junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

100 8/1 (thu)

100 8/1 (thu)

周囲状況や波動もの環境による生起の心(それを覆そうとするも心への状態や影響)と言えるように自身への意思,選択,感情,状態,心などの全ては、ほぼ環境と言っても良く、僕はそれを世界からに起こり与えられる流れ。と言いて来た自身の内部に通じる外部性からの無意識自動的な生起でしかない、その内部からの外部化も勿論の相互だが、その内部を起こすのも自身以外のもの。 神の意思とも思われて来た(その統合的知性性があるかは分からずありても理解は出来ない)それを魂の段階と言われておいても良く、では全ては只生命のみとも言えるがその面で私はやはり魂論者と言う事も出来るのは、あまりにその連結が奇跡的に見える観察と経験の故にも起こり来る現象以前又は同時の必然性があると捉えられて来た理由ではあるのだ。 (そしてこの奇跡性がシミュレーション的な宇宙における自由な介在に書き換えられているだけのものだとしても、それはこの現象世界の全ては仮想現実(現在仮想から比較した未来人や宇宙人など誰か外部者が創り出したコンピュータ内の物という可能性は勿論あるが、その意味ではなくとも)的なデジタルや量子性からのプログラムでしかない事はあまり変わらない。)


密接な関連ではある無意識と現実が如何に(精神と事態,自己と他者や全体の流通も)実際的レベルでどれ程に結びついているかは未だ分からねど(意識したからといって次元の階層を越えた流通に至りて現実具体の操作が出来るのか?その程度や方法は?その必要があるか?や、その変更権利が得られて良いのかと優越格差は?等も)精神と肉体が切り離せないように(切り離れた後の環境依存なき意識も、その人為的環境内にあるには同じ外部から規定された又は外内同時の存在であるに変わりがない。)精神と身体、潜在と現実。 その具体的な結び付きの度合いと達し方、達す必要のなさ又は向かうべきではない等の統合の基準真実点が至り見い出せるか。 そしてそれの知られ落とし込まれる迄は、どの方向を選択して生くのか?でもある疑問の方向や範囲の設定を提しておく。


出していっても理解もされず知的な愚かさに捉えられるだけなのかもしれないが、それでも僕はこれを残す。 そして誰かの指針や救いにもなれるかもしれない。 そしてそれは時代の未来や子供たちなどへ、何も教えてやれなかったかもだが僕はこう生きたと伝えられる為にもだけの意味をとってもの僕の納得くらいにはなるのだろう。

あまり意味付けへ引き寄せてもいけないが観察による現時代の出家の在り方でもあるとも言える。 それはこの欲の肯定と消費に依存させられているとも言えるが、それでもこの自身を問い覆しながら出来る事を最大限の精一杯に行った姿への提起や自身への納得を持たらしてはくれる。

残すことが主眼となる段階となってしまった。 読み取られるを待つ。 その中での新たな繋がり化の見い出され方を試し見る。

断片を段落文章化させても、全部を繋ぐからは退く。(今までも引くは退くが正しい面があったと今に気付く。 (しかしひくとも、しりぞくとも読めてしまうので、やはり引くと併用していく。) それは気付きや知性のひけらかしでなく現在のメモを後の判断へ残すこと。) 言いっ放しで各自の想起に任せるが、その判断利用の深さという質は問う。とも言い置く。

最後まで纏める事で見え繋がっていく奇跡の方法もを、求めず放置しておくも試す。 そこを労力をかけても繋ぐことで深め高め見えていくものがあるのだけれど。

密接で長い連関部を創り出す為に大量のメモ断片が放置され犠牲になっている現段階の格差を無くし馴らすには深めを減らすしかないか。 それとも何を感じたのか?の内の何処かを減らすべきか? 自身納得部への言及は関連で外せないこともあるが。 全部を書かず後は各自に立ち会っていってもらうヒントと残せば良いのか? 深められるかは疑問だが、結論まで至らぬ言い放しの方が詩のような想起を与えるには良いのかも。

新たな方法フェイズに入った。 大分これで楽になった。 最終的には一つのキィに集約されたような真実の到達地をもって、この作業自体からも抜けていかれたい。 これもは目指す目標の欲だが。

議論や会話的言語化を出来る範囲と最少的にしか用いないという積極的肯定と提示するへも時間はかかって辿り着いて来たが、それは静寂こそが尊いから等へ突き抜けた結果ではなく自分には出来なかったから、それを理解しておいて貰おうという消極的な制限の肯定ではある。


どうせ創造労力へ自身を用えない現在ならば将来の土台作りとして新しい他の事へ移行する機会とし、出家や修行などの可能性をも考えるが、頭での情報整理ではなく楽しいと思えるかであるし、僕は出家でなくても新しい生き方の道を拓いているスタイルでの私度僧でいい。 伝え教えられるようになる道の手法を自分によって開ければ、それで良く、その為に今を使い送っている実感にもあるではないか。 そして人に相談しようかと思いても、結局はいつも自身のみで更に深く見つけ出し更新し人に聞く必要はなかったと思うようにも、少しの解消意義以外に学びの種だが問題可能性も増える他者関係はコミュニケーション上の余暇物程度として、自身にのみ堀り出せば最も効率も良いのだ。 共有はしても良いが少しで良く、こうした方法に残し著すだけでも良い。


愛も苦の提起も力であり何の力も求めず、では何処かに行って挑戦し直すか等や伝える為への創造も追わず(自分の出来ることを為すことで、この書かれた事などもによって、このような在り方へ至る為に力を使わせてしまう(しかも浅い段階知性の分別で)真理の阻害の影響や力となってしまうかもしらぬようにも)、引いて捨てた結果として得る為でもなく与えられた分や困った現状から逃れる為以外の金や場所などの必要も求めない。 覚りの欲の質でさえもに、方向を転化してゆく。 僕は(けして)自身納得で進展を止めない。が、ここがどちらに陥るかの転換の正念場かもしれない。 少なくとも愛だけで良い。のでも苦の提起も良い。だけからも、そこで止まらず抜け出し次のステップへ歩み始めた。 方法の動きは遅いが常に急激変革の持続でもに在る。 私は私、各自は各自のままをゆけば良いと放り出された上で分別され感知して関与され残しゆく自身と世界の現在を認めるだけが肯定の悟り。 生命を味わう為の交感知性でもなく、認める(だからといって否定しないのでもなく)を味わうだけの状態への生命交感知性感性もしくは自失の恍惚の何でも良いであり、愛はその感情的側面の派生物。 苦も味わう為の生命か、でもなく苦も愛も味わわぬ歓喜


捨てると自由と求めと共有の統合へ、行為を退き減らし現実化は任せ、しかし囚われぬなら持ちていても良い理想や意思と方向による自身や世界を引き寄せる意識自覚的無意識への関与性利用と依存は、しかし新たな欲の肥大と囚われを生むかもしれぬにも一切を認めぬ質での悟りの欲と方向へ 向かい目指し引き寄せる在り方となるのか、それとも意思の関与も突き放し現実操作へ関われたとしても、その操作を否定し流れに乗れたかも選択への交感価値も関係ない為される全てが只、在るがままのみに任せるようになるのみが悟りの質と方向と欲望なのか? 結局は全て何処もが欲望だとは、これで整理でき分かって来たが。

超越へ向かうも超越なき現存のみを求むのも、どちらもが超越の欲求である。 その本質と統合の真実を見い出したいが、そのどちらが真実か等での議論に私は巻き込まれる事もない処へと抜けていきたい。何をも無化させていくような人類の観察,傍観という最もなる勇気と消極の行方に達するのが、どの真実を通ってもの最終地点ではないか? 何て私は欲深いのだ。欲と弱さを使って至れる段階を目指し、しかしこの作業の、これも消費と依存だが実感と刺激の充実的に何と楽しい快楽ではあること。


苦のなくなった状況や時代から私の手記を見ると苦がなくてはならぬと思われるかもだが私も苦のない精神的な進化と飛躍が出来るなら(その方法は問いているが)望ましいと思ってはいる。 しかし苦の解決を動力とせぬ利益性の持ち方は本当に高みへ到達させていく希求力となるか?は問題だ。

そして享楽と私に言われる物理,快楽的幸福の段階世界への進展や生体を伴わぬ超越などもが、例え生き易くもある共生的生存と生活の状態でありても、それは浅い故や電子的融合の超越故に、そこへの否定的指摘や反動的方面への徹底的対立をもってさえの提起となるのか良しとして迎合的に折り合う又は放棄,無関与へ貫く等の何処なのか?

能力が生かされる(相乗,共生への)社会を求めながらも、可能性などを試さず追わず行わない行き方へ抜けていく、捨てる事への積極的な効用価値を発見しては、しかし現在の私には、その自然と自動が自身提起や創作にへも発現していくを嗜好し求めてもいる。

愛も苦も抜ける等とは到底一般化しにくい思想でもあるが、ではこの探究の先には愛となる。だけへ戻って来る事や、その簡単だが真なる方法などへ至り着くのか?

全てに否定を当てる必要を言ってはおらず与えられたもの(自身想起も情報も)に直ぐ信じず、そうではないかもと冷静な視点を持ちて対応し取り込む。くらいの事なのだが、そんな正しく観察しようと出来る事への方向は良くとも必然に起こされているかもしれぬ各自の能力によるのだから、放り投げては方向を伝えることもなく、その冷静に自立的に観察し理解し気付こうとする意識方向と、その手段である分別の一切もが要らぬともいうのか?

テーマを集約,簡約化することも出来ず、もう投げうっていくだけの重層的集積連結のなく考える知覚性の補助,焚き付け材のようなものとして、どのような生に置かれたかの経過を残すのみの積み重ねだけとなりて答えが出る事さえもないのかもしれない。 又は、例え答え出たと思っても覆され続ける無限の旅行なのかも。


それでも僕は求める。 共生でなどないのだとしても理解も交感も必要ないのかもしれぬとも、愛と(共生と)真の幸福(気付き)の世界,宇宙,生命を。 肯定のみの為の理解や味わいではなくて、その生命の味わいと理解による肯定の能力,在り方の開出と方向を。

世界が、そんな和と愛(と共生や理解とも)の真の幸福へ至れる為に、正しく最高に私が果たされたい、願い。を通して僕はそこへ融け込む存在と化すへ自身全生命と資質を使い利用し行い果たすへ向かう。 囚われず自浄しゆきながらも、欲と能力と可能性を追うことも諦めぬ、放棄の上の自身(と各自)のままを統合するをも求める。

欲と惑い多いが、これによってこそ深く次の段階へと至れる進展を逝けるのだ。


8/2 (fri)

自身意思と違っても選択,決断せねばならぬ政治家の背負わなければならぬ業や結果に責任も持てぬのに開発しなければ気が済まない科学者のように、良いものを生み出し続けないといけない音楽家や創作者の何と因果なものか。 (ふるう意思なくとも)力には力の影響が返って来るし、役割を果たすには、その影響の図れぬ責任(への立ち会い)が宿っている。

だから僕はそこを目指すことと、その付属の欲からも抜けてしまおう。 それでも自然に現じられて来るのでなければ如何に私の才能が世の必要に合ってもいるものが成されず勿体なく無駄になろうとも(それでも為そうという自身の気力で闘わなくてはならなかったのに、世の強制力に負け操作されたのかもしれぬとも、もうこれ以上どうしようもなかった自分にはあるのだ。)

どんな影響を及ぼすか分からないのだから目の前に現れた事に対応する(個々への対処を通じても僕にとってはそれも、いつか結び付くかの為でもなく即ちが)世界への提起となる以外には、なるべく行わないを選び放り出す自然に任せてしまいながらも
関われる場が現じていくのなら、その責任を覚悟しての役割に立たされる事も認めた為されるしかないのなら仕方ない。という許容に納得するを運命への意志提示としてしまうも良いのだろう。 僕は為さない。 それでも為させたいのなら他の人へ回すのでもなく、このままの在り方でも現じられる自然の存在と力の帰結,統合,到達点を持って、人為からの力や操作,恐怖と抑制などをも越えての手法と完成の道においての私を為させよ 。 宣言ではあるが脅しではなく、それの現じなければ私は自然に私の性質にも流されるままに引いて充足しゆける道を(例え苦しく打たれても、必然が私の転換を呼び寄せ催し覆すまでは)選び(愛や苦に対応はしゆくに在りたとしても)世界の為に私の最善を尽くす事などもを放り出し、叶えようとしない方向へ移るのが良いのではないかと思うようになった。 そこにも世界の真の幸福と平安の在り方と、その叶え方としてもの私の生命は既に最善最高に為され成されている事と苦しみなく生ける事は願い祈り(引いていく事と叶える事の欲求の質は更に少し変わったが、それでも)求めるが。



周囲原因に打たれ拗れてしてしまった母も理解には認め、しかしそれでも話し聴かぬ状況を創りあげている関係の因においては私自身の思いや指摘をも伝えるが、聞かれぬ関係を作られてしまうのならば、やはり私は引いていかねばならぬのだ。というようにも、世界への発進,対応の練習や試行は失敗し続けている中で更に進もうというのでもなく諦めて非言語や静寂のみの内面に生きる(それでも関係者が生まれたとしても、その根底では誰とも流通できない)孤独のままに為さぬ自身を納得させ哀しい事だが充足させていくを目指すにしかないのか? しかし自身を押し留め過ぎて爆発するのならば、それよりは労力奪う結果となろうとも何の影響への判断も考慮せず(自身不利益が増加することへは意識して守るは自身の為に必要だ。という利益面も利用して伝え分かつ欲を増大させ過ぎぬバランスの歯止めと使用するもは有効だが)行うもは世界と自身のままであり、減らす方向欲求へ向かいながらも、どうしても現じられてしまうなら過剰である創作も良いように、行われるしかない自身越えて自身意思に為せるものなど何もない非情の世界に付き従うしかない。

如何に苦しくとも世界と自身の全てを認めねばならないという自身が何を想い意志起したとしてもに関係がなく為されるにしかない、生きるとはその覚悟であり、任せるとは放棄の楽で(ありながら)もなく重責である。

流れに乗るか乗らないか自己意思の決定や関与があるのか、その方向も具体もの選択が意味を為すのか何処までいっても自己などがない必然に決定されているのか、覆せるならその操作を為しても良いのか等に問い、しかし答えの出なくとも自身にとっての方向は設定し選びながら生かなくてはならない。 その選択性への交感を生く事が生命過程の価値か。

それとも自己決定の上に、連結の必然的な連関が結び着いていく調整力もが起こっており、何も決まっておらず未来からの現在が規定されていることもなく例えば米国のように打ち拓いていく力と自己と強者の理論が実は正しく、弱者には世界を創り出す関与など出来ない意志と決定だけが重要(選択の大切さも、その為のもの)で、流れなど関係なく流れは自身が生み出しているところに生まれる、道は自分の跡に出来るというのも真実の一面ではある中で、そこへも通じる融合を持たらす必要がある。

仏教にように多様化を許す解釈範囲の内包も素晴らしいが勝手な書き換えに利用されない(厳格化ではないが)基準点の設定は必要であるようにも思われている。 全てが良いのかもしれぬとも、全てが良いだけでは(統合の必要もなく)欲求自由の現在のままにも(今後もの非共生的な人為の肥大が間違っているとも言えないが)如何ようにも捉えられ、私に行って来たことなどの意味もなくなるが、それでも真実などはない。という真実のみ(それも一面でしかないとも思うが)に至り在るしかないのか?

鏡的な双方根底への流通を持たらす意識による催眠術的な潜在無意識への関わりに、愛の世界を起こしていく事は慈悲でもなく操作でありながらも良く、(愛と共生すらが間違っているかもしれぬのに、その影響を与えるへ行為し)ではその言語を越え出した存在の祈りや又は創作の発出性に供した存在の置き換え方へ諦めず為すを向かい求める在り方と方法へ自身を転移させてはゆくのか?


木の葉の形ひとつの中にも、神と表現されるような法(宇宙を起こし為しているもの)の運動が息づき結びついている。 それらが積み重なっている背景や全体もの奇跡の充満を見ては美しいと感じ、その立ち会いの時間と感性が在れる存在と世界の豊穣を想う生命に祝ぐ。


そうした感覚生起の共通だけでも生命奇跡の交感,感得においての進展は共生や相乗へ持たらされる事を期待はするが、そんな楽観的観測は(今のところ)人間の愚かさに対して役には立っていない。

そしてこうした自然の起こる世界や生命の奇跡や美しさへの感得を生起させる創造力の提起は、詩や俳句のような情感の提起による生命実感へのみの道具と伝達にしかならない。

現在的な形での数値化されたものだけではない全ての背後に動いているのかもしれない黄金津的な規則性を美しいと感じ共生や真実的な幸福の在り方や、その共通利益に基づき義務,罰則など強制力を持たぬとも良い方法へも至る真実の叶え方が起こるかもしれぬを否定しないが、その数学的整合は本質そのものではなく、やはり裏付けに過ぎないような気もする。


幾ら絶望的な知性種の行方が破壊的であるかもしれぬとも、自殺や他殺へ滅ぼす理由へも転化される反出生主義には陥らないのは知性の(進化上の無駄ではなく生み出された、それこその意味がある)意味合いの可能性を信じたいからでもある未来と人類の希望の欲望に未だすがってもいる。

しかし進化への目的論ではなく、この現在を味わう事に生命は価値があるという立場からでもある設定においては、どうしても欲を追い続ける人間の生へ生まれて来なければならぬとも、叶わねば苦しく又は共生などが真に深い気付きからの幸福などへと成されなくとも、その生命を肯定する基盤や賛歌にはなり得ている。


そして生体拡張の方向ばかりに拡大していく極の反対に残るのは生存かと思っていたが、そちらへの極を膨らませ今後の人類種の歩み取り方に対するバランス運動としての反出生主義という極性が打ち出されて来たのかもしれない。 ではそうした反動運動にも関わらず、どれもに正しさがありどれもが完全ではなく判断も出来ず結果も分からない故に関与せぬという抜けた真実と統合を採る在り方となり示すのか? 仏陀の凄い処は、その3種の(生体も自己も失わせていく減らすへの自己拡張。生存だけの最小限を認め死なずとも 求めもしない基準点。そもそも苦の生と世に生まれなくば良かった出生の否定。等の)どれもにかかっていることでもある。 僕はそうした上に現時代の新たな課題にも対応した真実的な基準点を見つけ自身にも適用し世界の行き方へも伝えたいのだ (ではこの思想運動を何と言う?)

仏陀も生と世は苦ではあるが、その中で悟りへ向かい達するのが価値だと言ったのではなくて、生まれてしまって生きていくなら、こうする他に方法はない。という悟りは消極的方法であったようにも、生まれる事自体には否定的だが生きる以上は苦しみを無くす為の一つの方法もある。(しかも全体共通化させる為でもなく個人的に、そして議論や対話的方法も無く試したければ試してみれば?のように)と言ったに過ぎない。

人類的な自殺を奨励する為に私は死なぬという選択とも同じく、引いていく在り方を伝える為に、その価値を発信するという私への動力や目的意識の置き方は似ていたが私はもう、そんな拡張と成すことへの修羅(例え強者と力の論理が本当であっても又はなくても自身を愛のみや愛も苦もなき存在などに化し為させるへ生き続ける)から抜けていくを死によらずとも生存を保ち、意思も方向もなく与えられるを受けては只生きるだけの生などを選択点として選ぶべきなのか?

虚無主義ではないが、元々に親和性はある私の、高校時代などは死を取り入れた生の肯定という積極的な死と生の結論であったが今は消極的虚無主義に近いとも言える。 しかし弱きニヒリズムに近くとはありても絶望が故に流れ任せであるなどの思想や思考とは違い、全てが虚無であるかもしれぬ中での生命の肯定においての流れに任せる積極価値へという(自身への価値付けではないがニーチェとは違った超人の至り方とも言えるだろう)新しい転換に向けて生きてもいる。 しかし、それが失敗する(失敗ではないとしても虚無性以外の意味が見い出せぬ結論に至ると、そこ故の享楽や死などの選択取りではないと思うが)と決定的な虚無感へとも還りついてしまう可能性はある。

全くの虚無ではなく生きる事の意味としての在り方を見い出すにもがいては来たが、何もに打たれた虚無感であり得られた答えによる生の方向と希望もの全てが覆され無意味さへの変換にも向かう。 それは又、次の進展と変革への変換との連続でもあるが、この生の仕事と在り方は疲れるのだ。


知性あるもの誰もが苦しみを経ている地獄の世にありての我々にとって、もし幸福に生きられるようになれた者が居たとしても、それはほんの少数の成功例があるのみで、その成功を目指す為の欲を目がけて皆が(結果をも現在仕組みの中では特に)追い続けさせられる修羅と地獄への成功は苦痛の生産活動であるならば、ではそれを抜ける為への私もが(創作によりても存在のみによりても)運動方向であり罰則や規定の強制力を持たず利益への働きかけであったとしても、そうした幸福の実現と成功は救われる為への新たな欲求方向と惑いを生み出すばかりであるのかもしれない。 それでも少しでも良い方向(と信じられるなら)への欲へ向かい実現させてゆく私の用い方と活動へ関わるを諦めず、その提案の形は中間または傍観か(中間的中庸というのも現在や自身状態の自己肯定の納得の意味付けや言い訳に過ぎぬのかもしれぬが一つの指針ではあるように思われてはいるもの)等の選択肢もしくは徹底的に出来ることへ可能性を追いて闘う事などでもあるのか。


叶わない前提の中での消極でなく積極的な肯定としてもの、苦しみの中で生き続ける只ひたすらに一介の惑い人としてに生きる事を認め目指しさえするという事か?

そして宇宙は魂の成長の為かなどは分からない(そうだ。と思う者にとっての真実はあったとしても)中で、この世へ新たな生命を生み落とす循環をも断ち切っていく、(ただしそれが真実かも分からない何処もどちらもが可能性の一部なのだから、そこに賛同していないものたちまで殺しはしない事を言い置いておく。 つまり反出生の 提案において人類や知性も文明に進展もの希望などに頼らず分からず、しかし滅びた方が生命界にとっては良いという現在に既なる明白な事実はあるというにおいても、他者の生を奪う事を避ける理由とする。)次の時代の創造の種(である子供も文化的ミームも)を生み出し残す事からも抜けていくのは個人的な選択性に化される。が、生命に在り行為し味わい気付き、より良く生きようとすることからも抜け消していってしまう事かもしれぬ、その範囲が自死という生命の消滅行動を認めるか?へも自死していった者の個人の選択と、そこからの世への提起を尊重し否定せず受け入れては生かす事と方向が彼らへの花向け(手向け)ともなるのではないか? そこにあるのは結局(ここでの結論は)世の変革へ生かして自身を行い関わるという積極的虚無主義性へと戻ってくるのは、真実か?ではなく私もが人間的な思考,指向の方向にはおける真実面を持っているから。ではあるのかもしれない。 それは少しは生きていられる為の希望とはなるが、打たれ過ぎて全ての現実と過程が絶望へ変換されてしまっている者の状態や心において、それを絶対的に救えるという程のものではないのだが。


~ 9pm頃、カフェ終了時間と共に節まで。