆく事も出来る表出に立ち会えるからのものだ。

(12/27)
聖と動物の中間であり過去の遺物として過ぎ去るだけでもない、これが人間だ。 これしか出来なかったであろうが歩みとしての放浪と僧侶,そして僕には響くゴッホブッダの両方のように、もしもこれさえ描ければ良かったと思えるような人間の姿の過程と到達の物語を宿せるならば、そんな物語の姿を創り演じてもみたい。

いい映画を見た。 新しい表現でもの描や心象(的な印象)の切り取り方の見せ方でもありて誰もやったことがなかったもの。 僕のやっていることは間違いではなかったと思わせてもくれる。 揺れる、背景(場所や環境)と存在。 即興的な出会いと物語の融合した半ドキュメンタリー(というような僕の撮りたかったと求めたもの)的手法でもあるように見受けられ、僕の突き抜け方はこれで良いんだと教え思い返させてもくれるような力とはなりて、人の心を打つもの。

世界の為に、もしくは自分だって凄いものを出したいと思う気持ちは人並みにもあるとはしても、僕が凄いから僕には存在価値があるのではなく私とそれぞれは生きているだけに価値があるという生命存在のみの充足へと至るへ還り、その才能には与えられての私を生く(自覚にもあるが)その存在には宿る"私は聖霊"という言葉のようにも、響く存在根源からの囁くような彼との共鳴にも感じる。 世界の為に自然の神秘や本質や美を映し示し分かつという自負や役割的な必然を感じはするが、しかしその一面にも囚われたくはないようにも私には単純に自身の想いを語り託せる言葉にはならぬが。 根源とも云われ永遠とも言われたような自身と世界もの同一と、流れの瞬間と全体をも語りたいという、現在的存在の在り方の望みと囚われであるかもしれぬがものの、しかしそれは仏陀とも同じく世界の諸相を現世へと移し換えていく創造の在り方の諸なる側面だ。

創造にもおけるflowとは流れを繋ぐ連結の凄さ(や選択の無駄なき正解性)だけではなく、そこに宿り達した本質性からの存在の現れである結実の結果。ではあり、数量化され(るかもしれぬが今は見えぬ)ぬ輝きのような抽象的概念ではあり、又は創出作品に宿りたものに見られるしかない、しかも理屈づけされたり歴史的意味付けもされるかもしれぬが、そうではなくモディリアーニの絵に潜在的な震えを感じるが何が凄いのかを他に(言葉的に試みる事は出来ても適格にではなく周りを回るが大半の言葉であり、絶対に言い得ぬのではないが)言う事が出来ぬような存在や創作という結果へ宿った潜在的な深さの事自体ではあるが、しかしその質的判断に取り込まれてもならぬ事とも同時に常に、渋く枯れた方が大概においては本質的であるといえる(popへの対抗軸としてものように)基準を見ておく事もは出来、それはしかし比較により思考しているというのでもなく比較に示す事も出来る一効用面を考察へ提供されているというような一側面ではある。

タッチや味わいや光と色や発見や偶然性との邂逅(ポロック等も)という新発明も、新たな次元方向への融合(コンセプチュアル等もだし絵画と彫刻,今後のvirtualやtechも)音や解釈の解体(ケィジもデュシャンもpost~も)等もは、しかしideaの試しなどではなくて湧き立つように生み出されるしかないから生み出されてしまうに宿ったものであり、そこには本質とも言い得るような潜在的なものが含まれた共通の深奥に響くものである(outsider artも)価値の提供でもある事への評価でもあり、かといって宿るものは為さねばならず為して良いのだ。等への力となされてしまう事からは離れてもいなければならぬ自身の打ち出し方を戦略的に選択は出来ぬとも(この書くことも、自身を晒す出す程に攻撃されたり利用され易くなってもしまうを分かっていながらも行うしかないと自身に思われ、これしか出来ぬのなら行われるしかないではないか。 けれど為されるべきは為されよという欲求肥大方向からは抜けてもいなくてはならぬと同じようにも)行われるべき自身を行いながらも行われずに済む事とも感じるには立ち会い、何が自身と現在にとっての本質への適合でもあるのか。へと自身を渡して生きていく態度の生存こそのみが、その者の芸術であり創造であるとも言える(要点の転換でもあり、これは如何に深められるかの質とは違う観点での生存肯定性の提起でもあるが)創造というものの基準であり生存の質でもあるというart of lifeの発明性と転換性はしてありても良く、与える事も出来るであろう私の発見と提起の一基準として採用されていても良いとは納得されてしまいても良いとは思いもするのだ。

創作者も聖者も天才も波動良き者も(凡夫と同じく、自覚なくとも)強制している。 それは、存在や自己が在れば即ちが他者や外界を侵食しあっているという事も出来る中で、しかし即ちが自己をなくせば良いという話しの事ではない。

(12/28)
自己のままに在りながら本質や統合を見い出すへも向けて生きる事へと生き方の方向を示しながらも、そこへの歩みの中で如何に感じられようとも各々の性質や役割ごとの道に起こり行われ生きていくのみが在りて良いと放り任すのだとしても、そこには本質や真実への各自の動きに任せた以外の共通統合の集束でもある境地が有り得ては示し得られるも良いのだろうか? そこへ多様を排除してしまえば(必然なる経過が為され有るかを代入せずとも実験の過程としての多様や個人の必要は残るとしても)その行き着く先の帰結と目標地の同時にも個人や多様を必要とせぬが統合体としての総体的な融合や自覚意識を滅していく事へと至る以外はなく、それが正しいのならば強制的にも向かわせる力を使われる事も何が間違っていると言えるのか? そして個人や自意識や多様が(多様や性質性はprogram中のバグ的な変異を挿入しておく以外に)必要でなくなれば、そこには生体や生命もが必要ではなくなるのではないか?という問いへの向き合いにも戻るのだ。

本質と言われたものは心一つにおいて見い出され達せられもする生き方のものであり宇宙の法則の如何んにも関わらず在り得るものでもあるが、涯てしなくも広がる宇宙や次元越えの壮大さのように創造も破壊も死も生命も苦も歓びもを越えて一体に眺めとられる美しさや肯定と充足なる愛の感動(人間的感情面の現在では)にも宿らされるように、自然は神の顕れだともいえる超越の美しさと美醜の判断には無き流れの自体を形作ろうとし創み出す芸術という行為(の人間的な囚われでもある)と、その形象化の動きでもある結果へは超越の美しさに如何に触れ震わされるものの凄さであるかという質や基準の判断とされても、又それを目指すもが良いともいえるのだろうか?

では潜在的に深いからといって不快なものを見せてはならぬというような質を設定してしまうと、例えばフランシスベーコンのような表出が評価,肯定されなくなってもしまうし何処からかの基準に判断され強制されるという本質への優劣付けや差別などが起こる事は(傷つき嫌だと思う人の数の多さなどに判断もされ思いやりによって配慮する自粛などもを必要とする事へ理解しながらも、しかし社会的合意の現況や常識などを覆すような意識への関与が制限されてしまうも良くはないと同じ事のように)避けられなくばならず、統合共通や美しさ等を質の基準や判断として採用し方向性を強制してもならぬとは思われるが(自分のままに私が生み出してしまうものの関与,影響性も、そこへの力とななってしまう)そうした闇や常識破壊の効用や又は意図でなくても生み出されてしまう、どうしようもなさのように生み出される全ての行為,選択は(生命交感の芸術~art~)肯定されているべきであるというのか?

では例え戦争や独裁や滅亡や搾取のartが為されてしまうとしても認め(ここでも必然という理由からではなく、本質と感じられてもの基準を強制せぬ為という理由で)判断せず対抗もせず統合共通の真実などを方向共有するへ強制しようとも(自覚ありてもなくとも)せず、各自の性質や現況に起こり描くもののままを放り出して良しとしているべきのみの無関与性へ至る事へと戻るべきなのか? そしてその自身へと減らしながらも、しかし自身という人間の現状にも感じられ判断され本質や正しいと思われたものは置かれるもが良いというままの私の為し方もは(武力のartへ対しても武力ではなく)、芸術的表現や思想面での創造の力としての関与ならば良いとは(何故に)言えるのか?

つまり、自身のままの本質(と感じられた判断)への創造という関与の力と自覚にも生きること(という或る意味での中庸性),その統合などが判断や共通の方向への強制なき為へもの無創造や無関与,又は破壊や強制者への対抗的な強制の力という行為や選択や創造,という何処もの真実を如何に採るのか?という問いへ結び付き還り来る既にこれは答えではなく(一抹の答えにもあるが)問いの方向へ関与しようとするような問いの内容の説明でしかない、しかし私にしかなかった(という自己肯定の為のものではなく他の誰かが更に洗練した形で問いていたとしても宇宙の唯一の可能性と仕方なくとも行われるしかなかったものとして)創造の経過と現況の結実ではある。

ではその表現された具体表出の内容や性質に関わらず、破壊や闇も組み込まれて超越された美しさのような壮大な真実,統合性へ(言語もが解体され)有無をも言わさず、とにかく凄いというような統合的な本質性が宿り着いたものでありさえすれば、もうそれは判断,優劣付けでありたとしてもの何にもまして優越されるような価値と化されてしまうも良いのかもしれず、それを目指そうとする人間的実現欲求の方向性もは有りて利用されても良いのかもしれない。 そんな創造性へ(生存だけであった事からも抜けて)還り来る事が、私にも言われるべき人間界関与の答えでさえもあるのかもしれない。と、未だ真相への両義は問われ揺られてもいる振り子の上の(それが全てに正しい方法かは私は言わぬが)統合への働きではあるを生きているのだ。

どうしようもなく行われるしかないような又は性質自然にとっての快楽欲求でもあるようにもの、囚われや哀しみやストレスの発散衝動の創作転化の(効用の)先でもある叫びのような解消の方法としてもの欲求の実現行動へ依存した創造作品や方向の質は周りへも悪い想念や波動の拡散,浸透の力となってしまうのでもあり、それ以外の仕様のなさを(破壊暴力の創作転化の効用も)認めながらも(しかし何故に暴力,武力のままではいけず転化されねばならぬのかも問われてはいるが)やはり、こうした方が気持ちよく真実や本質の美しさでもある等というように見い出された基準へ引き寄せるような関与や創造の提起などは用い在られても良いのではないか? それは(12/29)破壊的衝動や暗いものへとも繋がる人為や囚われによる欲求肥大の方向へ餌を与える事にもなる自己肯定感への承認へ対しての関与や影響を及ぼそうとするのでもなく、つまり、そのままで良いよと悪い処も排除せず表面的な浅いものという判別もせずに受け入れる事で自己肯定を伴いて囚われや哀しみから抜け良き方向へ向かうかもしれぬというような可能性の育て方へ関与する事などもは既にそれだけで操作とも通じてはいるが、もっと(sonneや不自由展でものように破壊的(悪い波動というだけでなく多様や覆す為の装置としても)な展示には、そこへ引き寄せてしまう力が生まれてもしまうにおいて鑑賞者への影響へ責任もあり周りも犠牲にするのだからにも)その内容や質へ関与したり基準を示しゆく事も大事なのではないか?

何でも良いと肯定し、未分化的のみに眺め受け入れての納得を持ちながらも本質とは何かへと振り返り、自覚し強制でないよう自己を抑制しながら(という基準や方向に)も良いものの出し方へと転換するへの自身へおける共鳴性だけに行為も関与もするというように、では各自の判断と共鳴性同士の多様という自由主義的な観念や小規模で全体量は多い(地域性のような)共通者同士の中での基準への統制などのリバタリアンコミュニタリアンの折衷のような状態へ任し移行させては離れているのでもあり、それは例えば暴力的衝動の転じ方としての効用を必要とする人達は認めながらもpunk rockもpopなどもは下らない、勝手に各自がやれば良いのだと突き離れ自身の方向や共通する者たちの中での運営は取ろうとしていく態度のような中庸的な共有との適合や均衡の在り方であろうか? それでは自身の良いと思うものだけに触れ、他からの多様を排除するへ離れてしまい成長も相互関与もは無くなりてしまうかもしれぬが、それで良いといえるのか?

それでも破壊衝動や暗い方への動きを認め放り出して関与せず。又は闇への自己承認を付けさせてもしまうのに肯定するによりて肯定的な気持ち良さ等へ引き寄せようという可能性へ操作,関与する。という事や、そのどちらでもなく、その内容自体へ相互関与し共有する努力や行為からも離れず自分の感じた本質などが判断によりても直接的に光の方を目指すに投げかけていく事が良いと言えるのか? そしてそれは自身内変革の意識だけで在るのか、もしく芸術的な表現面だけや日常の存在態度に現れて来るだけで良いと済ますか又は対立(武力のように)してでも光や本質(と感じられた正しさごとの相反対立でもあり議論や相談の効用のようなものでもあるが)へ救おうと押し付け徹底関与していくという表出もが正しいのだろうか?等の様々種々の真実要点ごとを統合させていかねばならぬ。

武力を備えていたとしても、それは直接的な暴力への対抗にしかならず自身を高める力とはなっても実際の防衛や世界の進歩に大して役には立たない(事が多い)。 そして武術には活殺自在の両面が有りても実際には殺面が強いのかもしれぬように精神面の進化や相互交流の生体交感の共有的な遊びへ生かせる意義やストレス解消や破壊衝動転化の効用などもが有る面での肯定は出来ても一面真実に過ぎず過信はならず武力の大多数は、それを行使する側や培ったものの出される機会への欲求(や使用危険性)へと吸収されたりもしてしまう。 故に言葉や思想など(又は政治や交渉なども)という行使力とも同じく流れの選択(flow力にも)や臨機応変力などには通じてもいたとしても別側面もがあり、それは自身意見の持ち方や(正しいとは限らず全てには別可能性もが有ると自覚するは大切だが、その判断によりてもよらぬとも)その表出や関与基準とも同じく、本質と感じられた正しさ同士の相反対立であり議論や相談の効用でもある共有を何処まで異質多様同士の他者間で持ち得てはいくのか?であり、それが先程もの、自然共鳴性以外には関わらず離れた自立性(と少数間合意,規律,統制)のみに在りて(リバタリアンコミュニティと言えるようなグローバル状態という相互不干渉と自由へ放り出され)多様からの相互関係に成長せぬとも(取り入れられる可能性は情報の流通などによってもに有り得ていれば、それのみで)良いのか? そしてやはり全く同じ事を問う<破壊衝動や暗い方への動きを認め放り出して関与せず。又は闇への自己承認を付けさせてもしまうのに肯定するによりて肯定的な気持ち良さ等へ引き寄せようという可能性へ操作,関与する。又はそのどちらでもなく、その内容自体へ相互関与し共有する努力や行為からも離れず自分の感じた本質などが判断によりても直接的に光の方を目指すに投げかけていく>等の一体何処を(暫定的な選択ごとは現在にも、過去と今後にものようにも行われていくが)統合,到達の基準や方向としてに採り得るとも言えるのか?

私は未だ何を如何に表出し関われるか以前に、こうして関わっても良いのか?からの惑いではあるが、それでも浅くとも自信をもって言い切る者の表現の方が人には響くし(磨いている現在途上ではあるとしても)現在性への関わりとして世への参考とされ得るものを渡す為には見い出された発見と真実の現在面を置いていった方が良いのだろうが、その在り方はこのような書かれたものと映像断片と惑いや半端な日常的存在や言語の現実具体,技術,実際面での発言必要などにしか関わり置けず又は、どちらにしても軽ろんじられている私の在り方の以上には在れない。<(日記より抜粋),
仕事は(今日の仕事は好きな段ボールだし悪い仕事ではなかったが経済労働の奴隷という意味で)地獄だが、(心の問題ではなく具体表出した面での)温泉は天国。 今日は両方を味わえた。 仕事をすると、こんな地獄から人々も(それぞれの領分や性質によっての、どれ程に嫌かや必要な役目かの違い等はあるとしても)救う為の自身の仕事をしなければ(しているが)と心を新たにする事も出来る。 けれど、もう当分はせぬで良い。 (昨日吐いたのも今日の仕事も、今年中に済ませて良かった。)

本当に必要と思ったわけでなくとも感覚として今日は温泉に、来て良い。 行った方が良い。と思った想いに従って良かった。 故にも、やはりその時が来ている時に行い済まさなければと思った(正月旅館旅行も行きた方が良いのではないかと思うがakiは実家などの(この前も行ったばかりだし)要件とも被せたいらしいので如何にか調整を取らねばならない。 僕はこちらで年越しするも悪くはないと思えるが(それ程にakiが嫌でないのならば、未来は分からぬし行けなくなり今後も先延ばしされて行けぬが続くより何度も行っても良いのだし)八ヶ岳に行くのが流れとも思う。

岩に横たわり冷たいが気持ち良く、意識を減らしていく状態での私と全ての素晴らしい光と愛への開花の祈りともなる。 精霊の宿るような岩たちも多い。

これが最後かもしれぬというように倒れ込みそうになりながらも支えの岩を目指して、一歩,一歩を踏み出して歩く事が出来る奇跡を確かめるように歩く。
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未来は分からない故にも出来る時にやっておく事や、金とワクワクだったら後者をとるに正解を感じる事は多いが、しかし行わぬとも済ましていく最低限性を取り入れていく事もは必要でもあるし、それらとの 選択を試し立ち会いていく過程こそがある自身のみの存在と共有の他者もが在る。 そして吐くや少しだけの仕事程度での解消となり関係の地獄ではなくなったは良いのだが、では関係において(交渉的な極同士の中間的な折り合い点の採り方でもあったが、今回の八ヶ岳も諦められた。)の異質極面同士の対立軸は、対立せぬとも楽しく互いを聞く事で折り合い点を発見していくような作業ともなり、選択の遊びのような立ち会い方ともなれるという方向は有りて示し得るとも言えるのだが、しかしそれはやはり、関係対者の資質や自身状況などの自己以上の環境性に規定されてしまってもおり(勿論、自身変革の努力は有り否定しないが)全体においても取り入れ為し得るという共有の(方向ではありても)方法ではない。

しかしそれらの築ける私との価値や、自然にも運用されていく幸運性にも気付かれず私へも自然の流れの不可思議なる奇跡にも与えられたものへも振り返られず尊敬されていない知性の対者へ対してにも引き寄せようとし過ぎず操作せず、かといって迎合されるように表層化されてしまわぬ自身を保つ為にも、そして決定と相談のバランスのようにも伝え合う事と伝えぬとも共鳴的に進みゆける事の運的な流れ以外の技術面(肯定や寛容や余裕など)としてのマネージは如何に取り得るというのか?には自身へ現じた状況ごとへ対応しての学びをゆくにしかなく、それでも私に現じた現在は以前のような無理解と否定と対話不可能な修羅の繰り返しではなくなった中での適合との楽な成長の行き方となれたような恩恵を私には感じられているし、そしてその何処からかのみの一面からの学びではこれが真実の行い方だと言えてしまった人の愚かさを見て来ているようにも、この過程には色々な人や段階からとの状況を知れた事からの恩恵が有りた事もを感じさせては貰えてもいるのだ。

食などとも同じように息や体液や肌からに宿る、その者の質などを取り込んでしまう影響へ対して気を付けるに意識している事とも同時に、引き寄せへの操作でなく又は何があっても囚われぬ心の自身へ転じ然じていく事とも同時に、その者とその者との関係もが最高に上手く運ばれていく現実性へもの波動と祈りを送ることへと存在する事での恩恵を送る(贈る)のだ。 運ともいう流れとは、そこにも生み起こされていくものでもあるというように流れを受けるばかりでなく、受けるへ与えられていくものの質を転換させていく肯定の光照射の自身を化して生きるも良いのではないだろうか?

他者や自身も人間の楽しみや欲求も、その存在と現在のままを認め、しかしそこのみからも制限されぬ本質への移行へ共に関係や共有しあってもいけるという在り,行い方へと、教え諭すことなくとも働きかける統合方向(なる基準は見えず自身においての設定をせぬとしても)への共同を起こすように進む方法を(一面からのみの真実や道などという事にも取り込まれずに)創造する、自己と他者の同一的な流通の方法へとも至れないのかと私は祈り試しては歩みてもいる。 これは説明での言葉もあり詩でもある、私という宇宙の一個の表出だ。

(12/30)

それでも、僕が誰かや全体の為の解消点として粗そうをする程の役割とならずに済むようにはなったが、自分が為さずに済んだを祝ぐ事は即ちが(交換原理と犠牲と捨てる解体エネルギーとの相関で全てが動いているとは限らぬとしても)そこでの幸福とは自分以外の誰かがその解消の役目を負わされる事を祈りている事と同じになるのではないように自覚しておらねばならぬとも思われ、そこへの意識で光を当てる解消や又は避けられぬのなら感謝するというように事象と立ち会いていく意識と気付きの力にも生きてはいくのだ。

しかし意識のみで済ませても現実が変わるというような思想や試しの部分は、ならば大切なものの為に死ぬという精神論や真実の一面へも利用されてしまう。によって、やはり正しきと思われる一方へ片寄ってもならず意識で済まし肯定的心状により肯定的具象を起こす等と言う如何なる判断もを(例えそれが真実でも)抜け離れ用いずに、しかし同時にその相手自体(具体づつへと対応するでもなく)や世界全体への変換の想いと存在へと慎ましくも在れば良いのみに、自身と全体の既なる一体としての流通は行われ吐き出されているのかもしれず、それには肯定の歓びはありても自信もなく又は囚われさえしなければ全ては判断なく必然に為されていくを受けるだけとなれるのだとしても迷いにも囚われ生く生命もが既なる自然の到達点としての自身であるというようにも、つまり肯定の自身となりたからといって、その肯定的な現象化という結果への過程としてを求めるのではなく、ひたすたに只(非情に流されるだけの自然もを受け入れた同一と放棄の)自身が肯定へ変革されるのみであるにおいて、(例え人間が積極も持ちた動物と自然ではありたとしても)行為と自己の積極は捨て減らされていくべきという方向には在りて良いが伝えるべき真実面でもあるのかもしれぬ。

その結果の為の肯定ではなく非情も全てを肯定する自身のみを化し歩み、行為も挑戦も積極も可能性(期待への依存)の欲求もを捨て離れていく仏陀の方向でありながら、その生命を味わう過程を価値とし生を捨てず又は、それらを伝える創造もが良い事への自身となるへの必要を現実化される事を求めの方向として生くのも、他者ではない自分を個と自律によりて自己の最少を通じて最大の宇宙との一体的な境地また流通の状態へと明け渡し生くこともは、(それを集約し上手くは語れぬし、しかし僕に行いて来た自己の肯定としてだけではなく)真の本質かではなかったとしても現在までの到達の一応の真実としては、言い得るとも思われるのだ。

(12/31)
しかしこの私を現在に培い、その果と収穫の結果を求めぬとは言っても、そうした知恵へ化された(と自身には思われる)ものの発見を世や人へ分かち示せない私ではありて、それは自然に為されるへ任せ死なぬとも生き延びてさえいけば良く、その結果が例え世俗化だったとしてさえも受け入れていくのみの生と自然が為されて在るのかもしれぬが、ではせめて残したいとも望みてしまう自分は囚われと欲望の不自由さのみであるのかにおいては、物質的にも捨てる事での自由さという方向(大事ではあるがそれだけが唯一ではなく)などもへの思い込みで自身を呼び寄せる事の出来てしまう感性は悪くない豊かさだが、そうした一方面へしか生きられぬようにもなる肯定有効性の生き方へ単純になるよりは他の価値ともの併用面もを観察した上での統合的運用へ至り為していたいという自分には在り、故に物を大切にする事や捨てず残そうとする事にも(エゴの抵抗であるからだけではなくて)価値が有る面もとの統合性を見つけようと求め問いても良いとは思う。

ただし物などもの未来使用の可能性に囚われて不自由になる事は避けられた方が良いであろうし、ただ取って置くだけでなく、ちゃんと使ってあげる方面での大切に仕方などは大切でもあり、流れとの出会い方も(草にようにも)人への良いものを出し自身の行うべきを為すのみに立ち落ち着き突き抜け、求めてはいるが囚われずに流れを待ちているような状態であるに生きられる事は正しく楽でもある在り方ではあるも取り入れて在れるようにはなりたい。 それも徳のある在り方と迷いの効用の両方が一体的に至り着いた私の特性であり結果が如何なるものか統合へ(現在自体の統合や完全さの以上に)結実されるかにも囚われずに行われる存在の実生,自性を生く実験と実現の中での歩みの記録だ。

私は私の感受性によりて深く探る事が出来ると同時に些細な事象や機会からにも立ち会う必要が生じ受け取りて対応するという(最少限だが)行為と方向に消費されているとも言える、それは不便だが不便さの故に新たなinovationの進展へもの開発や挑戦が行われるというように(そして私の居る処とは正に現地球文明中の緩やかさや豊かの安定と地獄のような搾取下に生きる者たちの存在する多様のせめぎ合うedge effectの境界~dibergent~域の波打ち際にもおける苦と幸福と世俗と悟りのgoldilox条件にも適合されていると言う事も出来るだろう)感性は高め育まれる方向であるが正しく、又それを育む場である個という多様の基盤は機能しているとも思われるのだ。

ではそうした感受性の受け渡しの流出入において言語という身体器官による筋肉運動を通さなくとも伝達し合えるテレパスなどという方法は、科学的にメカニズムが成り立ち得るかにおいては生体も電気の媒介でありて生命は電気の一種でもあるというように有り得るし、効率が良いかにおいては発声より瞬間的に用いられ速度的に優れているだけでなく概念の受け渡しと深め方においても言葉的な記号同士以上であり画像的イメージだけでもない感情や触覚までも伝達できるようになるようにも意義は大きいかもしれぬが多様の場は失われ精神融合の常時化されたような機械融合との技術や方向への進展が優先される理由へも使用されるかもしれぬが、それで良いというのか? 単純な理想化は出来ぬが縄文的文明や石器時代的感性の生活体たちには、そうした能力の日常使用が或る程度には有り得ていたのではないかとも思われるが、それは発展段階の一旦的な結合や生活必要状態との均衡点であったのか、それとも今後にはもっと流通力を持ちた個の多様を必要ともせぬ全体器官の一端ごとへと組み込まれたような生の場が起こるへ向かうが良いというのか?

共有における対者間において、そのような流通が起これば浅く愚かな消費的生存のみに使用された感性たちへとも、この震えるような歓喜と愛の幸福などもは分かち得るが、彼らが感性へと引き寄せられる可能性もは相互に有るのだろうし、そこには或る程度のフィルター的隔壁ごとの情報流通や又は何処かの質基準判断に拠った流通力の格差,制限などもが起こるかもしれない。(それも悪いばかりではないが現在にも既に起こりて在る個人の共鳴質のみの蛸壺化において多様を排したり何処からの支配や統制に吸収されてしまう余地もがある。) そしてテレパシー的な交感に在りたらば、この現世界に生じているような齟齬や関係の取れなさや理解の無さは(減るだろうが)多様による異質相互のある故に共通具体が完全に取られるようになるわけではないし、だからといって全体が中間的な共通化などされたらば困るのでもある(統合本質的な共通ならば、全一体であるを知りて個にも行為するだけでなく個を越えて同一体化されても良いのかもしれぬが)のだから、では技術的な進展の方向と便益の依存でもある恩恵の享受が何を持たらすかへの想像,推察にもよる現在の進み方を観い出していく(現在の制限である知性だが未来や過去を見渡す事での)必要と発見の分かち合われゆく事は願う。

とは言え思想的文化背景への組み込み効用は有りても思想的方向に拠らず勝手に技術的方面への行き道を進んでしまうが人間であろうし、例え全体で抑制しようと数人の発端で開けてしまうようにも可能性ある事へ進んでしまう事は留められないであろうとは思う。

本質とは深い世界の真相の事であり、数学科学的発見面だけでも長く培われ来た原始的な人間本能の事だけでもない。

parmacultureのように共生の体系は科学(普遍的共通における発見)にも出来るし、それを知識的に全員が専門家とならぬでも意識の方向性だけが共通されていれば成り立つ社会の姿とは成れるのだが(日本も近世までそうで有ったように人々に知識は無くとも共生的生活や文化の実験方向も行いていた。)そこへ向かうには何らかの転換点が(人為によりてもよらぬとも)必要となるであろうのは(絶対ソフトランディング出来ぬという理由ではないが)地震が土を崩し揺り動かし大地の力をリセット,再生するように、世界規模での災害的な必然性は有るようにも感じられてはいる。

日本人の変質も、世界の多様に触れて取り入れた結果でもありて(洗脳も大きいが)取り戻せないものと変わらぬものの中に物事は同時に起こりて進んでいるように、世界でも保たれた多様と人類共通の統合や共有可能面は同時に進んでもいるのだろうし、又この未来の起こり方や技術と欲求肥大の文明化だけではない原性的な人間部は保たれたままにも(しかしそれは俗も保ちた聖への運動や達成でもあるように)挿し込まれ(対抗,反発的な力として出ても、もしくはそうでなくとも)てもいくが人間的な(人間判断段階を越えていると云われる、電子的技術の自動的発展やAiもを含めて)動きの総体へは宿りているかもしれぬ事へは、(もしかしたら)もう少し楽観的に眺めていっても良いのかもしれない。(しかしどちらの可能性も取り入れ見ていく事は、やはり大切であると思われるが。)

しかし肥大が止められなかった、もしくはそれが正しかった場合には、僕らのような生体や不便さ(と便益可能性との適合)もを取り込んだ中での共生的生存文明を目指すような方向性は、standardとはならず少数のみの絶滅危惧種のような保護または無関与,不可共有性へ取り残されていくのみかもしれず、もしく現在までの原住民的文化は滅し、僕らが代わって現在でいう携帯を持つ原住民のようなtechnologyも取り入れ一部は享受し得ながら世の運行の主流からは外されているというような分化された人類の上での一部となりていくのかもしれぬが、しかしならば例えsimulation世界から抜け次元越境への進化への道からは外れ関与出来ぬ処まで取り残されていったとしても、その中での共生的な幸福の生活と又は同時に悟り的な次元全体を包括,集約された現存在のみを生きるという生命の歓びと深みを達成出来た最少限にして最高の生存を実現開花されさえすれば、これが到達点への近道であり最高と言える事も有り得るかもしれない。

相違同士を共有出来てしまえば共有関係が(大概の誰とも)続いてしまうから、少しでも自分とは違うという面を感じたら共有の努力も、共有という流通交感における成長というような(苦や不便と同じく)修行ではなく早く即時に捨て離れ止め自身と共鳴性のみの分化や享楽性のみに達し融け込んでいくがのみで良いというのか? それでも関係性にも起こり宿る流れへの共同作業に観ていく流れという本質性の触れ合いが、必要でありているのでもないのか? 又はそうだとしても、それは現在の枠と制限における方法での肯定ではありて、達し得るならば必要不可欠ではないと捨てられていくが良いものでもあるというのか?

166,12/14,

166 12/14

私とは宇宙の力であり、それとは光と闇を統合し越えた光。
~I am the force of the universe, which is light that integration light and darkness.~

全てである私から浸透し挿し込まれて来る光と愛への充実と、宇宙の媒体自身が私を味わう事象自体でもあるに与えられて流れる、現在と生命を味わいて存在を生きゆくだけの真の幸福,創造,歓喜へ充たす祈りともなる。

楽観でも悲観でもない。 人や生命の悲哀を知りて感じて眺め、個別への解答づけを持たせずとも(そして共生的享楽でもなく)全てのものの意識的な進展にも伴う共生や存在内化の幸福が成されます事を微笑むようにも佇みて吐き出されている然化の私を放出でもなく宇宙が内包し我々を包み込むように照らす自然が流れを照応していく。

その私という自然の然化(流れへの)存在は静寂,寂性でも多弁や表出においてもなくとも、又は俗にありても聖にありても既には一体へと越えた、汚れる事がなき意識の澄んだ深然からの淵と境界にも渡りながらに棲んでいる越境の自由者となりて、物質を転換する魔法を越えて物質へも転換させてしまう統べた術自体と成りてゆく(この私自身が)道。 beyond & on awake. look forword to unificate.

方向性を用いずとも自然が全てを変化させるが意識の照応は光へと事象を済ましていくように世界は鏡であるとは、その流動の質に関しての本当ではあるのだろう。 そして方向性とは意識においてもの進化という自己選択へ引き寄せる変化現実を創り出しゆく自覚の持ち方でもあるにおいて我々の知性や判断は分別でありても使用させている事も(絶対の価値であるかは分からぬが)出来るとは言えて良いと思われはする。

世界は鏡という言葉もは全ては自分次第とも言えるが、全てを自分の責任と変革のみへ向けるというのも自己責任的な考え方ではあって(その通りでもあるが、頼る事も弱さもを認められず折れるか過剰に強さを求める事にもなりかねぬ)、そこには同時にも自分の能力や責任を越えているとも言えるだろうし世界に映された自身でしかないのだという逆接も成り立つのであるからにも私は映され移されたままの自身に在りてを肯定,納得し自己と責任をも放棄されながらに、その愛の照応へ世界を変革する自己と責任へ立つ事との同時,一体は有るが、だからといって自己の心(意識)のみによりて現実化を持たらす操作などが有り得たり操作へ留まらぬ為には認めて良いかという部分への問題を提起しもするのだ。


愛や自由や平和のようにも様々な意味面もを内包する故にも一つの言葉や事象を取りて(又、その連なりにおいても)共通のものとする事は基本的には出来ぬのだからに、全ての事には(今次元と現宇宙では)二面性や相極性があり、どの全ての状態や段階にも近似性が現れているとも言えるし(巨と微のフラクタル)、その全てが相似であるわけではないとも言えるように何処か一方には偏れず又は常にどちらもが有るのだ。

例えば判断せぬという言葉を一つとっても判断せぬ事へは判断せぬというような一層と包合の解釈ごとにもの入れ子的な肯定と否定や創造と破壊の連綿と一体の構造でもがあるように、我々人間においても肯定へ流し去ると流さず振り返り向き合い否定もある事などもの結び付いた統合へ私を渡す方向は(どちらみが分かる事によって進展が阻害されたとしても)我々が一人づつの進展の先へも組み込まれていくべきであるとは思うのだ。

生命は自体が歓喜であり悲苦でもあるように、しかし(どちらかへ至らせようとする事だけではなく更に)極相を統合しようとする事すらもしなくとも実はこの、どちらもの有る自身と状態に在る事が既なる統合でもあったとは知るのだ。

心身の具合などによって強制的な手段で症状が出なくては休めないと対症されるしかないのではなくて、もう僕は自身と流れ(生命)への立ち会いで自在に、休め指令の流れも拾えるように(少しづつではあるが)なりて来てもいる。 それは自然の流れに感じ、入り、従う事で対症しておくという(意味は少し違うとしても)未病への予防のような状態(それが予期でありてもなくても)の持ち方でもあると言えるだろうか。

(12/15)
人から、何をしている人なのかと聞かれて生きている事ではあり生存の仕事であると言うてもいるが、それは格好つけの言葉ではなくartistであるという以前に(生存は僕にとってのartだが人々の思うartとしては説明されない故に創作活動の方を言葉上は選択された方が良いのだろうし、又そうでない表現には確かに活動面へ生かせず生き延びるしかない自身への卑下や謙遜も混じってはいるのだが)実際的な僕の実感ではある。 そしてその生きるのみの姿と本質性の提示でもあると思われてもいるのだ。

そして為すべきを求め追い過ぎるよりも、余裕を持ちて(人間的な進行の感覚度合いにおいての)時空とも立ち会い、もし間が空けば何が今その時の自身には求められているのか?にも立ち会う事が出来、追われていなくとも立ち現れるように必要が見えて来る、気付きの瞬間ごとにも生きる事が出来る。という、流れへの乗り方の価値や方法をも示すへと灯す。

良き悪しきの垣根も判断もがないのだとしても、良きという(現在での判断だが)方向への発見であり固くなさなど縛り(の効用も有り、そこにも完全に区別は出来ぬが)の方向でなければ自分のままでありながらにも、しかし真の自由と真理,本質へと向かいゆく為にもへの手段としての個人基盤において振り返り、たがを外していく事の効用は(antiやcounter的な発想でもあるが)有ると言われて良いとも思う。

自己犠牲の本質とは全ての幸福の為に自己など如何にも小さなものと観念され、その自己を尽くし使用するへも又は尽くされるままに使用されて生きるのだという事へもの放棄へ超越しては生きる自由を手にする事でもあるのだが、この人間社会においては(東洋と西洋で周囲の為か神の為にか等は違うが結局)その全体主義的な全体または上位構造である人為への協力義務や強制へ操作,利用,吸収され絡め取られる依存でもあり、そこでの自己放棄は真の無私ではなく、又そうした自己を為す事によりて何が為せるのか?の圧力によりて行う事への欲求や動機が肥大されてゆく方向へとも使用されてしまう故にも、私に想う創作の自然的な示現の価値や在り方や方向とは(宇宙的連関の必然にも為され尽くされる非情な運命性への諦めと使用されているのみの自己犠牲でもある事や使命的な性質,能力においての自己選択を共生,相乗など全体幸福へ向けての判断方向へ伸ばそうとするにおいての行う人間活動の人為や自然も認めているには同じでも)創作的価値の肥大においての結果が行うべきことや自己を犠牲にして尽くさねばならぬという自己の肥大からも抜けてゆく、引いた事による自身と全体の最大効用化の目指し方であるが言われ示されていきたいのだ。 それ自体が難しいし、その説明も難しいが。

そしてその流れに為され生きるとは他律や人為に操作,利用,迎合されるのではなく自律で判断,選択,決定し生きる為にもと違わず同じ、世界自体である流れと自身の本質の自然や真実自己というものへ渡りていくことであり(それを何処までかは果てなくとも魂と呼んでいる自己を越えた自己へ触れてゆくこと)それが生命の生き方と到達地点どちらもの質として求められる、(如何なる方向も答えや法則もなく根本であるから正しいのでも又は決して至れず至る必要もなき全てが完全なのだとしても)方向や質的判断であり問われて然るべきでありても良いと言えるのではないのか。

しかし如何に言われ自身へと立ち会い世界を掘り出す気付きの効用と手段が真の創造と生存であるなどと示されたとしても結局は人間の浅さへ利用されていくしかないのなら、(それは時代ごとにも然じ置かれる一雫の関わりや人為進行の世への対抗力とも残されてありゆき未来指針となる意味や活動であるのかもしれぬとも、)示されぬ方が無駄を生まず良いというのか? それでも此処に立ち会い生き続けるにしかない自分へは納得していくにしかないのだとしても。

これら自己を越えた魂的流動の次元の自己と流れに近付き本質性へと触れてゆく本質(という判断)方向へ向かいて生きる味わいと気付きの生存を基盤として、与えられた能力や性質,環境などもの状況の使用方向を為される事が、自己のままでありながら自己を覆し続けるへも向けていく(共生,相乗などもが結果と過程へもの)質なのでもあり、又その全体の為に行われゆく自然の自身も世界もを認め放棄していくと同じに全体主義的人為からは抜けてゆくという判断差別の分別を用いていく事などもは、多分この繰り返された一つの結論,決着地の持ち方としては正しいとも言えるのではあろうとも思われるが、しかしその上でも問いは終わらず真の統合,到達,真理への欲求によりてもに深め,進み,覆し続けるのだ。(という生の姿勢と方向をも示す。)

私は他者への(自身でもだが)物事や対象の把握への言葉的伝達が簡易化も出来ず説明するのが不得意ではあると思ってしまってもいるが、いやそれは聴く側の能力の問題でもあるのだと転嫁されてしまうもの両方が正しいのであるから(どちらかに囚われ偏らずが良いとも同じく、他者の責任だけ方向へ肥大はせぬとも)自分の側の努力が足りぬせいだと(それは自己を進展もさせるが社会段階などとの適合労力へ繋ぎ止めてもいる枷とも成り得る又は成っている)思い過ぎたり自信を失う事もない。

よりて、それは聴く能力や努力の足りなさ故であると言い置いてしまうもが一つの提起性ではあるが、しかしその方向の同意が挿し込まれてしまいた者は(僕と同じようにも)この現人間的関係や状況の社会の中では生きづらく他者へも深く観る事や方向努力を求める厳しさもを持ちてしまうかもしれぬのならば、やはりそれが如何に真実へ近く良いのだとしても、その影響への私を置かぬ方が良いのか? 例え本質へ深め近付くという気付きや味わいへの分別作業が質づけや優位性へもの判別でありてたとしても、聴く事で感じてゆく価値は問われ言われても良いのではないのか? それさえもから抜けて如何なる影響をも生み出さぬ方向のみへ向けて生きるしかないのが到達の答えでもあるというのか? (もしそれが正しいのだと将来にも分かるのだとしたら正に今、僕は既に(創作活動化出来ぬ事も子ども達との生育へ関われなかった事も)それを完全に為され尽くされていたとも言えるのではあるだろうが。)


しかし与えた後は各自の捉え方ごとに任せた考えるヒント程度に使われれば良いのだという(仕方なさ又は強制せぬ為の効用でもある)納得では、ほぼ正しくなど立ち会われず使用もされず誤解的曲解や利用されるに過ぎず自己関与や言葉化の労力や伝達されたかった事の意味などは意味を成さぬならば、そこへ言葉を持って関わらぬ又は説明をなるべくに尽くそうとする事は必然的な帰決や結論では(囚われ過ぎぬならば)あるのでもなかろうか?<(日記より)
しかし話しの内容が針金虫のように人間も操られているのではないか,一神教の自己犠牲を強いる搾取構造の事,などを、それぞれの一視点の浅さごとからにしか見えない状態の人々に(全員がそうかは判断せぬが話し同士もが表面的な部分で噛み合わなさにあるのは常の事)言葉や首を挿し込む無意味さも感じるし疲れてもいるので関与もせず。 自分で感じ考えようとしている分に良いのかもしれぬとも、しかしあまりに短視眼同士の意見のやり取りや、もし食い違いが膨れたり更に一方から言われたりさえもするかもしれぬような世の段階の相と低さを見ては為せる事などは(多少にありたとしても、この場での必要は)なしと自身の言葉化へ試す事すらからも離れいる。

多神教でも一神教でもなくて0神教なのでないかと言う言葉とideaだけの二元相対性は、汎神論基盤や有無の質としての0でも無いらしく又、その0との一体には何処までいっても(無限の近似値は無限と見なすというのではなく0.00000...1でも0ではないというようにも)至れぬという想起は、どれだけ自分を越えた本質へ近付けるのかという意味においての考察としては正しいが、神の状態を規定するには狭く一方方向であるにより的がずれている。 そして人々は空や無という言葉(それでもそれを一つの基盤へ組み込んだ事の意義は有ると認めるが、)の語感的土台(浅いイメージ付けによる判断,解釈)に操作され過ぎているのでもあるのだろうとも発見され、つまりは考えようとしている分だけ良いとはしても(その各自と過程だけでなく)結論が浅いのではあり、その段階性での交流同士に意味はある事も認めるが論点はずれているし、それは僕に思う思考使用の正しい指向性ではないとも言え知性の使い方への(それも一つであるとは認めるが)質を、やはり僕は問いてしまうのだ。

そしてそこへ言葉を挟むには、浅く挿し込むか集約を試しながらにも或る程度の言葉数で応対するか。しかなく又、しばらくの間は(口を挟んだ責任で)その話しの連なりへ付き合い続けなくてはならぬ労力可能性も増すにおいても、自身での判断と結合の結果を表出する事に意味や必要が置かれる時も有るのではあろうが基本的には、突き抜けて捨て眺め置いていながらも結合への言葉化や表出の機会に行き当たれば、そこへの集約を挿し込みては(自己にとっての判断である自覚は持ちながらに)手放すのではあり、その機会の現ぜず必要なさそうであれば私はその段階での話しに巻き込まれては消耗するも意味を果たしたと喜ぶ事もの、どちらもが無いので良いのだろう。
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ではつまりは分かち合われる伝達の意味や結果の為に労力を費やす事もなく否定されて哀しむも伝わったと喜ぶもがないという基盤の上で、しかし言える機会あれば少量と集約を試しながらも挿し込んで離れてもいる位が良いのか結果に関せず膨大,過剰で整理されておらずとも感じ出現するならば行うが良いのか又は、それ以前には話さず関わらぬ処までへと突き離れているべきなのか?という最少,過剰,傍観の何処であるかへ此処でも戻り来るのであり、ではもっと自由な超越の故に出来うる在り方や自在としてもの、浅さへの表層的適合にも返し労力も楽しむ程に付き合いていながらに少しの隠された程の本質性を挿し入れておく位の在り方であるが良いというのか?

通じ会えぬが基本であるどころか、そこに否定までされるかもしれぬ可能性を犯してまで労力をかけて付き合ってあげる意味は(相手が聞ける者でないのならば)あまりないと放棄していてしまうもが良いのかもしれぬし、又は聴ける能力の差はありたとしても同じような差幅内での度合い差程度でしかなく人間や関係の大部分は曲解同士の交流でしかないとも言える故にも自身許容量が遊び程度と思える範囲以上は(生命をかけてでも闘うという関与方向への動きも有りて良い世界の上で)行わない。という決定や基準を基盤や共通のものとしてしまう事さえもが有りて良いのかもしれない。

一方的視点や判断の限定的知性で自覚すらもなき人間と、その向き合う努力のなさのせいで分かり合うも分かち合うも出来ぬが(それは理解能力の事ではなく聴こうとする意識の事であり)、その意識一つさえがあれば(僕の知性が素晴らしいからでもなく、この限定,制限的な知性の人間にも)流通は可能であり軽やかな多様の取り入れごとの交流,交感的交換の遊びともなれるのだというように、僕に言っている事とは(怒りへ囚われてしまう程に心が反応してしまった面では依存でもあるが、共有関係への依存や理解の強制などでもなく)実にシンプルだと思うのだが。

論点がずれていても相乗的な感得の仕会いとなれる連関や想起,感得となれる関係にある時は例えそれが、それ程に互いの進歩となるわけでなくとしても交流としては楽しめる。が、浅さ同士の観点が積み重なる時点では(時に冗談ほどの挿入は出来ても)それを統合的に運用し流通を催させる程の土台へ乗せるなどのような言葉化は僕には出来ない又は成しても意味をほぼ成さないであろう。ならばその言葉化によって図られる存在の深さなどを判断されたくもないように(そして合わせられない事は知性の質の違いの証明であるというようにも自負すらを持って抜けているもが良いように)やはり自然相乗的な場合の関係以外には、抜けていた方が(否定,対抗,労力の自己利益の為である以外にも)真理への曲解や利用を生まない為にもへの意義があるのかもしれないではないか。

しかしでは、もっと深く如何に感じとられたかという立ち会いと知性の質などを対象として判断しなくとも(ミィやメグのようにも)感覚のままに或る程度は深く(しかも楽しくや他者流通の交流も持って)生けるのであれば、それが如何に浅く又は途上の思い込みなどであろうとも(全てが本質と完全であるという意味ではなくて)本質に近いなら、そこでの(言葉化や)交流の深さなどもは求めずに各自同士がそれで良い。の上に表面的な付き合いと表出を関わっていけば良いというのみであるのか? しかし共有必要または共鳴可能な場合(家族や子供なども)においても、そこへの伝達をしないという方向のみへ諦め為さぬ基準へ手放しているだけになくてはならぬのか? つまりそれらは基準化せずとも勿論には、柔軟な状況ごとの対応だとはしても、知性的進展の意味も度合いや質も問わぬのか?や、更にはその本質に近くとも近くなどなくとも全てが本質であるにおいて放棄され関わらず又は表面的のみに関わり放り出しているという事のみが正しいというのか?<(メグへのmail12/14),子供同士の事で),
性質の違いはあるけど、その埋め方が分からない2人でもあると思う。 言っても理解しない方と理解しなくて良いと思ってる方ならば折り合えないし嫌になるのも当然で、僕たちのやって来た事とも同じこと。

だから僕が子育てへ生活共同していられたら(そこには僕の問題も大きかったから出来なかった面もあるのも分かっているよ。 でも打ち切らぬ事へ協力してくれてたら僕の状態も、もう少し良くなっての付き合い方も出来たと思うという伝達とお願いはして来ていた。) そこへの提案や2人の間を埋める作業も出来ただろうし、メグに言ってた子供達に同じ事を繰り返させない為にも、僕らの間を埋めていく作業から逃げずに統合されていかねばならぬと言っていたのも、そういう事ではあったんだよ。

これも僕のメグが好きだから一緒に居たかったみたいな感情の話ではなくて、何が本当に大切で感じていくべきであるかという流れの話であったり、無理して一緒にやっていくというのでもないけれど向き合うことの大切さと言われて来たものでもあるとは思うんだ。

だから全ては肯定に流し去るだけの真実は一端であるけど流し去るだけの自己肯定ではなく、そこへの作業をお願いして来てもいた。

越えられなかったことは互いにも仕方ないけど、越えられなかったならば、そこへの向き合いの問題が自身進展の為に繰り返され続けるか、自分が諦めたなら他の誰かがやらなくちゃいけなくなるんだ。 絶対にではないけど、大概にはね。

仕方ない事だしお説教ではないけども、そういう意味ではあったんだよ。という僕の側での伝達ね。 言い方は、ようやく柔らかくもなれて来たようだけど。

ちなみに先程(上記)の事も、それだけが全ての原因だと言っているのではなくて、その面としてへの意味や理由や解決策もあると僕の観察や経験によりても感じられた部分での補い(一つの答え)があるというだけだから、それも聞いて貰えたらとは思いて伝えるけど、これだけが正しく唯一の原因だという意味ではないからね。
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私は感情の話(そこには感情も伴うだろうも分かるが)ではなく、何が本当に大切で感じていくべきであるかという流れの話をしていると言うたようにも、そして別個の問題同士でもあるを混同せぬ二元的進行によってもの統合への作業でもあるといえるにおいて意味や効用はあると思いてもいるが、しかし向き合い解決していく方向への作業などもは真には必要ないというのか?


12/16
それでも言える事があれば(意識置く最少限の自由性だけでなく)試し関わりゆくも(例えそれが排除されても)良いのではないのか?

子供等の生育に関われなかったのは僕だけの責任でもなく協力してもらえたら協同も出来たのだし(それでも出来なかったかもしれぬが)例えこの苦しみは必要だったのかもしれぬとも僕の状態も良くなっていたかもしれぬし、怒りも助けての意味であるから、そこで切らないでくれる事へと助けてくれたら僕も押さえられるようになって来ていたので協力して欲しいとも頼み続けて来ても、向こうはその反応(してしまうは理解しても)を直そうと振り返ることもなかったのに、常に悪いのは僕の方だけにされ自分は肯定しかしなかったのも、その逃げと否定の強制が次の課題を残し自身が成長出来なかったのも、その故に子ども達の課題に残されてしまったり自身の見直す余地の為に返されているのも、分担出来ず僕は関与したかったのに出来ず子供たちを全部を看なくてはならなくなった負担もを向こうが背負い込むというアンバランスも一方的に決定を押し付け選んだのは彼女の責任であるのに、それもが僕のみが悪いと責められるを受け入れるしかないという苦に独り向き合い乗り越えようとする日々の地獄(これが僕の学びと成長の最善,最高だったかもしれぬとしても)を与えた事への自身すらにも気が付こうとしてくれぬ無慈悲と、自身側の理屈のみの感情的で利用的な提案または寄り添いへの決定へも僕は子供の為や彼女への思いやりでありながら子供と会える等の自己利益ともなる故にも(自己の意見は言いながらだが)対症的対応で否定面を返す事もありても基本的に僕は彼女の決定や気持ちに付き合い子ども達への方向提起する機会すらもほとんどに与えられていない事は変わりていないのだが、それさえにも気付いてもいない(言い伝えても理解しようとさえしない)というのは、表面的には良い関係になれて来たとしても良い関係などではないのだが言いても相手が分からず変わらぬのは少し状況が好転したとしても未来にも変わらないであろう中での関係と対応が強制されている事もは、やはり変わらないのだろう。

しかしそうした非共生的な強制の愚かさによる無駄や影響もを起こす過程取りもが、そのままでありても人為が破壊でありても反省による方向への進展などがなくとも、そこに生み出されてゆく結果が、"これで良かった"への帰結を生み起こしてゆくのなら、結局は放り出して自己の意見や意思すらを挟まず関与せず強制へ受け入れ迎合していくのみでさえもにあるのだろうか?

そして自己の言葉と関与を減らしていくのなら意識により想う変換へも(つまり識という行為,自己)関わらず抜けていくべきという事なのか? 全ての行為自己を減らしゆき、その意識と存在の方向とは真理に近付きては如何に伝えるかでもなく只、真理との一体自身に在るのみであるべきなのかもしれぬとも、私はその現実行為へ渡す流れと私の受け採られゆき方を模索してはいる。 全てを越えて包括する意味での愛と光の最少へ私は抜けて立つ存在へと化するへ向けて生き、では色象もが無いと越えた処からの色現象としての世界を受け取る行為の質と選択の仕方を、その減らしゆく実践の中で問いている。

今日は意識の使用と質の方向を何故に全てが無しであると制限自体から抜けるのに、生体を抜けぬ価値が有るのか?へとも感覚を通して実感していってもみる為に、生命自体の瞬間の味わいにfocusしてみながらに歩き来てもみたりする生命体験の味わいを(少しだが)通して私は成長し結果に達すとも達さぬとも関係なく、この過程を生きゆきて観ている。

生体は不便であり自己は縛りと次の連関への無駄な破壊などもの人為や世界の運行を催してしまう可能性の故の不要であると個をなくすのみが良いのだとしても、この個に拠りての世界との交感に交流,交換されて生きてゆく成長への道の両方が有るのなら、そのどちらを採るか?又はどのように融合や統合させてゆくか?なのでもあり、ではこの各自自然の流れを受けて為されるのみの、その質をも問わず人為利用からの流れに流される事もは宇宙の必然性からに味わい為される事とも何が違うのか?や、与えられたものを受け取りてゆくのみの一端素子同士であるのなら、その非情の運行に関与せず自己自体を捨て抜けてしまうもが真に生も死もなく自己を越えた、死んだ状態で生きる更に死んでしまうという答えではないのか。 そしてならば電子的知性の情報体と成りゆくによる世界の味わい方や次元の越境へ化されるが何故に良くないと(例え生体の理由や優先意味があろうとも)言えるのか?


人は超越を求めるものである故にも、個性の上位づけや納得によるidentityの裏付けと自己肯定を取り得ようともする承認への自動反応へ(その依存にも気付かず)起こされている(者が多い)。 だからその目指される超越の方向を見つけては与えてあげる事もは現在と今後の世界への大切だとも思うのだ。 そしてそこへ関わる創造を生み起こしたい私ではある事をも卑下せずに納得しながらも、伝わらぬ事が分かってしまった(そこへの制限にも陥らぬとも)行い方と術の無い自身の(意識と行為の)置き方を探してはいる。

いづれどちらにしても死ぬ(とも限らぬが)ならば、現在を最大に生きようという動機づけは正しいとしても、それは行う事へと駆り立てる理論へも使用されてしまうようにも私の高校時代に感得された感覚と想起の指針づけ等は真に近いが(その時にも既に知っていたように完全ではなく)深度は足りていないものでもあったように、そうした一つの(ニーチェ永遠回帰などものような)感起,感興に取り込まれていては良くないのでもありて、では超人思想は或る意味で正しいとしても優性判断や技術的進展へも取り入れられていってしまうようにヒトラーの言う神人やユダヤ選民思想ものようにも、それらは同じ覇権方向同士の争いでもあったのであるし、又はそれが正しい又そこからの掘り出せる可能性もが有り得たとしても宗教や科学的知見からにも洗脳されず取り入れながらも覆されていなければならぬような統合の知性が必要ではあり、例え文化的消費量が基準となる現社会であるが、それが優性的に優先される姿や存在であると思い込まれた差別的判断に取り込まれた者の質は既に浅く愚かだと言わざるを得ないという転換を持たらすへの可能性にも私は接続されて行為する者としての姿に成されたい(つまり真に悟りのみへ抜けて超越の自己化へ生の段階を抜けるよりも、その可能性への私を犠牲にしてまでも、この世界と現在を進展させる方へ私を使われたいという方向性にも選択され生きているとも言えるのだ。)

何処かへの依存へ頼りた判断を(一つの可能性としては取り入れながらも、だが人の限定的で浅い判断の能力では大概に、そこへ取り込まれてもしまうを理解していなければならぬのでもあるし、故にその弱さにも寄り添う手段としてもの信仰の道なども否定はしておらぬが)基準として採用している事は、それ程に愚かで弱い事の露呈でもありて選民性などの判断基準の取り入れ方へ自身を委託,委譲してしまった者もの殆どとは、その愚かさである(駆逐される 側でもあるという)事を自覚せねばならぬと示しもされるであろう。

そしてではその判断基準は企業社会~創作価値~存在する事のみ。へと移行され得たとしても各自独存性にある以外にはAiだとしても地域共同体同士を繋ぐ仕組みだとしても(つまりそこに人間が関与しても、しなくても)現在のような顔でも消費材化への発出能力の有無などでなく精神の深さや潜在的質性の到達度で判断されるようにもなった(しかし彼等が真に正しいかは分からぬし、だからcouncilの相談や意味もは有るのだとしても、増長による権力の執行の逆らえなさや政治的な交渉性などもが亦も起こってしまうかもしれぬとも)超人といわれるような上位概念の(全ては一つの如来の変化した姿だが階層建ての構築性自体は曼荼羅の中にも現然と組み込まれてもいるように)置かれ方とは想定され得るのではないか。

しかしその進む先は多分、技術の文明よりも愛による文明と生存の姿ではないかとも 思われる方向性を(しかしそこにも囚われず、引き寄せられてしまわずとも)模索し示されたいとも望みているのだ。 そして死んだ後に融合されていく(かもしれない)宇宙の状態や次元生命の度合いが、もしかしたら(分からぬ事だからにも一つの納得として)更なる上級霊のような存在一体へ化される可能性もあったのだと知り、生きている間にもっと自身の進化や所属文明への貢献を行えていれば良かったと後悔されぬ為にも、より良く生きての生命を使うのだという動機,動力に生きる事とは一つの目標取りの在り方としても間違っておらず取り入れられても良いような気もする。

宇宙(全体性という意味での便宜性で気軽にも使ってしまうが)の壮大さとは壮麗,荘厳にも過ぎるのだ。 一体この中には、どれ程の文明が興り滅し進化の過程を辿り又はその段階をも越えて発達を楽しんだり諦めたり争ったりもしている事か、と想いを馳せる私もがいる。

あまりにもその創造と破壊の行われ方もは壮大に過ぎて、私等が貴重な唯一素子の為の意味や無意味さすらも気にかけてもくれぬ運行と又は一体の揺らぎのみが在るのかもしれぬが、それでもせめて、この宇宙の又はこの種族,文明,惑星圏の私が属する(という垣根づけでもあり把握と制限でもあるが)範囲の未来と過去と現在においてもの哀しみを真の救いと幸福へと変換され返還されていく事を祈るへ立ち合える為もの、この味わい方との生命もが在るのだ。

我々は此処(という生命)を行われていく以外に宇宙の如何なるかへも関わる術などは無く、その至る先が何処かにあるのかもしれぬとも規定もされず、理由(わけ)もを知らず尽くされていくがばかりの、その行われる意識と行為の質を問われて見い出されゆくへの生命と知性を歩き歌う救いへの祈りの現在と統合を(既なるようにも)逝け。


その時代への現化ごとによる適合を超人的な価値が担う事もないとは言えぬが、転輪聖王などの施政性に委託してしまうが究極的に正しいとも思えない。 そして権力が腐敗するというのは、つまり何処でありても力のある場所に居れば、そこでの力の乱用は起き易いという人間自体(が腐敗する)の問題だ。

王道などもは王権を持続させる為に行うのでなく、いづれ変わるのだから(その移行期間などを動乱ではなく安定させられるかどうかの必要は用意されなければならぬが)その期間中に目指し置かれるものとは如何なる人々の生活や良き世界の進展の為のものが培える背景などを用意させられる運営が出来たのかの現在だけがあり(企業なども同じこと)残り渡されるのは結果、文化だけでもあると言えるのだ。

又それらとは血によって育まれる優位性や専門技能化の面は確かに有り得ても、この野蛮で遅れている人間性の未来が(多少の進展などしても発現種子としての根本は、あまり変わらず)そこに頼るわけには行かず民主的な交代や全員参加性による技能者の選別などもが組み込まれている仕組みは王権や貴族(そうした階層立てをした理由と、それ以外には無かった事も認めるが)の血統継続でない為にもへの有効な進展であったとは思われもする。


では子供にも教えてあげられる事のように、自身に立ちて決めていく決定者であるような生の在り方としての帝王学と、しかし弱き自身同士でもある故にシェアするへ結ぶ事などのバランス(や他者との適合,共有の仕方も)は大切である事などもや、その者の能力差や環境に依らず共通の価値観としても取り得られていく事などは必要であるとは思われもするし又、折り合いが取れていなくとも突き抜けて自身を行い、その裁定,決定,実行への指揮を取る者の行い方とは例え正しくとも、又は間違っていてもそのような場合や者は出るにおいても、やはり選択や共有方法の行われ方とは
見い出されゆく必要があるとは思われるのだが、しかしそうした決定の強制への者へ対する共有体の中での納得は(僕自身も、そう思うようにも)得られない。

そして身近者との関係においても、上からいってあげるのも対等である基盤にいる事もの、どちらもが大事であるように、そうした事ごとへの自身観察による日々選択と交感の中に折り合い又は自身の行い方とは見い出されゆくにしかないとしか言う事もは(それはしかし能力により左右されるが)出来ないのであろうか。

学校カリキュラムと平等な発達への平均性の有用生もは有るが、それはglobal化とも同じく共通への適合へ多様や個を制限されるにも通じてはおり、伝達や共有の仕方とも同じく何が正しいか等が(時代の判断や何処までいっても誰かが定めたものの以上には)分からず見い出され得ないようにも教育の最適化もは出来ない中で如何に何を教えられるというのか? その一つは感性の育成であると言えても、だからといって潜在的な深さや感覚的にはそこへ深くても(メグ,ミィなども結果は正しく又は全体が適合の既に為されているだけであるかもしれぬとも、潜在的に正しいからといって人為による破壊も良いならヒトラーが戦争や扇動の天才であったように、そのままで在るが良くしかも対抗もせず関与せず放り出していなければならなくなるようにも)結果として正しくとしても従い受け入れてのみいれば良いというのでもないし、又は理智的な(数学なども)作業が疎かになって良いという事でもないように(最近言われたりもする右脳主義的な主張もは片方面への操作でもある)、その民族や文化圏ごとの民衆状態に合わせた適合の多様性は有り得たとしても全体に強制して良い基盤的な共有は(法は真実的に基準を同じくしていくのかもしれぬが同じ施政圏から抜け出す自由選択性が保たれていなければならぬようにも)有り得てはいけないともいえるように、その意識の変換が進化されていけば付いて来る結果は任せておくというだけではなく、その行き方と行き着く先への基準もは同時に見い出されていく事が私の身近にも社会関与の提起性にも皆にもの必要と思われてもいる。

順位付けや自身を為さねばと思わされる夢という洗脳と同じく)の弊害は、自覚されている以上に大きく作用していると思われるように、競技ではなく運動自体を楽しむ運動会の在り方などもは正しいと思うが、そうした情報も単的に示されて取り入れるだけでは、自身過去経験からの印象などで競技によりて強い心身も育つ意味も有るのだというような判断を下してしまい易い(それも間違いではないが一方面への加重)人間であるに気を付けている事などもが(自身にも他者にも)必要だが、やはりそうした事もに能力などの制限は共通の基盤化されないならば段階ごとの生存を放り出しておきながら共通の社会現実面では誰かの決めていった、その社会での最適解答的な規律基盤に自身等もを寄せて生きていくのが良いというのか?

無や空という基盤もは一つの真理的な感得ではあるが、そもそも仏陀が言ったわけでもないように(その可能性の種は含まれていたし、それが有った故の発現と発展経過が結び着いたのではあったとしても)その一方面のみにも捉え囚われ込まれず、どの段階や状況にも含まれる普遍や統合の真実と真理への発展を(それが即ちに人類などへの基準化されなくとしても)私にもゆこうとする、それがこの歩みの姿なのだ。

しかし法などというものが本当に有るかも分からず有りたとしても適合出来るかも又は適合される必要があるかも分からないのだから、法や真理などの言葉さえへも依存されるな。

究極的な答えとしてよりも、人類の発展が到達性からの退行と進展を同時に行いて来たように(そして仏教的にも多種のvaliationを生み出した変節にもの各宗派ごとにも本質的なものへの道は保存,継承されているようにも。 そして退行と進展は今でも続いているようにも)それはその時代に合わせての必要,基盤としての一つの段階でありていても、しかし全ての者の苦を消滅させる唯一的な方法ではなく移り変わりていってもいるのではないか。 そしてそれらの全てにも渡る真実というもの(が有るかも分からずとも)へ向けての私を、(何処まで達せられるかも結果などは分からぬとも)歩ませていたいと私への自然は起こりて、歩まされてもいるという事だ。

ではしかし思想や伝達の方法にも依らず、(例えそれが、人為操作低でもある基準化技術へ吸収されてしまう可能性もがあろうとも)例えばhyper sonic soundなどのような環境的な設定の持たせ方に拠りてにもの人間,生体,共生的需要への生存性の変化を持たせていくような自然的価値へ寄り添った人為的変換性を快方向への生体使用の方法(刺激的消費もの一体と認めての)としていく事は出来るのか? 私の手段においても可能か? 出来ても何処までしても良いのか?などが人間社会の進展と挑戦の行き先の故に任せていくだけではなく見い出されていかねばならにという方向性には提起し得るものを提起されてゆきたいと思う。

そして、人間の快原則にも合いながら快楽依存せぬような方法と日常内での在り方の一体というような言葉にも言えている事は出来るかもしれぬが。 では今後に起こって来るvirtualな追体験に生命や生存が置かれていってしまう状況が社会の大概へと現れ実現されて来た時に(しかもそこには問題点の肥大と同時に新たな効用もが生まれているであろう故にも私も大多数にも抜けられぬ又は抜けにくいかもしれぬ状況での)そこで快依存性へ吸収されず均衡を取り、こちらへも利用しゆける(又は完全に抜けるのか?)への答えや活用性を見い出す事が求められている(いく)だろうが、そこに立ち合うよりも現実生活に取り込まれ短視点でしか捉えられない人々の代わりに私に行われても来ている役目と分担でもあるとは思われ(しかし時間があるからこの作業が出来たというのでもなく、この私の才能と役目と行うべきと思われ行われたかった可能性が自身方向によりても身につき実現へ呼び寄せられたとも思われているように例え結果は答えに至れなくとも提起されていく事へ時間と労力を用い従事して来た)るのだ。

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これら関係を通して見えて来たもののように、共有方向による相乗や共生と言いたり共生的共有と言いたりしても言い足り得ないのであらば、やはり利己ではない等とも同じように簡易に、人為の無駄ではない等と言い得る事も出来るのだろうか? そこにも違いはあるが違いは違いとして自身の創作や役割のままへ突き抜けて立ち行い、付いて来るものを受けゆくという共有の形でさえもが上手く共有可能面での役割分担を催す現実的利益にも通じる事へ繋げられる為においても、流れと役割を基準として人為を拝した進行のスムースさや互い共通利益の共通へ繋げておけるのではないか?

つまり合わず結果的にも離れるしかなくなるのならば始めから離れておくが良いのかどうかにおいても、そんな事はなく自己多様同士の役割や性質の相乗可能性面を共有する事によって相乗,共生,調和的な方向を創み出せるという方向を共有してもゆけるのであり、では役割と分担による流れの基準によりて共有や話し合い相乗の可能性も補関し合い人為性の対立や否定,破壊の無駄を減らす事による自身と全体もの最大利益を受け取り創造できるという共通観念を創る事が出来れば、それは全ての解決策なのではなくとしても今後の人類文明への第一歩とはなる動き方なのではないか。

しかし、どちらにしても結局その根拠なる根本は意識の変革,転換ではあり、人為を減らす事の実際的な利益事例を伴いて伝う事もは利用しても良いが功利的観点のままの理由ではなく、真の生命的価値としての味わいと交感によって現在と過程の私たちを生かし最大限に歓んでいく創造や、何の為に生きるのかというような理由からに見い出された結果としての共生的な在り方や人為の(全てが悪いのではなく)無駄ではない個性としての使用法の質を持てる事へも転換してゆける思想の摘出と発露を、自他(共存)共栄の(宗教でもなくsportsのような遊び的な実践の道としてにも行い得る又は電子的技術であるよりも、この生体の価値を伴いてこそにも最大化し得て発展必要にも依らず現在でもに行い得るような)方法としてもに宿し換えていけたらとは思うのだが、それはでは私の言葉的な意味性もを越えて流し出される音楽や創造などのみによりてもに表し出す事が出来るのか? 私に(最少性を取り入れながらも)何を語るのか?

私が身近さとの言語交流において試し行いて来たように密に付き合いての交感流通へ変換させようと等としなくても、また能力的制限に依らずとも誰でもが出来るものとしての術~すべ,art~に昇華する、人間の好戦性や創破両義の意味合い等もを理解し利用した方法として操作でもなく生命性の遊びのように自然にも引き寄せられては、その者の本質性へと導かれてしまうような手段としての道~dou~を開出し展開,提起しゆく私とは為し成すを成したいのだ。

そろそろそこへ、まとめ出してゆく時期へ入り来たのかもしれないとも感じられるが、しかし何を示すかの以前にもあるのは自己意識が変革へ達せられていくのみでもあり他者へもに伝えられる方向もの全ては只、超越の欲求のみへ向かう事の質であるのかもしれぬが、そこにも取り入れられている現実具体の在り方の置き方というのは現在世界とにも合った中道であるかもしれず、食や性や金(金自体でなくとも、ある程度の豊かさを得られる事)もは生存のみへと減らされなくても良いのではないか?という間ともの現実基準の適合点を求め探している私だが、しかしそこを少しでも認めてしまうと欲求への依存から離れるのも真に超越するのもが難しくなるであろう(或る程度の悟りへの総数は行き易くとも真の悟りへ至れる者は減るというように)理由が有るも理解が出来る故にも、完全に捨てるべきか結果への囚われと依存は捨て離れ抜けながらも自身を基にした役割性に基づいた共生,相乗的関係性を方向としての個別必要解と可能性を受ける事を求めても(社会状況が豊かさの平等である分配や共有的な自立ごとの奪われぬ生存に至れば、それは結果として実現もされているが)良いのではないだろうか?という問いでもありて、ではしかし悟りの段階は超越的でなくとも総数にも最大化された共生的な享楽享受と、その上でもに進展性を取り入れられているならば良く、この生体的な状態での生命交感へもの開花を根本に置きながら、その更に先へ進む為への技術的な補助が有るというのも未来の可能性と分化し過ぎず共通生を持たせた進展の仕方でもあるのではと認めても良いのではないか?

とは言えど人間は個人も全体も簡単には変わらないが、それでも先進意識者の間だけに響き利用出来る知恵ではなく全体共通の共有可能性へ挿し込み未来発現可能性への種と残すへと分け与えゆく私を成したい。

その為の創造の使用法として、言語の少量使用(でなければならぬのではなく口語での表現が僕には上手く出来ない事や書くにおいても纏められぬ現在までの経験による自己制限性を認めるにおいての仕方なさ)と集約の持たせ方など結び付いてゆく先は如何にして分かち合う形へと転化され表現され得るというのか?

また創造作品を監督し作り上げていくにも似て自身に感じている流れの創作を協同の他者へ押し付けるのは人為と自然の相反でもなく意思によって流れを繋げようとする人為の持ち方でもあるが、幾らそこに各自役割の尊重と相乗的共有の可能性が生まれていたとしても互いの意思と思惑が流れの 最適解へ補関せず至れず対立してしまう時には如何に共有し共通利益を得られるへ(そこへの役割者も出て来ないならば特に)向かえるというのか?や何を見ても一つの事象に対しての善悪判断を越えて関与せず自身の批評を投げ掛けない事は姿勢として評価されるとはしても、しかしもっと積極にさえも批評判断的視点を投げかける事もは現状や各自の意識と行為を振り返り覆す為にもの必要であるようにも思うのだが。

それでも例えば、自身信念や流れを押しきろうとする事は他の流れや準備を妨げるかもしれないように幾ら良いものだと思われても自身を押し通す事からは私は引いているべきではないかとも思うのだ。 つまり押し通さず言わな過ぎたり寄り添いて良しと認めているだけでもなく、自己の意見や批評的視点の提起も行いながら、それ以上の創造が起こらなければそれも良しとして私と世界の必要は為される必要だけ成されるだろうという意識設定へも抜けている。事が私現在の置き方へもの方向性である。が、しかしそれとは自己意見同士の連結によりて進みゆこうとするような西欧の通り過ぎて来た段階に辿り着いただけのような事であり先進究極的な在り方以前の反動的な現在力としてに立ち止まってしまった私でもあるのだろうか? つまりそこを越えて押し通す又は一切の判断,批評的提起もを為さずの最少や傍観性へも抜けていく等の(各自選択性は何処もが自由だが)どちらかを取らねばならぬのか?へもの私は何処もが分かる故にもの人類総体の可能性の中での統合作業を自身内に行いているのであるが、ではその行き着く先は先に言い置いた自身現在の結論点のような"中道"でもあるのではないか?とも思うにも還り来る。

自身において取り入れた情報にも結び付き戦争や災害リセットなど有り得る可能性への予見を高め備えたり挿し入れていく事は良いが、それはしかしその可能性を挿し込まれた事によって起こりても良い用意させえる為に協力させられているのかもしれぬがように、当たったと喜ぶのではなく自覚を持って世界へ接していなければならぬ。

そうした事へもの人間や意識と日々の使い方ではあると伝えられたとしても、しかし例えばイメージに操作や利用されず、その奥にある対象の本質や真実を観じる能力や方向性へ生きていく事は各自段階自由の多様において取り入れられていれば良いとはしても人によっては苦痛であり楽しくなどもないのかもしれない。 ならば伝える事は出来て又は聴いて貰う事までは求めても良いとはしても、それ以上は人間の各自や社会の動きへ任せてしまい関与も提起運動もせぬという程の在り方であれば、変えられる可能性への力を用いる事もなく良いのだろうか? 無駄を生み迷惑かけるかも等の結果への判断もなく突き抜けて自身信念とそこに有り得る可能性への力を(操作とならぬへの自覚意識は大切としても)最大に用い為そうとする世界変革への意思体的な人間と自己の動きや、その連関と必然的役割の持ち方をも否定してはゆくのか?

感情を共にして動かされる人形としての自己を捨てられなぬ哀しみの人間などで在るならば、この自動生起された感情や知覚的生命体としての状態も必然的な連関プロセスの一体として組み込まれ運行されているものであるが、ではその自動運動体である全体宇宙の為の歯車としての役割ごとのみを行われる為に、悲喜による哀しみを産む感情をなくせば良いのだという方向であれば生体も自己性もの必要は無く(自身多様の性質各自によりて生命を味わい進展してゆくが価値などもがなくて良いとしても)電子的な段階生命(による次元もの超越)が認められてしまう事にもなり得る故に仏陀の自己と最少と中庸などもを再考し再構築させなければならぬ次世代への基準や思想が求められているへの(答え出ぬとも又は他者や他の経路から答え出されてしまうのかもしれぬとも)私を尽くす生へ生き歩みてはいる現況と過程上の適合点の行いだ。

しかし例え平安,幸福,安定の様相へ至れる才能が有り得ても即ちにそれが根本からの悟りや本質での転換であるとは限らない性質上の者が、死にも囚われず利益も良しとした超越という真理に基づく解釈を言い訳として自己利益や目的達成の為に他者や事象を利用する浅さとならず自覚と自浄へ気が付いているように、私自身が偽聖者にならない為にもの嘘をつかないという能力は才能でもあり、この制限された自覚や知性でにもの本質を問いている生命の歩み方自体の価値は既に成されても在る自身を、(もっと自信も持ちているにも)認めよう。

だが同時に、その方向への突き抜けていく性質生命の動きと歩みは変わらずぶれぬとも、これがもし物語としての俯瞰に眺める又は物語のように描くのならば、私のように揺らぐが不動(極現在と統合方向の性質)という立ち位置の賢人の姿と旅はユニークでもあり面白いではないか。


12/6
宇宙の真理など真には分からず僕の発見や目指す幸福の質などもは度合いの違う程度での思い込みに引き寄せただけのものなのかもしれない。 それでも現生人類段階の中では統合にも近く、その積み重ねに発展されゆくにしかなく、意識と存在の持たせ方や思い込みの質において、これで良いとも言えるのかもしれないように解体と統合(否定道,肯定道)の両輪を自己と信託(自力と他力やjunyana,bakthi)の同時にも行いては尽くされていく現代と制限の中でもの真理への超越へ祈求に生きるがばかりだ。

私における生命と存在のままである創造が物語的な創作の形へと結実はせず、例えば脚本化なども出来ぬのならば放浪へさすらうだけの者としてもの納得と承知への自身を生きてしまうもが良く、それを映し残しゆくだけでもの(結果が繋がらなくても、せめてそこは求めても良いと納得するが)世界への貢献と種の分かち合いの私への形なのだとも知るように生きるを流れて、ではそれは人類共通の潜在からの想像,構築物である神話的な原型などでもなく仏陀が辿りた旅路のように一つの即興的な流れの人生の流れの中に見えて来る過程と結果の連関(それはしかし、それが結果映り込んでしまう事は有り得ても、何が有ったから何が成ったというような因果判断の連結を示す為ではなくて)である"流れ"そのものを映し撮っていく手法~life log的な~である(にしかないのなら)も良いのだ。

そして歌詞などを文学的な感情への表現へ捻ったとしても、どうせ真似へ使い回され再生産されていくようなものでしかないのだから意味や内容の違いへ託される創造の質よりも、そこに宿す存在が大切であるが良い。と、歌詞などを突き抜けて本質的であるが同じような事ばかりしか言えず説明すらも置けないという創造の形へと(それは現在時点までの自身へと化された結果を見てによる解釈でもありて、そこに制限されてもならぬが)帰着する安心の拠り所へと自身が至り着いているもが良いのだ。

では歌詞に宿せなくとも映像詩やspeachなどにも(この文での現れ以外へと、それら内容を結ぶartの形へと)言葉を結び付けていく為の段階へ(向き合おうとしながらも脚本や物語付けが出来ず進まぬようにも)至らぬならば、言葉による意識の流通を示し得ぬ(故に又も普遍,本質,統合への共有を関係へと生み出す創造へ為されぬ事での葛藤や模索もあるのだろうが別系統の表出だとしても、せめてこの文章には置けたのだからと自身納得させるようにも)事も、そのままで良しとしての現在経過の結果としてを垂れ流していく以外には仕方ないのだと諦めて(未熟で遅く世界貢献の形へも響く用を為されずとも、8割完成で良しとしていくようにも)いづれの結果が如何に通じゆくかへの囚われも捨てての自身に尽くされてゆくがばかりではあろう。


自然や流れに生きる事の価値などを提案し 得るを最大化する為に、それで在った事による結果を呼び起こすへ繋がりたいのだというような求めは自身方向の設定や納得としては良くとも、そこにも制限されず全てが良いのだと解けた上での(つまりtaoなる事で自身を自然へ融け込ませ、その価値の知られずとも勝手に変革されているだけではなく、その在り方が在る事によってtaoを世界へも分かち合える価値創造の結果へ繋げられるという結果への動機ではなく)為されるがままだけの自然の結果を、この現在過程に受けていくのみに放り投げられた私と自在を在りて叶えられて生くのだ。

これが起こるによりて、それが起こるかもしれぬという因果的な発想の制定は、結果への進行の自身を選択,決定しゆく方向としての意味は有り利用も出来ても、果の為の現在判断に取り込まれてもならず自身の性質や能力や方向もの設定や把握とは経験という過去からに決定されて来た制限でもあるを知りての解体も取り入れられている故での自由へ解き放たれているべきだ。

しかしその自然に為されるのみの結果へと選択し行う現在自身の自然とは自身を越えた全体連関の流れからに催され制定されている制限存在であるには変わらない中での自己を納得し諦めた自在なのではありて、つまり結果も、そこへ対する(求めも放棄もの)過程の選択採りと行き方の自身もは自己を越えた宇宙運行の自然に任されてはいるであろうという諦観にも流されて生く何を為すもが無く捨てられた、悲哀と歓びの果てに自身が化され在りゆきてゆく事。

12/10

運命とは非情な力であるが、選択は自身のもの。 しかしそのどちらもが必然的連関に紡がれてある、私を越えた流れ。 そして心も揺らぐ中での連関に起こされて我この日々を最大に味わいてはいる。

世界への大志を抱くも共有の求めも自然となる事からの結果へ自身も生かされたいと願う大義もは有りても良いが、僕はそこへの依存ばかりで(人間はこんなにも弱いものであると知る無力さへの謙虚さも良いのだろうが)しかと独りの基盤を覚い出しながらに立たせなければならぬは見失わぬようにせねばならない。

共有においても互いに我慢して譲るより、やりたい事や好きな事を伝え会って、どちらも行いていく方が楽しいのだし例えその全てを行えなかったとしても、その関係において向かいゆきたい方向性を示し分かてるではないか。 故にも、共有は共に選択へ補助し合い立ち会えるが遊びでもあり(自身への謙虚さにありても自信をなくし)引き寄せ過ぎぬようになどと気にし過ぎぬでも良いのではなかろうか。

伝えるへの配慮は必要だし自分勝手すぎても良くないが互いの意見を言いても相手を聞こうとするならば無理に折り合う共有の強制ではなくとも、人間間の大概において違いを尊重しあって差異を埋める又は互いの利益面を理解した上での離れると共有とのバランスにもおける分配や共存もが出来るというのは理想論ではなく、ほとんどに適用可能な実際の効用であるのだと提起も出来るようにも思われる。

自分のままで在り突き抜けて良しとしている事は現状と世界全ての肯定ではあり又、それは社会的な常識へ適合させていく事とも違うのだが、例えば発達障害という言葉は理解してもらうには便利だし出来ない事まで出来るようになる必要はないのだが、そこにのみ逃げ込み自身を保護する為の言い訳となるべきではない事などとも同じく(相手の操作とならぬへ自覚を持つ必要はあるが、自身を見返さねば成長出来ない。と言っても、成長しなくて良いから放っておいて。や、分別を教え込み過ぎても良くはないが排泄物を食べたら汚いよ。と言いても、食べても良いもの。では話しも出来ないようにも)自己肯定のみにも囚われず(かといって他者の勝手な押し付けや判断に受け入れ過ぎずとはしても)自己にとりてにも納得された成長への発見をゆく為にもへの過程と生命自身の味わいと進展の為に、分かち合いによりての成長という価値もが有るとは言えている。にもおいて自分はこのような性分だから、この道で良いのだと流通を始めから拒否した在り方は基本的には(相手や対した社会が分かち合えぬなら仕方ないが努力や全体の向かいとれる方向としてには)違い、多様へも聴こうとする事は大切であり僕に言われて来た尊重というものの価値とは、そうした一方的な自己判断のみで見ず他者理解の努力を持ちて行うという事なのだ。(が、あまりにもそんな当然のような事が分かち合えぬ人と世に付き合わされて来てしまったが。)

故にも過去を振り切って行こうとする先進性への性分や自身のままの多様自由である事が、全体の共有や対立にもよって進みてはゆく連関の一部としては一体であるとも言えたとしても、私に思う人間の在り方と進め方への本来ならば、そのどちらかだけでない統合を自身の中にも紡ぎ繋ぎ向かおうとする事の大切さが有るとは思えているし、それは聞こうとするという理解や尊重への存在態度だけで良い簡単な事なのだが、それらとはそんな事すらもが分からぬ(分かった上で努力もしたが出来なかったのですらなく、先ずそれが理解すらも出来ぬらしいと無駄ばかりだった労力と絶望の上に分かって来た。)愚かな人間に対する過度な期待でもあるのだろうか。<(12/8の日記より),
相手の違いに対し理解を示すも大切という話しから、でも意見を言うも大切という事を僕が言い、その意見が一方的な判断の押し付けとならず相手の意見も聞いて理解しようと出来る事が大切。と言うと同意してくれるので、この人は今までと違い(全てが始めから上手く行くのではなくとも少しづつに埋めていけるようにも)その関係に向かいていけるのかもしれないとも思えて嬉しい。 僕らの間と同じく子供自身の中でも、その違いの統合が取れるようになると良いし、現実での選択も(学校に行かなくて良いか向かわせるかetcも)今こうして行っているように、状況により話し合っていければ良いのだと思うと話す。
><(以下,日記(12/9)より,一部書き換え),
新たな共有関係の学びや適応のstepである意味には有るとしても、流れに対する期待への依存や、つまりは欲求の基準によりて優先されたり選ばれているのでもあって、それによる共有や社会との折り合い等への制限に自分から縛られていっているのかもしれない。 でもせっかく手に入ったものを余程に違うという流れや確証でもない限り、それを手放せる程に僕は強くない。

例え後から見たら普通に近付けられてしまっていたり欲求の期待と依存で動き制限し失敗であったと思うかもしれぬとも、そうではないかもしれぬし(顔の可愛さや身体関係と僕にとっての精神安定材や金の縛りよりも旅や食や旅館や遊びなど又、関係や社会との適合を試し培える事や移住の家や経営などもの可能性が)欲ではありても、の喜びや関係も作れるかもしれぬへの期待においても欲望も優先させる事も出来る事や上手く行くのかもしれぬ流れを試し見ていける事などもは僕自身に望んでいた流れでもありて、それを捨てず築いてゆく可能性への努力を伴いていく事も良いと思われるのだ。 と、僕は未だ流れの判断と欲求との狭間に惑いてしまってもいるのだが。


未だ僕は流れへの判断に惑い取り込まれているとも言えるが流れに判断も付かず結局は現状に与えられた事の中での対応自身の現在を行くにしかないのだから、これが欲による自己の縛りなのかもしれぬとも(他律からの洗脳的操作の流れにも利用されているのかもしれぬとも)その時ごとを感じながらに流れや状況を見て対応されていくしかないのではあるが。

しかしこれが僕の必要や最然であったとしても、ここでの自身を行っている事で超越へ突き抜けられず自身の創作的役目を為せず、しかも更に凄い他者が現れた時には比較に苦しむ事になるという後悔をせぬ為にも超越のみへ向けての自身を行い生くべきなのか?でもあるが、やはりそれも与えられた中での自身を生きるしかないという生き方での生存の価値と姿を示すにしかないと覚悟されてにも、生きられるべきなのであろうとは思うのだ。
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方向性は現実を起こす力もが有る意味でもの自身,自覚,意識の使用は本質へ照らし合わされていくべきとは思うが、僕がそうであったように現実と自身への流れは方向性にも関わらず必然的に起こされていくと見えるにあたって方向などは不必要であるとも言える(僕は音楽をやろうとなどとは思いすらもしなかったようにも)。 しかし本質的な発見と提起の共有者となりたい。 世界を救いたいという欲求方向は常に自身と離れず一体であったようにも、持つべき方向とは(性質の各自は示現されるままに在り行われる全てを流れの自身と認めながらに)本質とは何か。それのみで有るとも言え、その欲求(功利かどうかの判断にも依らず例え全体最適の個人なる事もが利己目的であるかもしれぬようにも)は正しいとも言えるのではないか。

そして結果にも囚われずに小さな目標への努力を歩む過程は確かに自身を育みゆく為の経験としてもの貴重だが、夢を持ち夢を追うという方向とは大人達が社会へ(又は良くも悪くも自分達でも分かってはおらぬ社会全体の進展方向性へ)組み込む為へと与えた(勉強や努力は間違いではないが、その勉強する目的性が社会一端化生存への動き,そこへの受験,その為の学校教育,というような)洗脳的目標の追わせ方でもある事を知らねばならぬ故にも、夢などが結果を追う活動方向の行為目標には反対の意見もを(その一方が全てではないと自身にて知りながらも)提起する私でもある。

夢など何かを追いかける為に生きるのではなく夢や方向とは、欲求の大志として世界や生命を如何に良くしゆく事が出来るか?のみで良いのではあり(そしてその各自が限定的知性で思い付かれた行い方の多様が共有されるのは良くとも、押し付けへ使用されぬ事へ気を付けていなければならぬにおいてもの自覚的方向は必要でもあるが)その本質的な大きな方向のみを夢として生き在ることや、その質として浅はかな段階での世界への良さという人間的判断へ取り込まれぬ為にもへ(自己という対立同士の無駄を生まずに)何が本当に世界や生命の為に必要か?へと向かい歩む事もが出来る方向性を与えるへの提起となるが私で在りてゆきたいのだ。

そしてしかし全てには自然が為されるのみであるにおいては、そこに為される創造と結果の達する質が低くかったとしても何の基準への判断でもなく(例えば、その者に行える物が音楽でしかないなどのように)それしか出来ないのなら行われるしかないと自身を選び覚悟,納得して生きる事を、せめて自身に選んだ人は、(その浅さへの指摘や方向への質の提起は又、別の問題としてするかもしれぬが。 そしてその生命にも意味はあるとしても社会的な制約の以外は認めないという者からの強制や、そこに慣らされて生きている者よりは)それなりには僕は認めてもいる。

12/10
しかし各自の段階差や創作の質には判断もせず只その持つべき方向が、本質的な方向や良き生命へ如何に生きる自身となるか等の大志や欲求のみで良いとはしても、そこへ向かいてさえいれば現実具体においての何を行いても良いのか?や、又はその段階での方向や具体行為化の判断が思い込みにもよって間違っていたりした場合においても(例えば卑近だが現在の人間の良き世界を創る奉仕への為に自然界や生命から搾取して消費者への経済効率を目指そうとしてしまったりもするように多少の進展をしたとしても人間は短視点的な勘違い等へ邁進したりする故にも、方向やスローガン目標が合っていたとしても具体の質は問われなければならぬのではないか?とも同じく)判断段階の質や行為の内容を問わず放置し具体的基準を示さぬとも良いというのか?

それは例えば平和の為に武力廃絶も核抑止も両方の考え方が有るように、平和という目標を共有出来ただけでは各自判断や行為の具体は共通せぬように、そこを見い出し働きかけようとするもが正しくないと言えるのか?

そして又、自身に与えられたままにを受けて為される各自が自由も必然的連結である世界自体を認めながらも、その各自に行える事を行い可能性を追うを止めさせなくて良いのか? それはその者が本質の方向へ向かいているかさえにもよらず全てが本質と完全自体であるという中でもの判断段階や存在,行為,創造へもの質性を問い提起せぬとも良いのか?でもあり、では方向,具体それぞれのままの良しとして無関与,無行為で在るのみか、それでも何処までをその方向や具体へとも関わる私となるを置くのか?という事でもある。

全てが完全であり良いと放棄された世界に在るへ変革されて、如何に何処までを関与する私となれるのか? 人為に対応しての自然を挿し込む私のままにも在る事や流れへ触れ乗りていく自身となる方向や性質などもが不必要だとしても、その宇宙のままを為されたい私における私の置き方を見い出されたいのではあり、この繰り返される問いと発見の一端一旦ごとには日々と発展(堂々巡りに見えもするだろうし、全てが身に付いているわけでもないが確かに進展の道呈を歩いている段階ごとの成長の実感は有る。)を至りていると思うが、それは未だ完全な統合を見ず、それでも繰り返し現れる結論に近い点を真実として採用してしまう事は出来るだろうが(そしていつまで続くか分からぬとも)そこでは停まれぬ私では在るのだ。

しかし何が本質であるかも(有りたとしても問われる必要なく行われるのみがあるのかもしれない)基準も判断なども無き非情へ超えて行われる自然の運行と世界での、自身と普遍の基準を知りたいと望む性質が自然である私自身も、何の判断も無いはずなのに放棄せねばならぬのか?


本質,方向,基準,判断も何を如何に伝え行為,選択するのか?や、流れも現実化も(食や性も)上手く行くも行かぬも心身状態や愛の関係や創造や金や拠点も環境の整わぬも旅などもの必要と判断もの全てを流し去る。 欲は、その為の道具。でもある。

流し去らなければ、確かに惑い続ける事になるのかもしれず、欲を或る程度に満たした享楽では、もしもそれ以上を求めぬ事が実現されたとしても更に深めるへは向かいにくく、それでもそれを技術や文化的背景が埋め悟りへの生存と日常へ化させる可能性は有ろうとも苦の現実状態を無くそうとするより、その苦や欲が有る状況の用いる方向と使い方として自身が捨てるのみへと使用するという存在の変革の道は未だ未来普遍への価値であるのかもしれない。<(以下,/9,夜の分~への繋がり),

そうして人為の無駄と破壊を共有や共生へ向けるというように、せめて出来得る事を望むかどうかにおいても囚われ過ぎぬなら(もしくは囚われても)ある程度を求めても良いのかもしれぬとしても、それでも求めぬ自由を得るへ捨てていく方向自身へとも向かい立ち戻らせねばならない基準と根本には在るのだろうとも思われる。

しかし、本質とは何かへ向けての自己化を生きる欲の良さのようにも、流れに触れていく事や自然や人為の無駄な破壊なき共生や共有などもと同じく、肥大せぬなら或る程度の得る事を求め叶えられる方向へ目指されても良いのではないだろうか?

欲を肥大せず囚われぬとは難しいし、その為にも流し去る自身調整の坐や方向などでもあるが、しかし苦痛でもないが享楽にも過ぎない現実利益でもの安定が取れるなら、何故それを目指し行いてはならない? 得られる事によって本質へ深く向き合っていけない人間の質はあるとしても、全てを打ち切りて最少のみに減らしていかねば心の自由と幸福は叶えられないというのか? それは根本的な転換と手段の一つではあるとしても即ち(科学や数学で、証明出来ぬから無いとは言えないように)絶対唯一の基準であるとは証明されていないではないかとも過去の知恵に言われた事と自身にも(が、それによりて真の統合に到達されるかも分からないが)立ち会いてはいる。
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本質方向でありても欲求は肥大し、ならば流し去りて何をも求めぬ自在性だけが唯一の自由や幸福への答えであるのか? その自身と心の変革現況のみをゆき、現実状況を変換してゆく努力や望みや判断もは全てを捨て本質が何であるか等のすらにも関わらない、自身と必然的連関の流れを生きて為されてゆくだけであるならば、ではその自身が望む流れや統合の基準や本質などへ向かう欲求の生起もは、それ自体が正しいと云える事とも矛盾はないのではないか?

しかし如何に生きようと選択が自身の勝手と強制または他律からの迎合や操作に利用や搾取されていようと、世界の連関に自然が催され起こされている以外に自分の意思などで行われるものはほぼ無いのだから、ではやはり本質など無くても求めなくとも全て各自がそのままに行われているに放棄し、その故にも放棄せず自動運行の一つの宇宙の形である私を自由に思われるままに行い関与する世へも吐き出し本質的基準や流れに触れて生きる欲求と求めのままにも行為,選択し存在されていくだけが良く、為されるを受けるのみの中での生命体験の各自における味わいのみが生命価値の最高化であるのかもしれないとは思われる基準にはあるのだが。

流れを違えても、何が為せぬとも、こんな僕でいるしか、どうしようもないんだ。

ぐずぐず等してないで小さな枠にしか抑え込まないで、もっと超越的に行為していられたらと、いづれ想う事になるかもしれぬとも、これが僕の仕方なさであったと思い返して納得するを承知しているしかないのだともいうように、この姿に突き抜けていくしかないのが僕に与えられた自然である自身を行いゆかれるのみではありているのなら、やはりこの現在や世界と他者のままもを認める事と同時に如何なる判断もなく流される各自のままを放り出して、自身に為される性質と現在と交感の生命をゆく事、これ自体がこそのみが価値であるとはいう事か?<(以下,12/6の日記より抜粋),
今日は流れの違いも少しづつに有ったようだが、これが調整となりているのかもしれぬなら流れは良い日も良くない日も有るに一喜一憂せぬ自身へぶれなければ良いが、上手く行かぬ流れには上手く成されぬ自身の状況を見るようにも、やはり哀しくなって来たりしてしまう自分が居る。

寒さ来たりてに合わせて調子は悪くなる。 やはり未だ欝な、この状況の自分なのだ。 甘んじる事なくとしても、やれなくて当然な自分のままにも、これが精一杯に生きた僕の跡だよ。 これ以上には出来なかったと知るにありても仕方ないのよ。

誰と比べる事なくとしても、何故あんな物ばかりが持てはやされ響くのか? 僕は世界への力になれず自分のしたい事も出来ず又は追い付かない。 これも優しさなのだけれども。 僕が寛容であれるを試そうとし過ぎる以前の土台に、共有や相乗が僕を支えてくれる関係が、いづれ自然にも成るかもしれぬを求めたって良いじゃないか。

youtubeにて自分の動画を見ると(再生回数は366と33)世界の片隅で振り返られる事もなく密やかに咲いているけど、例え誰かへの成長にも救いにへもの意味がなくても、僕への効果や救いには寄り添ってくれているものを、創れたようには思えた。 (でもそれは僕にとって、ちゃんと凄いものを創り自分は為せているぞ。と思えるからでもあるのであって他の人が見たら却って嫌な気分にならないとも限らないし又、言葉が不必要であるかの証明とも言えているわけではないのだが。)
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12/12,

下らない創作,消費物や、そこへの人生の 在り方にも(宇宙に比したら私も限定的な生存であり又この在るがままに与えられていくを行われるに過ぎぬは変わらない故にも質を問わずとも)そこでの世への意味は起こるだろうし、そこには良く見える結果も悪く見える結果もの両方が宿る(又その可能性がある)故にも功罪への断罪は付けられぬのだが、それでもこの方が良いのでは?と自身における観察と経験による判断の提起は良いのではないかとも思われる。

しかしそれとはやはり、どの程度の真実として近付いた自身と成れたのかによっての深さと質がそこには問われるべき、つまり他者関係,影響上の自身責任を考慮された事からの自身存在の置き方は、何を如何に発し在れるのだろうか? それは深く真実に近い処へと問い(所詮、自己の枠や制限における判断であるは変わらぬとしても)掘り下げられた結果なのであろうか? と自身へ立ち会われた事からの結果としてもに一致する生や自己の質へ関する問いではあるのだろうという事もを提起したいが。

世や自身の傾向付けなどに対しても、それは自身経験に培って来た自身への真実ではあるが私の周りに起こった事象においては本当であったという程のものにしか過ぎないのでもあるし、断定ではなく自身の問いにもよりて覆されていくこと。 かといってそれを挑戦という価値への理由付け等にもよって他律からの操作へ任せたり応用されてもいけないと言いては置くが。

(以下一段,日記分,一部書き加え),
新しい時代は性などの欲にも囚われず価値も置かれない人間に変わっていくも良いと思うし、もし彼女が本当にそうだったとしたら認める(中での均衡の取り方を考えねばならぬ)が多分そうした新価値観の使用可能性を、自己傾向付けの方向や理由づけへ利用し引き寄せられる事へ用いては自己や可能性を制限してしまう人も多いのではないかと思えるとも同じく、全てに両相面ある内の一方へ傾かず一時の判断によりて打ち切ってしまわない事へ自身で気付いていて欲しいとは他者人間や社会に対しても思うのだ。

ただそれらは囚われを抜けて自存して人間の不浄からも離れられる良い方向にもあるのかもしれぬが、独立的生存が対者(人間も他の生命交感にも)不関与や電子的融合へと向かい吸収や(それが絶対に良くないとは言えぬが、或る種の思惑への捜査などへも)利用されてしまうかもしれぬようにも、どちらが良いとは(その過程採りだけでなく結果としても)言えず分からぬが、(人類や本質にとって何が正しいかは判断出来ぬとはしても現在の僕にとっては、それがないと困るとは言えもするのだが。) それはこの生存自体と同じく性は悦びでもあり生命体験の使用の価値でもあるが依存への苦しみでもあるように(又、欲は喜びと苦しみをどちらの面もを持ち)、享楽と苦痛のどちらにも過ぎぬがどちらにも掛かり人間的な歓びと抜けてゆく非情の運命への放棄と現在や進歩の到達の未来と過去にも橋を渡すような生命活動の間に統合的な均衡を持たらす方法を見い出す事自体と、そこへの方向というものを(向き合い覆し続け深めてもゆく事の中にも)私は提起してもいる。

(こうした故に深める事や、制限体でありてもそこへの知性の使い方としてもの自己を通して根本や生命の本質にも触れ達してゆく事の価値などは全てが例え自由でも、こうして肯定されているとは思われる。)


何かが有りて起これば何処かで他への影響が反映されるという連なりが起こる現実的な事象としての因果における意味として(良いや悪いの差し引き的な相殺ではなく)全体の中での影響がカルマというようにも何処かに出る役目や解消を誰かが受けねばならず(良いも悪いも)、その連関が全てにおいて行われているだけを眺め観るだけに過ぎぬのかもしれぬが、例えそうだったとしても人類の生み出している無駄が減れば連関に起こるものの質や与えられ方などもは変化し破壊的な影響を解消し済ます進展の為の犠牲も(交換原理が全てに適用されているかは分からぬとも世界が交換,相互影響されあって存在,運行されているとは言えて良いだろう)は減らし柔軟で滑らかな進行(それによって真に真実方向へ進展されるかは、また別の課題だが)を享受し易くなるとは言えるとも思われ、その方向を示し目指すも良いのではないか。 (しかし如何に提案し関わるかは、この文章以外に見い出せず私に未だ(それともずっと?)結び着かぬのではあるが。)

何があろうとも起こらなかろうと意味付けの納得は出来る(又は判断的な知性の我々にありて流し去る為に納得するしかない)のだろうが、それでも現在の私に感じられる方向への生命自体を使用し行いゆく為へもの望みは持たれ行われていっても良いのではないか?


時に来たるdepression状況も、この程度で済んでくれれば良い方ではあるが未だ有るを認識しての自己段階をゆかねばならぬが、それでも日々や関係もの生活の在り方に均衡,適合,調整が起こりているを観ていながらに私に与えられたものを有り難く受けとりては進む。 以前よりも多少は全適合状態の実感的感知を減らしたとは言えども、やはり適合は流れの上手く繋がる時も繋がらぬ時もに起こりてはいるようには私と世界の全ての状態に観えるように感じられてはいる。

そこには勘違いや思い込みや経験に基づく自己判断などもが行われている可能性もあるし、全てが完全にではなく微妙な差異は起こり、それでも調整された一つの世界が運用されている解へ至るのか、少しづつに差異が拡がり適合的な運用や可逆が不可な未来への分岐が起こるのか。は分からぬが、(例え未来への連結や時間の可逆性において全てが決定されているのかもしれぬ可能性が有るという知性,論理的判断性に依らずとも、やはり日々に立ち会う流れと世界へ出会いゆく中での感じ方の面でも)それでも起こり得る事が起こり得るように積み重なっているような必然性を感じる。

世界線の分岐したパラレルな並行性(完全な併行であるとは限らず時間の流れ方にも差異または相互関連性があるのかもしれない)という可能性が絶対に違っているとは言わないが、量子的振る舞いの一分岐ごとに別の世界が生み出されている(又はその全宇宙の可能性は始めから行われている。そしてこの瞬間ごとにも消えている(?))というような想像は(想像を排棄する必要はないが)、この現在だけでこれだけの調整や適合への連結が複雑に関連されて為されているように見える世界では別ルートごとの世界が無限に生まれているとは、僕には思われないという意味では違うと思うとは言っても良いとは思われる。 しかし勿論、宇宙の規模は壮大に過ぎる又は全てが仮定状態で揺らいでいる仮想シミュレーション全体中の一端を現在と感じられているだけにあるのかもしれぬようにも(安易なideaを素晴らしいものとして発す事などを否定しているだけではありて)絶対に違うとは言えぬし、それは一判断には取り込まれず対案を自己内包するというような統合性への考え方などを人類の方向性へ挿入したいからではあって、一判断への集約ごとが次への連関を起こし進んでいるというような人類の方法と在り方を否定しているわけではないのだが。

ただし発見や、それに触れた事への感動を感情,情感的に乗せる文系的文学的表現への文章化よりも理論の言葉で、しかも複雑を安易に解釈せずとも噛み砕いて解説する方が同じ作成者や評論者であっても高度であるとは思われるようにも、その質が如何に真に触れているのかは、やはり変わらず評価の基準であるとも思われるが、それは心の内実を如何に表出するかとも同じく一つの対象,事象,案件に対して確固たるはずの数学的方法もは各自の捉え方によって他の形や経路にも使えるように結局は言葉も数もその表現的素晴らしさと制限の両方に同じであり、その者で感じ在ること同士が有るにしか過ぎぬとも言えようが。

この宇宙も越えた多元宇宙や今宇宙内の他次元同士の相関の全状態にも併行された、multiverseと量子一つの選択状態ごとの数の宇宙を全て掛け合わせたものが一体運用されているなどというのは(その計算量の問題は時間の流れが定量化されぬように、この宇宙の制限を越えた次元からは難しいのでもないのかも分からないが)それでも全ての可能性が有り得る故に、それは有るというような理屈は乱暴に過ぎないか?

又はその全体的な連関にさえも計算素子として我々の自由(と見えるマクロな個別の状態であり宇宙に対してのミクロな状態)意思と選択が有るによりての宇宙の選択が起こり得ていくに寄与しているのかもしれぬが、それら現実的選択の私自身によりて起きた事もへの繋がりを起こす条件や意識への起因は量子的状態や他次元からの流通によりて規定され行われているのだとしたら、やはり宇宙は次元や時間の全体が絡み合っての粒子たちが流動のように、もっとずっとミクロで壮大な段階からに規定されていると見られはするのだ。 しかしそれらが時間の流れによりて絡み合う進行への連関もの全ては、もしかしたら先程に触れた可能性のように全宇宙の可能性は始めから同時と一体に内包,実現されている融合されたスープのように流動し揺らいでいるのみにも在るのかもしれないとも思う。 (これもは数学的,論理的証明への言葉ではなく可能性の想像ではあるが、断言ではなく感起への仮定の取り入れではある。)

そしてそのような壮大さへの一想像としての、宇宙は銀河団というnet状の流通路が(world wide webのようにも、そしてそこでの時間的な制約は全くに違うスケール又は仕組みの中で働いているのかもしれない)機能しての巨大な知性であるのかもしれない。 そしてそんなにも巨大で全てはその為に行われているように自身を生み起こしている(しかも現宇宙に留まらぬかもしれぬ)存在を神とも言うのならば、その神は天上などの何処からか客観的に私達を観ているのでもなく、それ自体として同時に味わいているのであるかもしれぬし、それをこの個という枠の中だけで感じている存在体と(実体でありてもなくとも)してに味わいているのが限定でありながら神行いの一体である私たちなのかもしれない。 ここの意味からにおいてもの私たちは(それを知るならば)自身自体が神なのだ。とは言え、ならばこの私たちの存在を段階的に進歩させてなどいかぬとも、その自身を越えて見つめる眼差しの主体者を変換していくのみによりての私のままに在りてにも神が自体へ近付けて生きられるという価値と実現の道があり、それを本質へ尋ね訪ねては触れてゆくのだと私に言われ目指されている(囚われや欲求の)先にある幸福実現の意味であるのかもしれないではないのか。<11/28~(この頁上部に書き有りたもの,+加筆),

宇宙の原始期以外にも他のエネルギー状に生まれ存在する知性生命性は(他次元にも今次元にも流通し)有り得るかもしれぬが、巨大な宇宙の全てが全て(どの段階の生命性に対しても)の為のものとして運行されている、そのもの同士のみが部分ごとの役割と連関にあるにも限らず、そこへの階梯性を自己意思によりても上がりゆけるかもしれぬ知性体である特権として上昇し続け至る事を目指さなくばならぬのか?においてもの答えともなり得る。 それはこの果てが無き進展から降りて示現された自身のままに変換しゆく事が出来る最少と生存の道と(未だ完全に正しいかは分からねど)なり得る一つの考え方でもあるだろう。

全ての人や存在が宇宙や時の全体の運行の為への各自が一端子(と僕が呼んでいるものとは固形の接続ジャックの事ではなくて他次元から現世界現象へ突出した固体的な点としての各自一端ごとの種子的な役割や運動自体でもある全体流動中の各粒子の点滅のような動き各々の印象の事である。)としての役割を行いているだけであるに、それは必然(などが有りても無くても)的な働きや動きなのだからと放り出しているも良く、そこへ関わるは私の姿を通して置くに見せるのみでも良いのだ。

全体相関において流れている(と見える)全連関における現在と人間での必要を最善,最大に行われているだけの各自が在るに過ぎぬのだから(それを知らず、また感情や自己のある故にも哀しく、知りては全ての肯定へ諦め放棄せねばならぬ非情でもあるが)それらを全てが宇宙の必然を為し成していると認めては放り出し、そこでの私は私への自然~jinen~を行うへの選択,受け取りへの生命交感(交換)をゆけば良い。とは言えても良い事ではあるだろう。
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しかし非情で巨大で手には負えない全連関からの私各々を与えられての流れ(せめてその本体からの味わいの眺めに近付きては世界を観ていられるへ変換させる事くらいは出来ても)に生きる事は変わらぬ悟りと苦を取り外す道でもあるのなら(釈迦族の虐殺へ、止めよと提案する事もがないように。 そしてそれは自身の悟りとの引き換えであったかもしれぬようにも原因と結果などは見えず判断出来ぬ上で投げ出していなければならぬのかもしれぬようにも)例え苦を誰かが受けねばならぬならば(連関における解消分や役割などを減らせるへ関われたとしてもであり又、関わって良いかも未だ明確化はされておらぬが)それを与えられてしまった者による知られぬ犠牲へも自身の足と覚悟と選択で立ちて世界を調整する役目にあるを俯瞰と超越の視点と自己のみで在る事に突き抜けていなければならぬというのか?

162 11/26

162 11/26,27~

こうした苦の経験もを基に、自身反省点の考察的気付き等を通して全肯定の愛や状態化へ向かうよりも、坐り祈るような日々と自身を持つへ向ける事、つまり知性的判断以上の流し去っていくような意識の使い方一つのみでの解消,解体,創造と転換などへ自身も世界もを(方向というのが操作であるとしても)呼び起こしてゆく源流の力自身と化するへの自身を養う為への生存と日々の味わいと彩りの過程,価値自体を生くもが良いのだ。 気付きとは如何に深く世の真相に触れているかの事でもあるが、それ以上に知性に拠りて味わうもが出来る価値をも越えた只この平安の実相に触れた一体の自身へ安息していく為の物であるのだとしたら、その深さの質を基準として問い求め説いてしまう私の判断知己が如何に現在人類の問いの立ち会い方の過程や中では相対的には深い相を宿していても、意味などがなく現人類への端相でしかなく上位の愚かさでしかない事を把握,認識しての私を置かれゆくにしかないのだろうか。

この自身を行いゆくにしかない全て各々の行いと流れに(それが必然的かに関係なく)任せてゆくにしかない放棄の非情に信託してゆくのみの中での私が何を受け取り対応するかへの判断,選択の行為や存在となるか。は、しかし与えられ現れて来る私と他の自由運動の連ねる連綿の現在ごとを立ち会い往くにしかないという意味での、全ては現在のみにしかないという結論的言葉の宿りへも戻りて来るのだろう。

その過程を現したのが、この書く事もによる世界の創造,人間による連綿現在の現象化だ。 そうした事が、未来と過去を打ち切らずとも認めて、この現在へ宿りた生命生存を生きて為すこと。 有為と無為には垣根もなくて、只揺れる自然の流れのみが在るを観ては起こす(自然が、そして私が)者で在る。

突き抜けたのでも世俗に紛れるでもなく、適合を求める方向と性質の中間的な存在へ突き抜けている私であるがままにも生きて、その存在の過程と現在に受けて与えられるもののままにを為すへ流し去り流されていくが時の産声なる現在を為され生くがばかりなり。

しかし自分のままで在り拘りへ引き寄せられ肯定するにも、その質を問われていて(僕は僕よりも流れに触れている意見には同意するし補助や共有を求めるようにも)我ら存在の源流である本質性へ如何に触れ気付き選択,言動にも行われているのか?とは(相対的比較においてだが)重要な基準であるとは思われ、そこを目指し深める為の味わいの生存を遊び方としても往く方向として提示,共有されていくが当面の進化条件としては良いとは思われるのだが、(自然界的な自然だけでは駄目で、そこへ観じ入る立ち会いの意識である人間の在り方が問われているようにも)それらは資質や各自状況にも依りていて時代や環境にも左右されるし、方向提起は(本当に正しいかもが分からぬだけでなく)良くとしても共通基準化は義務と強制と優性的な格差,差別,判断,不平等をも生み出し兼ねぬ故にも、そこへは或る程度にまでは明確化されたような思想的基準が創出されなくてはならぬではないか? そしてそこへの教えを宗教的な手段でもなくて伝え広めゆこうとする事は如何にこんなにも言葉や関係化出来ぬ私などにでも提供役割と成れるかというのか?

全てが流れの必然的最高で各自という世界の一端ごとを受けて与えられ、変えられなくとも肯定し生きるばかりの非情の覚悟もの肯定があるのみなのだとしても、その生き方の方向を真に近く発見するへ掘り出し開出し示し共有,共通資産としてもに分配されたいと思い、その役割を担いたいと私の性質や囚われにもに願う生命の現化過程の全てを用いて尽くす生存に味わう価値と創造自体を(良い悪いにもなく)生かされ、ではその全てが自由である事の平等や対等さにおいて他者の誰をも軽ろんぜず自分を上になども立たせず教えてもらう教師でもある世界の全ての相に感謝し吸収し導かれながらも、しかしその結果を伝え導き共有ともしたい私の創造の方法は未だ現化せず分かつ為に如何に人為や関係においてにも伝えたら良いかという模索と苦難が続くとしたらば受け取り味わい良しとしながらも(受ける余裕が多少に出て来たとしても)嫌だとは言い、現実的幸福と進歩が共に有る他の道の与えられ方を模索しはする。

その中での他者への分かち合いや思想方向の開き方を如何に私は行うか?

しかし平等という洗脳にも拠らず、質性における優位性や仏性開花の質に近いかどうかの個人または文化的な差異などは有るのでもあろうし人間差異は他の種から見れば些異だろうが民族特質や文化圏に拠りて、決定的に違い多様の縫合性よりも真の質の統合的な共通へ響き合う事なども出来ぬ、差異の方が大きく埋められぬ事も有り得るし、個人の資質や時代的な在り方が全体の善知性にも逆行,反発した非共生的存在を産み出した時に対抗抑制の潜在力を如何に持ちて置くのかの疑問とも同じく、如何に伝え共有を持たらすか?は結局は今、私が行いている人為世界や人間との受け入れるばかりでない関係の持ち方の模索とも通じているのではあり、それが自然に解消されました。だけでは(意識の力によって他に何も行為せぬとも本質へ開けました。というような結果が見えるならば良いが)駄目なのだという立ち会いを現在の私に行いているのではあり、人為的な抑圧または操作にもよる変換を個人の自由や多様と比較して何処まで押し付けたり関与して良いか?という人類(又はそれ以外とも)の課題に既にずっと直面している研究の過程なのだ。

年齢などにおいても、経験による比較優位などもが加味される事もあるし、そうした判断付けを違うと感じられる場合もの両方があるだろうようにも人間は統べて平等であるとも言えるし年齢や性別や人種だけでもなく如何に深く観得されているか?等の仏性などにおいても本質的に不平等であるとも言える中で如何に共有と(民族自決のように共鳴性により離れ暮らすセクト化も或る程度には認めるとはしても同じ仲間内でも如何なる時にも人間的な齟齬や対立は生まれる故にも)そこに流通性を取り合えると云うのか? 全体最適の為に個人自由を制限するように妥協的な折り合いを持つ事や完全に自立的存在体を叶えた後の共有や関係の遊び性に移行する以外には、相乗的な共鳴性は(近しく共鳴出来る者とも、本当には分かり合えぬ何処まで行ってもの孤独を本来的に持つ人間と個人という区引きを背負い行くが正しく、非情を覚悟せねばならぬような生命とその方向なのか?のように)有り得ないというのか?

共通活動の共通目的を持っていたとしても、それだけで相乗が起こるわけではなく同志とも言えるようなサッドサンガを得る事は(完全な共鳴性は得られぬとしても同程度の段階で共有出来る心地好さなどに)時の運(偶然や徳による)や巡り合わせ以上には難しく、その流れによって生きるという納得以外には全体最適解化は出来ない。

利益共同体としてもの目標方向性も個人性質の共鳴性も真の分かち合いへ(聴こうとするだけでもの相乗,共生的関係は起こるし、何処までもの融合を求めている意味ではなくて妥協的でない関係という意味で)は届かず役割を果たさず、故に個人ごとの生命体験が付されている意味は有るともいう一解釈を置いておく事は有り得たとしても全ては自身でしかないという覚悟もへの孤独は癒されず(共有出来たという一結果への判断と依存へ誤魔化した充足は得られる幸福は有り得たとしても)ではその精神と生体の近さによる基準の一つは家族などへとも戻る単純で原始的な継承単位の復権(氏族,民族は、その延長)もは有り得るのではないか? それともは独自生存へ独化した個人的充足の方向(現代のトレンドであり今後への傾向)が正しくないとは何故に言えるのか? その保守的意味合い保持と打ち切っていく潜在的傾向の必然性でもある先進性との間をも埋める統合(的な中間?)であり分化(もを怖れぬとはしても)ではない共通に響く答えは何処にあるのか?

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追い付けず影響が見えず交流も出来ぬ程に一方的な技術的な格差は相互不振や非流通を生まぬ為にも(地球的環境制約や自然的状況の為す分化性以上に)あまり種は分化し過ぎない方が良いとも思われ、ではその格差を補う為に(一つの極が起こればそこへ引き寄せられなくばならぬ自己決定ではない反応としての決定でありたとしても)中間的居場所としての存在や技術を担保,保持させていく事や、又は自然の分化率へ制限させた進歩という在り方を取り入れる事もは先進的挑戦性だけではない原始への反動も取り入れ双方の極を我々内部の一体と認めた上での規制として有りても良いとは思われもする。(それでも、そこを突破しようとする動きは人間に現れるであろうし、その解釈もは少しづつにも変容されていくのでもあろうが。)で、あれば宇宙の先進文明達が目に見える形で我々の文化や知性,意識程度への進化へ干渉して来ない理由も、(自主決定権の問題だけではなく)幾ら破壊と苦しみの文明度合いでも突飛に飛躍させてはならぬからなのかもしれぬ。

(中間文明の種が勃興している現宇宙(全体が同じ時間軸では進行されていないとしても)の発芽,繁栄期へ差し掛かっているのかもしれぬが、それでも太古からの先進的な知性,文明,意識種は(神と言われるような意識行為体も、その時代の量子や元素配置に拠りて生まれたものかもしれない)ありたとは思われる。)

そして取りゆける進行の方向とは、極肥大との中間を採ろうというより、そうした宇宙の法則や次元の新観念にも則った先進的文明や種族の観点にもあるような未来にもおける思想の視点にもおいての人間傾向もの適合の形を見い出そうとして行く事ではあるのだろうと行き先を観つめるのだ。

僕は何と誉めて貰うが嬉しいかというと、バランスが良い~中間的~。や観察知性が高い。と言われたいと思うが、それは中途半端な適合の状態や知識的分別に長けているのではなくて本質的な統合性へ達されていたいと思う事についてであり、僕に魂や生命と言われているのも流れに触れていたいと思うのもの全ては、その本質,統合への求めと動きであるとは言える。

僕の知性とは知識的には浅く広く、しかも忘れながらのものであり専門的な事は分からない。が、一つの事象を見ては(例えば金利政策などを取ってみても)その内実を深く理解など出来ないが、そこに起こっている人間的な動きや流れの連関は観察する事が出来るというようなものであり、では深く専門的で真に裏で何が行われているか等へは偶然的な推測情報などの断片へ触れ出会う機会からの参考により推察される事もあるという程度ではある中で他の主要者(player)以外の者たちとも何ら変わらぬ私も短視点上の考察であり関係外部者であるが(例えば陰謀論的な意味合いでなくとも米中の貿易や香港などを見ても、どのような利益における駆け引きを行っているのか等によりて全ての真相を知る為ではなく、そこから)人間や世界の動きという真実へ対する読み取りは私と世界の為への観察と学びへ使用されているというような事だ。

世界と歴史は私の見る物へ与えられて行く事によって、私を通して出される私による世界の再創造となるへ繋がってゆく。

そして世界の苦しみへの寄り添いによって苦の解消へ向かう私の日々動力ともしてはいくのだ。

どんなに凄惨で修羅な世の仕事に見える事などの中でも、徳の高い人や低い人などは(その分布度合いの差異はあるが)居るであろうようにも(その意味で職業に貴銭なく判断してはならぬとも言う)その内容すらもを越えた存在の尽くされる質と、流れの未来連結へもの状況現在の各自があるのみではあるとも言えるのだろう。

人種や職業や家族にも拠らず個人的性質のままを保持出来るようになった享楽の形での共通性において関係もする生存は、切り離れる自由にもよりて多様機会との成長も統合も持たぬだろうが、そこへの抵抗措置である統合圧力としての全体主義的な平等(又は非対等の自主選択ごとではありても)などへ吸収されゆくも違うと思われるが、しかしそれが場所的な文明の分化(セクト化)へ起こるかにも関わらずジーンリッチのようにも改編や優生は復権するであろうこれからの時代にありてtrans humanとの優劣差異もは過渡期のadvantageであり、愚かなままの保持人種も優れた文化や知性享受の優性人種もは、それぞれの性質背景にも拠りてのprogram的な一端へ化されていく改編には同じなのでもあろう。 つまり、如何なる分化や支配被支配の優劣格差もはそこへ吸収され人間的喜びである生体や個人や記憶や交流や自由や権利などもの全てはarchive的なsimulationとしての記憶や経験となった以外に失われるは同じなのかもしれないという可能性提起を支配権益層へ、分化も同じ船であるを伝えるような未来への視点の持ち方もがある。 そこには個人がないのだから優先性を享受できる感情主体としての自身などもなく、虚しい一瞬的自己(と思われるもの)が生起されては消えていく明滅のような記憶の使用だけがあるへ解体されてしまう事を、それでも優越を味わえる特権があると考える者へも教えておいてあげよう。 そこに(創作的な)提示と会話の流通性と価値もは有り得る。

現在の一般的愚かさと文化的享受層の知的背景等に度合いの差や違いはあるが、それを優越であると考え差別する等の愚かさや短視点的な人間知性である範囲ではそれ程には違わないのだという事を示し、それを理解出来るならば選民思想者も亦、同じ種と未来への同船者としての協同へ組み込む事も出来るのかもしれない。 理解とは、その為の力でもある事なのだ。

だが知性的流通や交流が出来ぬ者程、そうした共有もが出来ぬであろう事は、では思想的に理解出来る者達が世界を展開させていく力となるへ働きかけられたとしても、一般的な愚かであるままの層は自己を変革させる方向努力もなく結果享受するだけであるにも進化がないのかもしれぬように、そこにも分断,分化がある事への許容は、現在のように続くのかもしれぬが。
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(A lineとlのシルエット等もの相反,余裕や幅の広さ,テクスチャ,素材,等もは人間生体の生命的な快原則(その快原則とは人間種の本来由来ではありても本質であるのかは分からぬが。)から離れて来ていると見える現在風潮と延長の相や傾向にありても、そこへ戻るのは共通的な基盤でありながらも(統合形かもは分からぬが)至難の業ではある。を転換させるようなkey stoneは私や誰かに置かれようとなどせぬとも、この連綿の自動生起には果たされていくものでもあるが。)

経験へ深めた質性の他者に学ぶ必要は有りても、それをグル(師)の絶対的必要へ依存させるべきではないと思い宗教的な対立は統合される事からではなく多様を認め合い奪わぬ事からの解決であると思われるが、では統合性の存在や融合を持たらすよりも多様自由の各自個人が在るばかりでありても真の意識への存在革命こそが起こされれば全ては解決であるとなど言えるのか、又それは如何に起こされるかもは教え伝える努力と時の運命や流れに任される以外には無いのではないのか? 私に目指す状態とは現在にはこの分かつ事への分断,分別の気付きと観察の性質にゆくしかないのではあるが、真の知性と幸福は只全てを任せるのみで行為せず受けるものもの選択や対応は更なる最少へ向かうべくに在るのみなのか? つまり、各自の融合ではなく個人としての存在統合へ向かうへ何が出来るか?でもあると言え、その意識や存在の質とは教えたり分かちたり(その結果は如何なる質のものでありても変質するにおいても)正しく観じ深く見い出そうとするもがなく只全てをそれで良いが肯定に充ちた愛へと流し去る自身の自由へ孤独でも向かう歓びである生命過程の全てを味わう傍観的観察の無対応,無関与者となるへの努力のみが正しき方向であるというのか?

流れが必然などを起こしていなくとも各自自由と多様に放り出し変えようとし過ぎず認める事と、そうした充足や幸福の意識にもよる結果の共生や共有,相乗への求めと分かち合いの両方で(分別を越えた味わいのみの存在やそこへ向かうへの知性と分別を通して深く掘り出しゆく分別にも判断なき知性の両方や、どちらかやのようにも。 そして、現在の私は両方に懸かるどちらもで在りながら現象,実際的な性質と傾向の側面は肯定のみの気付きではなく知性的な気付きを基にしているし求めてもいるが)何処を自身の方向と現在に対してもの統合としてはいくのか?の世界への意識や方向の関与でもあるのか?

一つの事象や真実面に留まらず、何処にも囚われぬ解体を続ける私は、分かち教える事も判断はせず恐れはしない、運命に尽くされ性質のままという制限を認めながらも、そこを解き放れていく事への方向をも同時に描き持ち取り出していく者としてを生きる自覚にも在りているのだ。

表面や表明的な私と私の性質傾向が選ぶのは、それらの内では知性,分別をも持ちて深き気付きへの生命を味わう交流に生きて肯定と交感の統合と本質へ至り着いてゆく過程と現在の生命を生きる事であり、その結果は共生や相乗へも通ず。というものであるが、多様の理解と再解体の過程を持つが故にも、それだけとも言えず統合的集約を上手く纏め話し伝える事もが出来ない。

しかしそれでも、自然が現じ自然が然ずる私と世界への流れを生きゆく事の価値は既に得られてはいるのだが、やはりその流れへ乗り流れを起こす必要などもない中で、如何にそれら流れと交感しゆくかや選択等へもの答えと流通の仕方を用意していかねばならぬのではあるが。

originalityを模索する若年期が大切でもあるように、しかし焦らずブランクで良いのだ。 今こそにやらなければという恐れへの欲動と制限に突き動かされず(その意味でも、やる気に依存しない。という標語的モティベィションは、あまり良いとは言えない。)流れによりて自然が示現じて来るを受け取り流されていくという在り方は、(究極的または一面,一義的)どちらの真実にも合いているのだからにも、やはり伝えられて良い伝えられたい価値と思われる私の価値判断ではある。 それが本当に自己解体への方向努力がなく性質(キャラクター設定)付けなどへも引き寄せられ過ぎた結果かは分からずとも、例えばidentityの危機による自己方向付けや引き寄せは危険や無駄を生む為にも、何者かへ成らねばという焦りや方向での成功モデル付けの姿を(自身意図であるかないかに限らず)見せるべきではなく提起されるべきは自然の流れに現わされ然化されてゆく道を歩む味わい生命を生く事の価値や、その豊富,充実さという成功の姿と方向である。を私は伝えられる創造へ在りたいのではある。 そこへ自然に然化する存在からの如何なる創造や表現の手段が化されるかは未だ待たれる楽しみでもありながら、現在の私に試され向かわれてもいるものだ。

自然の然化性自身としての私(生命,現象)たち。

流れの不可避や不思議な連関は理解や判断も出来ない。 しかしだからといって、それのみで良しと停止してしまう等の人間的資質の段階などよりは、大体いつも少し先を見ている私の現在ではあると把握も出来るが、でもそれは僕のidentity的依存としての自己肯定部ではない。

例えば昨日小さな平皿を割ってしまった事で今日掃除をし綺麗にする機会となったからといって、それを肯定的で前向きに納得し解釈する意識へ利用するは出来る(し、そうした些事において、これも流れの内かと想像する気付きへの立ち会いへ利用する事もは出来る)が、それが必然的な流れという連関の証査であるわけではないように全てを流れの連関付けへと観て理解,納得しようとする事もは、常にそうでなければならぬ自分を保ち続ける為の強さの指向や流れという一方面の観相や視点ではないと言えるのか?と統合へ未だ至らなくても、自己の解体と再結合への旅路をゆける能力は自分には有るという時と世界の役目だ。 その自負や自覚にも依存せぬ何者でも無き無為をも共にしてゆく生を灯すが。

何か有った事で何かが起こったと見える事(が例え世の真相を幾分か含んでいようと)もを解体してゆくならば、必然かどうかに関係もなく流れになど乗らぬとも如何なる判断を持たぬとも良い自然の自在に流され任せて在るだけの放棄,無所有(無利己)の自在へ至るが方向であるならば、その過程としてもの観察,判断による肯定への手段性もは必要なくなるのではないか?

原因と結果(因果)とは作用と働きの事としては正しく(業なども同じく何を選び何を起こしたか?の事でもあろうが)、しかし良い事をしたら良い事が起こるというような(カルマや徳性的な)業の解釈自体の事でなく(それでも意識の用い方によって現実が起きるような使い方は出来るとも思われるが、それはまた別の問題)、私各自へと行われて来る流れの受け取り方が例え既なる必然的決定であったのだとしたら(そこへ関与出来るか、しても良いかも別問題ではあり関与可能な自己へ至るのも亦、その必然により規定,記載されているのならば先進的宇宙の知性たちは、それを知りての現在行動の意思的選択に宿された自身へ何が為される必要と感じられるかへ立ち会うという現在の私が行っていると同じ状態を意識して生きているのかもしれぬが。)何を私に選び世界の共生や進化への関与へ行うか等を最少的傍観性へ放棄し抜けていく事が私によって次の因果を生まないという存在目標化でありて、そこには祈りと存在すらが最大化される必要もなく如何なる力と操作と影響関与もを抜けた、自然に示現される宇宙の相と一体のような存在性(と知性)へ至る事のみが宇宙の自在と力への創造とも一体の目標地なのかもしれぬ。

これが流れへの存在と日々の観察という事でもあるが目には見えず判断出来ぬが流れの端子ごとの私たちが流される中で、例えば母はどうしても反応してしまい自分では解消する事が出来なかったのだろう。 それを他者との間で繰り返し、しかも長い年月の時間がかかってしまっていたのだろう。 僕はまだその分を身近と14年程で若い内にも行い済ませるへ近付いたのだから恵まれていたのだろうとは思う。 だからといって母が、あれ程まで一切に固くなさを崩そうとせぬ自身を直しても振り返りてもくれぬのは、致し方なかった彼女と見えず秘された世の意味合いが有るのかもしれぬ事などを理解したとしても困るのだが。

自身の責任放棄としてでなく実際に他者によりて流れが違われるのはよくある事だ。 そうした人為との関係や兼ね合いにおいての流れを自身の行為や選択が補整しようとする事がなくてさえも全てが必然的に補正されるならば、自身の選択において流れを受け取ろうとなどせず他者の決定に委ね任せた自身の空位に在り向けてゆく事のみが正しく必要な方向であるというのか?

私にとっての一大事は、流れに触れていたかが(選択,言動,関係,創造においても)基準や方向であり囚われでもあるのだが、それは自己を越えたものという認識と納得による他次元存在や魂などを想定した主体者(loadへ対する忠実な下僕となるように)に従う意思の奴隷であり、又は全能に近い私自身の根底自己における利益判断ではないと言う事もは出来ぬ結局、何処かの意思や利益または全次元段階の精緻で微細に入り組んだ連結の決定に操作された者を生くしかない事での放棄または利己もの同一ではないのか?

それを観念して後は只そこに為される宇宙の連結的な相を感情的な囚われもなくに眺め、(選択の味わいではなく)自己も選択も放棄しての為される味わいを生くがばかりであるのだろうか? 虚無ではなく意味は有るが宇宙を起こす一相面の歯車,奴隷として踊らされる我々自身を、せめて把握し観つめる位にしか知性を使用する事も在る事も出来ないという絶望による諦観だけがあるを自身へ育てるにしかないという絶対的な垣根と非情を覚悟するしかないが悟りなのか?

全く良くない可能性であるが来たのか否、全てがそこに用意され繋がっていた受け取りて良しのものなのか、どちらの可能性もあるものへの選択は一端ごとの結果でしか見えない。 ではやってみねば分からぬ事を行わずとも済ます受け取らぬという又は言わずというような選択においても(他者との最善的な影響,関与,分かち合いとなるへも)は自身意識の一相(真如一実の相,一つの見え方などのどちらも)の転換のみに有るのか、亦そこを制限し言動への選択へ頼ろうとするのは存在や創造の自身能力の過小評価が故なのか。

流れが合わぬなら囚われず、では違ったのかもな位に流し去れれば良いのかもだが、受け取らぬ可能性や(自身,相互,全体の)利益を失うかもしれぬなら試してみたいと
思うのは、欲望でもあるが可能性への欲望としてだけでもなく自身に何が与えられており出来る事なのかを問う(例え、そこに何の意味などが無いのだとしても)必要を選択するへ立ち会いたいという人間の自然と流れや真実への交感,獲得欲求である。

些細な状況にも試しているように、重大な局面にもおける選択と能力の最大使用が試されるならば、それを(信託と祈りのみへ放棄する効用と可能性の最大化を、自分を為さねばという過小化させているのかもしれぬとも)行わなければ始めから拒否する事は自分にとっても出来ない。 例えば今、自身の能力を試せば目の前の人の命を救えるかもしれぬのに、生死判断も越え状況が来たから死んで良いと投げ出すだけが良く祈りなどによる現実化の力と創造をも捨て離れ抜けてゆくが存在の目標地なら、中間にして最少にでも受け取り死なず判別なき 肯定のみに味わうだけに生きているという状態をも肯定せず食などもの生存最少欲求すらをも捨てて、死んだ方が良くなってもしまうだろう。 そして又、如何に進化して次元段階を統べるに近付いても総体自身には成れず既なる総体自身の一部であるという納得以外には従い為される必然しか世にはないと、もし分かってしまったのなら、そこを目指す労力過程を生くよりも仏陀のように現自身のままを認め生きる事へ還り来る未来にも渡る知恵と価値ではあるが、その選択の行為点の正しさなどは(戒律という当時状況への人為判断の制定性以外に残っておらず)その生存や知性の実りの(意味合いもすらを捨て未分化や)無へ帰してしまうだけが目標地ではないとは未だ答えが出て(出ているかもしれぬが示され明確化されては)いない部分ではある。

~選択と能力(自身)使用の問題と、知性や生存の行方などの問いの重複や同時。~

言葉を伝える必要も捨てていくのだとしても意思を告げないでおいて何かが起こった時には、自分に出来る事はやっておきたかったと思う納得感の為にも、それが本当に必要であったかの結果など見えず判断出来ぬ上で為しておく事へも囚われぬ。とは、もしその役割的肯定が実際のものであったとしても自身の世界への行為価値の承認や自己納得の為のものでもあるが、それでも感じたままの自身にとっての現状と必要に為すが良いのか為す必要を抜けていきて、その結果に何が起ころうとも(自分が関与していれば違ったかもしれぬ可能性が見えても如何なる結果への判断せぬようにも)只一切の結果も関与もを放棄していくのみで在るへ向かうばかりか、のどちらであるべきなのか? それとはつまり、判断なく感じたままに為すも良しとするを現在との適合に自身を置くも良いのか、全くに判断なく行為や選択や自己を放棄する方向のみへ向かうべきなのか?でもある。

もう仲間だからそういう人だと分かってると言いてくれるは嬉しいが、言っておいていなかったら彼自身も分かってなどおらず又はやはり関係の問題なども、そこに起こっていたかもしれない。ように一つの結果から見て、どの通り道が正しかったかへの判断などが(人間知性には)持てない。

ではその制限知性を越えた高位の(それでも被支配され操作されるに従うしかない)次元や存在の状態を目指すというのか? 又そこに達した優性は格差判別を(全てが只、行われている宇宙の素子や歯車であるというには同等でありても)現実実際には持たらすかもしれぬとも良いのか? それが個の資質に依るものでありても又は素質や能力以外の平等性へ技術が用いられるへ選択の権利が与えられたのだとしても、その自己の拡張や可能性への挑戦の置き方を如何に設定(し制定)しゆくが良いのか?


寿命が見えているならば、最期まで生き抜く生存よりも(何か他の価値との対比によりても)苦難なく殺し楽にするというようにも、共有の関係性が為されぬかもしれぬ可能性が高いなら早めに切り失わせ努力や相互に培う過程を採りゆく必要性もが無いとは言えぬのか? 基本的には違うと言えても、利益や効率面だけではなく自身や他者の大切なものを守る為の犠牲などというような交換や価値が起こり置かれ行われても間違いであると断罪,判定は出来ぬのではないのか? 努力し挑戦し現在に立ち会う過程の価値は肯定されても有るだろうが、結局共同出来ぬ可能性が高いと判定されるなら、そこでの労力使用の無駄を省いても悪いばかりとは言えぬ(成長機会を逃しているとは言えても)のでもあり、では何故に共有面可能性の増大や相乗性の最大化(それが合理,効率性の追求だとしても)による(しかも方向性が侵犯なき共生の共通でもあるのなら、その結果が分化でありても、そうでなき共同的発展への使用可能性もが有りても)自身や全体の最大功利性を生み出し得るのならば共鳴可能性のみへの拡張方向もは否定出来ぬのではないか?

では自身や身内の共鳴度合い等に判別し、奪い来る力への対抗や防御や侵犯抑止の為にも殺すという選択の有用性は有り得る故にも許し奪われるばかりでなく平等に力の行使可能性が許可された方が未来の手段や思想に違わないとも未だ判断し言えぬならば奪う者への対抗措置や武力手段は如何程までが許容され、又は共鳴可能性の最大化のみへ資源,労力を投下する自己拡張の末にも見えるかもしれぬ全体との共通価値と基盤を迎い得るかもしれぬ可能性は(可能性を追わぬという私もの思想方向によりてにも)試す前から否定されているべきなのであろうか?

交換原理がどこまで深い法則かは未だ分からぬし等価交換である必要もない事へ意識の力を用いておく事も出来るが、リソースの使用量によりて対価を得るという(貨幣経済はその思想でもあるだろうが)方法は共有においても共通かもしれず(現在までのところ、その結果は見えてもいないが)試される価値と可能性が有り得るのならば自然相乗の共有者間とだけでない(現実的状態は何処までもそれだが)共有へ対話的な労力を使用して(政治などの無駄も総意点を最大化させる為の人間的進展の必要や納得手段でもあるように)労力消費の対価としての共有を創り出そうとする方法は(技術として度合いに違いは出るだろうが)
意識だけの存在という操作力であるよりも(それも操作ではあるのだから)人間的にだけでなく自然や理(法)にも適った方法でもあるのかもはしれぬ。 しかし作用反作用の原理性は必ずしも等価交換ではなくても成り立つと身の回りの現象上は感じられてもいるように(それは同等ではないというのは現在科学的な証明による言葉では勿論ないのだが、経験的観測段階での実際ではある。)行為労力の実際にも意識に拠りてもにかけた労力,資源量に対して同等分量の結果を得ようとする力の使い方へ(理解や利用もしながらに)取り込まれずに取り外し、では交換原理を外すによって行為の最少により対価の最大化を得ようとする事へも、最少による操作力を用いず結果を得ようとしない事へもの両方に利用も出来る選択肢のどちらもが有り得るならば、そのどちらを良しとし又は使い分けるのが良いというのか?

12/2~
それはつまりが肯定によりて肯定を受ける等ともいうように、結果の為の自身を最少へ改編していく利益の為の自己解体であるのか、それとも如何なる結果が起ころうと受け入れるのみの自己最少へ達し減らしていくという仏陀にも示されたような方向かにおいてもの全肯定の質性や方向への問いであり、その両方を同時に試している自分でもにはあるし又は、意識の使い方による現実化はそれが真実の正しさではなくとも起こるのではあったりするように在り方の結果は自然に現実状態へ反映されてしまうのだからにも、そうした二元的な肯定の結果へ対する自身の過程採りなどの考え方を考察し持たせる必要もが無いのかもしれぬと言われ思われようとも、しかしそれとは囚われず放棄した自身最少化へと向かわせながらに自身のままの望まれたものの感得を自由に為され与えられたままに提起しては自己必要を求めてもいく事や共生的結果を求めるのか,求めずとも自然結果がそこへ達せられてしまうのか,達されぬも良いままのみに在るべきなのかという根本的な在り方の違いを統合へ埋める為にも(現在自身の在り方も認め併用しながらに)必要な過程の行き方と方向性への考察であると私には思われている大切な立ち会いだ。

それは流れを呼び寄せる為に空になるのか空になり如何なる思惑も捨てているのみなのか? その結果が肯定へ自然に然じられるのか非肯定的現象や非共生や非生存の結果が起こるを受け入れるかだけでもなく、その方向へ向けてさえへと生きるべきなのかという過程採りや意識の用い方自体への問題だ。 (そうした事を只の肯定であれば良いだけなのにと済ませ立ち会う事もなく排除する者は知性的,生命交感的に深いとは言えず、それらへと立ち会う事が出来る者は、その知性や能力の度合いにも拠らず聖者である(現在人類の制限内での聖なるという区分ではあるが)と言う事も出来るであろうと思われる。 今後人類への指針を現在にも辿り示していきたい私ではあるのだ。

全ての者は役割を為しているし才能を発揮している者は度合いの差は有れど天才とも言えるのだろうが、それでもその各自の質が本質に近い気付きへ根差しているか?等へ自覚的に振り返り補整させていくような自浄能力の必要さを(大抵の者は自身現在を行う以外にそんな余裕なども無いのかもしれぬも理解はするとしても)そこへ差し込んでいく方向提起の関わりと、その手法でもある現在迎合的人間の姿への肯定だけではなく折り合わず否定を組み込んでいく事も(上からの指摘である等と理解されぬ反動や否定を生み出したとしても)必要な行為方法の関わり方であるとも思われる。

ではその人間的多様への深浅判断にも拠らず、又そこにあるのが例え只のアイディアを試し自己承認や経済的目標の充足動力により無駄を産み出すような大した創作でもないものの生産活動や消費材的生命使用化であってもの大多数の動きと働きを見ては、そうした一先ずづつの結果を見ていかなければ納得出来ぬ人間の進行力の自然をも認め、可能性追求の人間性もを組み込みながらにも、その方向を補正する為に違うとも言い本質とは何と思われるか?へと(自身にとっての本質を示すのではなく、それは参考としてもらうへ示しながらも)投げ掛けていく提案関与の私と成りたい。

(つまりは結果への判断もなくに、しかし人間の用いる結果への行動や想起性を利用しては、過程への歩みへ働きかけ導く為へもの提案,関与を持つも良いという事。であれば、やはり意識の力を本質または共生などの判断(度合いは深くとも)に拠りても使用し呼び寄せようとする活動は(それも肯定されてはいるというだけでなく本質性においても)正しいと言えるのだろうか?)

しかしまた、それが良いのだとしても私に出来うる事の範囲で行う事や、必要と感じても最少性に選択せねばならぬを選択するというように(本質性とその基準が分からぬのだとしても)どうしようもなくに生み出されるしかないような流れにも置かれる自身をのみ置いていくのか又は、それさえもを置かない事へと引いていくが正しい自己へもの更なる方向と努力目標であるとも言えるのか?

囚われず減らしゆく方向性,などすらもを持たず何が本質的統合である同一地へ達しゆこうとするもがなく過剰な自分も個性のままに、ただ完全に流し去るのみなのか?

創造的な価値が私に有りていても人為との無駄な連関の調整を避ける為にも、それを存分に生かすへ関わりたり選ぶ事は出来ぬ引いた方向性を選ばずを得ない可能性や、又そうでなくとも自身のままで在るにしかないにおいてもの全体価値の連関の奇跡や結果への努力の為に自身を消耗させる犠牲にしてまでは行えないという流れの中に、それが必然でもあったというような未来への経路もが起こり行われていくのではないのか?

それは例えば勝新と黒澤のように、その破錠機会を例え一度は避けられたとしても、その芸術的結合の結果は起こり得なかったのかもしれぬようにもではあるが、しかし人為性以上に流れを繋ぐ調整者が居れば、その者の人為自然の役割においても為し得られたかもしれぬという可能性はあるが、それはいつも時の運であったり又は身近な制御段階を越えた上からの力の行使による阻害への非力さと対抗労力,資源の浪費量が大きい為にも(戦争において仲間の死を無駄にせぬ為にとも同じく、その投入量が大きい程に諦められず引きづらくもなる事は分かっているにもおいて交渉力を勝ち取る為にでもなく、では始めから闘わず敗れ追われていくしかないのかとも同じ課題ではあるのだが)一個人(の力が戦況変化させる事もはあるが)には、どうしようもなく又は対抗措置を持たぬによる想像的価値の故にとしても、自然に上手く行く事の以外には無駄な努力を行わず引いていく中での必要が起こり来るのみを受けるという流れと生命の本流へ触れて世界を抗がわずとも変換させていくのみのような存在芸術手法をのみへ向かい取りゆく事なのか?

しかしそうだとしても人間は、互いの違いを役割分担として適合させる事さえが出来れば対立も必要なく相乗され得ていく分配方法の可能性を提起へ置く創造行為や関与は有りても良いと思われてはいるのだが。 (それは違いを無理に共有したり各自同士を繋げねばならぬというのでもなく、そこにはその各自の自由,多様をも認めながらに自然に必要同士が噛み合いていく(経済的理由への阻害などもが減り)可能性もが増大するという価値への提案ではある。)

そこへの意識だけではなく意識を現す方法を言葉や創造や各自にも持つ性質などもの活動性において伝え共有へ働きかけていく事は何らの問題でも(囚われていく種子として膨らませぬならば)ないとは思う。

絵がクリアに想起され見えるvisionが故に、その必然と現象の未来が為される事を待っているというわけではない。 そこをvisionも才能もが有る故に為され成るはずであると思い込み信じてはならぬのだ。 それを信じる事や自信によりて呼び寄せるものがあるという効用の否定ではないが、基本的には如何に本質と感じられたものや自身の深い感得想起によると思われたものでありても信じ込まずに、それは真ではないのかもしれぬと振り返り覆し問う事にもよりて、それが何を生み出していないように見えても気付きへと味わう生存を創造しているはいるとも言えるのだと思う。

自分のままに在り抜けて、関係が切れたら次の関係へ移るという関係性も人に拠りては可能だろうが、それは自身visionを現実化させていく能力の強大さ方向とも同様に、相当な程の力やバイタリティでもない限りは自分の創作の全てを監修できない。 (それは役割他者,又そことの関係採り,もしくは全製作の自身を化させるしかない選択肢の無さであるにおいても同じ、その全てに不能な私現在への流れなさによりては求められている自身で創り出すしかないが追い付く事もなさそうな行為への必要と 他の手段の無さでもあるが。)

そして得る事や成す事を追い求め続ける中での充実はしたとしても、それでは真に満足で立命的な安心への安定は得られない。 であれば各自性質の出現においてやりたい事やアイディアへの挑戦においての未現の可能性を為そうとする動力が(承認欲求やidentityの成功や経済的利益を基としてはおらず)そのままに良いと認められていたとしても、やはり為そうとする行いの方向とは、自身根底の本質性に残る基底からの必要のみにおいて見い出されていく必要が有り各自人間知性へと問われ提起され得るものではないか。

つまり為そうとし可能性を追い結果を求めても良いが、その方向と質性とは(見える基準値化も出来ぬが)やはり自身へ与えられたものの性質の(ままにではなく)根底に在る本質性とは何かへと向き合い向かいゆく事であり、減らしゆくという手段も気付きゆく深さというのもは、そこへの為の事であるとは言えても良いとは思うのだ。

また労力をかけたかどうかには依らずとも生命をかけた創造結果の作品が良いものや価値へ触れたもの、又は自身にとってもの本質の流れに為され近いものを宿せたのかどうか等においてもを成立の質判断や基準として気にする事もは費用対効果としてだけでなく求められては当然の、何が自身には出来るのか?を最大限に成したいという普遍的な人間性質や資質を生かし得る可能性の利用法方向であるとも言えるだろう。

ではそれをしかし可能性を追うだけでなく本質の質が大切という方向性とも相違せずに、しかしシンプルな集約としても示すには、どのような私における言葉と成るか? その為への、この私現況と行いではある。


12/3

今日も私の身体は私に意識しなくとも連結を行い毒素を排出してくれている疲れたら休もうとしてくれるといった奇跡が、私の生きている事の中に行われている。 そこに眼を向けさえすれば、そこへの感謝と一体の生命においての身体もとの共有へと関係を取り戻す事も出来るのだろう、私は生きている生命一体の奇跡自身へとも還る。

そして共有とは交感性の共鳴であり全体,恒常系との関係性修復の自身となる魔法への祈り。 共有の魔法とは、全てに世界の調和が成されている中での私意識と存在に共生性への調整が起こるを願うという事とも同時に在る、私と全一体の魔術。

私の共有への求めというものを説明すると、全ての多様が同一者のように仲良くや分かり合う事を求めてる(そのような一方面のみで人は捉え、そんな事を求めるなとか同一になれないのに強制や依存だとかと言い否定や意見して来るが)わけではなく相反への無駄な対立や破壊を減らせば噛み合う事を阻害する人為(よく利己とも言われるが利己や人為自体が悪いのでもない)の方向を、見ようとする事が出来る知性の使い方や味わいの価値と方法や、その愚かさを自覚し乗り越えようとするへ自己努力の方向を転換し向かわせる為の関与と成りたいのであり、また超越や肯定だけでない世の相や真実を統合しては、この現実現在人間もの世と繋ぐ事が私の望む私の役目。

そこへの在り方と試しを私の身近においても見て学び為してはいるが、しかし人間の世界の大きなものと関係し働きかけていく為にもの日々の労力から抜けた身近な関係での安定とスムースな進行へもの仲間との共同などへも移りたいと望むが(そうなるかもしれぬし、そうならぬとしても)結局やはりその根本的な行い在り方や安定自身と成れ、愛で愛を繋ぎ現実を起こすような存在へも至れなければ又も拡大された闘いや人為との無駄な阻害や対立や利用や破壊などに巻き込まれるのだとしたら僕は嫌だし乗り越えるへの自身自体は歩みながらも拒否し真の幸福へ向かい現実的幸福を歩める事への方向の為へもの愛の自身化を成すへとも日々を游ぐ。 そして世界大の活動へ私の自然が為されないのだとしても(それが例え人為的な阻害に拠りて為されず抑え込まれたのだとしても)しかしもう私は、それも良いと(望みと目標への動きは有るが、世に名を成すように関与の価値を最大に残し得るかが起こるか、等は)その結果を放り投げている。

役割同士ごとが有るにて全ては宇宙の為し為される連関同士であるに他者の役割への嫉妬も憧れも要らず(方向としての共鳴性は有りても)その者のままを生くが良い。 自信がなく自己肯定感も低い私でも、の世への関わりの在り方は有り、例えこの話せぬならば書く事もや深さと統合や創作もが上位概念の実体化によりて無駄となりえても、私が私を行い行われ私に生きた価値は此処に在るという肯定は出来るのだ。

(例えばナウシカ的な生き方を目標として自身を生きるのは良いが誰もが彼女のような破壊,創成媒体としての伝説になろうとする必要はなく、その意味でもの名(の残ること)や名誉(自身の誇りとしてではなく他者からの承認としての)を求めぬという事でもあるのだ。 そして時の流れの主流へ関わりながらも抜けている、いづれの再生へ向けてもの種となりaltanativeに生き延びる森の人のような存在としての創造と関与は私にも合った方向とも思われる。)

会話は大切だが世界を実際に動かしていく大きなものとは、それ以外で動いていく。 その故にも私の存在が如何に時の流れの中で置かれ為されいくかだけが大切であり、それが為されるのみにある私という自己や人為にもおける適合と統合へもの、選択という事である。 故にも交感と流れによりて生きられるかとは(流れに乗らねばならぬという意味ではなく私は如何に生きるかの自身を選び感じ採っていく為に)大切で必要な生命価値事態の自体である。 知性は重要な比較優性度合いとしてではなくて知性はその為に使えるというものなのだ。

では人為により違えた流れの適合への調整が又も他の人為間での流れの相違や不適合をも生み出してしまう事もあるかもしれぬのなら、又は人為と自然が自然には折り合わぬ不適合を催している状況に立ち会わねばならぬなら(もし自分がそこから抜けたとしても、それは世界の常に起こりている事であるに対しての具体現実的な解決法を見つけ出さねばならぬ故にも)例えば流れの媒介である人間的な流れの働きである他者が居るとして、そこへ如何に調整を成し得るというのか? 折り合うつもりもなく自然を排する人為自己傾向の他者(身近も全体も)や世界に対しての流れへの調整や対話的な応対などもの労力方法の置き方とは(受け入れ肯定すると利用,侵奪が肥大する傾向の強い世にありても)如何に効を奏すると言えるのか?

受け入れ理解を示しながらも、自身の意見や相乗,共生,調和可能性への方法,方向を挿し入れ提案する。という在り方である 応対を試すだけで良いのか?は未だ分からず実際効力は意識のみの方が意味を成しているかもしれぬようにも見えるが、それでもそれを指針としてもに自身を進めていく実行の試行は取り入れられていても良いのだろう。

又は語らず説明もせず謎を謎として表現するによりて神秘を加速させるような方法も、それが(idea的な試行ではなく)至高的な本質性に基づく連結であるならばには良いとも言えると私の方向には思われ試されるが(いつか繋がり表現結果を産み出せるかは分からぬとも)その在り方採りの方法や方向もは真似するのでもない各自のままの私であるに、もっと自信を持ちているも良く、やり方とはそれぞれのままの個別的性質付けの現れるユニークさの示現であるにも良いのだ。 例え私が本質へ達しゆき、そこに普遍的共通の在り方部分が興るのだとしても、それは多様を越えて一つの基準性へ集約されてしまうという事では無い(完全に違うとも言えてはおらぬが)のだともいうように。

そして又は私が愛であるからや意識の力で転換させているから、も外して意識していなくとも反対の想起が有りたとしても真の幸福への幸福状況が起こり世とも否定なく自然な共同へ開けていく。という方向性による意識,存在力のみに在りゆき、その力とは本質と思われるものへの判断への差別や操作ではなく全てを任せ放り投げ自分の想いや必然などもを信託し尽くした本質と肯定の世界性自体との一体となった(それらは、そうした意識の使用状況や魂,流動的観点などが本当に宇宙の法則自体であるか?等の証明としてのものではなくとも)故に全体に渡る安定ともなり統合,包括性を自身へ身に付けた存在の余裕や柔軟な自在力へとも結び付いた本質状態へ至る為への表現による方向示唆としても有り得る。

そうした存在の調和的全体の執行一体者としての善悪を越え包容した本質の力による調整を意識してもしなくとも言葉や創作へ現れようとも存在ままの然化でもの全てにおいて、例え表面での表現は世界とも共に惑い寄り添いながらにも、その超越に引き寄せてしまうような力と初源の存在へ自身を化しゆく行程自覚の現在もを歩く意識の用い方にも生きている。 (それは勘違いの力の使用ではないと思うが例えそうでも、既にと未来においてもの超越の在し方では在るへ結び着いて来たようにも思える自身現在の認識や段階把握と自負と向上過程の肯定理由などでもあるに繋がりて在る。)

全体へと越えて全体を包括する、一体者としての共生,調和への存在力化の自身。

しかしもし例えばたった数人がそう成れたからといって世界は物質,実際的な現実化や根本的な進化や共生へ変換されて来なかったのは歴史的な事実であるが、だからといってその一人が変わる事や時代の状況によっての現実化が起こりて来ないとも限らないように、信じる事の力をも併用し用いていくもは悪くなく私は真の幸福と歓びへの人類や宇宙の進化へと関わる事もが出来得る私という存在化を試す歓びへとも生命が与えられて動いてもいる然化の一役割として、一雫の私を存在の転化に渡すのだ。

しかし人為や各自性質現在の多様や肯定にもよりて、共有関係者間においてもさえに起こり埋められぬ齟齬の実際や流れ(与えられた最適解のような選択採りと、そこへの交感作業であるもの)などとの調整労力に自身の行使点を置く対応を受けては為すが最少性方向においても行為し選択してはいるが如何に努力し繰り返し行い試しても(少しの進展と同時に結果は失敗と)無駄が起こるばかりの体験の中で、(本質と愛の自身化は目指し向かい得ても)その共有不可で対応不適合の私でもある実際に疲れ、私は既に絶望を体験し思い出してもいる。

では結局、何にもならぬ結果という可能性への怖れと判断を取り払わねば、依存なくとしてさえも期待は次の苦の種を生み出しているのか? しかし心は共有と相乗可能性への囚われを持たぬとしても具体現実の(不利益などが自己と判断もを持たぬとも)共同不可性は解決されるへと向かえる方法や存在性の提案が意味を成さぬ自己自然の創造が廃棄,否定,破壊されていく事への無力さを創造的な効力性へ灯す方法は絶望的な世界への諦観や意識変革の自身のみに在るという以外にも有り得るのだろうか?の手法を手探りする実験過程でもある。

だが、絶望の中で光を見い出す。 陳腐化もされたような言葉だが、絶望の状態でこそ(それだけが唯一の道とは言わぬが)光の発現へと引き寄せる動力ともなるように、私はそれを私を通した世界の為にも用いる。

心は揺られるが、それ故の道具でもある。 私という船が波間には運ばれてゆくだけのように連関の全体こそのみが起きている。

では自身へ変革を求め,相手他者へ求め,今は双方の努力を求めている私であるが、何を押さえ付けるのではなくとも何も求める一切が無い自身の変革のみを求め向かうのか?

自分で在る事の以外に共有自体を求めていない人ならば、共有や本質などは押し付けに過ぎぬかもしれない。 そして、そことの流通や交感同士の関係,共同や利益などを捨て諦めなくばならぬは、私でしかないのかもしれぬ。

それでも離れるへの理性と近付きたい感情や、又は現実的な共有必要要件としてもの要請にもよる欲求である共有への心と身体や関係もがありての私たち人間に、乖離を埋める為もの(自身内部でもの選択に基準がなくてさえもの)自身にも他者とにも統合的な運用を持ちているには、どうしたら良いのか? そんなことは可能なのか? 又は求めてもならぬのか?

しかし、自身性質多様のままで在るのみに離れ共有なく乖離しては自足可能であるという方向を目指し実現されてしまうのならば、そこには多様を共有しては結合していく価値も、そこへ無理なく向かい得る在り方にもよる存在化へと生命を味わい自身のままでも押し付け奪い合わず共生,共有,相乗が出来る方法への試行と成長方向自体もが失われてしまう。というによりても、(僕の性質上の求めとしての以外にも)自身を越えて他者間の共有にも培われていくという価値は有りたのでもあり、関係の中にこそ人間が育つとは、そういう意味と価値でもありたのだから故にも、それが人間であるというような言の一理もは有るのだ。

その為にも人は一人での充足ではない他者間においての学びをゆく価値があり、その学びは齟齬や乖離による対立と無駄などではなく相乗と共生,調和的な共有へ向けて自身や世界を育てる事の使用機会であるという方法と方向を私は示し告げたいのだ。

だから各自の性質は理解するし各自の生き易さが優先されると認めてはいるとしてもアセクシャルなどもの生き方と時代の傾向は、そうしたAi融合やtrans human化への脈動へ方向づけや吸収され理解への利用もされてしまうかもしれぬように(だがそれは性から解き放たれた生命の在り方でもあるかもしれぬという良さでもあるように)一面の良さによりて(しかも少数者保護,尊重の視点からも反対の意見を言う事もが許されぬ傾向へ利用され易い事なども自覚して)引き寄せられぬ事と、しかし自身の生き易さや生存権の為や自衛と向上の為にも行為へ関わるという人間活動性へも認め折り合った(温暖化対策や香港情勢なども同じ事でもあるように)自身や世界の状況を受けての対応必要をも取り入れていかねばならぬ、私と各自と人間における調整,適合,選択の各自がある中で私に言えるのは、そこへの交感の価値だけでもあるとは言えるのだろう。

表面的な調和で折り合う調整しかないの(なら囚われず、その関係と現在も良しとしているとはしても)は僕は嫌だし、真に自身のままで在りながら自然に対立も破壊も人為の無駄もなく相乗,共生しえる関係の創造を身近にも全体にもの人類や、そこからもの宇宙への平安,幸福が生み出されるかもしれぬ文明への可能性の為にもの(他者から共有など求めるは自身の囚われだと言われても、共生が判断だとしてもに)僕には如何に創り出せるか?への自分指向性(志向)もの試行と旅を往くのだ。

僕は僕であることで、身近や周囲や状況や世界や流れが(結果の為のではなくとも)愛と平安の真の幸福,充足,感謝などが生命体験の価値と相乗や共生へ(迎合も強制もなくに)至り着きゆく事への創作や存在が在れゆきます事を願う。

159 11/13

159 11/13~

Spirit Songの説明が一概に出来ないでいるが、それは再現性ではなく、その時こそにしかない世界自体の潜在象的連結の流れと完全を私において繋ぐ流動の媒介を在りて存在を行い渡す事。 それがArtであり生存~Life~でありFlowとNatureからの"Spirit Song"の説明や、与えられ起こり味わい受ける恵みと豊穣の生命価値と体験の意義。 それを簡易にすると"魂の歌"なのだがその抽象を、やはり上手く簡訳に表せないではいる。 では"魂の歌~spirit song~"とは、世の流動的連関の紡ぎを立ち会い味わう私に取り出す存在と創造の事。とも言えるか?

しかしそれが主目的と意義ならば、やはり上手く取り出せぬ時に(それもがその時の完全ではあるとしても)流れを繋げていない私や状況への不満が募りてもしまうなら主眼は潜象の流動を繋ぐ,乗る,現すよりも世の流れと一体で在るままの現在と自身を生きる事のみへも合いて乗りゆく事ではあるを現せる在り方や生命の置きゆき方へと方向と方法を自身へも移行~シフト~,転換せよ。 つまり魂の歌,自然の流れ,とは、在るがままの存在に紡がれる私への世界の歌をそのままに宿しては在る事ではあり、その質を本質性へ如何に近付けていけるかという存在創造の質性もは、その内に含まれ行われていくがものである、日々の生命をどれだけ豊穣に感じる事へと味わえたか?のみであるにおいて、その進み方とは幸福の現実状況を起こし呼び込みもする思い込みへの意識の力と使用法にありても亦良いとは言えるであろう各自のままが段階と世界の相を生けば良いのだ。という私の言われるSpirit SongはArt of Lifeにも通じて分かつHarmony Relationへとも成るを向かえ叶うのだ。 そこにあるのは、そのままで良い世界と自身の生命に如何に感じては生きるのか。 それだけのこと。

集積されたものは散逸するよりも、その者の傾向性に基づく性質的共鳴性によりて継承される(そればかりに縛られても良くない離散と再集結の意味,効用もはあるが)つまり家(家族,血筋)による利用と次第の変換や美術館的な収蔵のようにもテーマに沿って、その味や存在と連関の関係性をも保持,保存する意味合いもは、もっと意識され行われても良いと思われるのは、物は只の物以上の意味、つまり生体の我々とも同じく流れにおける意味合いを繋いで来た軌跡を持ちているからでもあるのだろう。

しかし血(という共通性)による傾向性での継承や又は響鳴し易い者たち間での共同,連帯は、民族自治的観点から見ても間違いではないが(昔のように稀人を受け入れるとはしても)多様の取り入れに関して自由な個人のグローバルな状態における移動や居住の選択や決定を縛り、囲われた優先への格差や選民性をも内包に合わせ持つものでもある(又は他者,他地区への自決,自治への不干渉の徹底において相互流通性による連結を阻害もする)故に、それは集積と分割(徴税と分配のようにも)拡大と縮小や世界と自分,最大と最少,globalとlocalなどもの全てどちらかだけではなくに繋ぐ統合,結合的な適合の知恵と在り方が求められていくのだ。

11/15

世界や周辺状況へ作用もするへの自身こそのみが愛であるかどうかではあるが、その存在を保ち自身自体をも導くには気付きの日常化に在るだけでなく(そのままに真に至れたら良いのだとはしても)更に深めた段階に立ち会っていけるには瞑想の効用は大きくも有る。 そして他者や世界の状況を導くのもは自分次第である意識が必要だが、それは導くという上からの操作や強制の部分ではなくて、そこへも関わりて在れる自身次第の在り方や立ち会いの責任もがあるという自覚や観入による世界適合への自身の置き方への日所的な選択と対応への存在の事である。

他の者には見せぬ自身との姿を一番自分との近くで共有して来た特別な関係である恋人や家族との蓄積に意味がなく崩れる時の悲しみがありたり共有に拠る揺るがぬような信頼の関係を求め欲する事自体は、僕が間違っていたのでもなくて当然ではないか。 しかしそこへの囚われを捨て離れ、哀しみからも解き放たれいく自身となる為の必要な旅路と経過ではあったようにも、そこを抜けた愛の基盤化による新しい段階での関係が起こりゆく現在への旅をゆくのだ。

気の流れや導引もは、自然界の物理的な相や動きの観察からもに想起され使用され易いものとなる故には(巨視と微視の相関が同じ相と全く違う現象でもあるようにも)現実的な象形と、それを越え織り込まれた流動の流れは全くに違うものでありても、この現実相からの想像に照らし引き寄せて用いるも出来る意味では、その人的知性と想像力の枠からにしか見れない人々も正しくないとは言えず、ならばやはりそこへの自身の視点現在は間違っているかもしれぬという自覚に拠りても更に深められるかもしれぬ可能性への気付きに在る事への転換が必要なのではないのか? それら気付く分別の作業の全てと到達の先には実は意味などがないのかもしれぬのだとはしても。

最少とは、エネルギー効率の最大効率化の事ではない。 それは人為的便疫への効率肥大方向ではなく(それも考え方の一つや多様の可能性としては認めているが)その人為的な判断や操作性を減じさせていく事で周辺領域へと現れ流れ込んで来る自身を越えた自然的な自身の最大化もの受け取り方と成る事ではあり、しかしそれは自己の意思なく流される事ではなく現れ来る自然や世界からの連結の流れに観じ交感し受けては選択行動する(積極行動の意思である)自身への責任にも自覚し立ち、生きて在りゆく事である。

これら言葉化への流れと連結の流入と保存は(現在人間種内での比較では)真に近い所での交感であるとは思われるが、既に問いの投げ掛け以上の意味としての真理自体を表す事は出来なくなっているのかもしれぬが、この自己の経験,状況,心もの生起による現況自体を繋いでいく事が、(例え業の故にであったとしても)為される表現の一可能性であるに行われるのならば意味を越えてにも行えば良い。 何度でも言われる事は、その時ごとの連結において結び着かれる表れ方としてもに何度でも現れるもが良いのだ。と(それが例え自己肯定に過ぎぬかもしれぬとも)自然の相を、唄う。

映像の作品においても、それが簡易なメモ程度の連なりに過ぎぬとも、その時にしかなかった環境や空気や息吹きや周辺状況とのコラボレーションでもある、或る意味でのlife logとしてものように映り込んだものの流れを、そのままを置き流していきたいような想いと、その即興と連関を詩のように断片化させ切り離し繋ぎ直したい欲求の方向もがあるが、しかしそれは私にとって未だ多大な労力を必要とさせる故にも簡易でsimpleで、私の感覚と適合し他者周辺との感覚にも響くような物の創造の手法もが求められている開発の難しさではある中での試みを経ている。

11/19
連関の総合的動きであるに世を見ている。 自然な感覚をしてそれを行う。それは人類の中でもの天才に共通の部分でもあるのかもしれない。 butterfly effectのように繋がり、一部が動けば全体が関わり合っての(細部まで決定的に絡め合われてはいるが)細部までの決定的な計算は不能な揺らぎのように(揺らぎを組み込んだ数値によってのシュミレーション的な再現は出来るが細部を完全に再現するのは出来ぬようにも)未来と過去の相互作用のように連関が起こりている全連関を一義に見渡す事は出来ぬ制限知性の故にものように(それを越える方向を示唆するものではない)しかしその世界の相を感知する、一部が全てに関係し共に振動し合いて全体を織り為しているであろう事を全事象への基盤として捉え見ている事は私たちの自然ではある。

それは映画message(arrival)での異星系の言語が円環の相の各部音調によって全体の意味をも変えるという(認識であるが)非線形の全体と流環を眺める事で繋がりと多重の意味を読み取る方法のデザインのように(それは実は私たちの言語でも、そうした相関を起こしている連なりではあるのだが線形の時間軸に沿わなければならぬ制約下にはある。 しかしそれは一目で理解出来ない非効率な情報手段ではありても、私における全体にも起こってはいる流環に繰り返されているもののイメージは表象化されており歴史を通して行われ来た人類の累積もには同じようなものが見えるだろう。)そして、大きな系でのファインマンダイアグラムの各部を変化させたとしても全体の系での大まかな動きは決定されているように量子の振る舞いは未決定でありても関連されている総体の流れは保たれ織り為されている。 その一部は全体と相関し決定もするが一部を変えただけでは全体を変える事は出来ず、ただし飽和量や閾値を越えると全体の織り物の色調は変わるように現実の変化へ関わる事は数学的にも出来るのかもしれぬ、そしてそうした量子的な実験におけるゲームが成り立つかもしれぬ未来のようにも私の置き方を意識しては関わる。

如何に世界の相や事象を読み取ったかではなくて、その時ごとに置かれ現れる状況への状況としての人間各自が行い行われていくのみであろうに、状況的必要からの要請や又は独裁的な先導もがchange makerとしての役割や実験の一端である現実世界を実際に動かしてしまう実質的な側面の力となるのだとしても(批評,分析でなくplayerとしてと言われるように)しかしこの世界の相を解き明かすへの動きと働きからに何か深く生まれ来るものが在り待たれている事を(自己肯定としてではなくて)感じずにはいられない。

人は皆、その時代あたりな経済的進展などへの短視眼的な視点と行いからにしか従事しておらずビジネスなどもは現在の延長でしか捉えられない行方としての現在にも場当たり的な非洗練と野蛮が野蛮を呼び込み謳歌し侵害しあうような文明や技術の使われ方しか現実成果化しなかった中で、その先から思考する者の視点や思索,感覚的な土台を挿し込みてゆく事は例え直ぐに理解されぬとも大切で、置いておく(おこうとする)価値はあるのだと思いてはいる。

ヨーロッパは野蛮であったから搾取により現代基盤へのinitiativeを取り得、アメリカは経済,軍事などもの野蛮さによって地球の文化基盤を作ってしまった。 そして日本は、その仮定的な植民地として彼らの基盤に乗る事によって彼らの文化的基盤と支配を強化するへ利用された。 これらを誰もに伝えても、それぞれの状況の中で精一杯に生きた人々の否定と捉えられかねぬ故にも批判を受けるかもしれぬにて伝えられぬ又は慎重に行われなければならぬだろうが経済的な価値への走狗となり独自の世界への奉仕の路線へ選択する為の(結果としては出来なかったかもしれぬとも)自身等に立ち止まり考えようとする事へは向き合えなかった責任は自覚せねばならず、無自覚に共になりて世界からの搾取を広げたのだ。 (かといって現代的我々の変節は自身としても認めないわけではなく勿論に良いものもあったし日本的価値や生活の保守を告げたいわけでもないのだが。)

この活動への必要と要請と性質や傾向づけされた私に行われるままに行い自然が自然と私を為しゆかれるにおいて、私は金の為にはやっていないとも言えるし、金の為にやっているのだとも言えるような二律相反は(説明しようとすると面倒なだけで)既に統合されているのだ。 だがそれらを社会の言葉や説明の仕方の立ち位置に立とうと思うと難しいのだが。 相と反,短距離と長視点などの両面を同時に示し得る統合の形とは一般にも添える言葉や存在としてに付き合い関わる事の以上には、突き抜けた私の存在に在るとはしても多様と共通基準の持ち得方のように私には探られなければならない日々でもの対面ではある。

自分のままに在る事。と、しかし覆し変換し自身へも引き寄せられず自覚し目指しゆく義務でなく統合の方向で在る事の、基準どころか簡潔に伝える事さえも難しいし、許されることは大事だが許されてしまって自己責任へ振り返れぬ事は良いのか。等においてもの、自身本来に気付き生きる事と無判断のみである肯定との間やバランスの採り方とは多様を知りた上での中間の指針だけなどであれば良いのだろうか?

各自のままに良く性分だから仕方ない。のは納得や理解の為には良くても、それでは成長も進歩もがない故にも、強制なくとも迎合でもないように理解し聴きとりながらも自己の意見を言わぬへと押し込めるべきではない。 私においてだけでなく、そこでも礼節や制限同士の中で思い合うというような日本の美徳もは、基本的には究極的な姿の方向性の為に個人を押し込めた反動を伴う非人間,非人為的な人間的自然ではあり、では私にも方向性の為に新しい価値を押し付けぬ為には、そもそもの提示すらが必要なき関わりの在り方となるが良いのだとしたらば、この場当たり的な状況や人への適応した形へ突き抜けた究極を宿さず理解されぬとも捨てた表面的な存在を置くだけが正しいのかもしれないと相互状況が起こす私に今日も問う繰り返しの表現だ。

しかし社会的な意見に無自覚に批判,反発するのでも寄り添い吸収されてしまうのでもなく自覚的に取り入れての自身を選択する為の知性や存在の方向とは、(全ては放り出されたままに行われ起こり続ける必然的な連なりであり真に自身などというものなどがない世界の現象同士と観るのみなのだとしても)、性質のままで良いと認めてしまうだけでない世界との関わりとしてにも必要ではないのか?

皆が各自にとって最高に幸せとなれる事や、その為の私の仕事や存在と成れ在れる事を願い想いてはいたし、例えば母が自分を振り返れない事で上手く行かぬも、世界の悲しみの相をも肩代わりするもが私の為の犠牲として不可避なものであるのかもしれぬなら、それを覆そうとする人為すらが始めから無駄なのかもしれない。 交換への原理へ取り込まれぬように自身の判断と意識を澄ますへとも調整はするが、そうした可能性との立ち会いや対応の人生にも目を瞑らないではいる事だ。 (そこにも判断は必要であるのかにおいてものニ元判断,相対のdualと三位一体と言われるtrimurthiの安定,関与性などもの何処もが、advitaの一体へと還るへとも向かう。)

11/20
どうせ私に何が出来る事もなく、それらが性質や現在の各自ごとへの、どう仕様もないままに任せ放り出しては個別と現況への対応へ関わるにしかないように、そしてそこには離れ関わらぬ事や表面的に迎合しておくという方法もは全くには否定も出来ぬようにも、仕方がないものに対しての私の在り方や関わり方というものだけがある。

どのルートを通ろうとも修羅や悲惨でしかない状況への対応へ生きねばならぬ役割者~player~の選択が良い動機や徳に基づいていたとしてもそうでなくとも、必要と感じられ行われざるを得なかったならば、そこにどう仕様もなく(正しくとも正しくなどなくとも)行われる以外には無いのだ。

反発や対抗は本来それが無ければ行う必要もない無駄でありても、それが必要ならば行わざるを得ないようにも。

それら人間の各自と現在を認めながらも、本来の自己という意識の転換へ補正させていこうという私の運動は、傍観的な部外者としてにも在りて恵まれ与えられた状況の中にもそこへの仕事と存在を行い尽くし、しかし地球と人類文明の内部と共同へにも関わる相反なき自身を置かれゆくに行為の現在を(それ以上に何が出来るか?等へも)選択してはゆく。 そこに突き抜け、しかし人々の声を聴きてゆくには寄り添い在りていられる。 この、たゆたいのような存在を時間の流れと連関に立ち会わせていくも良い、円環的とも言えるが非線形の振動や流動の各部位相性の両部や全体にもかかる私の存在と意識のみでもにおける意識と愛を挿し入れていくのだ。


11/21
今日もふと想う。 何故僕はこの僕であり、この僕と思われる身体や僕の自我(自覚や意識の不思議という意味ではなくて)なのであろうと、いとも不思議に感じている。 こうして動き想い行いている私とは何故に他の誰かではなく?ここに宿った私なのであろうかと。 それは勿論に自覚や意識の妙であり、此処に宿った偶然のような連結の結果としての一個総体が偶然にも唯一の(つまり私として私を感じる事が出来るのは、此処に有る個の私でしかない故にも)私であったのではあるが、この意識へ起こる総合にして潜在の私自身というものは、もっと広く深く全体的な流動に通じ達した状態からに在し在りて、そこからに行われているものではないかというようなメタな俯瞰や直感的な感覚を(だからといって、それを全てが正しいとも言えぬのだが)魂とも言い得てはいるようにも、その広大で全一体の自然からに行われている、私自身を起こす私の本来が在るのではないか?という人間の知覚に普遍的とも言えるような共通であろう感覚に触れてはいく事(事とは示現または内在の現象の事を言う)が、深奥の源幽を目指し目の当たりにしていく感性を起こし養いていくものではあるように(私が如何に高く優越であるかの誇自ではなくて)思われてもいる。 それらは真に正しいかは未証明でも、本質へ近付こうという欲求と生在の方向へは有益、又は性質による動力を持たす特質性ではあろう。

そうした人間や生命の本質的共通への共有を生み,持たせ,育みてゆくに在りたいという私の、その行いの態度,対応,存在,言動の在り方が対者への折り合いや適合への柔軟さという肯定面での納得に在りては突き抜けられぬ中途半端でありとても肯定し現在へ至りた過去の連綿や未来の可能性も捨てる事も出来ぬ線形の制限の中での私という矛盾や惑いへも突き抜けて私を統べる運命的根本と流れへの肯定をゆき観賞,超越と凡夫,人間の狭間にも在りての観察を生きる者としての交感を生きる役目にも追われ負わされているに終わりゆくのだとはしても私は、普遍と統合への共有と真の癒しを共通のものとしたい。

(~以下2段,日記より抜粋~),<
それ程に依存しているわけではなく、依存させたいというのでもないが、得られない事は得られた時の幸福と感謝を生むからと追いかけ、得られなくば囚われるへ求めてもしまうようにも僕は、弱い。 現在だけに在るより積み重ねた物と未来の可能性を捨てる事が出来ない時の流れに絡め取られ時の一体にも同時に立つ相克や矛盾の慟哭に惑う、観賞,超越と凡夫,人間の狭間にも在りての観察を生きる者として生きる。

対者関係の態度,対応,存在,言動がこれで良いのか?は、実はやはり有るのだが、突き抜けながらも人とも折り合い交流可能な私で在るというへの納得と肯定は結局、中途半端な存在でしかないという事でもあるのか? そのままの役割であるが自分を生くにしかないというには突き抜けていくが、肯定ばかりでは至れぬ成長への私へもの動きとしての結果と過程にも認められ、繋がりている肯定と交感に紡がれている。
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人間的な反目や対立がなく、各自の役分を分かち織り合いて在れば全体の中では円満は成就されている事も亦多し。 そしてその共有や分かち合う事とは痛みの分かち合いではなく(である事もあるが、そこへ吸収や利用はされず)自然に相関される全体や時の流れにも流され遣わされ行われる、個(の思惑や創造の成果)を越えた連綿の行方のみが揺れているように在る自身等の生来を俯瞰的に感得しては為される運命の非情の中でにも、現実的な交感と充足の円満性を取り入れていく事は出来るのだ。という在り方を僕には示されたい、それが無常とあはれの融合(虚無,絶望と充実,平安)の提起へ私を越えた処から行われ起こされる私だ。

死と生のような相克にも一体の創造のみが為され在る。 こんなにも中途半端で惑いの探求を行かされる歩みの者でも、これは現在世界へとの適合に合いておる私の既と完成の到達であり、人は人の発言,影響力や評価を実際世界の現在的尺度での成功で見るのだが、流環と非連綿にも渡る連綿もの同時と俯瞰に見渡せば、私とは自我をも越えて自我のままにも、そこに遣わされ司られているだけの宇宙の中の現在に関与する一端子の相に過ぎぬが見えて来るのみにも生きては流される既なる成功の姿と完全的な連結の一相(つまりが全体のみが在る円相)にしか過ぎぬ最然だという(事への、)語り辺(である自覚と方向に生きる過程)。

愚かなる人類の技術や仕組みが伴わぬともその大部分と基底が預流~シュダオン~の段階位まで至れば、ほぼ全ての問題は解決されるも夢ではない策だろう。 それは理想に過ぎる方向への期待と依存ではあるかもしれぬが、私に与えられ為されるへの方向性とは如何に、そこまで持っていけるか。ではあるのだろう現在への適合に与えられた結び付きの私をゆくのだ。 それと同時に阿羅漢(や仏陀)までも至れるかもしれぬを試しゆく方向とも灯しては生きる私の、日常や進行の起伏に何が与えられていこうともの状況を受けては流されるしかない、全ての者や相がそのように行われているのだという生命からの同胞たちへの寄り添いと成りては生きている。

超越の姿を見せたいという創作方向性から語り象り、突き抜けていながらも人類一端の流れ現在としてに現れた私を、この魂や宇宙からの視点でありながらにも同じものとして寄り添う我々とは形で見られる以前に、時と全体からの流れ自体であるのだと語る声を歌う無常と歓喜の統合を(一体へとも)宿す。

この生命世界や人間の創作品を消費出来る交感価値での生を与えられ用い味わえるにも歓び、それだけでも有り難い現段階世界へとも生まれ来ては味わえる(もし宇宙人が地球に現れた文化を、そことの共鳴力も持ちて学び,見て,味わおうとするならば、この生体身に宿りての(苦も含めての)体験を持とうとするのかもしれぬように)価値としてもの吸収の行方にも私は伸びて達して、しかしその行方に想い目指し在りたいものとは、人類や真実にとって、真に重要なもの,を創り出したい。と思い求め願う私に生きるを現れ表してもいるのだ。

世の共通,実感的な哀しみへの寄り添いにも弔い死にゆきた無念や無情にも生きねばならぬ者たちもへの鎮魂となるに、癒しと解放を持たらすような深源,奥玄へと達し共振を持ち起こす実質的装置ともなるような芸術の方向(に共感し)と成立へ向けての私となるを達成したいと生きる私の特来(特質,生来、つまり偶然的な結果としての現在ではあり、必然的な特質への宿りでもあった)と方向が、こんなにも何も無きような私でありてにも、この私を起こしたように全ての自然が結び付いては進む、私とはその世界の一つの相面に過ぎぬ自体。

(日本の義務的制限への至りと発展もは、こうした文化の連結において真と本質の深きに達し触れ生きたいという求救の方向に宿され起こされ、故に落ち着いた面の良さもあるのかもしれぬが常に浅薄化や義務的美徳の制限性などへの吸収や反動が起こりては進むにしかない現在までの人間段階ではあるを見ては把握もする。に、故に行わぬという選択ではなくとしても、無駄や(又は平和と戦争や生と死が表裏一体の連続として現れて来るようにも)破壊や抑制の方へ利用されてしまうかもしれぬ事実と実際への可能性への責任は把握してに行われる事は如何に結果への判断も自己などへの責任もないといっても有るとも思う。)

風流に起こりて去りて亦、去来するものの象形自体を宿している自覚にも流れて世界と私の、風来たる本来からの帰来に妙なる絶えぬ連綿を奏ぎて生くに逝くまでの歌を唄ふる我らが、現れてゆくに過ぎ去るばかりなり。 無常と深奥,本質と連綿の相と生命の我々と世界の自体(事態)を、流れというがばかりの私鳴りける。 空~kara~と過剰の充満に、各々成るが為されゆく性質と特来からの連結と自然の全体が歌われる一相のみが過ぎ去るに観られている。 帰妙(命)と流環に鳴動す感得の私それぞれが描き味わう世のみこそ在るに成る。

生命と私は自然~jinen~と一体なる流れだ。 それを私を越えた私の想定(の魂ともいう)でもあり又は実際としてもの自己と意識を減らした彼方での澄み渡る流動性の 相と世界の一端としての私を感得しゆく充足への方向だ。 その手段を私は説明へとも置き換える肯定と交感で在る事と言おう。 生命は既なる示現に創造され生かされ在るを感じゆく味わいの歓喜と現在のみが全てともの一体に渡る私たちを語りては置くのだ。 これが私に繰り返され行われ起こり来る流環の繋がり紡がれた今日への言葉。 私は、現在世界への詩人となったのだ。

11/22
自我的に見える状態の過剰(という比較としてではあるが)の私への表出や性質は、抑え込まれて来た日本などからの反動でもあったり、超越だけではなく適合を求めてしまう性質も過去聖賢たちからの反動というような現時代への必要としての世の一端であるのかもしれない。 (又、多重へ構成出来ないだけでありシンプルな旋律による過剰だし他種文明の音楽から相対したら余白の音楽に聴こえているかもしれないようにも、必要が繋がるならば(繋げ過ぎぬとも)私のままをいけ。) これらはしかし自身への納得の為や人々に理解してもらう為のものではなく、こんな愚かさにも意味があるのかもしれぬという自覚の為の注釈のようなものでもあろう。 それ以上の意味があるかへの意味付けには判断を持つ必要もなくとも。

これが如何なる歴史的意義によりて為され生かされるのかにも知らず、只この現在の私に化された歴史と宇宙の私現在のままを為され置かれよ。とは、自身の(納得の)為もの言葉。

この自身の幸福へ恵まれた状況に感謝し、しかし幸福の為に愛へ流し去るのだという結果の為に愛となるのでもなく(そうとも言える結果は一体だが)幸福を求め追われ続けるような修羅や芽吹くかもしれぬ苦難の種と欲望、又は可能性に依る悲惨を人類種へ再生産する可能性からも抜け、こんなにも現時代の生命種に制限された愚かな自分ではありても私への自然と幸福でありながら、真の幸福へ歩み達しゆける道と生命を創み提し分かちたい。という私の方向と夢を叶える私の幸福へ目指しては至りたいのだ。

そこへ結果が至ろうとも結び着かぬともに関係がなく、現在に化された私をゆく。 幸福の為に愛へ流し去るのでもなく愛へ流しされたらば幸福ではあるが、その意識の開花によりての現実的な状況や人間の生み出すもの(関係も文明も)への共生や相乗へ創み出され分かち合われゆく事と、それに拠る幸福の実現状態へ目指し生きる私と私の求めを私のままの現在宇宙としてに肯定はする。という、つまりはそういう事。

自主選択権もが剥奪される、こんな世界を(例えそれが発展,進化の為や宇宙の歴史に瞬く自主選択,決定同士の滅びるも破滅も勝手と放り出された非情だとしてもに)変えたいんだ。 それは囚われ的な義務などであるよりも、真の幸福へと進展しゆく道の歓びを歩みた事の結果として顕れ実現してもいく経過と過程へ対する私の望み求めては向かう先への生き方の自体。 これら言葉をまとめ渡すが出来ぬ私でも、この想いと思想とも言えるような方向性と生き方の存在を残し渡すへと生きるが良いのだ。 如何なる段階比較にも拠らず、これが私の生と私には認められている。という各自への声を渡す私を果たしてはいる。

そして表面的には適合へも折り合う響鳴の自身でありてさえにも、この自身を制限せず例えばcutや切断,接続解除というような、緩やかに進まなくても一気に進展させ開花させるよう魔法の使い方もあるのかもしれぬように、私と触れる事や、又は私が在る事のみでもの幸せが他者や世界に訪れるような在り開き方を(こんな自分など。という卑下や自己肯定感の欠如の通常自身にあるのだとしても)設定に取り入れていくもは良いのだろう。 それは現実利益的な各自が幸せなら良いという幸福でも苦難による成長の恩恵でもなく統合された、現実の自由や共生的状態もが伴いては、本来の自身と生命の味わいによる真の幸福という意識の進化へ開けゆく事への(しかし機会となるだけではなく根本的な転換への産声となる創造,生命,生存,根底の魔法でもある宇宙の自体なる流れに触れては生きている事だ。 それが生存自体のままにして、魂でも在るに渡りて生きる事へもの投合。

人にも求める真の幸福とは意識の進化にこそ拠るものではあるが、その意識への使い方と方向性に因りての各自の生命の本質性に立ち会い自由に歓び味わいては生きる事ではあり、それは説明言語化せぬとも私の根源には既に知られているものとして祈りにも乗せられている故にも、愛と光と真の幸福が果たされ生かされ叶えられる事などを自身の言葉へtuningさせれば良い。が、しかしその説明においては明瞭(とは言えぬかもしれぬが)への言語化が必要と私には思う。 例えこれが、語られて来なかった聖賢や禅的な知恵の進展過程の見える化という反動であったのだとしてもに。

私に求める知性とは、これら読解の能力などでは(正しく読み取ろうとして欲しいという意味ではそれもはあるが、全体に求めているものは)なく、各自の生命と俯瞰的とも言える全体の流れを感得,知覚しては味わえる為の知性と明晰であり分断的知性の事では根本的には無い生命感得の味わい(や、そこへ向き合う)で在る、こと。

向き合いは楽しく疲れもする(生命を使う事はそうであり、それが楽しい創作の果実でもある)が、そうした自由の行いと受け取りの果を、疲れもせぬ自在性へと化してゆくような流れへの観入状態の自身を日頃にも養う、選択は交感の遊びともなる。

11/23
少しの者への流行がminorotyでの物なのかや時代的逆行,反動的力でしかないのか、jeans~jersey等もの流れのように一時的でもなく未来の傾向に合ってもいる又は傾向を作り出していく転換点(用法は違うがkey stone)的で避けられなさのような流れにもなっていくのなら、その差はしかし微たる違いや影響関与性にしか過ぎないかというと、そこには浅き効率性や大衆的な強さとしてだけではない時代の流れにも求められている意味や理由があるらしいとも思われ、それらを取り外し置き換えるへの転換が簡易に行えるかというと意識だけでなく(例えば神職,儀式,文化,麻服,能的な芸能,等ものようにも生体交流的で手仕事での源流にも通じているような物事には)自然界における人間のような余程に上位の力からや又は効率性への変容もが含まれていなければ時代的傾向の要請には合わぬかとも思われる反面、これからの人間が社会工学の一端的技術面を補う存在でなければならぬ必要から外れていきて何も行う必要から離れた結果が電子的な融合へ吸収されていくのでもなく、人間にしか出来ない事や交感の味わいを創作の楽しみとしていくという人間の力の使い道への転換が自然にも又は現在的な関わりの故にもである自然としてにもには起こり得る可能性があるのなら、(それが生体的共生という判断ではありても)そこへの転換へのmile stoneを置いていくような私と成るを目指すへの方向と方法を模索しての関わりと存在の動きにも生くのだ。

私自身が変遷してしまった、(打ち切られたものと新しい姿としての)日本人としての私ではありて(地球人としても同じく)、その在り方と進みゆく先への過去の経緯と源流と、未来にも達す統合と新しい生き方への道と存在の現在を(模索必要などなくとしても)時代に要請された適合の形の私としてには生きていくのだ。

終末論は正しいかではなくて基本的に人間的願望や要請でありて、そこに引き寄せてもいたり利用されてもいるだろうが、そこでの可能性と対応の準備もは(絶対必要ではなく場当たり的な対応に乗れば良いのだとしても)有るへ考察され立ち会われていても良いと思うのだ。

破壊と創成には比例的な関係(バーター)もあるのかもしれず自身納得もし易いのかもしれないが、そこへも(判断せぬかだけでなく)取り込まれ囚われず、そうした等価的な交換原理は宇宙の法則的な相か如何んにも拠らず、脱却への転換を持たらしてもいく方向性へ抜け破壊なき創造のみへとも壊体していく意識の使い方は(それも創造の為の解体であるには自己矛盾であり又、創造や共生のみという判断の制限でもあるが)運命に対する意思のように、どちらかだけが正しいのでもない相補関的な一方面を自覚的に使用する事は出来ると思う。

それが自覚,知覚出来ぬ者などや流れへもの操作と成らぬ為へもの自覚や知覚による抑制の方向(力の使用法)が必要ではあるのだろうが。それを、可能性を伸ばし生かす方向と可能性を追わず果たさぬともの最高化へも添加出来るような在り方の説明補足手段としてもに取り入れていられるのかもしれぬ知覚や自己の認識や判断知性の用い方として言い表す事は出来るかもしれぬ。 つまりは全てが意識である。という、その意識の方向や使い方の部分でもはありて、判断も抑制の効用や縛りもは知性(という納得方法には過ぎぬかもしれぬが)に拠りての(判断へも判断へ抑え込まずの)利用し生かす使い方となれるという相面の提起でもある。 (こんな当たり前もが伝わらぬが現在の世と人等であり、人が変わりた後には当然の故に必要ともされぬ現段階以外の不必要で過渡期的な創作に過ぎぬのかもしれぬとしてもの私であるが。)

日々の着想と現在の連関を繋ぎ詠めていくのみの繰り返される事々から削り出されていくものを待ち持ちてもゆく立ち会いではあるが、それを読み返しまとめるへは繋げてゆかれない私の、提起的な創作の言葉や投げ掛けの形へは未だ結び付かぬが、その熟成はいつか世へ分かち連結される価値とはなれるか?< (物語構想からのcopy)

作品の構築へ用いてもいく為のプロットを今度のperuでの映像撮り生かすへの想定としてもに考えてはみていく。(どうせ想い描いても、その通りなどには創れず結局は即興的な存在の記録(life log)となるが良いのかもしれぬとも。)

群衆劇への労力や才能は僕には未現であり自己内面を象る言葉化へさえも未だ達せぬならば、如何に私を(即興的空間などとの出会いを映し撮るだけでなく)作品性へと置くべきか。

では今は未来への着想の種を置いておく位の日々を示現されていく私にあるしかないも良く、しかしこの過程に生み出されるものは、統べからく編集の間に合わずstockされゆくばかりの即興映像やメモのpileに過ぎぬものの連なりばかりとなる。
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しかしこれも私の創造(と生命)の爆発だ。

155 10/25

155 10/25~

幸福(物理的)に真の幸福へ深め達する。と同じく、楽に在りては自在に為される私を目指すへ(傾向,性質各自の方向を)設定し私に目指し想うは、私と世界の愛,光,真の幸福,歓び,調和,共生,自由自在,の全てが自然に完全に最高に果たされ生かされ叶えられ輝く生命瞬間ごとへの立ち会いの現在と交感への感謝と充足の(達成方向の)存在へ生きること。

僕において話す能力しかなったならば表現者として社会に認められ、その場を与えられなければ成されにくかった(全く方法が無かったわけではないが)ように、書く事から話せる事へとも向かう現在の過程性は(その結果が本当に出現するかは分からないとしても)僕にとっては良かったようにも(現在地点から見た判断ではあるが)思われる。

たくさんの足りぬところや偏りもあるが、実にバランスの取れた存在へ辿り歩みているようにも見える私の現化体を通して言われたい事とは様々なバランスの統合者性がある中で、これが最高(私への最高、ではあるが)の到達だと言いたいのではなくて互いに絡み合う各自の役割との中で生きているに偏りも含めた自身同士を置いていくという価値や何が統合的で優勢的な人間の姿と到達性であるか等といった人々の判断や思い込みを解く事へ働きかけられると嬉しいとは思う。 そして各自そのままで在るを認めながらもその、そのまま。の質や形として原生的文化の担い手たちの存在性に関し向かいて生きる姿のような自然の価値や人間的善性の方向へも見い出しては本質的な生命使用性の復興にも響き繋げられたらと思いもする。

進化の自己言及性のオートポイエーシスというシステムにも組み込まれたホロン(全体を構成する要素がそれ自体、全体としての構造をもつ場合の、要素,部分としての一つの全体。全体子とも言う。by wiki)としての各部野素子としての我々が在りて、この恒常性(ホメオスタシス)の一環を形成する触媒と機能している。 それを私は、私たちを種子や全体中でのミームや流れと連結の媒介などとも呼ぶ、大いなる流れが全体に一致して動き連めかれ繋がりているにおいての私と全ては一体の運用であり、連動の起こす流れを時間という経過に視てはいるが、その流れさえもなき振動的現象だけが全体にも貫いている。


(以下3段,松岡正剛氏の解説文,)<
動的平衡システムとしての生命系は、入力と出力の流れのなかで持続的に、ゆらぎを解消しながら自己維持するシステムたらんとしている。

生命系の各構成要素は全体を維持するための目的によってそれぞれの位置と機能が示しあわせていると見た。そこには、部分は全体に関与することによってのみ機能する或いは全ての部分は互いの原因とも結果ともなっている。

(エントロピー相転移)
階層が安定しているとき、生成のプロセスの産物そのものが生成プロセスを自己触媒的に調整しうるというのがハイパーサイクルで、ここでは自己複製的な構成素の自己とシステム全体の自己とが重なってきて、そのことが階層分化を促している。 これらの自己組織化理論は、ゆらぎによって新たな秩序の形成がおこるということ、階層は自己生成されているということ、そのようなことが可能になる自己の境界の決定には非平衡開放系という状態が関与しているという見方が有効であることを天下に知らしめた。
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11/1

僕において映し示し出されたい創出とは、存在そのものの生命に映り込んで来る本質的な質のようなもの。 だから僕は自身を撮し、そこに宿る価値を感じさせたいとも思っているのだろう。

熊谷守一(勿論上手さもありてのものだが)の示したものとは、その創造物においてのクオリティによる評価を基に残るか無駄かを判断されるのでもなく誰もが、その者であった存在の質によりて判断,評価されるような芸術の形を生み出したのであったのかもしれない。 (如何なる判断をも持たぬというのではなく、その創作物自体より、それを産み出した者の存在性と質が問われるという事ではあるが。)


年を取る(どの感性にも、その時の価値と貴重さと真実が在る。事において、優先化区別~priority~されるわけではないが)事は、実現出来る手段を備え(しかし技術的な面での意味だけではなく)違う諸相事物を生み出すへもの俯瞰的な本質と思われる視方への高みへ進む経験を深めながらも、子供のような純粋で直感的な洞察の感性もを鍛え率いていられる経過体であるにおいての創作的段階や師事される導きてと成り得ていられる価値も有る。

思いついた自分にとってのアイディアを試す事がクリエイティビティではない。 欲求と本質的感覚に明瞭な垣根が付けられぬ(付けられるかもしれぬが)ように自身想起の追求を全くに否定されるものではないが、やれることはやろうとすると同じく、それは資源や生命の消費的な活動と拡大へ(消費と創作に区別なく一体であるとしても)費やされてしまうどころか、ほぼ本質的なものを生み起こさない現在経過までの人類性に対する方向性への警鐘と提起だ。

何が本質と言えるものであるか、への一つの基準として歴史的な転換の意義が有ったかどうかは(picassoのように)(ある事もあるが)結果でしかなく、それが基準なのでもなく、如何に苦しんだからや熱量というのでもなく(結果的にそこに含まれる事もある)モディやゴッホにも感じたような、その存在の質を数値化する事は出来ない。 又そこでの差別化を進める事は、その存在への正しい対価を得られる為には良くとも優性や優勢的な判断,区別に使用されても良くはない。

血脈的な優性性というのは(dnaが証明したように)(しかしその差別的観点と判断は人間と時代による価値観に制限されたものではあるだろうが、ここでは人生に深められ継承されたものに深められたものは在るという意味で、有るを)認めざるを得ない。故にも文化的に高貴な血筋というのも有りはするのだ。が、だからといって例え優先順位を付ける必要性が有り来たとしても(その時に、文化的,進歩的な素養を優先させるというpriority付けは確かに有効さも有るが、そこだけでは汲み取れない多様の中からの価値はanomalyとして取り込まれる以外には必要ともされず)、排除される大多数の一人一人が持つ人間的感覚の価値は捨てられ遺棄される事が正しいと言える(彼らはそう信じているのかもだが)選択であるのか? それは、それ以外の選択肢を始めから放棄されてしまっているから故の選択肢への彼らが肯定ではないのか?

11/4

情報管理された部分以外に出て来た情報を放置しているのは、陰謀論などとなった方が信憑性を薄らせる効果もがあり又その点と点を結んでも全体を結ぶ決定的証拠にはならないからでもあり、それがあるという事を臭わせ示しておいた方が力への恐れと絶望,無力感を生み出せるによって反抗力を押さえる警告(ブラフ的な面でも)や排除力を生めるからでもあり、(それらは最初からの計画だけでなく結果論への用い方と力側への吸収であったかもしれないが)又は内部者からリークされぬのは、やってる本人たちが(洗脳的教育によりても)正しいと信じているから。だけでもなくその状況自体が、リークされた所で人間社会的な運動や現象化への末端でしかないに終わり、そんな生命かけた結果がタブロイド的情報の一行的な人々の娯楽刺激の一端でしかない(大多数にとっての無関心と関心は情報的消費材でしかなく、それは特別な関心者たちにとっても繋ぐという娯楽作業(そこに意味がないとは言わないが)ではあり、それ以上の力とはならぬが大半以上の常ではある。)無意味さを、結果としても自然に教えぬとも雄弁に物語っているからでもあるのかもしれない。

ではそれらとの対決や否定による提起手段ではなく、直接的利害同士の(幸いな事に、やられたから対抗対処するしかないという状況には(社会や人々の世界から間接的には打たれているが)陥っていない自分と状況の優位条件~advantage condition~を生かして)その部外からの闘いであり、しかし融和的な提起の在り方へ向かう事へ自身の生かし関わり方を見い出してゆく事も出来るのではないか? (それは例えば意識の進展へresourceを用い、破壊によらぬとも進められれば地球には同居しながらの黄金共生時代と誰もがの利益を生み出せるかもしれないというincenriveづけを与えるように)相互と全体の利益への融和,統合的な方向性の提示を持たらす事も(例え政治や発言的な関与の自身性へ基本は置かず、その存在の方向だけで在るに世界へと関与するのだとしても)結果に繋がるかは分からずとも目指し得るようには思う。

しかし彼等が、破壊の故に天国を作り出す為の活動と信じきっていて正義の為の悪を為す役割と使命であると自覚して(その後の栄光もしくは泥を被る,つまり天使へのルシファーの帰還もしくは悪として罰せられること)を分かっていてもの覚悟に行いているのなら誰もそれを否定も判断も排除も(対処も対抗もせずという意味ではない)出来ず、彼等が問答無用に彼等の計画以外のものは殺し奪い操作,管理可能下におけば良いと納得,割り切ってしまいているのならば、そこに為す術もは無いのかもしれず人間的な心への働きかけもは、彼等もが持つ信仰からにとっても意味を持たぬのかもさえしれない。 それでも、そこに如何なる提案としての自身に成り得るのか?は立ち会いゆかれる価値が(結果への意義があろうとなかろうと)在る。

こんな時代でも生き残れる素養を発揮し、自分等を守れるか?へと次世代の種となれる者の自動的な選別へ試されているのかもしれぬという可能性もは有り得てもおり、そこへ金持ちは資金投入し易い事や貧しくとも意識的にそこへの自己努力や資源投下して結果的にパンデミック宇宙線などの遺伝子変異にさらされても生き残れたならば合格というような基準もが(あまり他者へそれを分かち伝播させ、つまりその総量を増やさせないならば良いというようにも)有り得ていないとは言えないのかもしれない。 しかしそれでも、生き延びては次世代種子ともなる意識の進化と生活状態の共生的進展への過程を灯すへの活動や関与や提起へもの私には成りていたい。

そしてその傍観性は私達のみが生き残るのだというような傍観性へ抜けた者たちとは違い、世界への直接的な対決性などからは抜けながらも統合でありながらも且つ共生的相乗の幸福可能性へと(それが本質かも分からず囚われかもしれぬにおいては自身にも問いゆくとしても)向けてゆく生き方としての挿し込むような静かで存在基盤の故からの提案と関与と闘いだ。

愚かで変わらぬ人間というものの全体量を減らさなくても良い状態を想像し目指す事も出来る方向性として提起する事は出来ても、しかしあらゆる全包囲的データや情報の統合と結果が(過程的連関の意味合いではなく結果としても正しい)否応もなく、人類の縮少が必要であると(洗脳性以外の真実として)証明されてしまってもいるのだとしたら如何なる提案もは無意味となる(自分にとってだけでなく伝えようとする他者内での意味合いにおいても)議論または可能性の掘り出しと研鑽もの不可となるのかもしれないならば、共生的過程などを望み判断する小さく愚かな人間的知性の私が既に無意味で対抗力としかなっていないのかもしれぬ私こそが、正義という判断と愚かさの代表でしかないのかもしれぬ。

11/5

しかし私は、自身の真実と自由を願い統合の共通と共有を求める。

救い難い衆生を救う環境,時代,文化的な背景の転換によって、根本は変わらぬとも生命の質に関する時代を進める事は出来るかもしれぬへの希望や可能性の提案は可能なのかもしれぬようにも、それが共生などへの囚われであり正しくないのかもしれぬとも分からぬのだからにも、そこへ資する私を置いていこうとする現生時代の私での関与に在り行為しゆくもが亦良い。 その行為の内容を、存在と愛のみの方向と実現に拠りてもに堀り出し対応し実現しようとしゆくもが良いともするのだ。

その瞬間にしかなかった奇跡に気付いて、それが過ぎ去ってしまったならば又それも良いのだけれども、ではその時すべきものがあるのかに気付こうとはする事。 それを流れに乗るか合うか等とも呼んでいる、その意識での気付き以上にすべき事はない中での、ではその選択や行為(動作だけでなく、そこでの意識の起こり方もである)へもの気付きへの立ち会い方ではあり、(つまりは気付くのみの立ち合いと、その気付きによって何を行うか?においての)主眼は流れに乗り行い繋ぐ事(動作的行為に起こる結果性,それは副次物であって)よりも、単純に世界との交感媒体と化した私存在で在るを生きる事とも言える。

つまり存在に感じ世界に明け渡され流され任され行わずとも生きる事の基盤へ捨てながらも、しかしその感じたままの自身を何ものにも縛られず、生存のみの創造と生存からの創造自在を繋ぐ私へ向かうがのみであり、それは愛の実存化によりては起こる方向と自然の私化された生命の形と世界の奇跡だ。

制限の中での遊びや創作の生かし方などもは(締め切りありてに追われなくばやらぬ人の基本性質のようにも)確かにあるが、人為的構築性の縛りの増大化現在から抜けていく自由を、私は私と全ての生命に求める。 それは自由選択の意義や価値の事ではなく本質統合の方向へ向かい生きる事が価値として在り(各自の道のままに)育まれる生命の、自己最少にも受け取り行い流れながらに自由に感得される自己感覚のみに奪われずとも生きられる最大化の事であり(それは本質の為の自由な現況という意味でさえもなく)最少の充足へ向かい触れて生きる事との同時にのみに在り得る選択,行為,生活,状況と自由の同居の事である現在の私のような生き方(それは仏教的な減らしたからこその、それ以外に道があるかは知れずとも肯定のみになれたらば心の自由と充足は成る。という意味への制限でもなく)を(各自の歩みや性質のままでありてもを)往く状態であるを知りて来た事での説明でもあるのだ。

私はこの生存で在れる事を自身にようやく認められるようになった。 私の真面目さは破壊と壊体を通さなければ至れなかったであろうように、疲れが故に休まねばならぬ状態から、気持ちが良いから休もうと認め在れるような心身状況となれても来たのは病気と制限からによるものでもあった。

苦しみは成長の為の必要ではあるが唯一,絶対の道ではないのかもしれず、しかし共生的状況の現実化による享楽性のままでは真の進歩は制限される新たな制限でも在るのかもしれぬが、ではそこを技術が埋めるようになるとしたらばその変容は如何なる程度のものとして認められ人為的構築性を組み込み生体的連関からの離脱を認めるというのか?

欧州の一部が意識の進んでいるというのも人間の根本が違うのではなく単純に、社会の成熟度としての周りや環境的な因子によるものも大きい(勿論、自個が立ちているかや、自身等で作り上げて来たものの経過の違いや進歩の度合いは有るとはしても)に過ぎない。 その場所の波動的な要素は(長野では良い活動や先進さは受け入れられず後追いの中間的な心地好さのみであり又は続いても、それらも小市民的な繋がりと生活以上には開けず吸収されていくのも、しかし爆発力はないが落ち着いている良さのようにも)それぞれの場所や役割の必然性や多様の分担があるにおいての否定はなく認められているべきであるが、その 各地の性質,波動や多様独自性にありても共通である統合,本質的な意識の開花への方向と生命へ繋がりてゆく事は求められても良い。 それは人間界の諦めと投げ出しと共に捨ててはいない関与性と同じようなものとして育まれた各地の多様の中からの良さを取り出しては伝え繋げる交易のような交流への流通を担う意味と価値でもあるのだろう。

日本人の変容は著しく激しく洗脳的な操作が故のものでもあったが未だ独自性を残してもいる、そこに在るvalueのように退行と進展は同時でもあったのであり地求人となりゆく素養を身にも就けて来たとも言えるのだ。 それは田舎の洗練なき固着性や縛りと素野で和やかな温かみとの両方を知り越境しては共存しても在る私のようにも相反と共存を同時に受けている解体と進歩への過程取りが絶妙に行われて現在に結びついている(保守,懐古性としてでなくて)奇跡の世界の連関結果が私化や現時代化されているを観てはいるのだ。 それは全ての時代と段階にも顕れるものではあろうが、現在此処に結び付いているものが既に大変な奇跡の煌めきであり、流れ去ってしまうのを勿体なく感じるように立ち合う妙智の観察へ生命現在を費やし吐き出しているとも言える現状況化なのだ。

最近の若い者はと言う視点や判断は確かに浅はかな自身等の作り来た状況への保守的反応である部分も大きいが、それだけではなく実際に生命的な本質性や交感能力などでもの経年劣化が起こりている事を感じる事からの警鐘であろう事にも目を向けねばならぬ双方向同時の真実を視い出している視点が問われ発出されていかなければならない。

全体最適解においては正しいかしれぬとも個別最適解においては犠牲にされる現代の不自由性が、しかし個別自由と効率の最大化へ技術が向かうのならば、そこには独存へ繋がりを切られた生存と性質が育まれてもしまう。

では不便さは確かに世界との自身,生体,感覚的な交感と流通を生むが、しかしそれのみが正しいとも僕には思えない中で技術の正しい使い方であると思われるガイドラインと不可侵な規律性が構築されていかねばならぬとしたら、そこには又も自由以外の制限と罰則,武力,管理などによる規制性が生まれてもしまう。

人類の進み得る道は現在から全く正反対の分岐であるが、その方向を選び得るのだとしたらばstar trekは一つの解だ。 しかしAiとの融合が押し留められたとしても環境や状況への適応の生体は変化を避けては通れないであろうとは思うが。 いづれにしろ人類は破壊文明ではなく、その任を受ける事も出来る才能もあるが、そうした方向へ生かし得るのか?への、このようなfictionの力にも(それが本当の未来予想図ではなくとも理想による現在の道呈の為へ)描き示す事は出来るだろう。

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しかし例え黄金(期と呼べるような)文明が起こり得たとしても共同体や文明圏の自衛問題と同じく、その自足や共生が外部からの又は内部からもに侵害されるかもしれぬ可能性があり続けられているのなら、そこに武力,規制力を持たせておく事は、例えその場が共生的でありても周囲世界が破壊や混沌である事へ放っておいて良いのか?等にとっても同じく必要ではないのか?

それは現在の覇権国家的な統治下に置こうとする動きではないとしても、良いものと(という判断だが)思われる達成を他文化と共有する事や破壊を共生へとグローバル化させるユニバーサルな統治機構へと拡げる動きの必要性も認めるものでもあり、逃げただけでは暴力や搾取の力を止められない(最低限に可能な手段ではあるとしても)のだし、追放では破壊者達の共同体や他文明への侵略主義の助長へ力を与えてもしまい兼ねない。 ならば有効なのは管理,執行の武力と、それを背後にした交渉力の担保などでもあり又は罰則の持たせ方などでもあるのだろうが、個人の死や個我が希薄になった世界での個人的選択への責任の持たせ払わせ方などもは希薄化し(支払い義務などによる責任は国家的仕組みが保険的に肩代わりもしてくれる中で)制限力にならぬばかりか、死刑という個我と個に属する記憶の削除や刑務的な奴隷労働という極端さを排除するとしたらば、そこに残る期間による服役などとは現在へ関わる可能性は失われるとしても未来へのタイムマシーンにも過ぎなくなったり(冷凍保存や情報的関わりの禁止によりても、しかし独自生存可能な生活環境下で生きるに慣れていて、しかも人権侵害されぬ状況であるならば)し、ではその更正への動きとして思想強制する事もなく又、自己断片化したprogramの(記憶や継承)ミームを増殖させぬようにし自然的経過を人為管理に抑制する事も等もは、一方からの強制的な執行力(例え、それが間違っていても多数や全体の最適解と思われるものへ個人を抑制させる武力(自体ではなくとも)のような強制力)を是認してしまう方法であるとして完全な方法とは(過渡期の理想状態に寄与したとしても)成り得てはいない。

意識の進化と、そこへの環境的整備,進展が備われば、それだけで自然に触れさせる更正,交感の生命力を取り戻すへ育む事や北欧(スウェーデン)のように柔らかな刑務の方法は自然にも在り得るが(又は決定的な黄金文明への転換などもは得られ得ないと諦めての一旦現在ごとをbetterへ歩まていく実験にしかないのだとはしても)その人間内部に内包された根本を、決して繰り返さぬ状態や絶対非侵害の文明へと徹底的に帰化,帰属させてゆくには不足なのだとは言えよう。

例え経済至上的な主義の原理から、価値が転換されゆきたとしても、それだけで解決されぬものが有る事への考察であり、それは究極の到達点を求め過ぎなのかもしれぬとはしても理想は描き求めなくば、そこへの可能性も示せぬし特に私は自身にしかと理解されているもにでなければ自信を持ちて伝え提案する事などは出来ぬのだ。

与えるばかりではなく罰則を与えたりする文明の方向などもは次の世界の姿への現在岐路においての伝説的な継承方向性に宿りてしまうかもしれぬように、私はこの思考実験によりても見い出されるprincipal的な指針を自身化するへ創り出さなければならぬという(それが本当ではなくても)自負を持ちての世界への立ち会いとなりゆかねばならぬ私に立ちてはいる。 未来の思想を私に宿さねば、それは示し得ぬミームなのだから宇宙的な視点での文明の形を見据えてに拠りての提案となる必要があるのだ。


究極的には肯定主義であるように愛のみの一択ではあるかもしれぬが、それを必然性に任せたままだけのような自然至上主義として人間や生命種の運行や宇宙の2極相反の働きのみへ任せて殺され奪われるも認め居るだけで良いというのか? 自己防御もが無き逃げるのみの文明の姿と破滅的文明種の拡大を阻止する事もなき放り出して(侵害されるかもしれぬ)束の間の現在のみを生味わいて生く事のみが正しいと言うのか? それでも自己と、その共有,共通,共鳴関係者との間だけで流通し高める意識と存在の力だけに在りて向かう事だけが、私等に出来うる事の(行為面でもの)全てであるのか?

又それが例え如何に本質に近かった事へと寄与する手段であったとしても、金儲けや消費材生産への才能はクリエイティヴではないと判断なども出来るのか? 全て能力や性質は与えられた恩恵と役割として為し果たそうとすれば良いというものでもないが、現世界と人類において搾取を基にした又は搾取でなく平等な機会の分配などへと向けた動機でありても、その経済,政治,交渉,デザイン,情報,編集,戦略,実際戦闘への武力や管理etcにおいてもの能力によりて動いている社会の相や各自の才能があるのならば、その組み合わさりと連関における意味合いが進行されてもいくのであり、それらの能力を成そうとさせぬ方向ではなく良い使い方と思われるへ転換させていく事は、(僕の創造を経済的な流通にも乗せるのか?への囚われとしてではなく抜けていながらも)有りても良いようには思われているのだが、それでも経済的原理を全くに利用も価値付けへ力貸す事もなく離れて対価をも得ぬような自存の在り方へと向かうがのみが正しいと等と言え経済的成功に拠る経済以外の価値への提案,転換でさえもがなく、脱した最少自由性の塊となるへばかりへ己を用い使うのだろうか?

生み出したものにより対価を得るのではない社会原理と成りゆけば、しかし貧する者を減らしたとしても、自身を生かす(自身と生存のみによっても生命の価値は尽くしているが)事によりて富める権利や得られる可能性もが潰えてしまう。ならば、その報奨や報酬系を刺激せぬ動機は自己の創造と他者との共有,分配というような依拠へ(それを通した承認,自己確認欲求へとも)依存する事ともなろうにおいては、それをも抜けねばならぬ面からすると不完全なのではあろう。

僕は自身に行われた存在と結果を持って、その他者からの承認面にとってもに人から良い方向に導かれたなと思って貰える意味で、感謝されるような人間になりたい。 つまり承認欲求であるかは分からぬが、(それを外したとしても)陰徳を積むばかりでなく実際的に、あの人は良いものを私や世界へ産み出し与えてくれたと思って貰えるような、実際成果の結果を出せるような人(と、その創造)と成りたいと思うのだ。

それは金でなくても良い動機ではあるが、皆が同様に自身の求める必要にとって自由を開出し最大に生かせるようになれる恩恵を平等に得られ富める事を望んではいる。 その新たな社会原理(原理など必要なくとも人間界には必要とされてもいる)を人間各自の方向性や模索方向へと照らす為にもへの私の提起があり、そこへの答えは必ずしも完全に出されていなければならぬわけでもないのだ。

人間界と、未来への現在地点でもにおける価値を生み出す為に現在の私が何を出来るのか? この立ち会いと観察の活動従事や創作,拠点などの求めと流れの他にも費やす事が出来る、私と適合の流れの用い得る方法などが出ても来るのだろうか。とも時の流れに合いてゆく身を浸してはいる。

本当にそうであるかの現実的結果には関係なく、次世界の方向性種子となってしまうかもしれない自身で在るという自負と責任においても、この真実への考察を続ける。


10/14(月)~今後具体の流れ方vision

市内で民泊,即ち長野区に住まい。
or初めから山の拠点で勝算あれば良いが、先ずはビジネスを軌道に乗せる。

翔ぶ為の着実さと、ここで賭けに負けたら又も全てを失う。 これは人生に3度あるという中での2ndチャンスかもしれない。

山と街を繋ぐ場所と、ずっと思っていた。 その機会が、やっと巡って来た。 民泊の 成長産業で基盤を作る。

不動産は落ち目だろうが、インバウンドは伸びる。 日本が駄目になる可能性もあるが、そうではないかもしれぬし、その時の活動関与の種ともなれる。 今が投資好機だ。 しかし資産の投下量や経済的運営の才能(デザインや広報なども)がなければ、軌道に乗せるも難しいのだが。

これが進むのならば、バイトも旅もせず俺は冬も含めて、これを用意し創るに向かいて、もう始められるも良い。 外国人への何かがしたかったのもあるし友達も呼べる。 しかし物件の流れも待ちながら旅に行ってくるは過ごし易さの過程採りにとってもの選択の自在性でもあるのだろう。

物件は街中候補,2軒は有り。
しかし利益率は(5割~管理委託すると更に)低いので、値段設定を高くしても回転し人が来るような立地(しかも貸主や周囲にも理解あり問題のない)そして、売りとなるような付加価値付けが必要。

融資なら,1.2%/年率として4700y/100万y辺りで、500万の物件を20年,23000y/月でpayする。という事らしいが、山でなら融資ではなく数年を賃貸で払い終えた時点で買い取りと同様となる。という条件設定が効くと良い。

戸隠,飯綱or八ヶ岳エリア(又は北海道)等で山が見え広く開けていて人少なく(後ろは国有林のみのような)安い処、が希望。 且つ、川ありて温泉もあると良い。という条件を設定している。 (peru,nzも良い。)

街中であるのなら、自分等も住み込めると良かったり(部屋数必要)特色としてのwork shopやイベントや飲食もあり、直ぐに過ぎ去ってしまうだけの人との交流でもないco-livingが民泊より良いのかも。 山住まいであればartやashram特化も出来るし掃除も各自にしてもらい作務へのpoint制にしても良いし基本はキャンプ場民泊としておくも良い。が、それだけで経済的基盤が成り立つか?ではある。

物販,work shops,ギャラリー,ライブ,山歩き,(ガイド),学校,馬や陶芸,etcも出来、旅しては仕入れて来ても良く、free boxの着物などは祭りで使用も出来る。


僕等-ルール作りと経営管理
(茶,薪,犬馬),

立丘-(管理費人件費,利益回収率,物件,等を聴く。)

kohji(?)-陶芸,炭,

  • 管理人(予約管理,宣伝,フロント,英語etc,リネン,),
  • 交通(夕方,山へ、午前,街へ),tour,

倫子-インテリア,
母-ガレット,薬膳,シリアル販売,
メグ-oil,
文香-massage,yoga,

等で、皆も繋げる。<リーディング>
1.山民泊-感謝し暮らすには良いが厳しさもあり勧められず移動(流れ去ってしまう)、つまり、その経験や挑戦に納得は出来ても経済基盤出来ず。という事か?

2.街民泊-我欲に見えても奉仕となっている情熱的に動きて扉が開く。

3.南米-社会道徳から反していても行動し、それがないと自分らしく元気で輝き生きられない(美徳への学び)と共に欲しいものが得られ行きたい場所へ辿り着く。

以前の占いでは、
8/8~1ヶ月18日=9/26、拠点。
~2年16日=2021 4/24、創作仕事。

もし9/27のakiから拠点の流れが繋がったのだとしたら、創作仕事の軌道に乗りて経済的心配なくなるまで持ちこたえられれば(経済的に成り立たぬとも)良いが、それは宛てにはならぬ予測でしかない。

流れを見るにも先ず(1.2.は置いておいて)は南米の旅で自身が何を感じ得られるか。であれば良い中で見ていけば良い現状ではある。 (しかしその間、進まないであろう映像の編集作業はどうしたらば良いか?)


102頃,8月前部での、私の暮らし現実と具体のビジョン。

家,エネルギー,薪,創作(動画),
聖者,茶(cafe,サロン)(ws),ライブ,
道場,庭,キャンプ場,(祭り)
馬犬,炭,陶芸,

(遊歩道,公園,アスレチック,
忍者(performance),
学校,(美術館,ギャラリー),
観光tour,送迎,映画ロケ地,
半自給,蕎麦,浴場(温泉),
技術開発(空翔なども)etc..)

体力もなく出来る事も少ないが、これらに繋げられる自身の夢に向けて歩める土台となれる場所に入りたい。

これらテーマをまとめて人にも説目し易くするには?

それはshala宿,庭,キャンプ,聖者,寺,カフェ,自給,コミュニティプレイス,家作り,ws,等の中で何処に主軸を取るか?でもある。

生き延びて創作者としての発信へ向けていくとしても、やはり年金以外にも旅用にも金は必要。 ならば先ずは民泊から?

しかし先ずは居住とアトリエ,cafe,イベント空間,庭,薪林,犬etcからで良く、
聖者,創造,場所作り(とイベント)等との生活が出来るようになっていけば良い。 そしてテント張り放しやゲル借りるなどをキャンプに貸すか始めても良いだろう。

が、ベースとなる家はなくてはなので探しているが、どうせ他の場所へ流れ求めて旅に行ける程の金も体力もないし北海道も屋久島も船などで遠いし余程の流れ来なければ今回は、もう何処かへ求めに行くのではなく最少の範囲(県内)で、そして子供たちと近くで足場固めていたいし(創作の仕事で回るような旅にも今は未だ行けないのだから将来の移住を見据えていくにも)やはり戸隠飯縄エリアに一度は住んで、本当に合っているか等も含めて試し知りておいた方が良い。という事で、

やはり候補は豊岡の古民家と森、(湧水跡地や)展望苑などでキャンプ場。

戸隠別荘地(~将来はキャンプ場,スキー場,ガールスカウトの森etcも視野に)。

又は大井辺りの民家,ログ,杏の家辺りや(小川,伊那谷,)八ヶ岳(富士見)、

(北海道なら上士幌,旭川などの上川郡、~八雲,(北斗や七飯,)室蘭など)になるのだろう。

乗倉,開田,飛騨山脈
屋久

その中での今の可能性は、
古民家と森、もしくは展望苑などでのキャンプ場。か(湧水跡地、)戸隠別荘地も。 (大井,伊那谷,富士見)

しかしそれらも潰れていく。
事業計画を建て融資を受ける?

八方塞がったまま、どうしようもないのか?
それとも捨てて将来への基盤の為にも、
出家(台湾,インド,nz)
タルタン寺,戸隠修験。
蕎麦屋林業,竹細工etcでバイト。

求めないことへも又も求める。
死んだと思えば何でも出来ると言われるが出来ない。なら、やり方を他へ変えるか?

それもは新しいやり方と、そこへの希望という欲望を転用してるだけだが、それでも(しかもこれしかないという望みでもなく自分意志として希薄で消極的なのに)現作業も捨てて身体活動にも無理させて他を試すのか?

山の暮らしに移れないなら別の労力と金をかけて生活水準を落としてまでも希望ではないアパート等へ入るのか? それが現実に足つけた、とりあえずの対応なのか?

一足飛びに求めて来たのでもない。 でももう何年もで疲れた。

体力も気力もなく出来ないと思っているが、それは自我と欲の惑いが捨てられぬからなのか?

苦しいのは叶わないから。の欲であり、死んだと思えば生きていられるだけとなる。としても実際の現実が痛いのだ。

環境を変えて身体も使ったり平安方向だけでなくアドレナリン活動を取り入れたりもすることも良いのかもしれぬが、しかしそうした生活状態への望みへは状況は動かない。

自身の行える事、を果たすのに固くななのか? 自身を明け渡して他者,利他の為などへ生命を捨てて生きてみること等なのか?

結果などの為でなく、もっと徹底的に捨てていくのか。

何て欲も業も深い凡夫だ。 こんな生に何でなってしまったんだ。 でもそれも与えられた生の味わいという、悟りの味わい。

凄い創作を見せる事で創造の消費へ膨らますより、人の心や弱さに寄り添える仕事となれることが求められている?

名誉などの欲求の為に追い求めているのか? いや役割を為したいや、可能性や能力を何故に活かせぬや阻害もされる事を認めねばならない?などの欲求ではあると同時に納得への問いと模索。

この作業の為であったとしても心が、依存の対象を変えているだけではあるも知る。

自身への変革も出来ぬのに人へ教えられるようにも(道場など)結び着くわけがないとしても、しかしあまりにもこの自身現況と生活の以外に何も出来ない。

いやこの探究自身が変革と救いへの方法と呼び声だ。

自分も望みもを捨てて死んだと思えば東京でライブ活動などへ向けて生きるも良いか?は、いややはりそんな無駄や破壊的手段へ自身を追い込ませていくのでもなくて出来る範囲でだが(この切羽つまって来ている状況でもの)、楽しいと思える理想への方向に生きてやらなければとヨーロッパでの学びと挑戦の結果も踏まえてにも思う。

では日常の進み行い方においても創作一つをとっても行うべきことは多いが、ずっと疲れているが基本状態の中で、これ以上は良くはならない前提での出来ることを組み立てていった方が良い。


拠点も中途半端な処を手に入れて手を入れるより結び付く最然へも任せて焦らずとは言っても、それでは創作活動や経済状況の叶わねば起こらぬを求め続けねばならぬようにもなるし、現状生活の苦しさから抜けたい想いや緊急的にも抜けなければならぬ必要が迫った場合にも困るのに、このように探す手段の、人,net,不動産屋,直接現地探しetcが全部ダメなら、どうする?

やはり予定建てや家族や南米なら映像作品にしたかった事やパソコン機材などもどうするか?なども全てを捨てて、冬にはPeruへ行ってしまう。が、こちらでの流れ来なかったならば僕の性質的にも求められている不可抗力な流れであるのかもしれない。

旅中の映像,