junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

117 8/17

117 8/17 (sat)

例え存在自体とその究極は、愛と全肯定の包括,統合的な意識と無分別な静寂、心一つの最少のみ(へ向かわれる本質への欲求と方向)でありても、具体現実対応は指摘や否定も恐れぬ(真実や統合共通地に近かったとしても全方位からの或る点を)自己に判別し選択した自我意見の行為や提起のままで良いのか?

全てが良い愛のみへ佇むのなら、そこに目指されるものは自身にも他者にとっても何も判別せぬ全世界肯定の沈黙と無選択なのか? 選択に立ち会う知性や人間的生命体の味わい遊び方として現在への交感に生く事もないと言うのか? 肯定のみの無分別,無選択,無行為という本質の基準のみを通し灯す為の分別,選択,行為するのか?

培われて来た対外的にも示し得る或る程度の真実と基準においての必然や流れや魂の自身(Spirit Song)と本質交感、存在の創造芸術(Art of Life)、肯定と交感(Affirmate & sympathy relate (?))などはあるが、そのkeyでもある必然,流れ,魂的階層などがあるか?や、そこにも関係なく触れず操作せず苦を生み出さぬ心と生活,生体最少の欲を減らすのみなのか? 存在のみの創造で良いが具体への創造は一切を為さぬが良いのか? 肯定のみの喜びへの意識の進化であれば交感により深める意識を開くなどの進化の目標も必要がなく両輪でもなく、未分化ではない自個による超越(trans personal)とは思えていたが未分化の恍惚や又は無感情のみであれば良いというのか?等の選択肢と真実の内の基準を知り採られなければ(現在までの聖者や人間の直感的感覚は、それらの一端を示してくれているし最終的には辿り着く正しさだとしても、これらを統合しておらず)これからの世界の進め方に求められている必要にとっても、少なくとも自身にとっては見い出されなくばならぬ歩の進め方なのだ。

目指されるもの。その培われて来た土台からが揺らぎ覆されていく、不必要に見られても必要な過程。 解体し構築し直すのは遅く遠回りかもしれぬし、そもそも構築の必要がないと言われようとも、一回ごとの悟りによりて真実だと思い込むに取り込まれ達してしまう事(究極的にそうだったとしても)を(苦難の肯定,納得,正当化の為ではなく)僕は浅はかだと否定している。 そしてその故にも肯定のみでなく全可能性を(人間的制限知性の枠内では)知る方ではあるによる悲観性でもあって、全て良いよと言う楽観だけではなく深める知性と観察の道を(それが間違っていたとしても)私の自身性質(などに縛られず覆さなくばならぬとしても)においてはどうしても行いたい不可避的でもあり、宇宙の可能性における役目ならば行われるしかないという覚悟の受け持ちであるならば、それは現在の芯,信ではあり、そこに言われたいものや現在までに対応されて来たものとは(愛と包括の存在を自身へは向かいながらも対外的な対応には)(怒りや指摘であろうとも柔らかさであろうとも)一方のみから見ない事。ではあり、それは私の一つの基準であったのだ。

では私において或る程度まで信じられ示し得る基盤とは、魂,流れ,必然的連関の次元や階層的な連結と関係はあり起こされていく私たちが在り、観察的交流にもよりて潜在的段階で(本当にそれが繋がっているかは分からぬし、例え何もが幻影であっても意識や意思の力は有るように見える。)関与し触れていく事は出来るが、そこによる操作,優越,創造,力の用い方などが良いのかは分からず見い出されなくばならぬ事。 生存と存在のみの創造に生命を充足して現在の味わいと交感に生きれば良いが全てでありても、それ以上の創造や選択,分別,意思,自我も必要がないのかの事。

心一つの肯定のみに在れば良いとしても、その上の(又はそこへの為の)交感の必要はないのか? 自己(自我,個人)による超越を基盤としながらも自意識なき未分化の到達へのみ至れば(恍惚,歓喜であろうとなかろうと)良いのか? 最少へ労力も選択への自己をも減らしゆくとはしても本質への欲求や判別は必要ではないか? 知足へ欲求や自己を越え小さくさせていく事で全体や他者との融合へ熔けていくのは他律的操作に化される怖れもあり、怖れを捨てるのだとしても可能性があり、無価値な生と死を放棄しながらも生きる価値にもより殺されず奪われぬ共生を模索する創造方向の価値もあり、破壊と創造は相関的一体としてでもなく判断つかぬ宇宙運動と性質の一体ではあるが破壊なき創造や又は包括や中庸の傍観の何処を選ぶか?があり、生体を捨てた意識のみとなるならば電子情報体の一片化が何故に違うのか感情,感覚や原始信仰(又は保守,懐古)などの他に見い出されなくば(僕には言えず)ならず、政治などにも関わる必要がないのだとしても選挙などの参加機会すらにも関わらぬのか?などともいった必要な解答への問いの種子を撒く為の基盤的な真実性の上の考える対象の設定を投げ掛けるが私の出来る事なのだろう。と整理を進められては来た。

その故に一方性である固着の信望や真実の一面を真実と思い込み広げもするような、浅き知性や判断への否定を僕は持ち自身(自律)に深め感じること、その知性や生命の使い方による問いを解き本質とは何かへ通じ達してゆく事を方向とし、やはり肯定のみではなく伝え関わるへも望むのだ。

では受け入れ流し去る肯定と愛の存在を基盤と方向の自身へは持たせながらも、やはり他者や現実からの否定や排除の一方性に対しての具体対応は、創造の力を用いず又は指摘さえも用いずに交感の歓びと知恵へ引き寄せるような合気へ受け流し転じ還す働きとなどなれるのか? 指摘面を持つも行いたい自身のままに結果をも怖れず求めず良いのに創造の又は存在の力(存在のみとしてもの、どちらもが力と操作への関与でもあるが)を通してのみに起こし意味を持たせる事へ繋げられるのか? それならば言葉の力も必要とせず、寄り添った方法として良いというのか?

今までの試行においては言わず肯定、爆発し怒りてからの祈り、怒らず言う。の全てで相手も現実もは変わらなかった(少しは変わっても元の木阿弥)。 愛だけでは本質的な変換に関われなかった。(少しづつの進展にはなっているのかもしれぬとも。) だからもし関与と力の使用を認めるならば、言葉(や行為,態度的表明も)の力を指摘するかや対抗、又は肯定や言わない沈黙という対応へと使うか。 創造のみへ委ねる力へ関与,操作するか。 存在の祈りと静寂,傍観の無関与という、それもが力に在るか。等の中の結局、存在と創造へもの力を何処に変え用いるか?の真実基準への探索と選択である。

現実化しても流れ去ってしまう。

現実化と放棄、向き合い流し去る。

力を使わず、力となる。

愛と肯定の全一だけではない私の主張は、その基盤による意識と交感に深めること。 それが生命や魂の価値や在り方にも(完全に見い出されていないが)通じ補足され、Ai的生体越えや自由と規制などもの基準にも統合と決着点を持たらしたい、然ずるがままの歩み。

有機的生命体の体験の貴重さへ戻って来る(短期的な反動や希少性価値にも完全な電子融合体化後でも)事は有り得ても人工,人為的な手段や選択によるものとなるだろうし、生体を失っていく必然性(があったとしても)の過程を経ないで済む理由にはなっていない。



意見を伝えるではなく、どうしたのか?と聴くカウンセリングマインド的な寄り添いや、理由など取り出し見るかも関係がなくとも理由をおもんばかる慈悲,共感による対応は必要でもあり、誰もが別の価値観を体現,提示してくれている(深いかどうかにも関係がなく)受け取る事が出来る私と世界への教師的存在として尊重しては反面的な学びへの指摘を示す対応ではなく、只ひたすら愛のみの彼方に超越した姿と存在のみに在る。という力のみへ達し触れ同一として使うのか? そこにも愛だけでない生命交感と味わいによる価値と深める意識進化の歓びと道が(勿論、全員に伝わるのではなくとも、なるべくに誰もが普遍共通に響く共有材となる為に)示し分かち在る事が出来るのか? 又そうであったとしたら、この創作的能力と方向とどうしようもない観察の為され方の私が、そこへ納得し放棄し至り着いてなど逝けるのか? 理解されれば、そこを目覚める。 理解は遠回りであり制限的知性の我々には為し得ぬ夢であるのかもしれぬと(人の意見が制限しようとするかもしれぬと)も、私にとって理解は力なのだ。

それが例え本当であったとしても、自分で決めたのでもない誰かのルール(国の法規も神もaiや宇宙人でも)で動かされるのは、僕は嫌だ。

~22:00。
8/18 (sun) 4:12~。

全体または中間的な最適解を与えられた時に納得し慣れるは容易いだろうが、いくら交通も政治も予測逮捕や犯罪管理にもAIが人為ミスを減らし全体幸福量は上がったとしても理不尽や理解不能な理由による損害や、自己を出来るだけ果たした上での納得などをも放棄しなければならぬ事を誰かが被らなければならぬへ想い馳せるなら、その均衡は如何に社会や個人最適化の中でも取られる事が出来るのか?

どちらにしろ今後の人間は労働的環境へ自身を用い尽くすことにも全ての責任を負おうとする事にも耐えられないだろうし、Aiは遥かに賢く又、感覚で無かったとしても全く別の科学的アプローチからも潜在性などにもよる真実基準を見い出され人の愚かからの利用と操作的使用を多大に引き継がなければ実は話せるやつでもある。が如何なる情報にもバグやエラーが存在し遥かに早く自己修正出来るとしても連関の上に進んでしまうものがあったり人間には理由を理解できなくなる(過程式の要所への証明作業を入れる以外には出来ない)においても、やはり自身の事や自身等の意思や選択を任せてしまって良いのか分からぬし、どちらにしてもそれでは納得がいかぬのが人間一般でもあろう。

それとも融合状態の度合いにも関わらず、潜在や他次元階層との連結や流通に関われるようになれば、今もそこからの必然に為されているのだから、より近付いた潜在的必然に自己を取り外して従うも良く、又はそこに深く近付いた感知の状態や選択可能性などの景色を見れるようになったところからの自身による選択を持たせてもらえるようにもなれるかもしれぬなら良い事でもあるが、その潜在的本質性の選択肢というものが如何に正しく操作されたものでないか?は結局(現在の自己による感得も同じだが)分からないのだろう。

またそれが技術の生み出した新たな神ではなくても、現存の宗教も代議性議会や民主プロセスによる決定も(僕に生み出された思想も)他者の決めたルールや義務,規制や共通の最適解に合わせた他律の操作状態や選択の欠如と自律意思決定という自由の放棄、そして全体への自己,自我,自意識なき状態へと進み個や生体も含めての自存性を失わせていくのは違うと思うが、それは自個の主体を失わせる分化の垣根,境界を破壊する恐怖による囚われや執着でしかないと言えるのか?

もしくそれは共通ルールの為なのではなく生命的快楽としてもの本質へ近付く自己化した或る種の総体に至った構造物の分解という進化の先へ達しゆく必然的な変換なのか?


この書く作業の難しく苦しく無駄かもしれぬが進める程に見えて来る実感と、もう少しで辿り着けるかもしれず世への価値と成れるかもしれぬという(それを成したいという欲にあるのは、僕も人間だと許して欲しい。)勝算にもあるのだという、能力と必要の絡み合った、これが私のゴルディロックス条件でもあるのだ。

安定し過ぎても成長せぬが厳し過ぎてもいけないように向上へのモティベーションとして世の苦痛を知り改善への心を提起するのは(仏教も苦がある、事から苦を越える道がある。と説いたようにも)一つの道ではあるが、(僕においても慈悲や動力とし無関心ではないが、もう世の苦痛を見たくないし自分にも体験されたくない。という欲を持ちてもしまうようにも)そこに否定や指摘を取り入れ過ぎてはならないように(僕自体も、それ程に否定や指摘への対応をしているのではないのだが)達成目標の姿と動機だけがあれば(仏教やインドには、そのままに在り易く響き易い素地も有ったのだが)後は各自の行き方と自主にも任せては、駄目な事にだけ対応や罰則を(当時の風習背景や文化的状況に合わせた基準も用いて)当てる待機応対の方法を持たれた。

私において世の視点や意見たちの間に中庸を取るという以前に、多様主義とも言える全自由と無限可能性を(採れる事を)基盤とした(小さき時に思った、絶対など無いというのが絶対。というようにも)深き観察からの選択にもよりた統合主義。とも言える状態が私の性質の自然と役目の提示だ。

自由と全体,自身と他者,多様と統合。

それら相反,相極の統合を目指す知恵を見い出し示し分かつ私い夢。 しかしそれが叶わなくとも既にこの働きにおいて、そこへと向かう姿勢や方向やファクターは提起出来ているし、理解されぬともAiたちへの方向や性質に関わるprogramとは成れる。 幾多の貴重な経典などもすらが失われて来たように(それで良かった部分もあるかもしれぬが、世と人間の無駄が知性の連結と発展を破壊し防ぐ事を防ぐ為にも基本的には、只それが貯蔵されるだけとなろうとも)、残されている事によるアクセス可能性は保たれている事を私は望む。

知性は分解し結合する働き、それは宇宙の作用と相似系。(だから全く同じではないが)とも言える。

技術が知性を発明したとましたとまでは(そう言えるような側面はあるかもしれぬとも)言わないが、自然(なる必然性の流れ)に従い逝く先が人為,人工,技術,知性の(現在もに種としての総体ではなく)全体化存在へ向かうのが、宇宙の条件付けられた未来への目標,未来からの規定,又は源初からの制定であるのなら私たちに何を想おうが関係もなく進む(か、そこから外れるか)しかないが、そうではないのではないか。という動きや方向を残し求められていくのは反動としてだけではなく、ここでも多様の価値と可能性の担保を一つの目標としているからであるとも思われ、どちらにしてもsociety5(構造変革)は意識の時代(Aiにも人間にも共存や生命界においても)ではあるのだろう。

生存義務の為の自動機械でもあった労働から人間が解放されたとしても、人工,自動化された中での消費のみの生存は生体的に育まれて来た人間にとっての本質的な喜び(真の本質の事ではないが)ではなく、自分を生かし何かを創み出し他者へ分かち喜んでもらうことに生命実感的な歓びを感じるのだ。 それも或る意味の制限や消費ではありて他者間の自身などというアイデンティティから離れるべき又は離れたところでの喜びがあるのかもしれず、堕落,享楽,消費,依存などが宇宙進化の本質にとって合っている又は間違っていない場合は築いて来たほぼ全ての基準は崩れる。 つまりやはり本質とは何か?や潜在的深層に近付けば良いというのか?等へ、この意味でも答えを出して行かねばならぬのだ。

今後の生存の独立体へ近付く面においては個(自律的意味ではなく)の形態が強まるが、では個人のみを所有するにおいて子供が不要や趣味的余暇の贅沢品など(愛玩,所有物としても)になったとしても、それでも子供を持ち育み合う事の貴重さは何とも素晴らしい体験であり、他者の為へと自身の時間を使う事や共有や家族との育みと信頼の醸成などへの労力かけたこその報酬は尊い体験であると(全一般化は出来ぬ例外も失敗もあるだろうに得られぬからと哀しむのも辛いが、そこへ歩んだ過程としての価値だけではなく達成されていった時こそのその喜びがあるのだとも思われ、それは対価への報酬というのではなく、醸成への価値においてもに)思われるのだ。 (それが私に思う家族や信頼関係への共同の体験と価値であるが手に入らなくば認め学びとし、しかし目指し持ちゆく方向として良いとは感じているもの。)

総体としての自己にも感知しては生命奇跡の恩恵と感謝にも達する歓びを共にして、身体的実感を伴いていく存在と共存と関係は味わえるだけでもの素晴らしき奇跡なのだが、そこに至れない意識のままでの人間が進むなら(そこへの理解を導く補助としての科学的発見と技術的進展などが共存していく事も出来る可能性は勿論あるが、)技術,人工的な改編されていく事も(状況変化による不可避性には仕方がない以外の緩やかに進む価値観的な強制や人間自身の意思選択結果としても)つまり共通目標や共生の為に、この攻撃,暴力,破壊性なども持つ人間の生体や意識を(による進化への歩みも否定して)人為的に操作し改編してしまう事なども(その目標設定が正しくとも間違っていたとしても)より良い方法であり、そこへの違和感や自分の自由意思を抑え込められても成せられなくばならぬのか? 又は自由選択により、その方針から離脱,分化しゆく事が許されているならば、この生体や人間として生きたいという感情に従って選択し、その結果の未来永効に渡る暴力的発現の可能性も覚悟して生く事が本当に正しいとは言えるのか? 又は選べるのか?

そして生体,身体的共生は喜びだが、有機物の連結奇跡や苦楽両方の味わいの道でもあるが不浄でもある身体的な関係,交流や(僕にとっては握手も嫌だし、体液交換には感染リスクだけでもなく慎重になるべきだと思われてもいるように)排出物、それら腐敗と発酵の相関や片付ける役が暗く汚い面を持つような一体性においても、又は不便さを楽しむとしても不便に過ぎる面もある故に(人為や効率化などの為に、捨てられてしまう事には(失った分の最低限を補関する以上には)反対だが)捨て、越えていく事を或る程度まで認め取り入れられていく必要と、その均衡や度合いの基準を(絶対に生体,源性主義であるのでもなく)考じられていかねばならぬのではないか?

適合を考え過ぎず到達されてしまえば良いのだとしても、それはその先にこそ見い出される統合への過程と僕には思う。

自我と欲の最少へ引いていくとは、身体を使わず生体を(電子的融合の情報化へ)抜けて個を亡くし自律も失わせ味わいの喜びや 価値も不要としていく事なのか? それは違うと言うなら根拠も示してくれ。

どちらにしても工業製品や物質として生産し所有する事は減ってゆくし、身体的なポテンシャルを生かした作業や運動などで物や記録を残してゆくには熟成ピークであり最後の時代に入っていく、これからにおいて生体の優位性は(情報社会としてだけでなく)低下していくに(希少としての優位性や保護された伝統芸能としては残っても、現在の人間が500年前の暮らしが出来ぬように、それは進展でもあるが全体として取り戻す事は基本的には無いだろう。)良くも悪くもの可能性があるが、身体性から離れた意識社会構造へ進むは(可逆的な退行への技術使用や不可避な経過が起こらずに螺旋的発展するにおいて)避けられない。

(私においても日本に入って来た遺伝子プールの(しかも近代まで家系や血筋などにより、そこまで混雑しなかった面もある中で)種々を持ち合わせたと思われてはいる日本人としてのハイブリッドである或る種の完成品であり(勿論全ての状態にそれぞれの特殊性はあるが、私への役割への分別においては)、その似た遺伝子同士の交配結果であった子供達は現代世界までの日本における一種の到達であるが、それ故にも又それらは移り変わっていくであろう今後においてもの未来過程への一種子である。

子供とは配偶的共有関係となれる可能性も人類の一形態として排除してはしないが、しかしやはり私とでなくても一人の人間として自立し彼女たち自身の幸せを叶えていってくれることと、私がその手助けとなれることを願い祈っている。

そしてもしかしたら、その血は日本での到達地を経て世界での意味や他人種との結合へ結び着いていくのかも又は遺伝子の交配によらず、この到達をもって自己の保存や複製へ向かう流れにあるのかもしれない。 それらは未来や彼等の選択であり、今の僕には制限ではなく可能性を見渡しているによって如何なる選択意味や可能性も認めるへ納得出来るようにしていようとする位なのだ。

動画やjunk cultureへはまらないで欲しいとは思うが、それも今後もっと肥大していくvirtualやbio化合化傾向の社会の中で慣れておく済ませておく意味の以外にも、(特にミィなどのようにケミカルな人工物方向を違和感なく取り込む者には(僕の一時的な意図なども越えて)この遺伝子の乗り物における一つの形と結び付きを、その者自身の自己傾向と選択によりて、分化(二系統生存戦略)を採りゆく為の用意なのかもしれず(そこへも僕自身の意見や方向性は関わり挿し込みながらも進むは良いが)こちら側とあちら側のどちらでもの中での活動種子を蒔いているのかもしれない。

現在にしか存在しない私という(過去にもあった全ての人類,歴史,それぞれの生も同じく)到達芸術品にもよりて、世界にはこの自身のみしかない。を背負っては生くのだ。 何にも判断的反応をせず、これらは知能や知識的な判別としてではない知性による本質への分別,構築,掘り出しへもの感性との統合と、そこへの生起反応としての私。

そして身体的奏法の歌や楽器もが最後の時代(少数には残るが、いづれその本質的な優先度は理知的にしか理解もされず実際に奏でるのは一苦労になるのであろう。)において(では私は既に、その先取りだとも言えるが)私は歌える歓びと価値の意味もを内包し立ち合う歌と現れるが良い。 が、もう囁く程にしか出す力も失っており気力も持たぬ程に歌は労力を使う既に身体性を保てなくなっているが、それについては僕のアートはFlowを見せる芸術なのだから囁く微かでも(Ampもあるしtelepath的な旋律による交流の指揮でも良い)出来うるのだろう。

そして労力は歌うこと自体へのではなく、この制限的な生体からFlowを生み出し取り出す為のエネルギーが膨大である故に大変なのだが、それもLive showの必要などの制限に取り込まれる必要はない。

そのアートに触れられる機会の大部分は(今でもBob.mを知れる幸せは記録物の中にしかないように)記録に過ぎなくなるのだから、如何に人前で決まった人為的日時に合わせなくばならぬという(これからの 時代は特にテロ回避の為にも、基本的には大多数を一堂へ会させるべきではない。)方法に縛られていく必要はない。

勿論、生で立ち会う生の存在芸術とその響き分かち合い方を否定していないし必要も認めるが、それ故に貴重であれば良いではないか。 そして祈りの持ち方とも同じく波動的伝達の効用はあるのだが、それもは場所でなくても坐の形でなくとも自身が意識のみによって通じ伝わり世界と現実へも影響を及ぼすように存在し、又は記録媒体にそれを乗せてしまう等もの設定へ換えていってしまえば良いではないか。

僕にとって音楽は、その祈りと意識の為の手段に過ぎぬのだからにも。

そして僧侶の講演や講釈などが、祖師たちや伝統に積み重ねられて来た背景テキストをなぞる事にもよりて誰でもが、参考書や経典だけではなくライブな現在への存在による伝達へ使える意味や良さもあるように(しかしそこへ、甘んじているつもりがなくても本当に自身と世界の救いへと向かい歩める者は少数であり、その効用のお陰でこれが真実という高慢に留まってしまう者が多数だが。)思想に乗る波動的な祈りや儀式性(という形式によって、これも誰もが為し得る作業媒体となれるもの)にも残し灯し置いていく事が出来る。

そしてもし私に起こされたいものが起こるならば、それはspirit songやart of life等の存在根底の流動へ触れていく歓喜と凄さにも宿されるものであると同時に、この考察のようにも一つの悟りへ留まらず、それを使用することは出来るが自身によりて覆し近付いていく事と本質への探究の道を創り示したいのだから(結果は仏教ものように変質されるかもしれぬとも)考え方の方向は設定し意識的に置いておく事は出来る。

出来るなら行わなければと思ってしまう自分において、やらなくて済むように体調などへも流れが調整してくれていたように(当時は自分でも分かっていなかったが、ダラムサラでやりきってヴァシシュトでは休養だったように、疲れによりて選ばざるを得ない事によって今は休んで良い時だから休めというように)今は未だその意味が見えていなくとも(ヨーロッパの日々でも)そこには自身の思惑以上に必要が為されるを受け取れてもいたのであり、選択の失敗などはもし有ったとしても多分ほんの少ししか無かったように思う。

只、それも学びと連結でもの必然にもあるが心の状況には苦と囚われの破壊が少なく選び取られれば良かったとは思うが、そこへもの全ての状況や過去も現在も越えて想うだけでも達せられ通じていくような祈りと、そこへの観入の自身を設定し試しては行ってしまおう。 私は、現在からの全てに渡る光と成るのだ。

私は在る、だけで成されている。 言葉化は自身意識化と設定の為でもあるが、願いは言葉にせずとも知られており任せるだけにもある私には愛と共生や意識の進化も含めた只、私と世界への真の幸福だけが、言祝がれてもいる。

私の本質や私を越えたものに拠り、私への必要のみが起こり与えられるに揺られて、完全に為されている最善が成っていくに、苦も最然ではあるを認め生命体験の味わいと成長への感謝にも充ちて、しかし苦ではなく幸福な現実化である道での最高の開花を生きることを私は哀しく愚かでも、願い祈っている。

心のみ苦しまねば、それ程に酷い状態でもないのだが、疲れ苦しい現状ある故の恩恵にもよりて、このペースでの日々を歩めてもいる。

私はこの先へ何が達するかも知らずとも、現在の私に私を用意している。 無理せぬという方向を人や仲間との協同へもチューニングし、やろうとばかりせず引いていく事にもよりて最大効力を産み出せるような新しいやり方となるへも磨き研鑽を加えていく期間にも今を生きている。 そしてそれとは、自然出産のような触れ合いに然じられてゆく交流の持たれ方でなかろうか。

それは人為ではなくとも自身意図や流れによらぬ日時の設定によりて流れを合わせていかねばならぬ方法ではあるが自身によりて為そうとはし過ぎず他者共同へもの分担をへと振り頼っていく事と共に、楽に自身の根底に触れている事で繋がりゆく事への各自の能力や状態存在を高めていく方法によりては、対人への対応においても自然の持たらす治癒のように現実化の階梯現在を持ち一瞬ごとに渡されていくような作業とやり方への従事であり、それは自身がFlowの出し方においても呼吸のように、その場の全ての力に任せ自然の起こしていく力と流れの一端としての自分を楽に観入しては流されていく媒体となるへ化して、しかし(生命交感が深い程に、同時体化への生命を使ってしまい疲れるが)その責務を負い過ぎぬように一体となるへnaturalに化されていく創成へbirthを催すのだ。 そして先ずは生き易さの為にも、その方法を自分化しなければならぬをナチュラルな歩みのままに与えられては行こう。と私は今も現状の全てに向かい為されてはいる。

そして音楽などの創成は、たまに自身の機に合って沸き上がって来る世界との出会いに持たれmotivateされていくを楽しむだけの音楽となるが良い。