junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

162 11/26

162 11/26,27~

こうした苦の経験もを基に、自身反省点の考察的気付き等を通して全肯定の愛や状態化へ向かうよりも、坐り祈るような日々と自身を持つへ向ける事、つまり知性的判断以上の流し去っていくような意識の使い方一つのみでの解消,解体,創造と転換などへ自身も世界もを(方向というのが操作であるとしても)呼び起こしてゆく源流の力自身と化するへの自身を養う為への生存と日々の味わいと彩りの過程,価値自体を生くもが良いのだ。 気付きとは如何に深く世の真相に触れているかの事でもあるが、それ以上に知性に拠りて味わうもが出来る価値をも越えた只この平安の実相に触れた一体の自身へ安息していく為の物であるのだとしたら、その深さの質を基準として問い求め説いてしまう私の判断知己が如何に現在人類の問いの立ち会い方の過程や中では相対的には深い相を宿していても、意味などがなく現人類への端相でしかなく上位の愚かさでしかない事を把握,認識しての私を置かれゆくにしかないのだろうか。

この自身を行いゆくにしかない全て各々の行いと流れに(それが必然的かに関係なく)任せてゆくにしかない放棄の非情に信託してゆくのみの中での私が何を受け取り対応するかへの判断,選択の行為や存在となるか。は、しかし与えられ現れて来る私と他の自由運動の連ねる連綿の現在ごとを立ち会い往くにしかないという意味での、全ては現在のみにしかないという結論的言葉の宿りへも戻りて来るのだろう。

その過程を現したのが、この書く事もによる世界の創造,人間による連綿現在の現象化だ。 そうした事が、未来と過去を打ち切らずとも認めて、この現在へ宿りた生命生存を生きて為すこと。 有為と無為には垣根もなくて、只揺れる自然の流れのみが在るを観ては起こす(自然が、そして私が)者で在る。

突き抜けたのでも世俗に紛れるでもなく、適合を求める方向と性質の中間的な存在へ突き抜けている私であるがままにも生きて、その存在の過程と現在に受けて与えられるもののままにを為すへ流し去り流されていくが時の産声なる現在を為され生くがばかりなり。

しかし自分のままで在り拘りへ引き寄せられ肯定するにも、その質を問われていて(僕は僕よりも流れに触れている意見には同意するし補助や共有を求めるようにも)我ら存在の源流である本質性へ如何に触れ気付き選択,言動にも行われているのか?とは(相対的比較においてだが)重要な基準であるとは思われ、そこを目指し深める為の味わいの生存を遊び方としても往く方向として提示,共有されていくが当面の進化条件としては良いとは思われるのだが、(自然界的な自然だけでは駄目で、そこへ観じ入る立ち会いの意識である人間の在り方が問われているようにも)それらは資質や各自状況にも依りていて時代や環境にも左右されるし、方向提起は(本当に正しいかもが分からぬだけでなく)良くとしても共通基準化は義務と強制と優性的な格差,差別,判断,不平等をも生み出し兼ねぬ故にも、そこへは或る程度にまでは明確化されたような思想的基準が創出されなくてはならぬではないか? そしてそこへの教えを宗教的な手段でもなくて伝え広めゆこうとする事は如何にこんなにも言葉や関係化出来ぬ私などにでも提供役割と成れるかというのか?

全てが流れの必然的最高で各自という世界の一端ごとを受けて与えられ、変えられなくとも肯定し生きるばかりの非情の覚悟もの肯定があるのみなのだとしても、その生き方の方向を真に近く発見するへ掘り出し開出し示し共有,共通資産としてもに分配されたいと思い、その役割を担いたいと私の性質や囚われにもに願う生命の現化過程の全てを用いて尽くす生存に味わう価値と創造自体を(良い悪いにもなく)生かされ、ではその全てが自由である事の平等や対等さにおいて他者の誰をも軽ろんぜず自分を上になども立たせず教えてもらう教師でもある世界の全ての相に感謝し吸収し導かれながらも、しかしその結果を伝え導き共有ともしたい私の創造の方法は未だ現化せず分かつ為に如何に人為や関係においてにも伝えたら良いかという模索と苦難が続くとしたらば受け取り味わい良しとしながらも(受ける余裕が多少に出て来たとしても)嫌だとは言い、現実的幸福と進歩が共に有る他の道の与えられ方を模索しはする。

その中での他者への分かち合いや思想方向の開き方を如何に私は行うか?

しかし平等という洗脳にも拠らず、質性における優位性や仏性開花の質に近いかどうかの個人または文化的な差異などは有るのでもあろうし人間差異は他の種から見れば些異だろうが民族特質や文化圏に拠りて、決定的に違い多様の縫合性よりも真の質の統合的な共通へ響き合う事なども出来ぬ、差異の方が大きく埋められぬ事も有り得るし、個人の資質や時代的な在り方が全体の善知性にも逆行,反発した非共生的存在を産み出した時に対抗抑制の潜在力を如何に持ちて置くのかの疑問とも同じく、如何に伝え共有を持たらすか?は結局は今、私が行いている人為世界や人間との受け入れるばかりでない関係の持ち方の模索とも通じているのではあり、それが自然に解消されました。だけでは(意識の力によって他に何も行為せぬとも本質へ開けました。というような結果が見えるならば良いが)駄目なのだという立ち会いを現在の私に行いているのではあり、人為的な抑圧または操作にもよる変換を個人の自由や多様と比較して何処まで押し付けたり関与して良いか?という人類(又はそれ以外とも)の課題に既にずっと直面している研究の過程なのだ。

年齢などにおいても、経験による比較優位などもが加味される事もあるし、そうした判断付けを違うと感じられる場合もの両方があるだろうようにも人間は統べて平等であるとも言えるし年齢や性別や人種だけでもなく如何に深く観得されているか?等の仏性などにおいても本質的に不平等であるとも言える中で如何に共有と(民族自決のように共鳴性により離れ暮らすセクト化も或る程度には認めるとはしても同じ仲間内でも如何なる時にも人間的な齟齬や対立は生まれる故にも)そこに流通性を取り合えると云うのか? 全体最適の為に個人自由を制限するように妥協的な折り合いを持つ事や完全に自立的存在体を叶えた後の共有や関係の遊び性に移行する以外には、相乗的な共鳴性は(近しく共鳴出来る者とも、本当には分かり合えぬ何処まで行ってもの孤独を本来的に持つ人間と個人という区引きを背負い行くが正しく、非情を覚悟せねばならぬような生命とその方向なのか?のように)有り得ないというのか?

共通活動の共通目的を持っていたとしても、それだけで相乗が起こるわけではなく同志とも言えるようなサッドサンガを得る事は(完全な共鳴性は得られぬとしても同程度の段階で共有出来る心地好さなどに)時の運(偶然や徳による)や巡り合わせ以上には難しく、その流れによって生きるという納得以外には全体最適解化は出来ない。

利益共同体としてもの目標方向性も個人性質の共鳴性も真の分かち合いへ(聴こうとするだけでもの相乗,共生的関係は起こるし、何処までもの融合を求めている意味ではなくて妥協的でない関係という意味で)は届かず役割を果たさず、故に個人ごとの生命体験が付されている意味は有るともいう一解釈を置いておく事は有り得たとしても全ては自身でしかないという覚悟もへの孤独は癒されず(共有出来たという一結果への判断と依存へ誤魔化した充足は得られる幸福は有り得たとしても)ではその精神と生体の近さによる基準の一つは家族などへとも戻る単純で原始的な継承単位の復権(氏族,民族は、その延長)もは有り得るのではないか? それともは独自生存へ独化した個人的充足の方向(現代のトレンドであり今後への傾向)が正しくないとは何故に言えるのか? その保守的意味合い保持と打ち切っていく潜在的傾向の必然性でもある先進性との間をも埋める統合(的な中間?)であり分化(もを怖れぬとはしても)ではない共通に響く答えは何処にあるのか?

(11/28)<
追い付けず影響が見えず交流も出来ぬ程に一方的な技術的な格差は相互不振や非流通を生まぬ為にも(地球的環境制約や自然的状況の為す分化性以上に)あまり種は分化し過ぎない方が良いとも思われ、ではその格差を補う為に(一つの極が起こればそこへ引き寄せられなくばならぬ自己決定ではない反応としての決定でありたとしても)中間的居場所としての存在や技術を担保,保持させていく事や、又は自然の分化率へ制限させた進歩という在り方を取り入れる事もは先進的挑戦性だけではない原始への反動も取り入れ双方の極を我々内部の一体と認めた上での規制として有りても良いとは思われもする。(それでも、そこを突破しようとする動きは人間に現れるであろうし、その解釈もは少しづつにも変容されていくのでもあろうが。)で、あれば宇宙の先進文明達が目に見える形で我々の文化や知性,意識程度への進化へ干渉して来ない理由も、(自主決定権の問題だけではなく)幾ら破壊と苦しみの文明度合いでも突飛に飛躍させてはならぬからなのかもしれぬ。

(中間文明の種が勃興している現宇宙(全体が同じ時間軸では進行されていないとしても)の発芽,繁栄期へ差し掛かっているのかもしれぬが、それでも太古からの先進的な知性,文明,意識種は(神と言われるような意識行為体も、その時代の量子や元素配置に拠りて生まれたものかもしれない)ありたとは思われる。)

そして取りゆける進行の方向とは、極肥大との中間を採ろうというより、そうした宇宙の法則や次元の新観念にも則った先進的文明や種族の観点にもあるような未来にもおける思想の視点にもおいての人間傾向もの適合の形を見い出そうとして行く事ではあるのだろうと行き先を観つめるのだ。

僕は何と誉めて貰うが嬉しいかというと、バランスが良い~中間的~。や観察知性が高い。と言われたいと思うが、それは中途半端な適合の状態や知識的分別に長けているのではなくて本質的な統合性へ達されていたいと思う事についてであり、僕に魂や生命と言われているのも流れに触れていたいと思うのもの全ては、その本質,統合への求めと動きであるとは言える。

僕の知性とは知識的には浅く広く、しかも忘れながらのものであり専門的な事は分からない。が、一つの事象を見ては(例えば金利政策などを取ってみても)その内実を深く理解など出来ないが、そこに起こっている人間的な動きや流れの連関は観察する事が出来るというようなものであり、では深く専門的で真に裏で何が行われているか等へは偶然的な推測情報などの断片へ触れ出会う機会からの参考により推察される事もあるという程度ではある中で他の主要者(player)以外の者たちとも何ら変わらぬ私も短視点上の考察であり関係外部者であるが(例えば陰謀論的な意味合いでなくとも米中の貿易や香港などを見ても、どのような利益における駆け引きを行っているのか等によりて全ての真相を知る為ではなく、そこから)人間や世界の動きという真実へ対する読み取りは私と世界の為への観察と学びへ使用されているというような事だ。

世界と歴史は私の見る物へ与えられて行く事によって、私を通して出される私による世界の再創造となるへ繋がってゆく。

そして世界の苦しみへの寄り添いによって苦の解消へ向かう私の日々動力ともしてはいくのだ。

どんなに凄惨で修羅な世の仕事に見える事などの中でも、徳の高い人や低い人などは(その分布度合いの差異はあるが)居るであろうようにも(その意味で職業に貴銭なく判断してはならぬとも言う)その内容すらもを越えた存在の尽くされる質と、流れの未来連結へもの状況現在の各自があるのみではあるとも言えるのだろう。

人種や職業や家族にも拠らず個人的性質のままを保持出来るようになった享楽の形での共通性において関係もする生存は、切り離れる自由にもよりて多様機会との成長も統合も持たぬだろうが、そこへの抵抗措置である統合圧力としての全体主義的な平等(又は非対等の自主選択ごとではありても)などへ吸収されゆくも違うと思われるが、しかしそれが場所的な文明の分化(セクト化)へ起こるかにも関わらずジーンリッチのようにも改編や優生は復権するであろうこれからの時代にありてtrans humanとの優劣差異もは過渡期のadvantageであり、愚かなままの保持人種も優れた文化や知性享受の優性人種もは、それぞれの性質背景にも拠りてのprogram的な一端へ化されていく改編には同じなのでもあろう。 つまり、如何なる分化や支配被支配の優劣格差もはそこへ吸収され人間的喜びである生体や個人や記憶や交流や自由や権利などもの全てはarchive的なsimulationとしての記憶や経験となった以外に失われるは同じなのかもしれないという可能性提起を支配権益層へ、分化も同じ船であるを伝えるような未来への視点の持ち方もがある。 そこには個人がないのだから優先性を享受できる感情主体としての自身などもなく、虚しい一瞬的自己(と思われるもの)が生起されては消えていく明滅のような記憶の使用だけがあるへ解体されてしまう事を、それでも優越を味わえる特権があると考える者へも教えておいてあげよう。 そこに(創作的な)提示と会話の流通性と価値もは有り得る。

現在の一般的愚かさと文化的享受層の知的背景等に度合いの差や違いはあるが、それを優越であると考え差別する等の愚かさや短視点的な人間知性である範囲ではそれ程には違わないのだという事を示し、それを理解出来るならば選民思想者も亦、同じ種と未来への同船者としての協同へ組み込む事も出来るのかもしれない。 理解とは、その為の力でもある事なのだ。

だが知性的流通や交流が出来ぬ者程、そうした共有もが出来ぬであろう事は、では思想的に理解出来る者達が世界を展開させていく力となるへ働きかけられたとしても、一般的な愚かであるままの層は自己を変革させる方向努力もなく結果享受するだけであるにも進化がないのかもしれぬように、そこにも分断,分化がある事への許容は、現在のように続くのかもしれぬが。
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(A lineとlのシルエット等もの相反,余裕や幅の広さ,テクスチャ,素材,等もは人間生体の生命的な快原則(その快原則とは人間種の本来由来ではありても本質であるのかは分からぬが。)から離れて来ていると見える現在風潮と延長の相や傾向にありても、そこへ戻るのは共通的な基盤でありながらも(統合形かもは分からぬが)至難の業ではある。を転換させるようなkey stoneは私や誰かに置かれようとなどせぬとも、この連綿の自動生起には果たされていくものでもあるが。)

経験へ深めた質性の他者に学ぶ必要は有りても、それをグル(師)の絶対的必要へ依存させるべきではないと思い宗教的な対立は統合される事からではなく多様を認め合い奪わぬ事からの解決であると思われるが、では統合性の存在や融合を持たらすよりも多様自由の各自個人が在るばかりでありても真の意識への存在革命こそが起こされれば全ては解決であるとなど言えるのか、又それは如何に起こされるかもは教え伝える努力と時の運命や流れに任される以外には無いのではないのか? 私に目指す状態とは現在にはこの分かつ事への分断,分別の気付きと観察の性質にゆくしかないのではあるが、真の知性と幸福は只全てを任せるのみで行為せず受けるものもの選択や対応は更なる最少へ向かうべくに在るのみなのか? つまり、各自の融合ではなく個人としての存在統合へ向かうへ何が出来るか?でもあると言え、その意識や存在の質とは教えたり分かちたり(その結果は如何なる質のものでありても変質するにおいても)正しく観じ深く見い出そうとするもがなく只全てをそれで良いが肯定に充ちた愛へと流し去る自身の自由へ孤独でも向かう歓びである生命過程の全てを味わう傍観的観察の無対応,無関与者となるへの努力のみが正しき方向であるというのか?

流れが必然などを起こしていなくとも各自自由と多様に放り出し変えようとし過ぎず認める事と、そうした充足や幸福の意識にもよる結果の共生や共有,相乗への求めと分かち合いの両方で(分別を越えた味わいのみの存在やそこへ向かうへの知性と分別を通して深く掘り出しゆく分別にも判断なき知性の両方や、どちらかやのようにも。 そして、現在の私は両方に懸かるどちらもで在りながら現象,実際的な性質と傾向の側面は肯定のみの気付きではなく知性的な気付きを基にしているし求めてもいるが)何処を自身の方向と現在に対してもの統合としてはいくのか?の世界への意識や方向の関与でもあるのか?

一つの事象や真実面に留まらず、何処にも囚われぬ解体を続ける私は、分かち教える事も判断はせず恐れはしない、運命に尽くされ性質のままという制限を認めながらも、そこを解き放れていく事への方向をも同時に描き持ち取り出していく者としてを生きる自覚にも在りているのだ。

表面や表明的な私と私の性質傾向が選ぶのは、それらの内では知性,分別をも持ちて深き気付きへの生命を味わう交流に生きて肯定と交感の統合と本質へ至り着いてゆく過程と現在の生命を生きる事であり、その結果は共生や相乗へも通ず。というものであるが、多様の理解と再解体の過程を持つが故にも、それだけとも言えず統合的集約を上手く纏め話し伝える事もが出来ない。

しかしそれでも、自然が現じ自然が然ずる私と世界への流れを生きゆく事の価値は既に得られてはいるのだが、やはりその流れへ乗り流れを起こす必要などもない中で、如何にそれら流れと交感しゆくかや選択等へもの答えと流通の仕方を用意していかねばならぬのではあるが。

originalityを模索する若年期が大切でもあるように、しかし焦らずブランクで良いのだ。 今こそにやらなければという恐れへの欲動と制限に突き動かされず(その意味でも、やる気に依存しない。という標語的モティベィションは、あまり良いとは言えない。)流れによりて自然が示現じて来るを受け取り流されていくという在り方は、(究極的または一面,一義的)どちらの真実にも合いているのだからにも、やはり伝えられて良い伝えられたい価値と思われる私の価値判断ではある。 それが本当に自己解体への方向努力がなく性質(キャラクター設定)付けなどへも引き寄せられ過ぎた結果かは分からずとも、例えばidentityの危機による自己方向付けや引き寄せは危険や無駄を生む為にも、何者かへ成らねばという焦りや方向での成功モデル付けの姿を(自身意図であるかないかに限らず)見せるべきではなく提起されるべきは自然の流れに現わされ然化されてゆく道を歩む味わい生命を生く事の価値や、その豊富,充実さという成功の姿と方向である。を私は伝えられる創造へ在りたいのではある。 そこへ自然に然化する存在からの如何なる創造や表現の手段が化されるかは未だ待たれる楽しみでもありながら、現在の私に試され向かわれてもいるものだ。

自然の然化性自身としての私(生命,現象)たち。

流れの不可避や不思議な連関は理解や判断も出来ない。 しかしだからといって、それのみで良しと停止してしまう等の人間的資質の段階などよりは、大体いつも少し先を見ている私の現在ではあると把握も出来るが、でもそれは僕のidentity的依存としての自己肯定部ではない。

例えば昨日小さな平皿を割ってしまった事で今日掃除をし綺麗にする機会となったからといって、それを肯定的で前向きに納得し解釈する意識へ利用するは出来る(し、そうした些事において、これも流れの内かと想像する気付きへの立ち会いへ利用する事もは出来る)が、それが必然的な流れという連関の証査であるわけではないように全てを流れの連関付けへと観て理解,納得しようとする事もは、常にそうでなければならぬ自分を保ち続ける為の強さの指向や流れという一方面の観相や視点ではないと言えるのか?と統合へ未だ至らなくても、自己の解体と再結合への旅路をゆける能力は自分には有るという時と世界の役目だ。 その自負や自覚にも依存せぬ何者でも無き無為をも共にしてゆく生を灯すが。

何か有った事で何かが起こったと見える事(が例え世の真相を幾分か含んでいようと)もを解体してゆくならば、必然かどうかに関係もなく流れになど乗らぬとも如何なる判断を持たぬとも良い自然の自在に流され任せて在るだけの放棄,無所有(無利己)の自在へ至るが方向であるならば、その過程としてもの観察,判断による肯定への手段性もは必要なくなるのではないか?

原因と結果(因果)とは作用と働きの事としては正しく(業なども同じく何を選び何を起こしたか?の事でもあろうが)、しかし良い事をしたら良い事が起こるというような(カルマや徳性的な)業の解釈自体の事でなく(それでも意識の用い方によって現実が起きるような使い方は出来るとも思われるが、それはまた別の問題)、私各自へと行われて来る流れの受け取り方が例え既なる必然的決定であったのだとしたら(そこへ関与出来るか、しても良いかも別問題ではあり関与可能な自己へ至るのも亦、その必然により規定,記載されているのならば先進的宇宙の知性たちは、それを知りての現在行動の意思的選択に宿された自身へ何が為される必要と感じられるかへ立ち会うという現在の私が行っていると同じ状態を意識して生きているのかもしれぬが。)何を私に選び世界の共生や進化への関与へ行うか等を最少的傍観性へ放棄し抜けていく事が私によって次の因果を生まないという存在目標化でありて、そこには祈りと存在すらが最大化される必要もなく如何なる力と操作と影響関与もを抜けた、自然に示現される宇宙の相と一体のような存在性(と知性)へ至る事のみが宇宙の自在と力への創造とも一体の目標地なのかもしれぬ。

これが流れへの存在と日々の観察という事でもあるが目には見えず判断出来ぬが流れの端子ごとの私たちが流される中で、例えば母はどうしても反応してしまい自分では解消する事が出来なかったのだろう。 それを他者との間で繰り返し、しかも長い年月の時間がかかってしまっていたのだろう。 僕はまだその分を身近と14年程で若い内にも行い済ませるへ近付いたのだから恵まれていたのだろうとは思う。 だからといって母が、あれ程まで一切に固くなさを崩そうとせぬ自身を直しても振り返りてもくれぬのは、致し方なかった彼女と見えず秘された世の意味合いが有るのかもしれぬ事などを理解したとしても困るのだが。

自身の責任放棄としてでなく実際に他者によりて流れが違われるのはよくある事だ。 そうした人為との関係や兼ね合いにおいての流れを自身の行為や選択が補整しようとする事がなくてさえも全てが必然的に補正されるならば、自身の選択において流れを受け取ろうとなどせず他者の決定に委ね任せた自身の空位に在り向けてゆく事のみが正しく必要な方向であるというのか?

私にとっての一大事は、流れに触れていたかが(選択,言動,関係,創造においても)基準や方向であり囚われでもあるのだが、それは自己を越えたものという認識と納得による他次元存在や魂などを想定した主体者(loadへ対する忠実な下僕となるように)に従う意思の奴隷であり、又は全能に近い私自身の根底自己における利益判断ではないと言う事もは出来ぬ結局、何処かの意思や利益または全次元段階の精緻で微細に入り組んだ連結の決定に操作された者を生くしかない事での放棄または利己もの同一ではないのか?

それを観念して後は只そこに為される宇宙の連結的な相を感情的な囚われもなくに眺め、(選択の味わいではなく)自己も選択も放棄しての為される味わいを生くがばかりであるのだろうか? 虚無ではなく意味は有るが宇宙を起こす一相面の歯車,奴隷として踊らされる我々自身を、せめて把握し観つめる位にしか知性を使用する事も在る事も出来ないという絶望による諦観だけがあるを自身へ育てるにしかないという絶対的な垣根と非情を覚悟するしかないが悟りなのか?

全く良くない可能性であるが来たのか否、全てがそこに用意され繋がっていた受け取りて良しのものなのか、どちらの可能性もあるものへの選択は一端ごとの結果でしか見えない。 ではやってみねば分からぬ事を行わずとも済ます受け取らぬという又は言わずというような選択においても(他者との最善的な影響,関与,分かち合いとなるへも)は自身意識の一相(真如一実の相,一つの見え方などのどちらも)の転換のみに有るのか、亦そこを制限し言動への選択へ頼ろうとするのは存在や創造の自身能力の過小評価が故なのか。

流れが合わぬなら囚われず、では違ったのかもな位に流し去れれば良いのかもだが、受け取らぬ可能性や(自身,相互,全体の)利益を失うかもしれぬなら試してみたいと
思うのは、欲望でもあるが可能性への欲望としてだけでもなく自身に何が与えられており出来る事なのかを問う(例え、そこに何の意味などが無いのだとしても)必要を選択するへ立ち会いたいという人間の自然と流れや真実への交感,獲得欲求である。

些細な状況にも試しているように、重大な局面にもおける選択と能力の最大使用が試されるならば、それを(信託と祈りのみへ放棄する効用と可能性の最大化を、自分を為さねばという過小化させているのかもしれぬとも)行わなければ始めから拒否する事は自分にとっても出来ない。 例えば今、自身の能力を試せば目の前の人の命を救えるかもしれぬのに、生死判断も越え状況が来たから死んで良いと投げ出すだけが良く祈りなどによる現実化の力と創造をも捨て離れ抜けてゆくが存在の目標地なら、中間にして最少にでも受け取り死なず判別なき 肯定のみに味わうだけに生きているという状態をも肯定せず食などもの生存最少欲求すらをも捨てて、死んだ方が良くなってもしまうだろう。 そして又、如何に進化して次元段階を統べるに近付いても総体自身には成れず既なる総体自身の一部であるという納得以外には従い為される必然しか世にはないと、もし分かってしまったのなら、そこを目指す労力過程を生くよりも仏陀のように現自身のままを認め生きる事へ還り来る未来にも渡る知恵と価値ではあるが、その選択の行為点の正しさなどは(戒律という当時状況への人為判断の制定性以外に残っておらず)その生存や知性の実りの(意味合いもすらを捨て未分化や)無へ帰してしまうだけが目標地ではないとは未だ答えが出て(出ているかもしれぬが示され明確化されては)いない部分ではある。

~選択と能力(自身)使用の問題と、知性や生存の行方などの問いの重複や同時。~

言葉を伝える必要も捨てていくのだとしても意思を告げないでおいて何かが起こった時には、自分に出来る事はやっておきたかったと思う納得感の為にも、それが本当に必要であったかの結果など見えず判断出来ぬ上で為しておく事へも囚われぬ。とは、もしその役割的肯定が実際のものであったとしても自身の世界への行為価値の承認や自己納得の為のものでもあるが、それでも感じたままの自身にとっての現状と必要に為すが良いのか為す必要を抜けていきて、その結果に何が起ころうとも(自分が関与していれば違ったかもしれぬ可能性が見えても如何なる結果への判断せぬようにも)只一切の結果も関与もを放棄していくのみで在るへ向かうばかりか、のどちらであるべきなのか? それとはつまり、判断なく感じたままに為すも良しとするを現在との適合に自身を置くも良いのか、全くに判断なく行為や選択や自己を放棄する方向のみへ向かうべきなのか?でもある。

もう仲間だからそういう人だと分かってると言いてくれるは嬉しいが、言っておいていなかったら彼自身も分かってなどおらず又はやはり関係の問題なども、そこに起こっていたかもしれない。ように一つの結果から見て、どの通り道が正しかったかへの判断などが(人間知性には)持てない。

ではその制限知性を越えた高位の(それでも被支配され操作されるに従うしかない)次元や存在の状態を目指すというのか? 又そこに達した優性は格差判別を(全てが只、行われている宇宙の素子や歯車であるというには同等でありても)現実実際には持たらすかもしれぬとも良いのか? それが個の資質に依るものでありても又は素質や能力以外の平等性へ技術が用いられるへ選択の権利が与えられたのだとしても、その自己の拡張や可能性への挑戦の置き方を如何に設定(し制定)しゆくが良いのか?


寿命が見えているならば、最期まで生き抜く生存よりも(何か他の価値との対比によりても)苦難なく殺し楽にするというようにも、共有の関係性が為されぬかもしれぬ可能性が高いなら早めに切り失わせ努力や相互に培う過程を採りゆく必要性もが無いとは言えぬのか? 基本的には違うと言えても、利益や効率面だけではなく自身や他者の大切なものを守る為の犠牲などというような交換や価値が起こり置かれ行われても間違いであると断罪,判定は出来ぬのではないのか? 努力し挑戦し現在に立ち会う過程の価値は肯定されても有るだろうが、結局共同出来ぬ可能性が高いと判定されるなら、そこでの労力使用の無駄を省いても悪いばかりとは言えぬ(成長機会を逃しているとは言えても)のでもあり、では何故に共有面可能性の増大や相乗性の最大化(それが合理,効率性の追求だとしても)による(しかも方向性が侵犯なき共生の共通でもあるのなら、その結果が分化でありても、そうでなき共同的発展への使用可能性もが有りても)自身や全体の最大功利性を生み出し得るのならば共鳴可能性のみへの拡張方向もは否定出来ぬのではないか?

では自身や身内の共鳴度合い等に判別し、奪い来る力への対抗や防御や侵犯抑止の為にも殺すという選択の有用性は有り得る故にも許し奪われるばかりでなく平等に力の行使可能性が許可された方が未来の手段や思想に違わないとも未だ判断し言えぬならば奪う者への対抗措置や武力手段は如何程までが許容され、又は共鳴可能性の最大化のみへ資源,労力を投下する自己拡張の末にも見えるかもしれぬ全体との共通価値と基盤を迎い得るかもしれぬ可能性は(可能性を追わぬという私もの思想方向によりてにも)試す前から否定されているべきなのであろうか?

交換原理がどこまで深い法則かは未だ分からぬし等価交換である必要もない事へ意識の力を用いておく事も出来るが、リソースの使用量によりて対価を得るという(貨幣経済はその思想でもあるだろうが)方法は共有においても共通かもしれず(現在までのところ、その結果は見えてもいないが)試される価値と可能性が有り得るのならば自然相乗の共有者間とだけでない(現実的状態は何処までもそれだが)共有へ対話的な労力を使用して(政治などの無駄も総意点を最大化させる為の人間的進展の必要や納得手段でもあるように)労力消費の対価としての共有を創り出そうとする方法は(技術として度合いに違いは出るだろうが)
意識だけの存在という操作力であるよりも(それも操作ではあるのだから)人間的にだけでなく自然や理(法)にも適った方法でもあるのかもはしれぬ。 しかし作用反作用の原理性は必ずしも等価交換ではなくても成り立つと身の回りの現象上は感じられてもいるように(それは同等ではないというのは現在科学的な証明による言葉では勿論ないのだが、経験的観測段階での実際ではある。)行為労力の実際にも意識に拠りてもにかけた労力,資源量に対して同等分量の結果を得ようとする力の使い方へ(理解や利用もしながらに)取り込まれずに取り外し、では交換原理を外すによって行為の最少により対価の最大化を得ようとする事へも、最少による操作力を用いず結果を得ようとしない事へもの両方に利用も出来る選択肢のどちらもが有り得るならば、そのどちらを良しとし又は使い分けるのが良いというのか?

12/2~
それはつまりが肯定によりて肯定を受ける等ともいうように、結果の為の自身を最少へ改編していく利益の為の自己解体であるのか、それとも如何なる結果が起ころうと受け入れるのみの自己最少へ達し減らしていくという仏陀にも示されたような方向かにおいてもの全肯定の質性や方向への問いであり、その両方を同時に試している自分でもにはあるし又は、意識の使い方による現実化はそれが真実の正しさではなくとも起こるのではあったりするように在り方の結果は自然に現実状態へ反映されてしまうのだからにも、そうした二元的な肯定の結果へ対する自身の過程採りなどの考え方を考察し持たせる必要もが無いのかもしれぬと言われ思われようとも、しかしそれとは囚われず放棄した自身最少化へと向かわせながらに自身のままの望まれたものの感得を自由に為され与えられたままに提起しては自己必要を求めてもいく事や共生的結果を求めるのか,求めずとも自然結果がそこへ達せられてしまうのか,達されぬも良いままのみに在るべきなのかという根本的な在り方の違いを統合へ埋める為にも(現在自身の在り方も認め併用しながらに)必要な過程の行き方と方向性への考察であると私には思われている大切な立ち会いだ。

それは流れを呼び寄せる為に空になるのか空になり如何なる思惑も捨てているのみなのか? その結果が肯定へ自然に然じられるのか非肯定的現象や非共生や非生存の結果が起こるを受け入れるかだけでもなく、その方向へ向けてさえへと生きるべきなのかという過程採りや意識の用い方自体への問題だ。 (そうした事を只の肯定であれば良いだけなのにと済ませ立ち会う事もなく排除する者は知性的,生命交感的に深いとは言えず、それらへと立ち会う事が出来る者は、その知性や能力の度合いにも拠らず聖者である(現在人類の制限内での聖なるという区分ではあるが)と言う事も出来るであろうと思われる。 今後人類への指針を現在にも辿り示していきたい私ではあるのだ。

全ての者は役割を為しているし才能を発揮している者は度合いの差は有れど天才とも言えるのだろうが、それでもその各自の質が本質に近い気付きへ根差しているか?等へ自覚的に振り返り補整させていくような自浄能力の必要さを(大抵の者は自身現在を行う以外にそんな余裕なども無いのかもしれぬも理解はするとしても)そこへ差し込んでいく方向提起の関わりと、その手法でもある現在迎合的人間の姿への肯定だけではなく折り合わず否定を組み込んでいく事も(上からの指摘である等と理解されぬ反動や否定を生み出したとしても)必要な行為方法の関わり方であるとも思われる。

ではその人間的多様への深浅判断にも拠らず、又そこにあるのが例え只のアイディアを試し自己承認や経済的目標の充足動力により無駄を産み出すような大した創作でもないものの生産活動や消費材的生命使用化であってもの大多数の動きと働きを見ては、そうした一先ずづつの結果を見ていかなければ納得出来ぬ人間の進行力の自然をも認め、可能性追求の人間性もを組み込みながらにも、その方向を補正する為に違うとも言い本質とは何と思われるか?へと(自身にとっての本質を示すのではなく、それは参考としてもらうへ示しながらも)投げ掛けていく提案関与の私と成りたい。

(つまりは結果への判断もなくに、しかし人間の用いる結果への行動や想起性を利用しては、過程への歩みへ働きかけ導く為へもの提案,関与を持つも良いという事。であれば、やはり意識の力を本質または共生などの判断(度合いは深くとも)に拠りても使用し呼び寄せようとする活動は(それも肯定されてはいるというだけでなく本質性においても)正しいと言えるのだろうか?)

しかしまた、それが良いのだとしても私に出来うる事の範囲で行う事や、必要と感じても最少性に選択せねばならぬを選択するというように(本質性とその基準が分からぬのだとしても)どうしようもなくに生み出されるしかないような流れにも置かれる自身をのみ置いていくのか又は、それさえもを置かない事へと引いていくが正しい自己へもの更なる方向と努力目標であるとも言えるのか?

囚われず減らしゆく方向性,などすらもを持たず何が本質的統合である同一地へ達しゆこうとするもがなく過剰な自分も個性のままに、ただ完全に流し去るのみなのか?

創造的な価値が私に有りていても人為との無駄な連関の調整を避ける為にも、それを存分に生かすへ関わりたり選ぶ事は出来ぬ引いた方向性を選ばずを得ない可能性や、又そうでなくとも自身のままで在るにしかないにおいてもの全体価値の連関の奇跡や結果への努力の為に自身を消耗させる犠牲にしてまでは行えないという流れの中に、それが必然でもあったというような未来への経路もが起こり行われていくのではないのか?

それは例えば勝新と黒澤のように、その破錠機会を例え一度は避けられたとしても、その芸術的結合の結果は起こり得なかったのかもしれぬようにもではあるが、しかし人為性以上に流れを繋ぐ調整者が居れば、その者の人為自然の役割においても為し得られたかもしれぬという可能性はあるが、それはいつも時の運であったり又は身近な制御段階を越えた上からの力の行使による阻害への非力さと対抗労力,資源の浪費量が大きい為にも(戦争において仲間の死を無駄にせぬ為にとも同じく、その投入量が大きい程に諦められず引きづらくもなる事は分かっているにもおいて交渉力を勝ち取る為にでもなく、では始めから闘わず敗れ追われていくしかないのかとも同じ課題ではあるのだが)一個人(の力が戦況変化させる事もはあるが)には、どうしようもなく又は対抗措置を持たぬによる想像的価値の故にとしても、自然に上手く行く事の以外には無駄な努力を行わず引いていく中での必要が起こり来るのみを受けるという流れと生命の本流へ触れて世界を抗がわずとも変換させていくのみのような存在芸術手法をのみへ向かい取りゆく事なのか?

しかしそうだとしても人間は、互いの違いを役割分担として適合させる事さえが出来れば対立も必要なく相乗され得ていく分配方法の可能性を提起へ置く創造行為や関与は有りても良いと思われてはいるのだが。 (それは違いを無理に共有したり各自同士を繋げねばならぬというのでもなく、そこにはその各自の自由,多様をも認めながらに自然に必要同士が噛み合いていく(経済的理由への阻害などもが減り)可能性もが増大するという価値への提案ではある。)

そこへの意識だけではなく意識を現す方法を言葉や創造や各自にも持つ性質などもの活動性において伝え共有へ働きかけていく事は何らの問題でも(囚われていく種子として膨らませぬならば)ないとは思う。

絵がクリアに想起され見えるvisionが故に、その必然と現象の未来が為される事を待っているというわけではない。 そこをvisionも才能もが有る故に為され成るはずであると思い込み信じてはならぬのだ。 それを信じる事や自信によりて呼び寄せるものがあるという効用の否定ではないが、基本的には如何に本質と感じられたものや自身の深い感得想起によると思われたものでありても信じ込まずに、それは真ではないのかもしれぬと振り返り覆し問う事にもよりて、それが何を生み出していないように見えても気付きへと味わう生存を創造しているはいるとも言えるのだと思う。

自分のままに在り抜けて、関係が切れたら次の関係へ移るという関係性も人に拠りては可能だろうが、それは自身visionを現実化させていく能力の強大さ方向とも同様に、相当な程の力やバイタリティでもない限りは自分の創作の全てを監修できない。 (それは役割他者,又そことの関係採り,もしくは全製作の自身を化させるしかない選択肢の無さであるにおいても同じ、その全てに不能な私現在への流れなさによりては求められている自身で創り出すしかないが追い付く事もなさそうな行為への必要と 他の手段の無さでもあるが。)

そして得る事や成す事を追い求め続ける中での充実はしたとしても、それでは真に満足で立命的な安心への安定は得られない。 であれば各自性質の出現においてやりたい事やアイディアへの挑戦においての未現の可能性を為そうとする動力が(承認欲求やidentityの成功や経済的利益を基としてはおらず)そのままに良いと認められていたとしても、やはり為そうとする行いの方向とは、自身根底の本質性に残る基底からの必要のみにおいて見い出されていく必要が有り各自人間知性へと問われ提起され得るものではないか。

つまり為そうとし可能性を追い結果を求めても良いが、その方向と質性とは(見える基準値化も出来ぬが)やはり自身へ与えられたものの性質の(ままにではなく)根底に在る本質性とは何かへと向き合い向かいゆく事であり、減らしゆくという手段も気付きゆく深さというのもは、そこへの為の事であるとは言えても良いとは思うのだ。

また労力をかけたかどうかには依らずとも生命をかけた創造結果の作品が良いものや価値へ触れたもの、又は自身にとってもの本質の流れに為され近いものを宿せたのかどうか等においてもを成立の質判断や基準として気にする事もは費用対効果としてだけでなく求められては当然の、何が自身には出来るのか?を最大限に成したいという普遍的な人間性質や資質を生かし得る可能性の利用法方向であるとも言えるだろう。

ではそれをしかし可能性を追うだけでなく本質の質が大切という方向性とも相違せずに、しかしシンプルな集約としても示すには、どのような私における言葉と成るか? その為への、この私現況と行いではある。


12/3

今日も私の身体は私に意識しなくとも連結を行い毒素を排出してくれている疲れたら休もうとしてくれるといった奇跡が、私の生きている事の中に行われている。 そこに眼を向けさえすれば、そこへの感謝と一体の生命においての身体もとの共有へと関係を取り戻す事も出来るのだろう、私は生きている生命一体の奇跡自身へとも還る。

そして共有とは交感性の共鳴であり全体,恒常系との関係性修復の自身となる魔法への祈り。 共有の魔法とは、全てに世界の調和が成されている中での私意識と存在に共生性への調整が起こるを願うという事とも同時に在る、私と全一体の魔術。

私の共有への求めというものを説明すると、全ての多様が同一者のように仲良くや分かり合う事を求めてる(そのような一方面のみで人は捉え、そんな事を求めるなとか同一になれないのに強制や依存だとかと言い否定や意見して来るが)わけではなく相反への無駄な対立や破壊を減らせば噛み合う事を阻害する人為(よく利己とも言われるが利己や人為自体が悪いのでもない)の方向を、見ようとする事が出来る知性の使い方や味わいの価値と方法や、その愚かさを自覚し乗り越えようとするへ自己努力の方向を転換し向かわせる為の関与と成りたいのであり、また超越や肯定だけでない世の相や真実を統合しては、この現実現在人間もの世と繋ぐ事が私の望む私の役目。

そこへの在り方と試しを私の身近においても見て学び為してはいるが、しかし人間の世界の大きなものと関係し働きかけていく為にもの日々の労力から抜けた身近な関係での安定とスムースな進行へもの仲間との共同などへも移りたいと望むが(そうなるかもしれぬし、そうならぬとしても)結局やはりその根本的な行い在り方や安定自身と成れ、愛で愛を繋ぎ現実を起こすような存在へも至れなければ又も拡大された闘いや人為との無駄な阻害や対立や利用や破壊などに巻き込まれるのだとしたら僕は嫌だし乗り越えるへの自身自体は歩みながらも拒否し真の幸福へ向かい現実的幸福を歩める事への方向の為へもの愛の自身化を成すへとも日々を游ぐ。 そして世界大の活動へ私の自然が為されないのだとしても(それが例え人為的な阻害に拠りて為されず抑え込まれたのだとしても)しかしもう私は、それも良いと(望みと目標への動きは有るが、世に名を成すように関与の価値を最大に残し得るかが起こるか、等は)その結果を放り投げている。

役割同士ごとが有るにて全ては宇宙の為し為される連関同士であるに他者の役割への嫉妬も憧れも要らず(方向としての共鳴性は有りても)その者のままを生くが良い。 自信がなく自己肯定感も低い私でも、の世への関わりの在り方は有り、例えこの話せぬならば書く事もや深さと統合や創作もが上位概念の実体化によりて無駄となりえても、私が私を行い行われ私に生きた価値は此処に在るという肯定は出来るのだ。

(例えばナウシカ的な生き方を目標として自身を生きるのは良いが誰もが彼女のような破壊,創成媒体としての伝説になろうとする必要はなく、その意味でもの名(の残ること)や名誉(自身の誇りとしてではなく他者からの承認としての)を求めぬという事でもあるのだ。 そして時の流れの主流へ関わりながらも抜けている、いづれの再生へ向けてもの種となりaltanativeに生き延びる森の人のような存在としての創造と関与は私にも合った方向とも思われる。)

会話は大切だが世界を実際に動かしていく大きなものとは、それ以外で動いていく。 その故にも私の存在が如何に時の流れの中で置かれ為されいくかだけが大切であり、それが為されるのみにある私という自己や人為にもおける適合と統合へもの、選択という事である。 故にも交感と流れによりて生きられるかとは(流れに乗らねばならぬという意味ではなく私は如何に生きるかの自身を選び感じ採っていく為に)大切で必要な生命価値事態の自体である。 知性は重要な比較優性度合いとしてではなくて知性はその為に使えるというものなのだ。

では人為により違えた流れの適合への調整が又も他の人為間での流れの相違や不適合をも生み出してしまう事もあるかもしれぬのなら、又は人為と自然が自然には折り合わぬ不適合を催している状況に立ち会わねばならぬなら(もし自分がそこから抜けたとしても、それは世界の常に起こりている事であるに対しての具体現実的な解決法を見つけ出さねばならぬ故にも)例えば流れの媒介である人間的な流れの働きである他者が居るとして、そこへ如何に調整を成し得るというのか? 折り合うつもりもなく自然を排する人為自己傾向の他者(身近も全体も)や世界に対しての流れへの調整や対話的な応対などもの労力方法の置き方とは(受け入れ肯定すると利用,侵奪が肥大する傾向の強い世にありても)如何に効を奏すると言えるのか?

受け入れ理解を示しながらも、自身の意見や相乗,共生,調和可能性への方法,方向を挿し入れ提案する。という在り方である 応対を試すだけで良いのか?は未だ分からず実際効力は意識のみの方が意味を成しているかもしれぬようにも見えるが、それでもそれを指針としてもに自身を進めていく実行の試行は取り入れられていても良いのだろう。

又は語らず説明もせず謎を謎として表現するによりて神秘を加速させるような方法も、それが(idea的な試行ではなく)至高的な本質性に基づく連結であるならばには良いとも言えると私の方向には思われ試されるが(いつか繋がり表現結果を産み出せるかは分からぬとも)その在り方採りの方法や方向もは真似するのでもない各自のままの私であるに、もっと自信を持ちているも良く、やり方とはそれぞれのままの個別的性質付けの現れるユニークさの示現であるにも良いのだ。 例え私が本質へ達しゆき、そこに普遍的共通の在り方部分が興るのだとしても、それは多様を越えて一つの基準性へ集約されてしまうという事では無い(完全に違うとも言えてはおらぬが)のだともいうように。

そして又は私が愛であるからや意識の力で転換させているから、も外して意識していなくとも反対の想起が有りたとしても真の幸福への幸福状況が起こり世とも否定なく自然な共同へ開けていく。という方向性による意識,存在力のみに在りゆき、その力とは本質と思われるものへの判断への差別や操作ではなく全てを任せ放り投げ自分の想いや必然などもを信託し尽くした本質と肯定の世界性自体との一体となった(それらは、そうした意識の使用状況や魂,流動的観点などが本当に宇宙の法則自体であるか?等の証明としてのものではなくとも)故に全体に渡る安定ともなり統合,包括性を自身へ身に付けた存在の余裕や柔軟な自在力へとも結び付いた本質状態へ至る為への表現による方向示唆としても有り得る。

そうした存在の調和的全体の執行一体者としての善悪を越え包容した本質の力による調整を意識してもしなくとも言葉や創作へ現れようとも存在ままの然化でもの全てにおいて、例え表面での表現は世界とも共に惑い寄り添いながらにも、その超越に引き寄せてしまうような力と初源の存在へ自身を化しゆく行程自覚の現在もを歩く意識の用い方にも生きている。 (それは勘違いの力の使用ではないと思うが例えそうでも、既にと未来においてもの超越の在し方では在るへ結び着いて来たようにも思える自身現在の認識や段階把握と自負と向上過程の肯定理由などでもあるに繋がりて在る。)

全体へと越えて全体を包括する、一体者としての共生,調和への存在力化の自身。

しかしもし例えばたった数人がそう成れたからといって世界は物質,実際的な現実化や根本的な進化や共生へ変換されて来なかったのは歴史的な事実であるが、だからといってその一人が変わる事や時代の状況によっての現実化が起こりて来ないとも限らないように、信じる事の力をも併用し用いていくもは悪くなく私は真の幸福と歓びへの人類や宇宙の進化へと関わる事もが出来得る私という存在化を試す歓びへとも生命が与えられて動いてもいる然化の一役割として、一雫の私を存在の転化に渡すのだ。

しかし人為や各自性質現在の多様や肯定にもよりて、共有関係者間においてもさえに起こり埋められぬ齟齬の実際や流れ(与えられた最適解のような選択採りと、そこへの交感作業であるもの)などとの調整労力に自身の行使点を置く対応を受けては為すが最少性方向においても行為し選択してはいるが如何に努力し繰り返し行い試しても(少しの進展と同時に結果は失敗と)無駄が起こるばかりの体験の中で、(本質と愛の自身化は目指し向かい得ても)その共有不可で対応不適合の私でもある実際に疲れ、私は既に絶望を体験し思い出してもいる。

では結局、何にもならぬ結果という可能性への怖れと判断を取り払わねば、依存なくとしてさえも期待は次の苦の種を生み出しているのか? しかし心は共有と相乗可能性への囚われを持たぬとしても具体現実の(不利益などが自己と判断もを持たぬとも)共同不可性は解決されるへと向かえる方法や存在性の提案が意味を成さぬ自己自然の創造が廃棄,否定,破壊されていく事への無力さを創造的な効力性へ灯す方法は絶望的な世界への諦観や意識変革の自身のみに在るという以外にも有り得るのだろうか?の手法を手探りする実験過程でもある。

だが、絶望の中で光を見い出す。 陳腐化もされたような言葉だが、絶望の状態でこそ(それだけが唯一の道とは言わぬが)光の発現へと引き寄せる動力ともなるように、私はそれを私を通した世界の為にも用いる。

心は揺られるが、それ故の道具でもある。 私という船が波間には運ばれてゆくだけのように連関の全体こそのみが起きている。

では自身へ変革を求め,相手他者へ求め,今は双方の努力を求めている私であるが、何を押さえ付けるのではなくとも何も求める一切が無い自身の変革のみを求め向かうのか?

自分で在る事の以外に共有自体を求めていない人ならば、共有や本質などは押し付けに過ぎぬかもしれない。 そして、そことの流通や交感同士の関係,共同や利益などを捨て諦めなくばならぬは、私でしかないのかもしれぬ。

それでも離れるへの理性と近付きたい感情や、又は現実的な共有必要要件としてもの要請にもよる欲求である共有への心と身体や関係もがありての私たち人間に、乖離を埋める為もの(自身内部でもの選択に基準がなくてさえもの)自身にも他者とにも統合的な運用を持ちているには、どうしたら良いのか? そんなことは可能なのか? 又は求めてもならぬのか?

しかし、自身性質多様のままで在るのみに離れ共有なく乖離しては自足可能であるという方向を目指し実現されてしまうのならば、そこには多様を共有しては結合していく価値も、そこへ無理なく向かい得る在り方にもよる存在化へと生命を味わい自身のままでも押し付け奪い合わず共生,共有,相乗が出来る方法への試行と成長方向自体もが失われてしまう。というによりても、(僕の性質上の求めとしての以外にも)自身を越えて他者間の共有にも培われていくという価値は有りたのでもあり、関係の中にこそ人間が育つとは、そういう意味と価値でもありたのだから故にも、それが人間であるというような言の一理もは有るのだ。

その為にも人は一人での充足ではない他者間においての学びをゆく価値があり、その学びは齟齬や乖離による対立と無駄などではなく相乗と共生,調和的な共有へ向けて自身や世界を育てる事の使用機会であるという方法と方向を私は示し告げたいのだ。

だから各自の性質は理解するし各自の生き易さが優先されると認めてはいるとしてもアセクシャルなどもの生き方と時代の傾向は、そうしたAi融合やtrans human化への脈動へ方向づけや吸収され理解への利用もされてしまうかもしれぬように(だがそれは性から解き放たれた生命の在り方でもあるかもしれぬという良さでもあるように)一面の良さによりて(しかも少数者保護,尊重の視点からも反対の意見を言う事もが許されぬ傾向へ利用され易い事なども自覚して)引き寄せられぬ事と、しかし自身の生き易さや生存権の為や自衛と向上の為にも行為へ関わるという人間活動性へも認め折り合った(温暖化対策や香港情勢なども同じ事でもあるように)自身や世界の状況を受けての対応必要をも取り入れていかねばならぬ、私と各自と人間における調整,適合,選択の各自がある中で私に言えるのは、そこへの交感の価値だけでもあるとは言えるのだろう。

表面的な調和で折り合う調整しかないの(なら囚われず、その関係と現在も良しとしているとはしても)は僕は嫌だし、真に自身のままで在りながら自然に対立も破壊も人為の無駄もなく相乗,共生しえる関係の創造を身近にも全体にもの人類や、そこからもの宇宙への平安,幸福が生み出されるかもしれぬ文明への可能性の為にもの(他者から共有など求めるは自身の囚われだと言われても、共生が判断だとしてもに)僕には如何に創り出せるか?への自分指向性(志向)もの試行と旅を往くのだ。

僕は僕であることで、身近や周囲や状況や世界や流れが(結果の為のではなくとも)愛と平安の真の幸福,充足,感謝などが生命体験の価値と相乗や共生へ(迎合も強制もなくに)至り着きゆく事への創作や存在が在れゆきます事を願う。