junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

90 6/25 (tue)

90 6/25 (tue)

愛に在り味わう私のみに在るへ向かう愛の存在と気付き。なる基盤に、生きているだけでの創造。という聖なる自然の条件にも戻って来たるだけで良く、愛となるから結果と現実化もへと望む交換条件化させぬとも、只この愛へ生きる中での自身が行われては、しかしどの道も同じ肯定への超越へ至れれば良いのだとしても諦めと絶望に認め捨てるしかないような苦しみを通さなくてはならぬ道を私は拒否しては、幸福に愛の存在化を叶える道を歩み現実化する発見と伝達の役割,媒介者ともなり在りてゆきたい。

それでもこの身体と日々適合の状態だけでなく常なる心の物足りなさや不能,無力感のやりきれなさ等は望み叶わぬへの囚われからでもあるが、例え望み叶ったとしても僕はこんなにも身に付けて来てしまった虚無的な哀しみの平常性や又は探求の為の問いかけにおいても心安らかなだけの楽観的自由さには当分は至れないのではないか。 そこへも縛られ過ぎず、しかし常に生まれ変わっている私は現在にしかなく全てを断ち切られている変革は今こそに叶えられるという精神論にも偏らず何処かへとも偏れぬから素直に直進出来ぬのだとしても、私はそんな浅薄な進展でなくて良かったと思ってはいる。 自分探しは馬鹿にもされるが自身内面に問いて深めずしてどうする?

苦しい心を取り出してみろと言われ、それを生み出す自分という本体を見た時に自身など本当には無いのだと実感する事は出来ても、そこから更に進み深める為にはその自身を持っての世界に立ち会い観察していく事や自身ありても無くても現じる苦の現況を味わって肯定へ転化させてゆく(又は苦も生きていられる生の楽しみと受け取っていける等も)においてもは一段階性以外の不要や詭弁でさえもあり、心も自分も無い全てが自由へほどけた後の心の使い方と世界の深め方の道と、そこでの心が苦しみと出合いゆきてしまった時の解消,昇華の方法などが求められているとも言えると思うのだ。


日々に私を流し去り~let it go~、怖れと欲望を愛への光へ溶かし込んでいく変革を行い、深い処からの癒しと許しへ繋げ込めてゆく。

言葉や思考は悪くもないが、それだけで保ち続けるは難しい故にも現実具体の環境も変えるへ求めゆくも良い。

瞑想へ座れば、座った分の佛とはなれるし他の何よりも気持ちも良く癒しにもなりて潜在も浄化され欲望への囚われも解消され易く、そこへも自身向け費やしていくが、その自己解消努力に疲れてしまっていたり関係や現実化への生かし方へ為されなかった事への囚われが私への消費的欲望を連れて来てもいるし、そうではない段階の欲求(他の全てを諦めていっても子供だけは死なず健やかに生きて欲しいと思ったり自身の生命を守ろうとするは良いのでは?等)は肯定されていても良いのではないかとも思う。が、では今ここ。のmindfulのみであれば欲も全てを流し去れるというのか? 欲出て来ても認めて膨らませ過ぎぬ為の解消対処なら消費への依存であってすらもが良いのではないのか?

万物を映す背景の全てが空や無相であるとして、ではこの3次元での生命体へと還り来ての歓びと欲の果たし方の範囲などもは何処まで減らし消し去るが良いというのか?

そしてそれらが分かったとしても現人間界の言葉に現さなければならぬは至難であり結局は解体された詩的抽象や禅語的な断片などのようにしか働きかけられぬとも良い(又は哲学的説明の結果とも同じ)であるを認めているということか?

僧の言葉などもは一つの道に殉じ深めて来た人間的含蓄はあっても、やはり物真似と納得を自己内化させて来た結果に過ぎぬと感じてしまえるものが多い故に学びや感化もはあるが、それより深めるには自身にてひたすらに辿るしかなく他者からの吸収は抽象的精神論や霊性的響鳴などよりも具体的方法論などの方が多くなっても来ているようだ。 そして私は一つの道を究明に深めゆきた結果として指し示し在れる言明にもなりたいし、それがどのような形に現れるかもは分からないが、しかし彼等のようにそこで止まったのでなく深めようとして生きた者としての存在に至りゆきては立ちたい。


徳とは辞書からの定義をまとめると、社会的に価値のある性質や品性によりて広く影響を及ぼし教え恵む望ましい態度で善や正義に従う又は目指す人格的な能力であるという事。 つまり社会的な価値,正しさ,善,利益,等を基準としており、しかしそれは正しさや良識と同じく定義化出来ていない抽象的な解釈でありて魂の高さとも別個のとして捉えられるが、だからといって魂の高さ故と役割の為の破壊も起こるのだからに善悪や優劣がそこには付けられてもいない。 別次元階層や潜在的な深みが善であるわけでもなく、今のところは目指しうる人類の美徳や目標地点すらも抽象的なのだ。 故にも私は仏陀の説いた正しさ等が何であるか等へも問いては歩む。



人間や存在生命などもの全ての物は所詮、この宇宙の奏でているエネルギーや波動の高低のように宿り在り流れゆく程度のものではあるが、この固体的状態である人間というものの感情に宿りて、それは苦しみや喜びの波へ依存する固着体となる。 だからその感情的囚われを心一つのみが離れていられれば良いだけではあり、そこへの練習と自己化があるのだが、もうそんな苦しみを抜けようという欲望すらもが実に苦しくもあり又それは大きな変容への恩恵でもあるが今の私はもう長く病気であり、その波にどうしても揺られてはしまう。

結果やVisionへの欲望が強すぎるのか? かといって体力も気力もなく何とか生きているだけを肯定している自分が、中途半端な流れを得る為に(その流れが来ていたとしても)労力をつぎ込むのは無理だし無理を押して行う無駄は嫌だし必要もなく最少を選ぶべきと思ってもいるのだから、そして又その時に与えられた状況に受け為し合わせて来たことが繋がって来た事の結果でもあったのだから、例え気付けず失敗であったとしても、そこでの自身を逝くにしかないのではないか。

最少にして自身への必要は巡り得られるという意識には在りてゆくが基本的に世界は、愛や自分の状態が良ければ良きものが回り来るわけではない。 却って高いこそ苦しんだり殺されたりもしている歴史の中で、では高くその者に宿った必要を行いて為されたからといって上手く行くのだろうか等を計る術は今の処はなく又どちらにしても、それぞれの自然が性質や役割や外因や環境などの状況に与えられて来るを受け為される以外には無いのだろう。

哀しくとも為される以外にないを覚悟し受け入れていく肯定と愛へ転じる歓びが苦しき道でも逝くのなら、しかしそこに邪魔で不要な感情をそもそもに失わさせてしまえば苦も喜もなく行われ殺されるにも自由に心離れてあれるとしても(心という知性の故にも深められ越えられる術ともなれるからという理由でもなく)心や感情のあるが故にこそ味わえる生と現在を生きるのみの価値であるという意味での、この不便だが生体や心を携えて生く積極的な理由面もが見い出されていくのかもしれない。


感情自体が悪いのでもなく、感情などへの一辺倒な囚われが良くないとは言える。 しかしそこにも気付かず他者批判と自己正当化しかない者との質は違い自覚もしているが、僕も又その一方的判断の感情や否定の愚かさ等の人間世界に対して感情的に否定や怒りへ囚われ抜けられぬ哀しみに陥ってしまう事は、同じ人間的な未熟な心の愚かさであると知ってはいる。

心揺られてしまうも認めながらに、言い訳としてではなく身体的状態が休みを求めゆっくりと日々へ適合されてもいるのだからに只、生き延びてはいくだけ。の中で具体行為の出来る事とは、子どもや創作などへ用いる自身を少しにも行いていけるのみの現状と進展の在り方を認めよう。 私の、次の段階への準備は出来ているとも言えるし出来ていないとも言える両方の中で、何が自分へ与えられて来るかは出て来るままにを受け取りていくしかない。 そしてしかしその生きる希望と目標に、囚われぬならの欲望に、向かい生きて行けるもは良いのだろう。


何かを得るには出来る事(才能)とやりたい事(意思)だけではなく他外部のタイミングなど(全世界との適合)も必要だが、それの揃っているから一流や成功になれるわけではないし、それの揃わなかったから行うべきでなかったわけもない。 そして行うべき世界の必要と思われ宿られた事が上手く行くとも限らず本当に必要であったか等も分からない。 結局何が本当か等は分からぬ中での各自に起こる生起と連関を為されゆく総体内での自身片のみが在り、しかし如何に苦しまぬ(只の未分化的な楽観でもなく)肯定の愛に溶け混ませ、しかも欲に囚われず(欲も感覚も区別なくとしても)楽に自在にも生きて流れ流しゆける最少へも充足していけるか。だけがあり、そこへの自身と世界の総体における必用のみもはあるのだろう。

心の動きをも生きて味わえる現在の価値として肯定の中に楽しみ、そしての方向は心,感情や知性を消すのでもなく、しかし囚われぬ最少によりて寂澄の平淡へとも欲も動きの幅をも減らしていくによる平安,充足,不動の幸福を得ていく事かもしれない。 だがそれは皆に共通の方向ではありても、世界が善くなり人間が意識変革へ進化出来るか等と同じく余暇程度の方向であるとして絶対のものとして押し付ける事もない。 理不尽な暴力と愚かさに奪い奪われ合っている苦しみの世であり、(そこに必然が起こっているかもが関係なくとも)全てはそのままに良いのだと放り出され為される連関の一事象ごとの私にを生き、その上での更に気持ちよく生きられる真実性(多分)だよと示し目指してもいける自身や世界への目標程度に在れば良いというのだろう。(心,自身,感情、等もありて素直にそこへ至れぬし苦しいのではあるが。)

しかしそれでも(放り出してしかし 提起もしようとすると提起する欲へ囚われてもしまうに気を付けねばならぬが)言えるかもしれぬ事はあり、見ず逃げた上での楽観性ではなく見た上での楽観という超越へ向き合う事などもそうだろう。 しかしそこまで簡略化させても、伝わる言葉や意味にするのは難しいが。

究極的な結論は既に持たれてもいる上で更に補強し何重に螺旋を循環してもに深めてもいる、この私の動きとそこへの流れが私に自信のなさや苦しみの過程による探求を生み起こさせてしまうなら、それも仕方がないではないか。 そして私はこの果たせぬが生かされ運が良いが巡り来ぬような中間的生の置き場に又は跳躍の為の収縮のように時に苦しくともしかし死なずに尽くされ生きられてはいる。 そして時代の流れを、機の熟すのを現在に立ち会い流されながらに待っている。

この街や生活環境に居るのも良しと思えるようになったのは、ここを味わっていられるのが最後の期間であるかもしれぬから。等の理由でもなく、この与えられたままに現れた現状を自身への最高と受け取っていられる納得の中での生き方を持てるようになって来たからでもあるが、しかしこの生に充足しながらも、もう限界であるという自身の具体現況は実際のものでもある。

死を取り入れ今日ここのみを最大限に生きる一日一生でありながら、今日やらぬとも明日へ回せるものは回して行われなかったものは囚われず捨てていく最少方向へ在りゆくへの狭間にもバランスが成りゆくように、明日を目指しては明日を振り切り今ではないものの為に今を生きるも良いのだろう。

明日もうその人は居ないのかもしれず子供たちとの関係や時間のように、この当たり前が、いつまであるのかもは分からない。

この世界と生命への機会との立ち会いが、これで最後になるかもしれず、やらせてもらえる事がありがたいのだから自分に出来る事はやりきろうとするもは正しい気付きの一つだが、明日以降の日々と又の機会への為にも温存させる事もが大切で間違っておらず、甘やかせ過ぎぬ方が相手の為にも良い場合もあるように、自身が全てを全力でやりきろうとする事もなく常に全ては、その時の起こる事象との出会いに何を感じ自身へ行っていくかへの適合に気付きゆくのみであり、何を行うべきという基準もはない。

それが選択の立ち会いである遊びや価値と間違えられぬという緊張の両方でもあるが、そこに気付いてさえいようと出来ていれば例え失敗に見えた事への後悔もは必要ではなく気付いていようとする事は自身が後悔を持たぬ為のものでもあり又、気付いていなかった事による失敗は未来の気付きへの動力となる。

選択へ立ち会う事が出来る生命交感の価値や味わいの遊び,歓びと同時に選択へ意識と労力は奪われ向き合うに苦しんでもいる事もの両方が事実ではあり、どちらかだけではなくそのどちらもに価値があるのならば、そこに伴う苦しみは不可欠のものか?



気付きによりて正しい選択への流れとflowに乗ろうとする気付きの能力や方向の優先度合いは、やはり人生の重要要項であると思われるが、その自身の気付きが何を催したか? 私は気付いていたか?によりて、それを選び為したのか?へ全責任を持たせる選択の真剣さに生き続けるのは苦しみであるとも言えてはしまう。

けれど現在に何を為し置かれたかの無常はしかし過去からの連関にも縛りあげられ、現在の過程の結果に残った未来もは私の思惑が如何にあったかにも関係がなく変換され尽くしている無情でもある故に、つまり何を気付き何を選択したかの行方に為せる事など微々たる又は何が如何に作用したか等の影響を計る事などは出来ないと、如何なる自己による責任もを放り投げている事は苦しみと歓びの同時併用のように、気付きへの責任と責任放棄の両方であり自己と自己越えた世界自身の一体に既にも宿り着いているとも言える私状況への至り方にを生く事だ。



何が与えられるか、や言動に置けるか?は、その時に出て来るものでの立ち会いにゆくしかないが、その時点における全ての情報や可能性のなるべく多くを網羅し立ち会われた上で統合しようとするが為に感覚だけでならすんなり行ける能力を用いず、わざとずらすようにして人と同じ差し引き無しか人よりも更に遠回りしてしまうような行き方を為してもしまう自身ではあるが、しかしそれもそれが出来るという私の才能ではあり、けれど誰もがそう成るべきであるという私の優越性ではなくて、私にとっての必要な道の役割ではあるのかもしれない。


ならばその私的な選択の能力の発揮によりて、例え成し得られぬ結果へ向けて流されるのが分かっていたとしても行う事や流れに間に合っているのに得ずにずらしてみる事などもの、つまり行われない方が良い(良いとは短期,一時的な自己判断の視点でしかないが)等と自身には分かっていたとしても出て来てしまった感覚のままでの必要(本当に必要かもは感覚と欲のように分からない)として行う。や、流れあるにも関わらず行わない。という選択の基準が、その時へ交感してゆくという以外には見い出されず共通の普遍化する事が出来ずに困ってもいるのは、全体を見れる事での中間を取るのが或る程度の正解である。という程にしか示し伝えられぬからでもあるし、又そうした気付きの(方向を持つ事が出来る時点からの)能力の差が人それぞれに有り過ぎて共有を持つ事は(対話,言語性の関係以外でも、に)難しいからだ。




連関が生み起こし結び付きてゆく適合の実態は、その全てが私による正しい選択に繋がり置かれたかは分からぬとも絡み合いた複雑な相の必然性に育まれている。


自身とは関係ない処から生み起こされてしまった分岐の世界線の中での現在への調整や流れの必然が起こっていくのかもしれないならば、この必然と見える連関の奇跡と動かし難さ等もは、しかし現世界線においての必然性が持たれているのを唯一と世界の必然的発現であると感じ跡付けしてしまっているだけで、もし量子的な振るまいが観察者との連携にもおいて生まれるとしても、しかし或る規模以上の系や段階における自由選択を生まないのではないかと思っていたものはマクロなレベルにおいても流動的な未来の完全な非決定やパラレル分岐でもあるのかもしれぬというのか?

しかし常に更新され生まれ変わっている毎瞬と日々の中で、私に辿り固着してもしまった経験的な重層や回路づけ等も強固であるように、やはりマクロな流れでの自分は変わらず、そこでの選択と在り方はこれ以上を選べなかった周りと世界の行う決定からに依存した存在でしかないのではないかとも思う。 ならば自己の責任は振り返り自己の今後へ繋げゆこうとする意図的行為以外に責任は自身にいって取られる事を越えている。(故に地獄や来世や子孫へ責任を取らせるような思想への違和感も感じ)といっても良いようにも思ってしまえる。


では自分意思に行われていくことも自身外からの宿りであるのだからにも、運命や必然への選択など(それも世界の流れからの自身化だが)、気にする必要もがなく自己喪失に流れを受けていく状態が方向であり苦しみからの解放と幸福でもあるのか?


伝達は味付け程度の可能性である事が多く自己環内の存在はほとんど変わらず、自己への流れによる自身化された主観的観測と傾向性だけがある人は変わらぬ愚かさよ。


経験,感覚,観察により覆していく成長への過程ではあるが、発見された真理が私の行動を規定し縛っているのでもなく、私は私のままを流されているだけであったとも言える。



必然なくとも心のみの肯定という仏教的な道にもあるが、基本的には他階層も合わせ時間も越えた連関に絡み取られた必然性というものの上での肯定と全て良しを感じてはいる僕に在り、ではその魂的な階層想定を省いてでも肯定に在れるを目指した仏教的な最少性は、しかし現世における連結の事を因果と言い置いた、それは悪いものを生まぬ為のではなく良いも悪いもの何をも生まぬ為の又それのみで良く済ませられていく為の最少方向であったこと。 それはシンプルでありながら且つそれ故に難しい高度の道でもあるのかもしれない。

そこには魂の開花や使用も流れへの選択も関係なく、誰もがゆける道ではないが只ひたすらに潜在象の沈静や根底の自身へと携わっていくのみの道と到達や身分化的恍惚を目指す目的と道の正しさであるのか?


人々が真実へ深めゆく観察の生活や探求を行っていないから、その分を私に与えられ顕れた創作と役割であったのではあるが、しかし人々が行っていたとしても私にこれが行われるしかなかったのならば、そこを為されるにしかないものだ。 そしてどちらにしろ現在までの私には、その得られたものを分かち流通させる事が出来ない。

そして具体への現れが愛でなくとも愛への存在と祈りであれば良いのみではあるが、その愛の具体へ現れる私の在り様でも在りたいとは望み自身を転換へ感化させてゆくもの日々なのだ。

私等は世界に顕された世界の自身。 この現じられるのみにを生きる以外に何をせねばならぬという社会(との適合を求めるとも同時に)からの常識的規定を他者から与えられて合わせる必要もない。(現実的には対話的流通などもが必要ではあっても) そして人は変えられないが、その普遍真実共通の統合地へ至り変革されていく方向を私への流れは私へと求めゆくを流される。


未来の予測や理想を見い出すによる現在への適合に囚われ過ぎている私の、そこからの発見はあるが、もう任せるだけの彼方に解かれ去ってしまおうかとも考えてみたりはする。が、それでも僕のしたい事の根底を探り出し再確認するは、愛と全一の覚醒と進化へ Spirit Song を渡し自由と共生、(それが正しい答えかは問いゆきながらも)存在と交感などの価値を興す事。

そしてその現在の中で如何に選択,行為して生きるのか?や、その普遍到達の基準点を(未来からも)見い出してゆくのは自身にとってもの一大事なのだ。という現在にも在りて行い何も出来ぬような自身も、そこに何の意味付けもせずに認め去っていく愛となるへの意識へ愛を送りながらも自分にせねばならぬ事。の基盤は、その生命のみの創造へ立ち還りゆく愛の自身の創造へ向かいゆく以外に、今この自身の段階でやれることは映像など未だあった事も分かってはいる。 時との併合に与えられるままを少しづつにでも進み、しかし例えそれ為されなかったのならば自身と世界の意味合いを投げうってでも流し去られて逝けば良い。 素晴らしい自身が叶わなくとも、在りのままでの自身を合いて生くのだ。


だが祖母の喪も開けたのだし、いい加減に少しは現実化が進まないものかと愚かな事だが直接的な問題そのものへのストレス解消も必要として求める私の現況に在りて、欲への在り方へ引き寄せられすぎるのではなく囚われを減らし抜けていくに終わりはないが、それも良いのだと欲を果たす事でもにバランスは取られて進んでいくのなら未来のvisionや現状への欲望にも対して、(明日を放り投げ今日に死んで生きゆく私に在りても)求め望みあげ結果や外部他者へ依存する弱さと不足の具体解消へ向かいゆく事もの近郊的中間に採られていくもが良いと認められた肯定,自在においてもに進む、減らしゆくのは仏教のような義務的な努力ではなく結果へ煌めく方向なのだと思われる中道の道にも歩みてはいる。

浮かび上がって来てしまう欲と、果たされねば囚われる愚かな衝動もを人間的な生体の味わいとして認めては随時の対応を当てながらに欲を少し減らしてみる程の方向へ無理なく行い、又はその方向へ押し込めた無理による反動に進むもが全ての生各自命の実験と過程にも宿る、試し行き方の良しなのだ。


ではしかし、果たし得る範囲で果たし流し去るのだとしても欲を認めると果たす事も認められ引き寄せられ膨らむ。 果たせぬならば果たさずに流し去る事へ押し込め我慢すると不健康もしくは抑圧の反動へ出るが、それでも肯定のみに在り流れ有りてさえも取りにいかないのか? 基準もなき全て正しい選択と各自の生が在る中で如何に流れ来たものと来ないものへの受け取り方となっていくというのか?

流れ行き会うだけではなく流れ違うを試し外してもみる。 そうした放棄と獲得,流し去る肯定と衝動などの具体的なバランスや最少の基準点などを選択の観察の中に観るを味わいゆくのは仕方なく又、重要な事でもあると思われ立ち会われてもいるのだ。


書く事と整理も又は旅や関係に望んだものも、全ては基本的な欲求とその代替でしかなかったのかもしれない。


(あまり欲求と欲望などの違いへの区別は付けていないが心的な渇望を欲望と言い、生理的必要要求を欲求と言い直しておける 時もあるだろう。 しかし大概においてそれらは、響き上のニュアンスとして使われている。)


囚われでなければ欲望でありても良い。のでさえもなく、流れをずらさなければ欲望でも良いといえるのかもしれない。

全てが必然であれば流れはずれない。のだとしたら、それは縛りでありながら安心の根拠でもはある。



希望とは未発現の可能性への欲望と、絶望への反動的力でもある意味ではあまり好きではなく言葉として使いたくもなかったが、今や欲望も自己もが一体に認められた意味に還り来るにおいての自身にぶれない目的や性質の然化しゆく連関からの結果へ向けてもの運動方向の設定として、肯定面と否定面の両方が大事ではあるが、その中で統合普遍の目的地である理想への希望を持ち他者へも与えるという方向へ向けての創作や、現実とは違うフィクションでありてもに描く力に転化して、人の気持ちを向かい起こさせる力にもなるが良いのだ。


アーティストであっても、ほとんどの人は浅く(popやrockとjazzや民族音楽が階層を異なわせているように)一般社会の中間層範囲から出てはいない、即ち消費物としての意味合いでしかないものの氾濫している(それが故に高度の産み出される背景となるわけでもない)、その各自からの世界を仕事へ転化できているか。のみが問われた現在の評価の指針であって仕事の質は精神の質や高さに結び付いていないし、又その仕事も更なる階層段階を幾重かに越えた質からすると大概のものは全く大した事がないとも言えるようにも見える中で私は、それが為せるか(も結果、残る物となるかも)は分からなくても求む方向は少数でも本質において貴重な輝きとなるを生み出す事である。

そして僕はアーティストとして成り立ち発現される以前の自己存在と創作の基盤化へ向けての現在を準備し培い歩まされ全てが(欲望との惑いも或る意味ではそれである)その本質へ向けた衝動に費やされている。

アーティストという肩書きで縛られる人々の判断も嫌だが、私に為さざるを得ないならば如何に思われ判断されようと又、如何にこの道の歩みが苦しく疲れていても、私に行うしかないのならば、この自分を行い逝くにしかない。


自己肯定への納得の為だけでもなく、完全主義によるストレスや欝リスクが増したとしても、それによりてこそ突き抜けてほどけ至りつける処もあるのだ。と、その結果が何も為せぬが失敗に終わっても過程への自己必然を行われて往きた結果を受けるが良いのみを肯定してしまう。 この生が、私の創造物(Art,芸術)だ。


私は素晴らしい存在だと生存のみの自信を漂わせて空気中を歩く状態に在れる自分も、あまりに自信なく惑い苦しみ又は結果への具体現実が起こらず、せめてストレス解消せねばと消費依存に陥る以外にない(人間的欲求の自分事として分かるようにもなった)自身もの、しかし奪い押し付ける者は認めないであろうが孤高にありながらも分かち合いたい私の、それはしかし自然な人間的当然の欲求。

そして過剰か平坦すぎるか。しかない私の、しかし(当然であるを認めても、解消を求める愚かさではありても)求めているのは、静かで深いカタルシスの持たせ方。であり(刺激ではあっても)本質的な到達の震え。

創造物が人から消費へ人生を奪ってもいく。が、その創造物に込める想い、の質や意識の指針としての統合的共通の本質性と(私自身においてもの澄ませ引き戻す効果もの祈りとしても)愛のみであるにあれば良いというのか? 例え消費材となりたとしても、その創作物が貴重な真実性を宿し方向へ結びつける役割を果たし得たとしても、それが素晴らしければ素晴らしい程に浅薄な周辺の二次消費材もが生産される事になる。のならば(starwars自身は素晴らしいが映画や消費欲求への産業化へも寄与し、ヨシュア自体は高くとも宗教は人間的操作,支配や対立の原因にも使用されるというように)初めから生み出さぬ方が良いのかもしれぬとも、この私への欲求,衝動と流れもが創み出す事を求めてしまうのならば、ここでもやはり流れや欲求との付き合いや自己というものの選択の問題だ。



創作の意味はデザイン的工業性以外には、楽しいからという遊びや趣味的な意味合いとなりてゆき、又それは本来の生体や自己能力を生かす面を保ちたとしても、ゲームなどとの垣根を失いてゆく消費,余暇物へと離れてゆくと思われる。 それは全ての行いや存在はArtであると言っても、自己において生み出され関係される文化的影響としての芸術の意味は、既に失われている。


そして3sへ依存させるには抑圧のstressを持たせておく事ではあり、表面的な安定や幸福への自己納得させ足りなくとも理性で押さえられるとする自己努力へ能力や方向を縮小(shrink)させていく事も一種の洗脳ではあるが、では全てを認め与えられた場所での日常と生活のみの幸福に充足するという思想などは、そこへの義務方向や自己抑圧の美徳をも生む。

Antiやanarchyのagainstにも価値や意味がある。 しかし私はその極同士の反動作用の相互を生む提案形ではなく(打ちくる鐘の同じ反作用を返してしまいたくなる自身は居るが)中間的範囲での少し反動へも寄った側か又は突き抜けて言動を最少にしか置かぬにも充足して在る傍観的行為性などかにおいての在り方を探求し希求する。


出来る事を行う。 それにしか人は納得して生きられないのならば欲求が私を導こうとも欲と感覚の選択基準に優劣区別を付けず必然的連関のみのある肯定によりて、因果を産み出さない為の最少を方向とはしながらに(現世界と時代の愚かさにありても)私のままの各自を為され生くしかないのだ。

としたならば望みでも良い。 私自身の生命であれば如何に為されるも良いというだけでもなく、それが欲望であったとしても私の創造と世界への行い方を果たすへと、俺は折れないぞ。 神様、どうか与えられた私への私を為させてくれ。と、生き延びては祈りて存在と創造を愛への変容へと化していくを(例えそれが間違いであったとしても為そうとする強さへの希求が愚かでも私へ為される覚悟へ納得し、しかし更新への気付きは止めずに進み続けては)流されるままに行為し歩むんだ。

私は常にそして既にと今に、私という存在と創造に尽くされている。