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It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

94 ~ 7/11 (thu) ~

94 ~ 7/11 (thu) ~

絶望により進化する又は折れるへ追い込まれる苦行性や、全肯定により進展を止める逃避や享楽、つまり肯定,幸福,絶望,苦行,進化,非進展,闇,放棄などの諦めの質や欲求の効用などもの全てにおける統合真実的な方向が見い出され選ばれる必要が現在世界の私には在る。

その行為と内容の質を説明できる形にすらも変えられないが、それは人が思っている(日々に立ち会われてはいない)程に必要でないものとも思えない。為される代わりに不幸なのでもなく、苦しき道でないを願いながらに、それでも与えられた自身同士を非情にも流されるままに逝くしかない。 答え出ぬとも問い続け、この生を歩むのだ。

私は観察の戦士。 その生が如何に無意味でも、それを行う故に中間段階での知恵を広げる共有や伝達の仕事や活動の人類意識への奉仕へ向けての創作を阻害するものであったとしても、私はこれを行うしかない現世界線からの連結と要求でもあるのだ。

他に行える事の少なくても、宇宙に残る物など何も無かったのだとしても、こうして此処に向き合い続けるにより掘り出す力はあり、日々の私の必要を観じ行い与えられ続けるにしかない。

生命をかけて行ってやろうと思ったって、すんなりとはいかぬ。のは自身への言い訳でもなくて、やはり流れからが与えられていくを受けての適合を進みゆくにしかないようだ。

無理矢理に流れを打ち切り呼び寄せる為の意志や力の論理で、観察の優先などの自己制限をも捨てて現段階で世界に返せる創作の表出へこそ尽くす事か?そして、そんな事が出来ぬ自身であれば無理をさせ太く生き、力尽きては死にゆく事か? しかし僕にはそうは思えない。

必要なら休み求め過ぎず時の然ずる進展に任され現在状況へ有るものへ感じ気付き選択していくにしかなく、しかしその自己に気付く事や選択もの全ては、ほぼ流れ来る必然性に規定され興されているを観るならば、やはり如何に気付こうとも真に自身によりて選ばれ為されるもの等は何一つとしてないのだろうとも思われる。

だが自己肯定感の少なき自信なく悲観的な私でも、そこにも意味と良さはあるが確かに考えすぎで頑じ絡めとなっており、そこへ活動を奪われ何の発信や行為にも至れていないのは(人は生きねばならぬから気力の力で何とでもなる等と言われても同意は出来ぬが)本当だ。

ならば愛にさえ成るへ在り他の事を忘れる未分化の恍惚のみを目指すにおいて、一切の言葉や考える事または流れ(や人間化の流れでもある思考も)の連結もを止めるべきでもあるのか?


観察や書くことは全包囲的多様可能性の中から統合へ向かわせる動きと私にとっての必要ではあるのだが、その為の名目や正当化(御題目としての依存や言い訳)となっており、この整理は複雑化させているだけでしかなく、自己承認の為の説明や書き残す為への囚われだけの必要ともなっているのだろうか?


書く作業は未だ変わらず答えを出す為ではあるが、現状に至った整理方法では全体を組み合わせていくのではなく数日間におけるメモ箇条書きとミッシングリンクの現在を一致点へ適合させ一旦の文章にまとめる事が主眼であり、既に疑問は疑問のままに放置され結論や答えへも結び付いていないやり方となってしまっている故にも(それも少しづつに、又はいつかへと結び付いているのかもしれぬとしても)以前のように数日おきでの愛や平安的な結論にも達するを繰り返す均衡点を保つによる進み方でのバランス取りではなくなってもしまった。

故に、この現自身の愛も闇も極相への全体の波は平坦化されたが、しかし改めて又も苦しみにフューチャーし取り込まれた段階取りとなってしまっており、そこに現れる感情や味わいの現況は、悟りの自身であるよりも苦痛の下に在る状態が長くなってしまってもいる。

そこでの流れも必要と必然的流れの結合と感じてはいるが、しかしもう限界へ押さえられなくなる(暴力や自死などの)怖さも瀬戸際であるようにも、こうした想起を通して深く真実を見い出し愛へ至ろうとする道をも止めなければならず、考え観じゆく過程取りをも捨て必要とせぬ状態へ化し込んでゆかなければならぬのだろうか? 又は苦の原況が現じ続ける環境を変えるしかないとも思うが、それの現じられない場合には如何に生き延びれば良いというのか。 それでも現実化欲求の何もを捨てねばならず、(自分にはどうしても必要なのだが、必要などへ取り込まれずに)必要というものすらもを抜けなければならないのか?


既に正反を見つめ適合させてはいくだけで結論化へ合わせていく弁証的方法ですらもなくなっている。 しかし客観的または渦中に入りながらも全体的俯瞰しながら多様と極相の無限可能性からの統合的な止揚(アウフヘーベン)点を選択していく働きに在るに変わりはない。(それが正しいかは分からぬが、これも統合性へ対しての選択の在り方の問題でもある。)

宇宙人の視点からのように地求人を観ると如何に愚かで進化なき動物的運動であるとも見えるが、その本能性にも素晴らしさは宿り又この両義性においての闇や醜さの中にも美しき文化的な結合,様式,運動などが起こっている相対同士の止揚によっても少しづつに進展し又は滅びるもは、その種の自己選択,決定と責任なのだから(魂の修行だから苦しみにも不関与なのかは知らぬし関係なくとも)生命の行方に関与せず(例えば破滅的文明のまま宇宙に進出してくるを選んでしまった侵略性には対処する等のように、ある程度までは)放り出され任されている私たちに拠りて行き先と結果が持たれなくてはならないのだろう。

しかし力による文明の(しかもそれが進展の条件または両義統合の意味であるかもしれぬ場合は、ほぼ全ての宇宙文明はそれであるかもしれぬ)中で両義性のバランスが破壊,収奪性の肥大へ傾き陥ってしまったならば、外からの協力以外に自力での自浄は難しいと思われるのだが、それでも惑星文明へ達するには、そこから抜け出して来なければならない非常に狭き門である故の価値であるのかもしれない。 (少しは助けも入っているのかもしれぬが、そうした存在が転換させてくれる等といった甘い楽観性は持っていない方が良いような気がするという意味でも。) それとも現実的な進展の為ではなく魂を磨く苦行の場として有るのみであれば、そこには進化させる為の生き方はありても、進化の結果や滅びるか等もの何も関係がないのだろうが。)


全宇宙に渡りた自然界の何処までにも美が宿っている。 それは何処までも奇跡のような流れと連結に削り出された記録でもあり、人為に宿りた人間も本来そのままに、そうした美しさなのだが、ではそこに気付こうともしない人為の愚かさもは本来でもなくそのままに相対運動を繰り返す自然の働きでもあるならば、その中に善と悪(そんな二極も無いのだが)の善性方向への進化を(見い出し)取り入れていく(にはどうする?でもあり)とはどういうことなのか? 極の肥大同士の削り合いをダイナミクスとして進むなら善または悪への肥大そのものが良いと放り出している眺めこそが進化の到達地であるのみであるのか。


0があれば1がある。は、この物理次元以外にも共通性がある(次元違えば1は1でないかもだが、そこからこの物理次元を見ても。の意味)ならば、2~以降は幻想のようなものでありて重要なのは(10進法ではなく)0と1だけなのだろうか? 又は9進法のように0の無限性を持たぬ循環であるのか? マンダラ構造がフォルダ展開に似ているように霊性は電子的な思考や階層に還るのか?


尊敬他者から見られている想定に自分の言動の出し方を意識する。 そして惑星外からの視点において、状況ごとに現ずるものが違う自動機械なる私の恥ずかしい事などもは、その段階性が明らさまになる事以外にはなく、それも人間的動物性の制限の中に入りているのだからにも仕方ないと言えるが、しかし言い訳にはし過ぎないで善き方向の自分をなるべくには置いておきたいと思うが問題は変わらず、その正しさという選択の基準である。

ではその分かった事と分からぬ事の現段階においてもの情報の出し方や繋げ方とは?

既に高く(これ以上に高めても世へは響かぬのかもしれぬとも)しかし私には未だの途上であり、完璧主義過ぎるのかもしれぬとも発信の前に毒を先ず抜かなければならぬ自己を如何に完成へ近づけるか?は優先には変わらず、(それでも自然に沸き立ち世界と私の適合へ合いた必要は満たされ、創作へ社会化されていく事を望んでもいるが)こんなにも中途段階の知恵や探求段階の悟りではありて真実の究極性が溢れ出す自然へ行き着いていなくてさえも、この現状態の私に必要ともされている高める為の観察と整理の道を止め、人の為に行い創作の為だけへ生きる。へと、変換されていかねばならぬというのか?


しかしこんなにも苦しみ方面が肥大または日常化してしまい、それでも愛の存在化も取り入れているが追い付いてはいない私の、何も考えぬ恍惚状態に突然なれるわけでもなく(その肯定と愛のみに化され在れる時もあるが、それは自身への状況や時々の流れ次第でもあるのだし)この自身現在日々の気持ちの吐露と整理とはなっているのならば、(ストレスやカタルシスの解消性も如何なる刺激も不必要とされなくてはならぬのかもしれぬとも、押さえ込む弊害が大きい事も人間の弱さも分かった上での)これが現在私の囚われ,執着,消費と離れられぬ依存であるとしても、溜めるより言語化しておきたい必要と有用性であるも良いのではないかと与えられた、この世界での私を逝くのだ。 これが私の在り、生き方なのだ。


言語や視覚情報などで意識や方向は引き寄せられ潜在に沈殿し、いつの間にか積み重なると同時に、もしくそうならぬように意識によりて取り外す事も出来る。 しかし(事故写真によるマインドセットで事故への引き寄せか違避効果か、のどちらもが取られる可能性となるなら、そのリスク比率によっては恣意的に真実であっても出さず知らず見せぬ方が良いのかもしれない事もあるのかもしれぬように)自身の意識次第で何処へも使用出来るが、普通に暮らしている人々が意識的に潜在的沈潜を覆す事は至難でもあり、ではやはり情報などもは人を成長や自由へ意識,方向付けする効用以上に不要や余計なものをつけさせてしまう作用の方が大きいかもしれぬのか?

だからといって、その人々の状況や能力もは判断出来ぬのだから恣意的に情報を選ぶよりも、なるべく多く(フェイクかどうか等もを選別せず植え付けてしまうかどうかもは各自の受け取りに完全に任せ又、読み追う事も出来ず流れていくのみの無意味や消費材となるのみかもしれぬとも)を流れ出させていく方が正しいのだろうか? (この私の書き作業も、流れ去っていく消費材以上の価値を持たぬ似たような物であるのかもしれぬが流れ出すままを流れ出させていくが良いのか。)

しかしそれでも只その意味として、吐き出す事でのストレス解消効用もあり、寒いや熱い等のように苦しい等と口に出して言ってみる事によるリフレッシュ効果もあると思われるのだから、あまり罵詈雑言へ肥大させず自身へのクリーニングもしていられるのならば愚痴や暴言も有りて良いのではないか? 又では自分にとっての作業として以外に、それを他者への影響へ出してしまう事へ(人間はそうして共の依存に共存し支え合うのだから。等という世間的な言い分の頼り助け合いではなく)利用するもは自身という生存の為だけだとしても(その自身を保つによりて愛へ向け世界へ関われるという自分本位な意味としてさえにも、世界と自己の一体理由にも否定は出来ず)良いのではないか?


苦しみと同じく、書かざるを得ないものもは蓄積されてしまい吐き出されたり解消される事を求める。ならば、そこに理由も意味もなく只の自己満足的(芸術は全てそうした余暇的な必要性の物だとも言える)な必要でしかなかったとしても人間的制限と現在性の味わいのみの世界一端としての私達の各自を、欲求のままにも歩み生けば良いのみなのか?と、そうだ。が、そうではない。という、この現実肯定と方向欲求の狭間にての統合を問う。

書く整理は主観的観測,解釈の経験的手段でもあるが、その理解は即ち決定的な自己の変革でもないように如何なるが言語的に 整理されたとしても世界へは(伝達手段があったとしても)文化的な背景付けに置かれる以外にはなく、しかしその共有に向けた理解や響鳴への度合いを引き上げる事は出来るのかもしれない。


過去からの経験は現在を設定し、未来への傾向性を歩ませもするように繋がり、細胞が生まれ変わっているからといって回路付けられた総体的個我が簡単に転換され生まれ変わるわけではないと同時に洗脳でも書き換わる位に自己意識は脆弱でもある故に、その意識への体験が如何に強固でも、それはどちらにも変化し作用するのだからこそにも変化への体験主義に信望するもは危うい。 つまり変容も可能だし私も人間種もは生まれ変わっていく必要もあるのかもしれぬとも、その個我を人為的には変革してしまわず、では自己意識の方向として転換しゆく手法や欲求の質と使い方であるならば良いのだと言えるか?

操作の為ではなく共通の流通に触れた催眠やトランス状態かでの交感は出来るのかもしれぬが、しかしやはり力(意識的に使用されていたとしても)には危険(操作だけでなく自己喪失なども)が伴う。 そしてそれは催眠的潜在での交感だけでなくVrやAi的融合においても同じ問題が宿るだろう。

人為的操作や制御は現在の薬だけでも手に終えず影響も分からず総体調整を取れぬし一つの連関を断つ又は変化させれば恒常性の釣り合いが均衡を取ろうともするのに、今後人工技術の操作肥大が更なる問題拡大を生み出さないわけがない。 (全くに人為拡張や技術を否定するわけではないが。)


怒りで出したら自身の意味も伝わりにくく誤解も反発もされるのは有るのだし直そうともしているが、それは(暴力革命や自衛武力のようにも)理解もされぬが対等に返しているだけであったり怒りも表現,関係手段であったりもするのだし又は溜めぬ為にもの必要としても、怒りや暴力を積極的に肯定もせぬが完全な否定も出来ない。

故にも破壊もの全てが良いから放り出しておくという以外に、その選択の在り方や基準点を見い出していくのは(例え如何なる共通,普遍がありても規律,義務またはそこへの方向,欲求を持たせてはならぬのだとしても、そして理想を現在への適合へ結び付けるが執着なのかもしれぬとも)私には必要と思われている。

しかし答えの為に生きているのではないし生存の在りよう全てが良いのだとしても、これだけの深め来て又は苦しい生存の過程と結果にも決して答えさえもが出ないのだとしたら、苦しみの中を生き延び続けて生さえも捨てられなくなるより早めに生存を 止めてしまった方が良いのかもしれない(自分にはそれを選べないのだろうが)。


こうした知性的な観察と結び付けが出来るから私は別段に魂的な優劣が高い等と言い思っているわけでもなく、知性的能力にあった私も(その故にも)今や決して出ぬ答えに向き合い、この現在肯定と欲望に探求という名目で忙殺されているだけの、只苦しい生を自身化されてしまった魂など高くもない愚か者として底無しで抜けられぬ無限地獄と化しただけの生となってしまったのかもしれない。

しかし、それでも死ぬしかないかと思った時に、いや残っている部分だけでも繋げるへ書くのだ。と書く事のみが生きることへ繋ぎ停めてくれている日々への気力と歯止めになってくれてもいるように、何もが無意味で答えなどは出なくとしても、これをやるしかないという私への必要と原動力となっている。

そしてそこでの歩みも自然に変化していっているように只生きるのみが在り、その行為の内容と結果など問う必要は無いのかもしれない。


が、魂の優劣ではなく、その到達,段階の度合いは同じでなくても良いが、こうした種類の知性を用い結び着いてゆく観察や世界への気付きを深めゆく生命との交感を僕は人へも求めてはいる。においても、全ては良いと手放しながらも只、放り出すだけではなく共有や相乗により共生的存在と関連を生み起こす生命種への進化と変換とその道の見い出しを欲する方向へ生かされた私もは如何に愚かな人間制限自体でもあるが、それでもに良いのか?

しかし現実化を求め過ぎぬとしても、現在に感じている頑じ絡めの状態が抜けられなければ、もう無理だ。と 、折れてしまいそうな境界で、もう少しなのかもしれない。という希望(という依存)にも自身の生存を保ち続ける狭間にも在りてを生きる。

希望にすがるしかない程に人間は弱いが、それのみによりてこそ生きていく事も出来る欲望だが手段ではあり、ではその欲の質を問う事すらもないというのか?


心身の健康,愛の関係,創作の仕事,旅と拠点など、世界の幸福や繁栄も込みでの私の4大欲求が成り叶う事は、実に私への必要ではあるのだが、けれどその設定が得られねば又も苦しみ続けなければならず徹底的に欲望(とそこへの自己性)を減らし無くしていくにしかないというのか。 打たれ殺されても、その人為世界を打たず奪わぬものへ(打たれ続けても肯定へ変革するのだという自身のみこその姿と道のみによってではなく具体方法に)変換させていくを求めてすらもならぬのか? そして自己のみの変革であるのだとしても、その欲望のみの質は良いと言うのか?


なるべくに最少を目指しながらも、いつまで人間や生体を味わえているかも分からないのだ。 今日の欲を果たすも良いではないかと肯定もしながらに、しかし求め過ぎず何かを目指すという方向の欲望との基準や折り合いを探す。

選択に意味がありてもなくとも、振り返る事によりてバランス点を採りてゆくへ向き合う生存での流れと、そこに"気付く"。という方法への生き方の収束方向はある。

これだけしかないという生を引き寄せ肯定へ限定してしまわず、しかし只これだけの生を肯定してしまうしかないも良い。

気力も折れてはいるが、愛への変換へ自分にも未だ出来ることがある。 しかし同時に、この現実具体に起こり避ける方法が見つからぬ苦難に耐えられない。 弱さをも認めて自己の能力すらもを捨てて、もう出来ないから助けて。と言ってもいる。


しかしこの必要を行いている現生活の中で、もっと坐や祈りを持つ事は必要だが愛となるのは、そこへ自身の心の安定を保つ為や存在を高める為ではあり故に現実化が起こるのでもなく(起こされるかもしれぬが、されぬとも関係なく基本的には放り出しておかねばならぬ)それが肯定的な関係や現実化に、うまくいく人との違いではない。


何も出来ぬ事への肯定へ引き寄せられ言い訳にしてしまうのではなくても、苦しくとも何とか生き延びて子供を見ながらに少しでも愛への変換への私の仕事をする。以外としての、如何に創作を進めるか?や関係や言葉へ関わるか?がある。


Paiでのように自身へ自足していられれば話すコミュニケーションの必要も少なく、しかし(只でさえ身近な者(という垣根分けでもある)への共有欲求に取り込まれ過ぎている私ではあるが)現在の、同暮らしの中で離れる暇なく立て続けに打たれる中で自身を保つのもは難しく、環境によりて人はかくも違うのだから(ぶれてしまう私は未熟だが、その未熟へも受け入れ対応してあげなければ。)環境を変えたい。 又その必要が緊近に有る。 その必要性もを放棄するのか?

理想という欲を自身の現在への範囲を越えて求め過ぎなのか? 半端な流れであっても今よりは良しと労力かけても移らねばならぬ一歩ごとを足つけて 大きく望まず生くにしかないのか?

謙虚に誠意をもって世や事象の全てに立ち会ってはいくが良く、また自身における創作を講じ発信する手段へ向かうも良いが、もう議論はしたくない。 言葉や対話の効用を認め必要ともしているのに、議論の場には疲れてしまって居られない。

自分にとっての(出来る事と出来ない事の把握の中でもに)折り合えるやり方を発見し必要性を発し伝える事も良い。 しかし子供との方向性すらにさえも違いがあるのに(人為や人間の不浄を感じず化学物質の味や臭いを良いと感じ土や灰を不浄と思う感性や環境。 そして他者を聴かず気付かず自身の想いや判断に引き寄せられるミィとの違い等のように、そこにも必然が行われゆくと放り出し支配や操作でなくとも自身のままに、そこへ関わる事も良い中で)他者と流通し伝える事は何とも難しい。


どれだけ苦しい中で生きているか等の自身の現状態さえもが、僕と関わりを持っても来た身近な人にも伝わらないのに、初対面で大きなprojectに通じる人へ自身の状況と理想などへの想い(現実的でない夢見てるだけとも思われず)を説得力も持ちて伝えるのは余程に共通の感性や方向性への分担と共同などが出来る人でなければ至難であろうし、何処まで深く交流出来るかの度合いは分からず求め過ぎてもいけぬとしても現実具体的な(家族との生活具体のように)説明と理解してもらう為の説得や伝達言語力が、やはり助け会うへの最低条件としても必要ではある。

しかし今まで出来なかった課題が或る機会に突然に結びついていたりする事もあるように、向き合って来た経験が自然に身についていったりする事もあるし、如何なる伝達力を持っていたとしても理解力ない者や各自の範囲以外には伝わらず分かり得ない事も本当だ。 その上で自身は如何に対応するか?の練習と探究への遊びのようにも逝くが良い。

そして自身のままでの結び付きに行為してみるものも出しながら対応や適合は鐘や鏡のように対者の土台や段階の度合い等に応じて連結され出されていくのが現在までの大体の自身なら、そのままにを生くしかない現実との適合を求めてしまう自分のままにも、或る程度の範囲以上か以下か(過剰か説明や言語の無さか等も)は他者や現実との適合的交流の遊びや手段と割り切ってしまうがのみで良いのかもしれない。

この世の現状を見ては、あまりに度し難く何処を見回しても苦しみがある希望の持てぬ人間世界ではあるが、そこと比べて恵まれているのだから頑張れないわけがない。ように思われ言われるのは(恵まれているのは本当だし、だからこそ此処での私の仕事を世界の為に使い生かしたいのだが、それさえも理解もされず)欝の人へ頑張れと言うような気力主義みたいな人達からの常ではありて、そうした弱さの克服へ向けて生き抜いて来た人達の強さは(せっかく病気になったり難病支援,障害者教育などを通して弱さを知っても結局は)強さの価値や社会からの視点と土台から抜けられない処からの押し付けとなるなら、そことどの程度に伝え分かり合い協同したりも出来るというのか?は、あくまで信用せず距離を持った間で対者と出来る事の範囲で協力し話し合わせ利用するように関係するしかないのは(今までとも)変わらないのかもしれない。 だがそれでは、求め過ぎぬとしても大抵いつも不一致点が増大し排除される結果の起こる事が多いのだろう中で如何に付き合い相乗などが出来るというのか?

人からの提案を聴くと同時に他の可能性もを取り入れるへの(全てを理解出来ているという意味では勿論ない。)全包囲を見ている。そのお陰で自身提起の選択は難しく、突き抜けるのでもなく対者の範囲での対応内に選択肢を採るしかない自分も出て来るのだが。) そして反発もせずに彼等からの経験や提起も本当かもと思って取り入れ一度は考察した上で返してもいる。 しかし自身(への制限は外すへ自覚的に意識はしながらも)に出来る事と出来ないことも観察され分かって来ている事も伝えるが、
でも。と他可能性や自身の想いや状態説明を言っただけでも生意気だと思われたり理解されなかったりもするのは、もう僕のやり方の問題ではないようには思うし、そうした者との協力は或る程度までしか出来ないが往々にして、その結果さえも僕がそれを認めぬ自我の強さや又は出来ない者の弱さだと又も断じられるのだろう。

しかしあまりに理想主義で現実に足つけぬ幼稚な思い上がりと思われようとも、これしかない自身や各自への生き方へ与えられた性質や役割もの違いがある。という事にすらもの想定が低い経験しかされては来ていない現在までの人間の多くにおいて伝わらず協同出来ぬとも、理想を示していく事も大切だし現実は苦しく生き延びる為にも夢でも描かなきゃやっていられない希望(という欲望)の効用もは(僕が生きていられる為だけであるをとっても)あるのだ。


解析され知られる事は操作や支配,管理,脅迫などへも利用される物ともなる故にも積極的に情報は出さないを基本にしながらも、しかし人と関係,共同するには現在時点で或る程度に信頼できる範囲の人には情報開示する事も必要ではあるし、それは不特定他者に対しての創作物において(例えば誕生日や本名なども)利用への恐れや頭での判断を越えて為される必要を感じられた場合に天秤にもかけず素直に出す事もありて良いのだろうならば、それもは感覚のみに気付きあれば良い二元相対的な分別作用を持たず開けて(開示,open)いくだけの生き方が(敵対者からの利用へ対抗できる協力者を増やす等の為にも)良いという事でもあるのか?

そこにおいてもの、やはり対者の程度や状況の度合いに言動選択の範囲を合わせて出すのは理に適っているのかもしれないとも思われ、それが分別と感覚,理性と欲望などもの現状対応へ流れを取りゆく事ともに一致した折り合いや適合点への方法なのかもしれない。

そしてしかし、もし私が世に置いたもので判断されるなら他者との書簡の記録からではなくて、こうした本質への観察へ対応した自文からにであって欲しいとは思う。


やって来たものへ対応し少しづつに発展し洗練されていく世の動きにもおいて未だ人間は動物だが全くの自由多様性の実験段階から共通の人間的文化の心性へ至る段階にも来ているのなら、その群体としての歴史と進展は(生体にも性にも)グローバルな普遍へ統合されていくのか又は分化へ折り返していくのであろうか?

自由や個性的であったが故に文化的動きはモティベイトされ育まれたが、しかし継承される世のトラウマの世代間伝達などもが連なり打ち切られる事もなかったならば、これからは知識的な知性や情報判断分別により(只の無支配,自由,多様の中で共通者間のみでの交流,共有も取られるだけでもなくカリキュラム的な共通土台の築き方の必要性も僕は認めているようにも)共通性における洗練へとMixされ、又は個は必要とされず抜けていく人類の段階に入ったとも言えるのだろうか?

共通の共生的価値と為され方を共有される人世とならぬと引き継がれる連綿もは個人能力や考え方の引き寄せ方向に為される事に依存した進み方へ任せるしかなく(規制や罰則などによる拘束,制限力は好きではないが)強制や管理などの強い環境下に居るような子供等(新しい世代たち)を救う為にも個の能力(や共同体ごとの自由決定)に依存させていくのみが良いとも思えない。

子供の放任も監理も親の(特に自己肯定へ安易に流れる人間において)自己肯定方向への引き寄せにおいて行われ、そのどちらもが大概において偏ったものであるのだが、しかし個人ごとにそこへの改善へ対応しようとしても無理だし伝えたとしても反発や怒り等の反応を催させてしまうかもしれぬし(だから目の前で暴言を子供に浴びせている等のように余程に口を出さねばならぬ状況へ立ち会った時以外には可哀想でも(昨日も子供を管理で締め付ける女性が居たが、口を出すと僕だけにではなく子供へ怒りが返されてしまうかもしれぬが故にも)そうしない方が良いのでは?と提起する事さえもためらわれ放って置くに任せるしかない時も多い。)交感によりて自己の態度も関係の置き方もを選びとってゆける価値へと関わり引き上げるには、個人対応ではなく全体へ関与せねばならない。事へも、関わる事を諦めず任せるのみへと抜けない事だと思うのだ。

が、その変容への創作や提起にも本質や共生という基準を見い出し伝えるへ向かうにおいての執行,規制,規律,義務や又その為の罰則,制限などの力の行使が(勿論に一律ではない個的対応での観察や交流が必要ではあるが)どの程度に持たれる必要とされていくのであろうか?

それは私や宇宙人的な外からの視点において人類を見つめ育む方法としてともに同じく強制に過ぎず自由にも過ぎないような在り方での方法を見つけ起こり来る現状に適応していくようにして傍観のみへと関係を手放さない事でもあるとは思われており、それは親と子のような上位からの優劣づけ(差別や見下し)ではなくとしての段階判断という必要による自身の働きかけの可能性への見い出しでもあると思われる。

創作は創作への消費生存をも生むが、それでも、その創作の質への関与可能性を(可能性などを果たすへと欲に追われぬとしても)自身には感じては生くのだ。

それが如何に伝わらず共同もが出来ぬとも響く宇宙の音のように行為化の私を渡れ。 何為せずとも、この生のままを与えられての自身を生きては(理解されずとも自信なくとも)存在に発せ。


余程その属する社会や共同体の人々が同程度の意識で共生,相乗的に関われる自身の自然で在れるようになる場合でなければ
正直であれば利用もされる世での政治的な関わり等は、頼まれたってやりたくないし無理だと自分についてが分かった。 (発信のみの手伝いは出来るかもしれぬが。)

しかし聖なる者としての在り方と場を創み出して分かち合っていく生活や創造の様態へ近付きて行きたいとは思う。が、教祖になりたいわけでもなく僕は僕の発出と関係の仕事をしたいだけだ。 そしてそれは創作を用いた聖(ひじり)の姿といっても良いのだろう。


宇宙や世界の総体的な奇跡を(そこに貫き統べる意思が在るかは問題でもなく)神と呼んだのだから全ての(地球上だけでなく他惑星種の文明とも対立ではなくて)唯一霊性からの分派であり宗教とは、その民族や環境,文化への視点を持って適合,転化された、その民衆や背景から生まれ民衆によって培われ転換,利用もされるものでしかないのだ。と一つ一つの宗派対立へ対して、同じものの事を言っているのだという知恵を神学論争などに疲弊されながらに挿し込み提起しなくとも良い。


そして(先の0の扱いや進法等のようにも)それぞれの感得も考察も一片ごとの真実であり全てが良いと突き抜けた視点と立場から見ていれば、自己への感得への他視点や参照とはなるとしても、それらの統合を私に成す必要はなく人へ任せておくも良い。


自身へと突き抜け自身の仕事を為し、では軽口や放言の提起性も使っても良いとしても調子に乗って安易に誰かを傷つけぬように気を付けていなければとは思うが、具体的活動として弱き者に寄り添いていってやる程の余裕はなく自分以外に余裕ないのは皆と同じで、こんなにも愚かな私は空にはなれない。

人の弱さも知ったが僕は、この書く事のようにも意識変革への自身の創作や自身仕事に立ちてからの主旋律に繋げる事や、共生的生存圏の創出(又は幾つかの他者事業)へ投資なども出来るという以外に何か他の社会的改善への関与は出来ない。

ではしかし、先ずは自分で行い立ち自分で守る。事からの共同は大切であるが、それであるしかないに立ち続けるのは力の論理の延長への創出,関与でもあり、その土台に立ちて闘い為そうとするならば、そうでなくても生きられる社会の創出へ向かうのではなく自他の垣根や生存の囚われにも縛られた価値観の防御でもある。

それは強く自身を為す事によって弱くとも生きながら成長も出来る世の創出への働きかけである方法を採る事(は無理だし)ではなく、自分こそもが弱き者の手段としての代弁者となりゆくにしかない選択の持ち方と不可避性でもある。(を先ずは共同者へも伝えるには、どうしたら良いか? 現在自身の状況概要を伝えても大概には意味がない。)ならば自身観察の現在結果時点に縛られなくとはしても、弱き者としての立ち逝き果たし方を模索し見い出していく事は私にとっての必要であり(他者が行為を観察よりも求め、成したい事は自身の力で成さねばならぬと判断を押し付けて来たとしても)それは徒労ではない。

強さと力の論理から転換され、誰でもがその段階や性質のままに共生的に意識の変革へ伴われていく世と創造を私は望む。

その力ない者においては奪われ殺されていくにしかないのか? 弱きままで生ける道は創造し得ないのだろうか?

僕は、こんなにも弱い。 この現状と生存からも抜けたいが、こんな世界で(生きている事すら自体が)抗がう闘いだ。