junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

167,12/17,

167 12/17

私の生命とは与えられて味わう既なる消費材ではあり、苦が実際になくとも私と世界を助け真に救い下さいと意識転換しているのみでも良いが、しかし苦なき享楽的消費だけでは、此処まで来れただろうか?

苦の絶対必要かは断定できぬとも効用には有りた事も確かだと改めても思うのであり、しかし悪を生み出して何が悪いという開き直りと他者にとっての悪いものを為して良いのかという狭間で葛藤するような生命状況には生まれ変わらないところまでは進展できている(絶対かは知らぬが)自信は有るように、そうした修羅を生産し繰り返す影響への関与からは例え生まれ変わっても抜けていられる私ではあろう。 それは私を越えた流れによりて成された私というもの自身にもよりて辿り着いては来たものだ。 故にもそうした苦の生産へ関す衆生と生き方への慈悲を持ちながらも、そこから離れられた努力の成果であるを受けられる幸運をも祝ぎ感謝している事との同時には在りて、共に惑わずとも世への苦を滅する祈りと祈りも意識の働きも手放してもの一体と在る存在からの関与,行為体としての私と世界を同時に眺める私には化して在る。 そして故にも苦は必要とされる場合も有るし必要なく生ける場合もある、各自ごとの(段階差別の判断ではなく)必要が現じられていくのみなる連関に、此処でも委ねられていくしかにはないのだろう。 故に未来の可能性における苦を滅してしまっても良いのだろうか?へは(苦を人為で生み出す必要もないと同じく人為で変換させていく事も必要はないとも言えそうだが)、その現じた意識や状況には拠るのだろうというのみの事か。

苦もなく苦をなくす事も、その道もない。 そこに至れば、(そこへの成長の為に)苦を必要とされることもない。へ抜けて生きてゆく事もが出来るのかもしれない。 何もが無い上で如何に生きるのかではあるが、その行為の質や選択判断への受け方は、なるべく最少へ減らしてゆくという自由性の道は既に私には知られ目指されているようにも無という方向性は意識の澄ませ方とも同じく、では本然の(潜在的深さや根底と共通でもあるかもしれぬ他の次元流通性)自身に近付き至りて(途上にも)からの欲求とは何を如何に何処まで取ろうとするのかとの感じ立ち会いの中でも交感されていく自身均衡や適合の中にも育まれていく選択はそのものが手段となるを、生きていくもの既にが良いのだ。

この分別と社会関与方向の私もがいるのは良いとも思うが結局ひたすらに行った判別と結合の観察の結果に見い出せ示し得るのは結論(としての私は持てない)ではなく、その方向性であるにしかない私ではある為への道と歩みの労力活動を行い続けなくばならぬ自己性質と制限の縛りでもあるが、又はその限定自己と到達地ではない事を自覚して現在の結論性を(もっと自信を持ちて)これで良いのだと言っていられるようになるか?の、どちらかでもあるだろう。 しかし偽ることなく、現在の自身に見い出された一つの方向性でしかないという自覚の故の謙虚さには在る必要はあるのだが、それもはやはり、その時に感じられていく立ち会いの中でのバランスの問題だ。


そしてではその自身に至り来た状況や段階に拠りては、流れが全て合って来るのか?もは苦と現実化が如何に有り得るかと同じく自身の状態に完全に規定されたものではないとしても、例え世界に苦が充満していようとも苦も因果連関も全てが無く全てが良いと眺め自己意識を減らしていける事で苦の事態からは減らすへ抜けていけられるように(悟りておらぬとも流れに合い現実化を呼ぶ事も出来るし、悟りていても苦の現実が起こり得ないとは言えないが)そうした自己へ変換されていくによって流れには現実もが照射され差し込んで来るように意識が最少限へ減らし澄んでいるならば(全ては澄ます必要もなく既なる完全だが、それ自体となる意識に渡るには澄みていく過程と結果両方ほ必要がある。 故に、あの禅話においてもの悟りとは一方でもありて真の境地とは、どちらもがあると言えるね。の柔らかき包括だ。)結果としての流れにのみへと為される受け取り方へ触れている事は出来、それが人為の無駄を排した自然(全てが自然と最善だとしても)に起こされていく事が出来るという自身化の価値と方向ではあると言える。

その故にも流れに乗り繋ぐという意識方向と交感の手段は目的自体ではなく、しかし目的に達した事から自然に現れて来る結果へ至る為の手段ではあるとは(これも繰り返され得られ来たものであるが)言えるが為にも、流れに乗りているかにも囚われず全ては流れ(ではないかもしれぬが)であるにも関わらず、しかし人為を減らし意識を澄まし結果としての流れからに流れ出されて来る流れに触れてゆく手段への交感においても、最少にして受け取る世界の感じゆき方という方法と方向が持ちいられていくが良いと感じられるのだ。

その次元を越えた流動同士の連関が全体に渡る決定もしく揺らぎでありたとしても、その流れを書き換えるへの自己もが絡み合い起こされる流れには書かれている連なりであるようには感じられるし言えても良いとも思われるが、では量子状態により発現される現実マクロの状態や意識への連なりにおいての作用は起こりているとは言えても、その意識の潜在的根底が実在し更にはそれを生み起こす量子的振る舞いからに通じ規定され連携されたものであるか?は未確定,未証明ではあるのであるも知らねばならず、つまりは物質を生み起こした色によりて意識の状況もが発現,連結されていく自動現象性において意識は量子的状態の揺らぎや連関に規定され繋がっているとも言えるが、かといって故にその潜在的根底という層段階もの全てが量子的段階からの全決定であるか等とは言えず確定もされておらず又、例え意識の全段階を量子流動やそれを行い起こすもの(全体ではあり自分でもあるのかも)の関与からによって規定されているのだとしても、ではその意識に(深く達することに)よりて可逆的に量子的状態の現実化へ関われるか?もは分からぬのであり、そうした力は想定,推測は出来るが例えその書き換えが為し得たとしても、この世の全てが仮定に過ぎぬかもしれぬように、やはり証明されてはいない経験的な(それは今現実での、それを作り出す自身と納得においてもの感覚的真実であるかもしれぬとも)実証性にしか過ぎない。

では量子的な連結からによる物質,現実化にあるマクロな結果としての臓器や世界の現象や環境にもおける脳的機関への統合,集束の状態における個別化された(粗雑で仮象的な、とりあえずの総体であるが自己という奇跡でもあるもの)意識に知覚感得され起こる連結は、世の流動を起こす流れからに或る程度や完全に規定されていたとしてもおかしくないが、その集合無意識的な全体の共通根底に渡る渾然で精妙な意識の状態(が実在しているかも未証明だが)においても全規定であるのか? そこに触れれば人類やそれを越えた全体(というものが何か?という把握も必要だが)生命の根底普遍に渡る全体意識への書き換えや関与へ加えられるかと、そこからの現実化は有り得たとしも、それが即ち量子的状態を書き換え関与したという事にはならないのであり、例えば意思の力が宇宙のforceへ通じ物理越えの超常的現象を起こせるか等もは(想いによって現実化を起こすと見える事象も、各自に見えた真実が真実と思われるという仮称的宇宙だけでの真実であるかもしれない。)同じ問題であるのかもしれない。 そしてしかし、潜在,共通,源流,普遍,根底的な集合無意識へ触れた状態(と、そこへの責任を為し得る段階者)には可逆的な量子の連結への状態へ(数学的な見え方や経路である計算に依らぬとも)、つまり総合意識や意識が生み出す現実象への関与ではなくて意識を生み起こす物質化自体への現実象化(意思による物理状態の変化や利用)というものが有り得るというのか? 有り得るとしたらば如何なる機構に為されてあり如何に触れ行く手段となるか?その条件とは何か?へとも達すへ深めゆく事が出来るへの問いでもあるのだ。

では因果の起こる順番とは基本的は量子->現実,環境,物理的連結->意識,ではあるが、その潜在的意識状態とはnear=,なのではなく次の段階としての->(forward)にもよる->量子的状態や又は一部の量子的状態への関与ではない全体性への関与でもある集束,可逆的帰還性,もしくは、もっと大きなものの一部としての知性,生命段階への拡大,進化方向へ向けた段階へ通じているのかもしれぬなら、その観点からにおいてもの"魂"(や生命の在り生き目指すものと行き方)と云うものを見い出していかねばならぬと思われる私ではある。

(12/18)
このようにして全てが完全であり又、その意識の機構などを解き明かそうとしなくとも起こるに任せてゆくが良くとも、これが最少へ流し去り澄みた私へ向かわせながらも起こるに任せた感覚と欲求にもよる性質や役目的ともいえる宇宙と人類と現在でもの、私においての流れと生き方への問いと立ち会いと交感の私化を生きての(全てはそれだと放り出されながらも自身をもって関わる事への必要性を感じての世の必要に為される納得,自覚にも又は如何なる覚悟などでもなく放棄にも在りてもの)進化の方向へ対する現在の生き在り方というものを私においては、この自身という基準によりてにも見い出されゆこうとする世界への立ち会い(人によっては完全に自己を捨てていく方法かもしれず、それらの何処もが良いとも言えるし、どちらもが利己や他律へとも吸収されかねない危うさも持ちているとも言えるが)であるのでもあり、ではそれはこの進化や自己や種としてもの拡張の方向と方法の違いでしかないのかもしれない。 つまり各自がままに生き、良しと放り投げ、最少へ澄ませ受け取り、しかし自身のままにを与えられ為されて生きて、その拡張の行き先への質が人為や技術効率などの為ではなき進化の本質性に関する事ならば、その欲求もの自身のままに求める拡大の方向にも生きて更にその自己を基準とした全体との適合,同一という私の置かれ方でありながら、そこに拡大されるのは自己の最少であるという方向でもある事。

それはもしかしたら本質ではないものへの対抗性という拡張性の出方かもしれぬし、例えそれが時代から要請された私に現れた人為と他律社会方向への原始回帰的原理性における対抗の働きであったのだとしても(究極的統合到達点ではなく、そこへの為の反動力的な置かれ方として反人為や生体価値自体による最少の方向など)そこへと問い私のままを為され、ではその人為や(それも反本質という本質)他律傾向の社会などへの対立的反動を自己創作以外の対話性などでの否定的提起や私は影響が図れぬ故にも一見正しい活動からも引いていくというような在り方を当てる必要からも離れていくのだろうか?等はやはり選択の問題への交感ではあるのだろうが。

無い方向ばかりが正しいわけではなく原始仏教での四聖諦にも言われたように、有るものを十二因縁へと解体していく過程をも取るように、そして悟り体験における全てが無く全てが自由だという脳分野の反応にもおける真実獲得性というものは人生にも非常に有益な変革経験であるが、それのみをもって真理自体であると言うのは、この仮定現象かもしれない私たちを真実であると思い込んでしまうような進展への思考と進化の停止でもあるに、無を識りての有と合一する事と方向が私たちの必要とされている(絶対の帰結でなくとも対応してゆく過程として)と思われ、無の観点や帰結点からによりて、私たちとは如何に在るか?の自身を見い出されていく事と見い出そうとする事の同時にも還り来るのだ。

結果が意味なくとも又は反対になろうとも、それは我々には図れず図れたとしても従うのみの他律体とはならず(例え現在と世界の全てが既に他律であり私などが存在も自己決定などしていないとしても。だがそれは又、別に問われる事である)自身にしか出来ないかもしれぬと感じられた必要や、その行為への意味(が判断出来ぬとも)と自身納得の為にも又は、それ以外の如何なる意味合い判断を越えて為されてしまうものとしてもに現在に出来るかもしれぬ事は為そうとしてしまうのが、この良い悪いを越えて連関を起こしゆく人間というものならば、それによる世界の進行もは必然的な流れとの一体とも諦めるようには観つめながらに、しかしその行為責任体である各自己が、なるべく囚われなき視野で物事を見ようとしている自己解体というものへの自己努力は、無駄なく済ませてゆける意識を澄まし世界の必要を聴き取りてに動くという必要ではあると示し挿し込みてゆく事は可能で行いても良い働きかけや関与方法の方向でもあろう。

しかしそうしたものも思想的な文化や時代の背景化だけであり、各自多様と動物的な人間の段階には響かぬものとして諦めてはいなければならず放り出されて現時代への私を送られてゆくだけではあるのだが。

12/20

統合の時代へ、上がる呼び声の一つだ。 数々の感起は同時発生的な時代の現象だが、それら各個の現れ方は違う故にも、私に為されなかったものは誰かが為すかもしれぬが、それでも私における為され方は私だけに為されるはずだったもの。

機会の満つるを待つは偶然の結果ではなく早すぎても意味を最大に為されないのは、今までの歴史にも見えていること。 例え現在を行い置きながらも現在世界への意味は成さず人々に利用されぬのに活動的関与へも関われず価値の再発見される事すらもない、あまり役に立たぬが私でありても、そうした各自の行われる運命と必要を流れのままに行われるしかなく、これが私への流れと最善なのだと信じられる程には経験の過程が(それが信用に値する真実であるかは別だが)ある。

12/21
それは自身意識の観察的な裏付けによって引き寄せてしまっているものや、この仮象に過ぎぬかもしれぬ私たちにおける起こる現実的真実でしかないのかもしれぬとも、それを越えるまでは強固で通常また普遍的でもある大概に流通されている真実性では有ると思われる故にも、その土台によって考察されていく流れと必然的な連関性へと耳や眼や意識を澄まし聴き取ろうとしていく事は(ずらされたものも決定された流れであり無駄ではない絡まり上の完璧さではあるが、)無駄なく受け取るへ気付く味わいへ生きる事が出来る歓びと共に歩みて、その存在へ化せゆく為に生きる事が出来るという生存の方向ではある。

つまり魂的次元との流動に揺られ時の連関においては起こる我らが生命というものが流れ自体の意味であり(宇宙が仮定でも、これは今宇宙と次元の感得体たちにとっての(それが存在する場合には)強固な必然性は有ると思われ又その感得と意識の作用を思い込みで呼び寄せていないかと覆しては気付きながらも生きゆきて、全ては流れと必然であり気付きへ進展するのかどうかも定められたものではあるが、その自身と各自であるを諦め認め為されながらも目指し為す方向は、意識を澄ませ人為的な無駄な破壊の進行を催さず世界の自然に乗り近付き触れてゆく為の生命,知性,生存であるという事ではあり、では欲求を減らす事が目的ではなく達した結果に催されるものや過程手段のどちらもに現れているものが、そこを目指すという欲求と方向ではあり、その流れに達す為に意識を澄ましていく存在を叶える過程を味わい楽しむという欲求は有りて良く正しく、しかしそれが欲求でもあったが為にも流れを違えたり、ずれてしまった場合に囚われもしまうが未だ完全ではない自分(や人間)にはそんなものなのだと楽に構えて失敗も当然として超若泰然泰然自若としていられる基盤方向の寛容,包容さと、その学びも与えられていく有り難さと観つめては受け取り過程自体を生く事の価値をも灯して、しかし方法としては意識澄ませば体調や流れの最善性などにも左右されず又はずらされた流れも、休みたり感じる事を通して再度にも調整しゆく事も出来るという在り方である。が、それも思い込み又は間違えでもあるのかや、それ以前に意識の在り方による調整などを入れようとせぬとも全て上手く行っている。の意識自体において解きほぐし流れを違えぬ在り方が出来るのか? それが出来るならば良いのか? 又は流れが呼び寄せ起こるに任せては自身の方向,性質や生かすへもの欲求と違えていたとしても自身の想いへ引き寄せる操作なく任せるのみであろうというのか?

そして、例え流れを違えない存在へ意識と現実を融かし込み在りておらぬとも失敗も楽しみ包容し学びの恩恵と受け取りながらも、そうした本然性の自身化へ歩ませながらに最少生起の自己判断や意思,選択性が流れの自然や人為とも食い違っていようとも委ね変更を加える力へ意識を使用したりはせぬというのかでもあるし、本然の流れ又は本然へ近付きながらも自身にとっての必要判断の流れもが為されず、心が揺れてしまい寛容に流し去るにも在れず、しかも外部因もに追いたてられ協力もして貰えない場合などに自身をそこへ保てなければ(その揺られる心のままに行われ分かち合い吐き出されるものも、その時の必然だとはしても)上手く調整も機能せぬ場合の自分は如何ようにするが(自身に納得面にも)良いというのか?

その流れの乗り方とは創作の現場においてもの事であり、しかし失敗しても失敗なく完全が為され在り自己人為の操作なく空となりて現況の流れを撮すのみと在りながらも、自身には出せるはずのものが人為からによりてずらされ自信や変性的意識の方法にもよる調整が難しい時や(取り戻せずに取り戻そうと慌て行う泰然ではない自分も良しと認められた超越へ泰然としていると言えるのだとしても)、flow出なくば置けるものの意味合いとしてだけでなく自身にも疲れるだけで楽しめぬ時に(囚われ過ぎて怒り程ではなくとも取り戻す作業が上手く行かなかったり状況にも自身にもその余裕がなかったりした時というのとも同じく)どうするかでもあるのだが、では始めから何を調整する事態にもならず完全に上手く行くのみの意識へ澄ましては済ましていく事や又は気付きによって始めにキャンセルかけておくという在り方などもによって、意識澄みた根底に至れば最少の自己の想いと役割や性質の生かされる方向判断などとの本然性とも人為が起こすものとさえもの介離などは為されず全くに起こら無いという事のみへと至りゆけるのか?へは試すを行いながらもに問う現在である。 そして、それは流れに乗れぬ不利益を楽しめるかという判断や心の面(でもあるが)だけではなく、この世と自身真実への実相へ如何に近付けるか?の為の欲求と惑いにも拠る動力であり(人はそれを解き放つべき囚われの下らなさであり止めてしまえと判断するかもしれないが、その欲求によりて私は真実へ導かれ(それが勘違いであったとしても)てはいると言えるという解釈も、こうして此処には置いておこうとも思われるのだ。

では意識のみでの全最善(最然だけでなく此処では上手くいくという意味で)、又は意識の気付きによる可能性へのキャンセル的な対応行為などを方向として機能させても良いと設定しても良いならばの上に試しゆくと同時に、空と余裕の立ち会いに感じる事にもよる寛容や、これも良しであり学びとなる感謝へ受ける対応態度によりても自信と土台に自身を保ちながらの新たな、その時点からの流れへの調整へ立ち会いてゆく事にも同時併行に行き、しかし自己による本然への判断へ本然を操作せず意識を最少へ済ませる事で、上手く行かぬも人為破壊とのずれや無駄さえの非共生をも放置した"これで良い"。のみへ在る全ての肯定へ泰然と在る空への自信だけに還り着くへ尽くされるのみが必要で在るという事か?の方向でもある発見への旅である。 (そして知性の働きと観察のみによりても果たされていく機能効用の用いられ方は有る。)

それらとは世界の事から身を引いた最少や隠居的な自身の置き方としてもの生命交感的交換を持たせ楽しんでいく味わいへの道でもあり、しかし最大に行えるべき世界と自身の一体にして弱き者の行われ方としてもの普遍,恒常的な誰もが行える方法でもある到達と統合へ共通し、能力差に依らず又は能力差ごとに行えてもいく生命の歓び方という道の生起を提起していくを目指すものである。 故に、流れに拘らず捨てた自由と至る為にも私は流れに拘りての真実へ向き合いてゆくに良しとして、その価値を解き放ち(此処での言葉にも)示すのだ。

良くは出来ていても震えるようなものがないような作品は、それ程のものでしかないように(今回のstar wars等も)私のartへも、流れと連結に凄いと感じさせては引き寄せる方向見せの提起と意味はあるが、もっと感動によっての人へ寄り添い響く直接の心や意識の転換へ(それが操作ではあっても)導き一時的な悟りの体験,感興だけでなく実効力を持ちての、深く真の肯定と幸福の愛と調和を持たらせてしまうような解体と創成の一因への私を(それが達せるか結果は分からず、判断でしかなくとしてもの)深く達し空となった故だけもの自在に在りての私の媒介存在の行わせ方に至り行わせ在り近付きゆきたいと私現在の性質的必然や方向生起には言われ紡がれるのだ。

forceと言われたものは良いも悪いもない宇宙の力の人間的使い方の性質に伴う方向による(それぞれへの方法論と共に)技術や術の質を分けた判断や分断へ使われたものでしかない(と見られるが)、その源にして玄なるものの時間化に伴った流れというものへ化された宇宙の流動自体の生み起こす力と状態そのものを自身存在によりて繋ぐ利用の方法でしかないが、そこで物質越えの物理的力を及ぼせるか?や、その操作性の力を持たせず離れた統合性へ浸りゆくが全体に中での動きである相対を生まぬ自身内での統合到達の道ではあるか?

それは良い方向のみしか見ない事は人間の本質を見ていないという事(人を信用する方向ばかりを見て疑う心を持たせない等)とも同じく、良いも悪いも信用も不信もの両方を見ては、その統合へ意識を使用されていくバランスの取り方や培い自身による世界の均衡点(解消への犠牲ではなく不要を生まずともの調整とも成りていられる)となる事でもある。

12/22

またも相対作用を生み出す一方への偏りや正しくと見えても力の使用へ立たせるではなくて世の相対作用を見ては抜けていく、どちらでもない又はどちらでもあるという在り方の立たせ方を独り突き抜けて在りては又そうでなくとも示す事もが良いのだとしても、しかし人間界においては(それは将来にも渡る絶対普遍でなくとも)対立によりてバランスが取られている部分も大きく有る中で、(自民へ対する共産の対抗も必要作用であったように)しかしどちらが先であったか?を別として、各々の動きとは対応処置である因果的連関ではなくとも(もしくは因果的連関でありても対応しているだけではなく、各自は自身が良い事をしていると信じているにおいても)の原理主義的な極同士や、これが唯一の真実だという主張同士でなければ対抗し合わぬとも違いを埋め無理がなくとも折り合える事は人間界の如何なる層や段階や様相にも見えるのであるし、そうであれば性質が異質であるからといって離れ独りへ抜けなくとも相互の違いや多様は学び合いと肯定基盤への材料ともなるだけであるのだが、しかし一方がそれを行えず押し付けてしまったら、やはり抜けて関わらず統合のみを示す独個への覚悟し味わう肯定の喜びのみへと至る方向か対立し力を用いてでも対抗せねば奪われる事からも防げず極相の反対力も含めた対応を当てていかねばならなくなるは同じである。 そしてそれは真なる在り方には宿る共生的帰結性が有り得ても、この現実的世界への対応の必要は、各自に感じられたからというだけではなく組み合わされる連関での流れ的な必然と進行にとっても為されている相反作用に伴われる流れであるとも思われるのだ。 ではそこへの自身または人間行為の指針としてもの関与への在り方とは統合の自身化のみへ抜けていく姿と提案のみか、反対であるという否定や武力また能力における力(政治的な交渉も創作なども同様に)を当て示しゆ事くもは必要ではないのか?

star warsに感じられる意義の一つは、それら人為的な力同士の(しかも今よりも技術やscaleの)拡大された時の様相と繰り返される問題を見せてくれてもいると思える。が、ならば新たな業と因果的な連結を生み出さぬ為にも引いていくばかりではなく、しかし力へ対して力では返さないが提案,流通力の共鳴性をも持った統合の在り方の持たらせ方とは如何なるもので、しかもそうした真意が通じるかは又も難しく故にも私に問われ立ち合われているものであるが。 それらが通じず安易な解釈や浅薄化が為され、ヒーロー的善性方向への欲求が生まれるばかりであるかもしれず、しかも下手をすると私が辿ったように流れへ触れる生命味わい方向への囚われとも同じく、分かり合おうとはせぬ一方のみの強制他者へ対する否定的対抗や許せなき怒りという反応を(それを通してもの必要が生まれるかもしれぬ可能性もが有るが)生み起こしてしまうかもしれぬ事への力としか、私に果たし為し得たものにさえにも宿らず利用しては貰えぬ、統合ではなき世の反作用的働きにしかならぬのかもさえしれない。 とは、やはりが統合的な存在の到達地への在り方や、その示し方へ変換の力にも関する自身が意識の置き場所と用い方への考察必要面でもあるに通じてはいるものだ。


光と闇が互いとも無くなりたとしても闇に触れて後に光側へ立ちたという経験だけでは即ちが統合されていくわけでもないのだが、その一端リセットされたによりて蓄積されて来たり獲得された知恵もが受け継がれなくとも、また生み出され繰り返される非業の連関の中で非情にも残されて生きていかねばならぬ者たちの生命ドラマと少しづつでの進展への道が与えられて在るだけなのかもしれず全員が同時期に同等に覚りへ向かい達せる方法も目的もは、初めから組み込まれてすらもおらず連関の宇宙の中では悪も善も起こりて少数の者だけが(と限定はされぬとも良いし多数が至れる時期的な収穫期も有り得るかもしれぬが基本的な宇宙には無数に生み出され続ける生命達の活動のみが有り、その一種の始めからが悟りと幸福に至れるかどうかなどは気にもされていないのだから。)抜けていける道もがありて、時にその偶然的でもある必然の結晶が生まれる事も在るというのみや又はそれを生み起こすという目的の為に苦も行い生み出す生命現象たちが必然的必要のデフォルト要素として与えられてしまっている非情の中を生きていかねばならぬ覚悟だけが必要なのかもしれぬ。 しかしそれを知りて自己の知性に組み込める存在ならば、それを眺めては悟り在れていく統合への境地存在へも近付いてはいけると云う事も出来るのだろうが。(そしてそれは技術や知識を否定せぬとも、その方向によりてもの技術などの進展の質を使える事も出来はすると思われるのだ。)

ではそのような善悪統合とバランスは抑圧でもない向き合いである事や、もしかしたら或る一部の達成も継承すらも途切れ又はその真価も理解はされず浅薄利用されるのでありても、宇宙に生み出される生命とはそんなものであり、その中での悟りゆける可能性を辿れる者も出るのかもしれぬという壮大な視点を組み入れる為もの、哲学的な理智が物語化された一つの結実が(一般的には英雄譚としてのentertainmentと捉えられ分かりにくいかもしれぬが)、このフォースのバランスなどへもの考察,感得への片鱗を残す事へ成功はしており、これもがなかった人類や地球文明であるよりも奇跡的な恩恵のような作品ではあったとも言い得るとも思われるようにも、文化的な背景化への文化的創造を(物語化出来ぬのならば知性の観察面の流出に依ってでありても)生むもが良い私(の性質,能力化)へもの方向や望みなのでもあろう。

交換的な原理とは宇宙にも見られる根拠のようにも思ってしまうが失われた分は与えられるはずだという見え方のように(反動で推進する力学やエントロピー増大における時間の流れや過去が去っていく事で未来へ動いていく(それは反動ではなくて現象に過ぎぬとはしても)事などもの二元的な現次元の様相ではありても)それは人間的な判別上の意識の納得のものでしかなく、意識が転換されれさえすれば何かを失わず動力として使用されなくても得られるのかもしれない。

そうしたエネルギーの取り出し方や用い方において意識の流通力に拠りて何かを達せようとする事は、例えそれが自身への必要に照らされての自然的運動であったとしても操作への世界現象の利用でもあるとは言え、如何に本質であると思われる正しさが見い出されたとしても告げず伝えず能力もを使用せず捨て放棄しゆくのみがありての現実世界へ対する意識,存在のみの関わり在り方へと移行させていくのみがあり最少の意識からは生み出される如何なる欲求への望みも判断もがなく、その目指されるべき到達としての地点へと歩む為には、この人間的生命体との適合的な統合を取ろうとする事すらからも抜けて如何なる欲望肥大への種をも抑圧してさえも否定していく事のみがあるというのは正しいというのか? 僕に在りたいと思われているものの現在は人間や生体とも繋ぎ誰もが辿りゆけるような統合の道への歩み方と発見,進展,関与ではあるのだが、その前提すらもが違っており誰もに使用可能な道などを目指すすらが蛇足と無駄ではありての全てを捨てる、のみだけが有るのか?

空~kara~の意識で(とは操作や意図すべき意識の向かわせ置いた質などの事でなくて無心と曰はれるような只、行われているに感得するのかもを問わず流され出され来る自分を通しての世界からのflowに流され出されているような状態の事でもあり、そこへの考察や科学ももっと必要ではあるが又はそれの事ですらなき)意識作用の起こらぬ状態へ化した最少にして起こらぬ意識の自身へと化されて全委託し在るのみでの、(12/23)つまり前述の只、呆然と明け放たれたrelax状態の無心のように紡ぎを結ぶのか更に意識すらもが澄んでいて深く想起されるものが無い段階までの無心であるのかによっての質は近いようで違うのだから、それらの内どの状態を私へ結び付けるのかであり又それとは何処までもではあるが、このflow状態を発現させる要因としての無心の要件や用い方としてではあり又はzone的状態でなくとも自由にflowを乗せてしまうような自由境地へ日々と選択もが至る為には他の手段もがあり、無心の方法や段階などである必要もがないという事なのか?

空とは、現象界における全ての発現種子を内包し精緻なレベルでも更に分解され得てもいく粒子的振る舞いや流動での充満した空という空間の性質における例えや状態の事を言いてもおり、それらを産み出す根底背景の事でもあるが意識においても(それが物理的な量子状態などと流通し、どれ程に現実化を起こすか等は分からず未証明でもあるが)その空の性質の名付け方を融通させておく事は可能であるという意味で、無心という遥かな旅に更に精緻な意識現象の根源根本背景自体に分解しゆく事は判断に囚われぬ自由をもたらす。という論理は言い得るのでもあるが、それのみが完成と喜びの唯一の道と必要であるか?は未だ、こうしても問いており、流れを最少労力で感じ与えられたままを為される自動人形としての生命に意識知性の気付き感得もなく味わう至福,恍惚のみであれば良く、それによりては判断なき世の流れの媒介としてを受け取るのみの選択に触れた自在なflowの創出へとも至り在れるのか又はその必要もがなく生存や生体的な生命味わいの交感すらも捨てていくのか?へも達するへ戻り来ては、ならば死して生きるへ還る為でもなく死のような未分化の生命状態を直接的目標としてもに設定し向かいゆくだけがあるのではないのか? 創造,使命,役割,関与,行為,選択,自身,意思などがなく明け放たれて為されるを受け取るだけが、人為も人為欲求の質を求めることも如何なる操作もがなく自然の流れや繋がれるべきflowというものもは繋がりの凄さと連結のartでもなくて意識を越えた愛に為される姿と存在のみの到達へ流されて生きる判断なき恍惚の自身化と存在のみという方向,欲求,質,生存,納得,無分別,肯定などである解答へと還り着くというのか?

量子的揺らぎや全時空を通した揺らぎではなくとも、この動的平衡という揺らぎではある私たちの流出入の定常状態という曖昧なアナログでマクロな仮定的に固定化された自覚自己としての自我存在には在りて、どの状態もが揺らぎであるとおう意味では同等や相似であるかもしれとも言え、では生命は流れであり自己を解体しては変換し続けてはいるが、その新たな実験の変化へ関する性質と傾向による方向の自然自動化運動は例え無意識(というのは意識の段階であり無の意識自体での事はないが)の内にも現実化を起こすへ働いているようには生物界を見るにもおいて考えられる。

流れを為すへの流れに為される、その無心や無意識とも云われる段階の深さや精緻,精妙な階層の何処までに至れるか?だけがあり、その本源的状態の定常性へ自身のみが至れば死とも同様の自由が得られるのでもありて生へ生きている必要からも解き放れられる最終的で進化の物理的変化の状態にも(時間や技術をかけて少しづつに至れゆける意識や生体の移行や果てしなく長く労力もかけた旅をゆかぬとも意識一つでの転換)関わらずに至れる境地ではあるのかもしれず、そこへと至る為へ歩く間だけの知性や観察の味わいという気付きと交感の生存と生命の歓びがある存在のみであり、意識の最下層(つまり本質という共通)には一端一端ごとの現象的変化と実験の過程の根底に、その最終到達地への欲求動力方向が組み込まれてもいるのかもしれず、それが仏性と言われて来たものかもしれぬようにも、そこへの(科学的未証明かもしれぬが)意識を澄ました存在開花の生と死の中間存在性へとも解き還していくことのみが本質とも私には言われた目指す先と意味でもありて、そこへの動力と向かい方を世へと(この人間の私と形を通してだが、宇宙と全生命の普遍にも通じている)motivateする存在からの自在と歓喜を映し換えてもいく自己存在のみの方向と潜在的なflowへも通じた選択性にも宿された創造的流出へも流環していく事が(即ちにも真実とは決定づけられないが)私には求められて来たものでもあるのだとは言えよう。

潜在的意識の根底に触れ達していく、それが仏性や本質(自体かも未だ分からぬが)といわれ思われた状態開花へと向けた動きや根源欲求にもよる向かい方の方向と方法ではありて(とも今のところは言えていて)、その精緻な意識の根底に在る事からの自然的な結果が世の流れへ、最少,自在で在りながらも愛の実現への生命創造の味わいを為され与えられたものを受けて諦め全てを投げ出しながらも歓喜であるという存在の道を渡し又その自在的選択の質にも表れて来る創造やflow(という選択)へも化された生存からの自然結合性の存在を宿し見せるがのみの創出の質となりゆくのだとしたらば、その流れへの選択状態をzoneともいわれるようなflowのartへ、しかと転化されているかへと拘る事もは如何に自身が本質へ達し在るかの証明でもある故からのもの(それを求めるは自身分別の心の照査ともなってしまうものだが)としての意味にも私には求められて来ている(と同時にそれだけではないとも)と感じられる現在地での把握ではある。

その潜在的意識の達し常在化もした深さによりて実現されていくものは量子的な連結や他の次元階層へ働きかけるかとしてではなくとも、そして操作を抜けてもの現実化を起こし、その意識の澄み渡った境地存在のみが目的地ともなる既なる存在にもおける完成への転換でもあると言えるが、その本質的最少へ抜けてゆきては無一物にして一元的な愛の歓喜に在りゆきての姿を映す創造への選択自在は如何ように顕れ出され来る自然の示現と成りゆくかでの現実界的な質の基準もを(存在のみであるに関係して、しかし存在以外の創造,選択の判断にも)見い出し又は為したいとも思うに問う私における旅と道の歩みと行方の現在だ。

自身を無くした流れに非情でも為される事と、そこへの意識の澄まされた実相,本質へ達しゆこうとする欲求,運動,方向に在りて進みゆく事や、その成果によりて選択の創造や現実化が起こったかへと(ちなみに深ければ創造が凄く感覚的な選択に優れ現実化は実現するという事とイコールではなく、深さからもその存在へ現れて来るものもはあるという事での)感じ質を問うのは判断ではあるが肯定のみへ至る道の歩みへも利用出来る過程判断の効用でもある。

では選択やflowでもの流れ為されぬとも、これが現在の私に化され置かれた最高だと私を為した納得に満足し充足していく事と、決して充足せずに目指し続けることによりての(人間的愚かさではありても)進展や成長にもありゆけ本質への道としてもの効用においても、指摘や判別性によりては把握し問い返し振り返りていく(自身内と又は他者間にもよる)交感や関係もの共有価値はあるのだが、それでも無分別,無反応の意識根底一つへ充足してゆく肯定のみが正しいと言えるのか?は、つまりは感じるによる道と感じる一切をも打ち切った道のどちらかとも言えるのでもあり、肯定的納得に在れたら現実的な結果や(ここでの結果とは、結果を恐れぬという欲望と判別へ囚われるかどうかへの心の問題の事ではなく実際に何が起こったかという事実側面の意味)成果が起こるかにも関わらずflowや創造の最大化が為されぬとも在りのままに有りたこと 全てを良しとしてあり、では生命交感,交換における結果として現れて来るものの価値や手段を通さずに肯定恍惚のみの自己を(行う行為性を通してさえも)現実中の自己を、そこへ転換されていくという方法ではあり更には(自然を通すのみの自己によりて為された事の全ては良い故にも)これで良いが起こったからというにも喜ばず感情的な生起すらをも捨て抜けていく事や行為自体を無くさねばならぬ事との(しかも人の感情にも通じ伝わる)整合性は如何なる点へ収束し終結すると(人へも)言えるのだろうか? そしてそれは恍惚のみの無自我,未分化とは何が違うのか?でもありて、自己を通しての気付きにより至りゆくという価値(が絶対とも言えぬのだが)が証明されず無いのなら(有るとも言えるが、それのみが全てではないかもしれぬ)ば、我々の生きている意味もなく脳分野を切りて植物状態となりたり技術的に個人や自我を変容させてしまう方向も強制すらもが正しくなってもしまうだろう故にも真理と紙一重な狂気や破壊にも接近し向かい合いながらも、その真実一側面のみ見て判断し肯定しない知性や判断と指摘,振り返る能力や作業は必要ではないかとも、僕には思われるのだ。 真実は単純だが複雑に絡み合った重奏でもあるのだからに。

例えばそれらはメグの言う流れがずれたかや自身創造の最大が為せたかに関わらず、これが自身と現在の最高と自然の顕れだと納得,肯定してしまうは良いとも思うが、かといって流れに乗れず出せなかった側面も見つめたり、そこへの気付きとしてもの批評,判断,分別,指摘を自身に問い振り返る事や他者ともの共有という過程によりても進展可能な成長への必要(絶対の必要かは、やはり分からぬが)を持続してゆく作業の効用を打ち切っても良いのか?でもあるし、肯定のみで良いならば全肯定の愛と充足には在りたとしても、何が失敗でもなく私を為し置けた故に嬉しいというような感情生起への依存や感興もがないのか?や自然に為され私を行うという行為必要もがなくなるのではないか?や、又その肯定が恍惚でありても無感情でありてもの肯定のみであり知性も気付きも交感も、そこでの生命の味わい方などもがないならば自己を通して過程を通る手段と行為もの全てがなくなり無自己という目的への直接,強制的な人為的改編すらもが良くなりてしまうかもしれぬ世の可能性へも対応する知性や分別と気付きによる多様な真実の深め方ではないかとも思うという事と現在実際が、その作業従事の(それは自己肯定でもあるが実質面の把握の)私でもあるのだ。

ではそうした根本への想起的観察の以外に戻る、流れとの合い方の方法と自身や他者の人為によりずらされた時の調節方法、又は納得の仕方という問いにおいてもの私は欲ではなく流れで選ぶという欲にも在りてはしまいているのだが、もしかしたら此処は流れを違えたかもしれぬとも、仕方なしでの流れを流し済まし楽しむにてもに試す行為を行いて観ることや、現況においては破壊的レベルまで流れを違えなければ合格であるし実際にも現じているのだから良しとして更に違えた場合への対応方法や態度などを囚われぬという以外には放り出して考察すらもしなくて良いのか?や(それは慈悲から離れるとも思うが)、最高の状況が起こっていなくとも既に普通の状態ならば噛み合っての現状を楽しんでいられる状況が自身にも周りにも既に起こっているならば、それで良しとしているというように済まし最悪を想定しての囚われぬ方法や、その自己化を試す必要すらもはないのであれば良いのか?

(12/24)
又は身近な小さな部分で起こった事は大きな事とも共通の種であるから流し去るのみへは済まさず、解決する動きへ繋げ済まさなければとしなくとも些細な事は良いかと流して後は意識のみでの愛や最善への転化や祈りの存在なるのみで済ませられるならば、それで良いというのか。 そしてそれは大きな世界の問題にも同じであり放り出して自身行為や具体提案を持たぬとも良いのか、や又は最少限には言動するも良い以上には行わぬというのか例えそこには押す事で流通出来る可能性や発現を待つような種が有ったのだとしても。

そしてもし自分がその対応となれたとしても相手は流し去らず対応,関係してもらう事を求め納得せぬかもしれぬし例え互いにそこへ慣らせたとしても自分を押し込めぬようにしての愛と受け入れのみで在る事は難しく(過去に私があったようにも相手や 世界を認め理解し自身は引いて受け入れの愛となるへ抑え込んでしまったようにも)混同しての愛の強制ともなり易く抑圧(の爆発)とも紙一重であるにても、言わず行わず又は最少のみに関わる中での愛の存在転化だけでは(今の私には出来るようにもなれて来たのかもしれぬが、しかと示せなければ渡すにも)危険性すらも高過ぎる。 故にも基本や方向や具体にも愛への転化体で在るのみで良く言動,表出の質をも問う事がなく最少性の自己と澄んで済ませている肯定の充足へ近付けながらも、それだけを自身へも世界へも(強制力であるつもりや意図がなくても)告げる訳には行かぬのではないか? それの故にも愛となるへの方向,基準,方法経路,等を、しかと見い出しての受け渡しとなれねばならず、その為には自身が本質存在に浸り実現した姿を見せているだけではない言語的な説明などの力と置き方が必要ではないのか?

つまり相手の受け取り方も否定などもへの問題を放り出し、説明による関係,共有などをも捨て去りての自身が愛となるによりて導かれる対者にも世界にも私ともの最善が起こるへ任せ委ね肯定しながらも、その愛や肯定の質とは受け入れるのみの充足の歓喜と震えのようにも澄まし済まされる事とも一体にしてある、自身や他者もの人間的自然や関係,生体,言動の欲求などを押し込めた我慢を強制してしまうへ引き寄せや操作するへも同時である(これが本当だと言ってしまうでもなく振り返る能力の故にも)可能性があるにおいても、真の愛とは抑え込んだ愛ではない。等という言葉のみでも済まさず、(又は判断なく過ぎ去るを観つめゆけば良いのだとはしても、観つめれば過ぎ去るなどという段階だけではなく流し去らせずに立ち会う恐れや破壊の効用からも世界の一相が行われているようにも学ぶ大切さがあるとも思われるようにも)一相面のみへ済ませていく事は偏りた真実であると僕には思われてしまい例え言い切れるようになる(と納得し、その手法も使う)のだとしても、そこをしかと把握し統合するへも常に向けられた自覚の自身において発せられねばならぬではないかとも思ってはしまうのだ。 それ故にも、幾ら正しそうでも一方的な真実を持たせている表出へは(愚かさからの判断ではなく本質に近いかもしれぬとも判断の愚かさや強制を感じてしまうようにも)違和感がありたり距離を保とうとは思いてもしまうのだ。 (これも書くことで、その違和感に対する自身の気持ちの整理が出来るのだが。)

愛といえる充足のみの交感実現状態が本質であり存在と生存の全てはそこへ向けられるが良いのだとしても、では真のその状態と、そこへの至り方への方法や交感の在り方というものを問いて観じてもいるのだ。

真の幸福とは誰もが知性的に達せられる事を求めているのでもなくとも、その者のままに生き易く生きられるだけではなく何が如何に本質であるか?を問い方向としても見い出し近付いていく事と、その本質的な到達地へ至りゆく為の最善が起こり行われ(又なるべくならば苦を通さぬとも幸福的な現実を通してもに)いけることとしてもを求めている私における発見への旅を生きてゆく。 しかし聞いて対応し自身の経験も含め(控えめに状況にも合わせてのだが)対者の段階に合わせて(本当に対者の段階に合っているかは知らぬし、それは判断による制限や侮りではなく感じて対応する事ではあるが)表面的共有において言い得る事を言い関係にも楽しむ事くらいは僕にも出来てはいるが、表面的利益にも合うような共有は求められたとしても、それ以上は他者を放り出し自身の向かう本質と思われる方向へ引き寄せようともしない(又は表出が下手でもありて)出来ない僕ではあるのだが、正しきと思われるものならば(その判断性を自覚しながらも)引き寄せたり言い切りてでも伝えようとする又は強制力へ批判,対抗の力による変換を持たらそうとする事すらもが良いのだろうか?(浅く判断する正しき者は大概において、この問いについても変えようとする力は用いなくて良いのに何を言いているのかと断定しがちだと思われるが、彼らが真実だと思いて何かを伝える力と行為を持つ事はそこへも通じている共通であるという事には、これだけ伝えていても気がつかぬのだろうが。)

幾ら正しくとも性質と発見の自身のままにも能力と力を生かし(そこへの自覚なくとも有りても)強要し来る者(と、その人間的な愚かさともの関係)つまり良いと思われる判断同士の連関である共有と分かち合いの多様による進展と効用ではあるが、引き寄せの強制力でもある者に対して、又は
強く否定するでもなく柔らかく受け入れるような態度で(つまりはそこへの自覚意図なくとしても)結果的には騙すようにして否定や排除し現実,関係,可能性などをも奪う者への対応や提案などは如何に、この表現が下手で本質という方向提案と理解への説明は時に出来たとしても分かりにくく労力もかけさせてしまうし操作,強制へ奪う事とならぬ為にも正しいからと引き寄せてはならず(最少程度を目指して伝えたり過剰や言い切りも交換の会話として楽しむくらいには、つまりそれも表面的な交感の遊びと自在としてであるには良いが)本質へ転換させる創造を持ちたいが持ちたくはない、又は出来ないでいる私において置かれるが良いというのか?という存在とその表明段階からの迷いではあるにおいても、現状には本質と思われたものを最大限に放つには?という以前の発してはならぬかどうか?との調整からに問うが私の惑いではある。が、しかしそれは、より本質の基盤に関わり向き合う最少からの必要へ対しているとも言えるのではあるには肯定できる自己役割の(仕方ないから肯定するという以上に世界への必要とされた)本質性への問いと発見の自己最少と存在に関わる仕事と役目を既に成しているという肯定面でもあるとは言える。 (その世界での本質作業の一面を成す私の存在意義づけとしての納得や自信が、より本質的な者の到来により覆されるかもしれぬとも、これを行うにしかなかったという一井,一介の同等に人間を為すにしかなかった小さき私にも、行われるべきを行いたという自己肯定と納得は出来得る。) 為されるにしかない非情だが宇宙のartを創成されている自身には生くのだ。

助けて下さい。 私は如何にも小いぽけで何を為すことも出来ずに憧れてもしまうような愚かな判断ばかりの人間で、これが如何に正しい歩みであると自覚,肯定できたとしても肯定にすがる程にしかなく自信もなく承認を求め依存するような凡夫であり人類の代弁性でもあります。 何を如何に言い為したが良いかすらも分からずに、けれど与えられ学びてはいる恩恵にはありますが成長と引き換えに生きねばならぬ歓びと苦しみの両方にもいての声をあげる慈悲と英知の混合です。 極性を統合し真の幸福と自由の愛の超越と現実へもに適合の境地と存在にもよりての最然と最高を為し得られますように私を生かさせて下さい。 私と世の全てが最高に生かされ真の幸福へ救われますようにと、今日もこの愚かにして聖なる存在の顕現された私の同時を、存在にも培い吐き出して歩む祈りと結実の一体を宿された完全と統合の現在と完成を歩み泳ぎ流され流し去っては逝く者の一つの詩であるを詠われ衝動と観察も同時の閃~つらめ~きに繋がり連なる宇宙自体の一つの叫び声と代弁なる時空の表出,人なる形への突出です。 創造には価値がなくとも欲求に依存なくとも私は私の創造と真実在への欲求に渡されての、この私という存在からの時点と事態を肯定,承認するにしかない俗と聖の歌い声を唄われている塵と瞬間からの声と永遠への記憶なのです。 この声が、鳴り止まぬように響き渡る残響に吸収され消えていく即興上に想起された宇宙の夢なる私自体を解き還す、いつかと果てなる涯てを夢みるように本体への帰還を願い既なる叶えの道を歩いていくのみの哀しき生命を光明で充たし給え!とも嘆く一塊にして瞬間の星の残り火の束の間の結実です。


ではこのような声と求め(祈り)の私において在りゆくを自身には認め、しかし心は揺らぎてもいる。 それは統合へ導く多様の極や真実同士と、その狭間での迷いの効用でもあるがマインドは惑いを生み起こす為だけの仕組みであり肯定面のみを見ていくに照らすのみが大切であるという意見もは世に在る中で、多様による効用に触れれば感得への機会ともなりえる(divergent域ににおける侵食同士のように)豊穣への分配は関係という創造と表出同士の効用でもあるが私は違和感にありても表明はせず私の中での醸成へと培うばかりの流通しか生めぬようにも聴くには立ち会い、例えそのような単純で実直な生命方向による開花の方が本当で、そうした態度の表明性における表現,創作手段,関係,カリスマ的な魅力や人徳などへも生かされている在り方には生命の使い生かし方として憧れもするように(各自それぞれの役目ありて自分以外となろうとせぬとも自身と性質のままにを用いて本質へ向かうが良いのだとしても)、そしてそこへ従ってしまえば気持ち良くはなれるのだとしても、それは自己に築いたものを揺るがされるのが怖いから受け入れられぬのでもなく幾ら(偏っていても本質的には)正しくとも僕は自身の交感へ吸収しながらも吸収されてしまわぬように引いている(違和感にも囚われず、しかし違和感にも尊重するように。であり、これも又バランス。)姿勢で、距離を保ちながらも観ていく事を大切にもするし、ではそれと同じく幾ら私が正しくとも無批判に引き込まれてしまわぬ事を他者へも私は私からにも提起するへも向かえる歩みも発見し持てるのだ。

本質といわれたような潜在,根底的な流れへ触れて為されるによって人為的な操作や破壊の無駄が為されないならば、そうした意識の置き処や生命性の使い方の部分だけが開発,流通されれば(技術はそこへ伴うものとして使用や発見されるが良いものともなりて)全てが上手くいくようになってしまうによりて(善悪をどちらも内包している人間の発現可能性は変わらないものと現在までの過去からには判断,観念してもしまうが把握による制限でもあり)善悪が統合されてしまうような意識の進化が結実されてさえしまえれば、そこには如何なる分別的な交感にもよる理屈も知性も要らぬと言われればそうでもあるのかもしれぬが、それでも私は(現在までの自身を否定せねばならぬへ自己を揺るがされてしまうから自己を承認するへ保護する為などではなくて)知性にもよる道(各自のそれぞれにおいて全員の道でなくとも良いが)と発見による統合への歩みと実験の世界の形は、少なくとも今は未だ(本当に必要かは判別出来ぬとしても)必要と感じられるのだ。

正しい選択が分かってしまえば他者関係による対話や相談もを必要としなくても自身のみを行い、その存在的な波動性を用いて引き上げてしまうだけがあるとも指針の一つとしてはいえるし時代を先導しゆく者には(良い悪いは質判別も出来ぬとも)必要な資質であるのかもしれぬが、諦めとしても肯定面としてもに私は、この私を行われるに行いてゆくにしか仕方ないのだ。 自身の資質以上には(幾ら方向の効用が有り得ても)求められないを肯定してからの生となる道へとも(自身効用の肯定面を見い出そうとしているでもなくて)拓こう。 そしてそこからの本質への歩みと導き出され方は宿り着いてもいくような私の生存と創造の自己を解き放ちながらも生きて流れよ。

(12/25)
しかしそうした面の違和感へ対しての処置や僕自身存在の結び付け方への気付きへと考察機会を利用しているだけで、彼のような人は(自身で発見したのだとしても人真似であったのだとしても)面白いし、自然に引き込むようにpositiveな波動や包容を持ちての良いものを人へ広めている表出や存在に在れる事や徳は凄いと思うし憧れもするように、僕も自分を生かし良いものを人へ与え繋げられるようにはなりたいし、その存在だけでなく現実も含めて転換してもしまう、何故か誰のお陰かもが分からなくても流れも来たり現実化も上手くいってしまう恩恵を振り撒けるような神様みたいな仕事の役割を為せるに(自分以外の者となろうとしなくて良いとはしても)成りたいとは思う。

愛と自然と本質へ最高に開花する。を祈りにも渡す。

静かに存在を映しとる。 痛いくらいに、本物の生き方。 苦を人が抜けたとしても、過去の人類という遺物を懐かしがる保守性懐古の為ではなく、その質は(人々は様々の理由づけをしたがるが)苦悩や熱情や色彩にあるのでもなく存在に至り着いている本質的な高さを結び付けられた生存に宿りた震えにも触れられる故の創作物に真実在の流れを感じとりて感動もする、つまりは存在からの流れの移し取り方の創出を味わいゆく事も出来る表出に立ち会えるからのものだ。

(12/27)
聖と動物の中間であり過去の遺物として過ぎ去るだけでもない、これが人間だ。 これしか出来なかったであろうが歩みとしての放浪と僧侶,そして僕には響くゴッホブッダの両方のように、もしもこれさえ描ければ良かったと思えるような人間の姿の過程と到達の物語を宿せるならば、そんな物語の姿を創り演じてもみたい。

いい映画を見た。 新しい表現でもの描や心象(的な印象)の切り取り方の見せ方でもありて誰もやったことがなかったもの。 僕のやっていることは間違いではなかったと思わせてもくれる。 揺れる、背景(場所や環境)と存在。 即興的な出会いと物語の融合した半ドキュメンタリー(というような僕の撮りたかったと求めたもの)的手法でもあるように見受けられ、僕の突き抜け方はこれで良いんだと教え思い返させてもくれるような力とはなりて、人の心を打つもの。

世界の為に、もしくは自分だって凄いものを出したいと思う気持ちは人並みにもあるとはしても、僕が凄いから僕には存在価値があるのではなく私とそれぞれは生きているだけに価値があるという生命存在のみの充足へと至るへ還り、その才能には与えられての私を生く(自覚にもあるが)その存在には宿る"私は聖霊"という言葉のようにも、響く存在根源からの囁くような彼との共鳴にも感じる。 世界の為に自然の神秘や本質や美を映し示し分かつという自負や役割的な必然を感じはするが、しかしその一面にも囚われたくはないようにも私には単純に自身の想いを語り託せる言葉にはならぬが。 根源とも云われ永遠とも言われたような自身と世界もの同一と、流れの瞬間と全体をも語りたいという、現在的存在の在り方の望みと囚われであるかもしれぬがものの、しかしそれは仏陀とも同じく世界の諸相を現世へと移し換えていく創造の在り方の諸なる側面だ。

創造にもおけるflowとは流れを繋ぐ連結の凄さ(や選択の無駄なき正解性)だけではなく、そこに宿り達した本質性からの存在の現れである結実の結果。ではあり、数量化され(るかもしれぬが今は見えぬ)ぬ輝きのような抽象的概念ではあり、又は創出作品に宿りたものに見られるしかない、しかも理屈づけされたり歴史的意味付けもされるかもしれぬが、そうではなくモディリアーニの絵に潜在的な震えを感じるが何が凄いのかを他に(言葉的に試みる事は出来ても適格にではなく周りを回るが大半の言葉であり、絶対に言い得ぬのではないが)言う事が出来ぬような存在や創作という結果へ宿った潜在的な深さの事自体ではあるが、しかしその質的判断に取り込まれてもならぬ事とも同時に常に、渋く枯れた方が大概においては本質的であるといえる(popへの対抗軸としてものように)基準を見ておく事もは出来、それはしかし比較により思考しているというのでもなく比較に示す事も出来る一効用面を考察へ提供されているというような一側面ではある。

タッチや味わいや光と色や発見や偶然性との邂逅(ポロック等も)という新発明も、新たな次元方向への融合(コンセプチュアル等もだし絵画と彫刻,今後のvirtualやtechも)音や解釈の解体(ケィジもデュシャンもpost~も)等もは、しかしideaの試しなどではなくて湧き立つように生み出されるしかないから生み出されてしまうに宿ったものであり、そこには本質とも言い得るような潜在的なものが含まれた共通の深奥に響くものである(outsider artも)価値の提供でもある事への評価でもあり、かといって宿るものは為さねばならず為して良いのだ。等への力となされてしまう事からは離れてもいなければならぬ自身の打ち出し方を戦略的に選択は出来ぬとも(この書くことも、自身を晒す出す程に攻撃されたり利用され易くなってもしまうを分かっていながらも行うしかないと自身に思われ、これしか出来ぬのなら行われるしかないではないか。 けれど為されるべきは為されよという欲求肥大方向からは抜けてもいなくてはならぬと同じようにも)行われるべき自身を行いながらも行われずに済む事とも感じるには立ち会い、何が自身と現在にとっての本質への適合でもあるのか。へと自身を渡して生きていく態度の生存こそのみが、その者の芸術であり創造であるとも言える(要点の転換でもあり、これは如何に深められるかの質とは違う観点での生存肯定性の提起でもあるが)創造というものの基準であり生存の質でもあるというart of lifeの発明性と転換性はしてありても良く、与える事も出来るであろう私の発見と提起の一基準として採用されていても良いとは納得されてしまいても良いとは思いもするのだ。

創作者も聖者も天才も波動良き者も(凡夫と同じく、自覚なくとも)強制している。 それは、存在や自己が在れば即ちが他者や外界を侵食しあっているという事も出来る中で、しかし即ちが自己をなくせば良いという話しの事ではない。

(12/28)
自己のままに在りながら本質や統合を見い出すへも向けて生きる事へと生き方の方向を示しながらも、そこへの歩みの中で如何に感じられようとも各々の性質や役割ごとの道に起こり行われ生きていくのみが在りて良いと放り任すのだとしても、そこには本質や真実への各自の動きに任せた以外の共通統合の集束でもある境地が有り得ては示し得られるも良いのだろうか? そこへ多様を排除してしまえば(必然なる経過が為され有るかを代入せずとも実験の過程としての多様や個人の必要は残るとしても)その行き着く先の帰結と目標地の同時にも個人や多様を必要とせぬが統合体としての総体的な融合や自覚意識を滅していく事へと至る以外はなく、それが正しいのならば強制的にも向かわせる力を使われる事も何が間違っていると言えるのか? そして個人や自意識や多様が(多様や性質性はprogram中のバグ的な変異を挿入しておく以外に)必要でなくなれば、そこには生体や生命もが必要ではなくなるのではないか?という問いへの向き合いにも戻るのだ。

本質と言われたものは心一つにおいて見い出され達せられもする生き方のものであり宇宙の法則の如何んにも関わらず在り得るものでもあるが、涯てしなくも広がる宇宙や次元越えの壮大さのように創造も破壊も死も生命も苦も歓びもを越えて一体に眺めとられる美しさや肯定と充足なる愛の感動(人間的感情面の現在では)にも宿らされるように、自然は神の顕れだともいえる超越の美しさと美醜の判断には無き流れの自体を形作ろうとし創み出す芸術という行為(の人間的な囚われでもある)と、その形象化の動きでもある結果へは超越の美しさに如何に触れ震わされるものの凄さであるかという質や基準の判断とされても、又それを目指すもが良いともいえるのだろうか?

では潜在的に深いからといって不快なものを見せてはならぬというような質を設定してしまうと、例えばフランシスベーコンのような表出が評価,肯定されなくなってもしまうし何処からかの基準に判断され強制されるという本質への優劣付けや差別などが起こる事は(傷つき嫌だと思う人の数の多さなどに判断もされ思いやりによって配慮する自粛などもを必要とする事へ理解しながらも、しかし社会的合意の現況や常識などを覆すような意識への関与が制限されてしまうも良くはないと同じ事のように)避けられなくばならず、統合共通や美しさ等を質の基準や判断として採用し方向性を強制してもならぬとは思われるが(自分のままに私が生み出してしまうものの関与,影響性も、そこへの力とななってしまう)そうした闇や常識破壊の効用や又は意図でなくても生み出されてしまう、どうしようもなさのように生み出される全ての行為,選択は(生命交感の芸術~art~)肯定されているべきであるというのか?

では例え戦争や独裁や滅亡や搾取のartが為されてしまうとしても認め(ここでも必然という理由からではなく、本質と感じられてもの基準を強制せぬ為という理由で)判断せず対抗もせず統合共通の真実などを方向共有するへ強制しようとも(自覚ありてもなくとも)せず、各自の性質や現況に起こり描くもののままを放り出して良しとしているべきのみの無関与性へ至る事へと戻るべきなのか? そしてその自身へと減らしながらも、しかし自身という人間の現状にも感じられ判断され本質や正しいと思われたものは置かれるもが良いというままの私の為し方もは(武力のartへ対しても武力ではなく)、芸術的表現や思想面での創造の力としての関与ならば良いとは(何故に)言えるのか?

つまり、自身のままの本質(と感じられた判断)への創造という関与の力と自覚にも生きること(という或る意味での中庸性),その統合などが判断や共通の方向への強制なき為へもの無創造や無関与,又は破壊や強制者への対抗的な強制の力という行為や選択や創造,という何処もの真実を如何に採るのか?という問いへ結び付き還り来る既にこれは答えではなく(一抹の答えにもあるが)問いの方向へ関与しようとするような問いの内容の説明でしかない、しかし私にしかなかった(という自己肯定の為のものではなく他の誰かが更に洗練した形で問いていたとしても宇宙の唯一の可能性と仕方なくとも行われるしかなかったものとして)創造の経過と現況の結実ではある。

ではその表現された具体表出の内容や性質に関わらず、破壊や闇も組み込まれて超越された美しさのような壮大な真実,統合性へ(言語もが解体され)有無をも言わさず、とにかく凄いというような統合的な本質性が宿り着いたものでありさえすれば、もうそれは判断,優劣付けでありたとしてもの何にもまして優越されるような価値と化されてしまうも良いのかもしれず、それを目指そうとする人間的実現欲求の方向性もは有りて利用されても良いのかもしれない。 そんな創造性へ(生存だけであった事からも抜けて)還り来る事が、私にも言われるべき人間界関与の答えでさえもあるのかもしれない。と、未だ真相への両義は問われ揺られてもいる振り子の上の(それが全てに正しい方法かは私は言わぬが)統合への働きではあるを生きているのだ。

どうしようもなく行われるしかないような又は性質自然にとっての快楽欲求でもあるようにもの、囚われや哀しみやストレスの発散衝動の創作転化の(効用の)先でもある叫びのような解消の方法としてもの欲求の実現行動へ依存した創造作品や方向の質は周りへも悪い想念や波動の拡散,浸透の力となってしまうのでもあり、それ以外の仕様のなさを(破壊暴力の創作転化の効用も)認めながらも(しかし何故に暴力,武力のままではいけず転化されねばならぬのかも問われてはいるが)やはり、こうした方が気持ちよく真実や本質の美しさでもある等というように見い出された基準へ引き寄せるような関与や創造の提起などは用い在られても良いのではないか? それは(12/29)破壊的衝動や暗いものへとも繋がる人為や囚われによる欲求肥大の方向へ餌を与える事にもなる自己肯定感への承認へ対しての関与や影響を及ぼそうとするのでもなく、つまり、そのままで良いよと悪い処も排除せず表面的な浅いものという判別もせずに受け入れる事で自己肯定を伴いて囚われや哀しみから抜け良き方向へ向かうかもしれぬというような可能性の育て方へ関与する事などもは既にそれだけで操作とも通じてはいるが、もっと(sonneや不自由展でものように破壊的(悪い波動というだけでなく多様や覆す為の装置としても)な展示には、そこへ引き寄せてしまう力が生まれてもしまうにおいて鑑賞者への影響へ責任もあり周りも犠牲にするのだからにも)その内容や質へ関与したり基準を示しゆく事も大事なのではないか?

何でも良いと肯定し、未分化的のみに眺め受け入れての納得を持ちながらも本質とは何かへと振り返り、自覚し強制でないよう自己を抑制しながら(という基準や方向に)も良いものの出し方へと転換するへの自身へおける共鳴性だけに行為も関与もするというように、では各自の判断と共鳴性同士の多様という自由主義的な観念や小規模で全体量は多い(地域性のような)共通者同士の中での基準への統制などのリバタリアンコミュニタリアンの折衷のような状態へ任し移行させては離れているのでもあり、それは例えば暴力的衝動の転じ方としての効用を必要とする人達は認めながらもpunk rockもpopなどもは下らない、勝手に各自がやれば良いのだと突き離れ自身の方向や共通する者たちの中での運営は取ろうとしていく態度のような中庸的な共有との適合や均衡の在り方であろうか? それでは自身の良いと思うものだけに触れ、他からの多様を排除するへ離れてしまい成長も相互関与もは無くなりてしまうかもしれぬが、それで良いといえるのか?

それでも破壊衝動や暗い方への動きを認め放り出して関与せず。又は闇への自己承認を付けさせてもしまうのに肯定するによりて肯定的な気持ち良さ等へ引き寄せようという可能性へ操作,関与する。という事や、そのどちらでもなく、その内容自体へ相互関与し共有する努力や行為からも離れず自分の感じた本質などが判断によりても直接的に光の方を目指すに投げかけていく事が良いと言えるのか? そしてそれは自身内変革の意識だけで在るのか、もしく芸術的な表現面だけや日常の存在態度に現れて来るだけで良いと済ますか又は対立(武力のように)してでも光や本質(と感じられた正しさごとの相反対立でもあり議論や相談の効用のようなものでもあるが)へ救おうと押し付け徹底関与していくという表出もが正しいのだろうか?等の様々種々の真実要点ごとを統合させていかねばならぬ。

武力を備えていたとしても、それは直接的な暴力への対抗にしかならず自身を高める力とはなっても実際の防衛や世界の進歩に大して役には立たない(事が多い)。 そして武術には活殺自在の両面が有りても実際には殺面が強いのかもしれぬように精神面の進化や相互交流の生体交感の共有的な遊びへ生かせる意義やストレス解消や破壊衝動転化の効用などもが有る面での肯定は出来ても一面真実に過ぎず過信はならず武力の大多数は、それを行使する側や培ったものの出される機会への欲求(や使用危険性)へと吸収されたりもしてしまう。 故に言葉や思想など(又は政治や交渉なども)という行使力とも同じく流れの選択(flow力にも)や臨機応変力などには通じてもいたとしても別側面もがあり、それは自身意見の持ち方や(正しいとは限らず全てには別可能性もが有ると自覚するは大切だが、その判断によりてもよらぬとも)その表出や関与基準とも同じく、本質と感じられた正しさ同士の相反対立であり議論や相談の効用でもある共有を何処まで異質多様同士の他者間で持ち得てはいくのか?であり、それが先程もの、自然共鳴性以外には関わらず離れた自立性(と少数間合意,規律,統制)のみに在りて(リバタリアンコミュニティと言えるようなグローバル状態という相互不干渉と自由へ放り出され)多様からの相互関係に成長せぬとも(取り入れられる可能性は情報の流通などによってもに有り得ていれば、それのみで)良いのか? そしてやはり全く同じ事を問う<破壊衝動や暗い方への動きを認め放り出して関与せず。又は闇への自己承認を付けさせてもしまうのに肯定するによりて肯定的な気持ち良さ等へ引き寄せようという可能性へ操作,関与する。又はそのどちらでもなく、その内容自体へ相互関与し共有する努力や行為からも離れず自分の感じた本質などが判断によりても直接的に光の方を目指すに投げかけていく>等の一体何処を(暫定的な選択ごとは現在にも、過去と今後にものようにも行われていくが)統合,到達の基準や方向としてに採り得るとも言えるのか?

私は未だ何を如何に表出し関われるか以前に、こうして関わっても良いのか?からの惑いではあるが、それでも浅くとも自信をもって言い切る者の表現の方が人には響くし(磨いている現在途上ではあるとしても)現在性への関わりとして世への参考とされ得るものを渡す為には見い出された発見と真実の現在面を置いていった方が良いのだろうが、その在り方はこのような書かれたものと映像断片と惑いや半端な日常的存在や言語の現実具体,技術,実際面での発言必要などにしか関わり置けず又は、どちらにしても軽ろんじられている私の在り方の以上には在れない。<(日記より抜粋),
仕事は(今日の仕事は好きな段ボールだし悪い仕事ではなかったが経済労働の奴隷という意味で)地獄だが、(心の問題ではなく具体表出した面での)温泉は天国。 今日は両方を味わえた。 仕事をすると、こんな地獄から人々も(それぞれの領分や性質によっての、どれ程に嫌かや必要な役目かの違い等はあるとしても)救う為の自身の仕事をしなければ(しているが)と心を新たにする事も出来る。 けれど、もう当分はせぬで良い。 (昨日吐いたのも今日の仕事も、今年中に済ませて良かった。)

本当に必要と思ったわけでなくとも感覚として今日は温泉に、来て良い。 行った方が良い。と思った想いに従って良かった。 故にも、やはりその時が来ている時に行い済まさなければと思った(正月旅館旅行も行きた方が良いのではないかと思うがakiは実家などの(この前も行ったばかりだし)要件とも被せたいらしいので如何にか調整を取らねばならない。 僕はこちらで年越しするも悪くはないと思えるが(それ程にakiが嫌でないのならば、未来は分からぬし行けなくなり今後も先延ばしされて行けぬが続くより何度も行っても良いのだし)八ヶ岳に行くのが流れとも思う。

岩に横たわり冷たいが気持ち良く、意識を減らしていく状態での私と全ての素晴らしい光と愛への開花の祈りともなる。 精霊の宿るような岩たちも多い。

これが最後かもしれぬというように倒れ込みそうになりながらも支えの岩を目指して、一歩,一歩を踏み出して歩く事が出来る奇跡を確かめるように歩く。
>

未来は分からない故にも出来る時にやっておく事や、金とワクワクだったら後者をとるに正解を感じる事は多いが、しかし行わぬとも済ましていく最低限性を取り入れていく事もは必要でもあるし、それらとの 選択を試し立ち会いていく過程こそがある自身のみの存在と共有の他者もが在る。 そして吐くや少しだけの仕事程度での解消となり関係の地獄ではなくなったは良いのだが、では関係において(交渉的な極同士の中間的な折り合い点の採り方でもあったが、今回の八ヶ岳も諦められた。)の異質極面同士の対立軸は、対立せぬとも楽しく互いを聞く事で折り合い点を発見していくような作業ともなり、選択の遊びのような立ち会い方ともなれるという方向は有りて示し得るとも言えるのだが、しかしそれはやはり、関係対者の資質や自身状況などの自己以上の環境性に規定されてしまってもおり(勿論、自身変革の努力は有り否定しないが)全体においても取り入れ為し得るという共有の(方向ではありても)方法ではない。

しかしそれらの築ける私との価値や、自然にも運用されていく幸運性にも気付かれず私へも自然の流れの不可思議なる奇跡にも与えられたものへも振り返られず尊敬されていない知性の対者へ対してにも引き寄せようとし過ぎず操作せず、かといって迎合されるように表層化されてしまわぬ自身を保つ為にも、そして決定と相談のバランスのようにも伝え合う事と伝えぬとも共鳴的に進みゆける事の運的な流れ以外の技術面(肯定や寛容や余裕など)としてのマネージは如何に取り得るというのか?には自身へ現じた状況ごとへ対応しての学びをゆくにしかなく、それでも私に現じた現在は以前のような無理解と否定と対話不可能な修羅の繰り返しではなくなった中での適合との楽な成長の行き方となれたような恩恵を私には感じられているし、そしてその何処からかのみの一面からの学びではこれが真実の行い方だと言えてしまった人の愚かさを見て来ているようにも、この過程には色々な人や段階からとの状況を知れた事からの恩恵が有りた事もを感じさせては貰えてもいるのだ。

食などとも同じように息や体液や肌からに宿る、その者の質などを取り込んでしまう影響へ対して気を付けるに意識している事とも同時に、引き寄せへの操作でなく又は何があっても囚われぬ心の自身へ転じ然じていく事とも同時に、その者とその者との関係もが最高に上手く運ばれていく現実性へもの波動と祈りを送ることへと存在する事での恩恵を送る(贈る)のだ。 運ともいう流れとは、そこにも生み起こされていくものでもあるというように流れを受けるばかりでなく、受けるへ与えられていくものの質を転換させていく肯定の光照射の自身を化して生きるも良いのではないだろうか?

他者や自身も人間の楽しみや欲求も、その存在と現在のままを認め、しかしそこのみからも制限されぬ本質への移行へ共に関係や共有しあってもいけるという在り,行い方へと、教え諭すことなくとも働きかける統合方向(なる基準は見えず自身においての設定をせぬとしても)への共同を起こすように進む方法を(一面からのみの真実や道などという事にも取り込まれずに)創造する、自己と他者の同一的な流通の方法へとも至れないのかと私は祈り試しては歩みてもいる。 これは説明での言葉もあり詩でもある、私という宇宙の一個の表出だ。

(12/30)

それでも、僕が誰かや全体の為の解消点として粗そうをする程の役割とならずに済むようにはなったが、自分が為さずに済んだを祝ぐ事は即ちが(交換原理と犠牲と捨てる解体エネルギーとの相関で全てが動いているとは限らぬとしても)そこでの幸福とは自分以外の誰かがその解消の役目を負わされる事を祈りている事と同じになるのではないように自覚しておらねばならぬとも思われ、そこへの意識で光を当てる解消や又は避けられぬのなら感謝するというように事象と立ち会いていく意識と気付きの力にも生きてはいくのだ。

しかし意識のみで済ませても現実が変わるというような思想や試しの部分は、ならば大切なものの為に死ぬという精神論や真実の一面へも利用されてしまう。によって、やはり正しきと思われる一方へ片寄ってもならず意識で済まし肯定的心状により肯定的具象を起こす等と言う如何なる判断もを(例えそれが真実でも)抜け離れ用いずに、しかし同時にその相手自体(具体づつへと対応するでもなく)や世界全体への変換の想いと存在へと慎ましくも在れば良いのみに、自身と全体の既なる一体としての流通は行われ吐き出されているのかもしれず、それには肯定の歓びはありても自信もなく又は囚われさえしなければ全ては判断なく必然に為されていくを受けるだけとなれるのだとしても迷いにも囚われ生く生命もが既なる自然の到達点としての自身であるというようにも、つまり肯定の自身となりたからといって、その肯定的な現象化という結果への過程としてを求めるのではなく、ひたすたに只(非情に流されるだけの自然もを受け入れた同一と放棄の)自身が肯定へ変革されるのみであるにおいて、(例え人間が積極も持ちた動物と自然ではありたとしても)行為と自己の積極は捨て減らされていくべきという方向には在りて良いが伝えるべき真実面でもあるのかもしれぬ。

その結果の為の肯定ではなく非情も全てを肯定する自身のみを化し歩み、行為も挑戦も積極も可能性(期待への依存)の欲求もを捨て離れていく仏陀の方向でありながら、その生命を味わう過程を価値とし生を捨てず又は、それらを伝える創造もが良い事への自身となるへの必要を現実化される事を求めの方向として生くのも、他者ではない自分を個と自律によりて自己の最少を通じて最大の宇宙との一体的な境地また流通の状態へと明け渡し生くこともは、(それを集約し上手くは語れぬし、しかし僕に行いて来た自己の肯定としてだけではなく)真の本質かではなかったとしても現在までの到達の一応の真実としては、言い得るとも思われるのだ。

(12/31)
しかしこの私を現在に培い、その果と収穫の結果を求めぬとは言っても、そうした知恵へ化された(と自身には思われる)ものの発見を世や人へ分かち示せない私ではありて、それは自然に為されるへ任せ死なぬとも生き延びてさえいけば良く、その結果が例え世俗化だったとしてさえも受け入れていくのみの生と自然が為されて在るのかもしれぬが、ではせめて残したいとも望みてしまう自分は囚われと欲望の不自由さのみであるのかにおいては、物質的にも捨てる事での自由さという方向(大事ではあるがそれだけが唯一ではなく)などもへの思い込みで自身を呼び寄せる事の出来てしまう感性は悪くない豊かさだが、そうした一方面へしか生きられぬようにもなる肯定有効性の生き方へ単純になるよりは他の価値ともの併用面もを観察した上での統合的運用へ至り為していたいという自分には在り、故に物を大切にする事や捨てず残そうとする事にも(エゴの抵抗であるからだけではなくて)価値が有る面もとの統合性を見つけようと求め問いても良いとは思う。

ただし物などもの未来使用の可能性に囚われて不自由になる事は避けられた方が良いであろうし、ただ取って置くだけでなく、ちゃんと使ってあげる方面での大切に仕方などは大切でもあり、流れとの出会い方も(草にようにも)人への良いものを出し自身の行うべきを為すのみに立ち落ち着き突き抜け、求めてはいるが囚われずに流れを待ちているような状態であるに生きられる事は正しく楽でもある在り方ではあるも取り入れて在れるようにはなりたい。 それも徳のある在り方と迷いの効用の両方が一体的に至り着いた私の特性であり結果が如何なるものか統合へ(現在自体の統合や完全さの以上に)結実されるかにも囚われずに行われる存在の実生,自性を生く実験と実現の中での歩みの記録だ。

私は私の感受性によりて深く探る事が出来ると同時に些細な事象や機会からにも立ち会う必要が生じ受け取りて対応するという(最少限だが)行為と方向に消費されているとも言える、それは不便だが不便さの故に新たなinovationの進展へもの開発や挑戦が行われるというように(そして私の居る処とは正に現地球文明中の緩やかさや豊かの安定と地獄のような搾取下に生きる者たちの存在する多様のせめぎ合うedge effectの境界~dibergent~域の波打ち際にもおける苦と幸福と世俗と悟りのgoldilox条件にも適合されていると言う事も出来るだろう)感性は高め育まれる方向であるが正しく、又それを育む場である個という多様の基盤は機能しているとも思われるのだ。

ではそうした感受性の受け渡しの流出入において言語という身体器官による筋肉運動を通さなくとも伝達し合えるテレパスなどという方法は、科学的にメカニズムが成り立ち得るかにおいては生体も電気の媒介でありて生命は電気の一種でもあるというように有り得るし、効率が良いかにおいては発声より瞬間的に用いられ速度的に優れているだけでなく概念の受け渡しと深め方においても言葉的な記号同士以上であり画像的イメージだけでもない感情や触覚までも伝達できるようになるようにも意義は大きいかもしれぬが多様の場は失われ精神融合の常時化されたような機械融合との技術や方向への進展が優先される理由へも使用されるかもしれぬが、それで良いというのか? 単純な理想化は出来ぬが縄文的文明や石器時代的感性の生活体たちには、そうした能力の日常使用が或る程度には有り得ていたのではないかとも思われるが、それは発展段階の一旦的な結合や生活必要状態との均衡点であったのか、それとも今後にはもっと流通力を持ちた個の多様を必要ともせぬ全体器官の一端ごとへと組み込まれたような生の場が起こるへ向かうが良いというのか?

共有における対者間において、そのような流通が起これば浅く愚かな消費的生存のみに使用された感性たちへとも、この震えるような歓喜と愛の幸福などもは分かち得るが、彼らが感性へと引き寄せられる可能性もは相互に有るのだろうし、そこには或る程度のフィルター的隔壁ごとの情報流通や又は何処かの質基準判断に拠った流通力の格差,制限などもが起こるかもしれない。(それも悪いばかりではないが現在にも既に起こりて在る個人の共鳴質のみの蛸壺化において多様を排したり何処からの支配や統制に吸収されてしまう余地もがある。) そしてテレパシー的な交感に在りたらば、この現世界に生じているような齟齬や関係の取れなさや理解の無さは(減るだろうが)多様による異質相互のある故に共通具体が完全に取られるようになるわけではないし、だからといって全体が中間的な共通化などされたらば困るのでもある(統合本質的な共通ならば、全一体であるを知りて個にも行為するだけでなく個を越えて同一体化されても良いのかもしれぬが)のだから、では技術的な進展の方向と便益の依存でもある恩恵の享受が何を持たらすかへの想像,推察にもよる現在の進み方を観い出していく(現在の制限である知性だが未来や過去を見渡す事での)必要と発見の分かち合われゆく事は願う。

とは言え思想的文化背景への組み込み効用は有りても思想的方向に拠らず勝手に技術的方面への行き道を進んでしまうが人間であろうし、例え全体で抑制しようと数人の発端で開けてしまうようにも可能性ある事へ進んでしまう事は留められないであろうとは思う。

本質とは深い世界の真相の事であり、数学科学的発見面だけでも長く培われ来た原始的な人間本能の事だけでもない。

parmacultureのように共生の体系は科学(普遍的共通における発見)にも出来るし、それを知識的に全員が専門家とならぬでも意識の方向性だけが共通されていれば成り立つ社会の姿とは成れるのだが(日本も近世までそうで有ったように人々に知識は無くとも共生的生活や文化の実験方向も行いていた。)そこへ向かうには何らかの転換点が(人為によりてもよらぬとも)必要となるであろうのは(絶対ソフトランディング出来ぬという理由ではないが)地震が土を崩し揺り動かし大地の力をリセット,再生するように、世界規模での災害的な必然性は有るようにも感じられてはいる。

日本人の変質も、世界の多様に触れて取り入れた結果でもありて(洗脳も大きいが)取り戻せないものと変わらぬものの中に物事は同時に起こりて進んでいるように、世界でも保たれた多様と人類共通の統合や共有可能面は同時に進んでもいるのだろうし、又この未来の起こり方や技術と欲求肥大の文明化だけではない原性的な人間部は保たれたままにも(しかしそれは俗も保ちた聖への運動や達成でもあるように)挿し込まれ(対抗,反発的な力として出ても、もしくはそうでなくとも)てもいくが人間的な(人間判断段階を越えていると云われる、電子的技術の自動的発展やAiもを含めて)動きの総体へは宿りているかもしれぬ事へは、(もしかしたら)もう少し楽観的に眺めていっても良いのかもしれない。(しかしどちらの可能性も取り入れ見ていく事は、やはり大切であると思われるが。)

しかし肥大が止められなかった、もしくはそれが正しかった場合には、僕らのような生体や不便さ(と便益可能性との適合)もを取り込んだ中での共生的生存文明を目指すような方向性は、standardとはならず少数のみの絶滅危惧種のような保護または無関与,不可共有性へ取り残されていくのみかもしれず、もしく現在までの原住民的文化は滅し、僕らが代わって現在でいう携帯を持つ原住民のようなtechnologyも取り入れ一部は享受し得ながら世の運行の主流からは外されているというような分化された人類の上での一部となりていくのかもしれぬが、しかしならば例えsimulation世界から抜け次元越境への進化への道からは外れ関与出来ぬ処まで取り残されていったとしても、その中での共生的な幸福の生活と又は同時に悟り的な次元全体を包括,集約された現存在のみを生きるという生命の歓びと深みを達成出来た最少限にして最高の生存を実現開花されさえすれば、これが到達点への近道であり最高と言える事も有り得るかもしれない。

相違同士を共有出来てしまえば共有関係が(大概の誰とも)続いてしまうから、少しでも自分とは違うという面を感じたら共有の努力も、共有という流通交感における成長というような(苦や不便と同じく)修行ではなく早く即時に捨て離れ止め自身と共鳴性のみの分化や享楽性のみに達し融け込んでいくがのみで良いというのか? それでも関係性にも起こり宿る流れへの共同作業に観ていく流れという本質性の触れ合いが、必要でありているのでもないのか? 又はそうだとしても、それは現在の枠と制限における方法での肯定ではありて、達し得るならば必要不可欠ではないと捨てられていくが良いものでもあるというのか?