junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

91 6/27 (thu) ~

91 6/27 (thu) ~

8:28 神さま私を助けて。世の苦しみを背負わずとも、全ての平安と共生へと祈りて歩む私の愛と光の歓びへ生かされた輝きが、世界の行く先を照らしますように。 私を助け、喜びのうちに真実の本質,
愛の存在と関係と交感と創造への
深みへと辿り着く宿りを果たさせ給へよ。


周りの状態とも同時に意識を向けて過ごす Awakening や mindful に観つめてはいる。
落ちついてやり過ごすんだ。 虫登り来てはねても声出さず、心臓は早鐘。 車や周辺環境の音おそると探る。

一番ヨモギの先端若芽を口入れ噛み ~
工事車両の車道音始まるに交じって滑り込むハンモック in 8:38、これで見えぬへ包まれ隠れられた。 心臓痛い。 日記しては落ち着くを待つ。

工事の始まる。 気楽に任せる。 血行安定しポカポカと、身体が心地良く解けてゆく。 たまに外では作業員の鼻唄や喋り声、トラックはザザザ。 ヨモギは玉になった。 喉口内は適度に潤っている。

けれどもそんな非人権的な恐ろしい状況の可能性をもつ現世界を(可能性へ引き寄せられるかでもなく、)変えていくへ向かわす具体への関わりが共生などのようにもの方便でありたとしても私の創造性の生かされ方に求められてもいく。<
戦争も破壊も意味ではなく認め放り投げ、しかし提起欲求に取り込まれなくとしてもその支配,操作,攻撃,排除,対立などが(それら全てが悪いのでもなくとも安易な(経験に依る不可避さであっても基の人間的傾向において、ここでは安易とも言う))判断に基づく人為的愚かさや消費依存の欲的動きを減らし、自由と相乗の起こる心とも折り合い自身を越えた自律自身の結果に宿る文明の持ち得る可能性と方向を灯し置く私となるへの今をもに生きている。
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戦争も破壊も意味への判断なく認め放り投げ、しかしその支配,操作,攻撃,排除,対立などが判断に基づく人為的愚かさや、それらの全てが悪いのでもなくとも安易な(経験や原因に依る個人での不可避さであったとしても、ここでは基の人間的傾向において無自覚で安易にそちらの方を選択し取り込まれてしまう事)消費依存での欲的動きを減らし心とも折り合い自由と相乗の起こる、自身を越えた自律自身と成る事の結果に宿る文明の持ち得る可能性と方向を(その提起欲求に取り込まれなくとしても)灯し置く私となるへの今をもに生きてはいるのだ。

死を取り入れて放り投げても未だ苦しみの心に覆われてもしまう自身。 共生的幸福の生存化結果に引き寄せられてしまう欲望と愚かさにもありてはしまうが、では生存を保つ為の防衛技術などを持とうとする事もありては良くないというのか?

(仏教サンガは最低限の生存を保つは認めても自衛も自営もしなかった。 少林寺は方向として僕の傾向に合ってはいるが派生武術たちの多くは殺術であり又、その発展の形として 政治的にもコミットしたJedi等のような支配層側と闇勢力との対立構造の増加も生んだ。 それでも共生的方向への均衡を採る為にもの最低限武力(この場合も政治機関的な交渉,執行力や性質は持ったが政治そのものに関わるは避けられようとはしていた。)、又は人と自身等の垣根でもあるが自己と周辺拡張(家族,地域など)のみの生存担保力は持とうとしても良いというのか?)

また上の例でのように、私の最低限と仏教的最低限の基準もは違いており、それさえもに相対的視点や判断以外の総体的統合点が取られてはいない。 故にもし最低限の方向などが共通できたとしても、その解釈は人それぞれとなるのだし更に統合の普遍的共通真実を持ち創り出していく為には、それを私に見い出す必要とそれを伝え示す為の言葉,説明力は必要ではないのか?


それは沈黙と静寂の充足を目指すかの方向だけでなく私の能力が為せるへ付いて来るかでもあるが、それが出来たとしても結局は他者の能力や姿勢によりて分かてる度合いも違うし排除,攻撃されたりもし、(私はそこに勝とうとするような政治的闘争の労力も持ちたくないし持てないし、それを試しても如何にも無駄であるだけが今までには起こった。)私への周辺と世界には、言葉では分かち合えない事実のみが出現し積み重ねられるのならば、もし説明や対話が必要や試行しても良いのだとしても無意味にしかならないなら自身の想いは投げ捨て諦め押さえつけていかねばならぬのだろうか? (集約の要点だけを歌詞に託す事は出来ても、こうした過程の連綿を歌詞にまとめる等は僕には不可能であるし、この文章以外に話し関わる方法なども今のところ見えない。)


しかも自分の真の想いなどは出すことも関わる事も出来ぬのに、軽口程度にその場で思いついたような事だけが影響へ及ぼされるような人との無意味さやズレがあり、自身意思で全てをコントロールする事はなくとも自身にとっての必要や思惑は為されず無駄になり続ける処で関係し続けるのは、例え話が少しは出来たとしても疲れるではないか。

本質的部分が流通されるかを試すどころか本質面の深部内向世界~課題や関係~旅や日常の状況報告~表層部の欲望などの階層内の表層の上辺しか出せないが人との関係の大半ではあり、現在の状況の中での関係や付き合い方の練習ではあるが友との表面的だが楽しい時間なども、軽口を叩き触れ合った効用はあったとしても如何に話し通じ合うかの課題や練習機会にとっては余計に更なる虚しさにしかなっておらず、全ては現れて来る状況へ対応するしかないが、結局それでは(伝えるへ出て来るだろうかと思ったものすらもは)出せなかった。


ならば話さず伝えず自分を押し込めて沈黙と孤独の充足へ向かうのみが良いのか?

話すことへの欲望や愚痴への吐き出し方。も求めてはいる自身現状の必要ではあり、他の欲とも同じくストレスを間接に転化して誤魔化すのではなく直接に済ませなくては健康的ではない面もある。ならば深くへ語り伝え関われるかへ通じゆくかを出来れば試そうと思う事すらもなく(本質や深める流通などへの練習さえも求めずに)まだ下らない表層部を吐き出せるだけマシであり恵まれているという関係の持ち方に納得している程に諦めておけば良いのか。(そうした友人関係も少ないが、幸運にも最近は関わっても疲れるよりも関われば楽しめる位にはなって来ているのでもあるし。)

弱さを吐露する。 もしくは本質へ関われるかへ置いて見る。 そうした事も人間として大切な事でもあるのだが、しかしそうした弱みを持ち認めてしまっていると利用もされやすく自身にも避け難くなってもしまうのだし、弱みだけでなく本質であっても自身を出して置くだけで利用,搾取リスクは上がってしまう。 ならば誰がエージェントかもしれぬというようにもの心構えで誰に対しても心許さず本音を出さぬという在り方を基本として持ちて、この位は良いか?という調整は有りたとしても表層以上は出さぬという基盤を自身化させていくにしかないのか?



自己自信やPositiveに溢れ影響を及ぼす人ではなく例え本質に近くとも悲観的で弱い者は信用されぬばかりか、そこを利用へ突かれる。

でも神様、こんな私が、ではどうしたら良いの? いつでも人間は生まれ変われると言ったって、こんなにも深く人間への不信や悲観や絶望感が私に染みつき(脳の回路や細胞の抱える感情と連結などにも)根付いてしまったよ。




身口意の雑な念が多くなってる。と気付いた私の
絶望にかまけ言い訳にして怠惰になってるクリーニング しかしそうなるしかなかったのもそれに気付いたのも、与えられた必然の流れの内。

それを生み出す主体と自身がなるか?は知るか知らずに関わっていることもあるとはして(またはそれが目的として)
世界は勝手に起こっている。に合わせられていくにしかない この世界線での必然的現象としての私たちがいる。

流れによって

変革へ
止まらない。

意識、(してみた位)では変わらない

高くを目指すのか


忘れる メモ 情報と不要への多過 潜在
流し去る 燃やす
期さえ来たればに会いては自身をすぐに引き戻せる。 進み得てきたものは取り返されるへ戻らない
意識のアウトプット身体
欲の質を転ずる
真実かは分からなくても、自身からが輝いていると世界からの肯定的な現象も生まれると信じてしまうに引き寄せるくらいにはありても良い。 (愚かな浅き思い込みの者多き中で、そうではないところで)

意識へ光を充てる
愛と光のスフィアに自身とそこからの世界を包む、最善へと興る。
Flower of life メタトロンcube

意識が全てでありそれによりての世界ではあるが、身体により意識へとも関わる
今までには無かった身体の軽視から身体の意味合い付けと価値の積極へも転化出来るのではないか

存在に世界を変換していく仕事と状況の出現に従事

言葉による思考ではなく体感的な実感をいかに言葉にするかでの日々と過程でもある

体感だけで済ませたのではない言葉思考の部分は余計を産み出し、そこへ付き合う必要から抜けるべきと言われもするだろうが、それは(特に僕自身の求める探求の内容や質にとっては)余計ではない必要

今も私は生まれ変わっている
全てを断ち切り変換されてされてしまう事は出来ないが(出来るとも言え出来ないとも言える、その両方を両断をせずに渡るのが未来の進化世代や方向にも求められる統合への知性だ。

愛への変換
意識 具体的目標
超越と安定常在の苦なき幸福
とらわれず流し、しかし世界を転換させる
愛の存在と関係と創造へ望む

焦らぬとも私は私の、この世界での必要を行っている。
真実への生命交感


私(という内的意識,現実状況ではなくて、その世界)の状況は私が作っている。 そして意識が行為や存在の生む現実を作ってもいる。がそれはだからといって世界の現象全てを生み出しているのが自分だなどと責任転嫁せず
為され起こり来る世界を受け取るだけであり、その受け入れ方,意識の転換と持ち方だけがあるだけ。




もうダメだとは苦しみの中で行い続け果たさねばならぬ自分は諦めさせてくれと願ってもしまった祈りも、その苦しみでの成長か幸福だが非成長や役目を果たさぬ事か等の2拓どちらかではなくて
苦しみも良しとしても、もう苦しみなくともの幸福な成長を


マッサージは疲れてからの方が気持ち良いからといって、疲れさせる事を目的のように求めてしまう意識ではない方が良いと同じで

世のメディアやテレビなど情報に含まれる良いものや感化の材料もあるが真実の一端に嘘や操作を忍ばせて来る事とも同じく圧倒的に不要な物が多い。 そこへさえも大分に意識して取り外せてはいるが、大概の人にはそれも出来ない。 ならば正しい情報を与えようとするよりも情報媒体から離れる価値を説き引き寄せる方が良いのか?

調子悪く停滞の状態を招いたとしても自分への機と転換力で引き戻せるが、引き寄せられすぎるな。は苦しくなりすぎない自分の為にでもある。

手法や道の開発により
提案の形

簡略な問いかけ
気付いていてみよう。
ゆっくりと動いてみよう。



(言葉の転化一例)

luck-damm, flush(flash)-fakk,
melt-meld-shit, It's holy-as hole,
might-matha fukar,

what a flashing luck you melt like this irie holy might.