junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

169 1/1,/2,

169 1/1,/2,

私と世の光と愛,真の幸福,最高の歓び,自然の開花,自由な遊び,共生,調和,全てが完全に生かされ為され果たされ叶えられ輝いています,ありがとうございます,

世界の真の幸福へ,私の生命が最高に生かされています,なむあみだぶつ,

呼吸にもオーラ(チャクラや周天を含めたイメージでもある後光や羽や蓮華状の流動エナジーの流れも、又は宿すことも出来る幾何学的結合の状態も)意識により拡大されていく私,人々,地球,銀河,超銀河,宇宙同士のmultiverce的な光の連結帯泡,光と暗黒の両方の宇宙と集約の光,~流動の形化,粒子,細胞,全体を包む光のみ,の包括の光体(全である、あみだぶつ)の私,へと戻り来る、私に世界が揺れている光と幸福化へも繋がる意識のみへと体験と手段を身に付けていく意識の澄むへ済んだ状態化段階と味わう知性への到達を生く。

光と幸福の体験状態を呼び起こせていくにもよりて私の根底と意識はそこに既に繋ぎとめられた。 その既に時空を越えた超越の光と存在が、この時の場所と身体に動いている私という(人間でありながら神意識的な存在と場であり、現実や生体でもありながら悟りにも在るような融通無碍,無限との共通の中に)ゆっくりと(生命の現場を)味わいている。(を感じるに生きている。)

何を起こそうと行為しなくとも自然に最高に現実が起こりゆき、相乗も尊敬も価値も伝わる創造と関与など世界への現実性への反映もは(自身が上位優位意識によるものではなく、徳の高い奉仕者たちの安定とは違うかもしれぬとも)都合の良い解釈かもしれぬが、私のままに為されるままで在りてもの必然が起こされていくにも任され、そこへ為されるしかないであろう非情への諦観と同時に、選択にも宿る意思なる私の為されるべきを為すという私を越えた流れに流される事と、そこへの方向へ関与する性質への生存を生きるという両方もの勝利が有り得るように、最少へと為される事と最大限度に為そうとする事は同時,統合的にも在り、私における聖者であり創作者という在り関わり方を自身へ突き抜けながらも他者へ奉仕し適合ともされていく在り方の灯され方と(結果は通じても知らねども)歩むしかないのならば歩むもが良いのだと生きてしまうも良いのだとも私は生きる。

痛みや苦しみも味わえる状態の一つだが、それを望まず無くとも良いように至りゆくも良いという方向には私を得られ導かれ、(そのままで良いが方向性を取り入れるという説明の、分かり易い言い方としての"これで良いが制限せぬ"。があるように)こんなにも肉体的制限の私だがそれを最大限にも味わい楽しみていく現在という存在の場と生存の質だけが在る。 そして余裕や放り出しておく為にも現在の未熟な私と私を成長させていくだけがあるが、しかしその過程での対応があるどちらもの良しである。

私ではなくても誰もが本当は至り歩める道ではあり、観察への時間と真実への生命を向かわせた方向のみが必要であったのではあるが、そこへ私を歩ませた方向(という進化なる変転への意識,知性,自個による選択に行き会いてゆく交感生命の関わり)のように方向への性質が起こされ行われる為の資質とは必要であった上で結晶化ともされた性質の私とは、この現世界の一相面での真実を解き明かすへの働きへの結合の紡やぎ。

流れ~flow~とは流動の状態の生み出す時という流れ化での連結された現生的状態の私たちを越えた完全性からに繋ぎ停められてしまったものではあるが、現化された私たちという既なる世界全体の自身とも一体であり、制限された私を越えているが既に現制限次元の私がそれを生み起こす流れへの関与体である同時には在るのではあり、その連結の(速度はslowにも時に早くとも、辿るのは最少でも過剰でも)流れ自体に乗るように奏でている状況が如何に潜在的にも深く居られていくのか?が問われていくflow状態の意味と質でもある。

一人となり立ち止まって(風呂のようにもrelaxし)解けていく時間や状況を自身へと持たせている事の大切さと同時に、しかしそこで何へ立ち会うのか?が大切な中で、(weedなどのような自己本質へ深める脳の領域や回路の繋ぎ使い方の変容の体験を、ただ気持ち良いrelaxや消費的娯楽性だけではなく本質への精神の持たせ方として使用していく事が出来る可能性への大切さでもあるように)自身との対峙を深める瞑想の効用と必要などをも、もっと自身と日常にも取り入れていなければとも感じながら、しかし既に離れず日常化へとも身に付いた私の段階を世へも解き放ちてはいる。

(こうした自己状況の説明であるへ繋がりた以外にも、その真実へ深める問いと提起の発現は同時に既に此処にも行われ置かれてもいるとは 説明しておこう。)

良くも悪くも判別は出来ないという意味で判断などは無いし、全ては平等に神と奇跡の体験だが、その神秘や美しさを味わう為での過程と結果には意識の使い方の側面である知性や判別が介在するへも在る。

1/3,
脳の開花,腸の共同,遺伝子の変換などのように意識と(のみではない)、全身の目覚めを私に行う。 次元を越える融合的到達度の知性生命存在へと進化しゆくへの変化の道を辿りている必然に例え我等の行き先と過程の現在が有るのだとしても、それらにも依らず減らしていく事で達せられる生存の味わいと全体総合流通の境地への叶え方は常にも全て(の仏性)に既に在り、それは苦や制限による修行ではなくとも享受的な楽(つまりは自身の創造的な遊びと同居の一体,無分別の消費者自身自体を生く事)であるにすらも叶えられゆく可能性は在るが、だからといって、この生体的な生存の(動物的とも言える)能力開花の歓びを捨てた快楽や便益性のみに至り委ねていっても良いものなのだろうか? 例えそれが不可避な必然的進行の行き道(それが正しいかも分からぬが上位次元者からの関与に規定されてしまった連結である可能性によってからも)であったのだとしても。

意識のみの働きと意識という作用に拠りて悟りの恍惚,超然,肯定の歓喜自在は叶ふるが、意識のみへと頼る依存や肯定や愛で在り自身の実現へ楽しく向き合い現実利益と幸福を持ちて生きゆく事にも、取りこぼされ置いていかれ利用へ吸収される面もは有りている事を知りての肯定的吸収は大事だが洗脳(例えそれが結果的に正しくとも又は支配や抑圧側の力の使い方には、いつも正しき中に誤用させる反対方向性などを潜ませられて来た故にも)されぬようにも気を付けていなければならず、だからにも例え高次元的知性存在からに言われたからといって如何に真実に感じられる事にへも信じてはならぬ基盤の上に自身で考え感じ立ち会う事が必要であるのだ。 所詮こんなにも制限された存在の我々には、そこに答えなどが出せないのだとしても。 そしてそれを肯定的に感じなければならぬから信じ行動してみなくてはならぬ等という操作を挿し込んで来る者の言い分に対しては、僕は(それが全ての人にとって正しいかは知らねども)一応は疑いている距離を(判別の心であり未一体であると評価,否定され責められるかもしれぬとも)おいて観るに立ち会いてはみるのだ。 だから観じなくばならず遅くても、この歩み方を私には必要とし又、仏陀の(禅のとも言えるが)疑えという基盤スタンスや、そしてあくまでも(各自の能力や段階などに縛られていたとしても一人独りが自己の歩みと道程をゆかねばならず)何処までも自分一人のみしかないのだ。という面にも、共感と真実への信用を感じる。 (そして幾ら本質,潜在的な原型や物語を宿しているものにも信じよと強制し来るものへ,<
(この文章朗読,録音,此処まで),
>

(そこにも学ぶが)私は信用を置かない。)

だからにも例えもし宇宙(外来)的知性存在からの声やguidanceが聴こえて来たとしても、それが正しいかも分からぬのだから(ヒントにはなるが本当かは分からず、何かの意図隠された上位段階からによる操作かもしれぬによりて)答えを教えてくれたのだとしても結局、問うことは僕にとって同じなのでもあり(又はその状況になったら、その経験を基準として取り入れてしまうかもしれぬ可能性の故にも私は)、何も聴こえなくともの人々に同じく(ブッダゴッホものように)流れに触れゆく作業を浸り見い出してゆくのは、あくまで自己という同士のみでしかない生き方だけが在り又は示すもが出来るものなのだ。

しかしそれをゆけぬ者が簡易に技術で叶えられる仏性開花の結果を得られる又は仏性などでなくとも(つまり現生的幸福も真の幸福もの)快楽便宜の現実実現をも得られるならば、その平等利益を能力,役割主義にも取り込まれずに求め行われる事は何故に違うと言えるのか?

知識は精神性を持たらさなかったが、それは導き方や教育がその方向でなかったからだけでもあるのかもしれず、技術が精神の道具ともなりて開発,進展されるのならば、それが何故に良くないと言えるか?

愛の方向へ生く事のみが在れば良く、世界を変えようとせぬとも自己と意識変革一つの生き方だけが在り、自己に感じられる創作や行為の喜びによる生存を生きていくのみだという言い分が、愛と放棄が全体性や電子的融合の夢へと生体と味わいと開花の価値を失わせ、自身へと生きる事が世界から目を逸らさせ、又は自己のみを生きるという実現の欲求を肥大させていく動力へと吸収させ利用されていくへ繋がりていくのかもしれぬのだからに、やはり幾ら正しき統合地でありても(方便的に断片や過程を表出する事は有り得ても)一方のみへ偏る事は出来ず、そこには統合への取り出しと、そこの為へもの説明というものが必要とされているとも感じられはするのだ。

故にも実現の欲求と潜在的自己本質からの感覚の判別できぬ未分化にありてもの選択による流れとの立ち会い必要と手段が必要な過程として有るとも言えるのだろう。

私の観じる能力は統合へ問い結び着けようと働く性質と効用を持つようにも感じられているが(これは為されるしかない非情であるのにも関わらず、結果は知らずとしても何とも恵まれた道を与えて貰えた恩恵を有り難くとも感じる)IQは108であり平均的な知能でしかない(しかも狭く極度にではないが分野集中されている)多少の分別と知識的な網掛けを用いているに過ぎない、(このcpuやmemoryが空いてあり計算速度がは早ければ、もっとall mightyな活動にも成り得たかもしれぬが限定的でも最少の方向や在りのままの生存を希求しているのだから、これで良いのだ。と有り難く受け取る。)そして如何なる優性的な血脈でもない事の(血統の意味や結合の奇跡は勿論にも有るし、それとは性質も環境も等の諸条件がその者となる為の必要であり、その各自にしかないものではあるが、知能指数や文化的な吸収の蓄積背景などという血筋を問うに拠らぬとも生まれ育めるという)私自体の生存が証査でもあるによりても、この在り方に宿り来たものと価値が分かち合われ通じていく世界へ伝わり繋がればとも私は思い願うものだ。 (そして、万能である方向からは、私は既に抜けている。)

しかし立ち止まる事は大切だが情報が過剰になれば、そこに立ち会う以外の方向性の選択肢が無くなってしまう事(自身の中でのフレーム問題)へと、自分もが吸収されてしまい何も出来ぬ無力化への力を生み、真実などは分からぬ、故にも疑え。という動きのみを生み起こす力へと荷担してしまう事で変革への動力を阻害してしまうかもしれない。 ならば、愛の変革自己への旅のみを生きて観じ眺め問い深め肯定に至れと云う以外の言葉や存在表出が必要なのではないのか?

そして(日本人と他国のように)他者と同じことで抑圧,洗脳されてもいるが、私は人とは違うという個人~自我的なidentity~であるによりて団結の力から削がれてもいるように、自律的個人を目指し伝えながらも同時にどちらかのみへ片寄らぬよう、自身のみで在り自身でもなくという事の単純な真理を、しかし自我などを説明の基盤としなくともに伝える努力,工夫や発明,発見が必要とはされてもいるのだが、こんな僕の制限知性の現在地には未だ至らず見つけられぬではいるのだ。

これら統合への言葉(以外には伝えられぬような)の効用もは、有るとも思われ感覚的な抽出の流出入と相互干渉(テレパス)性だけでは細かで相対的な把握と認識運動の知性に分化された効用を(例え説明により余計に分かり難くなっているも知っているとはしても。)通じ合えぬではないのか?

(1/4)
自己承認欲求の為にも自分は知っていると思い又は思わせ、それを自身は伝えられるのだからと成り立たせ行おうとするような(つまり分かっている。 これが本当だ。という)人よりも、真実は多様なので本当にどうかは分からないねと言っている在り方の方が真摯で正しい存在の置き方であるのかもしれない。と(自分の状況肯定へ引寄せられているだけではなく)僕には思われさえもする、ならばやはりは何が現じたかの外界に動ぜず又は動じながらに眺めては対応し選択と流れに感じ会いていきながらの生存状態のみの現在こそを味わいてゆく自身という生命の置き方だけがあるというのみであり流通(せねば人限界とは表面的にしか関係出来ぬし又は、価値が分かてず伝わらなくば否定されたり軽んじられたりによる現実的な非実現や不利益も多いが、それがタオの弱く柔らかく突き離れている事と超越の充足か?)などせぬとも良いと自身と自身への自然が宿り来るへ立ち会い(しかし操作へ流されぬ真実希求方向への自身自律へも立ち在りて)突き抜けて生く事だけが(静観や沈黙でも又は偏りた過剰でもに在るが)良いと云えるのか。

孤独自体が超越の証査ではないが高く違うからこそ孤独である事は有り得ると同様に高く超越でも孤独でなく楽観的に人々との共有に交わることも出来るだろうが、それはその超越と充足の悟りの表出への性質的な質が肯定と否定の(二元や相極の世界で)どちらもの正しさから何処を取り出しているか?による違い程度のものなのだから、(あらゆる相に質や方向性の違いがあり又、あらゆる質の違いにも多様の相が有るように)悟りの段階にも別の相面や意味が同時にも宿りていることは在るのだろう。 (例えとして愛という相にも超越と自在も依存と執着もの質が違い、超越的肯定境地と絶望の質の違いにも成長という進展への相や価値が在る。というように。)

地位や名誉は人限界における必要的な要請でもあり、それがなければ格差付けられた現在社会や関係の中では弱き得られぬ者とならざるを得ない自己承認欲求だけでなく実利面からにも求められた当然ではあり、それは人間の問題が解決されれば必要なく済むだけのものではあるが現在においては、それを解決する為の発言,関係,影響などの力を用いるへ人が付いて来る為へ(の利益欲求を利用し方向のみを正しい事へ使わせる私という世の転換点性となるも出来るが)地位や名誉を(自身は自身を為し世への価値と貢献を残したという以外に)求める意味もあるへ肯定は出来るが、例え私にそれが為せたとしても現実利益の享受を得られた自分だけが良いとは済まずに、人類や共生文明への創造の力や存在となりていきたい、その為の現在を研鑽し歩いているのだし、又それを私は望まずとも叶うような(地位,名誉,金の実現せぬともの)充足の在り方を身に付けてもいる、それらは同時にも在る。を往く現在であるのだ。

神仏精霊などは人の量などにも関わらず、そこに宿る質に呼応するのだろうようにもエネルギーの流動状態によりて見える世界の眺めにより(本当に視覚的に見えてなどいなくとも)把握も出来うる自身の置き方や意識と存在の立ち会わせ行い方などもが見えても来たりする(推測的認識でもあるが)ように、現実界の見える面からの判断ではなく流動のエネルギーの宿す私に輝くあみだ佛のような質が如何であるかという状態へ関する意識の使用を本質への自己を知るにより目指される方向の把握とも云われて来たものであり、又それを出来たらば私の常時化されたものへ近付けていこうとする存在の現在経過瞬間ごとをゆく成長への過程と味わいがあるのだ。(という結論にはありても即ちが、その経過を飛ばしての知覚や意識,存在状態へ成れてしまえば成長への過程と感得は必要があるか?への答えではないのだが。)

一人の生命には力が在るように、集まって行うに起こる力も場所や時間での波動が分配されるような事も有るように人の多さにエネルギーが乗ずる面は有りて、ではそれは空間に依らぬエネルギー(熱量ばかりではなく波動的な流動の質としての違い)の作用の仕方もは有る(現科学的未証明だが)と思われてはいるのであり、例えば人気とは人々からの気の集約点となりている事でもあるだろうようにも本人の意識が高度であるかに関わらず上手く行ってしまったり逆に阻害力が働いたりする事もはあるのだろう故にも、名誉や地位に付属する利益や影響の代わりに失うものの可能性も有る中で、そのエネルギー的な状態を利用するへ乗じる事や防御的なコントロールを持たせていく事は(出来るのだろうが)如何に(そしてどれだけ)行えば良いと言えるか?(それも能力者との共同関係であったり、魔法であると言う事も出来るであろうが。)

人気という評価状態に付いて来る拡がりや人の創作に乗って行っているだけの役割者へも、浅くとも自信もち編集,集約し伝える事の出来る者の操作や、そこに洗脳される人々へも更には表現も出来ず人と繋がりて行い起こせず何の価値を世へ分かち合う事も出来ずに軽んじられたり否定もされる(という弱者の自分達の代表として自身に感じさせられている)自分にも、少なくはなったが絶望感を感じる中での立たせ学び歩ませなくばならぬ道と途上にはありて、上手く行くようになった部分もは有るが、それでも未だこうした繰り返しの中で生きていかねばならぬのだろうか?と問い惑いながらに与えられたものを受け取りていかねばならぬが自身の現段階と必要なのかもしれず、何が良いかの判断が出来ぬ故にも(判断できるし判断して行うも良いのかもしれぬとも)囚われなくば現在経過の生存生命を味わうだけで良い与えられなくとも 与えられた最高なのかもしれぬとはしても(自身を最大に発揮し生かす可能性欲求へ追われずとも)自身を発揮されるへの必要と未現実化なものを方向としてもに求めるは本質希求のように良いのではないか?

浅く又は本質的で深いが騙し利用しているのかもしれぬ表現の他者と(それは単純な自己表出,創造の達成,充実感や他者からの承認(地位,名誉,肩書き)を得られぬ事からの不利益への抑屈感情(ルサンチマン)などからの情動ではなく故に、為せぬ自身の恨みを先ずは解決せよなどという意見や否定に立たされる人の代弁を置いておく)如何に判別もなく立ち会い提起し対応し、共通の方向への仲間ともなれるか(又は、判別し区別し距離を取り全ては同一だから等という平等に吸収されず俺と貴様は違うし共に世界の幸福を創るへ向かう仲間などとならず否定するという闘いや又は放棄,無関与の対応も良く)又、例えば愛が全てと言う言葉と目標で全体主義を啓蒙しようとしているかもしれぬ者へ、それは本当だねと愛というcode(方向を示す言語)や具体面でもの共通部があるからといって賛同してはならぬように自己を用いて疑い把握に努めていなくてはならず、ではその目指す質方向が違うのに共通部の目標の為に共同するが良いというのか? それは敵の敵は味方というのでさえもなく、共通目標への共同可能性ありとも質を判別し(判別せぬ肯定などと言われても同意へ吸収されず)問い、仲間ともならないという対応の中でも打ち響き合う事の出来る本質の描きを、只ひたすらに自身において見い出しながらにも吐き出し分かつ共通へとも相乗される可能性への進展の基盤ともしていくような在り方が(それも亦良いというのでもなく)統合的な在り方としてもに良い、世界への作用力の自身であるという事か? そして、では言葉的対応にも意味は有ると考えるのだが、それは言葉を越えた本質面のみへの自身の創作性との関わりにおいて、相手が何を感じようと利用しようと任せ放棄してしまった自身のみに在りて為すという対応と行為選択の自在を(具体には放り出すも 言及せぬも説明するも言葉尽くすも等の種々可能性は有り得るが)基盤としていくだけがあるのだろうか。

そして意識が上位で進化した存在で、ならば他の人間が進化への抵抗勢力に過ぎぬのなら殺しゆくも(価値を生み出していないから金も得られず意識して選択できず洗脳される側の民は商品など自己の消費欲求の方向性と自己責任においてソフトキルされていくというように)良いという支配的な上位者観念の自己洗脳たちの思い描くような優性性に取り込まれるのとは距離を置きながらも(只それが絶対に間違っているかも分からず判別も出来ぬが故に私は、その勢力の思想とも折り合う事は出来ぬかもしれぬが対話(する余地が彼等に有るのなら)する事も出来るかもしれないとも思われる。 しかし実際には、そこまでの労力も疲れるしリスクは高いし(例え呼んで貰えたなら参加しても良いか位に以前は思っていた政治と同じく今は絶対に無理だし嫌だし同じような思想を持ちながらも政治的な役割への者が居るであろうを生かされれば良いし、そことの交流と成り在れば良いというようにも)その役目は負いたくないのだからにも、そうした行為へ化され課されなくとも私の楽と自由でも上手くいく設定で居ようとは思うが)、こんな愚かな人間たちの現在と悲哀を哀しいと思える分だけ私は未だ正常だと思いている事は出来る。

それは、全てを疑い気付き洗脳されずとも自身の意見や提示の意味合いも最大に為せるのか?は分からなくとも、彼等のような愚かな者は殺しても良いという愚かさからは身を引いて立ち会いている事もが出来る基盤の私には在れている。 そしてでは如何に、どのようにしてそれらと関係する事が出来るのか?という対応への想定と戦略の設定においても巡らされて来た考察ではあったが、しかしそれとは何度も既に繰り返されて来た身近者との試みにさえも通用しなかった分かち合いの無意味さを知りており(それは現在地点までの結果ではあり最終結論ではないとしても、では例え今後に上手くいくようになったとしても、それが正しい道であるとは言えぬ事を知れたという経験でもある。)分かり合えぬが基盤であるのだから分かり合おうとなどせぬと良いというのではなく、分かり合えぬ異質自己同士であるを知りながら、しかし如何に分かち合い相乗や共生を創り得るのか?(その関係内では作れなかったとしても、関係を打ち切るしかないという創造方法の結論が有り得るのかもしれぬとしても)という方法を問いているは正しき問いとも私に思われてもいるのだからにも(例え結果や究極真理はそうであったのだとしても、分かち合いや共生を投げ出せば良いなどという一面からの人間判断の側面には)洗脳されるなという方向をも(それが無行為や反対性だけを生み起こしてしまうかもしれぬとしても)私は示し置きてはいきたい。

では自身のままでの自然な共有関係の相乗ばかりへ上手く行かぬなら早い内に捨て、上手くいく処と行かぬ処の折り合い点を採りての利益と不利益のマネージをしようとさえせず、そこでの過程と成長を取らなくてさえにも独個生存と共鳴可能性の利益中にだけ暮らし、しかもそれでも意識と存在の成長も出来るとしたら、それを人類へも自身へもの方向として設定しても良いのだろうか?

自然があり良い場所に住んで又は泊まり、良い飯を食べて温泉とマッサージとsexもあってherbesも用いるというような、生体交感も共有も共生も成り立ちている幸福であるもは人間の享受享楽の在り方として、それだけでも良いのではないか? 気持ちよくほどけ達して生き暮らせるようになれれば(宇宙の進化にも関係なく、又それだとしても)知性により深められるか?も、その為の苦も成長もは要らず欲望を肥大させぬ生命的な文明の到達のみあれば良いという事でもあるのだろうか?

もしくは生体的にも遊びたいし自然な共有もしたいという本能的な欲望にもとっての(自個だけでなく家族の価値を普遍でなくとしても求めるようにも)理想象を描いてしまうというだけのシンプルな関与と創造性が有るのみで良いかもしれぬとしても、僕は真実を見つけ出す事に(これは執着や欲求だが)優先として、探求の意味として(結果に意味がなくても)にも求めてしまうし創造以前に生命交感の最もなる楽しみ方でもあると感じ、その価値や方向を創造し 得たらと想起されてしまうのだ。 それら究極へ達した答えへ達してゆくへ生きるという生き方と、その価値や道の創造へとも自然に展開されていく事を優先にも求め、しかし同時に達せられておらず表面的には深められた伝達価値であるかもしれぬ共生などの価値方向や人間生命的な理想を描いてしまうこと。や、又その内容説明伝達性を言語外のものへ託してしまえるかどうかへ対してもの超越的で流動的な本質状態の流れや本質に近くとも見えず数値化出来ぬ(今の処は)ものを現実人間世界ともの流通の仕方へ転化する方法を探し続けてもいる私ではあり、これら思考へ置かれ換えられた流れの連結性は説明に過ぎるし過ぎぬとはしても生命や流動の情報は(現在の処は)繋ぎ方によりて価値を持つのだからにも、私にはこうして言語外のものへの言語的な 理解や発見と到達性(そのものの究極状態へ至れているというわけではない)からもの分化の作用による統合への作業を経る私への必要を行っている。 そして文章化されたこれらは浅く見られてしまうだろうが、これ以上の集約は僕には出来ず又、感じられた要請のような紡ぎとの出会いを流れの過去と未来が織り合うような連結の奇跡(の文章化という枠に)を味わい為されていくを感じ生きているでもあるのだ。(1/5)~

例え必要の要請という理由に欲望との区別が付かず他律によりて自我を利用される事などへも吸収させてしまうものとなり得てしまうかもしれぬとも、では最少へ減らし自己を滅すのみにしかないというだけへと吸収されるのでもなく、その必要と感じられるものの質を何が本質的な自己世界同軆からのものであるかへ通じさせる事が大切であると共に、そこに(人間的資質として呼び起こせるから行い使用し伸ばすのだという理由だけではない宇宙の本質に内在的な理由として共生や慈悲の理由が見つけられれば)本質性に為されるのみの非情ではなく(それに従い自身性質と役割を破壊へ向かわされる事からも自覚的に抜け)共生や慈悲の意思や方向というものを組み込む転換へも生きられる事が"生きられる"自体の価値ではないのか? つまり各自の必要や流れの必然性(へと近付く意識や努力に依りても依らずとも)に従い生く事と同時に目指し自身へ取り入れる事も出来るかもしれぬ慈悲や共生という根拠が見つけられれば(それが正しいのか分からぬとも人間的心には、そう感じるというだけでも良いのかもしれぬが)破壊も創造であるが自身には破壊を生まぬ自覚的な最少ともの適合点を取り入れていく事も出来る方向ともなるということ。

愛と慈悲で分かち合えば支配も武力的対抗という交流もなくなっていくが現在状況の世界や人間段階においては武力や搾取力へ対向し守る為の防衛必要や自己責任を負う事などもが生じてしまう(netを使うならばsecurityせねばならぬし、車に乗る便利を享受する代わりに自分の為にもベルトせねばならず、ドライブレコーダーなども管理や把握される道具としての販促でもあるが証拠と防御の為に、そうした可能性が分かっていたとしても自己の選択によりて導入せねばならず自動運転も全体最適解だが、そのせいで殺される犠牲者が出るへのクジ引き状態であるを理解した上で使用されねばならぬ)ようにも便利を使用できる権利の代わりに対応の責任を追わされ、必要が新たな必要への要請を呼び寄せる状況は、武力や人為破壊性へ対する防衛,交渉などの力を必要とする事や謎が謎を解答が問いを生み起こす科学的発見のようにも技術の進展が更なる自縛への自己選択を生み出すと同じく、自身への必要が新たな行為と因果的な連関を生み起こさせてしまう事へも(それが全て間違っているとまではいわぬとも)慎重に立ち会い感じていく事は必要な現代と今後への判別的な生存と知性使用の方法でもあるとは思われる。

しかし、人を疑わないという楽観,信用性(究極には自身他者同一の信頼への魔術でありても)と同時に、悲観に想定し楽観に行為するというように防衛の為にも二面性の組み込まれた人というものを知るが故にも疑い信じない事は大切であると同じく、安全保障が安全を保証せず戦争抑止への経済的繋がりが戦争を起こし参加を強制させnetも車も家を持てばにも財産へのsecurityの為などの便利さの為に対応が肥大する。 不便や手間を減らす技術が新たな手間や無駄や不便や問題を増させているようにも、人間の抱える肥大の問題をも直視してからによる解決への道へ向かえねばと思うが、では例え(そこには問題や犠牲が含まれ、それは自分へも来たるかもしれぬに責任も持ち行う為に)自覚していたとしても便利さが故にも導入する結論や行いが一緒であるのならば知覚判断は一切に為される必要がなく他律操作へ流される事さえが正しくなるとも言えるのか? 自己を減らす事は即ちが全体主義や他律ではないが、そこへも用い得られてしまうものであるによって明確に区別された生存方向の示し方とならねばならぬという事だ。 私はそれら一方面をしか映さない聖者たちの知恵や言及に対してもの(例え彼等が正しく又は私には真実を解くも説くもの能力が欠如しているのだとしても)問いの質と方向を挿し込み示す事は出来るというような役割上の分担なのかもしれぬ。

私などは特に、他に何もが出来ぬように偏った存在だが全ての創造や存在や行為には(芸術だけでなく)その創造の質が問われるというようにも、その生存の質の基準点が問題となるだけで(例え各自生存の全段階が役割を果たしているような運動でありたとしてもと同時に)、為され表われてゆく質の優劣における格差,差別,分離,は有り得ても当然の良しであるのかもしれない。というならば、しかしそうした理由の延長や同時によりてもの優性学の復権や、又は人類の分化は避けられぬようにも見える。

それは、やりたい事を為すのでもなく存在にも行為にも内容の質を問いては向き合えという判断性であるによりて、しかしその者の質を行いた内容によりて判断,評価,格差付けられてしまうへ繋がるのでもあるという事ではあり(sportsや学者などものprize者を社会的称賛や、その基盤ともなる経済的基準に拠りても取捨されるように)ではもし例えそうではなくとも潜在的本質による数値化が起こりての格差や優先的な判断ならば良いのだとしたの(良くないと思われるが問いの仮定である過程として)ならば、しかしそこへ点数付けられぬ人格などへは点数を付けずに潜在的深さだけで判断するのだとしたら(彼は囚われによる問題が大きかったからとは言え、天才ではあったヒトラーのようにも)破壊的役割者もこそさえが良く承認,放置され又は潜在的に深く高い対抗者からの対抗が生まれる事や、その対抗や先導,扇動に拠りて動かされる動きとなるに任されるしかない事へもの容認となるしかなくなるのでもあり、そうした現実における決定や尊重への判別を持たすならばの対象としてもの超人とも言われる者への基準は、知能,身体能力,経済,政治力などでもなく又は人格や性質(の宿る職業,専門性)も問わず、また愛の深さだけでも計れない潜在的本質性と同時に愛や共生,慈悲などとの混合に指針付けられた基準が問われなくばならず、そこには破壊的不平等などは組み込まれないでもあろうとは楽観に過ぎぬ範囲で予測する。

それでも支配層における芸能者の取り込みや尊敬とは、全般的優秀である人間集団の群体だけではない偏った優秀さという多様を挿し込む役割が有り得るのかもしれず、真の尊敬ではなくシステム設計上の必要や変数のようなものであるのかもしれないと 共に芸能の役割とは消費的娯楽材としての生存を許された奴隷的な従属というように必要とはされるかもしれぬとはしても、彼等の社会に僕のような御せぬ(又は悲観的な)者は必要とされぬだろうし、故にもし生き残る側へ誘われ入れたとしても、それは私の望む状況ではないと理解もしておこうと思う。 ならば電子的生命化への優越の権利が家族にも付与されるという条件を出された場合にも、それを私は受け付けず分化可能性も適用せず地球的生存環境での(原始時代的な退行と悲惨な人類の歴史の繰り返しの可能性もの中での)生存や又は地球と共に滅していく事などを採り、家族の生存意思への強制さえともなるべきであろうか?という問いもは有るが。

又、もしかしたら電子的生命化の特権者の選別とは、そこへ利用された者たちの行き場なのかもしれず、0.1%程の支配層は身体を共にした価値を自分たちは知り独占享受しようとしているかもしれない。 そして又sportsの奨励はカタルシス発散の消費材としてだけでなく(現在の兵隊なども既にそうだろうが)一部の特権階級入りの他の大部分をゾンビ化する遺伝子発動の機会後において破壊力の大きな者へ生み出す為にも利用されて(その駒である各自は、そんな事は知らず各自を一生懸命に行っているだけだが)いるのかもしれない等の可能性もを検討,推察していってもみたりする。

では、生体的な遊びを持てるのは現在でも環境はあっても登山家のみが高山に登れるというように或る意味での(それが出来る身体への特価条件を充たせる)特権階級のものとなり、その同時的追体験も(sportsと同じく)を含めてvirtualな世界で過ごす比率が普通となりゆくのだとして、Aiや電子的な又cyborg的な融合だけでもなく遺伝子,vioでの改編が進むcyberneticsや拡張の方向が(全て悪いわけでは勿論ないが)肥大されていく中での格差(差別や優位性だけでなく単純に分化した性質の異差でもある)が膨らんでいくかもしれぬであろう中での有機的生命や生体性を保とうとする変化への抗がいの価値とは如何であるだろう?

もしくは生命連関の織り為した既なる奇跡や遺伝子改編の危険性(作用の出方の制御の難しさからも相当に慎重にならねばならぬ)が理解されることで、又は技術やvirtualの進展によりても格差は補関されたり血の優性性が必要なくなる可能性もあるように科学や技術の進展(又は可能性欲求と挑戦)を恐れ排除しているだけでも違うのだ。

身体は不便であるし、生体へ囚われぬとも身体の活動性の中に(獅子や巫女の舞い等もの芸能や馬,船,弓,銃などがレジャー性も自然界との五感的な交感による共生への働きや衣食住,手工業にある事なども)宿る歓喜に生きられる人間の実存的価値(実存というのも本質的な実質存在という意味でも僕には使われる幅広い言葉だが、ここでは原義の現実的存在のこと。)が私には感じられ、そこでの自身性質を伸ばすような楽しみにも生きられる事での歓びが有れば良いと基本的には思うし、この生存自体を用いて神性や本質とも交流していく事が簡易な又は直接な超次元的存在であるのとは違う歓びであるとも思うが、技術や電子化されていくによって直接的に高度,上位の階層段階へ至らせていく事が悪いとも言えず、それはこの存在と意識のみにも仏性は開花し得るとは言えども能力や資質に依らず誰もがゆける平等を生み起こせるのであり、ではそれを強制されたとしても自然界との共生だが資源を使用し奪う事で成り立たせて来た人間的営みによる生活体から離脱してゆく非生体非自己全体の意識のみの次元越境存在へ向かう事が(それが例えrealでなきvirtualだとしてもreal世界もvirtualな脳の感特でしかないのだからに、新たな認識,知覚のリアリティへ融け移行していくは)何故に違うと云えるだろう?

そしてartistだからといって存在としての創造質が高いわけでもないとも同じくしてspiritual系であるからといって人間の質が変わるのでもないように浅はかな地点での判断や思い込みに進んでいるのは同じでもあり時代が変わっても人間の質根底は同じ事を繰り返している。 そして迷いや生の苦しみの中に生きていかねばならず役割と 段階のみが行われている制限生命であるという意味には同じであり平等だが、あまりにも動物的で愚かな人間。という価値観を(正しき把握としても持ちてはいるが)認めてしまうならば、そこには優性的な思想も宿りてはしまう。 それでもその生存や方向能力にも関する、生きる事への基準や質の判断は、現在の経済支配基準から転換する為にも、例えそれが新たな格差でありたとしても支配と搾取の奴隷化でないのならば分化されていくも良いという存在や創造方向への必要ではないのか? 如何に本質を見い出し本質へと生きる事が出来て、それを如何に示し分かち、どのように何処までを行為,表現,するという強制,操作しても良く、もしも進歩と世界への必要であるならば格差,優劣,分断が生まれても良いのか?などへの答えを発見する為への理解担当の生き歩み方である私は、しかしせめて苦のなく心にも現実実際にもの輝きを持ちて、生かされていきたいとは望む。

私と全ての光と愛と真の幸福と最高の歓びが、(自然に自由に完全に)為され果たされ叶えられているへの味わいの(感謝,充足と交感)存在に調和と共生と開花を開く、私と在ります。

そして抜ける先とは、生存なくしての電子化などではなく生存のままに享受され更には、為されるままであるが上位次元の連関やオーダーに遣わされるのみではない自由存在であるへの方向を私は想う。

そのように私は、真の到達と超越へと突き抜けていきたい。


1/6
何が自身のArt~詩~であるか?のみへと、その質や慈悲の意識が持たれていたかにも拠らず、何が良いかも何が調整されたのか等もの判断がなく只、流されるだけを受け受け入れていくという在り方を映した一つの表現の在り方に、たがも外され覆される経験を与えられ持ち得たように、どの真実も私は疑い自身に見い出された全てが自由で創造も破壊も一体が在るのみである肯定自在の上の(又はそこへの過程での)慈悲や共生を、愛や本質にありての質や方向として判断もするという正しさの基準付けへの発見による真実への歩みと進展も又も自身へ覆し続けては深められて来たように歩むのだ。

意識を済ませ減らしていく事は日常と私にも取り入れているにより言語的立ち会いへの過剰側面だけではないが、世界の出来事による情報識別であると同時に、その意識に澄むへ進みてからにも出て来る意識をも繋ぐ、流し去り忘れ捨て流れの連結を書き留め置きゆく同時在に在るを往く。(逝くという表現は好きだが最近は、やはり一般的語義として生命の継続によりての過程を行きている様は往くなど、なるべく他の語にするようにしている。)

(1/7)
自意識ばかりが高く(確かに高いし、それとは個人を持たぬ社会に生まれ育てられてしまった故の反動的な現れであるに過ぎぬのかもしれぬけど)て、世を批判しながらも自分の創造へは為して来なかった人間と思われてしまう判断の形を受けるかもしれぬけど、これでも僕は為そうとはして来たんだ。 (個人よりも他者となり易く現実性に絡め取られてゆく風土的な性質は、個人の性質や責任だけでもなく国土自体に有るとも感じられる。)

そして、良い表現が出来れば自然や本質へ自身を思い出させにも行くと言えるが自分に自信ないによりても日本から逃げる為などという一端面での表現をしてしまうし、フラフラしていたいだけというよりは表現は放浪などとなったが、それも自身を積極に歩ませているような肯定性での言葉とは示せていないによりても他者のイメージや感情の生起に対して、上手く伝え渡す事も出来ていないのだろうと思われる。 それは日常面でもの部分だが、母など話しが基本的に出来ぬ相手へ簡易のみに表現する機会には短縮され説明をも経れていない言葉を一方的に(流通が出来ないのだから伝えるだけしか出来ない故にも)放ち置く事しか出来ず、それ以上の説明を断念し、それにより理解して貰えるかもしれぬ可能性へも断念して、聴かぬ相手には話す事も出来ず最少を投げ掛ける以外には方法もがなく、こちらの話しを伝える機会さえも奪われており(相手が自分の想いを伝える機会くらいは有りても良いが、それも大概には用を得ぬ言い訳であるにおいて)話しを聞いてもいないのに投げ返された相手からの言葉は聴く価値もなく(幾ら意識は赦しや愛となるへ向けるとしても現実具体的に、流通できぬ相手とは流通の努力も、その手段もがなくなりてしまいているのだ。 それは相手を変えようとする努力を持たないか等の以前に決定的に流通不可能で言語的伝達の以外にも具体や必要(凄く必要なのではなくとも、共有できれば生み出したり折り合えたり無駄を相互や全体の利益にも避ける事も出来る)への共有が持てず、そして変わらず多様の共存,相乗ではなく異質さの対立しか持てない、人間現実の愚かさを突きつけられ続ける事への絶望感や現実的不利益を受けさせられて交流も創造も無駄でしかない事が目の当たりに現じる事への対処不可能性に対しての惑いでありて、彼等の弱さを認め赦す事という心の変換価値や方法とは別(勿論、同じである面もある)の事として対処されなくばいけぬ面であるのだが、そこへの自身の為し方は、自分に行われた事は相手の出方へも返り変えていく事もあるようだ。という現実的側面での成果や行為への実験でしか確認は取れていない。 そしてこれも自身への(他者関係に裏打ちされて来た絶望感にもよる根拠の有る)肯定感のなさとも同じく、どちらにしても人間の根底は変わらぬし自分が何かで関われても世界や人を幸せにする事などは出来ず小さな事しか関われないという、(自己制限というより把握,再確認されて来たものであるように)私には無限の可能性存在でもある奇跡自身の行為であり世界へ拡張された一体の自己を為している意識の変革者である自負と同時に、何にも意味がなく変えること等もは出来ず(謙虚に変えようともせずという意味では価値だが)大それた望みなどは持ち得るべくはないという諦めもが共存している。 それを排除せぬとも、一体の働きとして運用し統合の境地と歓喜へ至りゆけたらば良いのだが。

そして私は直感的な知覚拡張のような状態での行為や存在と選択を持ち得てもいるが、情報を或る程度に揃えてからの検討を経過せぬと納得出来ぬ面も持ち、そこには時間労力も必要とされてしまうが私にとっては必要な要請であり、その併用可能性の実現への実験にも行われているようなものでもあるのだ。と、現実世界との適合などを無視しても自身のみへと突き抜けてさえしまえば良いのだとしても僕は全てを救う理を探し求め続けるように、両極を併用しながらに統合されていくへの道の発見と道の自体を現在にも自身へと為されては歩むのだ。

この国の性質は超越ではなく軟化させる上で思想的な実践への結び着きは精神性なる価値と日常へも収束するように、地域各部ごとの性質に育まれた、それぞれの在り方を往くにしかないのでもあろうとは思われる。ならば、その統合の本質的基準の運用へは至る必要もないというのか?

捨てた自由とならねばならぬという真実もあるが集めた物や培い創り上げた愛着の故にも捨てず、あくまでもそこへ残りての生存を活動するというしがみつき方もが良い人間的姿であるように、その動物,物質的本能性というものを生かす方向ではなく、捨てていかねばならぬのか?

技術や人為,人工的な改編,編集の効用と危険性の折り合いが採られていく為にも、その規制や抑止や人為の法(複雑化)と執行力などもは必要ではないか? 思想は背景とはなるが新たな利用や反対方向への萌芽の種ともなる可能性も知りて、それ以外の方法や(言語,伝達なき事も含めて)伝達を如何に持つへ試すか?(とは囚われに拠らずとも私の性質(性質が囚われへ転化するへ注意は必要だが)における自然が涌いて来る創作への問いや実験である。)

この生によりて見い出し自身で獲得されていく進化への過程の価値もが必要なくなりてゆく事は、苦の成長や動力の糧としての必要もが捨てられていっても良いように、認められて然るべきなのだろうか? 又はその変換されてゆく先が、依存なき又は依存でありてもの享楽,快楽,利便,効率性にもよる人為,人工,電子的な方向への変移でありても又は宇宙の小市民的な自己文化内だけに充足した自然共生や変容意識伝統などでの快方向へ集約されてしまう事もは良いとも言えるのだろうか? その全て良いと言えるだろう中で、あらがう事も出来ず流されていく自然の必然と決定だけがあるのかもしれぬとも自己選択へ関わる現在的な生命の置き方としての方向性を見い出し問い示しゆく事は必要ではないかとも感じられ(所詮は限定的な知覚意識だとしてもに)思われてもいるのだ。<(以下一段,1/7の日記より),
(ちなみに、最近見るようにもなった車のナンバーは今も1001に次いで17が来たというように、それは常に多様が現れている中で自分の意識に引っ掛かったものだけを選択しているにも過ぎないが、そこにも何か連結の意味が起こり行われているのかもしれぬ潜在意識からの気付きかもしれぬにおいても一応(未来の判断に任すとして)は記載しておこうというようなものだ。)>

というようにも使え都合が良い言葉である(又は本当に更に深い層での世界と私意識の一体が有り得るのかもしれぬとしても)潜在意識という発明とも同じく、私たちは全てを説明し得る言葉を求めると同時に、そうした意味付けと一面の理解へ依存するへ吸収されてしまってもいけないと思う。 それは科学や発見が進んでも同様のものであり、自身によりて全てを知覚する事は出来ぬとも自身によりて立ち会われ何か真実と思われるものの一面や言葉やイメージへ取り込まれ利用されぬ事は意識されている事が必要とも思われる。が、そうした個とは表面的に行為する一総体としての突出の場のみのものであり、そこへ繋がり起こす一段深い層においての集合意識的な分化,結合,統合の働きのみが有り持たらされれば(個人性にとっては関係なく非個性化されてもに)、それは勝手に働いて結び着け潜在的な流れの繋がりへ接続されて生きられる従うのみの個人と個の選択不要となるかもしれぬ事もが、しかし何故幸福でないとは言えるのだろうか? 自律意識によりて気付き味わい成長しゆく効用は有り得ても絶対必要だとは言えぬのだからに。 (それが、Agiが意識を持ち制御を離れるか?や個人が吸収され形を失わせてゆくか?や、brain interfaceやvirtual界との融合がどれ程までに進み、そのような仕組み~system~が試され発明され組まれるか等にも拠らず(遺伝子的変容などの問題もは、こうした個の性質の問題とも同時並行に進む事も有り得るが、一端そこも置いておくとして)とも進みてはしまう当面に起こり得る思想的対処事態の設定ではあろう。

つまり自身は潜在的自己へ繋がり深める事もがなく、深い層(どれくらい?かは技術の進展による)に繋がった全体が集合的集約への連結運動による現在最適解を勝手に行い起こし、その選択に従うのみとなれば良いのかもしれず個の役割とは個別性質のprogramとしての多様に置き換えられて運用される、そうした相対の運動や作用をもたらし取り込む働きとなるだけのものか? であれば自身という生体上の個は私を失い電子的作用の一端へ融け込んでいくか個性を失い従いて生きるか個性のままに生存しながらも従い生きるか等の様態しかなく、そうした潜在や自己本質という基準,上位概念の自己設定によりて導き出されたものに支配された上位自律による他律生とならねばならなくなるかもしれぬ。という思考実験の内容は如何にも現在の進行に対する必要項ではないかとも感じられながらの私が作業ではあるを生く。 (問い書き整理しては置く以外に分かつ事もが出来ぬが現在ではあるが。)

しかし例え真実に近いと思われる現在の解を見つけ出され、幾ら人間生体にとっての幸福や本質性へ留めようとしたとしても既なる世界には(絶対ではないが多分)手工業の時代と歓びは一部の者の以外に取り戻されないように、自然性質としてもの人為的肥大の傾向を宿す人間の(単体での)動きの今後もの進み方は、もしも一端に止められ転換させられたとしても意識が変わった位では、極性の種子は内包され有り発芽可能性が有る故に取り戻せず(又は人為の意思と操作,支配を越えてしまうかもしれぬ故にも)自個,生体を失いゆく方向への進展や融合は止められず、そこへのalternativeな選択や提案など(無意味ではなく分化後にも他の可能性を残しゆくかもしれぬが)は少数の対抗力にしか過ぎないと諦めた上で、ではそのような技術化進展への逆張りをゆくか又は技術使用と段階的進展の中で、せめて良い方向への変化へ関わるか?という選択の違いと行き先の持ち方の発見や自己納得を持たらさねばならぬだろう。(単純に、これが真実だ。と感覚に従うという在り方が全くに駄目だとは言わぬし、そうした者の歩みは結果にも正しく楽観的選択の性質は幸福を持たらすかもしれず、こうした発見と把握,知覚,理解などにもよる納得や選択など情報と同じように不要なものとして排除され、必要となどされていないのかもしれぬとしても、私の歩みには必要だ。)

そして生体も自己も成長への生存と気付きの過程を生きる意味や価値も失いてゆくが良いのだ等と例え分かってしまった、もしくは納得せざるを得なくなったとしても、だからといってそうした恐れにも又は希望にも洗脳されず、私は何が真実かを見い出し引き上げる事へと諦めぬ一生命の(現在までの)形ではあるが。

仏陀が言い残しておいてくれた価値と世への贈り物(その発展経過たちも)の恩恵には浴せるが彼が言い置いた、"変化せぬものはない","自己を捨てていく"等もは生体を変化させていく進化の方向などにも寛容で又は解釈利用もされ易く(勿論、天上天下唯我独尊や犀の角のようにも自己を拠り所とする指針は遺してもくれているが人為的な抽出や読み替えにおいても)、この自主や生体の必要なさは他律や全体へ従う方向を創起させたり動機として使用されるかもしれぬ、やはり此処にもその種を含んではいると見られる。 究極の到達段階や相にも結局は反対側面もを含んだ質の違いや(全てが内包されているによる創造的破壊も人為の破壊も人為と自然も区別は出来ず何にも判断は出来ぬ)極面への利用が有るように、例えそれが究極に正しくとも疑い(真の到達以外にはendlessだが)如何なる権威にも従わぬというような自我の作用にも意味と効用があるのだ。 (これが私に起こり、私だけのものではなくなるであろう相極面による統合への動きと知性や知覚の使い方、でもあると私は思うのだ。)

全ては愛であるという中にも自己を最少へ向ける事にも又は自己を行えという方向にもの全てに反対への作用可能面がある。 それは、一端での真実を真実と思い込んでしまう人間の性質や意識の現段階の故にも浅き一端での解釈へ利用,転換されてもしまい易い(現時点での愚かさだけではなく内包された性質であるにおいても常に発現再起されて来る可能性が有るのではあり、例えそうでなかったとしても、その可能性を含み込んで考えておいた方が良いようには思われる)ものであるにおいても、これが真実であるとは絶対の真実に至るまでは、例え真実的な震撼に覆され感得され得ようが言えまいと思われ、その面でも私の子供時代によぎり来た"絶対がないという絶対が在る"という考えの側面は(絶対が有るとしても)"判断は出来ぬ","全て自由だ"。という悟りや実感の奥や向こうにも広がる、自己等に取り入れられる真実の側面としてもに価値が有りたと今からにも感じられ、挿し込まれるを待たれている言い得る一つの基準であるのかもしれない。 故にも、肯定と交感(信じず気付きゆけ)へ戻る集約が有るとも言い得るのかもしれぬが。

瞑想的にも澄ませていく実践的方向による知覚性による感得は、だからといってそれが完全に正しいとは言えぬのだが、しかし価値がある意識(や潜在自己本質)への作業ではあると思われ価値は認めると同時に自身へとも使用してもいくが、我々に知覚し得る全ては脳の反応による仮想現実でしかないように結局どれ程に深められた真実に近いと思われる状態さえもが真実であるかは分からぬというのは(虹の身体級に抜ければ、この現実界を超越した真実相が知れるかもしれぬが、そうした次元の越境もの先に更なるリアリティ(この宇宙を越えた真相)が有るかもしれず何処まで行っても何が真実であると言い得る事は出来ない)吾想う故に吾が在るという命題は(再定義は出来たとしても)未だ変わらず抜ける事は出来ぬのでもあろう。

脳における反応や自己という知覚の状態は拡張し得るし、それが新たなリアリティや実感を持たらす事は有り得ても信じ込む事は(信じる事で救われ思い込む事で現実も化され幸福に生きられるかもしれぬ事まで積極的にまで否定はせぬが違うとは思う)無い。において何もが無いという般若心経は自己どころか救いも道も無いと言い切り活破してくれるによりての全ての実相は空(全てを現じさせる総体現象土台としてもの空間背景という意味の以外にも)にして識の反応にも、それ以前の色の起こるもに本体などは無いと識りてゆく効能が(実際の変性意識などへ入らぬとも知性の働き面のみにおいても)有るとは思われ、それは信仰という委ねへ自己を放棄してしまう事を受け付けず排しながらも自己の放棄と大自在,自由へ融け込ませる両面を即義にも持つ。 ならばそのように両面を宿す真実は伝えず賛同も共同的な共有もせぬというのでもなく、解釈いかんは後の世界と人間たちに任せ段階判断などもせず無責任にも放り投げ、全てが愛と肯定と交感的な生命味わいの歓びであれば良いじゃないかと、単純な真実に寄り添うように行動してしまうが納得さえ出来れば良いというのか?

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自己も真理も疑いて、しかし肯定と交感というようにも見い出され来たkeyword集約の基盤は独覚(junyana)と信仰(bakthi)の、否定と肯定,縮少と拡大,自身と全体,意思,選択,方向と流れ,運命,そのまま,等もの相極性の両輪を用いるという在り方には言え、では禅語に言われ現された祖始をも殺し竿の無き先まで歩め又は和敬静寂というような詩的断片のみの単的さへ集約し示し人間界へも置いておく事のように、結局は日常の各自解釈段階へ取り入れられ見返される事も有るかもしれぬ位の方向性を置いておく事くらいしか出来ないのかもしれぬが、しかし良いものを生み起こそうとしても、その結果は何処に使われ繋がるかも分からず判断出来ず手放していなければならず自身を行い成すだけなのだとしても、一期一会のように日本人の心性に合いているが解釈利用ばかりされて意味を転換されたもの以外には意味を成さぬように、自身の精一杯を行いたのだから後は関係ないと放り出す事とも同時に、愛や生命共生の為に行いた事が全体主義的支配や自己と生体を失わせた方向への利用へ吸収されてしまうかもしれぬを知れる知性によっての如何に何を自分は為すかという自己の責任を取り入れている事もは、流し去っていく事と振り返り立ち会うことの同時,両義の価値として併用された統合性へ向かうべきであろうと私なる生命への形には思われ、どうしようもなくも紡がれてしまうのだ。

そうした感情生起的な実感面としての愛や全てが自由という放棄の感覚と自足の方向や存在の在り方だけでは(それは正しく、正しさの中に質方向の違いとして正しくない事も含み込まれた統合的な正しさでもあるのだとしてさえも)正しくない質方向へ使われてもしまうのだからに、せめて(僕に出来るのは、これが真実だ。と言う事ではなく、これかもしれぬがこれもある。 故に両方を取り入れての統合を目指す。という方向と生き方へ提起,参画する為への説明でしかないのかもしれぬが。)そこへの自己関与の責任の立たせ方として(例え伝わりにくいものにしか成らなかったのだとしても)真理へ近付く為の考え方を示し置くに(他に出来ず、これしか仕方がないからではあるが)自身を歩ませる肯定点を持ち見い出されてはいるのだ。

つまり、これが真理だ。付いて来いというのではなく、真理であるかもしれぬ周縁を巡りながらも、各自の段階そのもの同士によりての歩みの中で気付き生きていく歓びとなりて真理へと近付いてもいく生き方の道としての問い向かう方向性の存在態度を呼び掛けていこうとする意識変革への呼び声となる魂(という生命の根底,本来,自性,流動,全体,本質性)の唄と在りゆく事なのだ。と自覚出来たのならばの故にも流れの凄さを現す事は主目的ではなく副次的産物や空的な自身の本質に触れている事による自然に生み起こされて来るflow的な流れの選択による本質面への示唆であり、ならばそこに示されるものや表れる歌詞的な内容とは愛,肯定,平安,自由,歓び,などと絶望,闇,破壊,囚われ,苦しみ,などのような世界二極面の両方であるだけでなく、全てが渾然一体となった揺らぎの相(複雑系)が顕れているだけであるも良く又は悲苦に寄り添う面だけではなく愛や光だけである統合の基点からにおいて、それとは多様の相を内包し故にそれらは既なる完全であるが、そこでもの質や内容を真の到達の本質,真実へ向ける方向へと歩み、その生存の歩みこそが奇跡であり歓びであり生きる価値である。という在り方の提起へと繋げられたら、それこそのみがもしかしたら私の役割の必要なのかもしれない。

意識と存在が光となりゆくのみへ向かうが良いという方向にも置いていかれ、表面で克服に見えても押し殺してしまい閉じ込めた事での反動の起こり来るかもしれぬように副作用が有り得るのだからにも(そして意識だけで良いという思い込みの力に呼び寄せられているだけかもしれぬようにも、意識と設定をリセットし又キャンセルがけしていく使い方も良いようにも縛られず)覆し又は直接的に観入し深めてゆくだけでなく段階を踏む必要(や直接示唆せぬ事での方便性を置いておく事)も有りて良く、意識だけでも光や愛の方向だけではないという事を、しかし言葉で伝え語るには説明面は必要ともなるが、それを上手く置き換えられぬならば作品への挿入も諦め、この書くだけとなるも良く、では観察的思索者としての在り方が創造へと直接には反映し得ない創造者としてもと二地点を基準としてに立ち在る自身を認めながらに少しづつの転化,融合へ適合されていくへの過程もを試しては往くのか。

創造へ転化され得れば私の為し得たかった自己実現の形にも宿り、それを全くに捨てなければならぬとも(現在地点では)思わぬが、その仕事と役割の分かち会われる創造へ移行され得れば私の為したかった共同や関係も伴った共生世界実現の為の活動や開発や投資へも繋げられるのだからの故にも(それとも自分の然化速度が遅すぎて間に合わず、いつまでも自身の事しか行う余裕などはないのかもしれぬが)それを為し行い与え人類と宇宙の文化的発現を目指した種と可能性を遺し撒く事となるをも望むのだが、その為の金,地位,名誉などが手に入らなくとも私のままに少しづつとも形となりえてもいく(欲望ではなくともの方向の故にも得る事にも囚われず得る事も排除せず)囚われず流しながらに、生と世界の奇跡への味わい生命のみの化され生き方となるへ生きて生かされ、(例えいつも創造の素材ばかりが溜まり自分には膨大過ぎてoutputへ化し生かせぬとしても間に合っている最善的最然性が為されているように)生存を歓びては行われ与えられていく私を然ずるがままの、旅,拠点,創作,身近な関係,心身の健康といったような基軸へとも還りゆく、自然との暮らしが出来得たらば良いと充足へ減らし仏けてゆけば良い。のかもしれない。

こんなにも愚かで小さく制限された私とも同じく人類の歩みも段階を踏むように必然(とは絶対に覆せぬわけではないかもしれぬが、此処では段階性というものも有るという意味で)的な過程を歩み育ちてもいるのだろう。 しかし人間が、それ自体の生き道を自己に選択する能力と同時に決められぬように、私もは中庸にして統合の自身を方向として希求してもいるが、この総体を起こす全体性の流れの内の作用反作用中の一人にしか過ぎず、そこに起こされる事象を受けては対応してゆく自然生起の結果に過ぎぬ私を越えたものに為されるしかないという運命性への、感情故の非情にして、それを味わう事も出来る感情知性である故の歓びでもあるが私と選択と方向の全体と運命必然と流れの自由と縛りや悲哀と歓喜は全て同時に(どちらの可能性も内包しており繰り返し現れる等というのではなく、どちらもがそのままに含み込まれた統合と 完全の既なる状況や全体の様態としてに)在りているのだろう。(という、その統合へ向けては歩み、しかし統合は既に為され在るのだとも知るへ歩むのだ。 つまり二極面や多様の統合は既に全てに含み込まれ為されてあるが、それを知りながらもその二極面の統合へ向かう旅路を往きて終わらぬ過程における自身と生命の気付きを各自のままにも方向として為され、為してゆくという事なのだ。)

では異質だが共有可能でもあり分かり合えぬが惹かれ合う男と女という仕組みがあるように異質の結合や統合への歩みとしても(それは宇宙の相極,二元性があると見えるから等という理由性への判断によりて、その為に設計され組み込まれたものなのか等は分からなくとも、そこへ我々が利用し得るものではある)において、自身が独り一個体の中に両方を宿した統合へ向かう事とも同時に二人(以上の場合も有る?)での統合を必要とし求める意義とは如何に何故に有り(有り得る理由は分かるが絶対必要であるかは分からぬ)交感の為の異質多様他者の存在を利用しての関係共有の遊びと学びの両方による成長は、自己の為のみという名目による全体性(人類,惑星,宇宙)へ自己が利用されているに過ぎぬとしても、では関係以外に自己のみを成長,交感させていく事が成り立ち得れば、それ以上に関係と共有を必要とする意味などは(人間とは他者を求める生物種であったからによりて、寂しさを埋める方面での喜びの為への関係に依存するというという以外に)有るのだろうか?

もっと性の喜びが解放されて良いと思える反面、(幾らsafe sexが進んでも又は、体液交換の不特定多数という不浄観念が間違いであるかもしれぬとも)開放され過ぎても良くないと僕には思われ(これも両方真実を宿す働きであろうが)二律背反的な矛盾も感じ抱えていてしまう(freeでありながら自分の物であって欲しいというような嫉妬へも繋がる支配,所有、又は信頼関係への共同作業を求める欲求へも通じる)中で、減らし抜けていく方向と同時に(どちらにしても抑えつけ過ぎては良くないが)欲に取り込まれ肥大させぬには適度に与えられている平等な豊かさを得るという道も悪くないのではないかというのとも同じく、(そして、しかもその矛盾への課題が解決されぬまま行われて来た状態と、ではそれを抑え込み超克しようとする方向(それが間違っているとも言えず、その結果は超然的な能力や悟りにも結び着く確固とした又は一部の為に気が狂ったり惑いたりする者は救済せぬ最適解の輩出システムであったのかもしれぬが。)にしか、ほぼ人類には行われて来ずに走り続けて来てしまった)欲により苦を作り行い膨らませ続けて来た動きと、それをなくす事で越えようとした方法や到達の以外には試みられず又は到達へ失敗して来たようではあるが、ではその欲と自己をなくした故の歓喜到達以外にも得ることや生命を楽しむ事で、しかし充足や幸福の故に止まらず深め達せられゆく道との統合や併用が(どちらもの真実に対して人々は深く問われたわけでもなく、何となく(感覚的に正しく、そう生きられる徳がある幸せであるのだろう事は認めるし、それらの全てが間違っているのでなく統合された者も居るであろうへは観じ入るが)に減らし欲のない歓びと幸福と言うだろうが、そうではなく)真に見い出されていく事は私にとってだけでなく必要であると(多分)思われては探す。

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奇跡とは既にこの身の中に起こりてもいる、そしてその身体以外の処からに隔てられずに行われ合っている生命現象化同士の連関の奇跡。である事もを言い、(それが如何なる乗数倍などが確率なのかは知らぬが)神や化身が物理現象越えの事象を起こさぬとも、此処に現じている、生きているだけ。での信じられないような壮大な神秘が行われている自身と世界を体験し味わうだけで良いということではありて、仏教は奇跡も捨てろと言うかもしれぬし、又はこのような奇跡に見える連結と運行は上位のcomputer的な状態が、いとも簡単に作り出している幾多にも存在するsimulationの一つに過ぎぬのかもしれぬが、もしもそうした(宇宙という計算と実行装置であり又は宇宙自体が仮定計算の中の一つであるとしても)幾つもの平行現象的世界が同時に行われ又は儚し泡のように瞬間ごとに消えあっていたとしても私等は、その中の儚く無意味な仮定存在の内の一人でしかないのでなくて、そんな無限大数のような可能性の中で現自身一つのみへと結び付いての生を感じ味わいていられている奇跡なのだと転換して生きていく事は(それではそれを越えたものへ達しようとする挑戦や進化が必要とされなくなってしまうが)可能だ。

この身一つの奇跡を味わう世界の鑑賞者として何処にも抜けず越えようと目指さず最少自己での充足へ生きるへ達してゆく方向へのみ生きるが生存の目的と(目的などがないとしても)達成の先であるのか?

又その知恵と存在化の歓びという生き方と方法を、教え説こうとする為のものなのか実際に自分が(常に多数の真実を観じ同時に立ち会い持ち合わせていなくばならぬとしても)到達された実感で、その歓び存在のみの自身に居れているのか?も問われるが、それは現在の私において、そうで在る時もそうでない時も両方が有る中での一つの生存の目標の持ち方ではありているとは言えるだろうか。 では生きて在る事自体が奇跡なのだから生きねばならず殺し奪いてはならぬという方向を持つ事は正しいが、それが自己も生体性などもを捨てるという仏教的基軸の観念(生体は糞袋であり無用なものであり重要なのは意識の純度,深度だけであるという捉え方も)や破壊も判断もなく放り出すという価値観と相対であり対立する間を中間へ取るだけでなく如何に統合的に運用されるかへ抜けるのか? (只、突き抜けているだけではなく、その突き抜ける質が大切だ。 僕はその問いと生命の総動員的働きに突出された世界の(そこに限定,制限されぬとも)顕れだ。)

命の奇跡は科学によっても明かされ感得し易くなるかもしれぬが、私に巡り来る世界の事象を通して見られる流れの必然的に絡み合った奇跡は、自己という観察の方向のみにおいて見い出し得られる。 そして私はそこに触れては生きている。

欲の問題に関しては、老いていけば欲からも更に抜けていかれる人間の自然な様態を見て、(快楽は悪い事ではなく共有もされただろうが快楽が肥大や依存への奴隷化を生み起こすであろう潜在的危険性と反自律性をも知っていたであろう古代人や人間の麗明原始期間の長きにも感得されていたであろうにおいても)その囚われから抜けていく精神の次の飛躍や進展の段階に枯れたような真実性への目標的在り方が感じられ自然と性欲を無くした状態が悟りであると思われて来た伝統的な意味や人間共通への内在化もあったのであろう事も理解出来るし、それは自分自身にも感じられて来たものでもあるが、しかしだからといって唯一の目標到達方向と道の本当か?は問われなくてはならぬだろう。

何故、欲も性も平等に富みながらも肥大させずに済むという在り方は無され得ず減らす事でしか(それは確かに肯定の歓びだが)悟りと幸福は有り得ないと断定し得るか?(生命奇跡の生存を往く事もは、それ故の最少へも通じられるが欲望の肥大へ通じる事が出来る種ともなる故にも、肥大でない共存,均衡をへの動力としてもに向かわせ使用する事も出来る。 これも全ての価値や質方面を宿す一真実側面の方向や使い方のことである。)そしてそれは幸福でありながらも更に真に深めるという方法が次の時代や進展の段階にも必要(何となく波動が変わったから出来てしまった、では真に成長,解決されていない故にも)なのであろうようにも、超越(を自身へ求め歩ませながらも)だけでなく現在や人々(それらも現じられた各自そのままに生けば良く関係なく放棄した自由で在るが良いとしても)へも適用可能な真実と向かい方への適合を為し得たいと思いては進む(そこに結果の意味がなかろうとも)僕であるには生きているのだ。(再確認し続けなければならぬ程に弱く自信もない自身だが、その肯定面を肯定するならば弱き者の在り方を通しての生きる道の創造へ謙虚にも向かいゆき、そして分からぬ内は語らず止まりては考え本質へと問うに立ち会うという本質性には(仏陀の先ずは毒を抜けのように)従事していると納得し得るようにも、言葉では語り得ぬものを私には語りながらも生くのだ。 (歩みは遅く繰り返しに感じられるだろうが更新され続けている過程には、在る。)

制限や節制が修行ではなくなる喜びの体感と遊びゆき方となるのなら良いと言えるのかもしれぬが、制限や節制などによる修行ではなく物質的豊かさや快楽方向が本質性への修行や遊びともなるのなら、そのままにそれもは取り入れられて又はそこへ転換されてしまっても良いのではなかろうか?

それは例えば非生体による交流や脳分野の刺激による快楽などで済ますへ転用できるのなら、欲や本能を抑え込んでは良くないとも言えず(これからの時代に仕方がないから合わせられる面というだけでなく本質的な方向へも適した方法とも成り得るかもしれぬに)良いと言える面が有る(勿論あるだろうが積極的な本質への使用面として)のではないだろうかとも探るのではあり、(反対の質方向と思われる事へも囚われず探求を制限せぬ。 それによりて、これとこれも真実であるかもしれぬという統合の方向へ関する説明や又は断定的な挿し示し方を持つにしか自身のスタンスを取れないとしてさえも、それは私にとっての必要な事。)ではvirtualならば(残虐な殺人ゲームは何処まで許容されるかや制限せぬで良いのか等とも同じく)自己の意思によりても他者からの提示や状況的必要からの要請でありても人工的に(その質や目的が真実的な知覚性や共生であるからといって)改編されて良いのか? 自己選択の自由以外に人為的規制,制限されぬとも良いのか?や脳変容ならばchemicalなdrug,神経接続,電磁波とも融合の生体,遺伝子操作,ナノやバイオ技術などもの全般であり、それはロボトミーや優性学の復権(しかも強制ではなくとも自己選択の自由による)とも、あまり変わりがない中で何処までが許され又は許容せぬとも勝手に進んでしまう流れを少し遅らせたりしている中で、未だ良い方向への働き方が試し行い得るという程度の為に費やされていく我ら人間の生という悲しさと必要が置かれゆくに過ぎないのかもしれない。

そして欲も肯定しての欲と節制などの均衡点を取られようとなどせぬとも、欲の肥大によりても幸福が叶うなら(新たな宇宙の創造主となるなどへも肥大するだろうが)又はその幸福の質もが本質などへ向かわせられるものとなるなら(例えそれが強制であっても)良いと言えるのではないか?

僕らは一度現じられてしまった便利を捨てられない。(それは肯定出来ぬ側面や可能性が有ると知っていても(居なくてもと同じく)スマホもnet購入も止められないように、この前まで親しみ使いていた紙に書いたものも自分でさえも読む気がしないように文章も失われ振り返られぬ既に過去の遺産のようなものであるのかもしれず記憶力なども失いているのだし又はカメラによる防犯や自衛の為の武力とも同じくであり)利便や必要によって既に人間能力を自分と時代がみるみると捨てていっており自己は技術への拡張へ移転されていくのを留められる術は無い。

自衛武力に関しては核兵器などもpresenceを持ち得る手段や現実的抑止力の面としてもの実際効用がある事実においても、減らせたとしても無くせぬし(無くせても鉈は無くせない)危険性がある以上、相互不審や対抗可能性の為の武力保持は無くせないのだから、ではその中で如何に使用し得るものを使用させぬか。という手段への関与を意識の変革だけでなく環境的背景の転換として関わらねばならぬのではないか?

1/10
幾ら僕が高め変え深めゆこうとも、あまりにも違う段階の人たちとの流通は取れないし、感性面だけでなく身体的な感じ方などにもの全く違う感覚を伝え出す表出の方法は行いながらも、やはり手離して関われぬ彼等世界とは触れ合いながらも離れているにしかない。 以前より生き易くもなって来たが結局この国の人々と本当にほどけて気持ち良い関係を常にも在る事は難しいのであろうし、今後の戦争や核被爆など以外にもb兵器(細菌)の可能性も有り得る感染などを避ける為にも社会から離れ例え今後移住し山に住んだとしても人々との交流も難しいのだし又、この国では自立的な生活区域を設け客人はもてなす位の関係は持つようになれたとしても監視はきついし自由にはいられないのだから、やはりこの国での生存の形への種なる場所を今から作ろうと思うより、国外での生存の場(同時並行できるなら、それも良いが)を持つへ方向は移し逃れる事が良いと分かってもいる。

しかしどれだけ本当に共有者や家族が着いて来てくれるかは分からぬし(身近な者との共有が得られれば守るものが増えるが)子供たちと会える為にも近く(長野)にとも思うが。

今までは僕の+1に相手の-3で僕が+7反応し-10の結果となる事が多かったが、今は僕の+0.3に彼女が-1不機嫌なったりするへ引き寄せられるので、戻って来ようと伝え0へ取り戻す作業をせねばならぬのは小さな原因と小さな問題の少しの労力での解消ともなれて来ているが僕も関係労力に疲れてもいるし-1へ引き寄せられるのが直らずに、ずっと続くのは困るとも思う。 それは僕の側と彼女の側の引き寄せ合いの対立の事ではなくて良い方向へは引き上げていかれたらと思うし、その為にもの阻害と無駄の悪循環性や停滞には居たくないという事の提案と関係作りの方向の事でもある。 (ちなみにこの+-9は右左の軸性であり良悪の事ではないし、+0.3とは僕も寄せているのでそれ程に気分悪くしたり膨らませる点でないとは思う故の非対称ではあるが彼女から見たら0.5かもしれぬし僕からは0.1位のキッカケに過ぎないと思いている故にもの間をとっての概数だ。)<(1/7の日記抜粋),
最近の僕は女性は女神で尊敬し自然にlady firstする等の過去自身よりも(おい、お茶。と願うような)亭主関白,良妻賢母のように、僕の為へ尽くし支え尊敬し(合い)てもくれる人や関係を求めるようにも変わって来ている。と感じてもいる。>

認め受け入れ、僕だけを愛し支えてくれるような母性を求めているも認めている私の、それは現在までの関係と経験に疲れているからでもあるが、こうした最近の良くなって来た状況の中で感得されもする元々からの自分の(何が出来ぬという事にもの)弱さにある事も感じてもしまうが、それでも出来ぬ事は行わぬ私に在りて良いのだ。 性質には人それぞれだが、何を行うべきという方向の成し方からは抜けていくが良いと思われているにもよりて。

そして弱い方へ流れるのは、そうした本質統合の側面としてだけでなく開発の労力を持たずとも待ちて先進技術を享受し得る側という在り方も(それだけで良いとも思わぬし、それは徳によるというより各地多様ごとの環境による役割分担であると思われもするが、無駄な破壊過程は省いている)良いであろうように行わぬ価値というのは、そうした形の部分にも有り示せるが、では弱く行わず楽な方へと入り在りていくのは手工業どころか料理すらもしないような簡便な生存の過程に吸収されてしまいかねない側面部分もは有る。 そこにもやはり、減らすや愛などともいう一つの事象に対してそこだけで良いとは言わず(例え表現が上手く出来るようになれたとしても)その質の内容や方向に言及されてはいなければと思う。 (そして料理の必要がなくなっても、火を使いて調理するというように手間をかける事で立ち会う生命に在る事は絶対の価値ではなくとしても人間的喜びの価値にはある。 利便さにとって代わり過ぎ去ってしまったものは取り戻せぬが大体でもあるが(それでも共生という関係を外してしまってはいかぬ事とも同じく)では火と手間も持たせた交感の形のような価値を(失うべきでないと制定などせぬとも)私には持ちていくのだろうとも思われるのだ。

自分に為せる事は行うという事の内容についても、精一杯に為そうとするを目指すのではなく(結果そうなってしまう仕方なさは有りても)、なるべく引いていく中での関与であり(言い伝えようとし過ぎるのでもなく)慈悲を持ち、自分のままに出来ることは行いながらも放り出していくという在り方である。それは例えば世の噛み合わぬ対立や議論へ挟み込める対峙の置き方はほとんどなく又は言葉を挿し込んでも良いが聴いている静寂が基盤ではありて、そこへの何か価値へ伝わるものを与えられるか等は試すも良いが、まぁそれら偏りた方へ引き寄せられていない方が良いと思うよという転換へ(誤魔化しているのではなくて)動画や音楽に宿る本質性や素晴らしい学び的な恵みを紹介し流しておく位でも良く、それ以上は自身が音楽で踊っている。という程に、自身で楽しみ放棄し在れば良い。

自信なき自身である故にも創造や私の創造に宿る価値への納得を見い出そうとしたりもしている私であるが、人に伝わらぬ価値であるのかもしれぬとも又は限定的な歌詞や旋律の創作品であるとはしても、しかし此処には各音種を一人で完結出来てもいるような最少の創造性を表し渡していけるという意味でもの既なる価値が在る事もを自己には把握する。

自分で見返されず他者へも分かち合えるものとならずとも、これは書き遺して置く事で、未来の評価へ託しているような為の作業。 もしも一部だけでも書き換えられただけで全く違う意味となりてもしまうかもしれぬ私の文を、それでも残し置く以外には(朗読録音への転化は可能だが)出来ないのならば行うが、その可能性も示唆してはおく。