junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

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生きていることと世界はそれだけで美しく、あまりにも絶望的だ。

環境や背景は意識へも働く重要ではあるとしても、情報開示やお金なくなっただけやfree enagyが届いただけでは戦争を生み出している誰もが各自の中にある否定,対立や破壊の愚かさ。は変わらずに残り、また発現する可能性も潜象し続ける、結局は人の心の問題だ。

しかし全一であるに繋がった、人皆の中の自分を信じ興していく。のみが私を通した変革への唯一なるが道なのか? 成果などは出ぬとも、ひたすらに孤高に澄みて一心に、この在り方を深めゆくのみへと向かうにしかないのか?

鏡(彼我身,神)の法則というように潜在に達して、潜在からに集合意識を書き換えてしまう方法を取るのか? しかしそれもは力の行使による光への操作でもある。


光強くなれば闇も濃く深まる。ならば無為のみで在るように在りて、何の成果なども求めず愛の意識への全肯定の理由と存在の道を伝える創作への転化へ生きるのだとしても、その方向を認めれば又も求める事への肥大が始まるのでは?


私は、どちらもが在るに在りてのバランスと統合を求めながらに未だ引き裂かれてもいるだけだ。分裂の狭間にもがき包括を目指してはいるが既に、この存在が世界自体の統合と現在だ。

流れの必然性を神とも呼んだ高次元階層の魂ともに連綿された私たちへの一端と顕れを観るに全ての完全という一致を感得しても来た潜在象や生命界との交感人類の軌跡が、その両方にも渡る自然や私の自体を通しての思想や道や共生的調和の相を見い出して来たが未だそこには人類と宇宙の普遍的統合である極相の中の中間性や強制なき相乗の取り方や、その説明の不足,不在が残っても在る(と思われる)。


欲や求めや方向や人間的弱さや生体や破壊や全てが自由など何であっても、認めるとそこへの肥大化可能性も生まれる。 無限選択肢の中での、全て認めた上での調和,調整点とは? 又その極方向へ、ではなく中間点への方向欲求は良いのか?や、では既に極方面にありてもからの中間結論を目指す為に反対極へ振ってみるバランス行動とへの極方向の選択ならば良いと言えるのか?


私の存在を中間の統合へ抜けて生み出す事もない傍観性または中間的な行為点に在するだけで良いのか、もしくは善も破壊もを生み出し続けるであろう人間的行為や世界の相の(引き裂かれ対立運動を繰り返すをも認める)に対して、そのどちらにも中間的決定点へ持たらし引き寄せる為の行為を(思い込みであっても自身に感じた行為点を)行じるというような中間方向への欲求や力の行使ならば良いという事なのか?

(まぁ如何なる思想や方向が実ったとしても、その現在へ達した時点での自動的な選択に拠りて流されるしかないのが自分や人間ではあるのだが。)

何をひたすらに観じ伝えようともして来たのか?は、苦しみと愛の説明,流れと選択の潜在全体共通の他者と私の一致点などへもの、観察と整理,統合(Observation,Consolidation)であるとも言えるだろう。 (又、論拠的な証明や言葉の定義付けによる再構成的な編集性などを持っていないが、本質性へ向き合うという意味では哲学であるとも言える。)


社会的な提起と行動の指針としてもテーマをまとめるには、平和主義(仏教的)アナキズム等のようにも現在までにあった言葉を使うもが方法の一つではあり、では無支配主義の考え方は示唆もくれるし響くが、自由のみで良いのか? 共同への共通構築とのバランスや施政の運営は? 自衛か非暴力か?等のように統一されるべき課題も多われ又、何処にも偏らないでいたいという自身もある中で(自身こそが新しい価値と名前もの 定義付けを更新するのだというような囚われではなく)今のところは完全に同意出来ない。


無支配主義の主張や思想の指針は共通でもないが、ならば統合的運用への統制機関や組織によるインターナショナル運動ではなく、自由な有機的な横の繋がり(Alternative Organisation)において各自自由の運動や多様を生み出していく土台となる思想としてもを創り置いておく為にもへの、現在までの主義などの土台の上にブラッシュアップされた新しい思想への結合を試すこともは大切であり(特に日本であれば秩序を求める保守や私有の観念以外にも無政府主義という訳語とイメージを先ず改めていく事も大事だろう。)変節されるとしても一度文化に組み入れられた思想は残るのだからに、地球大の新文明の指針を創り残す事は大それてはいるが、それも良いのだ。

例え答えの出ぬとも、そのように新しい思想を起こすへ向かい、思想を創るのだ等というを恥ずことはないのだろう。 それは次代への種であり、手段という目的自体である。

只ひたすらな自由,生体,感情,暴力、等もの効用を認めたならば破壊,自滅,非共生,侵害,我が儘と強制や又は、再秩序,構造化や統制,道徳という管理や洗脳装置なども生まれる事も、そこへの対抗措置,政治,交渉と企図ある陰謀,策術も、資本主義的肥大や全ての方向も無秩序,無法も非管理,放棄または武力革命,自衛,自死,他殺,暴力などもの自由もの全てが認められてしまう中で、全て有る現在が既なるバランスなのか?

奪う事も、奪われたら奪い返すへ闘う等も両方が自由同士に在る事で進む社会は対立や破壊と力の論理や抑圧に推進され、そこに回るものの連綿や実質的な関係の仲が悪くなるなどへの悪循環の可能性を生み出すばかりではないか。

その無支配主義に非暴力,不服従のようにも挿し込むのが、全自由でも強制し奪わなければ良いという( Leave it )非侵害のみの指針における共通構造化(システム,法規)作りこそが出来あれば良いという事か? であれば共生への共通や調整点を取りゆく必要もなく挿し込めず、その各自の多様を生くだけで在れば人類のみにおいても分化し折り合わぬ者とは折り合わぬ世界へ進み、いつかそれを打ち壊す反対勢力が拡大しようとも自身等以外の事は(時の運命に任せているように)放り出してのみいる事か?


又は如何に非侵害と共に共生などが指針であっても、共通法の縛りを増させれば解釈の変換,利用や権力機構への委託や行使力の増大可能性は潜在し続け常に懸念されるものともなるだろう。

つまり問われているのは非侵害による共生的生存への進み方と保持の形へ至る為に、全自由のみの無関与性へ放棄するのか? 又は統合的共通を如何に制限,統制,管理などの強制力を持たずに指針化し運用ともするのか?


私有の生命,自由,財産を認める、現行の自然権自然法を再定義したとしても時代や状況で解釈や運用も変わるし統制的規律化や執行もされ恣意的な管理へ至っても、そこから抜ける事が出来なくなる怖れがある。 そして私有財産を何処まで認めるか?はあるとしても、基軸は世界との交流窓口や基底としての自身という生命に宿った個と私有性を認め立ち会っていく事は、全体や他者か自立のみの自由かのバランスの取り方としても間違っていないようにも思われる。 しかしそれは個人主義への傾倒の事ではない。


それは現在と今後の仕組みへの考察だけではなく世界への立ち会いにおける中心点としてもの自身と個の置き方の事でもあり、組織(国)は権力、資本主義は物質的な富へと希求し、では管理を委ねると権力と秘匿を生むからにもよって、そこに関わらず抜けた自由な個人へと向かい。 しかしでは、自個さえも無い自身へまでも抜けきらねばならぬのか?へは、苦痛を持たらさぬ為の無常や無私(dhukha,anicca,anatta)の仏教的思想との兼ね合いにおいても、その無と我と全体を結びつけるへも渡り中間でもある私(personal)を仮象的な実存と捉えた上で発展への過程(trans personalのように)とし、自身によりて自身を越えていく基準としたいようにも思われる。


如何なる力とその行使権を認めず管理から脱するとしても、しかし奪い来る者にそれを伝えても奪い来るのならば対応は、その奪う自由を奪い返す武力を、滅ぼす為に,同等に,最少に使える用意もしておくものか? それとも平和主義の一択内での伝達のみか完全な傍観か等の立ち位置の違いでしかない範囲内での選択を採るのか?


奪う自由へ対する拘束,抑圧,罰則と執行の武力,権力の運営は強制や不自由や恐怖による抑止方法でもあるが或る程度以上には有効な、つまり暴力へ対応する暴力だ。 そして又は権力への不服従へ連帯をもって抵抗,拒否するもは力の論理と押し付け、つまり非暴力ではなく暴力であるとも言えるのだから、そうした暴力的方法の効用を認めながらも個人としての選択と社会的な合意の到達点にもおいて、何処までを関わり何処からは関わらぬというのか?



思想的結合点としてだけではなく、政治的な表明や選挙等の関係機会において積極の戦略的選択としての中道を採るか極反動を採るか等へ行為や労力をかける事はありても良いと思われるが、ではそれ以上に関与を深めるへ増やしゆくのか又はそこからも抜けた受動や無関与へ減らしゆくのか?等もの自身にとっても社会にとってもの関係の方法や均衡点を見つけ出す必要があるのは、例外としての政治家や聖者など極端な方向への性質者以外の一般的行為点の話しでもあるが、しかし現在は政治や人為社会的運行に生きている中で(情報を入れ過ぎず入れな過ぎぬような中庸性が取り得ないならば)そこに関わるという在り方の選択が多くなるべきであるとも思われる反面、そこには多様各自の選択と関わり方の良しが有り、無関与,放棄に在るという関わり方の結果もは判別出来ぬ故に置いて置けば良いのだとしたら、(一応、自身の現在に見い出された点では、此処なのではないかと言う事は勿論に出来るわけだが、結局はどの選択点を自身が採るかも他者が選ぶかも基準化は出来ず又、分からない。という事のままで良いのか?という意味で)一体何を社会へ対しての指針に提起出来うるというのか?


暴力や非共生への批難も力の行使としての攻撃でもあり、暴力や管理の拒否という力の執行もは暴力の範囲でもあるのかもしれないように、暴力や非暴力,不侵害の基準もは曖昧であり共生という価値観もは今の処、抽象でしか語り置かれてはいないように、奪わない等についての基準もは明確化されなければならぬが幅を残さぬ基準化は規律性の縛りだけでなく専門的用語における記述化などの複雑化をも又しても生むのだろう。


ガンディーもキングも当人は公然への批判活動と情報発信のみであったとしても、(それはパフォーマンスとして人間の良心に働きかける意味は大きく勇気のある道ではあるが)その同時代の裏では同時に政治的力における交渉や情報の操作や武力的な動きもあったから、それは完全に独立した平和手段による関与と実現ではなかったのだし、又はサパティスタゲバラ等のような直接武力手段の肯定やマスード等のような、その選択の(絶対ではないかもしれぬが彼等にとっての)不可避性(扮装介入でもあるが自衛的選択とも言える)があったとも言えるようにも暴力の意味と同時に自衛の意味も拡大出来る中で、暴力的手段と効用の一切を完全に排除し認めてはならぬのか?や自衛武力の行使範囲を如何に設定,制限もするというのか?

手を出さぬとも言語や態度においての暴力が行われ得るというようにも、数や世論など情報の力も、力の行使と他方の排除という意味では暴力であると拡大解釈ではなく(そうであるとしても)言えるように思う。


そして市民的不服従などものように確信的行動の為の道徳規範を守ることも強さへの縛りや自己抑圧による行為ではあるならば、それも間違っているとは言えぬ人間的な手段ではあるが、そうではなく引いていく方向の中や又は不可避な選択,行為の結果として社会のサイレントキラー的な側面を生んでいくような無自覚的な関与の効用も認め、ではそうした弱き者の闘い変革の手段として効力最大化(他の手段とも比しての最大ではなく、この手段の意味付けと説得力をもった効用や価値の強度化)は出来ないか?

又は一人の人間が全ての問題に対応,表明し解決させることは出来ぬのだからにも、やって来た状況や障害への対処を置いていくことによる、又は他者との共同に繋がれないのならば個人として向き合うような、受動的レジスタンスの方法が有っても良いと思われる。

ただし、やはりそれは自身の意思や積極でなくとも行われてしまった後の結果を見ての解釈付けによる自己正当化の面だけではなく(日本の侵略戦争が結果としてアジアの解放へ寄与したとしても、その過程取りの口実が正当化されないようにも)、無意識に流されるもの全てが最善であるというだけではなく又それが結果への関係がないとしても、生命や自身という世界の流れとの交感の過程において、自身の行為や選択に意識的に気付いているか。は大事な事にも思われるのだ。


私に言われる意識によって選択する方向の事を、ベルクソンにはエランヴィタール(創造的飛躍とも言われる内的衝動による躍進力)と言われた進化系への希求力でもあるならば、その命法の設定は快楽や功利に変わる価値としての徳や正義などでもなく、理想に過ぎず現実を変革していく為にもへの目標や価値の置き方への動き自体が即ちを、カントに言われたような理想主義と言われるものとして進んで行かせる方法も有りなのかもしれない。


差異に過ぎぬ二項的表象の捉え方における対立や排外の論理で述べられた実存と構造の両方の真実を経ては既にポスト構造主義も終演(一つの収束)へ向かい、新実在論と言われるような自然的客観と観測者各自の事実(環世界の事でもあり、人間的実存から拡大された実存の捉え方)への転換へと人類は少しづつの進展を経過し至って来てもいる。 そうした歴史的経過や重層の上に、又はそこから切られてもいるが現在までに置かれた土台の上に積み重ねられてはいる存在としての私ではあるままに観じ出されていく過程と結合地への道に問われるものは、つまりは(意識や社会的な仕組みへもの主義や)思想にもよる対外的な変革の方法論でもあるが、では示し得るのは現実への適合よりも理想の提起によりて進ませる、経済思想や政治的関わりよりも思想や方向への理想を利益,原動力とした向かわせ方のみ(しかない)ともいう事か?

それはやはり或る意味には正しく、しかし理想方向とそこへの進み方(そんなものも意味なく調整され叶っていくのかもしれぬとも、それは運のようなものでしかない。 全ては運命であったとしても、そこに関わる運命の人もある。)としての現実方法との適合点を探っていく事を求めては歩く生の在り方でもあるのだ。




カントの理想主義は自由,平等,(唯一で共同の)立法。を求めたが、そうした共和的世界への発展形が国連などでもあったように共和国制でもなく、社会自由主義なども同様に全体主義的な傾向に資している。 故に集産性の管理や執行権力(日本における勤労,納税,教育のような義務も)、又は権力監視や自浄力への労力肥大を避ける為にも国民国家的な段階同士による繋がりではなくて、元老院や代議制(又はAiかも)への収束や権力の委譲の集積を最少化する為にも自治区的な施政規模を縮小された中での直接民主的な自由における参加を基にした運営であれば良いというのか。



我(に近い者,身内)か彼(遠い者,他者)が殺されるのか、私が殺すのか相手が殺すのか?等の選択に立ち会う場合にも(その差異と排外は決定規模が拡大されても残り、そこに作用も及ぼすが)、それでも選択に正解はない中で、各自の役割を果たしていく相互の結合の上に結果の納得や一致点を採りてゆき又、現実との適合点へも進んでいく人間的な対応の在り方として、その遅く政治的硬直性における段階を踏んだ進展のなさにも意味はある。 ならば代議(官僚)的な権限委託による(又は直接でありても)民主的手段の全体最適解(誰も真には納得しないかもしれぬが全体での共有過程により落とし処には繋げたという、遅く労力もかかる方法)を(手間をかける事の意義や効用価値という思想のように)小さな決定圏だけでなく全体性の中でも運用するのか?

しかしそれでは武力や情報力等もの力に担保される発言力の不平等や、それぞれの権益,思惑の絡み合った構築性による進み方にも陥る事は免れないし、小さな共有決定圏内以外との全体的な繋がりでの共有決定と関係において完全に各自の運用と自決性に任せているだけでは強制や統制の自由も膨らみ又、押し付け合わぬ個人での正義を認めてもらえれば良いというだけでは説得や対話によっても操作されたり肥大も起きるのだろうから、やはり憲章などでは拘束力を持たず理念にしかならないのだから、その共通法には規制,統制,管理,罰則などの実効力を持たせなければならないのではないだろうか?

つまりは、共有の採り方と共有決定の施行方法や選挙なども含めた選別方法もの進展(優性性や格差への判断を生まず)が必要であり、出来たらそれは技術の到来が不可欠なのではなくとも、現世界でも可能な普遍的な方法であると望ましい。 が、現行の民主的手法と独裁的進み方の2選択性以外に例え超人的な解決(が出たとしても)には任せてはならず、自身の事は自身で決める。という自由が(個人の必要など人類総体進展の動力や細胞的役割の各部(ミーム)に過ぎないのだとしても)保たれていく事が必要であり、多様も継続しながらに分化させ過ぎぬ道や均衡取りを目指すべきではないのか?

こうした思想にもおける発見を伝達する為の対話は意味を為さないかもしれぬとも、では(議論も必要とせず)この考え方だけを置いておく思想や方向への種とのみなれば良いのかもしれない。


米国的なグローバル化(覇権への手法)世界への抵抗のテロリズム(ゲリラ的な手法)であるものも、トランプのように強権的な交渉力による力の理論という同じ土俵においてもスーパーフラット化してゆく現代社会の共通モチベーションに達してはありて、日本の政権運営もそうした大衆迎合(ポピュリズム)で力の押し付けの野蛮な退行で独裁や国粋主義的な物真似でしかないが、しかし力による強権的交渉や拡大(軍備も)による優位付けなどにもの実際的な効果が世界に出てしまっている以上、そのやり方への全くの否定が出来ぬ面もある。

外交手法の内容は粗末だが安定は持たらしたし、公共事業の質は問われるべきだが生活インフラの補修など、次世代へ生き残る為の土台は崩れなかった(環境は崩れたが)戦争や破局後の世界には、私に想う国家,未来のvisionの方向や過程取りなどよりも、これこそが良かったという必要性があったのかもしれない。

現在適合の国際的影響,外向(外交)力の為にも防衛,軍事や経済的なイニシアティブを採る事からも降りすぎずOptionを保つ事。や例えば自衛隊も現在情勢の中での自衛力として認められ、例え世界の軍拡や力の論理の増大へ寄与する一端となるとはしても(憲法の自衛規定にも違反しておらず)必要な可能性の担保(調停武力への移行や米軍安保からの独立などの為にも)でもあったのかもしれない。 ならば何が良いか分からないのに(そういう全影響と結果は分からない短期的視点としては明らかに自民党的政権の方法も方向もは嫌いだし間違っているとも思われてしまうが)何処かの立志点に行為や言動を立たせる事は良いのか? 如何に選択など出来るのか? しかしそれでも、彼等の生命非尊重的方向へ伸長させ過ぎぬ為にも(日本共産党にも方向は素晴らしいと賛同するが根本は信頼してはいけないと思っているようにも)反対へ引き戻していく事へ働きかけておく選択点を採るも良いとは思われる。

そして共産党が現在のようなリベラルさへ変容して来たのも、自民的勢力へ対抗する生存戦略であったようにも自民的勢力の反面教師のような意味もあり、悲しい経過だが米国的破壊と無駄と強制や侵害も次の世界移行への必要となっていくのかもしれぬにおいては判断をせず許しているとしても、それを肥大させる事へ力を貸さず反動力も使いて世界を引き留め変換させていくへ諦めず許さない事は大切だとも思うのだ。

ではこの生殺与奪権を握られてはいても、世界の貧困に比べたら物理的な生活的余裕の恩恵や表面的な発言の自由などもある、特級奴隷(又は高等隷民)のような待遇は与えられ扱っては貰えている日本人において世界の悲惨さとの比較としても、これだけ有るのだから満足しようという小さな幸福や与えられた物の中で咲くへ生くのだ等の価値観や公共,社会奉仕,勤労の中での自由への納得に押さえ込まれてしまうに個と心は殺されていっても気付かず、洗脳され飼いならされ抵抗の力も方法も取れない中で縛りつけ合う人々の中では生きられないし、如何に変容,移行させてはいけるともいうのか?

正しき生活スタイルは、そこへの隷属への洗脳や道徳的規範をも持たらすように知足などのような本質性に根差した美徳などによっても人々が自らを制限させる事へ使われるなら、では一体どんな価値を何の言葉にしてすらも吐き出せるというのか?


教える事は自体が統制(操作,強制,洗脳)性を持っているが、進展可能性への知的土台となる共通カリキュラムや(各自状況や能力のみに依存し任せられているだけでなく)共有の公平な情報機会などが与えられている事も大切だと思うのだが、皆が同じ事をし同じ格好で同じ話しを聞き、朝早くから同じ時間で不平もなく生活出来る事へ落とし込んでいかれる学校とはそれだけで既に洗脳装置の役割を担い果たしているとも見える。


7/21 (sun) ~ (前箇条書き段階への結合)

自律的な個人という価値観には、個人主義への肥大可能性もありたとしても(それは教育においても同じく)、肯定的な迎合性だけではない批判的視点をもつ個人という主体性が必要と思われ、では自主的発信者や創造的文化的活動者や自立的生活者と成れるか等は個人の性質にもよるものでもあるから、その各自においての生命を伸ばさせるへ任せる為にも最低限、洗脳されぬ事への保障の為にも教育や情報のシステムに触れず離れ関与もの最少へ抜ける受動,個的抵抗の方法は、積極としても有り得ると思える。

しかし潜在を汚染する怖れでもあり消費,快楽の為でもあるメディアや外界との繋がりにおいてバランスを保ちながら、完全な出家(や、その性質)者でなければ二元分別の現世との関わりに在るのだからに付き合いながら本質性に立ち会いていくことは、なかなかに難しい事だし外界の情報や関係の存在状態と自身の本質への在り方の両方ともが道として見い出されていく必要はあるだろう。

そして政治や社会問題への最低限関与を基本的なスタンスにするのなら、たまに来る意思表示方法の機会として与えられている選挙などに立ち会えば、それ以上を求めず又は余程の役割者以外は求め入り込んでもならず(それでは一部が世を決定し動かしていく事に同意しなければならぬようになるが)必要なしと抜けていなければならぬのか?


本来の立脚点は、多様自由と各自を育む為に(そしてその能力同士を生かすのだ等に繋がりても繋がらなくても良いと可能性は放り出してもいれる共通土台は)、非侵害と多様自身本来同士への交感。だけで良いのかもしれぬ。が、そこへ繋げ引き寄せる為にも伝達(どの手段はともかく)は必要だ。 そしてその(それは自身の子供等とさえも)違う方向性の質同士において如何に共有の普遍的真実へ至り取られていくか?への共有の持たれ方の事でもある現在までの私の生を通しての実験だ。


私は知性を行って来た。 しかし分別知識的に小賢しくなってしまった現在社会のほとんどの人々を見ては、それが知性的とは思えぬし、それが受け渡されてしまっていく大人や子等の現状に危機感を感じてもいる。

(ただし人だから論理的なこじつけなども起こるかもしれぬし民族的潜在からの傾向性がイメージ方向を規定してしまう事なども有るとは思うが、本質性を希求し本質の近い処から出て来ているtibet的な知性の超越的な中庸性というのは好きだ。)


では立憲民主党朝日新聞のように中庸で中道左派で開口範囲も広い寛容な良さの中にも(意図的な場合も含めて)本当の中の嘘が紛れ混んでいた場合、9割が本当だと思える内容や信頼性の故にも騙されたり引き寄せられたりしてしまう装置にもなっているのならば、その中で真実を見つけていける能力が相当にある場合以外には(そしてそれを望む事は絶望的に出来ない)そこにある良さ(という消費材、又は如何に正しくとも、そこへの自身の固定をどうしても生む)にも触れぬようにするしかないのか? 考える個人を生み出す方向だけでは、それは解決されないのだろう。


そうした政治や教育や情報の中で闘う役割者も必要であり、軍事などとも同じ現在への適合の採り方ではあるが、そこへの暫定的な妥協点に折り合っていく選択によりて少しでも進ませるのか? それともそこに飼いならされてしまうより、現日本共産党的な固持や(しかも一致点は多いが武力闘争による全体主義革命などへ変容するかもしれぬ可能性も残りているにおいて完全には信頼出来ぬ)又はもっと特異な可能性を宿したラディカルさ等へ振る事にもよる根本的で本格的な転換の為への反動力を用いるへ自身からの代理の力を託すか?等の中、ではしかし消去法の中から選ぶしかないのだから、やはり幅を持って(変質への危惧と立ち会いも持って)現状ごとへ対応していく事。と、その判断材料の為の情報(その時だけであっても触れる機会とはなる)へ入る事は現自身と現社会や制度の中では選びとられる選択提示点でもあるとは思われてはいる。 故にも理想と(B.iや軍事力などもの)中間過程もの幅の広さの中からの言動や主張の柔軟な選択を認めてもいるが、それではどの地点に自分は立脚するかを、その場ごとの対応以外を強く置く事も(そのスタンスだと示す事のみは出来ても)出来ない。 つまり周辺領域の多数の立ち観じ方は提示し置けても選択点を示す主体者とはなれない(で良いし、だから僕は政治家も指導者もは出来ないとも言えるが)という事でもある。


自分が入っていたら何を選択し行為したかという自己決定点を明確にした上で責任を持ち振り返って見つめる態度による客観。と書かれてもいたような事への同意可能な面もあり、選択行動を起こしただけでなく自身選択の結果がどうであったか?を時点ごとに観賞していく事は大切だが、しかし悪い時物にも良かったものがあり良い時物での批判点もある中での何処かのみへ全部を染まらないのが良いという事が見えて来るのだからにおいては、では否定面からの効用も含めた中庸や可能性はあるが決定は出来ぬへ離れ立つ事などを伝えてしまうと、そこに生まれるかもしれなかった新たな動きへの人間的な力を無化させているだけともなってしまうのではないか? ならば中庸の視点すらも発さぬ方が良いというのか、それとも自身選択の結果(短期視点)のみへの判断や反省と今後の生かし方への展望くらいしか発せられるべきものや態度はないとも言えるのか?


又、金や政治など社会の土台に乗る事での中庸性に意味がなく、全く別の地平や次元に立つのみへこそ抜けるへ向かうべきなのか? しかし例えそうでも、宇宙人的視点のように在りながらも、地求人類に生まれた私の知性や形において現在にも対応した今後への進み方の適合を考じるのは当然であり、その為の(悟りへ抜けていく為だけであると縛ってしまう事もなく)生存体化でもあるのではないのだろうか?


富裕層の資産運用方法を庶民化することで貧負へのゲームを拡大させ、より悪くない製品を造り出す事で更なる消費文明に寄与する。等ものように、良い事への方向を(標傍とした陰謀性等もへ)知らずに利用され少しでも進ませる進展を動機として違う方向へ力貸してしまう事もあるのだから、もう現代文明やシステムと同じ土俵や延長の中で対処療法のパッチを当てていくだけで変えようとすること(も大切だが)からは抜け、或る点で選択された真実と思われる方向においてすらも表出しない在り方であるべきでもあるというのか?

しかし起こってしまった事を見て当然そう成るべくして成ったものと想像され易いが、それまでの未来を見る事も(ある程度は出来ても完全に予測するは)難しく身体にも未病の予防はあるとしても起きて来た事に対処しては補うように進んでいくしかない面もあり、それも良いのだから起きて来る現実に対応していく為のパッチを当ててゆくにしかないこととも、超越の視点や存在へ向かい立たせながらも同時に在りて良いのだと思われる。


では創作の消費性を拡大させぬ為に行われなかった方が良かったのかもしれぬというのも自身への納得でしかないが、その結果は知らず他の創作への自身可能性を失わせた書く事の必要性という囚われであったのかもしれぬとも、この作業への従事も死んだよりは良かったのだし(疲れてはいても、今日も身を尽くさねばならぬのだが)真実の犠牲にはなるに尽くされてもいる。


相互の作用で進む世の動きのように、僕も(対抗する為にではないが)世の反面教師的な悲痛に与えられる苦しみからの反発力で進んでもいる。 そして大破壊の無差別殺人などもしないが世界を救うような働きかけも出来ない、こんな一井の人間としてのみに生きていられることが調度良い中間なのかもしれない。 もしくは大きな成功の代償としての犠牲的な喪失や耐えられない自身の弱さからの嘆きを得ない為に、未来の流れや自分からもセーブされている、これでこそ良く捨てられていく価値へ抜けていく為の過渡過程なのかもしれない事なども可能性としては有るかもしれないが、それらは全て推測であり自身納得の為の意味付け判断として、少し生き易くなる程度の為のものだ。 けれど自身は弱い自覚の為にも、人間は判断によりて何かにすがり生きていられる事も認めてはいよう。

幾らやっても無意味で結果や現実が付いて来ないという虚無,絶望感にはあるし、苦しい中での相互運動の歩みを世界も私もは抜けた幸福による成長の道を求めては祈りと存在を繋げ、この一歩一歩を歩いているのだ。

そしてこの結果が分かち合われる成果にも成らず又、私が理想主義に過ぎてしまったのだとしても、こうした真実への問いと立ち会いの姿には今後も、いつの時代にも現出するのであろう不条理や状況に対して、未来と現在にある適合の可能性へ対し自身によって考える姿を映し残す意味はあるのだろうと信じてはいる。


こちらの方が楽しいよ。というだけの生き方によりて叶えられてしまう人の存在や役割も否定はしないし、もしかしたらこんな僕の方法取りは人間の愚かさに適合しようとする愚かさと囚われに過ぎぬのかもしれぬとも、しかし只こちらの生き方が楽しいよ。というだけではない現在の人類に響く為の理論的主柱を持った上でこその、こちらの方が楽しく気持ち良い。という未来が現在の可能面へ繋がっている実践での姿が付いて来る関わりとなるならば良いと僕に目指されているものでもあるのだろう。


では例え社会に理念と賛同と機運と政治的指導者などが備わったのだとしても、そうした動きを覇権や利権的な現世界の仕組みの運営主体が許すか?においては全くではないが政治的決断によっては変えられない可能性が高い事もが分かっているのなら、何をすべきか?

そういう動きがありました。と歴史に残しておく事や、そこに関わった人間の意識や行動に働きかける意味はあっても、それもまた大きな力の仕組みの中に吸収されていってしまうような過大評価でもあり、結局何もは根本的には変わらず無理なのならば、その未来への行為の現在としての我々を如何に置くが良いというのか?であり、そこに出来るのは結局(幾ら無意味に思えても又、それは役に立たぬ意味付けの思い込みであったとしても)全ての事が意識へ働きかける事のみに繋がってはいるのだろう。

例え全てにおいて否定的視点を置いて折り合わず自身で発見するのだと無駄に足掻いていつだけなのだとしても中庸と超越に観るのだ等と自分のアイデンティティや差異の優位性を保とうとしているだけの空にもなれず人の為にもならぬ凝り固まった愚かな模索なのかもしれぬとも、それでもこう生きるにしか生きられない私に、その思想の提示可能なし指針,基盤の形化を目指すのだ。 意味はなくとも、意味は在る!


では人間にとっての戦争とは経済,外交,内政の政策(政ごと)手段でもあり、人々にとってはカタルシスの吹き出す機会(祭り)でもあるに希求されてしまう事もあるように、その際に思想は意味を(多少には持つが全体の結果を覆す程には)成さず、人間的残虐性の発揮されてしまう機会に至っては双方の納得において為された筈の協調や合意も破られ、対話,交渉の結果も意味を為さない事態すらもが起こる。 ならば、虐殺,略奪,侵害へ対する自衛は(それは勿論、自他の差異判断ではあるとしても)暴力装置を伴うとしても必要であり、それが例え軍拡をもたらすとしても、常設的な防備,威武による抑止は必要ではないか?


自衛でも(又は自衛が拡大解釈されても)そうではない積極的武力の肯定面においても、武装解除という生命尊重に基づく最低限のみなどへの甘い対応では、取り返しつかぬ程の暴力が拡大する可能性もあり、その場合には厳然たる暴力を手段として講じなければならぬ事への非情や選択も生命を守る為の(守るも必要も何もかもがないのだとしても)必要なのではないか? (尼港での対パルチザンへの武装解除要求や又、lone survivorのような対市民であっても。)


自己と他者という垣根性を失わせ生も死も越えた価値と充足の覚悟に至るならば良い又は至る事が目的ならば、完全なる暴力の排除もは出来るが同時に暴力自体や対応暴力などもの自在や選択性も残る。

平和的な妥協よりも自己性質(というカースト職能の事だけではなくて内包の人間性自体の事でもあるだろう)に与えられたものを為せ。という(可能性あるものは行え!も同じであるかもしれない)マハーバーラタの指令のように、そこには行う者も行われる者もなく全ては世界の主体者自体の流れが行われているだけでもあるならば、そこに置ける自身選択を迷うもは人間の姿として正しいが暴力も平和も手段として良い中で何をもって選ぶ基準となるというのか? 流され渡されて来た経過の上に全てを許し引いていく事も出来るはずなのに、何故この全同一の中で奪わない又は奪い合うという選択をするのか? ではやはり、その存在への状況が許すのならば判断なく関わらぬ傍観者へ抜け達している事の方が目標方向としても究極なのではないか? (しかし化身のクリシュナ自身が人へ行為を任せず武闘に加わったが、それは神の戯れる遊びとして捉えられるから良いというのか?)


しかし如何なる解釈が存在し得たとしても各自の受け取り方により現実は起こるのでもあり、それを思想で押さえておく事もは出来ない。(規定化させたとしても報酬でも罰則でも防げない。) ならば奪わないならば自己に受け取られた世界環のままにを生けば良いのだとしても、人は奪うことで自身を保ったり(自我の崩壊からも)守ったりさえもしようとする自身への不可避性や効用にも紡がれてしまうものなのだ。

ではそうした面でもの人間性という自体や相手の状態など(貧しさ故にや、魔がさしてしまっただけで良い奴かもしれぬ等のよう)にも、(如何なる理由にも又は如何なる理由に依らずとも)他者を思いやり認めてのみいれば奪われず、又は自分からは奪い返さずとも良充足のみに成るが良いという事か? そして、であれば自身をその我慢や抑制へ押し込んだ不健康さにも陥らない又は陥っても良いとのみ成れれば全てが良いとでもいうのか?

(7/22 (mon)~)

そして全ての解決の唯一なる方法と目標などが、この探求の果てに現れてはくれるのだろうか? その流通が起こる形へ落とし込めるのか? 言語と思考にもよる現実適合もを含めた進展は難しく遅く結果が出るのかも分からぬが、そこに生を歩まなければその実験の結果は出ない。 しかしもし発見と到達(自身で納得出来る処までの)が在り得たとしても、それを義務なく技術への依存でもなくに叶えられる分かち合いの形などは(有り得ないかもしれないものを追っているのかもしれないが)有り得るのだろうか?

技術が進み人間の意識が変わったのだとしても、融合的知性や流通的感覚によりて解釈や受け取り方も個人能力に制限されておらず共有可能となったのだとしても、では完全な情報の公開と透明化などが起こらなければ判断も偏るのは同じでもあり、そうした何かの因子に(向かうへ関係しながらも)頼らなくとも今後への現実的な進め方の面への関わり方として少しづつの変更,改訂や解決を見させていくにも近付く事は、結果として意味がなかったとしても大切な事とも思われるのだ。

では現在と(今後もの)人間的な情報の受け取り方への操作は肥大化される事も多く、(自身ではないが祖国の行った事について)今後世界の前進と進展可能性の為の祈りも込めて過去への反省も告げ日本は謝った方が良いし他国からの情報戦略なども、そこへ我々を振り返らせてくれる提起を得させてもらっているという効用面も認めるが、南京の嘘に対して通州も知るように等とも伝え、慰安婦に対してベトナムへの謝罪,賠償はしないの?と、自分達ばかりは正当化し他人を責めるだけではなく、振り返る事による進展や世界への共同へとも向ける為にへと発言するのは、反省しろ!と闘いを肥大させるのではなく(対抗と反発同士を生み出す為でもなくて)その結果が不和や新たな戦争へ進ませぬ為にも共通の想いの置き方として、(憎むのは互いではなく)背景の説明や今後への未来指向を伝える為にも、憎むのは(憎しみの動力化ではなく止めるべきなのは)戦争でしょう。という方向へと提案する事も出来るが、そしてそれは一方的な言い分ではなくて未来的関係への共有が可能な者だと思って貰う為にも繋がる手法であり、正しく知って貰う事による変革や価値を伝える為の一つの提案力の方向としても良いとは思うが、しかし大体のケースにおいては恣意的に切り取られ伝わらない現実が解決を阻み無駄な労力と破壊への転換も持たらす現在と人間であることも知っているならば如何に何を選択し私に告げ為すのか?に又も帰って来る。

それらは暴力的対応の不可避や効用または認められた手段としてもとも同じく、こちらが受け入れ柔軟さに対応すると相手は増長し強制力もを拡大させ奪い得るものは奪おうと侵略性も増させるという一般的日常とも同じく、ではこちらの不拡大方針に対する挑発や虐殺などへも断固として乗らず事変と戦線を拡大させぬ為には、それでもやり返さない方が良かったのだろうか?

戦争などしたくなくても国際情勢との絡みにもより否応なく巻き込まれたり引き返せなくなる事は多く、現在のホルムズ海峡への有志連合などのようにも主権なき外交へも依存した日本に可避選択肢は(ほぼ)無いとも言える中で如何に中立的仲裁性を保ち受け持ち危機回避などもさせるのか?等は未来の事ではなく現在の喫近における課題でもあるが駒としての選択肢しかない中で自主的決定と動きは出来ない事とも共通している部分だろう。 (しかしそこに対しては今のところ少しでも意義のある議員を送っておくことや出来るならば世論への関与以外には日本の進み方にも潜在と表面もの自然が均衡を取っているように、その時の最然が行われ(故に先の戦争も仕方がなかった)又は地震や噴火でオリンピックもリニアも戦争も占領も進まなくて済む突発的事柄も有り得るというようにも任せていくにしかない面もあるという了解が要るのだが。)

だが、この現在や今後への関わりとも同じように過去への事象や相互と連結への理解の伝達も断片的な手掛かりにしかならず、どうせ理解もされぬ上に、それらをいうと米英露,宗教会派やdeep stateの陰謀などへも言及せねばならず正しい歴史認識を。と言うだけでも敵ばかり作るような結果が(出す大きさによっても)返っては来るならば、そうした一つ一つの具体的事象への提起や表明には関わらない中での活動を取るという方法もあるが、しかしやはり、その操作された不和の可能性を瓦解させておかないと如何に経済的共有や文化的洗脳すらが民間での平和に効果をあげたとしても、その機会あれば突如として沸き上がる潜在的な危険性としても残り、理解による成長や相互の関係性へ向かう為へもの人間性や意識を育めないと将来の虐殺や無駄な破壊などもへの遺恨が続いてしまう事にもなりかねない。

つまり情報や伝達でも他手段でも(現在の一時,短期的な文化的交流などに寄与できたのだとしても)、意識の根本的な解決に向かわせられなければ、将来の戦争や破壊や搾取に力を貸しているのとも変わらないのだ。 故にも非言語的創造手段の表明で意識根本からに人類を進化存在へ至らせられたら良いが、そうでなければやはり(それが自分の役割かはともかく)言語的な流通と信じるもの(偏った真実ではなく中庸や観察なども)への伝達は必要ではないのか? もしくはその過程と手段によりて私は開花された非言語的な創造での意識関与の存在体と成れたのだ。という方法への思想や提起の姿と成れて自身が在れれば良いのみなのか?

また言語的に伝えられる中間とは例えば、その虐殺規模の0人と30万人の中間で15万という落とし処を取るというのではなく、どちらの意見や可能性も認めた上で真実的な証拠と考察における検証や自己内へもの観察へ深めゆく各自努力の方向への立ち会い方をしましょう。という統合地点への提案なので、それは明瞭な基準の事ではなく個人ごとの、どちらにも偏らずどちらも見るという情報処理と検索や観察能力にかかってしまってもいるのだが、只その能力は人間の一般的総体には(全く意味が無いわけではないが)絶望的な程にない。 それでも根気よく働きかけ続けるしかないのか、それとも他の根本的な転換へ関わる方法などが有るのか?

/23 ~

何がどう影響,作用するかも分からないのだからという意味でも嘘なく正直に行為した方が良いと言える面もあるが、そうした美徳を持って真摯に具直に行うという選択ではない方が良い場合もあり、それは短期倫理的に正しい事ではなく捉え方では暴力であるとも言えるとしても相手の弱り目を機会として利用し徹底的に又は交渉の優先権を拡大する為にも叩いておく事などもを恐れないのは戦略的な正奇,攻引,硬軟とも使い分ける柔軟なバランスの取り方でもあるし、(正義の為という大義の押し付けや自己へもの洗脳を注意深く避ける自身への責任は持ちながらも)、それ以上の破壊を拡大させぬ為の抑止や実効力の必用として選択をせねばならぬ時代の立場や役割,責任に立たされてしまったならば、いくら平和主義を基本としていても(それは僕の現実対応への囚われと恐れだけではなく)その者を自我を越えて行い暴力(や、その芽の可能性)へ対する暴力的措置を取る事を行使,決断せねばならぬのだろうか?

それともそれでも平和主義と愛によって認めては、奪われ傷つけられ殺されていくもを良しとして生く肯定者へと向かう道への理想を行い残すのみであるのだ。などと言えるのか?

ならば、やはりここにも(唯一の基準を示すのでもなく)両方を持った上でのバランスの受け取りゆき方の問題と、そこへ立ち会う各自という主体の在り方による関わり方が問われ求められているのだ。が、その現実的な指針を見い出していこうとするは、この現代の課題や選択に立ち会いて生きる私(と我々)の責務ではないだろうか。






憲法9条を改憲せず自主独立も求めながら防衛力を減らしていくというのも、そうした覚悟にありての決断でなければならず、平和主義という価値観に洗脳,汚染された国民性からの選択ではないとも言えないが、その世界を目指しての理念や外交力の使い方や努力であるは素晴らしいとしても、そして私にとって描かれる理想の世界像への構想や働きかけへの希望はあり得ていても、それが叶うか等は分からないのだから、その可能性へ向けてゆくは良くても成らなかった場合には、やはり平和主義が生命と未来を殺し破壊的文明化へさえも力を貸してしまったとしてもの結果にも責任を持ち(責任は誰も取れないが、それだけの事に向き合っての選択へ、各自が立ち合っていかなくてはならぬという責任)覚悟していなければならない。

しかし見い出しておく事は出来る提起へもの方向性と活かし方とにおいては、世界には暴力的手段の出動も必要かもしれぬが、(それは国権の発動かどうかにも関わらず)その手段による双方や世界への痛みを伴った方法以外の方法の中で行うことへ、手段を限定し遠ざけてくれている。とも捉えられ、その制限と主義の中で最大限に行った事の結果は何であっても受け入れるという覚悟や強さへ立脚する為の、未来の理想や(全文がではないが)目標地の設定から現れた現実化へ向けて動く為の手段として奇跡的に集積した世界の財産としての日本憲法への出現や或る到達点でもあるのかもしれない。という価値へ向かわせる為の活動や提起は出来得るのだろう。

しかし弱さも認めねば折れたり反動も出るのだし、現在の右傾化も僕の日々と同じく、攻撃されても何故こちらだけが受け入れ、返してさえもならぬのか? 現世界で軍事力は必要な発言力や抑止力でもあるという現実的な判断や(革命は弱者の唯一の関与手段であるとも言えたようにも)暴力的手段にも提起や対等への効用があるというプラグマティズムも有りての事だとは認め、それは弱さや怖れによるものではあるとはしても私は弱き者も知りた上での強さや統合の代弁者となるを求め、又その道(での観察や向き合い)を歩みた者こその資格や価値が有るとも言える。

ではしかし奪う力である暴力へ対する断固とした措置や対抗の暴力も、何処かの権力や管理,統制や強制力などの恣意的な運用へ化されない為にも一切を認めず、では人間の持つ怖れという回避運動や,防衛本能の効用をも捨て生も死なく自我もない存在化のみへ抜けていくのみが理念としてもに目指される正しき姿と方向であるのか?


7/24 (wed)

戦国時代と中央集権化の過程においても、当時の中で武力を放棄した理想国家の自存や実現など出来なかったはず(絶対にかは分からないが一般的状態として)と認めるとして、そこには平和的に生きるには文化的消費の貴族階級か奪われぬ限りは(貧窮ではあるが)自給出来る小作等の自身意思であるよりも生まれついた状況での他律的な運や環境を受ける事以外には、出家,僧侶として世に関わらぬ(という建て前だが)在り方しか無かった中で例え自律的に自身のみの変革や自足の平安実現へのみ向けて変えられぬ世の放棄に在れたのだとしても、世の人々にも共通の道や非武力内での生き方による全体の幸福化へ働きかけるような事は不可であったように、世へ関わる責任を実効的な力によりて持つ者の選択肢は(例え目標が天下の安定と善政の為であったとしても)武力しかなかったならば、それも当時状況での暴力の効用と使用法であったことも認められていなければならない。

勿論それは絶対普遍の事ではないし技術や情報環境の整わない当時にあっても小さな共同体ごとの理想的善政や自衛武力と外交力のみにもよる絶対的な自立を確保出来る進展的実験や実現への思想などが全く生まれ得るべくは有り得なかったとは言えないのだが、何故そうした思想が宗教的共同体以外に試されなかったのか?は不明だが、民衆にその素地があってもなくても又は結局成り立たなかったとしても、理想の生活共存体創りの思想的に構想されなかったのは不思議でもある。 西欧,アラブ,アフリカ,インド,北中南米各地の文明に、その萌芽の育った地域があるかに関わらず(マヤは帝国ではなく北米にも、そうした自主部族ごとの緩やかな連帯の形や文化はあったが侵略性を完全に排除できてはいないと思われる)現実主義的な中華文明辺りの知性等は(特に百家の時代は儒教一辺倒でもなかっただろうし)何故そこを思想的な残る形として構想しなかったか?と思いながら、封建制を基盤とはしているが自主独立と自衛の思想としての墨士が居た事を覚い出した。 それは儒教的君子と官僚機構をもった巨大な集権国家を方向とした秦以降の 中華圏において潰されてしまったが今後の為に再発見される事を待たれた未来の思想であったのかもしれない。 そして、もしかしたら老子の自衛的生存戦略の思想もは現実的な対応力へ生かす事よりも、あまりに精神論に過ぎて活用しにくかったのかもしれないが、それは思想的論拠づけを持たぬとも逃がれて勝手にそうした共存性へとも至ったゾミア圏に根付き継承されたのかもしれない。 それは逃げる(場所がある前提で成り立つが)思想であったのかもしれず、これからの地球文化圏で逃げる場所はない共同体である以上は全体の変革へ関与せねばならぬという部分についても、余程の周辺環境から独立出来た共生と強度の自立可能な高度技術化が伴えば、逃げて保つ在り方も可能であるのかもしれない。

その思想か否かに関わらず選ばれた生き方であるを、では芸術という表明に置こうとした方向や運動は日本にもあったが、しかし例えば素晴らしい観察の結果や、感性と才気と粋の手本として等へ重積されて来た経過たちへもの尊敬や近付ける目標としてへの道のりを知っておく程度の為のものであるが型や教えなどもの真実の積層もは儀礼化された偽満的でもある茶道のように、(宗教も同じく、全く悪いのではなく残し磨いてくれて来て居た事による良さがある故にもだが)人間文化の中にあると本質性以外のものへ変質されていってしまう。

では尊敬できる素晴らしき思想,論拠でありてもを残さず広めず又は未来の為に(過程としては悲劇でも、結果としては墨家のように)秘蔵(テルマ)や潜伏させておき人間社会化することは諦めておく事や又は悪用されたり変質されるかもしれぬ結果にも恐れず認め人間に諦めながらも行い残してはのみいるも良いのならば茶道の儀礼性や儒教の礼楽などもを認めた上で折り合いては次の段階へ進化させるような提起の形へも持たせていく否定なき創作の形へ向かう自身であるを身に付けていくも良いのだろう。 それは折り合うかも関係がなく突き抜けておりながらに(しかし墨守専守防衛の思想の為に儒家を否定すれば攻撃され 潰されるようにも)なるべく浅薄化されぬように真髄は一つのみの真実ではなく自身での観察へ深く立ち会う事だとは伝え置きながらも、実行の主体者たちと時の経過に任せ去っては生く事でもあるだろう。


世界に起き来る課題や情報の多さに全対応する事は出来ないように、(陰謀論や政治やテレビ的な世間情報の入り方等も)その時々に現じる状況への選択と集中と、それだけでもなく浅くとも広く見詰め手掛けておく事の同時であるようにも、私における全方位的な状態の中での選択と集中は自然にも宿され起こりてはおり、多分この祈りよりも欧米での日々と活動であったり平安と愛のみの精神存在化よりも苦しみや疲れ方の中での立ち会いでの観察と整理を余裕なく追われ書くしかない自分を辿る必要であったり等もは必然的な流れの内に生起してはゆき、そうした刻々と変化し如何なる状況もが同じではない中での対応を持たれていく時の進展,展開の 連結性のみが私たちを起こしてもあるのだろう。 (そのようにしてこの断片ごとを繋ぐミッシングリンクは結び付いてもいっているを目の当たりにする。)

では唯一の基準点から動かないのではなくて(ポピュリズムは好きではないし公約に全賛同出来るわけでもないが、どうせ質や人間の内容よりも人気投票的な旧態依然な選挙などにおいても新たな風を吹かし参入させる戦略的な判別としても山本太郎を国政での力を持たせたり、一番共通点の多い共産党を応援はしながらもマルクス主義全体主義や武力革命や中露への擦り寄りを警戒し内部的抵抗はしながらも或る程度に協力していくというように)未来から眺め超越的視点へ向かう自身性や究極的な理想地などもを保ちながらも現時点へ対応していく在り方において、その時点ごとの自身と世界の選択に立ち会いゆくのみが在る。