junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

96 7/25 (thu) ~

96 7/25 (thu) ~

今日も世界は在りのままに美しく、なんて苦しい。と昨日も起きて思った。 それは子供等と共に生き会える喜びや解消であると同時に生命を削り疲労してしまうようにも、生きているだけでの私と生命の、歓びと悲痛なのだ。

自分でも忘れていくように、この体験は誰も分からぬと思うし言い訳的な自己肯定になってはいないかは問いながらも、しかしその生に生きていく以外の選択肢がない中での納得との折り合い点を取っていかなくてはならず又、只の正当化ではない自己へ気付いている弱さ(も肯定するしかないが)や如何にも為し難い問題点も把握している否定と肯定の間に進ませてはいる。

書くにしかないことに絡め取られて生きる生は少しづつにしか進まず、それは例えそれ以外の生へ使えない事への他律的操作によるものであったのだとしても、この仕事と生の使い方に私の生が費やされ希求するのならば、これも私自身への納得の持たれ方ではあり、そこへの肯定や傾向が利用されての自己納得に過ぎないのだとしても、それでも私は例え無意味でも真実と道のりの在り方を理解したいのだとは思い、その来たり来る想起には付き合わざるを得ないと思ってもしまう。

つまり他の事がやりたくない為の言い訳としての、これしかないという依存的没入や出来る事を行うのだという欲の方向に自身を引き寄せているわけではないとは確認しながらも、他律的な(電磁波攻撃etc)潜在下からの操作によって行わざるを得なくなったかもしれぬのだとしても事後承諾的に認めようという納得の為の肯定に寄せられている可能性が無いとは言えない。が、それでもやはり書き纏める作業にも日々と必然的に絡み合っていく相を観ている、これは私だけにしか(他の現れもあるだろうが、この表現の形としては私のみのものであり一端の力でもある)為し得なかった事なのかもしれぬのだからにも、その結果や評価は世界の判断に任せては(意味になるかもしれぬし、意味なく操られて肯定するしかない悲哀を生きた人であったと感じられるによって現時代の苦痛を歴史に残せるのかもしれぬように)生きて出すへも尽くし、このように流された生にも肯定されていくにしかないのが、こんなにいとも小さな我々の生への非情を生きゆく覚悟だろう。


では、こうした自身内面の動きとも同じく昨日の最後の文までの結び付きのように、文章化された現時点までの考察や整理付けを他者への提起へ出していくも良いとは思うが、その情報量の多さ又は言葉,説明の繋げ量に伴う陳腐,意味合いへの矮小化は避けられず(伝えようとし過ぎず結果としての受け取られ方に任せるのだとしても)伝える為でもある目的は果たされていない矛盾的なジレンマもがある中で、それでも僕はやはり、陳腐な詩より文章を選んでしまうのだろう。

それは世界のざわめきでありながら静寂から生まれて来るものでもある故に完全なる沈黙以外には、どの情報を何処までの言葉で埋めたら良いのかもが私の能力には難しく分からないのだとはしても、箇条のメモであったものを考察の機会のみとして放置させていくだけでは(追い付かなければ放り置く以外に仕方ない事もあるだろうが)その流れの想起にすら使用できなくなる事も多いのだから(何処までを求め残すかは難しいが)記録に残して置いてゆくは必要な作業とも私には感じられ続け、では順列に追っていく手法は元々もっとまとまっていたもの達を引き延ばしては分かりにくい複雑化と潜在性の顕在表面化へならしゆくに陳腐化させているだけであるかもしれぬとも私は、未顕であったもの(ミッシング)のリンクを繋げていく事に快感と報われる実感と体感的でもある価値を感じ、その為に他の何も為せない苦しみと共に引き換えの(犠牲的快感という交換価値へ寄与している自己の納得ではなく)生きていられる生を保ちながら進む方法と力へとも(それが本当に進んでいるのかもは分からぬが)向けられている。 私は、文学よりも現実性に基づく進展への助力となるを求めたいのだ。


目を覚ます、新しい生が今日も始まる。 地上の楽園におとされ、僕らは地獄を生きてるんだ。 一人きりの変革による世界への変換と関与へもには生きながら、しかし同胞たちの苦しみを放置しておく事は出来ない世界の具体現実への提言に関わりたいんだ。 目を覚ます。 僕らの生を提起する(起こす)んだ。


(昨日セメントの記憶を見た。 現在の状況は人種的な差別や区別によるものでなくても(それもあるだろうが)アラブやアフリカが発言力をもったら余計に面倒になる欧米にとって民主制への過程を利用し破壊し、そこにも起こる反動やテロ衝動をアラブ内での内戦という操作も可能な管理下へ置くことへ当てた面もがあるのだろう。)

現在世界の風潮の知識的判別のみでは持たらされない事への否定を実感的な空気を持たらす創造という肯定的提案の手段に持ち上げていく手法は、その価値を気付かれなくとしても自己の外部からの風を吹かす自身と知性の在り用い方へとも果たしてもいる(それはドキュメンタリーや詩的手法の賛美ではなくて)。 それを伝えるのは作者ではない周辺,批評者からの言葉だが、私は言語外にも過ぎず自身における自己説明性も含めて、どれ程を言い現せるかへもの結び付けと均衡の課題におかれてもいる。

そして物語を組むことよりもVisual自体に私は常に惹かれても来た。 その連結と無駄のない奇跡の記録に何処を切り取るのかが分からないのだが。

ただ、ただ回り続ける。 生命のように、移しゆくを映し続ける。

そこに創み出し響かせられるものの価値は消費的体験か体感的体験か。の違いと差でもあるのだろう。 (この映画も、それ程に強く私の心へ響きかけて来るものではなかったが日々の延長における観察への感得には、このように利用されている。)


空の下の監獄。に生きる、経済的奴隷制の中で常に誰もが搾取され続けている私たちの、無駄と創造の破壊ばかりの増大に私は生命と世界の共生を願う。 いつまでも止まない虚ろな現実に打たれる心の涙に、鳴り止まぬ悲鳴もなきものたちの悲鳴が響くを聴いている。 風の震えには声にもならぬ小鳥たちの、恐怖へ意識もされえぬ以前からの願いがあったのだ。


知ることさえも日常的消費性の前には弱く(それも理解できるし何でも知ろうとすることの奨励ではなく、少なくとも知ろうとするという選択や行動自体が希少である面で)自身が或る事柄を知ったとしても(それも本当かは分からぬが、せめて自身が打たれ感じた実感を)人へ伝える為にも、しかしせめて既に存在する作品を知ってもらい触れてみる事を勧めるくらいにしか他に何が出来るという力を持たない人々が多数である中で(それが悪いとは責めていない)、僕には出来る事が在る。 (そして創作作業へ生かせなくても、この生存もその創作だと捉えてはいる。)

先ずは生存を保つ事からの喫近なる欲求の向かう質や生活の様態は違くとも、同じく頑じ絡めにされた皆なる何処もが我々の中で、一応の平和と安定に達した後の私たちからに見い出され、しかし結局それは未だ地獄なのだと知った上での知恵が発見され伝えられるのであれば先ずそこを目指そうとしている人々の彼等にとっては未来からの知恵ともなり、その到達地点への実現過程と歩みのみを受けることが出来る果報ともなるへ分かち合う事が出来る。 そんな世界の誰もが実践できる生き方の次の段階と方法への置かれ方を私は求め、その開出へと向けて歩んでいる。

7/26 (fri)

私はこの観察と集中の日々中によりて見い出され取られ来る、組み込まれた者からは外れたところにいる事が出来た私からにを尽くす生存の闘いにおいて世界への仕事と奉仕がしたいのだ。という欲にも費やされ今も尽くされている。 何になるかなどが分からなくとも又は何にもならぬとも、今も全力で生命をかけて、苦しい哀しいと心呟き泣きながら、その為にへの自身を生きている。 こんなにも何もが出来ずに嘆いても、行える事に自身生命を尽くしている!

私は悲鳴を上げている。 目の前の瓦礫に埋もれた人を掘り出すにしかない者のように、俺がやるんだ。 俺がやるんだ。 こんなにも苦痛でも労力に縛られていても、これが私の出来ること。 自由を縛りてすらもに自由を目指す大海への翼なるを開いて大空へ駆けようとする道を求める、自身への生を与えられては送るんだ。 (この日々や作業の送り方にもクタクタにくたびれてはいるが...。)

日常を生き抜くしかないに費やされていく人々に、あらゆる(良いも悪いも)可能性が宿ってはいる。 その判別は出来ず各自の自由を生かし全ての人に宿る進展の可能性を認めては選別せず、しかしその能力と可能性を生かす価値ばかりに落とし込まれていく欲求の増大へ関わる為の創造では在りたくないが、それでも新しい時代での生の方法,開花へもの手段を開いていく為の我らが実験ではあるを逝き、私への創造に生を費やすのだ。 苦しくとも、これが生存の実感自体でもあるように。 私を通してしか語れない申し訳なさにもあるが、これはあなたの声なのだ。


では思想や仕組みへ働きかける仕事への創造は、そこから離れた者こそにも出来るのだとはしても真理などは所詮、嘆くことで無情や人々の哀しみへ寄り添う程度のものとしかならず、即応対処せねばならぬ現実の実際的な武力間にありて思想的な立場においても出来る事とは、せめて闘わず出来うる範囲での中立において助け出す活動に加わる事や、又は自治区域維持のみの自衛の知恵と方法での活動を加えていく動きの可能性もはあるが、ではしかしそこには、いくら小さなゲリラ的抵抗の対処だとしても、武力対応の武器,資金,組織,団結,連帯,指揮系統と規律や死の犠牲の覚悟の強制などが必要とはなり協力なき個人選択のみによる自給圏維持などは不可能だろう中で、そうした暴力に対する暴力だけでもなく対抗の為に自由を奪う必要にさらされる統制,管理,罰則,厳格(や又は政治的な交渉力の必要も含めて)などによる(緩いやり方を選ぶことは出来たとしても程度の差)私の方向や好きではない論理としての力の適用へ身を投じなければならぬ事には変わりがないが、暴力に対応するには現在の現実には他の方法は有り得ないのか?

非暴力不服従運動であっても同じ力の 対抗や数の動員力,情報による正義への波及力であり、自身たちの信じるものの為の勇気への規制と血の犠牲は強いられ支払われたが(ガンディーやキングは優れた指揮官,戦略家でもあった)、それは方向という質の違いであれば思想の闘いであっても賛同を得た上での強制であっても或る種の暴力であっても良い又は不可避な戦略や選択肢であると言えるのか? そうであったとしても、では自分は何処の立ち位置の選択を基盤とし行い発するのか?


叱るより誉める伸ばし方が良いのだとは言っても、他者からの暴力,否定にも対する抵抗の力や自身を溜めぬ健康の為にも共有への指摘面を置くにもの自身を出し伝えることは共同の為にもへの必要。

それが認められなかった時に離れる選択肢すらもが無かったのならば、双方妥協点への闘いや交渉への対立になるしかない面もあるが、それでも相手の思惑や判断の強制など否定へ対して受け入れるのみなのか?でもあり、(身近では悪いインド人の例もあるように)力で返し合う関係への関与は嫌だが、では掛けてきた労力,資源も手放すしかないと諦めて、奪われたままで良いのか? 更なる労力への肥大を生んだとしても奪われた物を取り返す力を為そうとするのか?でもあるが、その延長に武力という手段,提起,交渉力,政治的選択肢,中立自営の自衛力などもへの暴力装置を如何に用いるのかどうか。への世界との関わり方もがある。

しかしもしかしたら力を使うことは自身または双方の、ここまでやった。という納得感の為だけのものかもしれず、それも大切だが その為に多大な労力と破壊の無駄を過程取るのか? そうだとしたら闘争や紛争などという破壊へのカタルシスは、ここまでの犠牲を払ってでも努力と自分にとっての最善を尽くしたという(欲望の言い訳としてもの)解決への衝動力を消費し納得するまでは収まらない又は収めない、不可避的な手段として仕方なく肯定されていなければならぬのか?

そして中立的立場による仲介を取ろうとするのであっても、とりあえずの国際団体やngo等の人道的支援など以外には(ラビンとアラファトや中露と欧米などのような大きな代表勢力の決定同士による)大国単位でしか動かなかったが、しかし民間力でありても、創造的文化の越境者によりてならば(仲介など出来ぬ人々意識へ語りかける事の以外には不可能と認めるのでもなくて、それによる人々への提起と影響力化を利用してもに通ずる)この思想や方向性によりての世界を創るへ向かう為の仲裁と構築を提案出来る可能性も生まれるのではないか。 (そうだとしても、こんなに弱く活動力も自分以外の余裕もない自分に為しえるかは難しいかもしれぬし又それは思想的な帰結と創作者として成り立たぬならば目指し得られぬ基盤を前提とした欲求でもあるが、それは達しても達せなくともの自身を導いていく目標や方向の効用とは成り得ていく歩み生き続ける為のものでもある。) そしてその為にも有効な憲章的な理念目標に掲げた思想の形化されたものを共通への基盤性を持って関わるへ繋がっていくならば良く、そこへの過程を今も築こうとはしている私ではあるのだろう。

子供にさえも背景,文化,環境,憲章化へ結び着いた思想や方向などへとも顕れ受け取られた分の生き方,存在の姿以外に引き継ぐ事は出来ないように結局は、この自身へもってを生きゆく以外にはない。 そして今も苦しいと叫んでいるが私の、しかし私に起こる事の全ては(鏡である自身こそのみを磨く課題と糧へ与えられているとしても、その他者原因は私ものではない。という意味だけでもなく)僕が選んだわけではなく、自覚も意識も意思もは自分のものでなく起こされるだけのものではあるのだ。


しかし扮装地域だけではなく、日本などの災害間ユートピアにおいても地区区分などもが頑じ絡めの法規や仕組みの中で、では自営的な共同体化などを選ぼうとしても多大な労力を要するか不可能であるのだから(例えば家は最低限の権利であるなどと)、憲章的に用いられる憲法などの理想を看板にも掲げて地域や土地の再編成を狙うのも方法ではあるが、しかしそれは少しずつの努力や道のりであり急には進まぬ政治的な現実性や金や制度の仕組みの中で(合法的に土地を取得する等のように)行われていくにしかないのは、余程に破壊的状況の中で或る意味強引に宣言してしまう等のような切羽詰まった状況を利用していく以外には(しかし311でも変わらなかったが)ない方法採りの一手法でしかないのかもしれない。

ただ現時点の日本における憲法9条を中心とした思想の生かし方の方向は(自身理想の肯定化の結論へ引き寄せた理論ではなく又はそうでありたとしても)国際情勢など現在状況の現実から介離していくのを解釈で補うというのではなくて、掲げてくれていた未来からの理念に対して、その差を埋め近付けていく為の動きと解釈と捉え進んでいくも良いのではないかと思われる。

例え日本人も草案に関わっていたとしても主権なき状態で決められたものを自身等の理念として掲げるべきではなく選び取られなくてはというのも最もな意見だが、人類理想の奇跡的な現在段階への結実の恩寵でもあり、そこへの賛同によって日本人は自身等で選んだのだ。 それは洗脳による為ではなく先の大戦からのトラウマ的な償いでもあり、その破壊から得られた貴重な収穫の集約されたものだった。


だから(といって洗脳的な働きかけによって選んでないとも言えぬ面もあるし、現在社会と今後にもおけるフェイクニュースか稀少な視点提起の価値か、保存するのか消去するのか?等を誰がどのような基準で選別するか?等とも共通の課題はあるが)、現在のみを見て対応していく為の労力も変更も(特に自民党的目標の為に手を貸さず違憲なものへの土台に乗らないという野党のスタンスは分かるし絶対改憲無しではないが賛同もする)無駄にかけず、引き留めておく力を働かせる為にも、立憲主義には反するかもしれぬが解釈変更を加えていくという在り方も僕には悪くないように感じる。

ただしそれは先にも言ったように現在とのズレに変更を加えていく為ではなく未来への理念を、そこへ近付き或る程度に達する迄は変更せず現在状況との適合可能範囲での解釈を経ていくという在り方であり、つまりは憲法明記されていない自衛隊も既に在るものとしては存続を認め軍事的拡大や侵略なき世界を目指していく上での抑止,協力手段の一つとして用いられながら、それがなくても良い世界での縮小(率や防衛予算をどれだけつけるか等の度合いには議論が必要だが、政治的労力はそこへ向き合い懸けられるが良い)や消滅または転用へ向けられていくならば良いというように僕は共産党の意見とも近い所にある。 そしてそれを政治家が言えなくとも、そこから外れた者ならば或る意味には無責任に(発言へ至るまでと後への責任は勿論あるが、全ての専門的な政治性や過程を把握してもおらず立憲主義に縛られた立場ではない者としての)方向提案していく事も出来るかもしれぬのだろう。

しかしでは、その転用方向としての可能性は災害救助組織であるという以外に紛争拡大させぬ仲裁力や(実効的な発言力を持ち保ちた上での国際影響性への関与の為にも)出来る事とは実際的な武力と行使力を持ったpko的な軍備にもおける世界的な相互扶助性も持った繋がりでもあり、特に米国主導の覇権に取り込まれずに行う為にもの提案または現実的な進展可能性の選択肢があるのは国連的な世界軍隊と部の受け持ちでもあるのかもしれぬが、それではそこに吸収され力と権力の新たな増大を押さえ込めなくなるかもしれぬのに、それで良いのか?

いくら平和的方向の動きであっても、全ての技術開発とも一体である軍事転用にへの垣根は持てない世界の中で、如何に我が国のような地域の選択も又は世界の全体にとってもに、侵略性に対する武力,情報,バイオ技術などの開発または転用可能性の保持もの全ては銃以下のものへ減らされ放棄される。等、そんなことが出来るのか? (その部具に対するアサルトライフル以下なのか等の基準もだが、人間自体が実質的な身体性を持たぬようになっていく事で、大反動武器などを使用しなくなる可能性もあるが、それでも小型化やバイオ,ハックなどの最少労力で最大効力を持たらすテロ的な手段と方法の危機性は増大する。)


企業体または準ずる連結と組織化にもより進む脱国家化や、技術による非管理的に見える分散的かもしれないが潜在化した新たな管理の主体は生まれるのでもあろうが、その過程をも認め利用し向かう先へと働きかけられるのは経済的な開発性の中に自身等を置かぬとも可能な関与と未来における人々の利益追求の方向性でありえるのかもしれない。

帝国,植民地的(買収も)な独占ではあるがGafaなども今までに比べたら民主的でリベラルな人々の指向に沿ったものとなった(という現在の人々に育って来た風潮を利用され、又はその延長としてにも位置づいている自然な結果としてものリベラル的な風呈を纏っただけで次の統制システムへの道筋に収束されていくだけなのかもしれぬとしてもの)現在の企業体ではあり、権力の寡占を避ける為にも又は独占ごとの分権的共存の中にもの非集権的な動きもは利用可能で(利用もされるだろうが)、その先の未来に現じさせたい方向へ関わる為への協力も可能な媒体では有り得るのかもしれない。 私において行われているには超越的な視点よりも現在への適合ではあるが、天才的なものが彼等や世界は好きなのだから、それだけの理念やアイディアの方向を提起出来れば、そこにも響き協調共同していける未来の創出が有り得ないとは言えない。

7/27 (sat)

私に想像された何が為されるかもは分からず何もが無益であったとしても、それでも私に起こるこの生命生起の現象を世界に発し置かれていく存在のままにを愛と全一の光に充たし観察的交感のawarenessに私と世界を渡して生き延びていく過程の行方採りを逝かれるのだ。
~
If nothing I can (do).
((I'll keep) Just) Existence of mine & world.
(Feel (taste) the) light (life) to be it self.

もし何もできぬとも。 私と世界の存在だけに在る。 それが自身であるように光を感じよ。

何も無く 我が世界立ち 在る光。

(しかしそれは要約にしかならず、やはり散文,説明の効用とは別の物である。)
~

必要な事のみが起こるを受け取りゆくしかないのなら、囚われぬも苦しまぬのもは只、生き易いかどうかだけの事だが、そこにも関係なく苦しさや余裕のなさの中で結び着いて来る私への必要な仕事だけを連結している、起こる流れを与えられて繋ぐだけの存在たちであるのだ。

哀しいのは知性にありて感じてしまう故であり一体どれだけの苦しみと悲痛が宇宙には充満されているのか、いつか解決されるのか? その為の過程必要なのか?も分からぬが、そうした全てに共通の苦しみを無くした意識と存在進化の為にの地球と現在の上を生きる。 結晶のようにゆっくりと然じ、時空への紡ぎを繋ぐ我が涙のような存在なのだ。

生命を消費してはいる同じ人間だが、他の人々のような消費ではなく(それは比較による優劣付けでもあるが各自役割における自己認識ではあり、しかし 例えその結果には意味がなくとも)真実への向き合いという創造的消費を生きている。 他に何が出来なくても、これで良いのだ。(と思わされている操作また自己肯定への引き寄せだとしても)という生命の実感には溢れ生きてもいられている喜びと、その糧の日々が美しさと苦しみにもある。 現ずる世界(と立ち会い)は今日も奇跡だ。

では今日もこの私に尽くして味わい、現在と宇宙の分化または連合的連結の時代にも共通な仕組みへの現じ方を求めるへ抽象と具体の組み合わせにも戻り来ては考察されるに(仏教は土台とはなるが今後の電子的生命化の時代を越えてもの、真に皆に共通の到達地かは分からない。)、個に基づく自立的な施政範囲は有りても拡大されず、(権力は必ずしも腐敗されるのかは分からないとしても)大きな単位としての国家は解体された独立的地域ごとの最少で一時的対応の自衛力保持と透明で公平な情報化を基にした地域間同士の有志を基盤とする共同による調停執行力や仲裁への武力化を、その時ごとに形成させるが共通の世界化となるならば技術を伴った、しかし現在や過去でも可能な世界政府化させなくとも良いとは思われる理想の現実化方法でもあるのだが、その方向を挿し込みながらも現在の世界の国家ごとの軍事勢力圏ごとに対して現実的な移行段階には国連的機関における決議と、その執行武力であるpko的派遣という過程を経なければならぬのか? それでもそうした世界軍隊的な権限と力の増大化に吸収されず、又は決裁機関である国連の安全保障理事会の解体による権限委譲に利用もされずに現在の人類性の中で、そこへと至る事などが出来るのか?

国家と同様に強大な世界の決定執行機関である国連をも壊体する。 そして各地域や専門の分化体ごとのorganization化が進むによる緩く何処にも(企業やAiにも)権力や管理の集中しない状態へ化された上にて、もう一つの国連へとも権限を集約させずAltanativeなLinkにおける世界的なconectのcommitment方向を多様な可能性の一つとしてだけではなくて共通の世界の方向性として提起していくが目指すに置いていき自治区ごとの協調共同関係と相互安全保障(ブロック化や軍事的同盟のような強固さではなく緩い関連性において侵略対抗の武力的備えも伴う仲裁支援を送り、規模拡大すれば更に各自治装置からの有志を募り増援する)方法を提案し、しかしこの協同の他の世界が違う施策を取っている中では、それは容易く破られる故にも全体においての安全保障策となっていかなければやはり意味を為されない。 ではもしどうしようもなければ、その状況の中でその動きを為し種を残す提案ともなるしかないだろうが、やはり分化された中での一つの在り方ではなく全体化させる必要があるという事であるならば全体化への働きかけの効力を持つ為には思想的方向提起の他に全体がそちらへ向かわなかった時には現実対応として、もう一つの国連的な権力機関を設置しなければならぬのかもしれないが。

ではその方法の全体方向と仕組み化への移行が一足飛びに世界の解体,再編の機会へ進まぬのならば、とりあえずはpko的協力も否定されぬ中で世界軍隊や世界政府化は阻止するという動きを、例え彼らの方法が世論に支持される効力を伴っていたとしても実現化させていかねばならぬのか? しかしその場合でも(例えばヒュー& クライでは現行犯的な即応性での場や人口密度や自治関与意識など条件が揃っていなければ(拡大再解釈される余地が全くないかは分からぬが)対応出来ないように)それらとの中庸性にもおける訴求力が有るとも思われるるし、その思想方向への活動,提起余地は残るだろうとは思う。


そして国家へ集約させた暴力装置の行使へ権力を委譲していることも、国家の権力は市民が作りシビリアンコントロールする。という主義の肯定,賛同における力をかし与えた参画へ利用もされている現実ではあるが、では例えば憲法は為政者,権力側を縛る為のものであるとする立憲主義の主旨においても、それはその憲法によって縛られた三権という政治的勢力,権勢からに規定され行使され実際には動かす力とも成りにくい少数の力で変更へ関わるは難しい面での市民を制限する事もに縛られているとも言えるし又、その政治的権力を作った主体,当時者として切り離せない存在として規定されている市民自体ということにおいても立憲主義に縛られているのは権力だけでなく、それを作り出し又そこに縛られる市民自体であるとも言えるのだから、その仕組みは現在までに獲得された機構としての効力はあり意味も認めるが、やはり到達地点ではないと思われる提起は出来る。 では他の方法とは?と言われた時に今のところ示し得るのは拘束力を持たぬ憲章的な努力目標ではあるが、そこでの解釈の多様が有り得たとしてもの価値と積極的な効用性を見つけ出しておかねばならない。

ではもし、その全体の憲章的方向の共通が生まれ執られていれば規定や管理の全体的な力の増大が行われなくても、それのみ(法規的複雑化と全体共有などせぬとも)においてさえもの、細部,各自が多様のままの自由でありても量子的ふるまいと同じくマクロでの現実,顕在化は全体の方向としては保たれるのではないかと思われ、監理や統制力の巨大化へ対しての解決方法の力強い根拠として出して置く事は出来るだろう可能性の生かし方ではないかとも思われている。

しかしその目標と行き方の過程採りは或る程度に見えて来たとしても、どちらにしても(相互の為にも自身の為にも)余裕のある自立と自足や自給的生活基盤化の為の技術は必要となるのだし、それと同時にそこにdesital democracyが完成されていようといなくとも情報の流通やアクセス権利の自由化に伴って進むprivateの明け渡しや自主決定の主体を委譲させない事との折り合い等は課題として解決または見い出されていかねばならぬものとして残りているのだが。

しかし情報さえ流通していれば、追放というシンプルな罰則と恐れによる犯罪の抑止だけで良い(+それでも何度も侵略を為そうとするなら殺すも良い)という考え方は、しかし武力の優位性を保たねばならぬ事や彼等の生存圏での破壊や搾取関係などが続くかもしれぬ事への(そこにも悪人ばかり生まれて来るわけではなく自浄や対抗力は生まれて来るのかもしれぬが、その循環と悲苦の)放置でもあり無関与で他の世界の苦しみへの責任を放棄した在り方でもあるに(他の仕様がなければ仕方ないとしても)賛同は出来ない。 そしてそれとも個人的自立の基盤化などの方向をも否定して、他者との関係に依存していないと生きていられない事による追放の罰則性を強化させるなどというのか?においても、やはりそれが正しい事とは思えないのは依存や恐れや自立性を失わせる方向だからという思想面だけではなく生活や情報の技術面でも向かわないだろうと思われたのだが、ではその責任当事者の個人がけが、そうした情報的流通からも追放されるという罰則性であれば効力を否定出来ない面もある。

しかし、思想の強硬さによりても放逐され続けた民は、それにもよりて更なる思想の強硬化とアイデンティティとしてもの民族的繋がりの組織化や又は個人の思考,構築的な力の強化へも利用した循環性を見るにおいても、やはり罪により放逐する罪の再編性に寄与する事が積極的な良い方向だとは思いにくいとは現在においても思うが。

では一度は複雑化させたくなる人間性や私を通ってシンプルな解決策へも至るなら、初めからそうさせた方が良いというのか? その無駄は(経験と納得の為だけではなく)必要でもなかったのか?においては、いや思想の強度化を持たらすには過程の辿り方と、そこにおける間違いの可能性も見い出し知る事で修整していく事もの必要過程があるのだと思い私からの提起ともなるし、そして私は今もこうして私を磨いている。

突き抜けるのみでなく現実への対応と適合を求め過ぎだとしても無意味な行為でも、自身納得の為だけではなく過程採りの必要として、そして又は自身の意思とも関係がなく成さねばならぬから成していくしかない世界の断片が我において成されるべきのみが成されていくを諦めては行われるしかない事への肯定と充足にも達せよ。

少しづつにでも社会は良い方へ積み重ねながら進んでいるのだ等というのは(その面もあるが)夢に過ぎぬと分かってしまった世界の後で、それでも少しづつに良くなっていくんだという方向へ歩んでいるしかなく諦めていても仕方がない。<

Haiku poet 試作

~theme~

Bird sound from some where.
It might be a blue bird I though.
Because of evening there.

どこから鳥の音。 私は青い鳥かもしれぬと思う。 夕方だから。

A bird in sky
It goes on the wind.
Eventually a blue.

空の鳥 風に乗る。 やがて青。


I walk down the street.
Are dyed by evening air (color).
It were came from my heart.(memory)

It taste (image) (always) remembering in my heart.

It replace my days of blue. (blue days).


私は通りを歩き、夕刻の空気色で染められている。
それは私の心から来たものです。
それは私の心の中で常に覚えている味です。
それは青き私の日々を置き換える。