junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

31 4/2 (tue) 哀しみと発露

31 4/2 (tue) 哀しみと発露

公園の桜葉はすっかりと散りかけ緑を息吹き始め川原の柳は日比に濃くなる。 今日の陽は黄色がかった哀しさで山の青もに景色はパステルを強める。 昨日の風に舞いていた堤防の桜は今日は微かに降り来たり、あの道にさざめく花の河波を行き会える日は亦あるかと感じ巡る。 花よりも緑萌、桜への依存を絶ちた私だが、それでもこの優しく彩り風に散り開く五葉に、やはり美しいものだと感じてはいる。

このような春の相の無常は、しかし私に関係なく過ぎ去る虚無の無情にも流れゆき、また今日の哀しみが、静寂と平穏へ抜けていくへの私を宿す。 愛と平安を見い出す為の旅が哀しみによりて為される、それは私の一体となった喜びの歩み方でもある。

では伝えても無駄になる、照査だけが積み重なる。 話したいけど少しのみにしようと押さえ込みて最低限を努力するが無駄になる。 そして俺もこんなに我慢してんだ! 少しは聞け!と爆発するのは僕の弱さでもあるが、それにより更に今後への双方の怖れが高まる悪循環であるから、話を聞こうとする理解への自身の気持ちや方法を書き伝える。 或る程度まとめ最少必要化されていると思われるが多分それを読んでも伝わってはおらず分からないのであろう。

例えば今日母へと書いた、話したくないみたいだし今まで伝えた事もいつも全て無意味にされるようなので、少なくしようとかウルサイもう黙ってくれというの等もは、どうせちゃんと話す事も出来ないからケンカにならない為にも、我慢と諦めと無理して押さえようとしているのですよね。 話しが出来ないのも、押さえなくてはならず怖れでストレスかかるのも、話しを聞かず話しの出来ないあなたのせいを人のせいにしないで下さい。

お母さん話を聞いて。だけでではなく(勿論それもありますが)これは話の出来ず押しつけられるという否定や、それによって可能性も奪われる人間との関係や対話なき破壊の共有出来ぬ愚かさへの立ち会いの問題だということも少しは分かって下さい。 馬鹿(人間)がどんどん嫌いになって困っています。 と伝えたのも、聞き理解しようとしない存在態度の事ではなくて思考能力の事として捉えられたり僕の側の正当化と一方的押し付けと否定であると思われたりもするのだろう。が、これは僕の諦めの(無理と囚われでもあるが)上での悪循環から抜ける為の表明努力と提案の試行ではあり、それ以上のやり方は分からないのだ。
では人との関わりにおいて認め、なぁなぁに折り合って影響も変化への望みも不都合への判断をも持たない自己のみへ生きるべきなのか?

何を伝える必要への囚われを離れて、しかし伝え怖れなくあらゆる表明の形をも取り得る。のでもなく、伝えず関わらず放り出して分別への判断もなく殺され奪われる世界と自身のままを守ることもなく眺め流して行わぬことへ離れるのか? (ちなみに平和主義とは、そこまでの覚悟と闘いだ。)

しかし潜在的な真の優等性は全てを認めた上で、こちらではないのか?を静かに、時に荒ぶりてもの自然のように示すものであり、それではない。という分別も怖れなく有りて良い。と思われている(仏陀も戒律や正しさという基準化と制裁判断と行使を用いたように。)

しかし人を判別した自身視点からの差別は自らへも返って来るものか? 助けて貰えないのは出来るだけ以上のことをしようとしなかったからか?

場所だけでなくやはり人からの想いや波動も受けてしまうにだろう私が、呪わぬから呪わないでくれと(もし無意識や実験のつもりでも調子ついてるやつは一回苦しみの味を知って来い等と呪いかけてしまったのならば、それによりて生まれた差し引きは反動で上手く行くようにとまで祈らぬが帳消しにしてくれというようにも)意識でのキャンセルを当てたとしても、しかし苦しみが私の変革と放棄への現状を催し向かわせるならその必要を任せる以外に判断し操作することは出来ないのでもあろうか。

32 感情と伝え方


生命も含めた全ては情報。(またdesigtalであるとも言える)であるが、

情報は必然に依りて顕れる個の資質に受け取られるしかない。

その言葉の集約(天秤とバランス)の適合点や伝え方とは?


33 人為と流れの関係と選択

苦しみによってこの生存の形と活動へ従事し、お陰でこの仕事をする事で給料まで貰えるようになったと捉える事は出来るが、ではこの生きているだけで良いという事や虚無感というにおいて、何もせぬとも良い自身の言い訳としてしまっているのではないか?という分別の力も当ててみる。が、いやこの日々に出来る事との適合は生きていると思われる故にもこんな自身の進め方における日々を試し行い置かれていくしかないのだろう。

例え私の必然的な流れの自由や自然に動かされて生るとslowすぎて人間世界と合わずaocial化も出来ないにありても、それは僕の自然が良くないのではなく自然と人為が相反し人為,人工的な操作指向がその間を埋めるを拒否しているからだと言い換えてしまう事も出来るように、私が愛の存在変革を求め歩みながらも私が愛となれないからだけが、関係や流れの調整点を上手く取れない事の原因や改善点ではないと言う事も出来るとは思われる。 それは他者のせいにする事への肯定になりすぎてはいけぬとしても、全てが自身のせいであるという言説への抵抗でもある。

もっと早く来れば良かった。や何時までかを一言聞いておけば良かった。などの失敗と改善点もはあるが、大抵それは人為的な規制や判断,操作性への折り合い部であり、その愚かさへも対応可能な自身を持たせる事も少しは出来ても、余りそれ以上に引き寄せされなければならぬこともなく自身ままにを生きての流れに合っていく会い方の方向であるへ納得しておく事も、全てを出来るように(障害者が健常者に)ならなくれも生きていける世界への提案としてもに良いのではないかと思われてはいる。 その方法では上手く折り合えず対抗的な手段や提案だと思われてしまうかもしれぬが、その存在にそれしか出来ぬなら、そんな自分も認めてしまうしかないではないか。

そして人為が好きではない(好悪判断を何処まで置くか越えるか?はあるとしても、判断押し付けの理解なき破壊方向性を否定しても良いとは現在には思い又は行ってしまってもいる。)自分に、(人間の理解と寄り添いにおいて積極否定はせぬし他者の状態や気付きの段階などへも気付きては緩し眺め思うやる事もは出来たとしても)それ以上の駆け引きや対話,外交のテクニックは必要でもなく、合わぬ事も仕方ないではないか。と独りへと(それが例え日本などでは特に alone が lonely なるへ弾かれ打たれながらに抱えなくてはならぬとも)突き抜けるしかないのだろう。

関係できぬにありて創作へ生かせなくとも世界の価値への実現に関われず無駄になろうとも、又は打ち切る強さが張れぬ妥協となりたとしても結果への判断に拠りてはひねくれず、共同の仲間にも依存せず独り在る事の強さを身に付ける自身化へもの旅を逝くのだ。 その上での関係と吐き出しを試せ。

自身の判断が正しいか?の発露を怖れず、相互により見い出されるへ 自身を示してはしかし引く事もを怖れず。の中間を取るような民主的な選択,行為の在り方もを置いて、流動的に変わりゆく状況に提案,対処する。

可能性への欲をかきすぎずとも、しかしこのbandの後ではなく今やれないのか? 今が僕の流れの調整点なんだ。と押して見ることも、その今後への交渉への意思提示や関係への関わりでもあるように、作為に有り過ぎずとはしても私の意見に宿る可能性の提示ではあるのだ。

では押し付ける力と表明を何処まで用いるか? 友達でありても能力不足の者や、相手は忠君の効のような提言のつもりでありても対抗的な関係の不調和を感じたり相乗を生まないと思った時に又はスパイや騙そうとしているが良い奴で人情,義理にもありて、その決定打のない状態で如何に切るのか? 自身のままに在りて付いて来ない物は放置し離れ独立している事では為されない事が多い世の中で例え自身はそれも良いと選ぶとしても 、それが世への皆の在り方として良いと言えるか?等は分からない。

つまりはこれらも、全てが良く不利益判断もなく自由と多様の中での選択点の問題だ。

歩々清風起のように常寂と平安を起こし、嵐もに揺らす、存在は自然のままの震えでありて自然の流れに宿された、私は自然の流れの顕れだ。

流れの中の関係にも現れて来る不確定のフラ(揺らぎ)やノイズ的な干渉を自身からの振動性にも取り入れる。


34 自身を判断なきままに

優しく打ち切れないならばその自身を生き、破壊へ破壊を返す爆発と提案も私ならば怖れずに逝け。 可能性や相乗を模索し理解や共生を追い、愚かさを赦し認めながらにも不利益に奪われ現実化の結果の為されぬ判断に惑うなら

自身のままの自然を受けて生きる生存と世界へ開く闘いの矛盾もなき同時に、捨てる事と自身幻しの欲求感覚visionでもの望みのままに

怒りや破壊や暴力は自然の内包だけではなく、虐げられた者や弱者の抵抗,意見,最後の手段でもある。

対話できず力同士でやるを選ばなくてはならぬ時や者もある。

自身であった事が破壊や怒りで在るならば、又は他者関係からにも破滅を呼ぼうとも為さねばならぬなら為すにしかない運命を認めた、私という歯車ごとを生くにしかない。

何が望みでも、与えられた領分を生きる。という花を咲くしかない。

aの失敗へ対しbが力をつけようと機を狙い交渉するのも、aを陥れたのがbの策略であり過程が良くないといっても言っても、その結果も経過(という結果)への過程に対してへもの、どちらがどれ程に責任があり良悪であるか等もの判断が出来ぬ。

しかし最少方向は私に感じられていても、人間というものが求める性質や判断ごとの押し付け相互の連関で動いていく全体進展方法を採る故にも、それは一般社会総体の共通理解とはならない

他者との関係によりて見い出される方法の取り方や価値もあるが、対立同士の弁証法ではなくて自身内面での問いと昇華の上に関わり会えたら良いのだが当分そうはなれない。

全体の中間を取るのではなく、鎖国と開国のような行ったり来たり、にバランスを採るのか?
(外化出来ぬ自身内の弁証法)


では人間の改変?
感覚や記憶や感情が流通出来るようになったとしても、

35 脳,伝達

この一歩一歩への選択を感じながらに歩む。 それは流れの選択と適合への観察に捉えられ過ぎているのかもしれぬとも、そこに見られる日々と自分の様相を感じて歩む私の性質と才能だ。 その観入(tuning)に、日々生命との交感の私は生きている。


悟り(差の取られた心自身の状況と、日本古来の音としては理解,定義した変綿無常に心捉えられぬ状態の事。)や神感知の歓び体感性とは、しかしこの物理条件下においても脳の部野的な反応でもあるそれは(Mindfulなども)真に幸せであったとしても、生体的な設定(の生存戦略の一つ等)であり真実ではないのかもしれぬ。

大悟幾度(18度)小悟数しれず。と言われたようにも、気付きの過程は

感情とは気分や脳内物質の分泌加減ではあるが感覚とは概念上のものであり、つまり抽象や形而的な伝達がなければ各個の記憶や経験の内容は共有されず、その記憶と伝達の不足,分断によりて素晴らしき生の実感の者たちが生の継承を疎外して来たとも言える。 その不完全さの故に(全てを捨て、残さぬ事も一つではあるが)渡そうとすることで培われて来た人間の今までと進化過程の現在がある。


愚かさ程広げようとし又その響く層も厚く声も大きく力も使うし、引いていく者は子孫を残す数や率も少ない人類の継承は

浅薄化 切り取られ利用される

その実感的な発見者たちの意味や表現は、しかし知識性ばかりの慣用句的使用に転化されて(核心し迫ろうと思う。や、冷たい人間。等のようにも)継承も理解も深さへの到達もされない浅き利用にしかならなかった。

その者を伝うには未だvisualではなく、書くしかない又は感覚や記憶,経験の流通方法が

頭の中を労力や関係や資源コスト少なくとも表出出来るアイディアや断片の流通。

空気や環境の、肌感覚的な感受や本能的な嗅覚など五感(又それ以上の)を使って感じる世界との立ち会い

36 交換,因果

他者が私の代わりにやってくれているのだとしても、そして失う効用と大切さがあるのだとしても(犠牲~いけにえ~にもよりて得る代わりの交換性や捨てることで進む事)しかし同じ比率のバーターでは捉えられない。

自動生起の連関性
因果応報は普通の事であり、カルマ的な判断のような意味付けではない。

37 科学性のメモ

未来は現在から見ると常に流動であるが既に存在しているかもしれぬ可能性においては不変である。

現在などは流れゆく時の流れの知覚においてしか存在しない。

よく言われるタイムスリップのパラドクスで過去に戻り先祖を殺したら自分はどうなるか、書き換わった別の未来が生まれるのか?等は僕が思うには、先祖の故に私は生まれ過去を変えた。という同系列上の宇宙と歴史があるだけだと思う。 しかしその変更前と変更後の間にある積み重ねられた現実はどうなるか?がこの問題であるのだが、それをパラレル化ではなく同一次元内での重ね合わされた状態とも言えるのかもしれない?


ブラックホールの向こうには別の宇宙の発生や吐出口があるかもしれぬとはしても、ホワイトホールなどは証拠は一切観測されていない全くの想像でしかない。 絶対に有り得ないとは言わないし全ての可能性は有り得るといえども、だからといって(パラレルワールドや真空崩壊などと同じく)可能性があるものは存在するというのは想像,物語としての可能性考察に過ぎない。

光速で離れる物同士は一つの慣性系における移動速度(空間 振動 伝播率)は限度があると仮定されていても、空間自体の膨張率などは光速を越えている(そこにも空間の縮み等で説明されている故に、かもしれぬ。という仮定だが)ように、仮定として当てはめられ実験と数式で破錠がないと確かめられた事が真実であるとは限らず、(天動説も当時の整合的理論性を持っていたように。)物理学が相対性理論へ転換されたように、次の転換は待たれているようにも思われる。


未来の技術へ希待し、そこから見た現在を知りゆきながらも この現在に既に有る物を組み合わせる事で世界になかった新しいものを生み出していくという少しづつのinovationはありても良い。

太古からの人々には知恵がもっと身近にあったのだとしたら、しかしその中での聖の役割者(シャマン,預言者,遊行出家者etc)等はその中でも特別に潜在,対称性世界の真実への求救性にも更に触れた者であったのか? もしくは皆がそうである中からの任を受けただけなのか?においてはやはり特性に応じた専門,分化性は当時から有りたのだと思われる。

しかし全員がトランス的な越境意識へのアクセス可能な感性を持つbaliのような共同体(内での汎用性)

感性情報 飛翔 快楽有機
報酬系の活性状態(トランス)
人工,化学 依存
ガムランもマッシュルーム 精霊,自然との交感 しかし副作用もある。

脳内麻薬と高次,精霊
自立神経,ホルモンバランス


僕の映像には自分でも期せずして既に、過去や未来など繋がっている不連続な断片同士が重なり合った四次元的な(時間を合わせた四次元ではなく空間の展開図としての現次元理解を三次元としての)視覚性(その次次元段階に視覚的な認知,交流,行為性を持っているとしたら、立体的な流動性の細部と極大部の同時またはアクセス可能性であり色の見え方なども含めてもっと変わるだろうが、)を宿し持っているとも思われる。

その高次元での視覚性(では捉えていないかもだが、現次元での私たちは視覚などを主にして事象を捉える故に)や知覚を如何に感知されていくのか?の問いと観察と、その創造過程や結果からもの相互的な視点感得の発展をゆきてもいると思われる。