junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

13 4/16 (tue)~

13 4/16 (tue)~

もう死ぬのだ。 これでこの世界を見る事も出来ないのだ。と思えば、今日という日の美しさと世界の奇跡にも私はふと感じ入り立ち会ってもいられる。 されどその幸福と悲苦の両面同時にもありて現況は平坦なる同居に淡々と在れるだけでなく、やはりどうしようにも苦しいのだ。

あまりにもその虚無が深く濃くなってしまった私の、それは世界の同一自身である事からの幸悲共感であるとはしても、しかし捨てる事もままにならない。 どうにもならない世界に立ちても我が我(ガ)の自身が夢を追ってしまうのだ。

子供たちは世への希望だが、全ての希望は打ち砕かれてもしまった。 全ての道程は、辿り着いた時点での判断による絶望か幸福かにしか変わらないようにも世界は過程であるが、その結果から見取られるしかない。 故に結果と判断から抜けゆく達成への道はあるが、自身一人の為に在る世界の肯定と愛への変化は何も呼び起こさないに疲れてもしまっている。 そしてdiksha的な祈りは勿論に引いていく事とも同じだが、やはり自身のみへ減らしていくのではない現実化欲望の肯定にもあるではないか。そこに現実利益を否定はしていないが空からの現色に戻り来た存在の在り方に対する、これは問いの一つでもあるのだ。

ほぼ内的能力と運命的な適合(運)しか持たず、努力などを捨て在るがままを逝きながらに、しかしそこに存在を放つという旅での努力という可変的な行為への挑戦もは(外的要因という世界に対応していくという難易度の上にも)したが、それも自己への経験として以外の実現化という世界へ関わり活かす夢には何もの結果には繋がらなかった(と現状には見える)中での何をしても無駄になる無力感が僕を自暴自棄的な感覚での日常にも流す。

未だ上手くいっている他者などを呪うこともなく歯止めや想いへのキャンセルは当ててはいるが、もう普通の人々のような感性への退化もが起こってはいる。 それら吹き出す感覚へも蓋をして押し込めず認め、そこでの共悲に彼らが地獄も知りながらに、しかし愛へ変化させる闘いには疲れた自身の現状が居る。 このまま私は深く逝くことすらからも諦め離れてゆくのだろうか? そのようなまどろみに戻る事は浅き楽観へ(至れないし)至れたとしても、それもまた哀しみである。

そして呪わぬが、けれど代わりに世界や私の幸福を望むという変換へ交換条件づけをしてもみるが、私の予知的な能力や引き寄せは(多少に周りへの影響は及ぼしたとしても)自身の身近にこそ叶わなかったと思われるように、その内いづれもう信じて任すことも出来なくなるような気もしてしまうが、世界と人類への呪いと破壊へ爆発するかもしれぬよりは少しづつにそれを味わう、これも良いのかもしれない。

愛への変換へ心押し込めた努力は又その反動を生むかもしれぬようにも(押し込めた故の爆発も良かったのだと納得,肯定しながらも)現在の私の在り様と姿は、これで(経過として。の判断でもなく)良い。のかもしれず、幸福などを求める欲求の方向や共生的世界の創造への相乗的な存在と関係などをも手放しているべきなのかもしれない。が、それでも私は浅き楽観,肯定ではない真の幸せであることを他者へもへ求めながらも、しかしそれは苦しまなくて良い自由と幸福の上に在り与えられ歩む事で、そこへ至り成してくれたらという祈りへ(馬鹿は嫌いだと言ってしまっても、せめて畜生や疲れたとは言わない(くそっやくたびれた、へ転化する。 F-words は Flush等)へ抜けていこうという程のこと等のようにも身口意を気付いて少しづつにも)の存在を変化させゆく。

答えへ近付く為にもへの書き整理であったが、そのやり方の変化に伴って繋げるに深めなくともこの、私と日常の出会いを置いてゆく記録の上に緩く繋がるだけで良いものへ変化してゆくのかもしれず、書きまとめ残し置いておくという囚われと労力からは抜けられなくとも良い自然~じねん~の進展へ任すがままに生きるが良いのだ。


春の日の萌え出づる若芽たちの息吹きは日々に変化し緑野を麗し、梅と杏と桜が同時に咲き誇る今日という日の中に歩む幸せを噛みて歩くと、次第に変化する景や風との、時と空間ともの出会いに変わりゆく一歩一歩と過ぎ去りに観る世界の相(である私もをに)を立ち会うに逝き、これからの五月に緑々と日々の色を変化させていくであろう例年通りという育みの奇跡と連続にもある朝日山の向こうに、雪被る聖山の頂きを挑む園である。ここが私に与えられた場所であったのだとはしても、この生存に生き延びるだけの歓びと安定に住す事も出来る日常の小さな幸せの中に感じ吐き出し生くに祈りをも捨てた存在のままに歩いて
、しかし小さくまとまることから外れている私の適合が為されぬ世界への皮肉に、ひねくれてしまいそうにもなるが、それでもその閉鎖と普通という安定の幸せへを与えられた約束の地として生くが何の方向にもなく"在る"私もへの必要なのか?

定められてしまった川の道と流れはその運行自身によりて曲がり、しかし白濁の翡翠色を空の色にも反射し豊かさの象徴のようにもを観る者の見方に世界という流動の相と質を宿し無言にも象りては流れる。

それは私を引き寄せさせる幸せな交感への瞬間へ向かいての日々や陽刻ともの出合いであり、護岸工事に整備されてしまった多様境界面にあったマージナルな生命環境とそこからの連関へ振り向くことすらもない人為による破壊へ想いながらも、それでもこの世界は美しい。 流れは変わり水流の渦は離れてもしまったが、寄せては返すさざ波の光との煌めきに反射し流れる、悟りのようなリフレクション。 この流動の経過に立ち会われる私と世界という瞬間との現在一点だけが、ここにさざめいて在る。 そして去るのだ。 今日という私の居場所に会いながら、この適合は必要に為されるように絡み合っていくを感じ動かされて、この感覚を書き遺しては歩いて、只生きるだけの私であるを為し成されているを歩み充つのだ。

自給自足もサバイバルも私は生存を高める方向へ進めるとも思っていたが自身の成長なすという方向からも、もう抜け退いていかねばならず、こんなにも何にも出来ぬ自身を持って、弱く引いていく在り方の実生を(しかし全てを捨てることなども出来ぬ自身の弱さや物欲や現実化欲求等が為にも放り投げては死ねず、生きなければならぬ卑怯さとその効用もを知りながら)果たされては居る。

しかし自身の合った適合性と活用の果たされない無駄や苦痛を積み重ね、改善される方向すらも持たない人為現況の世界への関わりと望みは持ちいるが、もう何も世間や人並みには出来ない。という犠牲には既になっているのだから独り自身か家族と暮らし守れるか世界への活動の為にそれらをも捨てるか?の天秤へも存在と想いを取られず、それが我が求めであってもに望みても良いではないか。

真実の幸福という自身や世界への方向と、その実現への道を求めて生きて来た。 例え結果に意味がなくとも、その生の意義(私にとっては)には生きている。 これは哀しみであり能力でもある。

そして自身のままの肯定や自由と他者との共生や調和。 それとは言い換えれば自身と社会の調整点の問題であるとも言える。


14 非情と生存

大して困ってなどいなくても、困ったな。 どうしたらいいんだ。 もうどうしようもない。 誰か助けて、等と感じ心が発してもしまうように、その身口意に調整を当て悲観へのカウンターとして口癖化させた大丈夫。と呟きても、大丈夫...何が?と思ってしまうは何も結果には得られず良くなりてもvisionに依って挑戦しても資源や他者からも奪いて、更にこの世への絶望を吐き出してしまうにしか生きていない私に破壊だけしか生みていないのなら死ぬこともなく生き延びてはこの生存を逝くのだとしても


苦しみによらず幸せによりて真にも深められゆく道や、自身に在るによりて成功する形を世への可能性に灯すが我とも成り得たかったが、肯定への道歩むには苦しみが経られねばならず、その道歩むでの挫折や失敗にも宇宙は関与せず非情と慈悲の故にも悲苦を与えられながらに全肯定という愛へ輩出される道を歩むしかないのかもしれぬら、私の意味も役割もを判断せずに只その生存を"生きる"という肯定生命への変革へと生き、付属されるものに何が為されるか等は捨て放り投げた自由の自身へと向かうのだ。


深めゆくにはこれしかない。生涯をかけて尽くしている。 これが私の闘いの逝く先だ。 例え何が果たせず創作的な感性を生かせず世へ出せず、この生でしかなくとも良いではないか。 僕はそこへ全てを捨てていく為に与えられた才能価値であったのかもしれず創作的価値などへの新たな依存を世界へとも吐き出し創出してしまうかもしれぬに供与せず又、真に大切なものを生み出しているか?においては世の皆が無産者でもあるのだからに、浪費されても この生命を運ぶ自然との適合に生きてやるのだという覚悟にも生きてゆくしかないのだ。

私へと化された世界の、生存だけがある。 何の意味などがなくとも観じ逝き書き遺したいのならそれを生き、私は深く交感しゆく能力への恩恵と共に、生存する。という闘いを生く。 世界という創造の自身であるを生かされていく存在と愛への仕事だ。

15 愛と言葉

愛となる以外の選択肢はない。

渇きを潤す為に行う事が更なる渇望や病みへの循環へも繋がるならば、それを止めるか変換するかしかない。


奪い来る世の理不尽や暴力に打たれても、(そこでの愛となる肯定への闘いに生存し、それが正しいかすらが分からなくとも)それは、自身が徳を積む機会であるに感謝しゆくという慈悲による対応に在る事を自身化へ目指し在る。

他者へは深さを伝え在る事よりも、その相手の段階などに対応して居れるかなどだけであるも良い。
しかしこれが最後の言葉や機会かもしれぬと思いて、気負わずとも生き会いていく。


手で書きたいし目も悪くしそうだが突然に始まったこの書きまとめ方は、書きながら組み立てるノート上での整理か、箇条書きされていくまとまりを再配置へ編集していくか。(や何処まで時系列化するか?等も)でもある、これはまた別のパズルの組み方の試みであるが、例えファクター別(真の幸せや真実,意思や方向,選択,愛,暴力,技術,潜在,子供,知性,言葉,etc...)にありても結局それも繋がってしまうに任せるしかないが、この現在の動きを試す。 しかし現段階では問いや書き写す事が優先で、結論へまとまったものとなっていかない。

言葉のhook同士が枝(ブランチ)状に連関,展開していく(生命や進化への流れともの相似形)が、そのセンテンス(文章)化された(しかも時系列が同時には宿らない断片同士の)思考の流れをマインドマップ的に示す事は現況には難しく、試してもみたが私には出来ない。 そしてやはり時系列に囚われぬとも(立体マンダラnet的な配置が将来には出来ようとも)、けれど時系列を全く無視するにでもなく、この箇条的な連結の仕様を試し見ながらに、しかし繋がりによってしか見い出せないものが置かれているようにも私には感じる私のままにもを、このようにでも行うしかない。

全体を流れ化へ整理づけするではなくて、緩い繋がりでの再配置のおいての結び付けに(未来と過去の現在への発見と適合が)見い出されていけば良い?



その選択が間違っていても、自身に問いて見い出された真実や選択を生くが成功なのだと生きみていくにしかないのだろうという納得と、それによる設定においても自身がままを生く事に必然は為され付いて来るのだというを引き寄せてしまう。は、結果をも離れ自然に任せてしまうという自身のままを感じ為され在るにおいて(現実化的幸福を取り外した現状全ての幸福でありても)現実面での必要は為され自身へ起こるもの全てを任せるという肯定方向への理解であるにおいても、利己的操作の引き寄せからも外れてはいるとも言えるのかもしれない。

それを、起こるべきが私たち各自にも宿され起こる。 その連関の世界の相を感じては起こされた行為にも生くという人為自然をも認めたinsharrah(やマクトゥーヴ)のような積極的な諦観と信託の信仰とも在ると言えるのだろう。


16 言葉

別の視点を 取り入れた視野から見る。という価値観を創り提供する。

登山のように、ここまで来たから満足と思っても登ると更に高みから見渡せるように

多様と統合集積地である中間(mid way,中道)などという環球への運動を、芸術というcode化によりてもに埋め込む。

言葉の力,間,意識を持って存在し発するへとも繋げる。

その者自身のideaであったかのように、そっと方向への感覚をさし差し込んでおく位のsajestion。

聖なるからといってchattへ向かい頼るのでもなく。

私の言語化の過剰と言葉化の出来なさや最少。

歌詞においても伝えようとしてはしまってもいる。 しかし伝える為にではなく人も自分もが、それで救われる言葉や音楽。


否定などからも退き関係や対話性においても、visionへ対して等のようにキャンセルをかける。

決断ではなく忖度へ匂わせ責任を全体や役柄名に浅く転嫁し どうせ誰も自律的な責任を取らない事などもは、しかしそれぞれの傾向性における可能性の発見などを少しづつに伝え置き合う事で その総意性を相関の中で変化させ結論へとも向かい見い出していこうとする試みと方法自体は集積の仕方の一つとして或る意味には有用でもあり、これ自体が悪い事でもないのかもしれない。

結論の出ない又は履行されない無用な会議

誰かの意見の発信の場として他が利用されてるだけでも

挿し込む程度




星空を眺めていると星々の間の関連性や天空の動きや運行への繋がりや法則を見い出したいという想いになって来るように幾何学的な感性や数字からの科学的思考もは生まれて来易い。 そして、その天空から何か大いなる(宇宙など自体を含めてだが何かもっとその背後からの)ものが見ていてくれるという気がしてくるのだ。 そして古来からの人々はそれを神とも名付け呼んだ。

中東では見上げたその星空へのtuningであったが我々にとっての神~spirit~性は湿度ある星空よりも風や火や水や森土の生活に身近な囲まれ包まれた森羅万象に宿り見た。

太古からの表現の背後にある実感からの意味合いの違いのように

文学的表現などもは、実感の言葉からのもであれば。


1から話し合うのでもなくて、そこに巡る考え方や立場を紹介した上で考察を深めるへ運ばせるようにもの基本を用意しておいて(ルールや設定なども、又ここは道場ですというような場所性などにもよる意識への設定づけ~tuning~においてもやdonationの基本料金プラスアルファ等のようにも)その上での自由というのはどうだろうか?



在るとしたらの古代文明の知恵や技術は別の原理を使用していたと思われるようにも、ではそれは手作り性と未来の技術の融合地であるとも言えるのか?

次元というトポロジー的な概念における0次元とは全てを含んだ無限の特異点~tikre~。

物理条件が違っても、こうした物理的次元があるならば1つのものを1と数え、もう一つあれば2となる以外の必然性などが僕には今のところ想像できない。

17 Art

Artist として仙人や聖者を目指すではではなくて、捨てて生命を完成に近づけた仙人性からの、どうしてもならば開かれる art 可能性であれば良い。

歌は個人的なもの、そして消えそうな程に緩くささやくようなものとなった。 風や虫や波が、(共にというのでもなく)歌への伴奏ともなった。

理解や理由をも求めず私を運ぶ自然を受ける。

気合いや気持ちを入れた集中へ向き合うにでもなくその緊張と緩和を利用はしながらにも、しかし空になりては通す。

ではその流れの出し方との合わせ方は、自信や自身状態などにより引き寄せられるかだけでなく
気持ち良く遊び出て来るものを出すだけ

Weedなどがsimpleな答えでもあるのかもしれない。
(ではそこに頼るのか? 人為への 対抗(差し引き)手段という納得)

流れと人為の噛み合いがずれた場合にflowは出ない。

Flowへのきっかけ(hook)を歌詞(やmelody)に組み込む。 しかしテクニック上としてのflow partなどではなく全てがFlowである詩のように自由律であるが良い。

再現性ではない一回性ごとの音楽や在り方を置くが良い。

決められたものを再現しても面白くない。 毎回違うからその一つしか無いのではない奇跡的な絡み合い
完全性に近付ける遊びの在り方。

その時点でに言われたい組み合わせを言葉化し、その基盤は言葉でないものを現している事である。

Artistであるよりも、その基盤と真の優位性は聖者であること。 何かを生み出しても残らないが、Taoのみが残照のように巡るへとも残る。

創造すればその消費と又、創造という消費も生み出してしまう。 私の創造が例え依存であってもなくても世への結果と意味,影響はそうであろう。


結局は何処までいっても(絵画などものvisual装置でありても、描き手にも鑑賞側にも脳内に残った)記憶の中で再生されているイメージに過ぎぬようにも、そこには抽象だけがあるのだ。

タイトルや名前づけは、傾向を示すもの。 しかしそこへのみ引き寄せられることもなく多角(覚)性への兆しを持たらす為のものでもある。

どのように良く僕を売り出してくれるのか?
Teamやbandの人との出会いや選別。