junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

163 12/4

163 12/4

これら関係を通して見えて来たもののように、共有方向による相乗や共生と言いたり共生的共有と言いたりしても言い足り得ないのであらば、やはり利己ではない等とも同じように簡易に、人為の無駄ではない等と言い得る事も出来るのだろうか? そこにも違いはあるが違いは違いとして自身の創作や役割のままへ突き抜けて立ち行い、付いて来るものを受けゆくという共有の形でさえもが上手く共有可能面での役割分担を催す現実的利益にも通じる事へ繋げられる為においても、流れと役割を基準として人為を拝した進行のスムースさや互い共通利益の共通へ繋げておけるのではないか?

つまり合わず結果的にも離れるしかなくなるのならば始めから離れておくが良いのかどうかにおいても、そんな事はなく自己多様同士の役割や性質の相乗可能性面を共有する事によって相乗,共生,調和的な方向を創み出せるという方向を共有してもゆけるのであり、では役割と分担による流れの基準によりて共有や話し合い相乗の可能性も補関し合い人為性の対立や否定,破壊の無駄を減らす事による自身と全体もの最大利益を受け取り創造できるという共通観念を創る事が出来れば、それは全ての解決策なのではなくとしても今後の人類文明への第一歩とはなる動き方なのではないか。

しかし、どちらにしても結局その根拠なる根本は意識の変革,転換ではあり、人為を減らす事の実際的な利益事例を伴いて伝う事もは利用しても良いが功利的観点のままの理由ではなく、真の生命的価値としての味わいと交感によって現在と過程の私たちを生かし最大限に歓んでいく創造や、何の為に生きるのかというような理由からに見い出された結果としての共生的な在り方や人為の(全てが悪いのではなく)無駄ではない個性としての使用法の質を持てる事へも転換してゆける思想の摘出と発露を、自他(共存)共栄の(宗教でもなくsportsのような遊び的な実践の道としてにも行い得る又は電子的技術であるよりも、この生体の価値を伴いてこそにも最大化し得て発展必要にも依らず現在でもに行い得るような)方法としてもに宿し換えていけたらとは思うのだが、それはでは私の言葉的な意味性もを越えて流し出される音楽や創造などのみによりてもに表し出す事が出来るのか? 私に(最少性を取り入れながらも)何を語るのか?

私が身近さとの言語交流において試し行いて来たように密に付き合いての交感流通へ変換させようと等としなくても、また能力的制限に依らずとも誰でもが出来るものとしての術~すべ,art~に昇華する、人間の好戦性や創破両義の意味合い等もを理解し利用した方法として操作でもなく生命性の遊びのように自然にも引き寄せられては、その者の本質性へと導かれてしまうような手段としての道~dou~を開出し展開,提起しゆく私とは為し成すを成したいのだ。

そろそろそこへ、まとめ出してゆく時期へ入り来たのかもしれないとも感じられるが、しかし何を示すかの以前にもあるのは自己意識が変革へ達せられていくのみでもあり他者へもに伝えられる方向もの全ては只、超越の欲求のみへ向かう事の質であるのかもしれぬが、そこにも取り入れられている現実具体の在り方の置き方というのは現在世界とにも合った中道であるかもしれず、食や性や金(金自体でなくとも、ある程度の豊かさを得られる事)もは生存のみへと減らされなくても良いのではないか?という間ともの現実基準の適合点を求め探している私だが、しかしそこを少しでも認めてしまうと欲求への依存から離れるのも真に超越するのもが難しくなるであろう(或る程度の悟りへの総数は行き易くとも真の悟りへ至れる者は減るというように)理由が有るも理解が出来る故にも、完全に捨てるべきか結果への囚われと依存は捨て離れ抜けながらも自身を基にした役割性に基づいた共生,相乗的関係性を方向としての個別必要解と可能性を受ける事を求めても(社会状況が豊かさの平等である分配や共有的な自立ごとの奪われぬ生存に至れば、それは結果として実現もされているが)良いのではないだろうか?という問いでもありて、ではしかし悟りの段階は超越的でなくとも総数にも最大化された共生的な享楽享受と、その上でもに進展性を取り入れられているならば良く、この生体的な状態での生命交感へもの開花を根本に置きながら、その更に先へ進む為への技術的な補助が有るというのも未来の可能性と分化し過ぎず共通生を持たせた進展の仕方でもあるのではと認めても良いのではないか?

とは言えど人間は個人も全体も簡単には変わらないが、それでも先進意識者の間だけに響き利用出来る知恵ではなく全体共通の共有可能性へ挿し込み未来発現可能性への種と残すへと分け与えゆく私を成したい。

その為の創造の使用法として、言語の少量使用(でなければならぬのではなく口語での表現が僕には上手く出来ない事や書くにおいても纏められぬ現在までの経験による自己制限性を認めるにおいての仕方なさ)と集約の持たせ方など結び付いてゆく先は如何にして分かち合う形へと転化され表現され得るというのか?

また創造作品を監督し作り上げていくにも似て自身に感じている流れの創作を協同の他者へ押し付けるのは人為と自然の相反でもなく意思によって流れを繋げようとする人為の持ち方でもあるが、幾らそこに各自役割の尊重と相乗的共有の可能性が生まれていたとしても互いの意思と思惑が流れの 最適解へ補関せず至れず対立してしまう時には如何に共有し共通利益を得られるへ(そこへの役割者も出て来ないならば特に)向かえるというのか?や何を見ても一つの事象に対しての善悪判断を越えて関与せず自身の批評を投げ掛けない事は姿勢として評価されるとはしても、しかしもっと積極にさえも批評判断的視点を投げかける事もは現状や各自の意識と行為を振り返り覆す為にもの必要であるようにも思うのだが。

それでも例えば、自身信念や流れを押しきろうとする事は他の流れや準備を妨げるかもしれないように幾ら良いものだと思われても自身を押し通す事からは私は引いているべきではないかとも思うのだ。 つまり押し通さず言わな過ぎたり寄り添いて良しと認めているだけでもなく、自己の意見や批評的視点の提起も行いながら、それ以上の創造が起こらなければそれも良しとして私と世界の必要は為される必要だけ成されるだろうという意識設定へも抜けている。事が私現在の置き方へもの方向性である。が、しかしそれとは自己意見同士の連結によりて進みゆこうとするような西欧の通り過ぎて来た段階に辿り着いただけのような事であり先進究極的な在り方以前の反動的な現在力としてに立ち止まってしまった私でもあるのだろうか? つまりそこを越えて押し通す又は一切の判断,批評的提起もを為さずの最少や傍観性へも抜けていく等の(各自選択性は何処もが自由だが)どちらかを取らねばならぬのか?へもの私は何処もが分かる故にもの人類総体の可能性の中での統合作業を自身内に行いているのであるが、ではその行き着く先は先に言い置いた自身現在の結論点のような"中道"でもあるのではないか?とも思うにも還り来る。

自身において取り入れた情報にも結び付き戦争や災害リセットなど有り得る可能性への予見を高め備えたり挿し入れていく事は良いが、それはしかしその可能性を挿し込まれた事によって起こりても良い用意させえる為に協力させられているのかもしれぬがように、当たったと喜ぶのではなく自覚を持って世界へ接していなければならぬ。

そうした事へもの人間や意識と日々の使い方ではあると伝えられたとしても、しかし例えばイメージに操作や利用されず、その奥にある対象の本質や真実を観じる能力や方向性へ生きていく事は各自段階自由の多様において取り入れられていれば良いとはしても人によっては苦痛であり楽しくなどもないのかもしれない。 ならば伝える事は出来て又は聴いて貰う事までは求めても良いとはしても、それ以上は人間の各自や社会の動きへ任せてしまい関与も提起運動もせぬという程の在り方であれば、変えられる可能性への力を用いる事もなく良いのだろうか? 無駄を生み迷惑かけるかも等の結果への判断もなく突き抜けて自身信念とそこに有り得る可能性への力を(操作とならぬへの自覚意識は大切としても)最大に用い為そうとする世界変革への意思体的な人間と自己の動きや、その連関と必然的役割の持ち方をも否定してはゆくのか?

感情を共にして動かされる人形としての自己を捨てられなぬ哀しみの人間などで在るならば、この自動生起された感情や知覚的生命体としての状態も必然的な連関プロセスの一体として組み込まれ運行されているものであるが、ではその自動運動体である全体宇宙の為の歯車としての役割ごとのみを行われる為に、悲喜による哀しみを産む感情をなくせば良いのだという方向であれば生体も自己性もの必要は無く(自身多様の性質各自によりて生命を味わい進展してゆくが価値などもがなくて良いとしても)電子的な段階生命(による次元もの超越)が認められてしまう事にもなり得る故に仏陀の自己と最少と中庸などもを再考し再構築させなければならぬ次世代への基準や思想が求められているへの(答え出ぬとも又は他者や他の経路から答え出されてしまうのかもしれぬとも)私を尽くす生へ生き歩みてはいる現況と過程上の適合点の行いだ。

しかし例え平安,幸福,安定の様相へ至れる才能が有り得ても即ちにそれが根本からの悟りや本質での転換であるとは限らない性質上の者が、死にも囚われず利益も良しとした超越という真理に基づく解釈を言い訳として自己利益や目的達成の為に他者や事象を利用する浅さとならず自覚と自浄へ気が付いているように、私自身が偽聖者にならない為にもの嘘をつかないという能力は才能でもあり、この制限された自覚や知性でにもの本質を問いている生命の歩み方自体の価値は既に成されても在る自身を、(もっと自信も持ちているにも)認めよう。

だが同時に、その方向への突き抜けていく性質生命の動きと歩みは変わらずぶれぬとも、これがもし物語としての俯瞰に眺める又は物語のように描くのならば、私のように揺らぐが不動(極現在と統合方向の性質)という立ち位置の賢人の姿と旅はユニークでもあり面白いではないか。


12/6
宇宙の真理など真には分からず僕の発見や目指す幸福の質などもは度合いの違う程度での思い込みに引き寄せただけのものなのかもしれない。 それでも現生人類段階の中では統合にも近く、その積み重ねに発展されゆくにしかなく、意識と存在の持たせ方や思い込みの質において、これで良いとも言えるのかもしれないように解体と統合(否定道,肯定道)の両輪を自己と信託(自力と他力やjunyana,bakthi)の同時にも行いては尽くされていく現代と制限の中でもの真理への超越へ祈求に生きるがばかりだ。

私における生命と存在のままである創造が物語的な創作の形へと結実はせず、例えば脚本化なども出来ぬのならば放浪へさすらうだけの者としてもの納得と承知への自身を生きてしまうもが良く、それを映し残しゆくだけでもの(結果が繋がらなくても、せめてそこは求めても良いと納得するが)世界への貢献と種の分かち合いの私への形なのだとも知るように生きるを流れて、ではそれは人類共通の潜在からの想像,構築物である神話的な原型などでもなく仏陀が辿りた旅路のように一つの即興的な流れの人生の流れの中に見えて来る過程と結果の連関(それはしかし、それが結果映り込んでしまう事は有り得ても、何が有ったから何が成ったというような因果判断の連結を示す為ではなくて)である"流れ"そのものを映し撮っていく手法~life log的な~である(にしかないのなら)も良いのだ。

そして歌詞などを文学的な感情への表現へ捻ったとしても、どうせ真似へ使い回され再生産されていくようなものでしかないのだから意味や内容の違いへ託される創造の質よりも、そこに宿す存在が大切であるが良い。と、歌詞などを突き抜けて本質的であるが同じような事ばかりしか言えず説明すらも置けないという創造の形へと(それは現在時点までの自身へと化された結果を見てによる解釈でもありて、そこに制限されてもならぬが)帰着する安心の拠り所へと自身が至り着いているもが良いのだ。

では歌詞に宿せなくとも映像詩やspeachなどにも(この文での現れ以外へと、それら内容を結ぶartの形へと)言葉を結び付けていく為の段階へ(向き合おうとしながらも脚本や物語付けが出来ず進まぬようにも)至らぬならば、言葉による意識の流通を示し得ぬ(故に又も普遍,本質,統合への共有を関係へと生み出す創造へ為されぬ事での葛藤や模索もあるのだろうが別系統の表出だとしても、せめてこの文章には置けたのだからと自身納得させるようにも)事も、そのままで良しとしての現在経過の結果としてを垂れ流していく以外には仕方ないのだと諦めて(未熟で遅く世界貢献の形へも響く用を為されずとも、8割完成で良しとしていくようにも)いづれの結果が如何に通じゆくかへの囚われも捨てての自身に尽くされてゆくがばかりではあろう。


自然や流れに生きる事の価値などを提案し 得るを最大化する為に、それで在った事による結果を呼び起こすへ繋がりたいのだというような求めは自身方向の設定や納得としては良くとも、そこにも制限されず全てが良いのだと解けた上での(つまりtaoなる事で自身を自然へ融け込ませ、その価値の知られずとも勝手に変革されているだけではなく、その在り方が在る事によってtaoを世界へも分かち合える価値創造の結果へ繋げられるという結果への動機ではなく)為されるがままだけの自然の結果を、この現在過程に受けていくのみに放り投げられた私と自在を在りて叶えられて生くのだ。

これが起こるによりて、それが起こるかもしれぬという因果的な発想の制定は、結果への進行の自身を選択,決定しゆく方向としての意味は有り利用も出来ても、果の為の現在判断に取り込まれてもならず自身の性質や能力や方向もの設定や把握とは経験という過去からに決定されて来た制限でもあるを知りての解体も取り入れられている故での自由へ解き放たれているべきだ。

しかしその自然に為されるのみの結果へと選択し行う現在自身の自然とは自身を越えた全体連関の流れからに催され制定されている制限存在であるには変わらない中での自己を納得し諦めた自在なのではありて、つまり結果も、そこへ対する(求めも放棄もの)過程の選択採りと行き方の自身もは自己を越えた宇宙運行の自然に任されてはいるであろうという諦観にも流されて生く何を為すもが無く捨てられた、悲哀と歓びの果てに自身が化され在りゆきてゆく事。

12/10

運命とは非情な力であるが、選択は自身のもの。 しかしそのどちらもが必然的連関に紡がれてある、私を越えた流れ。 そして心も揺らぐ中での連関に起こされて我この日々を最大に味わいてはいる。

世界への大志を抱くも共有の求めも自然となる事からの結果へ自身も生かされたいと願う大義もは有りても良いが、僕はそこへの依存ばかりで(人間はこんなにも弱いものであると知る無力さへの謙虚さも良いのだろうが)しかと独りの基盤を覚い出しながらに立たせなければならぬは見失わぬようにせねばならない。

共有においても互いに我慢して譲るより、やりたい事や好きな事を伝え会って、どちらも行いていく方が楽しいのだし例えその全てを行えなかったとしても、その関係において向かいゆきたい方向性を示し分かてるではないか。 故にも、共有は共に選択へ補助し合い立ち会えるが遊びでもあり(自身への謙虚さにありても自信をなくし)引き寄せ過ぎぬようになどと気にし過ぎぬでも良いのではなかろうか。

伝えるへの配慮は必要だし自分勝手すぎても良くないが互いの意見を言いても相手を聞こうとするならば無理に折り合う共有の強制ではなくとも、人間間の大概において違いを尊重しあって差異を埋める又は互いの利益面を理解した上での離れると共有とのバランスにもおける分配や共存もが出来るというのは理想論ではなく、ほとんどに適用可能な実際の効用であるのだと提起も出来るようにも思われる。

自分のままで在り突き抜けて良しとしている事は現状と世界全ての肯定ではあり又、それは社会的な常識へ適合させていく事とも違うのだが、例えば発達障害という言葉は理解してもらうには便利だし出来ない事まで出来るようになる必要はないのだが、そこにのみ逃げ込み自身を保護する為の言い訳となるべきではない事などとも同じく(相手の操作とならぬへ自覚を持つ必要はあるが、自身を見返さねば成長出来ない。と言っても、成長しなくて良いから放っておいて。や、分別を教え込み過ぎても良くはないが排泄物を食べたら汚いよ。と言いても、食べても良いもの。では話しも出来ないようにも)自己肯定のみにも囚われず(かといって他者の勝手な押し付けや判断に受け入れ過ぎずとはしても)自己にとりてにも納得された成長への発見をゆく為にもへの過程と生命自身の味わいと進展の為に、分かち合いによりての成長という価値もが有るとは言えている。にもおいて自分はこのような性分だから、この道で良いのだと流通を始めから拒否した在り方は基本的には(相手や対した社会が分かち合えぬなら仕方ないが努力や全体の向かいとれる方向としてには)違い、多様へも聴こうとする事は大切であり僕に言われて来た尊重というものの価値とは、そうした一方的な自己判断のみで見ず他者理解の努力を持ちて行うという事なのだ。(が、あまりにもそんな当然のような事が分かち合えぬ人と世に付き合わされて来てしまったが。)

故にも過去を振り切って行こうとする先進性への性分や自身のままの多様自由である事が、全体の共有や対立にもよって進みてはゆく連関の一部としては一体であるとも言えたとしても、私に思う人間の在り方と進め方への本来ならば、そのどちらかだけでない統合を自身の中にも紡ぎ繋ぎ向かおうとする事の大切さが有るとは思えているし、それは聞こうとするという理解や尊重への存在態度だけで良い簡単な事なのだが、それらとはそんな事すらもが分からぬ(分かった上で努力もしたが出来なかったのですらなく、先ずそれが理解すらも出来ぬらしいと無駄ばかりだった労力と絶望の上に分かって来た。)愚かな人間に対する過度な期待でもあるのだろうか。<(12/8の日記より),
相手の違いに対し理解を示すも大切という話しから、でも意見を言うも大切という事を僕が言い、その意見が一方的な判断の押し付けとならず相手の意見も聞いて理解しようと出来る事が大切。と言うと同意してくれるので、この人は今までと違い(全てが始めから上手く行くのではなくとも少しづつに埋めていけるようにも)その関係に向かいていけるのかもしれないとも思えて嬉しい。 僕らの間と同じく子供自身の中でも、その違いの統合が取れるようになると良いし、現実での選択も(学校に行かなくて良いか向かわせるかetcも)今こうして行っているように、状況により話し合っていければ良いのだと思うと話す。
><(以下,日記(12/9)より,一部書き換え),
新たな共有関係の学びや適応のstepである意味には有るとしても、流れに対する期待への依存や、つまりは欲求の基準によりて優先されたり選ばれているのでもあって、それによる共有や社会との折り合い等への制限に自分から縛られていっているのかもしれない。 でもせっかく手に入ったものを余程に違うという流れや確証でもない限り、それを手放せる程に僕は強くない。

例え後から見たら普通に近付けられてしまっていたり欲求の期待と依存で動き制限し失敗であったと思うかもしれぬとも、そうではないかもしれぬし(顔の可愛さや身体関係と僕にとっての精神安定材や金の縛りよりも旅や食や旅館や遊びなど又、関係や社会との適合を試し培える事や移住の家や経営などもの可能性が)欲ではありても、の喜びや関係も作れるかもしれぬへの期待においても欲望も優先させる事も出来る事や上手く行くのかもしれぬ流れを試し見ていける事などもは僕自身に望んでいた流れでもありて、それを捨てず築いてゆく可能性への努力を伴いていく事も良いと思われるのだ。 と、僕は未だ流れの判断と欲求との狭間に惑いてしまってもいるのだが。


未だ僕は流れへの判断に惑い取り込まれているとも言えるが流れに判断も付かず結局は現状に与えられた事の中での対応自身の現在を行くにしかないのだから、これが欲による自己の縛りなのかもしれぬとも(他律からの洗脳的操作の流れにも利用されているのかもしれぬとも)その時ごとを感じながらに流れや状況を見て対応されていくしかないのではあるが。

しかしこれが僕の必要や最然であったとしても、ここでの自身を行っている事で超越へ突き抜けられず自身の創作的役目を為せず、しかも更に凄い他者が現れた時には比較に苦しむ事になるという後悔をせぬ為にも超越のみへ向けての自身を行い生くべきなのか?でもあるが、やはりそれも与えられた中での自身を生きるしかないという生き方での生存の価値と姿を示すにしかないと覚悟されてにも、生きられるべきなのであろうとは思うのだ。
>

方向性は現実を起こす力もが有る意味でもの自身,自覚,意識の使用は本質へ照らし合わされていくべきとは思うが、僕がそうであったように現実と自身への流れは方向性にも関わらず必然的に起こされていくと見えるにあたって方向などは不必要であるとも言える(僕は音楽をやろうとなどとは思いすらもしなかったようにも)。 しかし本質的な発見と提起の共有者となりたい。 世界を救いたいという欲求方向は常に自身と離れず一体であったようにも、持つべき方向とは(性質の各自は示現されるままに在り行われる全てを流れの自身と認めながらに)本質とは何か。それのみで有るとも言え、その欲求(功利かどうかの判断にも依らず例え全体最適の個人なる事もが利己目的であるかもしれぬようにも)は正しいとも言えるのではないか。

そして結果にも囚われずに小さな目標への努力を歩む過程は確かに自身を育みゆく為の経験としてもの貴重だが、夢を持ち夢を追うという方向とは大人達が社会へ(又は良くも悪くも自分達でも分かってはおらぬ社会全体の進展方向性へ)組み込む為へと与えた(勉強や努力は間違いではないが、その勉強する目的性が社会一端化生存への動き,そこへの受験,その為の学校教育,というような)洗脳的目標の追わせ方でもある事を知らねばならぬ故にも、夢などが結果を追う活動方向の行為目標には反対の意見もを(その一方が全てではないと自身にて知りながらも)提起する私でもある。

夢など何かを追いかける為に生きるのではなく夢や方向とは、欲求の大志として世界や生命を如何に良くしゆく事が出来るか?のみで良いのではあり(そしてその各自が限定的知性で思い付かれた行い方の多様が共有されるのは良くとも、押し付けへ使用されぬ事へ気を付けていなければならぬにおいてもの自覚的方向は必要でもあるが)その本質的な大きな方向のみを夢として生き在ることや、その質として浅はかな段階での世界への良さという人間的判断へ取り込まれぬ為にもへ(自己という対立同士の無駄を生まずに)何が本当に世界や生命の為に必要か?へと向かい歩む事もが出来る方向性を与えるへの提起となるが私で在りてゆきたいのだ。

そしてしかし全てには自然が為されるのみであるにおいては、そこに為される創造と結果の達する質が低くかったとしても何の基準への判断でもなく(例えば、その者に行える物が音楽でしかないなどのように)それしか出来ないのなら行われるしかないと自身を選び覚悟,納得して生きる事を、せめて自身に選んだ人は、(その浅さへの指摘や方向への質の提起は又、別の問題としてするかもしれぬが。 そしてその生命にも意味はあるとしても社会的な制約の以外は認めないという者からの強制や、そこに慣らされて生きている者よりは)それなりには僕は認めてもいる。

12/10
しかし各自の段階差や創作の質には判断もせず只その持つべき方向が、本質的な方向や良き生命へ如何に生きる自身となるか等の大志や欲求のみで良いとはしても、そこへ向かいてさえいれば現実具体においての何を行いても良いのか?や、又はその段階での方向や具体行為化の判断が思い込みにもよって間違っていたりした場合においても(例えば卑近だが現在の人間の良き世界を創る奉仕への為に自然界や生命から搾取して消費者への経済効率を目指そうとしてしまったりもするように多少の進展をしたとしても人間は短視点的な勘違い等へ邁進したりする故にも、方向やスローガン目標が合っていたとしても具体の質は問われなければならぬのではないか?とも同じく)判断段階の質や行為の内容を問わず放置し具体的基準を示さぬとも良いというのか?

それは例えば平和の為に武力廃絶も核抑止も両方の考え方が有るように、平和という目標を共有出来ただけでは各自判断や行為の具体は共通せぬように、そこを見い出し働きかけようとするもが正しくないと言えるのか?

そして又、自身に与えられたままにを受けて為される各自が自由も必然的連結である世界自体を認めながらも、その各自に行える事を行い可能性を追うを止めさせなくて良いのか? それはその者が本質の方向へ向かいているかさえにもよらず全てが本質と完全自体であるという中でもの判断段階や存在,行為,創造へもの質性を問い提起せぬとも良いのか?でもあり、では方向,具体それぞれのままの良しとして無関与,無行為で在るのみか、それでも何処までをその方向や具体へとも関わる私となるを置くのか?という事でもある。

全てが完全であり良いと放棄された世界に在るへ変革されて、如何に何処までを関与する私となれるのか? 人為に対応しての自然を挿し込む私のままにも在る事や流れへ触れ乗りていく自身となる方向や性質などもが不必要だとしても、その宇宙のままを為されたい私における私の置き方を見い出されたいのではあり、この繰り返される問いと発見の一端一旦ごとには日々と発展(堂々巡りに見えもするだろうし、全てが身に付いているわけでもないが確かに進展の道呈を歩いている段階ごとの成長の実感は有る。)を至りていると思うが、それは未だ完全な統合を見ず、それでも繰り返し現れる結論に近い点を真実として採用してしまう事は出来るだろうが(そしていつまで続くか分からぬとも)そこでは停まれぬ私では在るのだ。

しかし何が本質であるかも(有りたとしても問われる必要なく行われるのみがあるのかもしれない)基準も判断なども無き非情へ超えて行われる自然の運行と世界での、自身と普遍の基準を知りたいと望む性質が自然である私自身も、何の判断も無いはずなのに放棄せねばならぬのか?


本質,方向,基準,判断も何を如何に伝え行為,選択するのか?や、流れも現実化も(食や性も)上手く行くも行かぬも心身状態や愛の関係や創造や金や拠点も環境の整わぬも旅などもの必要と判断もの全てを流し去る。 欲は、その為の道具。でもある。

流し去らなければ、確かに惑い続ける事になるのかもしれず、欲を或る程度に満たした享楽では、もしもそれ以上を求めぬ事が実現されたとしても更に深めるへは向かいにくく、それでもそれを技術や文化的背景が埋め悟りへの生存と日常へ化させる可能性は有ろうとも苦の現実状態を無くそうとするより、その苦や欲が有る状況の用いる方向と使い方として自身が捨てるのみへと使用するという存在の変革の道は未だ未来普遍への価値であるのかもしれない。<(以下,/9,夜の分~への繋がり),

そうして人為の無駄と破壊を共有や共生へ向けるというように、せめて出来得る事を望むかどうかにおいても囚われ過ぎぬなら(もしくは囚われても)ある程度を求めても良いのかもしれぬとしても、それでも求めぬ自由を得るへ捨てていく方向自身へとも向かい立ち戻らせねばならない基準と根本には在るのだろうとも思われる。

しかし、本質とは何かへ向けての自己化を生きる欲の良さのようにも、流れに触れていく事や自然や人為の無駄な破壊なき共生や共有などもと同じく、肥大せぬなら或る程度の得る事を求め叶えられる方向へ目指されても良いのではないだろうか?

欲を肥大せず囚われぬとは難しいし、その為にも流し去る自身調整の坐や方向などでもあるが、しかし苦痛でもないが享楽にも過ぎない現実利益でもの安定が取れるなら、何故それを目指し行いてはならない? 得られる事によって本質へ深く向き合っていけない人間の質はあるとしても、全てを打ち切りて最少のみに減らしていかねば心の自由と幸福は叶えられないというのか? それは根本的な転換と手段の一つではあるとしても即ち(科学や数学で、証明出来ぬから無いとは言えないように)絶対唯一の基準であるとは証明されていないではないかとも過去の知恵に言われた事と自身にも(が、それによりて真の統合に到達されるかも分からないが)立ち会いてはいる。
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本質方向でありても欲求は肥大し、ならば流し去りて何をも求めぬ自在性だけが唯一の自由や幸福への答えであるのか? その自身と心の変革現況のみをゆき、現実状況を変換してゆく努力や望みや判断もは全てを捨て本質が何であるか等のすらにも関わらない、自身と必然的連関の流れを生きて為されてゆくだけであるならば、ではその自身が望む流れや統合の基準や本質などへ向かう欲求の生起もは、それ自体が正しいと云える事とも矛盾はないのではないか?

しかし如何に生きようと選択が自身の勝手と強制または他律からの迎合や操作に利用や搾取されていようと、世界の連関に自然が催され起こされている以外に自分の意思などで行われるものはほぼ無いのだから、ではやはり本質など無くても求めなくとも全て各自がそのままに行われているに放棄し、その故にも放棄せず自動運行の一つの宇宙の形である私を自由に思われるままに行い関与する世へも吐き出し本質的基準や流れに触れて生きる欲求と求めのままにも行為,選択し存在されていくだけが良く、為されるを受けるのみの中での生命体験の各自における味わいのみが生命価値の最高化であるのかもしれないとは思われる基準にはあるのだが。

流れを違えても、何が為せぬとも、こんな僕でいるしか、どうしようもないんだ。

ぐずぐず等してないで小さな枠にしか抑え込まないで、もっと超越的に行為していられたらと、いづれ想う事になるかもしれぬとも、これが僕の仕方なさであったと思い返して納得するを承知しているしかないのだともいうように、この姿に突き抜けていくしかないのが僕に与えられた自然である自身を行いゆかれるのみではありているのなら、やはりこの現在や世界と他者のままもを認める事と同時に如何なる判断もなく流される各自のままを放り出して、自身に為される性質と現在と交感の生命をゆく事、これ自体がこそのみが価値であるとはいう事か?<(以下,12/6の日記より抜粋),
今日は流れの違いも少しづつに有ったようだが、これが調整となりているのかもしれぬなら流れは良い日も良くない日も有るに一喜一憂せぬ自身へぶれなければ良いが、上手く行かぬ流れには上手く成されぬ自身の状況を見るようにも、やはり哀しくなって来たりしてしまう自分が居る。

寒さ来たりてに合わせて調子は悪くなる。 やはり未だ欝な、この状況の自分なのだ。 甘んじる事なくとしても、やれなくて当然な自分のままにも、これが精一杯に生きた僕の跡だよ。 これ以上には出来なかったと知るにありても仕方ないのよ。

誰と比べる事なくとしても、何故あんな物ばかりが持てはやされ響くのか? 僕は世界への力になれず自分のしたい事も出来ず又は追い付かない。 これも優しさなのだけれども。 僕が寛容であれるを試そうとし過ぎる以前の土台に、共有や相乗が僕を支えてくれる関係が、いづれ自然にも成るかもしれぬを求めたって良いじゃないか。

youtubeにて自分の動画を見ると(再生回数は366と33)世界の片隅で振り返られる事もなく密やかに咲いているけど、例え誰かへの成長にも救いにへもの意味がなくても、僕への効果や救いには寄り添ってくれているものを、創れたようには思えた。 (でもそれは僕にとって、ちゃんと凄いものを創り自分は為せているぞ。と思えるからでもあるのであって他の人が見たら却って嫌な気分にならないとも限らないし又、言葉が不必要であるかの証明とも言えているわけではないのだが。)
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12/12,

下らない創作,消費物や、そこへの人生の 在り方にも(宇宙に比したら私も限定的な生存であり又この在るがままに与えられていくを行われるに過ぎぬは変わらない故にも質を問わずとも)そこでの世への意味は起こるだろうし、そこには良く見える結果も悪く見える結果もの両方が宿る(又その可能性がある)故にも功罪への断罪は付けられぬのだが、それでもこの方が良いのでは?と自身における観察と経験による判断の提起は良いのではないかとも思われる。

しかしそれとはやはり、どの程度の真実として近付いた自身と成れたのかによっての深さと質がそこには問われるべき、つまり他者関係,影響上の自身責任を考慮された事からの自身存在の置き方は、何を如何に発し在れるのだろうか? それは深く真実に近い処へと問い(所詮、自己の枠や制限における判断であるは変わらぬとしても)掘り下げられた結果なのであろうか? と自身へ立ち会われた事からの結果としてもに一致する生や自己の質へ関する問いではあるのだろうという事もを提起したいが。

世や自身の傾向付けなどに対しても、それは自身経験に培って来た自身への真実ではあるが私の周りに起こった事象においては本当であったという程のものにしか過ぎないのでもあるし、断定ではなく自身の問いにもよりて覆されていくこと。 かといってそれを挑戦という価値への理由付け等にもよって他律からの操作へ任せたり応用されてもいけないと言いては置くが。

(以下一段,日記分,一部書き加え),
新しい時代は性などの欲にも囚われず価値も置かれない人間に変わっていくも良いと思うし、もし彼女が本当にそうだったとしたら認める(中での均衡の取り方を考えねばならぬ)が多分そうした新価値観の使用可能性を、自己傾向付けの方向や理由づけへ利用し引き寄せられる事へ用いては自己や可能性を制限してしまう人も多いのではないかと思えるとも同じく、全てに両相面ある内の一方へ傾かず一時の判断によりて打ち切ってしまわない事へ自身で気付いていて欲しいとは他者人間や社会に対しても思うのだ。

ただそれらは囚われを抜けて自存して人間の不浄からも離れられる良い方向にもあるのかもしれぬが、独立的生存が対者(人間も他の生命交感にも)不関与や電子的融合へと向かい吸収や(それが絶対に良くないとは言えぬが、或る種の思惑への捜査などへも)利用されてしまうかもしれぬようにも、どちらが良いとは(その過程採りだけでなく結果としても)言えず分からぬが、(人類や本質にとって何が正しいかは判断出来ぬとはしても現在の僕にとっては、それがないと困るとは言えもするのだが。) それはこの生存自体と同じく性は悦びでもあり生命体験の使用の価値でもあるが依存への苦しみでもあるように(又、欲は喜びと苦しみをどちらの面もを持ち)、享楽と苦痛のどちらにも過ぎぬがどちらにも掛かり人間的な歓びと抜けてゆく非情の運命への放棄と現在や進歩の到達の未来と過去にも橋を渡すような生命活動の間に統合的な均衡を持たらす方法を見い出す事自体と、そこへの方向というものを(向き合い覆し続け深めてもゆく事の中にも)私は提起してもいる。

(こうした故に深める事や、制限体でありてもそこへの知性の使い方としてもの自己を通して根本や生命の本質にも触れ達してゆく事の価値などは全てが例え自由でも、こうして肯定されているとは思われる。)


何かが有りて起これば何処かで他への影響が反映されるという連なりが起こる現実的な事象としての因果における意味として(良いや悪いの差し引き的な相殺ではなく)全体の中での影響がカルマというようにも何処かに出る役目や解消を誰かが受けねばならず(良いも悪いも)、その連関が全てにおいて行われているだけを眺め観るだけに過ぎぬのかもしれぬが、例えそうだったとしても人類の生み出している無駄が減れば連関に起こるものの質や与えられ方などもは変化し破壊的な影響を解消し済ます進展の為の犠牲も(交換原理が全てに適用されているかは分からぬとも世界が交換,相互影響されあって存在,運行されているとは言えて良いだろう)は減らし柔軟で滑らかな進行(それによって真に真実方向へ進展されるかは、また別の課題だが)を享受し易くなるとは言えるとも思われ、その方向を示し目指すも良いのではないか。 (しかし如何に提案し関わるかは、この文章以外に見い出せず私に未だ(それともずっと?)結び着かぬのではあるが。)

何があろうとも起こらなかろうと意味付けの納得は出来る(又は判断的な知性の我々にありて流し去る為に納得するしかない)のだろうが、それでも現在の私に感じられる方向への生命自体を使用し行いゆく為へもの望みは持たれ行われていっても良いのではないか?


時に来たるdepression状況も、この程度で済んでくれれば良い方ではあるが未だ有るを認識しての自己段階をゆかねばならぬが、それでも日々や関係もの生活の在り方に均衡,適合,調整が起こりているを観ていながらに私に与えられたものを有り難く受けとりては進む。 以前よりも多少は全適合状態の実感的感知を減らしたとは言えども、やはり適合は流れの上手く繋がる時も繋がらぬ時もに起こりてはいるようには私と世界の全ての状態に観えるように感じられてはいる。

そこには勘違いや思い込みや経験に基づく自己判断などもが行われている可能性もあるし、全てが完全にではなく微妙な差異は起こり、それでも調整された一つの世界が運用されている解へ至るのか、少しづつに差異が拡がり適合的な運用や可逆が不可な未来への分岐が起こるのか。は分からぬが、(例え未来への連結や時間の可逆性において全てが決定されているのかもしれぬ可能性が有るという知性,論理的判断性に依らずとも、やはり日々に立ち会う流れと世界へ出会いゆく中での感じ方の面でも)それでも起こり得る事が起こり得るように積み重なっているような必然性を感じる。

世界線の分岐したパラレルな並行性(完全な併行であるとは限らず時間の流れ方にも差異または相互関連性があるのかもしれない)という可能性が絶対に違っているとは言わないが、量子的振る舞いの一分岐ごとに別の世界が生み出されている(又はその全宇宙の可能性は始めから行われている。そしてこの瞬間ごとにも消えている(?))というような想像は(想像を排棄する必要はないが)、この現在だけでこれだけの調整や適合への連結が複雑に関連されて為されているように見える世界では別ルートごとの世界が無限に生まれているとは、僕には思われないという意味では違うと思うとは言っても良いとは思われる。 しかし勿論、宇宙の規模は壮大に過ぎる又は全てが仮定状態で揺らいでいる仮想シミュレーション全体中の一端を現在と感じられているだけにあるのかもしれぬようにも(安易なideaを素晴らしいものとして発す事などを否定しているだけではありて)絶対に違うとは言えぬし、それは一判断には取り込まれず対案を自己内包するというような統合性への考え方などを人類の方向性へ挿入したいからではあって、一判断への集約ごとが次への連関を起こし進んでいるというような人類の方法と在り方を否定しているわけではないのだが。

ただし発見や、それに触れた事への感動を感情,情感的に乗せる文系的文学的表現への文章化よりも理論の言葉で、しかも複雑を安易に解釈せずとも噛み砕いて解説する方が同じ作成者や評論者であっても高度であるとは思われるようにも、その質が如何に真に触れているのかは、やはり変わらず評価の基準であるとも思われるが、それは心の内実を如何に表出するかとも同じく一つの対象,事象,案件に対して確固たるはずの数学的方法もは各自の捉え方によって他の形や経路にも使えるように結局は言葉も数もその表現的素晴らしさと制限の両方に同じであり、その者で感じ在ること同士が有るにしか過ぎぬとも言えようが。

この宇宙も越えた多元宇宙や今宇宙内の他次元同士の相関の全状態にも併行された、multiverseと量子一つの選択状態ごとの数の宇宙を全て掛け合わせたものが一体運用されているなどというのは(その計算量の問題は時間の流れが定量化されぬように、この宇宙の制限を越えた次元からは難しいのでもないのかも分からないが)それでも全ての可能性が有り得る故に、それは有るというような理屈は乱暴に過ぎないか?

又はその全体的な連関にさえも計算素子として我々の自由(と見えるマクロな個別の状態であり宇宙に対してのミクロな状態)意思と選択が有るによりての宇宙の選択が起こり得ていくに寄与しているのかもしれぬが、それら現実的選択の私自身によりて起きた事もへの繋がりを起こす条件や意識への起因は量子的状態や他次元からの流通によりて規定され行われているのだとしたら、やはり宇宙は次元や時間の全体が絡み合っての粒子たちが流動のように、もっとずっとミクロで壮大な段階からに規定されていると見られはするのだ。 しかしそれらが時間の流れによりて絡み合う進行への連関もの全ては、もしかしたら先程に触れた可能性のように全宇宙の可能性は始めから同時と一体に内包,実現されている融合されたスープのように流動し揺らいでいるのみにも在るのかもしれないとも思う。 (これもは数学的,論理的証明への言葉ではなく可能性の想像ではあるが、断言ではなく感起への仮定の取り入れではある。)

そしてそのような壮大さへの一想像としての、宇宙は銀河団というnet状の流通路が(world wide webのようにも、そしてそこでの時間的な制約は全くに違うスケール又は仕組みの中で働いているのかもしれない)機能しての巨大な知性であるのかもしれない。 そしてそんなにも巨大で全てはその為に行われているように自身を生み起こしている(しかも現宇宙に留まらぬかもしれぬ)存在を神とも言うのならば、その神は天上などの何処からか客観的に私達を観ているのでもなく、それ自体として同時に味わいているのであるかもしれぬし、それをこの個という枠の中だけで感じている存在体と(実体でありてもなくとも)してに味わいているのが限定でありながら神行いの一体である私たちなのかもしれない。 ここの意味からにおいてもの私たちは(それを知るならば)自身自体が神なのだ。とは言え、ならばこの私たちの存在を段階的に進歩させてなどいかぬとも、その自身を越えて見つめる眼差しの主体者を変換していくのみによりての私のままに在りてにも神が自体へ近付けて生きられるという価値と実現の道があり、それを本質へ尋ね訪ねては触れてゆくのだと私に言われ目指されている(囚われや欲求の)先にある幸福実現の意味であるのかもしれないではないのか。<11/28~(この頁上部に書き有りたもの,+加筆),

宇宙の原始期以外にも他のエネルギー状に生まれ存在する知性生命性は(他次元にも今次元にも流通し)有り得るかもしれぬが、巨大な宇宙の全てが全て(どの段階の生命性に対しても)の為のものとして運行されている、そのもの同士のみが部分ごとの役割と連関にあるにも限らず、そこへの階梯性を自己意思によりても上がりゆけるかもしれぬ知性体である特権として上昇し続け至る事を目指さなくばならぬのか?においてもの答えともなり得る。 それはこの果てが無き進展から降りて示現された自身のままに変換しゆく事が出来る最少と生存の道と(未だ完全に正しいかは分からねど)なり得る一つの考え方でもあるだろう。

全ての人や存在が宇宙や時の全体の運行の為への各自が一端子(と僕が呼んでいるものとは固形の接続ジャックの事ではなくて他次元から現世界現象へ突出した固体的な点としての各自一端ごとの種子的な役割や運動自体でもある全体流動中の各粒子の点滅のような動き各々の印象の事である。)としての役割を行いているだけであるに、それは必然(などが有りても無くても)的な働きや動きなのだからと放り出しているも良く、そこへ関わるは私の姿を通して置くに見せるのみでも良いのだ。

全体相関において流れている(と見える)全連関における現在と人間での必要を最善,最大に行われているだけの各自が在るに過ぎぬのだから(それを知らず、また感情や自己のある故にも哀しく、知りては全ての肯定へ諦め放棄せねばならぬ非情でもあるが)それらを全てが宇宙の必然を為し成していると認めては放り出し、そこでの私は私への自然~jinen~を行うへの選択,受け取りへの生命交感(交換)をゆけば良い。とは言えても良い事ではあるだろう。
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しかし非情で巨大で手には負えない全連関からの私各々を与えられての流れ(せめてその本体からの味わいの眺めに近付きては世界を観ていられるへ変換させる事くらいは出来ても)に生きる事は変わらぬ悟りと苦を取り外す道でもあるのなら(釈迦族の虐殺へ、止めよと提案する事もがないように。 そしてそれは自身の悟りとの引き換えであったかもしれぬようにも原因と結果などは見えず判断出来ぬ上で投げ出していなければならぬのかもしれぬようにも)例え苦を誰かが受けねばならぬならば(連関における解消分や役割などを減らせるへ関われたとしてもであり又、関わって良いかも未だ明確化はされておらぬが)それを与えられてしまった者による知られぬ犠牲へも自身の足と覚悟と選択で立ちて世界を調整する役目にあるを俯瞰と超越の視点と自己のみで在る事に突き抜けていなければならぬというのか?