junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

115 8/15

115 8/15 (thu)

欲の肥大も無き状態である歓喜実感に達し充し、それは到達ではあるかもしれぬが、それだけでは真実に達せない。 知覚し知る事も真理も進展と適合も宇宙の謎を解く必要もの何もがなく又もし誰もが簡易に達し在れる技術や道が得られたならば、その宇宙の謎と神秘自体である存在化をもって認識も個人もがなく溶けあって生きる必要もない全体が全体を知り又は知る事もなく存在しているだけの状態へと化されるのみが完成と目標地であれば良いのか?

成功体験の故に又も求めるのなら始めから無かった方が良いのか? しかしそれは自己ある故に悟れる道もあるのに自己なくば良かったというのと同じようなものでもあるが、では自己なき故の悟りの道なども各段階ごとにもあるのかもしれぬように全ての事の、どちらもが良く自己も何かを成す事も欲もは有りても良いが不要のものでもあり又は無欲,無自己へ至る為の必要であったのならば、初めから無出生主義や生体を必要とせぬAi融合の情報体化のように、生まれて来なければ良く個人も不必要である(のに無理矢理リーラの幻想と遊戯に役目を与えられてしまって行わされているようにも)上に個人や知性の生体や道のりに生まれてしまったのなら仕方がないから、それを使って生まれる以前のような無個性を目指そうという為の進化方向や思想もの結実であるとも言うのか?

未分別から自己を経て超越へ向かう必要と道があるとするトランスパーソナルの知恵は、(自身において見い出され来たものとも同様方向であり真実に近くは見えるが、それも)あれだけのウィルバーの知性が考え抜いた上での結論としているのだから、多分には間違いではなさそうという前提に拠っている所も大きい。 結局それも自身にとって如何に感じられたかが真実かどうかも分からないのに、他者にとっての真実に考え得られた土台においてもの自身には発見され理解されて来た真実に近いだろうと思われるものを選り取っている自己傾向化づけされて来た結果には過ぎない。

つまり真実に近付く衝動と行為方向に見い出されいくものもは、その各自での真実の発見や経験へ連結されて来たものの中で選び取られ育まれて来たに過ぎぬ傾向性なのではあり、如何に真実へ近付こうとも(近付き高めゆく事は出来るとは思うが)それは仮定的断片に個化された世界の可能性を宿しあっているに過ぎぬ(つまり全て何処もが間違っているところまでしか到達出来ずされていない上での度合いの違い同士が、役割の中でさざめきあっているのでしかない)のだとも言えるだろう。

そして何処まで行こうとも真実などは、とてもこの矮少な限定体に得られる事は出来ぬのだから(科学によりても近付く事は出来るが決してそれ自体には成れぬし、成れたのだとしたら、もうそこは我々に想像出来る知性状態を越えている故に)そこへの進展可能性を試し掘り起こす質性への人間的欲求もは放棄されねばならぬのか?

私の観察整理と活動も、繰り返しに見えても集約や発見はされて少しづつに進んでもいるとは思うが、いやもう決して答えなどは出ないのだとしたら止めてしまわなければいけぬような、これは只の依存なのか? これら真実への観察と経過の体験は、苦の故に為さねばならぬ必要であったと同時に実に自身に向いている自分のやりたかった事でもあるをやらせてもらった生命実感の味わいと、苦を通した充実でもあった流れや選択観察の惑いも含めて立ち会えた歓びという生命体験の密度を与えてもらえたのだとも言えるが近付くとも答え出ぬなら見切りを付けて又は答えや真実なども求める意味をも抜けて苦もないが成長なども何を求める事もない境地と彼方へ抜けていくがべきなのか?

しかし如何に無意味なだけの消費でも、この現色~うつつ~の世に顕れた、全て幻想であるを知覚したとしても与えられた自身化の世界ごとを逝くにしかないにおいては自身を越えて自身を生くのでは在り、為されるしかないと諦められ放棄された自身と各自に与えられたままを、しかし関与への放棄をしたのではなく為されねばならぬと感じられた事は(必要か無意味かに判別もなく)行われる生を歩んで良いのではないのだろうか?

真実を求める欲求や生きていること自体が消費であるのに、ゲーム,tv,映画,旅,創作,存在のみという方向や欲求も含めて他の消費との違いに、どれが真実と近いから良いのだ等といった質性判断は要らず、本来は死して(世の遊戯の演技仕事の)全てから抜けるが唯一又は早い(苦からの逃避だけでなく真理との融合へ還る歓びの為にも)道であるかもしれぬのに、生きて生を味わいたいから生きるのだという方を選ぶなら、やはり全てが生起され行われるままに良く何が自身や他者の道や傾向に与えられても(必然かどうかにも関係がなく)行われるしかない現在や自身等と全てを認めていくにしかない中で、では結局その必然か意思,自由のみか関与と無関与、欲を果たすとと果たさぬ等の間にありて一体何処を目指す又は目指さないのか?等もの疑問と解消を目指し問い立ち会わねばいられぬ自身にも還って来る。 (しかし、これはもう 只の堂々巡り又は生命体験の知性的消費面の依存不可避的な選択に取り込まれてしまった愚かな囚われ化に過ぎぬのか?)


全一の感得存在化状態にあれば充足的感覚と全自由への放棄もは心に成るが、しかし欲を殺すのではなく欲の肥大は抑えられている状態へ一時的な又は常時に在する事が出来たとはしても、ではこの現実における安全や生理的欲求の満たされていない時や人においてすらも生死を越えて充足を保つ事と保てなくば苦しいだけであるという強制性と放棄があるだけであり、そこに生存や現実の転換などを欲する事もないというのか?

受け入れ又は弱くば、押し付けられ利用され奪われる人為の世と愚かさに在るのに、そこへどのように僕らは関わるのか?

僕の立ち会いて来たのは常にそこから。であり、安易な平安ではなく苦と絶望からの光。という真実性へ関係し働きかけて来た動きと、これはその一つの世界運動である過程の記録。 そして問い方の投げ掛けではあるのかもしれぬが、そうした自身への意味づけと納得は持てるし又はそれが如何に修羅で因果であり操作された結果だったとしても自身に感じられて行わざるを得ない必要ならば行わざるを得ないのだが。と 意味付けをも越えてにも納得はされ得るに生きるしかないとも言える。

安全欲求の満たされぬとも前向きに生きようとし生理的欲求すら満たされぬとも心豊かに生きている人たちもいる。 しかしそれは基からの(心の大元(本,素)ではなく)顕在化された自的な性質が楽観性を持っている人の場合ではある事の多く、又それらの不可避でもある楽観への依存では制限の肯定にも生きるという種類の超越や美徳的価値観には抜けられたとしても、その条件付けられた自身や生存の苦しみを生き延びる事以上には(それだけで良いのかもしれぬは分からぬが)深められぬ諦めに捨てなくばならぬ生存肯定の不可避な強制による哀しき中での喜びや与えられたものの中で生きるのだというような無関与,無力化でもあるとも言える。 (吾、唯足るを知る。のみという真実もは、最少制限への個人の解体や全体主義への義務化などへもの力も与えるようにも似て。)

では承認欲求や自己超越方向こそが高く唯一であるとして目指され、そこのみが叶い達せば他の欲求もは心に又は現実的に実現し充足されていくというのか? その欲求の質に違いなどが本当にあるのか? それとも安全,生理欲求の満たされぬから制限へ諦めた充足性などへ向かわず抗い、その欲求や足りぬものが教えてもくれた人間的生体の喜びや利便性を求めるという無放棄による関与や提起へ力を使用し化しゆきて、欲を越えるでもなく欲を果たす方向への人間具体の喜びや共生性へもの関わりや動き(その共生利便だけで意識の深められぬ事は僕の中で基本的に否定されていながらも)へ向かい転換させていくは(真理にとって無駄なだけでなく)良いのではないのか?

それとも(つまりそれは)超越欲求のみは正しく持ち行いても良く、それのみが達せば自身の他の欲求もは諦めでもなく消え去り殺されても充足され又は奪われる現実は起こらず(への操作も出来)全体にも真の共生と真に深められた真実の幸福の到達全てがある、それのみで良いなどと結論づける事は出来るとでも言うのか?

欲求を抑えるでもなく欲求による現実転換への効用や提起の関わりを持つ事は現実的な手段ではないというのか? 超越に実現が簡易に出来る方法のあれば、それのみが知性も意識も人間も個人も生体も過程と生の味わいもの必要なく至れるだけが良いと言うのか? 私はこうした欲求階層の何処までもを自身の中にも持っている囚われと愚かさの中で惑いながらも、その統合と決着の行く先と在り方を問いている代弁者ともなれるかもしれぬという可能性へかける期待と欲望と浅い知性の現体化でもありながらに自身を 越えた世の流れからに憐れにも従事させられている、生存の苦しみと同時に生存の実感的濃度と充満にも生きられてはいる。ここでも、苦は喜びへの転換材料としてではなく生命の味わいや喜びの状態と一体でありて区別は付けられぬのだ。 (その先に苦しみの状況化も感情面もは抜けたいと思ってはいるが。)


116 8/16 (fri)

幾度にも訪れた対称世界や存在性との一体的な交感状態。 全自由な境地へ繋がる大悟と補足し立ち還る為もの小悟の体験の上に平坦な(しかし未だ苦しみや悲観性も持ち会わせた)私と日々に化されて(日常意識は普通でも潜在下ではダイナミックな流動が起こっているように、)深く問われゆく、悟りの存在化と、現実の選択への私の立ち会い。

(この顕在化された文章だけでは、その深さも伝わらず知能的に解釈を捏ねているだけにも見えるだろう故にも示すが、それは自慢や優越ではなく状態の説明ではある。 そして存在や潜在性や魂次元との重ね合いにおいても深く高い視点や意識で眺めとっているとは思う役割への自負はあるが所詮は限定された現代的な知性であり超越と適合の間で突き抜ける事もなく右往左往しているような状態(それが私へ行われる必要と捉えられてはいるが)でしかない事も知っている。 その中でこの動きを人は例え浅はかに結局は自慢や自己承認欲求の為のものだと見なされたとしても私はそこに、そうではないのだとは言い置いておく。)

もっと救いのない時代状況へ入っていくかもしれぬ、こんな世の無出生主義は分かるが、それでも世への希望を感じ子供を持ちたいと思うのならば、その自身のままにて行い、それは楽観に過ぎるかや浅さにも関係がないように全ては結局、何へもの判断は出来ぬのだから自分の思ったままにやる他はなく欲かどうかもそこには差程に関係がない。

故にも創作という役割が、囚われと依存であってもヴァーチャルよりも生体を伴った本質的な自身の遊び方と味わいの歓びへの(それが究極へ達したものではなくとも、方便としてもに良しとした)次世代の現実と歩み方を示し分かつへもの私の能力と望みが欲するままに(結果は捨てなくばならぬとも、つまり囚われぬへは欲を捨て任せた自由ながらも目指し欲へ貫かれ行われるべくを行われるしかないを納得し、全ての者の状態や欲や行き道も認め必然かどうかも、流れの観察以外に判定は必要もなく)与えられた私という創造を行う。

そして祈りにも宿す意識には愛と光の存在化だけで世界への愛と光と真の幸福を宿すだけでなく、私の現実具体的創造の仕事と行為を持って、そこへ響き為される事を望んでも良い。 そして情報を出す程に利用や操作への弱味や対応策を握られ影響を持つ程に反動も返されるかもしれぬが、恐れず行う自身への必要を感じては行え。 そして対策は講じられたとしても、それは愛によるような包括へ向かえ。

流し去る練習の上に、もう流しされるか!となったり大きな欲は諦めるから、せめて小さな欲だけでも叶えという依存の膨らみを良しとしてもしまった自身内での反動にもあった現在性の私だが、しかし(爆発や囚われは肥大せぬようには抑えながらも)一過程としての進歩とは分かっていたし、受け入れられるか!という反動のようにも済ませておく必要が僕にはあったのだろうとは思う。 しかし実際に流し去りただけでは現実は生起せず、如何にそれが喜びと充足を共にするとはいっても、その義務性へ培い打たれても自身がそこに在るだけを顕在意識での現状世界との具体対応や苦も取り入れた状態下での選択の問題に直面させていくやり方の中では保ち続ける苦行性にもあり又はやはり流し去り欲のなく受け入れるだけで良いのか?と反対面を観察,考慮する私の道においては、そこへの自身の引き寄せも避けては通れなかったであろうもの。 そして、流し去り愛と肯定の充足のみのままの潜在的な私には向かいながらも、その流し去り受け入れた悟りの存在の上でもの現実,現色世界への選択を私は問い問わざるを得ない(役目,仕事,分担,受け持ちの)者なのだ。

存在だけの創造と存在からの具体への創造の両方を持ち、諦めず諦めて統合と既なる私のままに産み出すをも求め、能力を生かし行わねば気が済まぬ肥大からは抜けながらも与えられた能力にも紡がれて渡る事を認め許可して拡がり、しかし全体や多様を見れる私の能力とそこからの統合への役割と素晴らしく早く、しかし遠回りのように過程とる自然のようにも遅い速度の現在でもあるを背負いて、それは自己にも他者関係への提起にも良しとしながらも、肯定的なエネルギーや同意より他視点を挿し込む指摘などへ自分を行為させ、又その悲観的な性質が与えてしまう他者への影響も良いものではない(知的自身を示したいのでもなく聴いて対応へ挿し込む行い方にても)進歩と成長よりもstopをかける為の関与となってしまっているのだとしたら、(立ち止まり振り返る大切と必要を働きかけているのだとしても)私の世界へ関わり与えたいものとしての意識の進化への仕事は為せているのか? それにはもっと共通面に寄り添い肯定し、又は具体の行い方はそうでなくとも肯定的なエネルギーの投げ掛けによって、その者の変容へ寄与してしまう。ようなポジティブな世界への歩みの採り方などが私においても可能であるのか?

制限知性の自分は知りていても、せめてこの程度の知性に人類が至ってくれればとも思うが、それは報われぬ夢だろうし(そこへの文化へ寄与する事が良い事なのかは分からなくとも行うしかないのだとしても)結局如何に気付いていても各自に置き換えられた必然を行われていくしかにないのなら気付くへの進化の必要などもないのか? 浅くなく深い観察と交流は生命の喜びの一つの方法ではあるが、それ以上の必要などあるのか? 目指されている進化と幸福の形とは何か?

肯定と交感は主旨と基盤であり真の幸福とは魂や潜在的流動に深く関わり入り触れゆくかにも関係なくとも、その生命と知性の味わいと喜びの感じ方の最大の楽しみ方としては価値と意味があると思われているのだが、それは各自の能力などによる道の違いでしかなく到達への唯一の道ではないと言うのか? 知性という方法による発見の歓びを瞬間ごとの世界の味わいとしていく意味はありたとしても、感情だけによりても肯定的に生きる事や魂の必然や流れに触れてもゆけるのだろうし又は触れていかぬとも良いのならば与えられる各自の流れに生きていくのみの総体と宇宙の連結の歴史中の役割と必然のみが為されていくにしかなく(自我と知性は、苦の種以外の意味がなく)何を感じ発するかも関係がなく(行うも良いが又も次段の選択の問題へ繋がる)世界の自然が起こされていくをひたすらに観つめ流し去っていく又は深く感じようと感じまいと自身の感じた各自のままを行いていくのみがあるのか?

何を選択するか?は観入の難しさであり故の楽しみ方でもあるが深く感じようと感じまいと行われる事は自身の性質,意思,制限,状況などへの反応や何を感じたか次第ではあるのだからにも、そしてそれは自身を越えた総体性から行われ為されている全てが完全で必然なのだからという理由へ近付くにおいても、その自己なる制限を突破していく必要もなく只世界の起こるに任せ
現実の悲苦を改善するへ関与する事も、自身の意見という宇宙の或る判断点の見方を挿し込みていく事も要らないというのか?

関わらない事は最少限で良い恩恵を持たらすにおいては減らしゆき、それは欲の肥大や、意見や行為への判別を抑えるにも都合が良く使える。が、その方向でありながらもそれでも沸き立つ自分への想いや感じた事。 それが判別であり統合の真実でなくとしても愚かな破壊を止め共生的方向を望み創りゆく一助となりたいと思い行うも、目の前で苦しんでいたり殺されていく人々を守り助けようとしたりといった生命感覚的な判断を選択することは、それさえもを必然的な世界の流れの自身を越えた大きな総体に任せた放棄ではなく、少しの差別や欲をみとめたら囚われと欲の肥大する可能性の為にも、抜けなくてならぬのか?

真実などが分からず生命的な価値観や本質の基準などもが分からなくても、それでも共生などというような真実かも分からない自己の意見という差別に固執した提案や行為への選択を持つのか? 持てるのか?

それとも本質に近い基準が分かれば、その理由によりて選択し提起,発現しても良いというのか? しかしそれではその本質性以外を排除してしまう事になる。

命の奇跡と連結を知るにも、それは知性ではないか。 それでも知性も科学も情報も保存もの如何なるもを越えて只、そこに連なる生存は無為と無意識(潜在,集合意識的意味ではなく)無自己な忘我の恍惚的状態へ、どの道を通ってでも進み達するがのみで良いというのか?

ちなみによく言われる無とは、何も考えていない状態ではなくて(それを通してでも良いが)、世界を生み出す総体性には何もが有りで故に何もの絶対などや判別が必要無い。を知りて何にも囚われていない状態の事であり、その知性と判別によりて分解され知り得た(十二因縁や苦の消滅なども同じく)観察の結果(止や集も手段)としての世界の同位体的な(ここでは魂的に全体が連結されている事ではなくて、世界に行為する因果的な繋がりの一様相としての私。としての)無我を自覚し留まる事である。

空~kuu,kara~の説明を充満した無であり、全てを生み出す空間自体であるというような量子力学的な意味づけで使える面もあるが、それは本来は単純に物事の連結の相と幻しである空~sora~の雲や宇宙空間での惑星などのようにも世界を生み出す基盤や背景としての意味と捉えられるものであるだろう。

ではこうした情報の世界へ共有し残し保存されていく事もの意味がなく、共生的判別ではなくとも真理の周りを廻って近付いた人類等への記録でもあるが、そこへの掘り出した成果だけではなく行為そのものにも価値がないというのか? 私に行う事など人類への意味があるかどうかを越えて判別でしかないのだから、如何に真実へ近付いた結果や過程を持ちて現していたとしても何かを意識し選択し行為しようとする事の自体が愚かなのか?

そのように全てを捨ててから行為と選択のどうしようもなき自分も認めるへ戻り世と関わるも良いとしても、それを認めた故の欲望を生起させ肥大させない為にどうするか?や具体的対応の置き方を何処に置き、指摘,対抗,否定の力や多様と統合と中庸や真実とは?の挿入へ関わる判別の自己を持って行い関与する事や、その心は平安と静寂とを目指しながらも行為の態度は選択する等といった表現化、そして創造などもが力への転換を如何なる程に持つか?等の課題が未だ(堂々巡りだけではなく)問われているのだ。

ただし、暴力に対し自分の心が壊れそうになっても暴力で返し出してはいけない。のは思想上の主義ではなく自分を守る為にも、そこだけは守らせなくてはならない。

自己と判別の差別化(優劣差別の事ではなく此処では一体以外の世界の捉え方の事)された真実(や共生なども?)などの意見といった無限可能性からの(本質に近いとは思われるものへの観察努力方向には培われる必要があるとして)選択自我によるものを良しとして、自身の(信仰的ともいえる)信じる芯による関与へ起こしていくも良いとするのならば、その態度や対応の基準や行い方とは、自己の選択や意見を世や人へ挿し入れても良いが、その程度以上のものは行わずに放り投げている。等にしかないを採りていれば良いという事か?

では行いきりてからの結果を認めているのでもなく、少しだけの選択や関与と行為は認めるというのならば、この既なる現在に肥大してもいる選択,判別への知性自体が持たれていてはいけないというのか? 如何に囚われでありたとしても、これを行うにしか私の流れも人生も余暇も衝動もは与えられていない不可避と世界の一つの試行の価値でもあるともいうのに。

知性の道を人類文化の背景化への働きかけとなり作ってしまうのが良い事なのかは分からない。が、それを一つの目標のようには目指してもいるし、如何に選択,判別,知性の生命体験,体感,味わいと歓喜,感謝の道が必要でないばかりか止めねばならぬとしても結局これを行う以上の選択は僕には出来ないのだから苦と慈悲が一体でも為されるままに逝くしかない。 そして繰り返しに見えるかもしれぬが私の中では確かに進んでもおり堂々巡りであったとしても、それはかなり小さな本質に近い輪での動きであり、聖者と肩を並べられるかは知らず私に判断も出来ぬが誰も言ってくれなかった本質への必要に求められて生まれたものであったとは自負している。 (そうした意味づけでなくとしても行わざるを得ないような業でもあるのだが。)

徳高く業も深き故に深められる。が、それが苦しみに拠らぬ道にゆける事を祈る。 全てを捨てて必要に現実化を求める均衡を(現在のままにも既なる完全に為され取られながらも)私は探している。

そして此処にも又、僕の主張や基準の芯は何か? 働きかけたい真の幸福や本質とは何か?による選択性へも戻って来るのだ。