junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

86 6/19 (wed)

86 6/19 (wed)

脳は全体連関だが主軸の意識は並列(時系列的進行への置換)的な発想の回路であり言語もがそうであるならば、例え断片的な創造物の内容もは平面的な時系列でしか語り象り置かれない制限が残る。のは高次元からの視点(?)から観ても重層の一つごとは視野である以上は平面に換置される部分があるともいえるように、それを越えた表現は出来ない制限であり又は目指す必要もない自由であるとも言える。

関連のないイメージや言葉を連結していく事による想起を投げ掛ける手法は、しかし私にとっては付属性の余暇物としかならない。

説明へ言葉重ねるにも意味なく語らぬへ押し込め、機会に際して何とか一言で済まそうと現しても(自信失っているにおいても、その現し方すら困難となって来てもいるが)その一言であるにもよりて又も理解されず別の意味へ判断,転換,利用されて無意味どころか更に絶望する。

それは聴かず受け取らず自身のみであり、つまり分かろうとせぬ人の側の問題であり直そうと努力もせぬ者の責任でもあるが、では変えようと囚われても無意味であるとはしても如何にそこへの関わりへも自身がなり行い為せるか?を傍観と肯定のみではなく見つけていこうと私は試し観ている。

自己解釈による正当化的な肯定ではなく又、意味付けを必要とすることもなく世を只眺め、今日のゴダールが言うていた戦争は必要な生贄だという意義付けもは一つの転換と捉え方でもあるが、それは戦争や破壊の創造意義を認めてはいても奪う側の理論補強にも使われてしまうものだ。 私はそこに苦しみ過ぎてしまったが故にも哀しみが足りぬから世は良くならぬというのには賛同出来ぬが、自身の延長としてもの世の苦しみに観じ入る事の必用は知っている。 しかしけれども、それらは(必然だとしても、そうでないとしても)私などに止められぬ総体や人類種の動きなのだからという観念に諦めて、出来るのはせめて、それが自分(と身の周り)たちでない事を祈るだけしか出来ないというのは、その他者と自身境界の垣根の肯定ではなくとも人間として仕方なく或る意味に当然のものとも言えるのではないか。という自身も私には宿され持っているように、私は人間や私の弱さを知ってもいる。

他者へ順応し過ぎず、しかし全ての相対や総体性を提起していく事は出来ぬし往々には意味もないのだから、その場に肯定面を起き話を合わせておく事も有りて良いが、それは偏り突き抜ける事と偏らず折り合う事ものオリジナルでありながら中庸であるを目指す方向への矛盾なき皆の統合点でもあると言える真の適合点を求め向かう事と何を如何に言葉や行為化するか等もの選択の問題は同じ処で通じてもいる。

不死を求めてもいないが残されず失われるを怖れてもいる私の、ただ自分風に表せば良いと多くを生み出すのではなく、やはり少数でも100年以上に残るようなものを希求し指向する私に生み出されるが待たれてもいるものへ我が日々の余地を使って交感してもゆく。 ならば少しづつしか進まなくても、その自身と道を日々に流れ、適合と感じ合いて生くにしかない。

記憶と創作の補関物としてであったが今や、残ったものは映像や音のメモだけ。 言い訳理由としてでもなく本当に、これ以上には出来なかった限度の精一杯ではあったし、もっと残せなかったよりは中庸を取れているのだとも思うが、あまりにも中途半端で映る事への意識の欠如や完成度の質どころか浅く物真似と(民族的伝統や宗教的儀礼などにも)同じものの繰り返しの偽者のような自分を感じたりもしてしまう。


自己により生み出したものなどより積み重ねられ捨てられていったものたちの価値にこそ発見と貴重もが宿っていりように、それを新しいものへ示すことにしたとは言え引用するしかないに開き直ったゴダールのように、僕もこの愚かでも、与えられた私への役を受け為される僕自身を起こされるのだ。


それでも僕は結び付きまとまったものを志向するが、構造を壊してでも新しいものを生み出す以外に生き残る道があるか?

Abstractやconceptualが言い訳であったとしても、もっとシュールレアリスティックや非調整を採り入れられても良いのではないか? つまりa.ゲルマンやホドロフスキよりも作りたいものはベルイマンタルコフスキーの方面だが、自分の至らなさや構築の出来なさや性質的どうしようもなさ等が結び付いてしまったものを納得し開き直るにも、自己肯定の正当化は嫌いだが、それも私の弱さにも立つ為に必要でもないか。

壊れ崩れさってしまう境にありて、転げず踏み留まる傾向を発揮している私でもある 。

突き抜けている浅く漂っている。
共に楽しみ、属せず弾かれてもいる

生命体験は歓びであると同時に、生きているは苦しい。

ここにも言葉と同じように減らしゆく中でも語り尽くすか、何もを語らぬ沈黙へ宿るかのような2択性が(勿論その間も多様にはあるが)あり、自信のありとなさや肯定感と悲観のようにも同時がありながらみも引き裂かれている。



相談や共有による経過を採るにでもなく、対話外の決定を伝え押し付けるしかない時もあるのならば、もっとそこへも突き抜けて良しとし判断と破壊の対立や無駄が生まれる中での人間だと割りきってしまい救いへの変革などへ生きることすらをも捨ててしまうが方向であるともいうのか? それを自己にも行使させ否定と愚かさに対して否定し囚われ怒る愚かさに関わるを選ぶという肯定の可能性は、全てを肯定し対話的に関わる又は無関与という方向と真反対であるが 全てが良く多様可能性の理解も出来る僕には何処をどのように選びてはゆけるが良いというのか?

人為判断と操作対立同士の無駄や破壊ではなく共生的な相乗や進み方を選べる方向を持たせ示したいと思うが、そこへ囚われずなら行うというだけでもなく共生的進展や存在化などを求めてもならぬというのか? そしてでは他者へ望まぬだけでなく自身のみの変革を何処かへの方向に取り込まれた目標や設定へ望み目指してもいけぬというのか?という事でもありて、しかし何処かを選ばぬと多様無限選択肢の中での自身の生き方もが定まらず自身のままで在るとは、即ちが迷い続け苦しい自分を(認めては目指すのではなく)認めるのみとなりては苦しんで生くしかないという事でもあるのか?

本質は伝わらないから諦めると表層だけに済ます制限つけも、伝わらぬ事への怖れや囚われを捨てて、そこを行ってみるべきなのか? しかし話す機会があったとして、全てを話すことは出来ぬ時間や連関の中で何処を選ぶか?には、やはり精神の深みよりも技術的具体や表層面の優先であったり又、人間の関係などはそうした生活共有面での具体の少しや吐き出すことで愚痴的な解消をもたす程のものであるが基本であり、それで良いという事でもあるのか?


全てを語り置くのでもなく相対の違いに固執するのでもなく、ある程度に合わせていくことは対話の効用でもあるが、しかし引き寄せられ流されての折り合い的な調和性であってはならない。

効用


これも当然のこととして意識されていなければならぬ事だが知性によって自己を導くという当然の態度は、一般的には行われていないらしい。 そしてそうした、それが当然ではない人々や社会の上にあっても、こうした例の一つ一つはその先へ行く為の検討材料ではあるが定義,規範化するは難しく又、基範となれば義務か義務でなければ方向への努力はしたという言い訳や自己肯定の浅薄化もが生まれるのだろうか?


しかしタイミングが次の機会に合っていく為に排除や対立の無駄が起こり時代を遅らせていくことも必然の内でもあるように、人為を通して宇宙は為され適合が起こっているらしいと見える風にも、必然が本当にあるかは分からなくとも、そこにも必然は感じられる。 ならば人為操作や判断,強制,破壊の無駄なども放り出して置けば良く、私に何かを言い伝え関係したいという人間生理的な欲求を(減らす以外に)少しでも認めてはいけぬ孤独と押し込んだ自己強制における変革への道を(それによりての更なる苦しみが宿り来たとしても、その結果を恐れず経過の取り方は)逝かなくてはならぬというのか? 自身の愚かさを棚にあげず囚われを抜けゆくとはしても、他者や自己外部に何一つも求めてはならぬか?

誰もが、その人へ与えられた役割を果たしているだけ。があり、苦しみから私は学んでもいる。 そして自信は大切だが、それだけでは見えて来ない謙虚さもある。 運だから受け入れる、や苦しいのは今だけだ、等は考え方の持たせ方として生き易く肯定的な現実を引き込み易いかもしれぬが、やはりそれだけでは他の可能性や自身への振り返り等もを取りこぼしてしまうかもしれない。

となれば、現在までの私のように私自身を振り省り、天才でもあるのに自信持てず惑い続ける自己肯定感の低さや進み方もが苦しくとはありても、これで又これが良かったというのか。


人類の愚かさを諦め、しかしこの現世と生に生きている私においてそことの関わりを諦めぬというようにも、(自身を変革しながらも如何に関わりゆけるかへ向き合い続けては、しかし関われる事も出来ず失敗し方法も分からぬばかりが実現するのだが)私は何とも闘わず、しかし私に立ちて生きていく事へ闘っているとも言える。

欲望を持ちながらも諦めているのか欲望を完全に無くしていくのか等もの相対,多様の間に在りて
完全な良しも無しも、どちらも全てが正しく答え無き選択の現場に臨みての生に生き


全一の光と愛とは、しかし帰一する本源ではそうであっても顕れそのものは個々であり、愛の現象体へ自身のみを化せれば

対話 自分内では出来る
整理 説明
の道
内観 振り替える 道具
愛と言っても人の解釈は違うし
全てが一つで全て良しだけでなく、
互いと他者への理解