junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

111 8/6,8/8

111 8/6 (tue),8/8 (thu)/9~/11

全ての平安なる理解と共生,真の幸福と歓びである為に和と愛の私が、正しく果たし生かされ叶え輝いて在る、この創造を渡します。と祈り、祈らなくとも知っているし行われているであろう必然にも感謝しては立ち会い、しかし幸福により歩み深めゆく道を私は祈りてもいる。

愛の世界の為に私が正しく生かされる事をも祈るが、もう苦の理由や存在の条件づけに限らず、無条件にも幸福な道による成長と進展へ深められていく生へも転換されていく生き方を創り出す為にも私を尽くす。

どうしようもなく生とは欲望で、良いことあれば肯定的になり悪いことあれば全てがその為に結び付いて来た地獄にも変わる結果地点の現在を捉えては、心は変転し愚かでも環境的自身と人間にも理解して意識的にも覆す。 照観の力を当てるのだ。 こんなにも制限された知能でも、人間には既にその為の知性がある。

感情面により行為化も左右,操作もされるが、感性や知覚の深い処も同じく自分の意思であったものなどは何も無い。 全ては愛であり愛などは人間感情以外に無いとも言える。そして光と闇は同時に在り又無いとも言える全てが有り得て正しい世界で、この限定された存在の私達が何処を通るのかに向かい出会い合っている。

例え何もがフィクションで又、科学的証明などがされぬとも、自身を越えたものに規定されている私たちではあろうというに有りては、それを魂とは言い、その別階層との連結にあるのであろう現次元意識での私を如何なる(生命の震えなる世界の)真理の発現へ置くのか?へと流れの往来に観察し魂や必然へとも交感し、しかしその先に見えて来るのは自身の選択や見い出したものや性質,方向にも(関連はしているが)関係もなく只、与えられるを為されるしかない事への覚悟だけを生きねばならぬ生存の内の無情なのか?

潜在に深く触れ魂的な連動に流通しゆく事が出来るのだとしたら、しかしその交流に関与する事からの現実への引き寄せや操作を使って良いのなら魔法使いのサルマンもブラックマジックもヒトラーも良くなってしまい(連関上の繋がりとしては全てどれもが良いが)、では神や悪魔のようにそこへ高く深く触れた者が高いわけではなく、又はそれこそが高き目標到達地であるというのか? そこにおける仏陀的な無関与の離れ方や、それともクリシュナ的な対立を怖れない選択性の何処であるのか?

それらの全てには(一つの答えあるのでもなく戦士や僧侶など気質にもよった)それぞれの役割同士がある中で、の自分は何処に生起されるのを選択するのか?や、又は自己の意思,選択に関係なく、やはり起こされてしまったものは受けざるを得ないというだけがあるのか。

つまり例えば平和主義でと方向ありて生きていても、家族や生命が殺されていく時に殺し返しやる。と思う自身が経験,環境,状況などが連結の結果として起こるのならば、それ行うしかなく如何に気付いていたかも意味がない。 結局、全ての情報を一瞬に得て処理する事は出来ないのだから、その時の自身と性質の結び付いた一点で選ばれた事が成功も失敗もなく全てではないか。 又は創作の能力が与えられたによりて方向を宿したとしても体調や現実面が付いて来ず体動かない等の状況規定があるによりては方向は欲の苦しみにしかならず(その苦の為ではあったとしても)起こされた現実に合わせて(それが魂的階層からの必然性だけでなく、人為性からの操作結果であったとしても)闘わず越えようともせず受け入れていくのみがあるのか?

固着して来た傾向性の運用体である総体の個化物である確固とした自己と、分解していった先に自身などが何も無い両方の中で自己とは性質化した自己に規定され更には性質よりも現実に縛られているが、その現実を魂階層の流れの創造によりて覆す事は(自己などが無いのに、又は現実から規定された性質自己による判断ばかりのみからの関わりや交流なのに)良いというのか? 又その基準,方向や現実転換の目的地点(共生などというように)などがあるというのか? あるなら何処に採るべきか? それはこの分別を通してしか見い出されなくはないのか?(こうだ!と感じるだけは出来ても根拠は正当化的理屈づけ以外にない。)

流れの観察,情報の整理,何が正しいか
見い出そうとすることもないのか? 私の性質はそこへ向けられてもいるというのに。 起こすものに関わり自身を変化させる事も出来る、その方向への正しさは見み出し取られる必要があるのではないのか?


ではそうしてしかし全てが正しく又、事後に結び付いていくにしかない必然はそこに起こるのみのものかもしれぬなら、如何なる選択が起ころうとも行われた事に対して受けて肯定するのみと覚悟としての自己の納得だけがあるというのか? それは人間が生きていくには、行われた結果に理由を見い出そうとも出せぬとも納得させるしかないというような消極的な意味としても、肯定とは真の全一的歓喜の充足と震えではなく、その正当化的な自身が為した事は全て正しく(世界が為した事も全てが正しいという理解の故のものでもあるが)殺し来る者を囚われによりて殺しても自分の責任ではない。というような開き直りの事でもあるさえが良いというのか?



最近は私もたまにやってしまっているが、力同士の対決に陥らない全て良しと抜けることが最たる目標なのか? 愚かな人為のどうしようもなさも役割を為されているだけであろうという囚われによる破壊の循環もヒトラー的天才もの役割への開き直りもの戦争もを(慈悲と理解に寄り添うも良いし、そんなものが関係なくとも全て必然的最善のみなのだと)只認めているだけであるのか? それとも認めながらも止めろと言い、こちらではないか?という肯定的な提案方法だとしても、共生などの判断真実(それも判断的だと知っている以上、そこへの余程の信望理由が発見できねば、それが私や世界の本当に必要な真実だとは信じられないのでもあるのにも関わらず)を示すのか?

統合を持たらす為の反対の多様視点や指摘性を置いたりする事は出来るが共生的幸福が真実であるなどと思い込んで言う事は(結果の到達地点がそうだったとしても、その質性の判断もあり)出来ないのだろうし、それでも判断だらけで享楽的な共生も囚われと破壊の哀しみも、放り出して寄り添い気付きへの提案へ何を言うこともなく只そのままで全てが良いと言うのみである事や、世界への自身の意見や行為も挟まず無関与,無行為の沈黙,静寂性の傍観などへ抜けていくのみがあるというのか?

例え何が真実かなどは分からない。という認識に至りながらも共生や気付きへ関わるという自身を納得して世界から離れない(しかもその影響や責任は自身で受けている)という選択に留まる事は、この世界に関与し惑い続けるから抜けた方が苦しみも責任も放棄出来るから。という自身の為の選択肢であるからという自分本位な理由として推奨される方向採りでもあるのか?


浅き幸福や癒しへの救いが僕の目的ではなく気付きや世界の交感による意識の進化が僕の目指しても来た行いたいものなのに、僕は(それが例え哀しくとも)抜けて、後は勝手に人間や世界の起こるへ任せて阿呆に提案することもなく離れ分かち合うこともないというのか?

自分の性質や現実が否応なく関わりへ出来る事などを起こそうとも私は抜けていく能力ある者ですから、そちらを目指します。というだけに在りて行える事ありても行わず、自身からの怒りや闘いだけでなく選挙などの現実社会的な行為関与機会にも無為無関与を貫き、如何なる提案や対抗へも又は創造へもの力を使わぬへ放棄した無分別こそが正しい又は苦を抜ける道なのか? それだけが必要な創造なのか?

宇宙の力と一体に宿し、そこから顕れ生まれて来た私(という生命,知性,人間etc)の在り用いられ方を検証し知る為の現在経過性。そしてでは、その存在と創造を如何に置くのか?でもある私を生きる、例えやらされているだけの囚われなのでも止めた方が良いのでも、この作業は無駄だとは感じられない。 僕は今までとも同じく自然が私を与え起こし変転させて来た信望へ任すによりて展じられてゆくに流れる。

真実と人間(知性)と現実を繋ぐ、こうした分別の世界で闘う。 止まってしまったら、その段階で終わる。 それで良いのか? 只ひたすらの肯定のみが至れば(知性や魂が高いかの差別優劣に関係がなく)気付きと生命交感の意味合いもなく忘我的な私のみへ至るが唯一であるのか? 流し去る肯定のみに在れば振り返り向き合う交感に生命を味わい気付き成長させるも必要がなく、肯定のみへの為の成長や交感なのか?

~ 8/11 (sun) ~

自然とは自動生起と連結総体の流れや宇宙も含む全世界性の事でもあるし人為との対立概念や又はそれを含む事もあり地球という生命の多様性質の実験場のような物質化の場所での自然界や有機物的連結自体の事を言う時もある。 しかしそのいづれにおいて自覚的に選択されたかどうかにも関わらず、その無為性にも性質ありて有為性でないものなどは無いのだとも言えるのならば、やはりこの人間なる私によりても感じ選びとられる(知性,自覚ある故にも難しいが)判別に有為を成す事は仕方なく避けられぬ良しではないのか?

それは私の存在,創造,作業の肯定としてだけでなく、人為,人工への肥大も認めてしまう自然の全必然へとも拡大されていて良いならば、やはり全放棄の自然,必然の思想と本当には自己なき故の自己へ現れる現色のままを行う責任放棄の選択に人為,破壊,対立なども為す。等の真実や選択の中で、全自由と在りのままの肯定の上に何も為さぬ無自己を目指すか為す現色のままの自己となるのか、又その無限多様の内の何処を選び決定するというのか?

少しづつの変遷と向上を為し開いて来た私の問いている事の本質は初めからも同じく変わっていない、その全自由の上の選択点への統合と至り方の義務なき歓びである道や生き方の開発だ。 そして世に言われ皆に信じられている、自然,無為,愛,肯定,光,交感,平和や基準などもの全ての概念が未だに抽象なのである。


統合された実感的存在の先へ至れば、それらの問題は氷解する融けた自由と充足的な愛の感覚だけがあるも知っているが、ならばそれだけで良いのか? これらに解決を持たらす現時代への必要息吹の一端として私が結論を持たらせば(持たらしても意味がないかもしれぬ問いの在り方を示すだけの必要ともなれるかもしれぬが)この過程の記録はそこまで如何に考察された上でのものであったのかの証明式のような材料ともなる。 その故にも、思想などという再対立化の道具とも成り兼ねぬ取り囲みの構築を本来的には私に違避して来たが、この文化的背景に関わりを置く者であろうという私へ化され来た方向にもよりて、思想と言う事への恐れもはなくなった。

人類的な動きに構築性は必要ともされているのであり、それ無しで展開されていったとしても結局またそこへ必要となる未来への種子としても、いづれ開発されていかねばならぬものとしてもの、それは今だと望まれている人類と時代の段階が至った歴史や生体種の転換期に合わせての或る収穫期でもあり、これを逃すべくはない過去と未来の狭間における本当はもっと多くの人々の間の中で共有され行われていくべく事だが、人類総体の脳的部野の1パートを受け持ちているような私からの問いでありて、成されるままに、これを成せ。 (成せば成る、成さねばならぬ、成さぬは己が成さぬ也けり。等という思想は(一面のみの真実はありても)嫌いだ。 嫌いというと対立も生むが、阿呆は嫌いだと云うと同じく必要な提起性ではないのか?)

思い込みで見ない事や知性によりて客観的に見ようとし引き込まれない事などといった制限的知性の現状人間であるを知る故にも、それを意識的に覆しては多様の中での自分や真実を見ようとするという当然と思われて来た(完全に自分が出来るわけではないが、方向や気質は向けられている。)事もは、しかし(各自能力を行われていくにしかない事は知り認めながらも)そうした人間的能力を信じていられるのは自身(や世界の少数)等においてであり他者へは期待など出来ぬことをようやくに知った。

長く伝わりにくい等はあるだろうが、他者へ語る言葉へは集約して対者能力や状況によってに合わせて出せているとは或る程度に思う。 しかし多く書いてもどうせ忘れられてもしまうし焦点もぼやけるし誤解なども結局は避けられないであろう事は少ししか変わらず、また対立していなくとも攻撃されるのに指摘,対立面を少しでも伝えようものなら理解されぬ又は攻撃され意味をほぼ成さないのに、肯定だけでなく意識を深める交感(である魂の目覚めの質へもの)の知恵や価値や目的を意図し目指している私の創造と伝達の形は如何に為し得られる(無関与という答えが出るのでなければ)というのか? そしてそこに書かれ置かれた伝達量には充分であるのだとしても、なるべくに誤解なく(人類への記録として)説明を置いていくへと書きて著すにおいては、やはりそれだけでは足りないのだから他者伝達以外のなるべくの詳細はこうして此処に置くも良いと納得はされる。

本質や全体を球形イメージのものとしたら詩や名言などは未だ断片ごとの力を持った言葉や層の厚みともなるが説明という文章化への表現は薄いフラットなラインにしかならない。が、それはホログラム宇宙を産み出す2次元平面のように再出現への情報を擁してもいるようにも捉えられはする。

知的解釈による肯定としてだけではなくて意味付けもなく為されるにしかない感覚に宿り行われていく自身を選択へ感じ現状と 生命に味わいながらも逝く以外にはなく、ではその全ての多様と自由,真実であるにおいて如何なる答えもが辿り着けぬ未知でありたとしても(そしてこの作業は無意味であると放り出すのでもなくとも)、私において一先ずに辿り着く結合の終着点は、いつも還り来る光と愛の実感的存在へ化し至りゆくのみで良いというにも思われて、その正答を採る歌詞的な集約性などもありては良いとも思われるが、それだけではなく言葉的分別と構築においても選り採られ辿り着ける探索と又、その先へと至る探求へ止まらない事などもへの必要はあると私には思われ尽くされる現時点にも在る。


清澄の感覚に至れていなかった帰国後から最近までの自身でもあった状態によりて祈る事やその深さからも離れての絶望感の味わいにも在りてはしまったが、それは自身による愛や絶望のどちらか化のみでもなく自分の気持ちを殺すしかない経験も多大に経る必要からでもあったのだろうが、又その必要な現況は少しづつに変転を続けているようには見えるにおいても迷いにも突き抜けたこのままの自身では良かったのだとしても、やはりこの経過を経て至り着く願いと(叶うかは知らぬとも)私にとって向かう想いの質は、過程の真実ではなく真の統合へ到達されたこれだと思える真実へ突き抜けたい。


行いた事に必然的連関が付いて来るのか必然性に連関と行いが寸分違わず行われ付いて来るのか。 つまり環境的だがそれとも切り離れた独立意図的な自身が在りて選択を行いているのか、その独自的自己などは何もなく全ては完全に連結され規定された制限の中に与えられ選んだと思っているに過ぎぬを認めているだけなのか?においてもは、その同時であるのだとしても自身に起こされる自身への選択を(感じ又は感じずとも)行い為すのは自身なのだから、その流れと自己を生み起こす自己根底の本質性が何か?からへの交感により自身を起こすものが何で何故それを選択するのか?へ関わりていくことは必要な正解でもあるのではないか?とは思われる。

全ては欲の形の違いでしかない依存と逃げではあるが、私は(苦しくとも深められぬよりは、幸福な奴隷であるよりは、)この道への流され与えられ方で良かったと思える。


如何に高い感性的体験を経ていようとも、それのみが真実と止まってしまった者は僕にとっては阿呆だし、その浅はかな判断と思い込みと一方性の理解なき押し付けは、(そしてその分かろうとしようとする態度のなさは)否定と同じ。と捉えるし提起してやって良いとも思ってる。 が全てが肯定のみ故に選択など出来ず傍観であるという面だけでもなく、面倒だし無関与において防御するというのなら、そういった消極的又は不可避な肯定性も良いのであろう道ではあり人などへ関与してやる必要も成長への道を見い出し説き伝える事も関係がない私のみの成長や又は只その起こり与えられ感じるままに(自身以外に関わらず)生きる存在のみが正しい最終目的地であると言うのか。

在りのままに在り自身の成長のみで他者を変えようともせず等というのは、そう言うことでもあるが、誰かそこへ真摯に向き合いての答え出した者などが居るのか? 居るかもしれぬが大体の者は一応の納得点に納得させているにしか過ぎず深められていない思い込みでは幾ら正しかったとしても信用は出来ない。 この立ち会いを私は必要として採られてもいるし、そこからの意見を聞きたいとも告げたい。 そのせいもありてか他者への提起が否定,対立と捉えられる事も多いのかもしれぬが、それは否定的にも過ぎず、こちら側の祖点から視ては如何がであるか?と統合へ問いているだけでもあるのだが、その言説,説明を置いたとしても伝わった事は、ほぼ無い。


自分のみにあり関わりても良いが関わらぬとも良くleave itの思想において奪わなければ良いというだけなのか? しかし他者からに奪い来るならば(幾ら他者と私の垣根判断がなく役目必然の現れの分担に違うだけで本来に同じであるといっても現状には違う役割同士を行いているのであり)奪わぬを伝え又は奪い返す力の行使は憲章化的な目標の共通化達成への動きや意見出しであっても、自由を奪う者の自由は奪う罰則と執行権力,武力のようにも必要ではないのか?

そこへの問題提起や(意見だけでなく)考え方と課題設定の表明などにおいても意識の気付きへの質を深めるという意味での目覚めを目的としている私のartや伝達、存在も関わりもの言動,現実行為の在り方を、どのように持ちていくかにおいて現在に思われている、そうした本質からの歓喜と癒しではなく只、忘れ離れ見ず自分のままに関わらず聞かず付いて来るものだけで良く楽しく在れれば幸福というような、そのままで良いよ。という癒しや言説などに成れれば良いというのか? どうしようもなくそこへ逃げる弱さや可能性も駄目だとは言わず認めてはいるが、毎回言っているように肯定の上の交感という面での方向の持ち方や基準においてそうとは思えないが、それだけが全てだとしたら僕は、そう成れるのか? つまり全て良いから無関与、又は全て良いだけに関わる。 それは(その答えに達し、そう信じられるなら)戦争も良く破壊も良い。と眺めているだけの勇気のある道であり、何も感じず殺されるも奪われるも感じたなら殺すも死ぬも良いという無基準で魂や必然なども目標も無用な只それぞれを感じ与えられ起こされるままに生きれば良いという先へだけの突き抜け方であれば良いのか?

流し去る(クリーニング)だけで良いのか? そこに愛などへの意識を化すると想わなくても唱えるだけで勝手に意識はチューニングされたり、浄化されれば愛となるので何か気付きへ深めようとなどする必要もなく只、無分別,無意味付けの他者,自分肯定の愛的な気持ちの良さに生きられれば僕の想い行っている、こうした分別理解により真実や発見を持たらそうとする必要もは無意味なだけなのか? 真実などが分からず科学的照査の行方に寄与する事もなく人類は只、歩みを止めて共生的な生存や生活へ向かえるならばそれだけで良く、又そこに言える事などもそうした具体面のみの事(まぁそれも伝わった事がなく流通手段のなき課題であるは変わらぬが)だけで良いのかもしれない。

(知性的だと思って貰いたいわけではないが知性的だと言って貰えたら少し嬉しいであろうのは、その自分の性質的一端を理解して貰えている人の存在や共の方向への仲間ともなれるかもしれぬ可能性を感じるからでもあるのだろう。)

が、こうした理解による道も要らず人間と現代までには問題が多いから瞑想的な体感性の好転へ実感生が覆されていけば良いのだというのみの理解も理知的な説明や照査もの必要が何も無いというのか? それは一つの到達点ではあるし肯定的目標だけで義務も力の使用も要らぬし大抵の人はそこで充分に満足出来るし。といった有用でもある道だが何故かはともかく、やはりそうは思えない。 (それは私に行われて来た道を否定したくないからの為でもなく、これも結局その答えに至るのだとしたら、へと歩み真実への問いと過程を通して来たからによる再到達の意味ではあり、それ以降は全く不必要だったわけではないが2001年の悟りだけで良く、それ以上は進まず攻撃者にも心揺るがぬ肯定のみへ在れたらば良かったという結論のみともなるのだろう。 しかし多分そうではなく、そこで得た悟りを(もしかしたら、その結論へ至るのだとしても)更に深めた統合の真実へ掘り起こすことが僕にも世界にも必要であったのだと(この過程を否定したくないからだけではなく)僕には信じられている。


流し忘れ捨て去りた愛のみとなりて(それでも選択の問題と交感の価値は残るが)、振り返らず向き合わず探求も深める判別も理知も照査も要らぬのか? 自身(内面)だけで世界への現実的具体に関わらぬとも良いのか? 共生的な享楽,快的,利便の現実化や利益を得るだけの消費生の楽観的共有と生活,生存化だけであれば良いのか? 知性にも意味がなく知性による真実の発見などもが何も本来なく宇宙の謎を解き明かす為の進化なども必要ない只、苦をなくした現実化だけへ生きるだけがあり又それが実現せぬならば苦にも生きるだけがあるというのか?

無いものは証明不可であるという現在科学の見解だが、だからといって可能性があるものは有る。のでもないと思われるように一番シンプルな答えこそのみが答えであるというのでもないと思う。 複雑化せず又は複雑化を経てシンプルな結論を見い出したり、分かり易い提示へと変える有益さはあるとしても、全てが良く自由だ。 だからその感覚に至れれば善く生きれるのだから理知も証明も探求も要らず自己も考える事や分別も知性も意識も要らず自身も捨てて共生,共存,共有や又は自己のみの選択,生活となれば良いというのであれば技術の進展も進化の目的も要らず自然の要件のみに起こされ生き死んでいくへ戻り殺されるも殺すも納得して行うがままとなるへの進展性や、技術方向へ悟りは化学的にも成され存在は電子化され意識は融合され生体も自己も捨てられ、またそうした信仰が義務づけ強制されてもいるようになるのや、又は全て放り投げて関係ないやと生きたり全てが全一であり意味もないから生きる苦や労力をなくし滅ぼそうという選択も良くなる。等というのは、もしかしたら究極的にはそうかもしれぬとも安易なシンプルさではないのか? しかしそうした一番嫌いているような浅き楽観との対立なども統合と折り合える共有点における共同性などへも取り出だしていく必要も感じてはいるが、結論は愛や全て良しでありても、その内容の質や深さが違うのに、それで良いという共通を採るだけで良いと言えるのか?

しかしそれが共通でなくとしても愛と肯定の自分へ転換してゆく為の手段,通り道の行き方が私に見い出し統合でき提示し得れば、そこに共通でない部分の説明と理解の共有を経なくとも私に思い目指すものへの至り方を世へ置いていく事は出来るのかもしれない。


心の変転もそのままで良いなら、痛く苦しいも今ここを味わう喜びではあるのは本当であるし、今ここのみに生きていると確かに、その生命との立ち会いと交感において幸せになる心を叶え在れるも一端には真実だが、それは現状の現実の質にも左右され拷問状況下で生命の奇跡と世界の一体を感じられたとしても、その痛みが続く中で、この痛みを味わえるのも生命ある奇跡の故だ有り難い。と感じ恍惚状態に保てる人は物質性も越えたサマーディの超人だけではないかと書いたようにも、ではそれのみが目指す先なのか? 生きている喜びに観入しあれば殺され奪われても喜んでいられ、それで良いというのか? それを叶えられなければ幸福にはなれず救われぬ欲の肥大ともなるのではないのか? それが叶えられぬ多くの人は苦しいままで良いのか? そしてでは叶える為になら個も生体も捨てるのか? もしくは心の幸福を叶えれば、肯定的現実しか回り来ないと等とでもいえるのか? まして、その自分を成そうとなどすると何が来ても心揺るがぬ幸福の状態に在れるかという試しが来続けるのではないのだろうか?


今ここ、の生体,環境,全てへの交感を通して世界の奇跡と連関を味わうのみへと自身こその存在を転換しゆくにおいて共生も生き易さも叶う方向までは間違っていないし人間の実感的真実にとっても一つの真実だが、結局何処まで深め悟れたとしても、その時の状況要因に左右される自身という自然による現象生起体を自覚した上での心一つが世界の捉え方と幸福への全てであるというのも本当ではあるが、だからといって今ここに観入した心のみであるとは上記の苦しみの現実状態に対する対処法や欲と方向の持ち方などの観点から説明を持ち得ていない。

(ではそれのみが目指す先なのか? 生きている喜びに観入しあれば殺され奪われても喜んでいられ、それで良いというのか? それを叶えられなければ幸福にはなれず救われぬ欲の肥大ともなるのではないのか? それが叶えられぬ多くの人は苦しいままで良いのか? そしてでは叶える為になら個も生体も捨てるのか? もしくは心の幸福を叶えれば、肯定的現実しか回り来ないと等とでもいえるのか? まして、その自分を成そうとなどすると何が来ても心揺るがぬ幸福の状態に在れるかという試しが来続けるのではないのだろうか?)

没入の深度が深く、フリーダイビングしているみたいだ。 (脳は熱せられていないと思うが息苦しい。) これだけは、時に休息は選べても毎日さぼった事がない。

肯定と交感とは愛と気付きでもあり、全て良しと意識(知性)的進化の幸福。を祈ってもいる私ではありて、それを全一の光や真の幸福などという目標への祈りに化している事も出来るが、存在化と生きるだけへの生命の芸術であるという姿勢と方向は示せるが抽象であり真の真実が何かを語っても
見い出せてもいない上に全てが必然の役割ごとを為されているなら全てが生命芸術であるとなり又はもし達した意識段階や創造の質性で分けるとするならば、そこに格差づけや操作,強制,目標義務もが(全一の必要分担があるだけだが一般的には)起こる可能性がある。

そして深き肯定と交感はどちらにおいてもそのままに魂とも言えるが、魂だからに為されるだけなのか、その必然的な流れを起こす側へ関わり入る方向と存在化による潜在的な優越化や世の現実操作は良いのか?等へも答えてはいない。 よりてその欲の質にも関しての選択や流れの観察に生を捧げ真の幸福とは何か?へ知性の犠牲になりてすらも掘り出す探求は私において真に大事なものなのだ。 これを通してこそに人類の発展の先と行き方への関与もが有り得るのは実際ではないか。 自身の為にも子等の為にも私は尽くし続け、いつか私を灯すのだ。

全てが光であるというにも、光と闇は唯の状態であり、振動だけがあるとも言える。 では(Aumが本当かは分からなくとも)そのtone chantなどだけでも(その為の意識づけ設定説明は必要となりても最低限で済む)良く、ではその振動にもよりて深く潜在的現象の諸相根底や粒子性にも触れていきた事による力が破壊の方向へと向かない為にもへの方便としての光や愛や慈悲が解かれ化され導かれていれば、それのみで良いとも言えるのか?

愛も闇も肯定も否定も生,創造も死,破壊も無く。では、流し去るのみの大自在歓喜に至れば如何なる疑問と、そこからの進展成長可能性も要らぬというのか? 以前には一抹の答えと共に進んだが既にもう答えなどは出なくなった問いのみの状態での、それでも統合という欲と目標へ向かう旅となった。

全てが現在という永遠のみであるが、未来と過去へ流れ去るのみの瞬間に現在などはなく、宇宙的な又はそれを越えた永遠だが現在だけであるに永遠などないとも言えるように全ては決定だが全ては自由であるというもは同時に成り立ち流し去る事と向き合い深め掘り出す事や無分別でありながら知性である等もは実はこの知性分別的方法の以前に合一体だという事も知ってはいるが、それでももし本質があるのならそれは言葉に宿せる故にも、この言葉の人間世界に(合わせる為だけではなく)おいても矛盾なき実感と真実を誰もが理解可能な(説明力の問題はあるかもしれぬとも)形へ置き換える事が出来るとも信じ(いつか諦めるかもしれぬが)私はその活動を受け持つ。

音楽や創造可能性と才能を(そこへも垣根なく結び着き私の生かし方となるとは信じているが)生かせず二兎を追えぬに諦めなくてはならぬとも、それは創造と承認欲求も生み出す手段ともなってしまう故にも(未だ積極的に捨てられはせぬが)どちらかしか得られぬのなら私は、こちらを選択する。 これこそは私と人類の必要であり、この活動の犠牲となりても私は役目ならば果たすにも生き、しかし幸福である道での成長は願う。

そして未だ理屈化が出来ぬとしても、やはりそれではない。と感じられた事による僕への意味は、真実かは分からなくてもあるのだろうと思う。

結果だけを見ると何とか成って来たからといって、それはどうしようにもならなかった事ばかりの積み重ねの上に合ったのだから、(人類は危機をも越えて存続して来れたが、その歴史には類類と避けられぬ死と苦痛と不幸が積み重なっているのだから)何とかなるよ。などというのは、そう思い込む事で楽に現実化的にも向いて生けるかもしれぬなら良いという面はあるとしても、やはり違うと言いたくもなる。 楽観を持って行為や現象へ臨む事は大切でも、楽観だけで進むのは知性でも統合でもないと思っている。


原爆は終戦への決定を持たらしたかもしれぬは認めるし(東京湾に落とすなど他の選択肢は有り得たと思うし市民の大量虐殺を 正当化出来ないとは思うが)本土決戦などの更なる悲劇からは救われ敗戦を認め諦める力ともなったのかもしれない。が、もしかしたら徹底的な本土でのげりら型の抗戦にて長期戦へ持ち込み又、国民が惨死していく事で国際社会からの賛同や和解への介入を持たらす為といったベトナム的な帰結への可能性や無条件ではない休戦や講話への戦略があったのかもしれないようにも、それはそれが良いという事ではなく戦争は何処までも愚かだが、当時の日本人が(戦争へ向かっていく過程においても同じく)愚かさでしか動かなかったという情報や判断だけではなく、別の視点,意味,可能性や勝算ある計画もあったのかもしれないというような面も見ておく必要は(洗脳のみされぬ為にも)あるのではないのか?

そうした理解も考える力も自分から何かを生み出し起こす事もの、全てが必要ないのかもしれぬとも一方的視点に捉えられ取り込まれない事や、その位の自己と知性の使い方は、それさえも必要ではないのか?

そして死の覚悟にもありての自身を懸けて行い、敗けたのなら死を伴う本来が故にも責任と役職の全うをもって死ぬ(又は引退や出家し社会へ関与しない)という決断は尊く尊重もされて良いと思うが、それでも他に出来るかもしれぬへ生きての役目を果たそうという選択も正しいのではないかとも思う。 (それを認める言説が共有されると大体は保身などの卑怯な理由での人物は生き残る為への言い訳ともし、真面目な人ほど死という解決を選んでしまうのだろうが。) しかしそこで生き延びたからとしても他の人生へ使える者もいれば使い果たしてしまった者も、死に場所としてを選べなかった後悔となる人も残された生命を使って奪う仕事を行う者も居るのだからにも、こういう時には死に又は生き延びよというような基準化は出来ず、各自の選択があるのみではあるのだが、その美徳など一方性の価値観に縛られない全体の傾向に関する方向への探求として自身内側や世界の流れとの交流によりて選択しゆく道は私には見い出される必要とされてはいるのだ。

一人一人が真剣に全力で自身の持ち場や使命に打ち込み出来得る限りは行い尽くそうという日本人の良さもあるは認めるが、故に自己を縛り我慢,節制し与えられたものだけで奴隷となってでも自身を殺し押さえつけ生きる事を選び、真剣すぎて追い込まれ易く病気にもなってしまう美徳や気質でもありて、選択肢を減らす為の(mono)なグローバル(一色単)ではなく価値観や選択肢を増やす為の世界共有化時代でもあるのだから、自個や合理性も取り入れた上での進み方への選択や多様でありても共通普遍な思想的な結実と提起共有を私は求める。

また、例え最も暗き夜の後に麗明が来るというように戦争が終われば追いたてられ国の為に死なずとも良いと後からは簡単に想像し言う事が出来たとしても沖縄戦での民衆が、どうにもならない死と恐怖と絶望を目の前に突きつけられ、その時は死しか考えられなかった気持ちは分かるように視点を変えれば別の希望が生まれるとしても、その余裕がなく死ぬしかないと追い込まれ殺されてもいく人々の気持ちが私には自分の事として良く分かる。 しかしそうした事への思いやり等もは先程の日本人についてもと同じく共感によるptsd体質であるのだとも言え、それ故に人の気持ちや弱さをも知りた代弁者となれるとしてもの慈悲は自身を傷つける諸刃の刃であるのだから、もし理解などもの必要が無いのならば慈悲的共感による観入も要らぬとも言えてしまう事にもなるではないのか。

これらは理解や知性の肯定や意味付けへの自己納得や類証を投げ掛ける為のものではなく、私の整理に必要なものとしての行われている(そこへの納得感や投げ掛けではあるが)問いかけと方法の軌跡でもある。