junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

99 7/28 (sun)

99 7/28 (sun)

この苦しみ何も出来ぬが状態も自身を磨き続けて深めてもいる必要であり期待もせずに放り投げ自身を行うのだとしても、何も進まない。 人々は、あまりにも浅く何も行い関われぬ絶望からも抜けられない。

現段階の社会の一般層の引き上げに関与する為にもの(その役割は認めるが)浅い段階でいられる人の自分が居る処からの視点のみに見る判断ばかりがのさばり上手くいく(そうでなくとも上手くいく人も居るが大抵において。という事)世の中へ、それは偏った一方のみの真実だ。と伝えても真に共有する事などは出来ない。 (そしてそういう対応をしていなくとも普通に自身で居るだけでも色々な処で日本人的判断性からは特に嫌われてもいるようだ。 あまり気にはしないようにしているが、自身の感情や対応だけでなく対立的な流れや状況も又、機があれば吹き出して来るのだろう。)

少しづつの変容に逝くしかないし、結果が起こったかではなく生きて味わい自身成長へ歩むのみであるのだとしても、もう僕は我慢して肯定しているのも嫌だ! (一応言っておくが、愛や平安の感覚に居られている時は我慢や無理しているわけではないが、そこへ強制的に歩まされている苦しみの糧の与えられ来る中での生が、もう嫌だという事。) そして愛となるのも疲れたというのも、それはそこへの引き寄せではないが、ではこれしか出来ぬと言いたくなる事への言い訳ではあるも知ってはいる。が、それだけの経過が起こって来た事も認めている。

怖れに負けぬとは言っても、人類はもう駄目だ。と思われてしまう程、劣悪過ぎる。 何処を見ても(勿論に喜びや幸福もその種もはあるが、その側面においては)苦しみと無力さばかりが有りふれ際立ち問いかけても来る。 それを変える力と、僕は成りたかっただけなんだ。(その能力は、今にも既に与えられているのに。)

経済的な奴隷や都市に集約され詰め込まれていく人々と現代は、まるでモルモットのようだ。 認知,知覚性の故に苦しいのではあるが、それは知性を持つかにも関係がなく動物達とも同じく、こんな苦しみへ放置されていて良いのか!? それを改善する(出来る)のが文明じゃないのか?

こんなにも生体は奇跡なのに、何て粗末に扱うんだ。(自分も含めての事が、そこだけにでも気付ければ共生や幸福の社会は近づくのに)何て野蛮な社会なんだ。 Mindfulな状態でawarenessしていけば、この感覚は意識のさざめきを越えて静まり還った明晰さと心地好さで世界に立ち会い存在し、風一つの草々そよぎにも私の手の持ち位置や指の曲げたバランスの取り方の現状況と理由まで見えて来るのに(その手法と開発に未来はあるが)浅くにしか利用はされていかない。 どんなに素晴らしい知恵もは人間化されてしまう事もが、それは中間化として良い進み方のかもしれぬが、しかしそれらから否定,排除されて生きるは悲苦だ。

まず超越に全てを越えるを自身にも目指し歩みて来たが、何の現実も化されぬどころか私はもう、この答えなども出ぬ(出ても結局また、それは本当か?と問い直され続けて至り着かない)のに只ひたすらに行うしかない無限地獄に陥っているだけなのか? その欲求さえも捨てねばならぬか? しかしそれでも、その展開のしゆき方などは必然的な流れと任せて、その方法や現じて来るものもは変化され続けているのみに流されて然じ生きゆくしかないではないか。

その結果において到達はしたい。 結果は分からぬが、その為に行っている。 私は高く深く真に突き抜けたいのだ。 それと現実を結ぶ適合への努力と囚われが私を押さえつけてもいつ原因であったとしても、私は恐れない私に行われるを為す、無為と人為の統合的運用の到達と究極を目指す。

移り変わる日々の感覚の全てを書き置かれたものではない。 感得され味わわれていく心の模様や状況は日々にも違うし愛や歓びの感知も苦しみや疲れの質もは説明に置かれては来ていないが自分でも驚く程にも違い、その時々に宿り来る真実のみを味わいている。

人を愚かだというのは自分を上においての優劣や格付け判断ではなくて(あまりにも愚かな故に又それだけの探求と誰も行って来なかった疑問への解決への端子としてもに生き能力を頂き尽くしている自負の為にも、その面もありてしまうのは認めるが)囚われに生きるしかない欲求ばかりの自身と人間であるをも知っている。

素晴らしい能力があり結び付けば為されるものとも成れる自覚と同時に、大した知性でもなく言葉化へ引き出して来る事すらも出来ぬが私だ。 それを潰しているのは自身か? いや私への流れだ。 ならば苦しくとも与えられ起こるがままを受け取りての自身を行いゆくにしかないが、この過程を 経て繰り返しながらも少しづつに跳躍し到達の止揚の段階を上げながらに達し、抜けては来たが、もう満身創痍なんだ。

全てを含んで未可知なものまでを魂ということは出来るが魂などにも関係がなく、与えられる全てを認め味わう生命のみが在り生と死を越えて放り出された生に在りては、苦しみも自殺も悪いことじゃない。 でも僕は絶望という成長の訴求力において自死は選ばぬようにはしていけると思うし(囚われ深き故に捨てられぬだけなのか?)破壊的創造(全ての創造は破壊でもあるが暴力的破壊という意味で)ではない方向と方法を欲し求めてはいる。という魂に与えられた流れだ。 そのように可能性を膨らますかどうかの思想的な到達点は目指しながらも全ての者は、それ自身を行うにしかない事は認め、しかし対立的視点への置き方も押さえ込まず怖れず行うも良いという面では、何とも愚かだ。と言って良いのだとは思ってもいる。 いくら私には(統合でさえもなく)、もう問う事しか出来ぬのだとしても。


8/29 (mon)

うまくいく幸運の中で生き続くのでないのなら、死を取り入れて苦しい中で生き続けるよりも死した方が楽であり、生きられる可能性に戻って来れるかは試すとも、放り出しては真っ直ぐに行こう。 あの光まで。 あとは任せた、左様であれば。

こんなにも弱い、どうにも欲望が深く自我ばかりの私だとも知った。 誰もが結局、生きては欲を追いかけ続ける事になる生の苦しみから、これでようやく逃れられる。 生と死を一体のものと結びつきながらも死なぬを選んでしまう私を救ってくれる(しかも殺されるとかでもない立ち合いの豊穣さとも共に)死は自分の力を越えた、生の苦しみからの解放だ。

引いていく生き方によりて、為され成される事への欲へ引いていない求め惑い愚かな自身であるも知りながら、それでもの自身に為される仕事を為すへ尽くされて来たが死が迎えてくれるなら、もう頑張らなくて良い。 自分を手離して生きる喜びへ在りて、何へ関わる必要もない。 自らに死を希望,欲求し引き寄せはしないが、その効用に際し臨みゆく時には、もうこの世の全てを捨てて逝けるのだ。

その自身を揃え備えても来た。死ねると思えたら、全て整理出来て結びついている現在地点にあったもを気付き、あぁ備えて生きて来れていたんだなと感謝する。 しかも急に倒れる等ではなく今すべき事として遺言を整理したり立ち合う時間をも貰えているなんて(結果そうでなくとも、その練習をさせて貰えて)なんて上手く行ってるんだ。 そしてこれで意識的に愛や坐や呼吸や意識にも向えるのは最後かもしれない。と、より観入を深めて立ち合う機会となりて有り難い事だと受け取って味わう。

この深い愛の存在実感状態に生けてなかった最近も、それで良かった最善に行われてはおり、こうした日々の変容も当たり前のように成していられる闇と悟りとが地続きで平坦な私となったお陰でもあり、今は主に味わいているのも世界へ対して言いたくなる必要に駆られるのもは苦しみの面でもありての愛の一辺倒に表現を出したいとも思えない世界の可能性と一つの提起の形の神の顕れだが(あまりその肯定へ自身を引き寄せ過ぎぬようにしながらも)それは、やはり根本で愛のみの全一体に自身ごとが常に結びついている事を更新される日常と観察の中で自覚されてもいる。

死を採りて善く生きる生となり、もう良いやと投げ捨て善く死に任せ向かえ迎える。 それは日々の日常化した苦しみの暮らしの中にも、既に苦しみと同時に有り得た平安へとも即座に至れる私となる練習は為し生きついて来ているにも在りて、ではその前までに何を自分が為し他者への行為や影響を与えていたか等への後悔もなく判断も振り捨てて全てそれで良かったと納得出来て済ませた上での、愛の光のみと澄まして逝ける自分に化しては来てる。

どうせ生きていて苦しく、出来ることも手に負えないのだ。 自殺しなくとも、この世の苦を放棄できるのだ。とは自暴自棄でもなく、この世には心底、絶望してはいるが絶望でもなく欲ばかりを求め続ける修羅の私と世界から、存在の超越を高めなくても、それまでに創っておいた資産によりても非存在の彼方と次元と働きの一部へ溶け混むへと抜けられるのだ。 生きて叶え続けていなくても良いのだ。

何も叶わず何かが叶ったとしても、ではようやく一難去ったのに今度は病気になるとか僕にはもう耐えられない。というか出来たとしても、耐えたくない。 (例えば歌手として成り立てたら喉頭癌になるとか聴力失っても生み出すへ闘い続けるとかのように)それら想起して光へ還し融かし込むへ自身を生かしながらも、試練を耐え許しながら成長と成り続ける(キリストのような)強者,上昇への運動に自分を生かし続ける修羅と試練に生きるのは拒否して、上手くいく中での真の幸福と歓びと愛の生命を実現されていく事へ願い、その観入の方向は昔からにあった波乱万丈な人生の楽しみ方よりも、平穏を志す私の意識の観入となるへ向けられているが、それらの全てが叶わなければ結局苦しむなんて、僕は何て欲深く又なんて可能性の低い設定以外を認められたない狭小さなんだ。

闘病しながら生き続けるのは更に辛いので直るのなら重くならない内に対処されるが良いが、そうでなければ死んでしまえたら、ようやく死が開放してくれるかと思い望むもが欲望だ。


子供等に対しても(自分のものではないが関わる事に大切さを肯定しているにおいても欲は残り肥大とのバランスにも駆け引き合いては捨てられず)自分以外の事は放り出すより望んでしまったり、その結果には操作や障害となってしまう可能性すらもあるかもしれぬを知りながらも(自身の中ではそことの均衡を取っていくへ自覚的に立ち合ったとしても自然で在るだけの自分でも人から嫌われてしまうように又は現在の提起性のように嫌な事も言って良いと指摘してしまったり、包み込むより優先として故にこうだろう。と言ってしまいたくなる自身性においても)やらざるを得ず嫌われたり排除されたりの中での立ち方を肯定したり模索したりの在り方から抜けられないのかもしれぬ愚かな欲の奴隷なのだ。

求めず引いていく事で叶い成される事への欲の方向にも引いてはいけぬ愚かな、どうしても求めてしまう僕は何とも欲望の塊だったのだ。

世界の為にも、例えば即ちは子供たちの為にも出来ることを果たし残してあげたかったが、もしかしたら僕はもう自分の可能性の成せた事は果たし尽くしピークも過ぎて、後は何も叶わぬだけの人生と哀しみの中で生き抜いていかなければならぬ非情を与えられてしまった生なのかもしれぬのならば、求めるだけ何も全てが無駄で愚かなのだろう。 それでも僕は業深く求めねば生きていけないのかもしれない。 それは最終結論でもなく或る可能性としてもの一面ではあるが、この弱き者たちである、人間というもの自体からの声でもある。 そして弱さとは認めるしかない愚かさの事でもありながら、それを自覚された故の肯定的意味でもある。<
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そして僕は昔から、作用点の素材としては自分も介在してるけども少しだし、他人がやった事なのに僕へ恨みが向けられ攻撃されることも(人間からだけでなく思い返せばインドの牛や信級の山羊などものように動物からさえも)多かった。 ネイティブの暮らしと旅の中で自身のみの行動を取らぬと決した故に(結果はそれで良かったと思えているが)その時の犠牲に(キリスト)吊られるカードが出て自身の役目を置かれ行われる事に覚悟したように、それは一時的なものではなく、そうした自身性質への決定が積み重ねられて来たのかもしれない(意味への結びつけに見てしまっているのかもしれぬが、その面だけを見てしまっているわけではない。)ように、諦め捨てていくだけの中に歩まされ試される人生か。 そうだとしたら、もうそんな進み方なら止めさせてもらたいのですという(死への又は上手く行く生き方へ求める)宣言と欲望は、もう死の淵からの切羽詰まった希求であり、耐えたくない! そこへ抜けさせてくれ!という祈りは良いのではないのか? 例え良くなくても、もう自分にはそれを望むし、それ以外の余裕はない。ところからの叫びと、これは探求なのだ。

母も自身を振り返れぬ愚かさによる自業自得な失敗や無駄や破壊ではあったが、それ以前にも何故かやけに打たれ認められない世の方からの不条理に闘いて来て破壊されて来た事を認めてはいる。 そういう人が居るのは避けられないのかもしれない。 しかしその人だけの責任ではなく、打ちて来た世の方にも、その責任を僕は問いたい。 奴等は正当化ばかりで何も振り返らないのだ。(この場合においては母自身もだし、人間はほぼ誰もがそうなのだが) そこに対して一方的に見て判断を押し付けず浅さに捉える自身を知りては気付こうと振り返れ!と言って何が悪いのか? この経過を見て与えられて来た僕に出来る僕にしか出来ぬことの一つではないのか!? 自己正当化へ自身を引き寄せられぬとはしても、俺はこれを肯定するぞ!

承認欲求という自身の病として捉えられる以前に、正しく認められぬ者が正統に評価され認めて欲しいと思い関わるのは当然の事ではないか。と、自分の為からだけではなく僕は思うし、それを働きかけても良く(その有効な行い方や言葉化や関与の方法は試しても効果を持たらさぬのだが)必要な事だと思っている。

分かり易く思いきり否定して来なくとも、浅く(自分で思い込み振り返らぬ事)一方的な相手の存在や行い方や選択それ自体が、(その影響を直接に受けていなくてさえも)僕にとっては否定と言えるのだ。 それに対して、それも良いよね。と寄り添って肯定するだけではなく、それは違うと言う事の如何に伝わらなくても何故に何が悪い?

愛だよね。 全てが良いよね。 そのままで良いよ。だけでは正しく振り返ろうとするによる成長はないし何も根本は変わらない。 こんな世界に関わるには、こうすれば楽しいね。や如何に生命の奇跡や喜びを伝えるかは大切だろうが、それだけではリゾート的な自然との触れ合いや商業的利用のみのエコなど浅き人為的利用の消費材化への(僕の嫌う少しは良くなっても享楽的快益さに)に絡め取られたものとしかならず(それも少しは近付く効用と認めながらも、それじゃない!と言う事も大事だ)

/30,31~

そうした浅はかな人為的判断範囲での進展でしかない享楽的なwellnessなどへ進んだとしても(それでも少しでも生き易くはなって欲しいし、その為の役割にはなっている人間も認めながらもしかし)根本的には変わらず新しい形での破壊や非理解の状態へ 変移させるだけで、こんなにも絶望的な世の進み方への希望のなさへ、それは違うと言うも正しい(もしくは他の方法が見い出せない)が、その段階でこれが真実などと言っている人間とは(その時代状況に達したら次の課題が見えて、やっとこれではなかったと思うのかもしれないが、結局それは愚かな人間自体が変わらぬ再生産の道のりでしかなく、)絶対に分かろうともせず理解もしないのだろう。 そんなにも愚かな人間と歩み取りしか出来ぬは認めているのだとしても、そして誰も敵などではなく必然過程が行われているのだとしても彼等は浅い判断段階の唯一真実をもって押し付けて来て関係も取れぬ否定と強制を持ちて、その段階での真実への少しの進展しか認めない。という面では私や世界の進展可能性への対抗勢力ではある。(私も勿論もっと飛躍した進展を無理だろうと押し留めてしまう意味でもの障害であるかもしれぬが、彼等とは違い(否定ではなく疑問を提起するようにも)聴くし、まっとうな意見には認めるし又、自身も愚かかもしれぬという視点も持ち、その自覚によりても振り返り問い直してはいる。)<
この世界も自身も進化,成長,出来る事は行う可能性,能力,性質や役目すらをも捨てて、ではもうこれ以上に良くなっていく事はなく何も叶わず出来ることからも現実からも引いていく可能性を認めた上で、どれだけ緩く柔らかく閉じていけるか。の撤退戦なのかもしれず、では現実化せぬ状況が与えられるならば仕方がないから認めるのでもなく積極的に現時点という最初から、叶わずとも小さく減らしていく中での充足へ向かい求めない自身となりて在るべきなのか?

つまり引いて行きながら、共生や現実具体物理にもの幸福などを叶えられるへ求めるのでもなく(もう引くしかないんだと結果判断へ規定してしまうのではなくても)、良い方向だと思われた事へさえもに何もを求めないのみへとも抜けていかなければならぬのか?へもの結論は未だ出さぬとしても、その可能性も考察されながらに歩みどりを経り辿る。

出来ることの少なさから諦め最少へ向かう動力にはなるが、その最少性へ求める故の出来なさが現実化してしまうへと引き寄せぬようにはし、この現じた事象に対して受け取り認めるしかないのだとはしても解釈や意味の判断づけに縛られてもならない。

死へ近づき取り入れながらも死へ取り込まれてしまわぬようにも、闇と愛を取り込みながらも、その統合が肯定や愛のみというどちらかの超越のみへ偏らぬ平々淡々とした中庸の姿へ変容し還してしまうは多分、正しい。

そして振り返るによる理解を深め立ち会うは良くても、そうした自身が行い成してしまった事への事後肯定をするように自身の理論補強へ利用し(又は気付かず利用されてしまわない)結びつけられてしまわぬように常に自身を見返し覆している事は大切だ。 だが、ではこの否定と肯定を当てていく知性の在り方ち観察への作業,方法はやはり、いつまでたっても終わらないのか? 説明は多くなってしまうが、これは私に思う(信望できる)知性の形だ。

それは知的かどうか等ではない、観察的な気付きと理解と統合の為の知性の質であると、私は肯定し取り入れられてもいる。 そうした結果の結合部において言い置かれた事の深い部分どころか100分の1の表面すらも分かろうとしないような、そして頭の良さでの優位性を取ろうとしてる。位にしか受け取れず(そうした自己正当化と強化の勝敗的理屈づけを僕は、これも母を見て来たお陰もあってか反面教師として嫌ってもいるし行わないように性質づけて来れてもいられたのだ。)、それを批判することで納得し自身を保とうとさえする浅い判断と一方的な力を振るうのみで良いと思ってる阿呆とは決して折り合えず共同的関係ともなれぬのだから、こんな世界にも諦めず種を残すへも提起し言っても良いが、それ以上の無駄と阿呆は放っておけ。

そして嫌や嫌いと言ってもいいよ。そこを経て又もジャッジメントせぬへ戻って来るかもしれぬけど、理解なく判断する者を判断しては止めてくれと言って何が悪いか? 打ち来る世界の相に、打たないでくれと言って良い。 しかし相手が聞かぬなら諦め囚われぬ自身への自在や楽の為にへと向けながらも、その流通にその時の自身が何を試し置けるか?への交感の軌跡を生命として立ち会い味わう。 そこへの肯定ではあるのみでも良いのだろう。
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そして私は、理解を求めているのだろう。 それは私へのではなく知性意識の使い方としてもの交感や味わいの生命価値と、世界や生命自体への理解でもあり、それが共生などにも通じているものだ。 それを非言語でもの創造に灯せるのなら良いだろう。 しかし交感により潜在性(魂)に触れる価値や方法を示し置くことは出来ても、それでは感覚だけで良いよね。的な(つまり先程に言った抵抗勢力でもある浅き進展性たちへ力をかし、その段階への非進展を助けるかもしれない)陳腐なスピリチュアリティには寄与,利用されても(楽観的でも至れるのなら良いが)真の幸福には至れない。 ならばやはり戦争も自然の破壊へも、その悲惨さを知らせなければ人は振り向かないように、(私自身は何処にも取り込まれぬにより選択が難しい中で生きねばならぬとも)言語や否定または疑問を呈し他の受け取り方や価値や選択性への提案をするも良く、(全てではないが、とりあえず現在の手段適合の選択点は)それにしかないのではないか?

あまり肯定は入れていなくとも、それ程に否定ばかりでもなく、ちゃんとフォローも入れていると思うのだが、そこにも感情的反応の過剰ばかりで読み取ろうともしない相手という人間も、もう少し理解はせねばならぬのかもしれないという事は、(犠牲を伴う可能性もある方法ではあったが)分かる機会ともなったし、一方的な感覚で働きかけてくる阿呆に、それではないのでは?と言っても 良いとは思うが阿呆なりに至りついた結論であったのは認め、あまり責めても良くないのだろうことは自分の学びとしても少しづつには分かっても来た。

そしてその自身の学びの機会とはなったが、その為に相手にとって何の意味もない(とも思わないが)のに傷をつけただけで終わったのだとしたら、そこには悪いなとは思うが止めようという反省でもなく、何を如何に言おうとするかへ対して向き合いた自分がその時の精一杯を行った結果なら、どう受け取れるかは相手の問題ではあってそれ以上の行いようはなく仕方がない。 自身の手法の改善点にも取り組むし、これで良いやと拗れさせていっても良くないが、これ以上のやり方は見い出せないのも実情だ。

否定の効用への信望を増大し相手へ苦痛を与えるかもしれぬ行い方を肯定するばかりでも良くないが、愛にもありながら現実的な身体,生活状況など苦の側面や現実世界への課題や必要を訴えかけるように、どれもがある中でのその面も用いて伝え世の苦しみと弱き者たちからの代弁者として働きかけていく在り方の選択(又その不可避性)を取りてもゆく私化した存在と行動の基定(規定ではない)も私は認めてはいる。

誰に認められなくても、俺はこれを残すぞ。 愛を伝うだけではない、打たれた者にしか言えない事だ。 弱く何も出来ず虐げられ誰にも知られずに死んでいき殺されていくしかなかった者たち自然界からの代弁だ。


否定も良いのだ等と、あまりに拗れ過ぎぬようにはしておきたいし現在までの特には身近に関係して来る女性たちを通して、世への絶望とそこからの模索を体験もしてはいるが、そんな困難にも負けてたまるか

(以下、メグへの文から抜粋。) 愛となりながら(それも日本帰ってから度合いが減っているけど)、実際に苦しい現実もある面ともの同時に在りて、こんな世界や人間の判断に対して、違う!と弱き者からの代弁者となっていくことも、それで打たれるかもしれぬとも、俺は恐れないぞ。

こちらの視点や可能性もあるのでは?と両方の価値を提起しながらも、(僕へ対しての(理解の求め)ではなくて)生命への交感に味わい生きる価値と同じく、世界への理解(それによる結果としての共生も)を求めるを、(引いていきながらも)諦めないぞ! と、統合と提案や関与の為にも、苦しいけれど学ばされてる。

(他者との関係に対応した文章への口語的な表出は自身における観察,整理の記録や手法と違うが、それもそこにおいての必要分を置く為に集約されたものとしてもの対者対応性でもあるのだろう。)

ちなみに今回の機会はメグでも母でもないが、皆その個人的な具体や原因が違うだけで根本の因子などは同じだ。 そこへ何を置いても無意味どころか置くことすらも出来ないと分かるような現実ばかりが起こり来る中で、しかし今回の機会で綾との何が問題点だったのかも改めて分かった。

そこでの問題を久々に味わったが返したとしても、もうそれ程に囚われてはいない。 出来ることはし、伝えるまでは気が済まない部分は勿論にあるが、それ以上は大分流し去れている。

感情的反応の一方的判断(それも全くないわけではないが)ではなく、全く違うなと思うことでも即対応せず時間を少し置いて考えてもみたりもしているし冷静に一度流してみておいた上での対処や出て来るものを紡ぐへ見つめられてもなって来ている。

阿呆に阿呆とも言ってしまうが、軟化する方への提起性も入れておいても居れているし(その者へ対してだけでもない全体的な人間や世界への)表現としては強い言い方をしたりしてみても、もう囚われでも怒りでもない処へ抜けて来れているのは、この前の母との事も押さえ込むだけでなく或る意味には転化できるへ済ませ関わらぬ事に離れてはいるが平坦さへも越えられたように繰り返しの中での少しづつであるのかもしれないが、私においては進展を続けさせて貰えている。

しかし、こうして新しく分かることもある為にへと行い試された事かもしれないが、誰かの規定したものに取り込まれ自分で何か発見しても、それが真実!と思い込む。 そんな人間ばかりの中で阿呆には労力奪われるだけで絶対に分かり合えないことばかりが分かるように、自身のやり方への方法は考えているとはしても、ではこれ以上に何をどうするというのか? (分かるというのは本当に証明出来たというのではなく自分にとっては、そう思われたという事にもすぎぬのだが。)


感覚的に深く受け取られた自身にとっての真実を信じる事や感覚的な根底では正しい処に繋がっているのかもしれぬ事は或る意味、同じような段階でもあるのかもしれないが、でも私は少なくとも思い込みの効用で進ませたものとは違う。 そこは自覚し差別化(優劣判断としての否定ではなく)での自負していても良いとも思う。 人類的に見たら私など現在人間たちより、ほんの少し進んだ又はこの観察的能力を与えられただけのものでしかないのだ。 それはそこへ関わる為にもなのだろう。が、それでさえも如何に置いて試しても(又はそれ以前に、何も試してさえいなくても)嫌われたり否定されたり伝わって成果のあったと思えたことなどはまるで無い。 のならばそれも欲と同じく初めから求めず実際の関係が取れず共同できず一方的な状態の相手を見ても、そのままに放り出してのみ置く事なのか?

僕にとって会話へは言葉も足らず伝えられず、書くには繋げられても結局は(その他者の能力側問題にとっても)伝わらぬが、労力や訴えられるような危険性すらを犯した犠牲になって喧嘩してでも関わり少しは未来に振り返られるかもしれぬ種を残して来れる機会となるか、もしくは只、表面的に合わせているしかないのか。等の以外に人と関係する方法もがなく、そんな奴等と共通を取りて共同していける仲間にもなれるわけがないし、自分が上であると馬鹿にしているからでもなく離れる以外の選択肢などが何もない。

又、人は他者の悪口なら聞けて協力や相談者となれても自分のことを言われた途端に反応し敵のように対立する。 だからその人に伝えたい事を他の場合の話しの中にも潜り込ませていく事も出来るが(操作技術的な伝達として行うことは実際には少なく何の意図も判断もなく結果そこに繋がり書いている事もあるが)どちらにしても、あまり後までの影響に残るような意味がある事は少ないらしく他の場合でもだが協力できたと思われたような事でも一時的な協同程度にしかならない事ばかりでもあるらしい。 そしてそれを見ては同じ人間としての自分にもある愚かさであろうと反面教師のように教えてもらいながらにも気付いていようとも思う。

しかしやはり、そうした事も自身にのみにしか味わえられた事がない経験が結びつくのは(今のところ)自身だけであるのだからにも他の人の事など知らずとも、この私のみを生きてやるのだ。 そして真実を言葉で伝えるのは不可能だというように一つの感情や経験のみでさえも同じでありて、各自が私の生命ごとに与えられたものに、幾ら素晴らしい事が分かったとしても代替もされず受け継がれぬ、自身の為だけに与えられたものである私ごとを生きよ。と放り投げられてもいる。

そして判断で見られる事は(例えその質の度合いによるのだとはしても見透かされることも、幾ら正しくとも知的に上から言われ押さえ込まれそうになることも)嫌だし怖いのは誰もが共通だろう(それをもって判断されたいというような支配,被支配の関係を求められる場合もあるだろうが基本的には)。 ならば私は、しかしそうした感情や恐れを他者へ与えてしまっているとも言えるにはどうしたら良いというのか? 全てが何でも良いよ。の彼方に佇む超越にのみ浸りて教えや真理など説こうと伝えてあげようかと思うこともない状態に突き離れているがのみであれば良いとなるのか?


本当に尊敬出来るような人間は人類のほんの少数なのだから、それ以外のほぼ全ての誰もは皆同じような者として真の関係など出来ないのだと放り投げて表面的に付き合っているにしかない中で(諦めているに納得は出来ても、押さえ込まずに充足していられるかは分からず哀しい事だが)誰とも対立もせず柔らかく、出来ることだけで折り合っているに過ぎないのだろうか?

そのような協調的共同が真のものでなくても共通目標が持てるなら妥協も楽に済まし折り合っている方が正しく本当なのか? そして自身のままに在りて付いて来るもののみを得るのだとしても、それらの者へ何を語り如何にどの程度を共有させた共同となっていくのか?でもあり、それは我想うままを発す。 そこに行いたい者は勝手に各自の能力や、やりたいことを思いのままに行えば良く意見の創意ありても認めないが共有出来るところだけやれば良い。というように突き離した方法であるならば良いのか?

大概にはそうした手法の提案では人は嫌がり共同関係となるのも難しいだろうし又、各自多様や知覚されているものは違うのだからこそに対話,相談の効用などもあるのに、そうした相互の流通性(会議等でなくても如何なるコミュニケーションにも)の全てを剥ぎ取って勝手な自立体ごとが行いたい事だけを行う結果としての共同も起こるというようになれば会話さえも要らなくなると言うのか?(いづれにしろ今は未だそこまでの自立体ではなく皆(エゴの硬度の事ではない)他律体である中で、それは無理なのだが)

俺は勝手にやるよ。 あんたも勝手にすれば。と放り投げ、そこについてくるものがあるならば良く、しかしその付属,共同の数や成功の度合いなどで強弱優劣を競うのではないのだという価値もを伝え指摘的な提案をするも良いが、でも分かって貰う為に伝う必要もない。という処にしかと立ちては、だからといって世の苦の面を伝えることを排除される必要もない。

しかしこうして全てが良いと肯定されたと思っては、只の知性のひけらかしやエナジーバンパイアと言われるように自分の為に無駄を生み犠牲にさせる人達や面倒くさくて良いというような面を膨らませてしまう人などもは嫌だし、そこへの振り返る事は示していきたいとも思うが、それにしても全てを肯定しながらも同時に何処にも肯定してやらないな。w それではどうあれても(自身の鏡だから等ではなく単純に、肯定されなかったり例えその者が悪くとも浅さを否定されたりするのも人にとっては嫌だから)僕のように指摘を置いていく方法には、人は賛同も出来ず仲間にはなれないのも仕方はないか。

また、その両面から苦の面を伝える世への代弁の形を怖れず必要と感じながらも、そうなるしかなかった哀しみも知れた恩恵として認めながらも自身が(その本来からの性質でなくとも)結果的には他者にとってのエナジーバンパイアのようになってしまっているのかもしれぬ部分には振り返りつつとも、ではやはり愛と苦の状況とその提起の形にも統合を持たらさなくてはならないのではないか?

苦も欲も書くも伝え試すも私と世界の全ての現状を認めながらも、その容認が変格の行方を留めてしまうものとはならずに又、苦も伝えては良いとしながらも結局この現じ来る身近への対応性(その中に、とても学んでいるとはしても)以外の自身創作的置き方などには何をどのようにどのくらい形にしていったら良いかも、愛と苦の統合の存在と表出の提起などが如何なるようなものかは(現在自身に置かれているものに既に為されてもいるし、それを良しとしてもいる以外に)分からないのだが、それもが例え失敗や破壊的関係を生みての過程であっても、このままにを往く、これが愛と苦の統合自体の形なのか?

その上での進展を目指すは可能性と欲の質として(にも関係がなく自分各自を置かれるままにも)良く、これがずっと過渡期のような苦しさにもありても、非情な運命は私たちを遣わし為さすだけで、その上に更なる高みの愛と闇の統合が来るか?は目指しながらも自分の意思ではないところに任されているしかないのだ。 (これが魂の知恵とも言える私に目指されている人類もの理解と気付きの観知への旅の在り方だ。)

存在の状況や書くこと等もはまた移り変わってはいくのだろうが、しかし現の作業形態のままでは大変過ぎてやっていけないとも思うが、何をも捨てこれに尽くされるべきなのかもしれず又はやはり如何に大変でも、やらされてる地獄のようには思えず(それも、やらされている必要性ではあるが)、私を通した世界への本当に必要なことが行われ(る必要があるから)行いてもいるような実感や未だ成長し、ここで止めてはいけない。という(それも自己の意識では苦を求めようとはしていなくとも無意識以下の必要は、未だ逝ける。 止めるな。と言いているが故であるかのようにも)ここで止まらなくて良かったと言う、必要を為されている自負があるのだからにも意味がありてもなくても自然に変転されていくまでは、こうして現在に与えられる生を行うにしかないに在るのだ。

他に何が出来ぬとも苦しく大変で犠牲を生んでいても結果が分からなくても、これが私と現在の必要だと実感し信じられているのだ。

事後の正当化的判断の意味付けや肯定ではなく、しかし起こり行われ与えられた事の事後からに何が起こっていくのかは振り返るしかないのであり、如何に自身が望んでも又は大変で嫌だと思おうとも(その意思方向からの作用もあるが、必定の範囲内のようだ?)起こった後にしか見えぬ事を、只ひたすら行われていくにしかないのだ。

そして、現在からの人類の指針なる進展への模索と提案の探究であった(人類の時代だったところからの)一つの結実としてもの私を、ここまでやって来たのだ。 将来には意味がなくなろうとも死ぬことで此処で止めるわけには行かない。と覚悟にも似て(為されるがしかないと、生きるのだとも)開き直る。

これが今後の自身存在や具体へ結び着いていくのか?もを越えて、既にも現在へと結び着いて来た、私化した世界からの記録を、僕は既に此処に残したぞ。


愛は良く苦は駄目などとは、例えば天気にまで関与できる繋がりを持った者なのに、晴男は良くて雨男は駄目という判断のようなもの。 それは現実便益性の為の人為的判断性であり(それだけでもないかもしれぬとも)そうした面では、良いことしてる浅い奴より悪を為さざるを得ぬ能力,役割でも、それが高く深い者であれば(だからといって良いとは言わないし対立も辞さないだろうが)深く見ようとしての結果でもあり為さざるを得なかったんだよねという肯定するにおいても、共感を持って関われるかもしれない。が、それでも、これで良い。を言い伝え置くだけでは奪う力も,愛の肯定により可能性すらをも奪う(偽善的)側も,奪われたと感じた側の奪い返す提起などもの自己肯定や正当化へ力をかし利用されてしまうかもしれぬに、やはり全てが良い肯定や判断なき愛で手放す事もが幾ら正しくても、それだけを伝える訳にはいかないのではないのか?

誰もの人が愚かさを知りながら、色んな人や多様な可能性がいるんだなとも知りて来た事で視野や可能性への想定が広がって来てくれたのは良いが、やはり実際の対応,共有の持ち方などは難しい面もある。

自分への引き付けばかりで面倒なやつにも(この後に書くkoutanの事ではない。) その感覚だけにも潜在的な正しさが宿っている不思議さは全必然の顕れの一つでもあるだろうが、本人は怒りや批判や囚われや自我だけであるへの正当化の肯定にもある事からの迷惑などは、如何にそれを回避しながらも完全に離れるのでもなく、そうした世と関わりてもいけば良いとも言えるだろうか。という世と同じ課題がそこにも見えているが、それさえも(生死を越えるように)肯定のみへ放り出しているのか?


苦を吐き世への文句や問題点を問いかけては労力を奪う方だけが悪いのではなく何故取られるだけされたのか?の側が排除のみでなく向き合う事も必要ではないのか?と問いを世へ提起しても良い。 しかしそれを、だから責めて良い。 これは正統だという開き直りへ利用されても良くないように全てを肯定はしても、自己正当化はしない。ことを、伝わらないことも多いだろうが考え方と交感の生の姿勢として伝えておくしか出来ないには仕方ない。

虐げられた(と思っている)人たちの代弁者として肯定的寄り添いだけでなく苦しみの面をも告げるを怖れず対応とバランスの中で必要であれば行うも良いが(結局いつも基本的には特に平安的な環境や心の状態である時は、静寂と肯定の寄り添いに発さぬ方を選んでしまうので、そんな心への環境的な左右されてしまう存在でしかない私の総合的なバランスや運用性が本当にとれているのかは知らねども)、しかし正当化へ利用されるだけであるならやはり、苦しみも愛もの何もがない平坦な超越へ向けて世への提起などもせず受けるだけの、そして目の前に起きたことへは対応している位の在り方であれば良いへ抜け、その存在性を在ることのみの自然に灯し解くのか。

そしてもしその自身の心の現況が悟り的な平坦になれず又はそこにありてもに打ち出て来る苦の提起的な相を取る自然を起こし用いるなら判断もなく為されるへと受け、ではその結果的に現れた指摘へもの意味づけ説明も持たれぬ(又は説明へ過剰な)姿を見て、それで良いのだから自分も。と浅い段階であっても言いたくなる人には、僕が代弁しておいたので言わないで良い? いや自分によって果たされないと気が済まないのが人間なのだから、そうした破壊もまた世と人間の進み方各自が行われていく動きであるとも認め(生命を殺す程の過度ではなく又自身内の囚われと欲求の苦しさを抜けていく方向の上での表現であるへ向かうことは、この自分もそうである惑いの経験や同等者としてもに伝え説くへも置くが)では苦を言うものも愛を言うものも、それが浅い段階でも全ての状況を認めた上で、苦しみでも愛でもない超越の立ち位置へ向かいて、それ以外を認めないのでもなく、そこへの協力者を得られないのではなく、そうだね。でも、もっと深める事が出来るには、こうしたら良いよ。と示し置いていく方向へも至りゆけるかもしれない為への歩みを止めぬ学びとしてもに与えられた具体や経験にもおいて、僕への現実か起こらず現実や人為に打たれる事も、そこに惑う事もを含めた日々と現実化は今も最高に与えられ為されているも知っている。

それはでは自分を傷つけ過ぎぬ為にも過度の破壊と囚われをはずす交感を示しては、しかし破壊的提起も肯定し、自己正当化の肯定と愛に至り過ぎている停滞と思い込み判断の偏り浅さの進展勢力には、その肯定の方向への理解へ寄り添いながらも、しかし(大して否定されてもおらずとも、)その善かれと信じて押し付けて来られる(私へも真理への向き合いにもへの)理解なき否定へ対しては何を言っても無駄でありても(の浅き人為判断強制への絶望感は深いが)勝手にすればの放り投げであるを取り入れた上での如何に、その土台や段階を統合的な共通へ引き上げる事などが出来るのか?の設問と私(を通した人類も)への課題であるが、それらどれもが力の理論(肯定のみの強制力も破壊もの奪い返す創造力も)を避け、方向にも囚われずの方向を示し入れる力(強さという意味での力ではなく作用としての)を使いては、では対抗,指摘的な提起への関わりの度合いと方法は如何に持つのか?や、全ての欲の結果もを認めながらに如何なる行為をも捨てているのみであるというのか?


そして例えば、本当に分かってないわけではないのだろうに(多分)否定的な言い回しを選ぶ事で相手の気付きを誘おうとするKoutanの否定的な指摘の方法などもは面倒だし止めて欲しい(そんなこと付き合ってれば分かるだろ。そんな表現で良いと設定してしまっていなくても良いじゃないか。というようにも)と思うところもあるが、それによって自身も、そこも言わなきゃいけないんだな。と一方のみで語らないようにしようとするへ意識,努力ようにもなったり、又は自分の考えの固まったかもしれぬものを気付きて覆すように気を付けようと思っては来た、その効用も知っている。 それは大概には与えられ受ける他者にとっては傷つける破壊だけ位にしかならず効力も生まれない故にも止めていった方が良いとも思うし伝えるが、僕にとっては不思議と対立を返す程の否定とも受け取ってもいないようだ。


しかし友とさえも話し共有とるなど本当には出来ない(コミュニケーションの一環として行うは良くとも)中で、こうした書き言葉での相互往信や又はスピーチ的な発信だけでも僕は良い。(全部ではないが基本的な世との言語による流通ツールとして)それは自己の限定,制限ではないが手法としても間違いではないと思う。

他の何も出来ず、この統合への思想結合へ生きる僕は天才などでもないが知性的発展の経過された人類の現在性において、そこへも能力を使える現れの中間的存在であるとも思われ、しかしこの真に大切だと思われている事なのに多分、誰も行わず立ち会いていない必要な探求に従事している自負はあり、それはしかし他の人が行っていたのだとしてもやらざるを得ないなら意味をも越えて、意味付け(とこの説明も)は例え自身への納得でしかないとしても何の意味がなくても書くのみに費やされるなら、その世界の一端としての私を行うにしかなく死ぬよりはこれが使命と生きてしまえ。 他者との関係や情報に受け取りゆく意味に気付かぬことは私にもある。が、ここまでの理路をもって(省力されていても)言って貰えていたら、そこにもの価値を感じようとはするだろう。

論理,理屈的な知性主義ではないが全くに理解しようともせぬ浅き知性の判断と(現在の科学証明主義的信仰への偏りや荷担ではないが)非科学的思考ばかりの精神論全能主義的な傾向などもの(どちらもにもある事だが総じて人為判断の偏重などと、とりあえず言いておく事も出来るだろう。)思い込みや押し付けにもへ対しては違う価値を統合へ提起する為に如何に主張の対立にも陥らず発出,関与しゆくか?がテーマともなっているが、その時点対応の言動選択と結果を認めそれ以外の他に何もが出来ぬのならばそれも認めて、こうして書く事などに残したり伝えてさえのみあれば誰かには見返される新たな文明への模索と感知の機会としてもに使用できるのかもしれず、その者や人々には気付かれなかった側面での価値の発見にも繋がるのかもしれぬのだから、このままに残しておく、意味があるのみにも行えば良いと納得もする。

故に私の提起は必要に際して交感に選択し書くこと。 日常には特に話そうとしなくとも必要な解消性への求める以外の基本的には静寂にありても良く、創作者であることと観察者であることの2本だてを持って、この世に(分かち合われるかの結果もは知らずに放り出し又もし意味をつけるのならば、この現在が書く事への整理と生命労力の集中投下もは、それを完成に近付けていく事にもよりて創作的活動の裏付けを持たらす為のものかもしれぬ可能性くらいは意味に縛られぬとも把握しておくも良い。)関与する現象を体する存在化の為の必要経緯と目指されている役割の到達,統合地であるのかもしれない。

納得労力の為の不毛な消費材でもあり又は政治的交流は出来ないし、したくないように僕は議論などはしない。を選んでも良いと思う。

相談,対話も要らず、放り出し離れては何を教えるも言う必要もない。のか? 自身もってのみ発し放ち付いて来る分だけの共有を、そんなものが生まれなくても選ぶが良いというのか?

(虚無主義の、もしく虚無の強さや魅力に惹き付けられながら、虚無ではない虚無の中の充実へ向かう動力ともしている。)

しかし断固として、もしくは或る程度までは闘いては、ゆずり引かない方が良い時もあるように、常に何を感じたかにもよるバランスは取られていかねばならぬ。 統合への歩みは既に、何が自分への自然か人為外的操作かにも関わらず与えられて受け取る中に行われている心の在り方との立ち会いのみであるに納得していられるが良い。


発さぬ静寂へ引いていく事を知った故にも、そしてその状態は歓びでもあるようにも、ただ心の充足のみを楽しむ。 しかしそれだけではない自身状況による、このような探索も(周りから見ても地獄のような為さねばならぬ囚われの生き様でもありながらも)いとも貴重な必要ではないかと思われてはいるように人類の資産へ尽くし、そては全てが例え消えてしまい残らぬのだとしても今も此処に生きている現在性に置かれる生命自身を生くようなもの。と尽くされている。


為すことからは引きながら欲でもある能力は叶い為されるという事もは幸福で深く、創作と家族も自分と世界も等と望むような欲ばかりの肥大でありて、得るには対価を払う(資本主義的人間ルールではなくても資源を掘るには労力をかけると同じように)交換や何かは捨て失わなければならぬ犠牲が必要なのに都合の良い、良いところどりをしようとしても駄目なのか? それでも目指してみたって良いだろうが、その欲に従って疲れたり心曇りて惑いたりしてしまう事も有りえる故にも、それを追う設定を選んだとしても気を付けていなければならない。

いつものタリスの店員さんも僕だけには、又お越し下さいの挨拶さえ面白い程にしない。笑だからといって行かなくなる程には気にはしないが、他でも何にもしてないのに何故か知らぬが嫌われてる事も多いらしく、(僕のせいではないが)そんな人間が世界においても仲間にも、良い共同の関係や活動性にもなれるわけがない。

しかも行いた事の評価されていなかったり(僕の勧めだったが忘れられてる)過剰に受け取られていたり(少し盛りを様子みながら何度か盛ったら欲張りと思われた)話の内容が変わってしまっていたり(Paiで追いかけstop言いて止めさせたのをワーっと激興したように追っかけたと広がってしまっていたようにも)誤解や、(言ったところで正しく理解しようとしてくれる結果がついて来るかも分からぬ上に)自分が言及へ関わらず放っておくと勝手に間違ったものが拡大や利用されてもしまうのに、そういう面でも、正しい事をしてるかも観れば分かるような又そうした人間の愚かも知りた上で分かろうとしようとするような当然のことも知性も人間には求められない事を知って来た。 こんなにも愚かな人間と、そこにも打たれ易いであろう僕(などのような他の人もだが)のような人間で、この現在からの人類に上手く関われるわけがない。

それでも未来は分からぬし、6人に嫌われても1人に凄く響くが全体化すれば人類70億人分の10億を動かせる力ともなれるのだから、その(7分の1、又は10分の1の味方をつけられるもの)としての思想や目標を示せれば良いという戦略性を持てれば良いとも言えるが、まぁ現在までの状況ではそうした流れや関係にはとても成れないようであるのみが見えて来る。

そして今日も鍛える。 人と上手く行かぬによりて見い出して来れたが私化への集積や、この自身が欲にも惑い抜けられなかった恩恵が、人類の代弁者となる為にもの(有名無名に関係なく現在も既に)その歩みとなっていた上を。


そして、これだけ向き合って来てる自分でさえにも抜けられぬ欲望の虜なのだから、そんな人類もに合った利益や欲望も利用した方法でなければ、新しい時代への手法へ転化,点火し提案出来ぬと思われ、それを探す旅路でもあり、思想などと馬鹿にされても思想への結実を必要と捉え目指す旅道でもあるが、そうしたものの置き方が見い出されれば(見えなくとも行なえば良いと言われても、立ち止まらなかったら(少なくとも自分には)見えなかった必要であり、たぶん或る地点での真実に納得できてしまう(を浅いという)段階で走り続けてしまえる人には見えなかったものでもあるのだろう。)幾ら良いものを目指す(が仲間にはなれぬ)対抗勢力の彼等が愚かで浅きものの中での段階的進展論にもあったものへ尽くされ世界が向けられていようとも、そうした一切を覆して残る思想という人類や文化への種と成れる可能性もあり、そこに至る為の世界や現生人類の可能性一端を私に行われているのだ。

では生体などと言わなくても(その説明と思想的裏付けによる文化などへの進展背景を残しておくもは大事だが)人間の領分で生命を育て遊ぶというような実際利益的な効力を残していけるならば、それは未来(と過程採り)の現実化可能な思想と関わりともなれる。


どちらもの真実を取りゆく過程は大切だが、しかしそれはその時の感情的起伏にもよる心次第であるのだから(素敵な意識の情報や素材に出会えば、そちらへチューニングされるようにも)その心を愛方面へ整えておく事への日常を取りゆくを目指したが今はその上で、愛への観入と保持すらが正しいのかと問う段階への巡回に更新された。

愛だけが素晴らしく苦痛や怒りを良くないものと判断するのは、それを行う人の判断だけへ対してでなく自分もの中にあったもの。 現在の自身や関係の過程(的必然)を経て、それに気付かせ新しいフェイズへ入らせてくれた僕にとっての恩恵であるに感謝し受けながらも、それは違うという(その手法具体は変わっていくかもしれぬとも)提起にも自身を尽くして試行,照覧,観察していく私への与えられた進め方であるを認めてはいる。 例えこれらも私の段階の更新ではあるが結論ではなくて結局、問いを再生産する提起へもの形にしかならないのかもしれないが、それでも実感に起こるなら犠牲なったとしても(そこへ引き寄せないが覆しもしない)意思や意味をも越えての必要なのだろうを受けるには納得しての対応とする。

同じ繰り返しと思われるかもしれぬ(書き方でもある)が、僕は常に次の段階へ移行し生まれ変わっている。それは言い訳ではないと思われる実感であり、だから苦しくとも(苦の肯定意識で苦を呼び寄せぬとはしても)この行われ現じられ来る進展への過程を行うにしかなくとも生きるのだ。

しかし照覧から整理の、この方法を振り返る暇もなく現じられ続け他の事どころか、これだけで整理がメモに追い付かず間に合わなくなって来た。 それでもこの行き会いの繋いでいき方が起こり来るへの現対応の仕方は、どうしようもなく必要と感じられながら行われてもおり、もの凄く奇跡のようにちゃんと結び着き接点の分からなかったもの同士が繋がっていくを見ては、(連結の度合いを緩くする事も難しいのに)やはり箇条メモではそこにある意味が生かされない故にも、なるべく放置では駄目だと感ずのだ。 (また繋いだ結果だけでもなくて本当なら、どのように連関が起こり繋げたのかの、この奇跡的な芸術の過程も残せたら良いのだろうが。)

では深い愛と深い苦の両方同時に在る現在の私状況は、しかし存在の段階が深い程そのどちらの感情も高いのだとしたらの故にも、世界の根底には本質だけがあり達せればそこには、どちらの感情もなく判断なき喜びだけがあるのかもしれぬ状態の中での愛も苦も人の持つ感情的な側面への現れでしかないのだからにも、そのどちらにも取り込まれず味わわぬ寂静なる心一つの問題へと向かい還る、そこには生命の味わいさえもが否定されている行き先なのか?

ならば本質からの愛的な感情面への生起による歓喜も(苦の悲痛も)さえを認めず違うのだと積極的に否定し抜けていかねばならぬのか?

その愛も苦もなく判断も抜けた歓喜の感情面を愛と言うのだとしても、そんな愛など感情自体を消していく心一つのみへと戻るのだとしたら、苦しさを言う必要もないが愛で在る事もない、ひたすらに只の感情も判断も分別による気付きとその交感をゆく味わいや遊び方でもあるという生命の価値もの全てはなく、意識は呆然自失の恍惚を味わうだけの為のものであり、そこへの為の生命の価値や進展の形や道のみがあるという事であり究極的に戻り還り着く、私もへの突き抜ける先なのか。

それでも愛と同時に苦しく(現在は苦の方が強いが)助けて!と叫んでしまう私の心は弱く救いを求め感情的にも変転し続けるが、しかしこの未だ何も(現実世界的には)残さず与えられてもいない状況に現じられている、何かを成す影響へもの経過を取ってしまう前に心の判断は成せず哀しくとも減らし、何をも全てを捨て失っていくという救い自体でもあったのかというのか?(それは分からぬし、それも意味付けへの思い込みであるのかもしれぬが。)