junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

88 6/24 (sun) ~

88 6/24 (sun) ~

苦しいが与えられて愛になる練習に疲れている。 全てが肯定と沈黙と無関与の完全な愛にのみ充ちるは未だ出来ていなくても怒りと爆発や欝の度合いと他者への影響などもは良くなって来たのだが、自身が変わっても何も結果は現実も他者も変わらなかった。

その絶望と惑いが愛の充足への運動へ私を向けさせてもいくが、それはその時点を少し解消するだけで現実的総体を変えてはくれない(短期的結論ではあるのかもしれず長期的全体には違うのかもしれぬが)今までの処ではの結果は全てそうであったように見える。

そして愛の自身化へ向かいながらも独りで闘い打たれ続ける状況が現ず中でやっていくのは苦しくて仕方ない。

この苦しみを世界への言葉や表出にするへ向けた自身となるのだとしても、こんなにも苦しくて生きていくのはもう出来ない。

如何に自身を為そうとも為した事の全てが裏返り悪循環に成りゆくを見つめ続ける生は苦しくて、もう抜けてしまいたい。

人(や生命)を傷つけて、それを訴えても聴かず開き直り勝手な理屈づけでの自己正当化しかしないような人間ばかりの世へ絶望し、生きて行ける自信がない。


この試練を越えてこそ開ける為の機会が与えられているのだとしても(そしてもう僕には無理ですから、その役目からは降ろさせて下さいと祈りながらも本当には捨てていないように)自身を放棄せず受けゆくにしかないという覚悟にはあるが、愛の希求と状態化への深さと同様,同時に苦と絶望が深すぎて(この問いと研磨の過程と書き現れにも宿りてはいるが)折れそうな境界で立とうとしている。 (そして追い討ちのように現実と人は又も試練へ打ち来る。)

この世での働きを終えて先に逝ったからといって光の安心と充実に溶けてあっては欲しいが、婆ちゃん少しは良い状況を生み出す為に責任も果たし助けてくれよ!とも思う程に自分だけで立ち続けていくのには、もう限界を感じてもいる。

誰か僕を助けて! 自分を救えるのは自分だけだとしても孤高に突き抜けて生ける生命本物の生き方と輝きだとはしても、そんな人生の置かれ方は嫌だし疲れた。


そして例え身近の関係を越えた世界への働きかけとなれたとしても、このような今までの私性質への状況現実化の通りだとすると、又も規模を変えた他者からの判断と攻撃にさらされるのだとしたら、やはり僕はそんな所に愛へ変化させる自己努力へ溜め込む以外には立っていられぬような苦しみを経るのだろう。 僕にはそうした自身努力と変容現実化させた結果を持ってしても、全ては無意味という失敗体験が積み重ねられて来てしかない。

誰とも仲間になどもなれない。 母とも違い、こちらから否定もしていないのに学びと成長の為とは言え、打たれ続ける生は嫌だ。 大きな処へも生かせない。 この人とだけでもという希望すらも得られず身近にも持たれない。 どちらも得られず、例えどちらかが得られても両方は更なる望みともなってしまう。


世界への代弁者となるのでも市井の聖者として生きるのだとしても、溢れる愛で満たされた内にありての肯定に肯定的現状も回るのではなく、こんなにも打たれ関係も現実化もせず得られず諦めていくしかなく有るものの中で肯定するしかないような性質の世界の行為役割化を与えられていくのなら例えそこに意義や意味がありても、こんな自身媒体を生きていかねばならぬが僕は悲しくてやりきれず、何とか立ちながら誰にも本真には関われず心では泣いていくしかなくなってしまう。

そんな弱さと可能性の悲哀への慈悲体となるへの過程を与えられ歩んでいるのだとしても、何が良いも悪いもなく誰かが負わねばならぬ世界と現状の経過が私たちへ与えられ為されているのだとしても、もう僕は嫌なのだ。 打たれ苦しく認め独り生きていかなければならぬが現実化されていくだけの生と学びと全肯定化への道を否応なく行かされる事も、今の僕には無理(何とか越えられるとしても、苦しい)であるし、越える可能性へ(越えられぬかもしれぬ被実験者として否応なく与えられた生を)生きるしかないのだとしても、他者へ止めて欲しい。 追い詰めないでくれと頼むのは何が悪い。

誰と仲間になることも出来ない。 誰も理解しあい助け合う事も出来ない。 その中でそれを望むのは、自己承認欲求としてだけではなく(それも根源には当然あるのかもしれぬとも)当然の人間的な権利であり共生への願いであると思うが、それさえも剥奪されていかねばならぬのか? 欲望はありても囚われぬだけではなく(それも出来ぬが)欲望と自己は滅し尽くされ、(諦めによる過程でも哀しみでも何でも良いから、とにかく)共有や相乗的関係なども望んではならぬ無関与独りの自立自存へ向け抜けなければならぬのか?

でも、そんな世界で、もう僕はやっていけない。 苦しみを只一人の肯定へ向け生き続ける苦行は、苦しくて仕方ない。こんな僕の弱さも、もう自覚している。



肩書きで判断される人間的性質などが好きではなかったが、そうした名目や承認欲求の為ではなく為された事の結果としての地位や名誉や金により得られるものや、人がどう見てくるか。などによってもの現実となる事も違うことを認め、今の私はそれを欲してもいる。 それは人が他者や私の存在を識ることもないのは理解するが、あまりにも打たれたり関係できず、そこに不利益や上手くいかぬが生まれいくのも嫌だし、関係も結果も取れるようになっていけるを望んでも良いのではないのかとも思ってはしまう。

では自身に与えられた役割にも 見える創造性も又、超越だけでなく現世界や現時代との適合へ繋ぐへの性質をも捨てて、出家などのように離れ去っていく事が到達の価値としても、社会的な承認を得られたりへの為にも、そしてそこには自分を生かせる新しい方法や道があるかもしれぬを試すようにも、任せてはしかし求め進むのでもなく只、捨てるような方向へ転換してしまった方が良いのでもあろうか? いや如何なる可能性にも開け受け入れていながらも、この現在を感じ生き動き選択しゆくにしかない自身に起こる望みなどにも泳ぎ生くしかないではないか。 それは欲求の全てが良いのではなくとも欲の効用でもあり、そんな生命への現在を与えられ感じて生きることが出来るという生きているからこその欲望の価値自体でもあるのだろう。

ではそのように欲は感覚との区別も付けず選択の失敗が起こる事も認めては、自身が行われ為される現在への外的状況のみでなく内部感覚や性質,経験それらもの全てが、ほぼそのようにしか起こらない通り道の再現であるかのように捉えられた必然性というものを絶対的な(信仰帰依のような)指針へ化し信じてしまうが肯定と愛へもの唯一的な道であると言えるのか? そして例えそれが至り着く最終的な解と境地でありたとしても、しかしやはりそこへ通じる為の苦しみの必要も含めた世の必然は起こるのみの中を行きゆくしかないとも言うのか? それは将来の科学に証明されるかも知れぬとも、ここを歩む私の既なる必要として私には求められている現状況への真実だ。

人類が作り積み重ねて来たものも全てが(完全な管理,支配,統治などに通じてしまう以外の)無駄となったのだとしてもの世界の先の姿の先取り対応でもあるのかもしれず、これから何を産み出し関与出来たとしても無意味だから自身の行いたい事。などにも囚われず引いていくのみと成らねばならぬへの道のりであると後になって分かるかもしれぬ可能性を今に知ったのだとしても、しかし哀しみがそれによって癒えるわけでもない。 では少し緩和させられたとしても、無意味な生を行わないという選択を喜んで選びゆける(そうするしかない諦めの現実化は起こったとしても)自身ではないとも思われるし、打たれることが分かっていても更に苦しくなるかもしれずとも、生きてその自身を行うにしかないのは変わらないのだろう。 結局は如何に気付こうとも又は苦しくとも、その与えられたものを行わされる以外の選択肢がない事の理解による喜びと諦めるしかない悲痛との間に生き過ごすしかないのだからに。



女性とは特に絆,揺るがぬような信頼関係の醸成が基本的に難しい故に、その絆関係は尊く目指される求めとも更に成る。

つまり貴重なもの程、得られた時の価値が高く目標ともなり得るというのは一般にも同じでだが、では(その欲求面の置き方を認めているとしても)信頼関係による相乗と歓びという道は、やはり誰もが皆に手に入る普遍的到達点の理想とはならず、そうした目標地点を持たせてしまっている時点で駄目なのか? ならば孤独または表層的な関係で押し込めた我慢や無理か妥協に殉じて生きる肯定が(違うと思って来たが)私へも他者へもの向けるべき方向であるのか?

貴重を求めやりきらねばならない人間と同じく私も与えられた能力を生かし果たしたいと思いてはしまうが、その欲もは質の差として認められているのでもなく現在の自身や各自同士の全てをそのままに(必然としても、そうではなくても)良しとしているだけでもなく(又は良しとしているにおいても)只、減らし無くしていかなければならないともいうのか?

しかし自身の為にも欲や依存を抜けなくばならぬも分かっているが、そこにも疲れてしまっている現在段階は(だから仕方ないという言い訳により自身を欲への弱さに(それも弱さへの質)引き寄せてしまう以外にも)やはりどうしようにも苦しく、もう独りきりで耐え成長へ向かい過ぎる程には僕は強くないという意味でも、溜め込まず消費的依存でありても怒りだったとしても解消せねばならぬという状況にあるという面も認めていなければならない。 その上で、しかし私は諦めず現実に打たれたからといって放り投げてしまわず(方向という思想が正くなかったとしても)自身に与えられた能力の開花の方向へ生かされる事に向かうのだ。 生命に生きて感じゆく事、それのみが価値ではあるとしても、そこに感じ流されて生くが私のままに在れ。

諦め放り投げ弱さのままにも然じ、諦めず放り投げない強さでもある。 欲も行為もは質によりて違うとも(今の処は)言えて、方向も理解も要らず、けれど方向や意味への知覚によりても進む。

これらは全て説明への言葉。 しかし如何ように語りても伝わる意味にはならぬかもしれぬが、意味や残されるかもを捨てて、私はこの私への創造へ(創造至上主義ではなく為さねばならぬからも抜けゆき、又は与えられた生存の必然主義としてでもなくとしながらも)尽くされるにしかない現状の肯定と方向への生存と交感の道は今の処の解と道ではあるものだ。


語り過ぎが良くない事も多い。が、言った事で後に繋がったり(それも一時的な結果には過ぎぬが)言わずに溜め込むよりは良いように自身での交感に選択を繰り返してはゆく事でのバランスは取られてもいくが、しかしこのままでは又も爆発してしまうという怖れもが可能性の事実として私にはあり(すぐを求めず焦らぬとはいっても)それは自身への癒しと共に現実結果の外的現状もが付いて来ないと苦しいという私への近緊の解決課題と必要でもありている。


肯定のみの方向へ自身を試し変容させていく、肯定と愛の変化体となるだけの正しき方向の為に(それも一つの過程だが)又も僕は自身を押し込め抑圧してしまう。 そしてもう、苦しみの呼び寄せた過程による道を採るのは懲り懲りだ。

こんな世界を変容する為に出来る事。とは、他者へ求めてはならず依存も関係もせず、自身独りに存する愛となりゆく事だけでありたとのだとしても僕はそれが苦しいと言っている。し、他の道の採り方を模索している。が、果たし得られない。ならば、その方向と努力を諦めて苦しみを受ける行き方での肯定と歓びを受けねばならぬか、それともそれでも更にそこへ向け問いて生きる力として往くか。 それもは自身の選択にもかかっている。

どちらにせよ、もう無理だ。と思っている現在の自分に求め必要なのは、苦しみではない生き方の方法と創出でもある。

ひたすらに愛への変容へ向かいていられているわけでもない弱き自身でも(そこへも繰り返し戻りてもゆくが)しかし諦めては浅きへと引いていくわけでもない本質への到達を求めては生き、その意識や存在のみにおいては果たしてもゆける道の創造に在り進みてもいきたい。


世界は鏡であり自身が生み出しているから他を変えようとしてはならない等と、お前の理屈に付き合うのも、もうウンザリだ。 それが本当だとしても、ひたすらに自身がのみの変革に向け生きようとも何も(経過は少し良くとも行き着く結果は全く)変わらなかったではないか。

では、どのような生き方の道を創造,発見するにへも繋げていけるのか?


その相手の弱さや状況が作り出したものを理解はしながらも、そして自身の過剰反応が更なる悪循環へ繋がっていくかもしれぬ事も知っているとしても、その外化への形は流通を如何にも持たらさず、そこに耐えかねた私の心身の状況は切迫されている。


他者へ求めず自己のみで解消しろというのなら、お前も世界の愚かさに打たれても何も変えようとも関わろうともせず攻撃し返さず受け入れるだけとなるんだな? 全部人のせいで自分は棚上げか! 望まず、自分こそが変われというのならお前自身はどうなんだ!? 無理解と否定しか返されてないぞ。 しかし幾ら言っても又も無意味で、自身へ溜め込み愛へ至るを歩む孤独な道以外が現れては来ない。

お前は変わろうともせず(本心では少しはしているのかもしれぬとも)何の理解もせず人の努力を無駄にばかりさせる。 それは(愛の関係が実現しないのは自身が為の学びでもあるからといっても、それがこその感謝のみの恩恵であるともしてさえも)もう、自身の責任ではない。 (自身を愛へ成長させ受け入れる努力と責任はありても、そうした努力が報われず打たれる現実的な原因を生み出しているのは私ではないし、全てを私が背負い込む事を、私はもう拒否したい。)

自立とは独りきりで誰と何の関与もしない事ではなく、如何なる状態や存体にありても、その自己を保つ(それも出来てはいないが、定義の一つとして)ことと言い示し置く事は出来るし、依存せぬ自立自己とは母が言うように自身で有るのみに誰とも関与,関係しようとしない事ではない。のだが、その定義共有のチャンスすらもないのだから、伝え合いた合意関係を持たらす事は不可能だ。 だが、だからといって利用同士の関係として在り立ち、変えようとも意思伝えてもしてはいけないへ離れなければならぬのか?

離れれば解決ではないが、どちらにしても状況が(その現実も相手の一方的な選択が作り出してもいるが)離れる事すらも許さず、心の流通を取ろうとせぬ不健全(と言っても良いかと は思う)な利用関係だけだとしても意思や必要事を伝え会う必要は避けて通れぬに会いても、何の言葉すらも使おうとしてさえもならぬ中で、その性質者である自身のままもを押さえつけた非健康的な存在と関係を持たなくてはならぬのか?

嫌いではないが共有の取れなさに困っていた婆ちゃんの時よりも遥かに深刻で、もう嫌い過ぎる程に我慢しきれなくなってきてもいる。 (自分は棚上げで勝手な論理,屁理屈と一方的判断,解釈の強制,否定で来る迷惑さ,不利益と。 そして人からそれをされたら烈火の如く怒り闘争するのに自分は言われたら開き直り逃げるという愚かさ。と言い伝える事も許されず出来ぬ僕の忍耐の限界。)

これで例え僕が爆発しても、お前は一切責任を取ることも振り替えろうともしないのか!? お前が振り省る為に自分で病気になってみろ等と呪いかける事も僕はしないが、それはそうなっても悲観(悲劇の主人公としての味わい)とその不利益を返されるだけで本当に反省し直そうとする機会にすらならないであろうことが分かっているからでもある。

お前が言うように憎んでいたわけでもなかった、しかし人の事を何も理解せず解釈や否定のみして、この状況を悪化させてるのも自分は何の努力もしないのも、(僕が自分を棚に上げて言っているのではなく)お前のせいだ。と言っても正しいと思うし、嫌いの心に引き寄せされ過ぎぬ自己努力にバランス取るは大事でも、もうこんな愚かな人間とそこでの関係は嫌いだ。と、はっきり言って思ってもしまっている。 その状況を作らない為の引き止める努力も、お前は何もせずに、こちらが悪いという責任転嫁しかされてないのに何故僕だけがそれを認めお前の責任はないのかと言ってはばらないのか? 勿論これは僕の囚われだが、だからといって与えられた破壊と暴力へ黙って従い続ける必要はなくて良いではないか!?

人の愚かさに意味や必要がありても、人の愚かさが嫌いで仕方ない! そこへ自身を引き寄せられ過ぎぬへは観ていながらも、それを表現してもいけないというのか!?


何を言おうと無意味で告げる機会すらもなく押し込め、ならばそれらを世界への外化の形とするへと向かうのだとしても、僕の書き顕れて来る歌詞などには、苦しいが愛となる。いう方向性や具体化の以外には転化されない苦しみか平安か(その同時か)の同じ事ばかりで伝わる形にするには、それが伝達へは無意味でもこのように書き連ねる以外の方法はない。 如何に言語を離れた創作による本質への流通へ象り転化してゆくか?もは辿りながらも、この衝動と言葉化への私がいるのなら、そしてその他の仕様がないのなら結果には無意味だとしても、これを行うしかないではないか。

孤独でなく生きたいが愛へ貫く方向の生命が、こんなにも愚かに打ち来る人間たちと適合し折り合えるわけがないのなら、愛と共生は不可能で僕に望まなくとも、孤独に生きるしかにないではないか。


せっかく生き延びたんだ。 死ぬまでは生きてやる。という気概はあるが、このままでは人間とその絶望に殺されてしまう。 俺が死ぬんではなくて、危害しか加えられぬなら、お前らが死ね! 何度も言い伝え試し行いても来たし、自己変革への努力も尽くしてその結果も見た。 その全てが無意味で排除と否定しかされないのなら(ここにまで至った想いと経過の何もが理解もされず認められないとしても)、俺が殺されるくらいなら暴論でも、お前らが死ねと言ってやる。 もう認め生きるのも飽き飽きだ。 例えそれ(結局は認め押さえ込んででも自身の変革と愛のみに生きる)しか選べない程に具直で不器用な自分ではあるかもしれなくても。

何であんなに恵まれていると人は僕を思うかもしれない。 その一側面は真実でもあるが、この両面に合わせ持ちた自身の中に生き抜くのは尋常な努力じゃないんだ。

こんな地獄はもう嫌だ。 耐えられない。 苛めないでくれ。 頼んでも伝えても止めてくれない。止められない人の弱さも分かるし、相手は何も変えずに自分だけが変革へ向けて生き耐え続けるのは不公平だという怒りへ外的反応を持たらす事は悪くない。が、それでも自身の変革のみへ向かい自身の創造へ転化するへと伝うのだ。というのも分かるが、その自身に向き合いながらも もう苦しくて仕方ないと訴えている。 弱さと甘さから僕を認めてというのでもなく、排除と正当化の強制ばかりではなく聴いて分かち会える事や関係への提議方法を試してもいる。が、その自身は果たされず必要事項の表面性すらもが試し伝えみる事さえも出来ず無理矢理に打ちつけられ強制され能力もが失われては諦める方向へ矯正されてしまった私は(身近にも世界にも)分かち合えぬへと哀しい。


言い訳でもなく病気の弱い人間を、しかも止めてくれ。 堪えられないと伝え続けているのを無視して攻撃するが良いと思っている人間の愚かさに交わって生きる事は、僕にはもう出来ない。 しかし他の方法などが、この僕のやりたい事や結び着いた関係の在り方の上に如何に選び得るというのか? 子供達の為に出来る事をしてやりたい等や創造を生かして世界への自身を関係したい等もは、それも自身が選んだ事ではあるし縛りでもあるとはしても僕には捨てられない。そして、もうそれは捨てなくて良いし自身の性質のままにも与えられ現じる夢を(囚われの病いからは放棄されたいが)諦めきらぬとも良いと思ってもいる。


只全てを抜けた肯定のみに生く目標もは変わらないが、しかしそれのみではなく全てがそのままに良いのだとしても止めてくれと言っても良いという欲望や操作欲求もを認めてしまうから囚われるのか? ならば他者や世界変化への関与一切や囚われもの欲望を認めるのでもなく、認める欲望とは肯定と愛と自己の放棄だけであるが正しいといえるのか?


基盤と目標が愛となること。だったから、その為の機会が与えられてしまうとしても、しかしそれが本質だと思っているし自身に選ばされ自身で選んだことなのだから、これで良いの覚悟と共に生きるしかない。と同時に、こんな行き方じゃない世界との共生に在り方を望んでも何が悪い!とも思う。 それは間違っているかもしれず只ひたすらに愛へ抜けてゆくだけでなくてはならず、その為の一部の抜けて来る悟り者を生み出す為の危険と紙一重の可能性実験でしかなくとしても、愛と共生の相乗的関係と現実化世界の実現という、それが僕の夢なのだ。

愛と全てが良いと受け入れる歓びとなる為へ生きる非情の世界での覚悟と、(本質性が生み出される為には不必要な消費材の背景がなくてはならぬというに賛同はせぬが)本質へ突き抜ける一部のみの達成を生み興す可能性の為には完璧主義者だが欝の リスクも高まるというような多くの犠牲の中から生まれて来る事が必要とはされているというのか?


世界を救いたい。という想いは、それが無理で、その欲求方向は叶わぬのなら苦しみの世界を終わらせてしまおうという思想の状態や変化へとも紙一重でもあるし、では自殺でもなく世界は変わらず苦界なら終わらせてしまった方が幸福だ。 だから希望もちて生きている人たちの想いも可能性も断ち切って人類の出来るだけ多くを滅ぼした方が良いという考えも理解は出来る。 (しかしそれは、そうした人間的な想いや理屈づけも多様中の一視点として理解しておけるという意味であり、冤罪犯人にされない為にも僕はそれを生命をかけてまで自身に選び取る唯一の答えとはしないであろう事などは書き置いておく。)

そしてそこにこそ、勧善懲悪な二元性の光か闇か等でもない新しい統合の在り方への実際を生きる生存の実在と実験が行われているとも言えてはいるのだ。


死んでしまいたい。が、死にたくもない。 こんな非情なお前たちの押し付けによる悲哀に殺されてたまるか!とは思うが、しかし(人為と自然もの全ては非情である事への受け入れと覚悟に生きるしかなく)これ以上に何もすることもは出来ない自身の無力,無意味さと諦めなければならない孤独と絶望のみが肥大化するへと僕を毒しても生きるしかないのは辛すぎる。

もう、こんな状態で認めるしかない。を生き続きゆくのは止めたいと願うには真に別人格のようにさえ全ての継続,重層を抜け切って生まれ変わるか死ぬかしか生きていられないという処まで追い込まれてもいる、それは既に自殺願望でさえもある。

しかし私だってこんなに苦しんでる。 分かって優しくして等の依存と操作的欲求の為のパフォーマンスとして死ねない迄の事故を起こすとか自分を傷つけていく緩やかな自殺状況に追い込む(どれも母がやって来た事でもあるように)を僕は行わぬし選ばないというだけの認識への経験と強さは、僕にはある。

愛と絶望のアクセルとブレーキの狭間に在るを続け来て、正道を保ち行い続けよ等と(強者の理論でもある)言われても、そんな正気でいられ続ける程に強くない私の(死なず殺さぬ等へは気概を保つとしても)、弱くても良く生きゆけるような道は創出できないだろうか? と、私は、そこを歩んでもいる。

最低限、ただ生きている価値と創造を味わい生ける自身を立ち還られる基盤としては持ちて歓びもしながら、しかし何もが果たせぬ中で関係も創造へ役目を果たされたい欲求もの全てを捨て孤独に自存し続けるへの方向努力は何度も言うが疲れたし誰もがゆける道ともならぬだろうし、こんな弱き自身にも、もう幸福での道を知りては抜け選び歩み逝きたい。

全てが世の必然と意味に尽くされているが、せめて苦しみなく生ける事が出来ればと僕はそれを与えられ味わいた者としてもに思う。 しかし苦しみが成長を催す証査は得られても、苦しみなくても誰もが悟りゆける道が普遍的到達であるかの証明は出来ていかない。

苦しみを味わわなければ、その苦しみと心が捉える原因や状況もを抜けている証拠にならないではないか。 しかしそれ以外にも肯定と愛と自在な交感や知性の悟り存在に至り着けていく道が有り得るのであろうか。 ではもしかしたら苦しみを抜けるという設定自体すらが検討違いであり破壊もが良かったり、又は苦を肯定と自身の心によりて抜けるというのではなく現実的な共生的幸福を創り出すへと向かうというのでもあるのだろうか?

つまり苦や破壊も必然的な真の肯定成長の為に良い。 又は創造と一体の宇宙が自然として必然などなくとも苦や破壊のままも良い。 又は自身の心のみによりて苦を越えるのでもなく行為によりて現実を変えるへと囚われてでも共生を目指す欲のままにを生き闘うのもが良い。等の何処なのでもあろうか?

突き抜けて超越もせず、浅く享楽的な幸福や共生へ(共生的状況などが正しい目標かも分からなくとも)向けて闘う力を用い、引き減らすのでもなく現状の変革へ行為しては受け入れぬ中で、せめて出来るのは尊重をもっての理解や共有への為にも真っ向から本音や意思をぶつけあうような生き方などでもあるというのか? 又はもし受け入れて自身のみの変革へ向かい自省し自己制限しゆく日本的な美徳義務性に押し込める事などもが例え、そこに反動を生んだとしても正しい在り方への道とも成りて在るという事か?

仏陀的な感性への響き方等へは真実性を感じられてもしまうし掘り出され検証されて来た質の高さへの信頼や尊重もが得られてはいる常に立ち返り戻っては来る知恵の基礎としても力強くはあるが、しかし全てを信じず自己において問い疑いて、この現在地においてもの到達であるかへの適合や統合を観察してはいく事の意味や意義は私や現況世界の必要としてもの必用と感じられてもいるのだ。