junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

112 8/12

112 8/12 (mon)

どちらの極にも偏らず、振り返り向き合う忘れ離れ流し去る,光と闇,愛と囚われ,喜びと苦しみ,創造と破壊,感覚と知性,楽観と悲観,解体と構築,等がどちらも同時の統合へ向かう。

全てが有り全てが無い、その状態と選択の取り方とは?と交感し知性の必要がなくても知性は生命との流通に感じる味わいの為の作用側面であるを楽しみ遊べる人間を逝く。 現在瞬間ごとこそを感じるに生き、しかし愛と平安と無差別,無判別の状態に常に留まれないのが心の常態だから、その
心転がるままで良いとは、苦しみも生命に味わえる奇跡とは認めほどけながらに心のこのままを良しとするのか統制を目指すのか?

目指すは良い。 しかし欲を認めると肥大し欲を認めず減らす方向を求めると、その欲と果たせぬなら叶わない状態の苦しみとなる。 どちらを逝くも苦しみによる道。 生命は在るだけで素晴らしき歓びであり、生きている事はそれのみでもの苦しみ。

苦しみも知っての探求、故に弱さにも寄り添い共通,普遍の統合を目指す私こそにも灯せるものがある。 意味付けも越えての遥か彼方へ私と世界の意味を感じても歩む未知なる行方への夢見じ、立ち止まり振り返る現在という幻と永遠の邂逅を見つめる旅路にも栄光を満ち、果たされる世界と私を見ている。 世界系も世界計画も知らず、この自身に与えられ現れるを為され生くにしかない生命の非情を受けるしかない覚悟への声明、そして私はそれを越えたい。

では私だけで良いとは、只独り自身内面に在りゆき他者は関係ないのなら徹底的な無関与,傍観の全て良いから何が正しきと思ったという自己意見も判断も挟まず戦争,破壊,人為を認めながらも戦争などそれらへ反対,指摘するもなく創造の力も用いず能力も生かさず捨てていく為のものとして役目なども追わず縛られず、共生などの価値を伝える事も理解の必要もなく、孤独を愛し依存なく分かち合い共有する人間的な喜びも放棄して離れ付いて来るものだけで良いという自己変革のみに抜けた、生死を越えて拷問にも耐え笑い殺されて良しとしていく愛となるが全てであるのか?と私は問いを投げ掛ける。 答えすらが見えなくなった、これがしかし統合への道なる答えだ。 立ち止まり振り返り、立ち止まらず進み続ける。 成長も放り投げ進化も知らず、成長へと向かい私を押し流す方向にも見い出す事が出来る人間的歩みの遊び使い方を示す。 只書くに繰り返す私の姿も意味合いを捨てて出会うがままに垂れ流す。 これも一つの集約への流れと試行の志向さ。 差を取る至高への施行と私の日々を渡る体験実感による思考の過程現在さ。

突き抜けていれば良いのに自信もなく他者段階へ合わせて惑うが、そんな自分だからに在る意味があるにも比べ惑う必要はなく私に為されるに任せ運ばれるへも受け取る。 もしも全てが流されるしかない必然ならば、苦しみの状態に心囚われなければ楽に認め生きる事が出来るのに、それ目指しながらも出来ぬならそこに道があるようにも私は行われるを行う。

(そしてここにも過去の箇条と現在の連結的出会いが待たれ置かれてあった。)

ではそんな自身から積極をもって関わらぬ自然の流れの信望者として、やって来るを待つのみへと完全に捨て去るのか。

在りのままであるとは全てが良いのだから何処を採って良いのかも分からず示されていない未だ概念の抽象。 それは実感の本当には宿るとしても、その度に選択へ立ち会う答えなき大変と難しさでありながら、それこそのみが生命のそれぞれを生きる意味と瞬間と現状へ感じる奇跡への体験。

共生や幸福など祈りの方向性もを持たぬ、そのままの世界の完璧へ放り出し自身関わるも良いのだが関わらぬへ抜けゆく、自身からの積極を減らしゆくによる労力の最少化にも通じるにおいても選択はありて良いが欲は減らしゆくは自身を楽にする為の一手段の方向でもある。

全てが自由だが、その自由を押し付けるもなく共通,普遍の統合へ独り誰に理解されずとも私に感じた必要を生起されていく世界との立ち会いの中に感じては生き、この観察,整理,適合,提起などへの囚われに創作などが阻害されて世界への関与,行動が果たせなくても、私はこの生を生き選んだ事を為されるにしかないを行った自負と納得に充す。 それは理屈付けかもしれぬが正当化ではなく、創造という新しい消費欲求の先を創り出す事を捨てて存在の創造にこそ尽くして生きた、結果は知らねど真の価値と大切な事へ向かいて逝きた私を認め言祝ぐ。

空なる何も無く、場と現象への振動だけがある処から何の意味もなく又は何かの意味に拠りて生まれ落ちた現,色象界の私たちへの宇宙の象りが何を与え為させ、それを感じる私たちが何を行い如何に選択するかという問いと探究に調べ奏でられ私は創造の存在を歌う。 歌われるままに織り込まれる世界の連関の唄詩を流れて観じる俯瞰に人類や種の総体を行方からにも眺める。

与えられた現象への必然は自身意思選択の結果に付いて来るのか、自身などなく意思などもを統べる必然的連関だけが行われているのか? そうした流れと自己と世界の観察。は絶対の必要や手段ではなくとも、この自己意識と知性あるに生まれた人間的段階の現在的制限の中で用いられる逝き方として有効であり肯定愛のみだとしても、そこへ至る為の生の歩み味わい方、又は生の歩み味わい方のみの為だとしてもの喜びや価値があるとは捉えられている。

つまり肯定と愛のみが如何なる時代の制限や段階にも依りても辿り着く終着点と実現可能な目標地だとしても、そこへの手段として又はその肯定実現からの生存の味わい方としてもの世界や流通への交感へ意識,自己,知性など与えられたものを使う唯一かもしれぬ価値や遊び,楽しみ方と、そこに生きる事が出来るという恩恵でもある肯定のみではなく肯定のみと交感のみの両輪性と一体の合一があるのだ。

これらを肯定と交感などのみへ要約したとしても、やはりこの説明が為されなくば、それは伝達への意味に化されない。 そしてこうした繰り返しと掘り出しの中から(読み返し結び着ける事も出来ない私からによる)伝達へのテーマ(主題や主軸)への要約もを指向しながらにゆき在りている。

真実的な両義性を知性的分別へと化された観察とは、しかし思考だけのものではない気付きと体験の持たらす統合への展開運動である。

ではそうして流れへの観察に必然的な連結の自身や世界の絡まり合いを(この制限的知性でもに)観たとして、潜在的深さや魂的連関への近さと交流により流れを操作する力に触れる者(それが欲でありても自然の帰結でありても)のままなる自然力を人為的有為性に振るう事もすらが良くそこへの対抗も必要なく、そこへ人間界の格差,優劣づけが移行するも(今よりは生き易いartistやalchemist的役割者の価値化や優先の社会)一つの段階として又は到達地としても良いのか? 全てが生命芸術のartならその生命を為され生きゆくだけで良いが、ならばその生命の質や方向へ関する基準,規制や自衛武力,破壊者の可能性へ対抗する技術実現力や工業的生産などを残し運用していく執行,管理,罰則,権力などもが必要ではないのか?

世界は奇跡だが全てが偶然であるように、生命は魔法だが根底と全体へ融け拡大しながらも操作なく生存を味わう以外の創作もしないというのか? そこへ捨てるが為の与えられた我が能力か? は任せながらに私の然じられるままを流れゆく自然の息吹や風,水の流れのように火が舞い土が静寂と鳴動に育むように空の恍惚との合化を私が体現に語るのだ。


偶然かもしれぬが自身で方向を設定し選択決定した(それが私であったかは知らず私を起こすものは私ではないが)結果においてもに導かれ(流し去られてしまう結果の過程ではあったが)現実化もされて来た私は一般的には変わり者かもしれぬは自覚しているし独自なのも知るが、社会の奴隷となる事も拒否し慈悲,共生,環境,関心,探求などにおいても何故こんなにも大切な生を選ばず行かぬのか分からない、これが私は普通であると捉えている。 そしてこの与えられた役割を、表面的には鬱病でdvで障害で年金のフリーライダー者と判断されるかもしれぬが日々を独り淡々と流しては行われるものを観つめ受け絶望に孤独でも出家のように時を在り過ごし犀の角のように歩いたのだ。と誰もが行けぬ道をあなたの代わりに行ったのだ。 その成果や世界に関わる目標が出ぬ失敗に終わるかもしれぬとも、私はその代弁者となる為に与えられ、あなたの代わりの分与を受けて感謝するにも生き歩いたのだ。

知性を理解してもらいたいが為ではなく、しかし僕の仕事が成り立てば天才とは先天性か後天性か等の下らない意見や段階も覆せてしまえるのに、この役目あるを果たされない役目の現在を行い、自身でもこれが必然であるか等も分からなくとも受け取るままにを流され為される以外には出来ぬとも諦め例え自己意思により行うに連関は生み出されゆくのかもしれぬとも出来得る自身を為し行う以外にはない減らしてゆく 生の形は、それが唯一真実かは分からぬとしても選択の不可避ではありたのだ。 そしてそこからの眺めによりて成さねばならぬという人の動きや想いにも(こうではないかと指摘はしつつも)思いやり認めてはいるにも寄り添いてはいる。

天才は育てるのでなく成るものではあり、時代の機と出会いていくかの運にもあるが運命はその必要が現されたところへと運び流し去る。

自分で行う行い方へ求め開出しながらも、出来ぬ自身や現状を知りて頼る事も柔らかく認め、そして独りでも行いて来たことの何かは、その必要に応じて現ずるだろう。 大切で重要なもの程、簡易に現れるわけもないのだ。


113 8/13 (tue)

愛と肯定の私となりて欲は無くそうと努力しなくとも無くなり、私は世界の光自身として世界への光を想う全体と現在と包合と一致の祈り、その存在あるがだけ。

浄化もその為であり種々の方法の全ては、そこへの道具でもある只、光,愛と肯定,味わう体感存在,あみだぶつ,魂や潜在,振動(aum,vipassana)も流れや自身や世界の観察も、本来の私だけが在る。

それだけである向こうには価値観や美徳の(一見には良い資質だが、そこへの義務的制限となってしまっている現状傾向もの)縛りをも越えて、美しさと生命本来の実感が開け在る。 私はもうそれを現在までに知って来たのだと思い出すように逝くだけに発動される生と死,光と闇の狭間と統合に現在ごとを越えて、全情報量を知ることなどは放棄されていたとしても、この選択や基準への知性の道は私を通す世界の体験を経る必要が為され(意味なども越えて)、しかし果たされて来たのだとも感じる。

流れの観察は究極的な必要ではなくても私にとっては必要であり生命へ足らしめた生く力と交感の遊びでもあったというように、現実の何もは知らず自身だけがあり、如何なる態度を持ちて関わるかも関係がなく、けれど関わらないへも縛らず流し去るだけがあるを試しても来た基盤に至っての歩を進めてもいく。 この現実存在と世界にありての与えられていくを受け取り私は感じてゆくが旅に在る。

そこに流し去り受け取り、捨て離れ振り返る自身と世界の統合された向き合いの姿と完成がある道となる。 それは知性や存在の高さの証明ではなくて現状の説明。

闇は光の変容の糧や手段として一体なのではなくて、(その作用もある一体性の運用ではあるが)そのままに在る宇宙を起こす作用としてもの、一体と肯定と許容の上の在るがままで在る放棄性への合一である。 それを如何にこの身に宿す統合からの選択,行為,関与,基準の全体共通環となるのかが問われている現在への過程。

しかしこの既なる現実化自体の現在を逝きながらも現実化してくれぬことには困っているというのは例えそれは自身の問題からであり流し去れぬ事の故であったとしても又こうして生きていられる事の以上に何が不満なのかにおいても、他者や現実から打たれては為されぬ身体や物質面の日々現況が苦しく実際に痛いからでもあるのだが、では結果に囚われずとしても辛い状況改善への具体を描く想いや方向への欲を抱える事が肥大化しない為へも流し去るを併用しながらに進みながらも現実的な相乗,共有への提案,行為,関与は自身存在の祈りや状態に在る事以外に必要が無いのか?

受け入れると押し付けられる傾向は根深く多大ではある現況人類において、僕が認め解き去っていく愛への転化媒体を在り目指しているからといって愚かさの強制や戦争は止めてくれというのは、それ自体が世への提起ではあるがその必要もがなく、そうした愚かさに返さずとも慈悲を持ち在りては、その者の理由へも寄り添い又は理由など関係なくとも癒すへと浄化と全一の共通による流通の(潜在)力を用い与うのみにては在り、示せるもは(肯定し祈りながらも態度では反対や指摘も設けるのでもなく)その意識への転換,変革をのみ叶えば良いへと向かう方法や創造へ向ける事のみであれば良いという事か。

浅さ深さで人や世の言説の到達や真実度合いの質の判断をしてしまうが、それは自身が高いからという差別優劣的判別において馬鹿にしているからではなく(全く無いとは言わないが)、どうしても愚かさからの強制や否定や暴力が現れて来るに対峙した学びの突端にさらされている中からの観察が、そこへの段階性の区別づけも構図化や理解の分かり易さの為としてもに必要とされていたからでもあるとは思われている。

欲を捨てなくばと思わなくとも浄化された歓びの動機づけによりてもに欲を捨て去りた充足の心身状態へ向かい達しながらも、その現実的状況によりて現れて来る身体的自分も心もは繋がっておりて生起されるのだから、では現実環境を変える又は変わってくれることを祈る実現欲求に関わる必要もは全くに無く如何なる状況生起においても自身存在と心に愛と肯定への意識取りを起こしていくこそのみだけが道なのか?

この思考は潜在的階層からの実感性に基づいてはいるが、真にもっと深い味わい体感の到達状態から見たら深度は現実顕在的な表面ではあるが、深くからの理解と現実への適合など私の囚われからも離れ捨て抜けなくばならぬか?

空であると充満されている事が一致であるように、自身と内面ばかりであるをもって世界へも達し関わってもいる私に、放棄と観入、感覚と理解などの両方があるを繋ぐ知恵と存在の形が私に、試されてもいる。

ではそうした私に宿された存在と現状と能力もの一致されている言動,選択,創作の力(マジック)の向かわせ方における行為化は存在,傍観,他力のみでなくとも、この自然の流れに任されながらも行われる方向として欲求されて良くはないのか?

魂などが本質へ近付くによりて全てに愛の癒しや救いも持たらすかもしれぬとしても、流れに乗るか従うか等もの観察などの必要もなく只、流されるを観つめるだけであるが良いのか? 観察の道は、そこからの検討も必要な一つの可能性提起への道でもあるが、そこでの囚われや依存や顕在的構築による表層化も生み起こし易い修羅であり、これも諸刃な手段であるは理解してもいる。 つまり誰にも通じ歩きても行ける万能の共通手段ではないも知っているし自身でも、その罠や縛りに陥らぬよう気を付けていなければならない。

そして世界に現じ来た他の文化的な発明や知恵からも、それは浅く広くではありても吸収や観入の種は貰いて自身の機にも合いては新たな発現の段階を繰り返すようにも進展を歩み、欲を放棄し成長しなくとも良い、そこへの成長へ向かう欲を経ては翼に変えて、例え一見には進まなくなっても、このように少しづつ、この今も少しづつにでも進め。


私より貧しているものも戦争に喘いでいるものも勿論いる。しかし生命力で生き抜く状況とも違い、欝的傾向と人間関係や環境的不適合はそれのみをもってすら人を充分に殺すのだ。

そして私は世の苦しみや彼等との共通を 背負う体験性の自身へも(五次元知性体の突端であるハツカネズミのようにも)突き出していると同時に聖者とも又は現代文明との共通点を持つにも張り出している、全方向,全多様包囲的な全体にかかった状態の真ん中範疇に居りての統合を目指し統合できぬとしてもこのままの既にを(中庸が絶対の正しさでなかったとしても)中間性に取られてもいる、それを中庸とも言えるだろう。

私からの視点や意見とは何処までも私からの一方面の意見ではある(意味付けをしながらも、なるべくに正当化はしない)が、その質と内容は多様も含めた上での統合または中庸であろうとはしており(それらが完全に一致されたものかは未だ分からぬとしても)この現在知性の中ではその能力がある方であり、この能力や道採りの故に(例え遠回りや無到達の無駄かもしれぬとも)近付いてはいるとも思う。

では結果が中庸に至るなら、結局はそれが人類的進展または宇宙の進展の行き着く先となりゆきてゆくのかもしれぬなら、この世に対して何を発する必要もない中庸性をのみ発するように愛の故に傍観なのか行為なのかに答えが出れば、例え愛の故の傍観だったとしてもを発するが良いという任せては只自身は全多様の内の或る程度の中間範囲を取っている 存在に在れば良く、又それは既なる私の実現されているこのままの中において、ではもう少し浅さへの怒り的な提案や指摘を減らすか?や創造への力持つは良いが囚われずに日々を為され在る心に落ち着けたら。等といったような調整性を選択への観入にも取り入れておく程で良いのでもないか。 つまり流れや選択へ交流交感しながらも実は意識的進行の方向は(全てがそれで良いというだけでなく、ほぼ既に統合,中間性にあるという理解において)探求したければするも良いが少し心の転調に安定を持たらそうという具体が伴えば出現の形はともかく私存在の在り方は変革へ突き抜けると思わなくとも変革と統合の完成にも既に在るとも言えるのだ。 しかし10を1へ減らしても1を0.1や0.1を0.01へ捨て達し近付いてゆくは同様に大変なのだから(そうした意味でも私は通常現代の人等と違うが同等に惑い苦しみてあるとも言える。10や1でもないが0.01や0.001まで超越的でもない中間性(という納得,解釈かもしれぬが)にもあるように思う。)私はこのままにも、そこへ尽くされていくが良く、この苦の心と惑いも歓びも日々の全てはそこへ与えられていく私への世界からの必然を行われていると感じてもいるのだ。