junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

63 5/8 (wed)~

63 5/8 (wed)

愛と成り流し去る基盤へ立ち還り、しかし私は恐れずに問う。 例え何処へも至らなくとも浅く愚かな知性でも、私は私の真実と深化の実感を歩んではいる。

流し去れたらきっと、また生きて行けるはず。 愛で在るのを目指して、欲を越えた楽と自在へ、方向も捨てて目覚めて、苦しみとも共存した只在るを任せ観つめて。

生存の創造を逝く、自存なる自由と調和。 破壊も人為も良しと認め赦して共生の存在自身を奏ぐ共振の媒介を果たしたいのだ。

世の現じた相対を統合す顕れを象して、私への唄が流れ込む適合を世にも歌われる。
苦しくとも感じる生命の交感と立ち会いに味わいゆくだけが、今ここの全てと真実だ。 各自が各自を為すだけの必然的な連関の機構に、小さくとも意識あってしまうが故に泣いて歩くが人間も、それと知らずに他の階層との流通相互を渡し合っている。 胡蝶の夢の butterfly effect 。 見果てず尽きぬ世界(人類だけではない)を旅し存する。

何が真実か等も分からず、けれど求めて深め達する意味がなくとも、自然の流れに流動する対称一体の自身を持たらせ。

意識の力が有りても無くとも、粒子波動の浄化体と鳴りいて響き、結果ならず全肯定までは苦が来たる更新をゆかねばならぬのだとしても縛られず、解き放つを夢見て突き抜けよ。

愛を送らずとも只、愛に在れば良い転換を催せ。

生体は望んでいる。 それをもって至りて還り来ることを。 人為による進化の先への操作的な創造は如何なる行方を持たらそうとも新た見つめるfrontierではなく、我々は既に今次元なる地平(horizon)に踊る感覚にも共鳴されている実現の現在を進ませる事も出来るのかもしれない。

歩め、歩め。 与えられた、私を生きよ。 この声がいつかへと響く麗明の暁に鳴動を連れて来る時の記憶に呼びかけよ。


64 日々

気持ちが求めてしまうだけで、日常を行う現釣り合いの状態は既に、最小限にも生きられている。

休足と虚無感の停滞もの必要は、愛となり流れ任せた生命化への変換を再び用いだしているし、このスタイルとなったメモ整理も追われず詩的感覚にも宿せるようになって来たし思想が全ての答えへ完成されていなくても、もう分からぬことは現自身の感性を社会と分かちあっていければ良い。(それが出来るか?は試していくさ。)

文章も始まり出したし映像以外のやるべき事は出来ている。 これを如何に進めるか。へも立ち会っているし、しかし映像をまとめ結び付けるvisionのなさや(以前のは偶然にも上手く絡み合ったが映像プレビューも動かない状態で編集せねばならぬように)コンピューターの性能も、それをupするnet環境も無い(net cafeで出来るか?)のだから考え試しながらに、少しずつ進むしかない。

消費も映画(dvd)は大分消化して来たし本も始まった。 tvに時間とられるよりは生活ペースも夜早めに一回寝る。等も出来るようになって来たし、予定も細々したものはあるがシンプルになり始め数ヵ月でもっと減らせるかもしれぬ。 というように次の段階へ移って来ているのだからにも、例え現実化せねば旅も行けず拠点作りも出来ず何も繋げられないのだとしても、この私の日々と愛の変換の生を逝くにしかないと生くのだ。

家族の事も山で共に又は近くで暮らせたらとは思うが、これが現在の私たちに与えられたものなら仕方なくメグが頼れる男性も僕以外に居るのだから絆作れず深められず共有可能性の排除されたことへの哀しさや共のvisionがあるのに為されない事などはあるとしても任せておくにしかないのだ。

家の設計も金がなくとも誰でも建てられるものとする為にも金入ってしまったら、ここまで向かって来ず建ててしまっていただろうし段々と近付いてもいる。

全てに意味付けは為せるのだが、上手く行ってしまって浅さを降り撒くよりは良かっただろうと思う自身の傾向,方向性にも、そう思う。

隣の芝は青く見えるだけで誰もが苦しんでいる世にありて(比較での安心でもなく)、これ以上には失われず家も子もあり、長野のような閉塞感はありても山もあり落ち着いた環境で暮らせる事にも僕は恵まれているのだし、(AmsやPaiのように)しかしそれを広げるへも関わりたいが為されぬならば、それが私の領分なのだろう。


65 5/9 (thu) ~

現実化が起こらなくても、私ひとりが愛の変革となる。

失敗により上手く行くもそれが肥大するも、どちらの可能性もある中で結果から見るしかないが、ここまでやったのだから失ったのだから得られるはずという報酬への潜在意識からの書き換えへ利用することは出来る。

求めても良いのなら。ではあり、では流れに乗り日々との適合へ流される以外に、私が為すべき事は何だ?

昨日の夢は歯がボロボロ抜けていた。 今日のは少しの違いで行う事を止めてしまった並行世界に移行してしまい行う事で回る世界の輪が生まれなくなってしまっていた。 僕一人のチョイスでもここまで違ってしまうを目の当たりにしていた。

やるべき事もやれてはいるし、やるべきことはいつも、ちゃんと期限までに間に合うように調整されていく。が、今それに気付いたのなら今行うべき事への移行もが求められているのだろう。

無理すると歪み出るにも少しずつ、しかしそれを言い訳にして怠惰に流され過ぎず(それが必要な場合やそれによる調整もあるが)欲を少し果たすか少し減らすかで減らす方を選ぶというようにも、出来るだけの事は何かへと現在を感じて追われ過ぎぬとも少し追うにも生きてみるのだ。 最小限を目指し、任せ受け取りながらも自身与えられた生存を為すへ闘うを忘れるな。

しかし焦るな。 無理せず延ばし過ぎず(それにしてもパソコン開こうとするだけでストレスだ。が、苦痛にも行うが仕方ないのか。)行き会うベストタイミングは訪れるものだ。 感覚で気付きながら欲を追い過ぎず、しかし欲や楽へ流れる時も作用して進む。 そこには自己へ現れて来る流れへの感覚で受け取っていく以外の選択の基準はやはりないようだ。

流れ感じて乗りゆこうがゆくまいが、それぞれの適合は行われていく。 しかし潜在的な感性の奥底に通じれば流れを起こす主体者に近付く。 では(それが強固だからに運命と呼ばれているものも確固ではないのかもしれず)自己越えたものと通じた自己意思からの操作(しても良いのか?)に至れば、流れからの制限を受けて行わざるを得ない(それが自身のvisionかにも関係なく、与えられ為さねばならぬなら為すしかない)事からも更に自由になれるのか? 任せ何もしないで現実化し傍観と存在のみに在りて世界を幸福や共生へ(それが良い事かも分からなくても)変化させてしまえるように(即ち神的上位者)なれば良い。を目指すのか?

自己を無くしていく事での自己による世界の操作,創り換え。 もしくは与えられ起こる必然を受け取るのみへ自身なくして生く自身となる。

世界の為と為したい自身の同体であるが、

風狂遊雲空ニ融ケ、水流ル帰一の不二へ。

悲観的で自信ない(又は反面ありすぎる)自分でも良い。 そのままに突き抜けて、軽やかに舞え。


しかし知性で判断するのは優劣,競争でもあり求め続ける上昇思考でもある故にも、それを失うことも怖れるな。

まとめられず書き放しになったこれも、日々の観察の記録としての日記のようにも成れば良い。