junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

68 5/14 (tue)~

68 5/14 (tue)

世界の粒子性や他の階層というものは想像することは出来ても(それだけでも人間や知性の能力は凄いし、やはり潜在的に何らかの真実に触れていく事は出来るのだろうと思われる根拠とも或る程度にはなるし、客観的証明性だけでなく主観的な直観性も真実の一端には触れている大事な人間的な能力だ。)抽象的な概念でしか捉えられなかったが、既に次元などというものも基礎的な知識として知っている(と思われている)現在では当たり前のものとして我々は取り入れている事が出来る。

何次元的人間などという比喩は僕も使う時もあるだろうが本当にそう思い込んでいるわけではない。 直感的な感覚性と現在までに知っていることの結び付けに、そう捉えられる物事もあるが、それが本当かは誰にも分からない上に客観的証明性を持たない。 故に全く否定はしないし取り入れ観察の糧とするは良いが、正しいと思い込む(自身で余程に実感している人は、それでも良いとしても聞きたかった事を思い込みで結ぶこと。)は知性的な態度や存在ではないと思う。

では知性が万能ではなく(又、そうした上昇へ追い求め、優劣を判別せぬとはして)も、そして科学的証明の現在結果が全能ではなく全て間違っているかもしれぬし、誰もが現在までに知っていることの中でしか判断,知覚も出来ないのだとしても、正しく観ていこうとする観察への知性的な態度というものは大切と思われるのだ。

そして聴く。とは、現実具体への判別(車に気を付ける、感染に気を付ける不浄観念などのような事も)を通してもに育む事も出来るであろうが何かその奥に在る、そうした自己の思い込み,受け取りや事象の表面以外に、もっと深いものがあるのでは?と立ち会い自身で気付き問い掘り出し見ていける事だ。

しかしそれは他者が言った事の裏側に何か他の意味があるのか?等へ気にしすぎる事ではなく、それも又、自身のままに在りて突き抜けている事と周囲や世界に気付き、そこでの自身なき自身からの適合を受け取りていく事の同時やバランスの問題だ。 だがそれを基準化することを目指したが、各自の性質や得てきた経験,連結の過程が全てに違うし一般総体化出来ぬ。

そして基準化できたとして、そこへの制御,罰則,優劣差別などが自由を奪うのは(多様性の為。などでもなく、各自へ与えられた運命的必然が生起されていると見られるからにも)違うとも思われ、やはりはそこには、こう観じられた。故に押し付けぬが、皆にも共通の方向はこちらではないか?を提起し受け取って貰える可能性へと(それが正しいのかも本当には分からないし、)置いておく程の以外にはないのだろう。

そして運命的状況や必然とは、全てが完全な決定項ではなく越えられる自身性もがあるのだとしても、この現実世界と相関する他階層とも伴われての連結において与えられた非常に複雑,精緻で奇跡的連関が各自の必要性へと絡み合い行われているにおいても、の(一人一人へのオーダーメイドな連結奇跡が先天性や後天性の全てにも組み合わさっている、それは同じ事象が与えられたからといって同じ道となる訳ではない事の説明でもある。)強固さがあり、それを変換していけるのは自身への意思にも宿る自身的な方向の選択と生命の動き働きからであろう。

進化という変化には、その傾向における実験の時による検証であるが、その自身の持つ性質の向かわせ方である傾向性は自身の意思,想念などもへ関わる、方向性により向かわせる事が出来ると思われる意味でもの、これは現実化への意思の力。の私的な説明でもある。

故に、共生的な存在や文明として生き残り存続できるか?などへもの方向性へ関わるコレクティブラーニングへ対しての提起への運動,創造自己を行為させる人間的性質内での働きと、しかし只この自己変綿内に起こる変容の質と方向へ生き宿す事のみという世界への関わり,変革の私を生けば良いという事か。



Virusには意思と性質と変化可能性への対応がある。(生物科学的に真実かは分からぬが一概にそう見る事も出来るという面で私の内面化しゆくへの観察として) つまり運動の能力とベクトルと 、そこに伴う変容への柔軟さや受容を持つ機構である。


寄生虫を何故身体が排出しないか?は、そこには共存的補関があったからでは?

全体がワクチン打っているから、少数が打たない選択も出来る。 又はその少数が感染を拡げる可能性に対して打ちたくないという感覚や自主性は対全体コスト(最大多数利益)の為の犠牲となるのか? 又その自身選択が他者を殺した時の責任はどうしたら良いのか? 全体が打たぬとも良い方法は成り立たないのか?

利己同士の相関でもあった積み重ねと生命の歴史。

判別と判別への怖れ。 自分の中にも在るもの。

日本では特に、他者からどう見られるか。がこれ程にも大きな自己制限要素となるのか?は、本人に言わず影での力を振るわれることで(エゴ同士の対立も大変だが、そこには自身を伝えたり対応の可能性はある。が)直接に対応する事も出来ないから同調圧力的に他者視点や判断されることを非常に怖れるのか?

エゴの対立とは、利己が悪いというのではなくとも自己表面での判断を押し付け会う対立や愚かさ同士が人間の問題であり、つまりは浅い人為的操作性とも言えるような事のこと。


では成熟期までにどれだけ文明を高度さへと進めておけるか?の為に現在の成長期の自己破壊的な犠牲は仕方ないというのか?もへは、きっと今は未だ分からなくても個と生体の価値へ戻り来るであろうようにも

判別ではあり真実かも分からずとも、共生を目指す。


只この自身等の生存を気持ち良く、美しく暮らしたかっただけなのに、金や人為的な仕組みの制限のせいで失うようになる可能性を回避する為に努力し引き伸ばすより、いつか遅かれ早かれ失うかもしれぬものを怖れての暮らしを建てようとするより、早く諦め人為にも負けて引いていく中で自己の性質を生かせず共生的幸福も為されず制限された生を選ぶべきでもあるのか? いや、それでも目指しても良いのだ(当たり前の事だと人は言うかもしれないが)自身へと化された世界で一つだけの道を逝け。

求めずに求め。 文明の成り行きを放り出しては関わる。 方向の提示と生存の創造への自然が然化される、この生存充足の故のみへの創造と方向を、時の転開に往くのだ。

一つの道に通じていたらそれを基盤に言語へも表出出来ると思っていたが、私は一つの道に通じても言語化は難しいと分かった。 しかしこれからはその練習への関係と整理への時間も共に少しづつ持てて行くのかもしれぬに試しゆける。が、そこへの未熟さを現実面で生きて来た社会に否定された時に私は如何に対応出来るだろうか。

自信なき自身の故にも、うまく表出出来ず何を如何に語り伝えるかも分からない私。

為そうと想っていた事は結局為されず、時の潮流に流されていくのみの生まれて消える泡と成るだけのもの。 自身を生んでいること以外の何が出来なくとも、自身を運ぶ彼方への変革を如何に小さき一歩でもに歩む。

表されぬならそれも良い。 存在の運命を流れて、顕されていく示現の私へと揺れよ。

愛になるから欲さず、愛となるから叶う。 愛という言語 。全てを解き解決するもの。 愛で在る(ideal(理想)本来の行き先)が変革への私を渡す。

欲求ではなくとも愛である現実への転換。


しかし現実化と欲求のバランスや問題は、性においてもと同じく特に(ここでも日本は)押さえ込む方向でもの現在での不便さが大きく。 しかし快適にしたら歯止めが効かない、又は(資本主義と同じく)格差が出来る。 多様さによりて偏らず誰でも或る程度には得られる平等な、しかし身の丈同レベル同士の適合性以上は望むな。でもなく、又は何人も。へとも肥大せず、誰とでも。の不浄さでもなくとも適合同士の選択性を持たせた情況。

それとも不足へ押さえる位の現況が正しいバランスであり、そこへの欲する囚われを減らすべきなのか? 自身への適合と与えられた分のみを受け取ることへ、減らし積極へとは関わらないのか? しかし押さえ込むと吹き出すのが現状までの人間であるし、その方向が正しいのかも分からない。

不浄を越えて親密で特別な共有の育みともなるが、生理的な欲求は不浄でありても肥大と快楽への拡大を求める。

肉体同士ではないVirtual的方法への転換もあっても良いが、そこに本能を処理されてしまう事への異批感や、やはり身体実感を通じて体感したい欲求は間違っているのか? その欲や身体の頸から抜けたい面とそれを楽しみていたい矛盾(ambivalent)の両方があるのは、やはり生体を捨てて生体へ生きる事のバランスや問いと同じ事でもある。


71 5/18 (sun)

清浄なだけでは至れぬ処へ、手を延ばす為にもの必然と旅があるのかもしれないように、如何に人が愚かでも、苦痛でも逝け。

この苦界を生きて味わう生を在り、消えてゆくまでの束の間を、喜びの息吹へとも変える為に生きているのだともいうように。

希望にも惑わされず虚無と躍りて虚無にも殺されず、しかし打たれた現実からの選択が宿した、全ての結果を責めはしないさ。

誰かの生きたかった明日だと言葉では言われても、その者の現在状況と真実が実感として何を捉えるかだけであるには、その言葉を実感へ灯す転換が必要で、では真実一端を宿すが大きな思い込みでもあるような真実も、そこへ引き寄せるフィクションのような力もを持つ。

けれど私は、物語を描く事や聞くことはあまり個人性質に響かない。 それは現代の忙しさと個我性による効率重視であるからというだけではなく、しかしその文学的な連なりよりも情報(如何に私をインスパイアしてくれるかの内実を消費の内容に求めるからでもあるのだろう。

そして結局、何が正しいか分からぬ故にも私は力の行使の権利場に立たされた時に和解という先伸ばしの、対話という相互理解への道を模索してしまうだろう故にもその自身へ灯った方向を示す以外の、その決定へ力を用いる役目を負わないのであろう。

(しかしその和解的解決とは、自身立場の保身の為に棚あげてボロがでないように繕いながら話す政治家的な折り合いの事ではない。 又そうするしかない立場と浅さの中で妥協,迎合的な調整点を取るしかない政治家という者が知れた故にも、僕はそれにならずに済んで良かった。 全員が、ではないとしても何処かで嘘を付いて生きないといけない役割を早々に捨てられてしまって良かった。)


私は、人間の流れに入らず、旋回の中心に踊る者。 その先が何処へゆくとも知らずに、宇宙のダンスに吟うだけのもの。

愛だけでもなく対抗でもない、その中間的な現実点を選ぶような性質の時代の落とし子なのだろう。 そして逃げからも勇気からものどちらにおいても、私は傍観へ抜けて去るという突き抜ける先を自身に選ぶ性質に展開されても行くのであろう。

人間の間に在りて、その愚かさを共に自身にも宿され在りながら、その空の調べを揺らぐ自然,本然の力に委ねられ奏でられて逝くもの。

こうして身に付けて来てしまった全ての物を不要と削ぎ落とし、捨て去る事が出来たものだけに見えるものがある救世の彼方へと私のままに引き寄せられて、理解もされず誰に馬鹿にされても真実を追いた私への過程だけが信じられる私なる確固なる固着が、捨て去りて自身のみのままにも生きよという解き放つ糧として私への帰還を催す事もあるのだ。

怖れに惑うも全てが良くなるもの、どちらも偏っている極端に片寄らず、しかしどちらをも持ってしまった極端な私のままにも、そして闘いの歴史が私を人類的な課題にも突き落とし未だ許しながらも許せぬという輪廻には在るが、苦しみこそが世界を肯定への絶対観測へ辿り着かせる為の要件でありて又それによりて以外に完全の肯定を根付かせる事も出来ぬのだからに(宇宙の意思が試験のように試練を与えるなどでなくても)それは繰り返しては宿り来る宇宙の相の一体であり又、この宇宙の同位体であるあらゆる知性には平和と破壊の相互が選択されての進化過程を内包されて来たのではないかと思われるようにも、人為の愚かさによる悲苦は減じられても、殺され奪われ死んでゆくことを受け入れてこその生命体験なのではないか?

そして人為も又この自然の必然であるならば、何も変えずに止まずに続く苦しみの変換を持たらされる事すらもを抜けた共生判別の彼方へとも捨てられた、苦しみからの救済へ一人ほどけて逝くのみことか。 示し得るのはそれのみか。 諦めて放り出す。とはそういう理屈にもよる説明は、しかし私の方向には求められてもいる如何なる言葉(存在と創造)で果たし打つのか。

魂がなくとも別階層とのエネルギー的な相関は在るであろうようにも、必然がなくとも必然的な連関の連結が綿々と続く中で、(そして並行世界がありてもなくてもこの宇宙にとっては唯一の自己連関たちの結果体が結ばれているようにも)そして未来が既に存在していなかったのだとしてもに、これら複雑怪奇な相関の象景の私たちが絡み付かれた結果の自然~jinen~を意思以前の意思や現化以下の状況にも起こされているという強固な現実にも必然性が、流れを一点と全体の目的や集束へと運び去ってもいるとは言えるのだ。

宇宙のフロンティアは空間やエネルギー的な拡大ではないだろうという夢を描く、今ここという私たちにも叶えられる全体一体性との合一を方向としては進む各自の帰還地が我等を統べて催してもいる。 私とは、その中の一種でしかない一つの啼き(哭き)声だ。

しかし人為もの結果は判断できぬとしても(管理人口における最大利益の為に個人への最適化を奪う現在地までにおいては否定されており又は簡単に肯定することも出来ぬが、親が子を殺す必要性もを認めるというように)、我が子を人為の愚かさや利用の為に殺され奪われたならば僕は許さないという、労力と破壊連間の可能性を生み起こすかもしれぬにも怖れず(又、許しながらも止めて欲しいと人間的な観点で相乗や可能性という希望への期待をも語り置いていてもしまう判断性の知性と判断性を越えた存在への希求でもあるが)囚われずとも、その力の行使方向のパフォーマンス(発露)や提起に自身を現ずる選択も良いのではないか。 それが如何に次の苦しみでありても許さず血の道をゆくという選択もは、その場と状況が与えられてしまったのならば非常に人間的な出来うべき必然性でもあるのではないか?


何故に生きねばならぬのか。に答えなくても又はありても、苦しみが襲い来る世界の中で、真の肯定と幸せ迄は苦しみ続き、心の苦しみ反応を止めての以降も現象としての失う物理的な苦しみは在り来たる。という真実性はしかし、それを生み出してしまっていく自己設定に囚われてもいないか?と問いながらにも、やはり現実物理の失う中で心一つ肯定に捨て去るのみが真の自由と幸福ではないか。

しかし同時に私は、捨て切るのでもない幸福や共生の実現に在りても真の知性と肯定の幸福へ失わずとも進化しゆける道をも求め模索している。 それは人々の思っているより遥かに難しい道なのだが、失う事には飽きてもいるのだ。(ミラレパ的な仙人性の前世は素晴らしいし共感もするが、現世では捨てきらぬとも一般,総体化したいと望む私でもの道を歩んでもいるように。)


神は全てに宿り大宇宙は真空に現れて粒子を揺らすような、循環構造に果てしなくも続くマンデルブロの夢のよう。数字と幾何学で書かれた言語は、次元の複雑性と包括の0次元の相関のようでもあり、全てを情報と呼び知性とも呼べるのだろう。

素粒子にエネルギーを与えているものは何か?や太陽も何かの周りを回る円運動として全てが連動に絡み付いている事なども、(トーラス構造のモデルまでは発送出来ていなかったがPaiで目の当たりにしたような渦巻きシステムは構想していたし、陰陽が立体であったかもしれないことや、八卦などにも通ずるものがあろうことなども)ナシームハラメインという人物との発想の種が似ているという意味でも、彼の言っている事が真実であり本物か?は分からぬが同じタイプのインスピレーションを得ている種類の天才の一人という気もする。

しかしやはり同時代のインスピレーションは同時多発に起こってもいるが、その必要を同分野で競合させるより他分野において起こっているようにも見えては来るのだ。


空間と愛。とは、事象の実際と想起意思の関係の事についてでもある。

その力へ引いていく。

顕れてしまった宇宙の一相を、人間と言う私に象られて私それぞれのままを逝くにしかない道と全体がある。 各個でありながらも総体である、隔てられた各個を生きる自由と多様の相乗価値を発見してもいる。

全てが教師であるというように謙虚に、しかし比較へ卑下もせず、淡々と愛に流し去っていく私に起こる最小を受け取る在り方を私は選択しても来たのだ。

優劣づけに陥るのでもなく区別を忘れ取っていく事と共に、しかし自閉し共鳴性との関わりのみに労力を使わず関わらぬという在り方は、自身のコントロールの及ばないものを避けてしまう。というだけでもなく
そうするしかない人間の分化の先への必要的な形でもあるかもしれず生命の心地良さの求めからの一つの答えでもあった故に育まれて来た多様性の現在地と、これからの行方でもなかろうか?

自と他者の一体が流通しているだけ。の中で、しかし否定されたなら否定を返し供の共通を作り出す労力や運動からも離れ折り合わない。 家族をも捨ていく自己へ在るという方向にも、共生的幸福と交感の一致点も有りうるのかもしれず又、私は自身で在る自由と家族的共有もを求めてしまうが、その融合地を普遍,一般化するは難しいのだろうか。

他者へ追わず求めずといっても、この現実を起こし催すのは双方である。 どちらか(や、どちらかも)が受け入れては押し付けられる力と操作や交渉と妥協的依存の相互利用と奪い奪われる関係は人間である以上、終わらないのかもしれないのだから。

奪われたからといって、お前も奪われろという呪いは僕はかけないが、しかし苦しみによってしか進展へ気付けないのならその恩恵を与えることは、この人為社会が僕を打ちて来たとも同じように正しい慈悲でもあるのではないか?


聴く,観る、ことを伝えても、その何かを言われた感覚や押し付けられたから嫌という反発ともなるし内容は残らない。

その者になるしかないのは僕も同じだったように、放っておいても必要は開き為される道であるを渡し、余計なものをつけさせぬ方向へ関与しない方が大切なのかもしれぬという程に生きる力を信じ、あまりに自分に自信がないからこそにも何か頼る基盤やカリキュラムが欲しくなってもしまうのだ。

そんな人間である弱さも抱えては、しかし安易な人の判断に侵されぬ為にも何を如何に伝え又、(強固な自我の殻というのでもなく)自身の設定を他者関連の分かり易さへと結び付けていくことも(またそれも私の中の自信のなさからの弱さや揺らぎでもあるが、)世界との分かち合いの為に自身を立たせる拠りて立つ基盤の把握作業ともある。


では人に何をどう言い伝えるか? 感覚に何を如何に残すか。 聴かぬなら俺は知らない。と関わりを絶ちてしまうような人間の愚かさもはしかし、その者であるを見せているという結果をも怖れぬ自然の破壊と過程の一体でもありて変えようと折り合おうとする必要すらもないのみが在るというのか? 奪われて共生的可能性をも追いてはいけぬのか?

真の超越以外は何処まで行っても苦界である世界に、共生相乗現実利益的でありても真に幸福な全肯定状態であり如何なる事態にも武力も持たぬという選択点と方向は在り得るのか? 自己を失う全体化だけが有機的連結の情報体であることも捨てた量子化生命への行方,帰結点であるのか?

僕は苦しい。 絶対全体の愛を(そんなものもがなく肯定になるのは、それしか自由になれる道がないからかもしれぬとしても)信に置きながらも、闇と光を宿している空の狭間と中間に越境と合一を行為す。


数は少なくとも、本質なものを生みたい。 その為に与えられて来た過程であったのかもしれずに、しかし判断もなくこの私への必然を肯定に流れ去られては逝け。


73 5/20 (mon)

愛の存在,関係,創造,時空(場所,旅,繁栄,世界etc),幸福と自由と調和。へと自然のままに結び付き為される自身を僕は求めている。

心身の健康,愛の関係,創造の仕事,旅と拠点,富みと繁栄,家族との暮らし,世界の平和,自由なる遊び、その全てが完全に果たされ最高に生かされ開き輝き叶えられている。と祈り言われて来た私自己への方向は、それの事でもあったのだろう。

何も求めず、しかし求めるも良い。
何から引くことも方向の区引きもなく、自分のままに生き為されるだけに然じられるへ任せ放り投げる。

絆も作れず信頼は成されず利用されていく一方的関係でも、聴いて貰えず話が出来ぬ共有関係必要の人間との関係にありても、適度な距離を取ろうとせず要求ばかり肥大させる脅迫にあいても、私は与えるのか?
出来る事はする。であると大概には欲求の増大は起こる相手との関係からにもよりて、私の絶望と現実化への虚無感は起こったものであるのに。

意地をつくと良いことはないと知りながらも突き離れ利益を追わず対抗処置を取るを選ぶしかないというのか。 折り合えば希望も砕かれ苦しむのだからに押さえ込む以外の選択肢が無い場合もあるではないか。

役割を与え合うのだからに、フリーライドされても良い。 しかし与えられてしまったからとその価値に気付かず簡単に捨てては又も得られるというような生き方の浅さと楽観効力を嫌いてもいたが、与えては利用されても与えるのは自分がそうしたいからであったのだろう。


哀しみの世界相をも背負いて、愛の間力を嗜好する。


では愛のままに全て良く自身のままに在りて行うのみだとしても、その現実への自身行使の選択点の取り方は如何にすべきか?を見い出すへ問い続けて来たのでもある。

祈りと存在に結び付いて生き、来たものを受け入れ自身という媒還流点に流し去りてゆく対応を少しのみ当てるにしても、その状況可能性における自身という与えられた性質発現と行為への選択を、その時に感じるという以外に如何なる方向へ培い高め向かわせることもが出来るというのか?という道の基準を、人々の普遍共通化や誰もが逝ける道などに囚われる必要もないのだとしても私は求めている。

これが私の聖者性であり弱さと強さ,構築と感覚,愚かと知性,平等と階層,などもの相対を孕んだ上の、統合への求救だ。


自己防衛もを放棄して愛のままに殺されていくを選ぶ、現実への対応なども捨て越え囚われない事か、力の使用を怖れぬ事か?

どちらにしても真の殺意や力の行使には勝てないのだとしても、手を出すとそちらにも犠牲が出るぞという自衛力を見せる事で抑止する、又は勝たずとも負けないという生存担保によりての交渉力を保つ生存戦略へ化する事も出来るが、勿論それらは誰もが持てるわけではない格差を生むし個人ではなく地域での抑止,仲裁関係を持とうとするなら、ある程度に固まった地域共同体や(集落,都市化、また自由の無さ)ある程度に大きな軍事力(区分による対立関係)を指向することにもなる。 ならばその自衛力の内容は非重(火器)武装の共通化や最強の楯を指向するしかないというのか? しかしそのどちらもが非現実的ではある。

ならば情報の透明化と仲裁,執行機関の設置、その全国的な懲罰や共通法規の施行という権力,監視,武力の外部委託化などを認めなくてはならなくなる。 故に私の描く自治圏ごとでの自衛力と恣意的に操作されぬ情報透明性(個人情報との均衡と整合)そして全国的な仲裁,調停武力などものオーガナイゼーション的な繋がりの機関、その地域ごとの少数武力のvolunteer的集結における派遣と、その到着まで持ちこたえる為の個人武力。 そして個人資質に左右されない(個人最適化されたAi等も、完全なsecurityを持たらせないとはしてもバリアー面に特化した)ドローン的なprivate防衛網。などという方向が今後の(到達点として正しいか?ではなくとも)最適合解の一つではなかろうかとは思ってもいる。

全体最適と効率の為に、少数のバグやアノマリー事態の発生と個の自由などを犠牲にするのか?の問題では他の常にもあるが。

しかし個人ごとの武力を伴わぬ暴力や奪う力の関係にありて如何にするか?がもっと大きく根本的な問題ではあるにも戻り、ある程度まで自己独存の生体環境化するも良いのだとしても家族や人間との周辺環境や関わりすらも必要なくなり、それは独存の自立的充足という境地ではなく関係の面倒さや自己の肥大へ生体のノイズを減らした有機的連結から切り離された技術との方向だとすると、そこには世界との共依存を止めながらも、しかし生体的に交感しゆくという歓びへの道は難しくなると思われる。


生体的連結の奇跡を感じ愛しく思いながらも他者や生体的な有機性の相互交換を汚いとも思っている、僕の元々にもある不浄の観念。 欲望も含めた、この人間的段階を越えたいという想いと生体的交換の歓びを感じ生きていたいという想いもの交じり合った中で、それらは過去聖賢たちの往き来た道には矛盾なくとも今後への非生体化の時代においてもとの統合的目的地と行き方を結合させていく必要への立ち会いであるのだ。


今後の人間はVirtualなconsumptionに吸収され、体感的価値は残るが生体的能力は退化し続ける。 狩り的な遊びも暴力もスポーツも性も全てのカタルシスは、そこでの消費行動へ化され働かなくとも良い社会の形成は、その人間活動へと絡め取られる。

教育や哲理なども、その内化過程は物語的な重層による個人の形成ではなく個人能力に関係の無い情報のみの伝達となるに知識的な姿は現在よりも肥大され、心や精神性による魂階層との流通や脳内変容の神意識的な体験は共通化され得たのだとしても、そこには苦痛をも肯定へ変容させていく自身と交感による発展過程と生の味わいという歓びは失われてしまうだろうが、それでも良いという事なのか?


音楽も創造も、その個的消費行動の遊びや一端でしかなくなる。 では我々は今、何を何故に(音楽や芸術的な消費方向への)創み出そうとしているのであろうか。


地税と占有権など以外の認められぬ国有化となれば、広さのある自然の中や都市以外で暮らすことは富裕層の贅沢

では人間は、宇宙への進出を考えたとしてもスペースなき全体最適の為に行動する、自我少なきコロニー内のデジタル媒介者と化するのか?



当面の安定的な社会システムには
資源,生産,消費,分配

あまり人的コストを必要とせず無限に可能な生産を物資で分配するのではなく、そのアクセス権は貨幣的pointなどによる購買という消費への支払いに対して、生産側の得たものを税収として自動的にも振り分けるベーシックインカム性にあれば維持され得、また国営や国の管理に戻る事もない。

生産も消費もは、全体最適解であったものから個人最適へ化されるようにその製品の生産管理や発想,統括などに必要とされる人間の関与における、個人や企業などの経営媒体は残りしかし初期投資コストなどもが減れば自由な参入と、利益からの自動的な税の徴収,分配など為されれば資本家の独占なくとも或る程度の平等さの中での社会的,個人的な創出意義の為の創造,経済活動が為され得るのではなかろうか。

生産,消費,税的分配の交換は自動化されるが、では資源自体の収奪に関しての対価は求められぬとも良いのか?

経済原理主義が終われば、市場の調整もは必要なくなる?

システム以前に、ガジェット的なイノベーション方法?

消費なる宗教


しかし個人意見や潜在質の集計により全体解が得られる民主システムなどもだが、先にはゼロの未来にあったエンティティ解析のようにAiなどが出した結論をフーコー解析のように補則,説明,証明する為の人間作業の関与面のみが残っているのかもしれない。


狩りや戦争がsportsになったようにsportsだったものはVR空間やロボット同士の戦争娯楽へと戻るのかもしれない。