junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

101 8/3 (sat)~

101 8/3 (sat)

愛となれようともなれまいとも私への必要は起こっていくように、世界に良いも悪いもない。 只、自分を越えた、流れだけが在る。

成されなければ成らぬこと。から、成されなくとも成れること。の生活と基盤化へ引いていく。 あとは何が起ころうとも余剰分程度に受け流してはいられるように。 しかし捨てながら方向や理想も認めると、そこへの自身へ歩める代わりに欲求と囚われも肥大する可能性が残る。 ならば徹底的に如何なる方向を認めず捨てているしかないのか? では捨てる欲求を如何に持つのか? 茫然自失となる以外に何の欲求も持たぬ状態は実現しないのであるならば、そこへの欲求のみは認めるというのか? もしくは全て他の欲求も認める又は、もう少し欲求の範囲を拡大させるも良いのか? それらどちらにしても結局は現状に顕れる全てと各自の、自然に成るへ任せ為されるしかないのは一つの正解だが、その在るがままという答えは範囲が広い故の便利さだということも人々は良くは知らないで使っているようだ

如何なる浅き判断(の強制と可能性の破壊)も認め、そこに違うと感じる自身の選択も認めて良いと思うが、その在るがままでの欲を認めず欲を減らすという欲求方向を目指す在るがままとも引き裂かれて在るこの現状自身が在るがままを生き逝きて、ではその欲望の何処を認めるというのか?

気持ちでは捨てて、行為には試すのか? それとも如何なる積極や自身からの動きや働きかけを止めるのか? しかしそれでは起生された現象を受けて行う自身の選択において一切を行わない以外には、その行為選択性と欲は範囲が違うだけで残りてしまうのだが。 つまり自身からの積極を止めたとしても結局は何かしらの外因に対応する選択と行為への自我と欲は残るのだから、欲を捨てない在るがまま,気持ちでは欲なく捨てて行為は試す,自分からの選択は全くになく行為をも置かない,欲は全くになく周りからの現象にも一切に反応せず自我もない状態(となるへの欲)等の何処の欲なら良いというか?の度合いへの選別の問題でもあるという事か?


捨てて求める、つまり肯定によりて肯定の現実が回り受けられるという自己利益への意識の使い方でもなく徹底的に全てを捨てる欲求方面のみに愛も苦もを解き放っていける無意識,無我的恍惚のみへ現世の苦しみを使って近付けるのか? しかしそれは難しき道であり、叶えられていない時には結局また惑う新たな欲の意識づけにも過ぎない(それのみに過ぎないわけではないかもしれぬが)のだ。

仏陀が説いた正しきという基準を見い出せても出せぬとも、それもは即ち形を変えた(その欲求によりてこそには救われる唯一の許され得る又は望み得る欲求であったとしても)欲求と、至る為の又は至れぬ時の惑いと苦しみを内包した手段であり、もしそれしか方法がないのなら結局どの道も苦行でしかない(苦行の中での、まだましな道はありえるかもしれぬというくらいの)非情な生と選択肢もない修羅の世の道での(死ぬも苦しいし、死ぬでなければ)生きる事の強制でもあるのか。

仏教的な(仏陀だけでもなく)思想への展開には深い知性と潜在的高さからの存在が在る故に真実的だし近いものと感じ震えもするが(凄く参考にもなるし真実だ。と感じ得てもしまうが)それだけが真実であるかは分からないのだからこのように止まらず(中に入って従来に従う事での経験を語るだけでもなく、自身の思い付きに引き寄せた浅く新しい真実を説く新興宗教やスピ系の多くのようでもなく)この作業が結果無駄でも真を求めて覆し続けるのだ。 それが欲求でも、これが私化された世界と各個の中での私への性質と形。 暫定的だとしてもその在るがままを認めて、どうにも惑い苦しき道でも欲求される私を生きて、私は真へ向けての私を尽くされている。

その独覚性に尽くされて、そこに見会う分だけの知性は与えられているに、例え能力や可能性を追わず性質などの自己根底をも破壊,解体するのだとしても、私はその紡がれる私のままにを生きている。 しかし私の本来と未来に繋がれる可能性は只、お任せしていく唯一真実の実在宇宙に託した帰依の道にも繋がっているとも思われるのだが、その自らによって何を掘り出さず至らなくとも又はその両輪によってもに帰決されていく在るがままの姿で自身を越えて自身を行為す統合と放棄のバランスは取られてゆくへ至るを信じ辿りてもいる。

何処にも帰属せず誰に理解もされぬ真価でも、私は存在を只独りでも変換し、唯一真実に帰属する自在を私に灯すのだ。

/4 (san)

それは"なむあみだぶつ"とも言えるような全一の光と、そこに在る人間感知的な愛の充足にも触れていく事でありながら、では世の物理現象への現実対処や選択判断への感知、そして否定面も合わせた統合性への提起や自身の置き方などの在り方は如何に在るべきかであり又、世界の在るがままを認めて手放しゆくのか在るがままの故に欲も惑いもの自身や対抗もの起こされるままを生きるのか?等の在るがままに放り出すことへの定義。等の関連を統合に結実させていかねばならぬ。

そして他者の浅さや破壊も、世界の全てがそのままで良いに放り出され関わる必要もないのなら、その理由は全てが自己越えた完全性に為されているという必然の根拠によりて見い出されなければ、やはり(必然などなくとも全てを肯定できれば望み求め囚われる事もなく、それのみでありても心一つに救われるが良い。というだけではない)証明が必要なのではないか。 その証明が出来ねば(実感し入る事は人により出来るだろうが)全てを肯定し任せ関与も選択判別も自我想起もせぬというのは実に生きている内に苦を減らすには、そうするしかないからという手段なさによる消極的理由としての幸福実現方法としてのみ残るが、現世での生きるという事には、そのように諦めて他の理由づけもなく只、肯定するにしかないという幸福の叶え方くらいしか残ってはいない非情さなのかもしれない。

この流れの研究にも見ているものは、必然的連結性の実感にはありても証明は出来ず、とりあえずその根拠なき仮定を取り入れ生き易くしていく事は勿論に出来るが、私に求めているものはそれではなく、これが真実だとも言いたくはない。(その可能性は提起し得ても)

魂も未来も次元階層も、それらからの連動もなく只、今この私だけが世界を生み起こしている主体同士であるのかもしれぬが、(そう思って生きる事は間違いではないが)しかし私が決定し行いて行くのだという事へ力使いて生きる在り方だけが全てなら、それは或る意味に希望的だが私はもう疲れており自身の選択決定と関与の労力で世界や人為に渡り合い行為によって創っていくのだという在り方は無理であり私のような弱き者は(必然の流れからに為される在り方とは、それ故の逃げとしてではないが)どちらにしてもその中では生き延びていられない。

それでも理由づけが為されなくとも、もう残るのは他力本願に起こされるままの全てを認め充足するへの唯一の依存先ではあり(消極的幸福手段や立ち向かい行為するは出来ぬと諦めた故の逃げでしかなくとも)自身を灯さず 、任せてしまったのみの自身を灯す事であるのか? しかしこの独覚性質の私も、そこに起こされる在りのままからのものであるように、何処における欲,選択,在りのまま等の基準値を取るが良いというのか?

全ては只、無。である空性本来と自己源来の認識知覚へ至りゆく処から如何なる状態の現色に戻り来ては関わるのか?の真実や統合(例え真実などなく、ありても共有とはならぬ意味なきものであったとしても)の(普遍的)基準や共通の可能性を探し選ぶ観察の道にありて繰り返し問い宿り流し去りながらにも変換されていく私が在りて、そこに進化や意識の目的や必然的進展性があるのか等は分からなくても、この意識と知性に起こる自我と私が必要を為されていると(それが真実的で正しいか。ではなく世界の形の一つの役割,在り方として)感じられてもいるし、これが今後時代と現代の人類の為には立ち会われ知られていかれなくてはならぬ必要ではないのかとは思われている。

又それがありて自動的必然にそこへの連関が起こり全体が流されているなら、この私の生起運動に意味がなく自動に為され、又この私の運動はその自動生起運動の一端である両通に興されている故に私をなくした無関与も私のままでの関与も、その積極も受容のみもの全てが良い真実ごとの中での何処を採るかの旅路を辿り発見に至り来て今は再度分からなくなってしまった問いの生起体のような私でしかない段階も、この新たな進展の再結線の行方と過程の一体なる現存なのだとも多様中の私を進む。

Tibetなどの深き観察と哲学的帰結の説明と思索や体感や問答によりての実感を深めるだけでは(それは素晴らしき道であり、統合的知性へも真実性へも近くもあるが)私は(幸か不幸か)現在そこに属しておらず抜けた外部者としてに見えるものの探し方に見る事が出来ている。 彼等のはもっとストレートに至りゆける道だろう。 しかし完全に正しい唯一の方向性や道かは分からず、私は(意味がなくなるかもしれぬとも)次世代世界の誰でもに響くスタンダードと適合を見い出す道に従事し尽くされている。


苦も全てを受け入れられるようにするのではなく苦の外因なき幸福に生きられるように求める欲でも良いから、ひたすらに只すがるへ試していく在り方も選択は出来るだろうが、つまり自身は関わらず又は自由に関わり、その全てを(思い込みであっても)自身を越えた放棄に為されたものとして無責任にも託し上げ任せながらも、現実化への欲には叶えられるという御都合性へ欲するも良いというのか? それでももし超現実存在の神や次元越えとの連関への関与が出来るのならば只任せるにすらありても、その観入による流動波動の状態と合致していく事により(思い込みでも浅くとも)その現実化力を使え自身欲への操作も用いる事が出来るならば、その現実実現物理幸福の欲により享楽的利益の共生的結果へも導かれる事が出来、真実への本質的高さは否定されるかもしれぬ進展過程を逝かれる方向であれば良いというのか? 到底そうは思えず、それを否定しても来たのだが。

神なる宇宙全体は進化的動きへの全体を催すだけで、こんな我々のような小さな知性種の考える事や悲劇性を救おうとも思わないだろうが、我々も身体内の各細胞の想いや生き死になど気にかけぬとも全体や自身への働きの為に調整を取ろうとし結果的に或る部位を救ったり殺したりもするように、そこからの突き上げや運動は全体巨大な不可能関与性に思われるものへも影響への相互を起こすのかもしれない。 ただし世界の全ては連関にありても、(我等が遺伝子や細胞や全世界の量子的位置を決定も 把握もせぬように)各役割や性質的動きが階層ごとに行われていくだけで、それを全て把握している存在や知性が居るわけでもないのかもしれないように未来過去全て決定されていると同時に、誰も全体管理者はいない中での 動きを起こしていく自分は完全にfreeな選択行動体(勿論規定されあっている中での必然的事象は起こってしまうが、それでもそこに抗がい流れなどに従わず自身からの流れを生みおいていける宇宙への関与ともなれるのかもしれないという面と可能性において)なのかもしれない。


何処におけるBakthiが、私の突き抜ける道となるのかも分からず、しかし問われるだけでなくその先にはきっと私にとってもの(納得により成長を留めた歩みの結果ではなく)結実点が宿り来てくれるとも思いての私の道を行ってはいるのだ。

もうこれは、気持ちからの欲でもあり交換原理だが私は愛と光となるので、もう人為からの浅き判断や否定を私に与え打たないで下さい。と祈りお願いしたくもなる。 お任せしながらに自身の方向と選択を何処にとるのか問いては、真実へ達せなくとも求めては近付く。

助けてと心叫びあげてしまう日常に自身が化され変換されてしまった。 それでも、どうしようもなく、自分でやるしかない。が、あまりにもそれは起こらない。 流れに従うへ乗らず無理してでも打ち切りて自身意志を行為化させ押し通すのが良いのだとしても(観察の現在結果においては人々を見ても無駄と破壊ばかりであり、そうであるとは思えないが故にも流れと最善においての世界との深い部分での流通に繋がれ求めても来たが。)その労力や無駄は現実的に今の僕には選べ(なくて良かったが)ない。 映像も創作も立ち会いながら放り投げ任せていくと同時に自分で成さねばならぬとも知りながらも、それはどうにも選択不可能なのだから(積極的な流れの交流によりて肯定現実化もを催す事や、又は流れの操作権を得る為ではなく只この世の生起の深い処からの起因と根本,本質的な現実に触れていく流れ化だけでもなく、消極的な諦めの意味においても)流れに従いゆく以外の選択肢は無いのだとも言えるか。

そのように為されるしかない事を与えられていくに納得し流し去るへ生きるしかない非情もに覚悟して為されるのみを無関与に又は欲と性質方向のままにもを為しては、為され来た世界も人為もの全てを受け入れなくばいけぬのか。

しかしこんなにも労力かけても無駄になるし体力もなく労力もかけられない現実的に今もう死ぬか叶うかしかなく死なぬを選ぶなら少しでも現実が叶ってくれないと苦しいのだから、望むのもは不可避でもある私の可能性と行われ方の良しであると言っても良いのではないのか?

ならば欲望なく受け入れる欲望と方向への 思想や選択基準でありながら、現実化の欲望へもの自身へ流され行うを選ぶ(怒りや対抗も創作への闘いも交流への対応も)を良しとし愚かで浅い判断づけの人為破壊も良しとして私はそこへの否定も恐れず力での対抗を持たらすのも良いし(大体の自分には、そうではなく押さえ込む選択と、否定(判断の浅さと一方性)を感じたら対応し指摘もする程度が自己性質の現在段階での自然結実点ではあるようだが。)しかし、全てを認めた故にその少しの欲望や許せぬ怒り等もが肥大され引き付けられてしまう可能性も仕方がなく良いというのか?


もう愛への変革もが辛いなら、消極の必要不可避な理由によりてでありても、自分で変わる事も放棄するお任せでありて、では諦めの理由からではなくとも自然に殺されるなら良いのに、人為からによりて殺されたくないのは、その浅き判断の一方性という強制や破壊への囚われや人為は変えられる希望があるからでもあるからなのか? ならば、その人為も自然や又は必然においてもからの一部であるままに良いのだとしたら(必然であるとは、そういうことでもある。)、そして人為を起こす人間自体へや、その者の背景などへ理解するのなら、罰則も奪い返すもなく怒りもなく生も死も越えて只、慈悲によりて受け取り赦し対応も返さず自身の意見というような世界の一つの可能性の私化への顕れの形であり多様と関係の意義でもあるが判断でもあるものを挿し込み伝える事さえもを為さず、ひたすらに為されるへの肯定と充足へ向かわねばならぬ非情の無上と孤独へも突き越えてゆく生を止められぬならば苦行のような幸と喜びへの道ゆかねばならぬのか。 それ程までに世界は厳しく辛いのか?


欲も仕方なく、そのままに良いのだとしても結局それが果たされなかった場合には、やはり又も折れるのだから欲望は減らさなければ幸せになれない。 ならばでは生の全てが欲ならば、死に抜けるか死んだような亡我に抜ける以外にはないのではないのか?

8/5 (mon)

苦しみなく成長したいというような方向性も欲であり、それが揃わなければ満足な状況には至れないように、余程に奇跡でなければ生は何処まで行っても苦しみではないか。 生存は既に奇跡だが、その成果を味わうだけではなく各々の働きと連結の個体的総体での私が、その働きを起こすのは何かその生存をもって行い尽くし働きかけるものがあるのではないか? その為の生命を持ちての道をゆく存在の状態と、開花への味わいの知性や交感を逝くのではないのか? ただ在ること、だけの根本,本質的存在性からの生存の意味合いは(意味などがなくとも)、そこにある生命に与えられ起こされていく宇宙と自身への在るがままを為し為されてゆく事ではないのか?

では何をも捨てて唯ひたすらの生存のみに充足しあるならば何が叶わず殺され拷問のように苦しみと痛みに生かされてすらも、心の感情と判別が伴わず自覚的意識すらも放り出していられるのが良いというのか? それが人間か !? それともそれを叶える為の苦しみと、人間か? そんな植物状態的な無判別無反応に宿る恍惚的幸福,快楽,歓喜は人間的知性と脳力のある故であり、確かに只の植物や無生物的無分別とは違うが、この苦しみの世と生死を経て全てはそこに至る為(消去法的に残る幸福の唯一の強制的な至り叶え方として)に生み出されてしまった非常に無情な、そしてほんの少数しか到達出来ない(自我を経て自我を全て殺し、しかし生存には留まり生理的欲求とのバランスをも採らなければならぬという)難易度の高さと意地悪さにも生きるが唯一の道や真実や 生命意義であるというのか?

では自我分別を経なくとも直接的に無分別無判断だがその肯定を味わえる観察交感の知性面だけは伴うというような状態が、もしこの意識の在り方に可能なのだと分かりその道が出来れば、又もしそれが出来るなら、非知性体へその悟りの歓喜をつけさせるへ(各生命の意思と多様の実験の行方や連関性も関係なく、それが出来るようになった進化種の役目としてもに宇宙への悟りと共生を持たらしてしまう事や又、それは技術的人間改良の思想や方向とも同じく)
改造する事も出来たり、それが愛と共生の世界を起こし仲介する媒体種となる目的としても正しいと言えるのか?

生きている以上全ては欲であり自我が悪いわけでもないのに、物はその自己(環とも言う環境の外部とも共通,流通環部分でもある)の拡張ではあり物質との関係や交感も良いというのに、そして囚われ判断への苦しみに生み起こされないのならば感情も歓喜充足(の側面である愛)を味わう事や、そこへ向かう為もの道具や必要でもあるのに、それらの過程もそのままの状態もを無くしていってしまう事だけに意味と苦しまずに済む救いがあるというのか? ではそんなにも辛く厳しく狭い道であり、そこへ至るまでの個人や種は多大に欲と破壊と苦しみを味わい続けるのだからにも、人間や生命は殺されるまでは自身からは死なず生きたいと思うものだが、そんなものは人間的分別が生み出した垣根ではありて、魂や輪廻などの理屈付けが証明され得ないならば、自死に抜けていってしまう事が(宇宙の進化に繋がっているかも関係がなく又は宇宙の進化としても)諦め認め受け入れてゆくへもの最短と目的の一致なのではないか?


人へ何が出来ると等も言えない。 苦しみでなく成長出来る道を求め又、自身を常に振り返りてはいても実際に苦痛が在る故にそれぞれの成長へ向かえる効用や必要も感じ知りている窮すれば通ず、必要は発明の母のように只、気楽に立ち会えて行けたらば良いとも言えず、しかし苦痛や指摘へ結び過ぎてもいけず、それらの何処までを伝えたら良いのかも難しい。

例えば子供達に何かあっても只認めて抱擁するだけでなく、だから気をつけろと言ったろ。みたいに、(気を使いながらだけど)その人に必要かなと思える事は言ってしまう事とかも自覚はしており、しかし期が起こり有る時に必要と感じられたものを(そこまで否定的に捉えられる程の過剰には伝えてないと(多分)思うし)出さぬ方が良いのか? どちらもがある。中で、そちらの面も伝えありてはいけぬのか?(或る意味そこでも嘘が苦手なのだな。)

存在としては愛となるへの祈りで包むとしても、それ以上に他の行為に何が出来るかの言葉も関係も全く難しいなら、こういう楽観的方向へ人とも響く良いものではない声や思考観察の過程などもを人にも世にも言ったり出さない方が良いのか?

与えられたものは受けるしかなく、世界の悲苦を背負って歩むは学びと成長になるし行いても来たが、そして愛と苦の両方にありての統合を目指しても来たが、やはり(特に日本に居ると)苦の現実が来る事も多く苦の状態の心が比重としても日常化してしまい、もう限界にもきてる。 心と内面への立ち会い以外に新たな方法とアイディアも考察し試してはいるし、旅や金へもの創作活動と、その為のプロデューサーにしても拠点にしても、少ないながら出来ることはしながら出会い待ちをしているような状況ではあるが、全然来ない。

引いていく在り方で放り捨て、けれど方向や叶う事への欲は持つを選んで来たけど、いい加減に現実化してくれぬと生きている現状が苦しい事や、駄目な事ばかり言ってしまい人へも悪いのだが、どっちを行っても駄目。な事ばかりで正直もう心が折れていて、とても希望を持って楽観的に思考してられる状況じゃなくなってしまった。

だがそうした苦しみからの世への声は(他者関係依存による癒しの為ではなくて)吐き出されなくて良いというのか? それらをまとめた声が歌詞には託せるのだろうが、まとめるもは(試してはいくが)やはり難しい。

もう現実化してくれないと困る私においても、そのお陰でこの現状は又も必要な感得観察の段階へ入っているように、今はひたすらに書いて先ずはこれを世へ出していく為の期間に期せずして生きていたのかもしれぬようにも捉え生く事は出来るが、良い因縁はなかなか回らないし、(自分が愛となり送るは出来うる自身状態にも合わせて行っているし(足りぬかもとはしても)自己の変革へ生きているのだから、(それが駄目なのだ等と鏡の法則を持ち出し判断し来る浅きスピリチュアリティ系にも辟易だし困ってる。)こんなにも業火に焼かれ苦しむ世から卒業したいとも感じてしまう。


ポジティブな覆し方は例え浅さで間違っていても考える機会を与えてはいるかとも思ったが否、それを受けても人は、そうだ。か、そうじゃない。の自己判断づけのみで止まる故に、考える機会を与えてもいないならば、やはり浅き肯定ではならぬ指摘,否定,対立も恐れぬ対応力を取らなくてはならぬのでは?

自己正当化の意味,説明づけではなく、しかし全てが良い中で起こり選んでしまった自身を肯定,納得させていくにしかない面はあるとも言えるが、思い込みで引き寄せ留まることなく振り返り次の成長へ繋げる事は出来るのであり、それらは別の物であるを伝えゆくは大切と思われるが、しかし如何に思考し整理されたとしても、それが真実であるとは限らないし、とっさの選択性が起こり積み重なるばかりの人間的反応には(それも意識で覆していけるのだが。)理解も意思も方向もは少しの作用としかならぬにおいても、あまり意味がない。 又は完全に自身を覆すへと結び付けていく事は出来ない(可能性は少ない)とも言えるのならば、自己による理解などすらもの必要がなく自己正当化肯定も全て良い肯定の上に気付きと理解を得ていく事への分別自体が必要ではない、愚かは愚かに合わせ、それで良いというのみの対応無関与肯定となるべきなのか? (そうは思えないし嫌だが。)


肯定と否定,光と闇などの全包合を肯定において、その判断なき歓喜の感情面を愛とは呼べるが、感情すらを越えるなら愛ではないと言える。

また愛のみでありては否定なくて良いのか愛という上位づけでの判断は良いと言うのか?

光というのも同じくそうした便宜上の概念への現在信望でありて、光でも闇でもなく光でも闇でもある。を粒子振動のみがある全一状態からの比喩的想起としてもに光と呼び想起づけしているようなもの。 それはArtmanと言われる自己と繋がる世界の根本性を想定して近づけた時の手法に意味はあったが、狭く深い範囲では漠然とした定義でありたというようなもの。