junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

79 5/31 (fri)~

79 5/31 (fri)

子供らにも恥じぬような正道をゆくのだと思いながらも、恥多き生ではありました。

欲に追われて為した事の記録が無惨な私の後悔や苦しみにも宿り又、それが繰り返されるのかという懸念と怖れにも及びますが、今後もの未来に影響を持たせぬ為にも過去は過去と切り放しては、しかししかと現在からの自身の在り方を変化させていかねばならぬ時であるのかもしれません。

他者からの評価や基準判断などに囚われぬという意味では恥じる事など私にはないが、しかし他者評価基準からしても恥じない徳高く王道であるような在り方へとも生く事と、しかし欲にも惑う人間的な姿でありて世にも寄り添うなどもとの釣り合いは如何ように取られ得る自身を選るという事か?

空や太陽みたいなシンプルさと言われても雨や嵐も自然のシンプルさであり、そんな人間の様相を見ることもない浅はかな幸福の享受など。へ対して、しかし反論も無意味なのであり、そこには相手の労力を奪った結果と、私には分かりあえぬ無力感などのみが残るのです。

分かり合えぬ人間の愚かさに、しかし期待し嘆くしかなかった私もまた愚かなのです。 他者の労力を奪ってでも聴いてもらえるかも。等と思ってしまった私の哀しさなのです。

深さへと進む事で他者の時間も奪ってしまう関係などへとも求め過ぎず、しかしでは表面での付き合いのみに誰とも分かち合えぬを(それが自然に顕れ与えられる迄は)認めているというのは独存であろうとも、やはり哀しい事ではないか。

一般的人間社会全般への共生などが方向を自己の欲求へ化し背負い過ぎず自身はそこからも抜けていくのだとはしても、しかしやはり誰ともその存在のままには関われぬ現在の私にはおける哀しさは押し込めての自身がのみの変革へ向かわせるしかないのか? それは愛への闘いだ。 その反動もを怖れず、捨てていく事への存在化のみを生き、弱さからの社会への提案性などをもを失わせるのか?

破壊的指摘態度も悪い事ではないように、安易な欲望,衝動を良しとして流されぬとはしても、それは一つの有用(それは自己利益への功利や結果への欲求であるとはしても)な手法でもあり、(方向がどうであろうとも自身現状のままに選び為すしかないと同時に、どこへの発現自己をも選択してはゆける自身において)否定的提案を選ぶのか如何なる欲求をも否定し捨てていく方への欲求自己をのみへ生きるのか?でもある。

これらもはつまり自身の現実行為や関係への選択の問題であり、全て良い中で何処を指針,方向とし現実にも選び得るのかでもあり、弱さ,怒り,苦しみ,の自分を吐き出して結果にあまり意味がなくとも怖れに囚われずとも行う。か、そんな自身現状を押し殺してでも発さぬへ偽り苦しくとも病気になってさえもに愛の方向へと闘い社会判断的な範となるべきような、そちらを選ぶのか?などの問題でもある。


迷惑か等も関係なく自分基準で動いて良しの場合もあるし、その結果(という一時的な見え方)が悪く出れば反省しなくてはならなくなるが本来、結果での判断ではなく自分か他者か等の基準もは現況自身感覚に選びとっていく以外の方法が基本的にないのでありAi的最善判断から何が与えられては自己に選ぶポイントやバランスとするが良いのか、も同じ事だ。


常識ではなく良識であるは目指されても良いと思うが、その基準なども千差万別であるし又、一基準へ押し付けられない。 ならば尊重などの言葉も自身制限の義務性へ転化はされてしまうとも、自由と尊重などと言い表すこともは出来るのか? しかしそこにはやはり(対話に囚われ過ぎぬとはしても)そんな言葉では伝わる訳もないと分かっても来たし、どちらにしても説明を置く必要が(それをおいても無意味であるとしても)生じる。

対話的価値による関係ばかりを追わずとも、そして説明に意味もなく創造性へ転化するのだとしても、又それを私は整理し伝える能力も欠如しているのかもしれぬとも、私はそれを求めてしまう性質化された現状と過程の結果ではあるのです。

こうした私の思想の経過や一端の結論などもが、しかし他者へ与える影響もへの責任は持てない。 言葉で説明することが私の方向ではあったが正確に、そして全てを記述することも出来ぬし、なるべくしたとしても読み取られるへは各自解釈が為されるだけであるに任せねばならぬのだからに。 しかしなるべくにそうした事へも気付きては、やはり説明する必要という面へもにへの意識は置いておくが私の方向ではある。


しかと自分を成し行為によりて輝いている人(生命の実感としては僕もそれを目指すが、存在のみの輝き価値は認められない)のみを認めるというような判断と向上意識に洗脳された他者感覚に対して、それは違うと言う事もに意味がないのならば私は如何に自身の思いのままを自由に置けると言うのか? どちらにしても排除的可能性や折り合えなさの増加が無知性(自己感覚のみ)的人為との間には起こり均衡を取り得ない(又は取りにくい)中での表面的な関係を良しとして自身の弱き本質性で表しては関わる事なども出来ぬというのか。


自己感覚と判断の環世界同士であることは僕も同じではあるが、聴き分かり合おうともしない事へは自覚的に自己判別ではないように勤めてはいる。 それでも判別(愚か)者へ対しては嫌悪し判別するという私の中の愚かさもはありて全てが良いと流し去る状態へは至れてはおらず、苦しい日常基盤の中で愛への歓喜をも味わえるという私の現状は高く稀な同立状態でありながらも真に苦しみを抜けた愛のみではない愚かであるもを知っている。

身近さにも無理(否定的意見の直接ではなくても否定的状況の出現に肯定的関係や可能性が奪われていき、そこへの提案の何もが無意味である)なのに、僕はこんな世界に対応できない。 諦め抜けてゆく以外の選択肢は(それが唯一の歓びの道だとしても更なる苦痛とその結果を引き連れて来るのかもしれぬとも)、無い。という結果ばかりが現出し示されて来る。

それでも私も話し伝え分かり会えるかもと期待かけて出方へ試しみることも良いとは思うが、では欲を果たしても良いのだ、の方向よりは欲を果たさぬとも減らす充足を得た方が自身にとっても幸い,得であることも多いと思われるのは、そうした自身のマインドチューンがあるからではないと思われ、それでもやる。は仕方ないが、それで得られたものは自然の流れと合ったものではなく多大に被害を及ぼすわけではなくとも、あってもなくても良かった程度のものであるが多いようにも思われる。 ならばやはり自身は最少でも自然に起こり来るを受ける以外は欲望もを減らした自在へ存しゆくだけであるが良いのか?


自然に与えられるを待ち積極に働きかけない在り方は、ほぼ正しい行為の方向であると思われるが、しかし完全に運(運命)任せでありて(欲望に過ぎぬ意思や感覚との、現在中庸的なバランスを取るのだとしても)その自身意思発現の機会を奪われてしまう状態においての自己や共生への願いや生理的欲求などもを押し込め(るは自身のままでもなく苦しみや反動も生むし)ず発する事もは現世社会へ対する提案の一つと成り得る可能性を失わせてもしまうが、それでも只、自己は為さず流通の可能性を試す事やその表現形態の模索すらからも抜けていくが正しき方向であるのか? 押し込めた結果の反動も良しとして、その過程の取り方を逝くにしかないというのか?


僕の可能性や創造を捨て、与えてやらないという人為収奪社会への復讐でもあるも良いだろう。 しかし押し殺す事、そして何故こちらだけが我慢せねばならぬか!?という不平等感に膨らませられる衝動,欲望の肥大を押さえ付けようとするのは現実的な表明事象において(潜在的意味合いや悪循環も必要過程であるを為されるしかない。というような意味では、それも良いのかもしれぬとしても)は悪循環しか生んでいないとも見えて来たようにも例え創作必要などなくその為などに生きるのではないとしても私を押さえつけては良くないのだ。が、その自己へ肯定や無欲を強制し押し込めた悪循環の結果も必然過程としての良しならば、やはり破壊でありても破壊的創造可能性であるそちらの方向を選ぶのか?

天才でも特別に頭の良いわけでもない私ではあるが現在人類の知性の使い方との比較から見ると知性的と言い得るとも思える。 しかしそんな、私に化され与えられた宇宙の機会と役割をも捨てるのか?



流れありても進まない最少を選択し、それが自身を押し込めるとしても欲望など全て必要ではない。とまで捨てていくべきなのか?

捨て去って積極でなくとも最少に流れ受ける為に、それが必然なら又も来るであろうという判断基準と状況へ設定して動く等が良いのか? それでもその機会が現じたら、そこへの判断もなき自身がままの行為化を置くのか?


流れありて試すも結果への意味なく手に入らぬ事例も多く、では後悔せぬ為にやらないよりはやっておくのか、やらずに済ますのか?においてはニ択しかない中で、行わぬを選ぶへと転ばせていくのが更に良い現況と自身へもの方向であるというのか?


得る為に捨てておくと同じく得た後に捨てるので良い場合もあるし、良い事のある前に心苦しく泣いておくようにも流れが連関に繋がっている(だからといってどちらの結果へ通じるかはの判断は出来ない。)こともある自然に任せ、それらどちらか(捨てるか得るか苦しいか幸せか等)の設定にのみへ捉えらず待つも失うも得るも、その時の自身へ与えられる状況へ対応し自身への選択を事象化させるのだとはしても、しかしどの自身を選ぶのか等の人為分別知性をも捨て用いない(感情だけでもの)感覚への在り方だけが在り様の必要なのか?


すぐ何でも自身のものに出来るような才能はあるのに、思い込みではないことを指向するにおいて素直に一直線に向かわず確認作業などを経ないと自分のものに出来ない性質や、比較選択する時に自身の嗜好に合ったものではなく少しずらさねばならぬのではと思い、ちょっとした選択の間違いを起こすこともがある私のままに、しかしそれ程に大きな失敗は必然性の生起を覆す程には起こっては来ない。ならば、自己行為の結果はその全てを必然的過程と世界自体と受け入れていくのみがあるのか?


もはや流れの様相を読んでいるだけでありて問いの統合へ向かえてはいないが、この流れの観察などにおいても、具体の説明や例が出されない抽象や概念でしか語り置かれない事が、私においてのほとんどであるもは知っている。が、それは簡略と概要の整理手間との自身現在における均衡には為されてもいる。


得られる可能性が出て来ると得なくても良いとなるのは、その状況への流れにもよるが怖じ気づくからでもあるのか? いや、得られる可能性の獲得に満足して済ませられるならば(それも到達や目標達成による充足ではあるが)果たさぬとも受け取らずに良しとしていられる良さではないのか?

積極ならざるにおいて最低限しか受け得られず少しの積極の(欲の)方へ転べば得られるも良いというのも間違ってはいない中で、それでも最少限を選び自然に来ない物は受け取らぬとも充足しているという姿へ向かい、在るべきなのだろうか?

取っておく備えの構えと準備も考察もなく自身や家族など守る垣根をも無くすへ明け渡し只、無防備に必要な時にはやって来るへ任せている方が良いのか?


自身現在の最少必要以上を受けて良いのかと不安になったり、失い(与え)一つの可能性を捨てれば他の(しかも更に自身の必用や望みにあった)ものが与えられるのかもしれぬという解釈への設定は人間的意識として普通だと思うし利用も出来るが、その減れば入る。 入れば減る。 しかも入る方が減るより多い。(生贄なども質高い希少さと引き換えに全体への利益を受けようとする行為)という経験則での設定は思い込みや又は表層的な現実であるのみであり、それをカルマという法則ぽさ(一見には見え、起こってもいるのかもしれぬ)に名付けただけのものであり、そこに従う必要などなく覆す意識使用の方法も在りて良いのかもしれない。

現実は易きに流れを受けながらも方向は高く設定しおくのか、易きへ流れずその可能性を捨てることで違う更に高きものを受け得ようとするのか?の自己へ選ぶ方向は後者が私の基本的な設定や態度ではあったが交換の因果律を持たらさず得ながらに更に得ようとする事や、得た物質的満足の上に欲を減らそうという方向もは可能性や意識の設定力においても有り得るものでもある中で自身と普遍は何処を選ぶのか?


行きたい,行ける,開いている,などの内部,外部の状況が揃っているなら、それが欲でも現在自身の出来うる事や必要の機会として行いたり言いても良いのか? それとも揃っていても違う事はあるし違いたがえていても、流れないから諦める。のではなく自己意志を貫くによりての流れを開くという流れへの誘いや生起もがありているように、その状況を判断の基準には出来ないと思われ又、決定と変更,留保と行動,等の、どちらもが良いようにこれら判断の質に判別基準は付けられない。


目に見えぬ波動(や精霊)的な影響への怖れと回避運動は当然の人間的感覚や反応。ではあるが、そんなものも関係無く私には何の影響も及ぼさぬという信念や芯に意識を設定し方向を置いてしまえば、神的存在や聖地などへの祈りの交感や、又は死したものへの祈りなどもが軽く流し(又は無く)、私が存在しているのみに神なのだ。 全てに光あれ。というような(或る種、尊大な)軽みにも抜けられていくが良いというように如何なる選択や結果の受け方への交換性や設定もが不要のものとする事もが出来るのか?

それこそ、最善が為されますように。でもない全てが最善で在る。という委ねきった存在の態度と質であるとも言えるのではないか?

では、こうしたからこうなるのでは。というような因果判断を抜け、只全てに平等な朴然人(でくのぼう)のような分別なく殺されても良しの存在化へあることこそが正しき抜けゆく先と道であるというのか? しかし、それでいてしかも他者の為には尽くす。というのでは、そこにもある善の質性判断の基準とはやはり必要となって来てもしまうのだろうが。


80 6/1 (sat) /4 (tue) ~

またも、攻撃され止めてくれと言うが止めてくれず反撃すると僕だけが悪くなり他の人とも戦わざるを得なくなる夢。 やり返したらもっと酷くなる故に後戻り出来ず、とことんまでやりきらなくてはならぬところまで行く、どうしようもなき哀しみの夢まで行く前に今日は叫びながら起きたが。

そんな心の数奇なる綾や囚われの狭間にも私を織られては、人々へとも示しうる私の存在と姿に、正しさとは何か?への発見へと向かう正しき問いの道をも歩みて、愛と知性の文明へ渡す為の私を生きゆく。 肯定と交感とはそれの事であり、では愛と知性という普通言語へ向けて説明すれば良いのか?

愛とは人情的な物などでなく全てを認め、一切の判別的な対立から突き離れ眺める状態化への存在の事であり、その理由は世の必然性や高次元との連関が未証明でありても生命の連結とその奇跡の価値のみの故にもではあるが、その奇跡が高次の意識なる人為性からの設定づけであっても、この現存生命の味わいと生体価値の故にそれを越えぬという選択であるとはいうのか?


私も未だ愛のみとはなれず、又それのみで良いのかとも問いている。 しかし愛だけであれば良いという事は、即ちが知性とは上位段階の概念を浅き自己解釈の判断から理解出来たと思い込み感性的に取り入れられるというだけのことでもなく、そこには愛なる全肯定と共に自己化するだけでない真実へ深めゆくことが出来る知性の両立が(どの道を行ったことによる結果もが良いのだとしても、そして知性絶対主義の区別に偏るのではなくとしても)必要ではないかとは思われ、それはつまり各自の段階のままに良いが一方的判断という浅さで排除せぬという知性のことである。 故に知性とは判別的知覚能力や判別という無知性態度の事ではなく判別なく感じ留まらず深め本質性へ探り眺め取りゆく事であり、それは直感覚とも通じてはいるが勿論それのみでもないとしか今の処は説明も出来ぬ。

そして知性と感覚と愛は、その本質的な全肯定の状態化とそこへの過程取りの両方としてにも通じるとはしても、知性とはその愛の眺めと無行為,無関与の傍観性以外の分別的な観察行為でもあるのだからに、その分別を使った無分別でもの矛盾を如何に埋めるか。は、やはり自己越えて統合理知的に合一する真理への生命の現在を味わいて生きる事が出来る感性や直感の私のままにもを生きる現在全ての肯定と方向という言葉にも帰されてはいるが、それら浅薄化されず安易にも伝わる包的な説明の言葉や提供の形とすることは至極にも難しく私にとっては至難の業だ。

愛と流し去り知性へと分かち合い、しかし真の愛は、知性であってはならぬのかもしれぬとも、それを知る為にもへの真の知性で在るに生く愛の一存なる現在への私だ。


中庸な私の現在点は、状態の様相としての貧富の中間ではなく、その総量(圧倒的多数の貧困)内における如何にも恵まれており貧窮でもある中間であるのかもしれぬと(正当化,思い込みではなく)も捉えられるかもしれぬなら、私が富む事の結果を持って世界の平均が富むにより私も富む事の逆接的な展開で世界を富ませる事も出来るのかもしれぬと設定してみるも又良いように、正しく在り正しき人と開けて関係し親切になろうとすると難しく遠いように思うが、単純に現在のままの私で生けば良いのかもしれない。

金使える事の豊かさを、感謝し喜んでもいる。が、得られれば歓び得られねば苦しむ未だなる私の、しかし得られていなくても心は豊穣である生存のみへと生くも良いが、創作の仕事へ自身を繋ぎ生かしたい。 山で森と自然と高原の風に吹かれ歩いて暮らしたい。 そんな単純で身近な夢もが、何故こんなにも成されない?


ただでさえ気持ち良く、しかし苦しい現況の自分で、すぐに来ないものを待ち準備していかなければいけぬと言われれば勿論それも分かるが、しばらくはこの現状を味わい持てていけるとはしても長年の実感からにも、もう限界だと望み続けて来た現実への宿りは形へと成されないのか?

愛に溢れ清々と渡り、苦しい苦しいと泣く私が私を行くにしかない純化されてもいくような愚かにも嘆き、自身を押し込まねばならぬという引くことへ押さえ付ける恐怖にも涙が出ては来る。

話が出来ず判断を押し付け来るに止めてくれと言っても聴かぬもは、もう僕の責任ではない。 でも自分を押し込めるのも我慢するのも結果への判断に惑う自身ではあるが待つのもひたすらに自身を磨くのも膨らみ身に付けられた虚無感に生きているのも、疲れた。 何度も言ってしまうが、これは押し寄せて来る今日の気持ちで、山など幸せな場所や状況の中に居てさえも取り外せない。 それでも自身を磨く方へと転びては諦めない自分への性質ではあるが、それともさえを諦める自在性へと抜けるのか?

人と会っても苦痛な程に疲れるのではなくなったり昼から起きて用事へ動けるようにもなった未だリハビリのような助走期間でもあり、この改善を少しづつに逝けば良いのだとはしても、私の心の疲れてしまった現況にあれば苦しいは変わらぬし、変革や幸運への夢を見ても私の実際の状況などは大きくは変わらぬのならば期待感の以外に大した意味がない。

契約の雨に虹かかる祝ぎの刻へは、諦めと哀しみの幾つもが漂っているのだろうか。 何処に行っても駄目だと経験値に裏打ちされた大人の悲しみにもありて死さぬとも生き永らえよと思ふが、虚無と絶望の深さが先に来て生命を奪おうとも、する。

その想いに引き寄せられ過ぎぬとも、今日も涙がぽろぽろ。 引き寄せられる自身の現在をも生命の体験奇跡と味わえば良い。

死することへは自分で呼び寄せぬとしても、もう自然に与えられるを受け取るのみへと任せてもしまった。 しかし働くのも悲しく、生き働いてこれで良かったと充足する人の美しさすらもが悲しい。 こんな僕においてもう生きているにさえも無理だと心は感じ呟き出してしまうのもは例えそれが僕の生命を削ろうとも、仕方がないものと認めていられるに受けるしかない。

それら事象や関係の得られぬ結果判断への虚無ばかりではなく、それらは絶望を膨らませる原因の一つではあったが、あまりにも私への現在が哀しみへの一体に結び着いてしまったからでもあるのだ。

状況は良くもなっては来ているのだし得られている恵みを実感しても悲しいのだから、それはもう結果への欲だけのものでもなく哀しみが心には内化されてしまい又、只それだけ疲れてしまった自分ではあり、望みて得られても失う怖れ又は失いた時や得られぬ時の悲しみを負い続けるを断ち切らねばならぬとも、そんな状態が日常化してしまった私の存在のままでも良いのでないかと解釈肯定だけでもなくに解きほどいては行く、このままもが私への世界の起こる発展の過程であるにも生きよ。

感情を知性や発見で越えていた自身の在り様にさえも(苦しいという実際現象の現物すらもない状態としても心には現有する)疲れ、絶望と悟りの波は少なくなったが日日の同居的平坦さには至り、知性における平安はそれ以上の苦の現況化した感情に平定されてしまいているようにもなった自身において超越もは現在にも至りついているが愚かな惑いに苦しみ続け、それも良しだとしても(それを途中で止めてしまえていたら、ここまで至れていないのだとしてさえも)、もう抜けたい。と思う苦しみなき成長と幸福への自身もを祈るのだ。

それは願いと欲求だが、世界の平安という救いへの自利利他の一体として世界の私への一翼を担う各自全ての良しであり、"生きている"これのみが既なる価値なのだ。

では少しづつ良くはなって来たが、このまま上手くいってしまうよりも、この心身回復と悲の一体化なる現状の中での自身での立ち方や提案の形へと磨くことも出来ているように、この私なる世界の一過程を逝きては苦しみなく真の幸福化への成長へ愛を送りながらも、やはり苦しみや得られ得ぬ体験がこそが人を真の成長へ向かわせ歩ませるのか? そうだとしたらいくら祈ったところで、それは自己判別の操作的欲求であってそれもが行き方の良しだとしても、やはり本当には苦の必要と最善を受け生きねばならぬを覚悟し任せる以外の道などは肯定の方向としても無いのではないのか?


愛のみのままに流し去るのでもなく、愛を送る事で愛へと自身をも流し去る。 それ出来ぬ時の自身もを自身への必要の現じていると認めては抱え苦しみと虚無の涙が身に付いてもしまったが私も、しかしそれが出来るようにもなって来たではないか。 そのようにも少しずつに進め。 自然の転じ然じられるように、自信もなく引き裂かれそうになっても呼吸するように愛と絶望の相反と相互の道にも変革をゆき、そこへ諦めぬ強さへと全てを諦め強さをも抜けたしなやかな自在へとも向かうのだ。


自分の流れと他者外部の人為との釣り合いだけではなく、その狭間にありてもの自然と自身人為とのバランスもが取り得ていかれる必要があり自然と自己人為と他者人為などもに選択を催す統合の基準は(方向)でさえもなくその時に立ち会いた行為媒介体の我々各自の感覚つまりは自己越えた総体や高次元との相補関的な必然性に任され為される性質への自動生起の各自感覚に流されていくことであり、私に出来て目指すのは(共生の結果を目指すことですらもなく)その性質の内容が少しづつでも愚かな判別的対立や破壊の無駄ではない(破壊や無駄をも認め突き離れ良しと眺めては)知性と愛への転換を自然自身の創作へ目指す事であるのか。

自己承認や自己実現の動機ではない創作への自然な才能,性質開花の方向であってもの為に、その結果への動機を捨て又はその結果への動機に導き出されゆく自身のままにもを創み出されてゆく。 結果を離れ生存のままにを与えられて逝く創造によりて自己を生かすへの結果をも開く創造という手段にも通じるを良しとし、しかしそれを自身の出来得る与えられしものを拓くへと向かい分かち合うへ与えるという説明にしてしまうと創造価値という囚われへの生き方を弘めてしまうにおいて、やはり生存のArtをkeyにしての補足性を置くことは、分かりにくくなったとしても必要に思い感じられるが(私のままに、だけでなく)本当にはどうなのか?

流れにおいて何を感じようとせぬとも、只その時のままを生くのだとしてもやはり、その時に感じた感覚への気付きを基にした流れとの適合を行わないと(その結果も次の必要的な過程へ繋がっていく意味には必然的であるに釣り合いが行われている、どちらもが良かった。ではあり補正されるともしても)ずれ失敗し失う事が多いならば、Flowを宿す私のArtを現ずる為の遊びであり生命がけの闘いでもある選択の現状に置かれ続けている中で存在を更に深みに化してゆく超越欲求の方向にも私は在るのだが、その道をゆく事の恩恵や才能の歓びと苦しみはやはり一体であるに、楽に幸福に苦しみなく真の愛と知性の本質的存在(源性や自性)に達し触れてゆく方法を私や誰でもの道としゆく事など出来るのか?

状況判断は(方向により培われて来たものもは身となるが)方向などよりもその時点での感覚であり、それは方向や経験や知覚のミームも役には立つが微々たる物である事は知り、先天,後天的な環境や魂(ともいう別階層からの相保関的連結の意思越えて宿り来る必然性)により起こされる各自への性質や感覚が主なのだろうとそれらを認め、しかしその剄を離れることは自身が自身を統べる総体的(つまり魂階層の)自身となるへ存在転換し至る事による流れへと触れた度合いや乗り方の生存質によりて、操作ではなくとも無駄に失う事からは縛られない自身を叶える術もある。というだけの事でもあるのだ。

ではその流れに触れてFlowに乗った今次元以上の自身に至り操作でもない状態というのは、欲を減らすことという共通によりて叶い持たらされると断定されて良いのか?

魂(に個我的な持続があるかは知らぬが)の徳による安定や幸福の享受以上に、その魂の高さは尊いと思われ、故にその道のりの現じ方への判断はなくとも本質性へ如何に深く存在を観入されて生きたか?(という知性の意味も)だけがあるのではないか?

しかし無駄に失わず済むとはしても、失ったものの代わりに得る物があるという設定や交換に(貨幣の動きではなくとも一連のエネルギーの受け渡しには(マクロな我々の物質界には)等価ではなくとも交換が為されていると見受けられるように)おいても、失うことを減らし得る事への最大効率を目指すような操作や自己化は、もし叶え在りえたとしても(光と闇の統合ではない愛や肯定は反発と同等作用の破壊や対立を肥大させもするかもしれぬようにも)他への無駄や破壊のつけや役回りを回したりしてしまう事もあるのかもしれぬのではないか?


未来同時存在からの可逆的現在の運命的決定や連結があるのなら(分岐した重なり合いの別世界が同時に行われているか?等はここでは考えない。)のようにも、因果律は(エントロピーとも同じく)絶対のものではなく多分この現状における観察の仮定的結論に過ぎぬのかもと思われるもするが、ではその失いて得る事の差配決定の主体者は連関の織り為す自然的結合の以上にも有り得るのか? 一つの統合的主催者がいるのではなくて(究極的には居るのかもしれぬが)その別階層ともの全体なる自然が現象を織り為しているだけでもあるならば、その各自への必然的役割と行いを決定するものから我々は自由になる事をも諦めるのか、その自由への解放を目指すを認めるのであろうか?

その総体は私という魂の源境であり超越と総合の自身であるならば、そこへと触れ至るへと向かい全越境へ操作,支配することを目指すのか、この現実のままを受け取る肯定体の自身のみとなるのか? 又、そこを目指すのならば生体を電子化などへ捨てゆく事は何故に違うと思われるのか?の3択性もを考察へ取り入れておくこともは出来る。 そして2であれば3の考慮は減らせるに当たり、こうした構築への設定段階を徐々にでも行くしかない事も良いと思われ又は不必要であったとしても、これしか出来ぬを納得するしかないではないか。


釣り合いは自然に取られるし、欲を果たすより少し減らす方向へ選ぶのだとしても、行わずに満足するのか。

捨て、働きかけず試さずに捨てる平安超越方向へ押さえつけてでも向かわせる?

世の苦しみを自分へと吸い込み光へと吐き出す転化はしかし、やはり善き方向という判断設定への欲求と操作でもあり又、どちらにしてもそれだけで悪しき事ともの差し引きゼロにて全てが良くなるとも思えないのだから、それは得られない。

祈りや存在,意識の状態は愛への現象転化も持たせるが破壊や憎しみの連鎖は波動的にも量として数段多く回っている世であるし又、破壊的循環を減じられたとしても愛と肯定と信頼で回る世は少しの破壊にも脆く防衛的対応力を持てない等の故にも、やはり愛の全体量で対抗する思想では良くない陰陽の統合,全一,闇をも認めし愛へと向かうのだ。

愛を取り入れ愛を吐き出し愛のあなたたちへとも送る、愛で変換しゆく私を行え。


マズローの欲求も一つの段階を越えると別の段階に至るというのではなく、合わせ持っている状態での分類とは思うが、何もを果たさなくとも超越欲求だけにジャンプし直接それのみを叶える事へフォーカスした仏教のように中庸とは呼ばれた生存を保たせるだけの、当時の最小限までもへ減らす道取りを採るのか? それとも一般的にも又は普遍的な道としても(苦しみなくとも真の愛と知性の幸福へ。と同じく)そうではなく、基本的な欲求を満たしていくことで自己超越の自己実現へ向かうもは良いのではないか?

超越の欲求のみは良いのだとしても、そこへの段階としての各欲望を或る程度に認めれば肥大させ過ぎぬとはしても願いが叶い得られる迄は苦しく失う怖れにも苦しい。が、もう欲を減らし捨てていくも苦痛にて諦めてしまいたい程に、結局どちらもが苦しく生きている事の自体が苦であり苦界なのだから抜けるには、この生命に与えられた体験を逝く道のみである世界の過程そのもので在るが良い。の肯定充足より、死か自己改編の技術化により苦を亡くすか交感の知性深め達しゆくのでもない肯定幸福の享受へ向かうか。であっても良いのではないかという事か?

得る為に失うへと引き換える事もなく只うまくいくだけだけへの設定へ換えていくも良いのか? 又は得る為であることも捨てているが方向のみなのか?

保険により返してもらう事は、金を払うにうより責任を肩代わりしてもらう事でもあるならば、それもベーシックインカムと同じように自分以外のものが払ってくれるのでも良い。が、では自身における責任は心内での呵責や変わることへの学びとなる事だがその成長への振り返りのない者はどうするか?でもあるように、そこにも見て取れるエネルギーの交換と自己や他者との現実的な関係,対応への問いは重なる。