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It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

89 6/24 (mon)

89 6/24 (mon)

そしてでは高次元化が目標ではなく、その過程を必要ともせず、この3次元的生存の中でこそ悟るへ向かう意味と最高化があるのかもしれない。

光と闇へ分化し超越していった先文明たちの新しい実験や宇宙の時代意義としての、ダークとライトの統合の形への成長が私たちに試され行われているのかもしれぬようにも私は向かい、ではその結び付く中庸と統合の指針は時代ごとの中間性へ至るのか普遍を持たせられるのか。 又そこを示し関与するのか抜けた傍観的存在の寂静へ越えるのか等もの何処を採りてゆくのか。

光や肯定と闇や破壊の中間は、ぼやけた灰色ではなくposiとnegaの包括である超越の光や肯定であると思っていたが相互を生み出し続けるどちらの極端をも滅す事や愛により闇の必然の破壊へ能力を持たせる事は、囚われでなければ(又は囚われでありても必然を尽くされるだけにおいて)良いというのか?

子供の為に生き延び世界の為に尽くされ、けれど自身のままのみに聴かず合わす必要もないという在り方などの両方が真実であるにおいてものように、自己へ感じゆくによる全てへのバランスへの観入は常に立ち会われていく為への方向と必要があるのではないか。ともやはり思われるが、それは例えそれが自身真実だけではない統合共通の真実であったとしても自身の子供すらに、その性質能力以上に語り伝え分かち合う事もが出来ない。 しかしそれでも、又は如何なる選択に基準も真実もが無かったとしても私はその本質へ深め辿る事を求めては掘り出すに生きる顕れではあるを避けては生きられぬのだ。


超越でありながらも現実との適合の在り方への私であるように、精神と技術の織り合った文明や自由と調和の共生点を目指す。

統合とはプラマイゼロの事ではなく階層を一つは越えた全体包括とその中庸,およその中間点範囲の事でもあると言えるだろうが、それは無の自象と現色自己の一体という面では零地点という事も出来るのかもしれない。

そうした、どちらかだけではない無意識と自己の統合が目指される必要ではあるが、そのexactlyな地点の定義と行き道,方法を見つけ示される事へ求め向かっているのが私ではあるのだ。

自由と共生の統合や、又その急進と保守の反動,対立や分化未来の選択ではなくとも進める共通到達点への行き方としての緩やかな進展という方向を(それが結果に叶い行われていくかは分からねど)僕は求む。


突き抜けて行われようとする者は、この人間の社会では打たれるか利用されるかであり又は折れたり曲げて合わせるか戦いへ労力を割かれるかが大半なので、そこにも意味はあるが愚か又は超越していられる程に強くない大抵の人間とは弱さにあるもの。 故にも囚われず直接に告げる者たちの活動はトランスやチャネルや陰謀暴露などでの真かもしれぬ一端づつには垣間見えるが証査出来ないものでの役割にしかならない事も多く、感覚性により響き文化の背景的な潜在性を紡ぐへと苦しくとも創り出すという仕事の形はArtistとしての役目に課されてしまっている事も多いのかもしれない。


パラレルワールドがあったとしても、僕に(他からの協力がなかったならば、又それのあったとしても)これ以上の自分が有り得たとも思えないのだからに、(あったのだとしても前後での調整は起こったろうし、この役割ある以上は深める為の機会がこの性質にも合わせて行われただろう。)これが変革されるか続く中での生となるのかは分からぬとしても今の処までの私には、やはり必然が為されていたと思われてもいるのだ。 そして大きな段階での苦しみに惑う行き道より、この範囲で済ませられたのは周りにも自身にも良かった。

(結果判断から離れられていない愚かな私をもっと磨いていかなくてはならないが、しかしこの状況がずっと続き何も叶わない中で認め捨てる練習ばかりに生きる結果は僕にはもう嫌だし辛すぎるとも思ってはしまう現状ではあるが。)


現実世界においても(重ね合わせの可能性のような観測問題などがありたとしても)それぞれ個人が並列(環)世界であり交わらないのは同じである中で、それは私にとっても誰もが人間の道としても難しい事だが、ひたすらに愛の自身へ化すだけが自身に唯一必要で出来る事でもある。 しかしそうでありながら、行き過ぎた片寄りへの補正や歯止め,転換の為にも指摘,批判,悲観性を用い又、その他者への影響を与えてしまうもは或る必要であるとも言えるのに、それも抜けなければならないか?

全てが教師であるという謙虚さをもちて(だからといって只疑い知らず流されるではないというような意味では空のようには受け入れられないが)教祖となろうとする者でもなく、しかし上位概念から説き語ろうとしてしまう性格的形質もあるが支配の為でなくばそれも良く、しかし それで良いのみからも抜けていかなければならないだろうか?

信頼と愛によっての反応や言動ではない怖れによる置き方ではあるとしても、それ以上の具体的行動が許されていない最低限で伝えるには(存在の祈り以外の現実提起,行為として)これしかない状況であることも自身には認めている。 その愛と祈りの存在によって結果はバランスもとれているのだと信じ思ってもいるが、その納得が只ひたすらの愛への自己のみが変革と進化を進む事を阻んでしまっているものの一つでもありうるだろうか。


起こる全ては互いに連関し転換され合ってもいる事を知れば、そこに良いも悪いもなく放り出しておけるが、それが自身等の行為選択や関わりを越えた必然からに為されおり何も自身に為されなければならぬ事もないのだというには、その自身を越えて行われる必然が証明されていなければならない。(そうでなければ自身には信じられぬし、信じるだけではなく共通基盤となりうる真実点に明確化は必要と思いている私はそれを希求する。)

全てが必然であるなど証明されぬとも肯定の充実のみへ心持たせて抜け離れた充足へ至りゆけるは一つの真実と方法だとも思うが、その無関与,無(最少)選択の自身であることは無駄を生まないとはしても、それのみなる自身の存在と心こそが世界を良い方向へ変革しゆく(その必要が本当にあるのか?は検討必要だが)証査とは(そう感じられ思えたとしても)至ってはいない。

これが分離的思考の(回り道でも無駄ではない)効用と必要であるとも捉えられ、こうした経緯を経てこそ遠回りだが(そして真実など真には手に入らぬ自己満足であるのかもしれぬとしても)真実が得られるへ近付ける(感じたというだけではない)科学的な思考として私は自己進歩の基盤と信頼を置いている。 こうしては、(こんな自己への納得や自覚,認識と説明への言葉化も多い私だが)少しづつでも進むのだ。


感覚と欲望の狭間での人為性の試しや本質への情報,判別可能性を収集,研鑽を求める等によっては自分から流れをずらせてしまったりする事もはあるが勿論にそれだけではなく外す事で流れへの適合を生み出す事もあるし、ずらせてしまう事もの両方がある中で何を自身に感じ選び取っていくのかの現在や時空,状況との立ち会いに出会い行きた事の結果であるには間違ってもおらず納得されるものでもあるが、では世界とのタイミングのずれ等もは、やはり必然のように与えられ調整されているとも感じられる根拠は経験的観測による結び付けを都合良く変換させただけではないとしても、そう感じたという以上の適合実感の以上に証明,説明もは出来ていないことも確かだ。

出来るからといって受け取らず流れずらす事が無駄なく流れに合うに繋がっている事も多いなら、そしてそれは選ばなかった事による補整ではなく初めからの最善であったのかもしれぬなら、どのように選択を行うのか?が基準にはならなくとしても生の方向としては必要な観察ではあるのではないか? 感じ味わわぬとも全てが流れとの適合に為されているのなら、生命との交換感に観じ生きる事もに実は意味がないとも言えるという事なのか?

科学的証明や知性的気付き等を通さぬとも破壊的経過を通る一見の無駄や労力にも、その結果が上手く結び着いてしまうのだとしたら(それらも定型(最大多数)化は出来ぬ個人や種族的な性質に左右するものだとしても)そんなものは私にとっての必要であるという以外には方向として働きかける必要すらもないというのか?

流れとの適合など何も考えず感じぬ人の方が楽に自由に、そのままの流れを受け取って行われていく事も出来易いが、それでもその流れとの適合(全てが適合なのに)への自身と現在を感じ観渡し、何が本質かへ観定めていこうとする事は、この 与えられた生命と知性の味わいとして私(その役目に在る者)だけではなく共通の生き遊び方でもあると思われるのだ。

選択への観入や本質,統合へのバランス等へ交感するという方向や、その生きたいがままの自身を生きゆく事もが実は間違っているというのか?


自分に似ているから好きだと判断したり人を操作,排除などしようとしているのでもなくて、しかし私は統合普遍の本質は共通のものとして共有に響く事もが出来ると信じ求め(過ぎなのかもしれぬ囚われでもあるが)てもいる、それ自体は間違っているとも思わない。 だがそれは折り合えぬ者との関係を苦に感じ共有へ響き合いたいという感情や判断への言動を自身へ選び取らせてもしまうが、では共有出来ぬ者(人為世界自体)との共有や適合を置こうと等とも思わずに自身への不利益でありても離れ伝えるへ言葉重ね関係しようとする事も、出来ることは与えようとする事もなく超越と自存へ(哀しく自身の夢や性質や目的でなくとも)のみ抜けていかねばならぬ非情の自身化に生きるが唯一の道と定めであるとさえもいうのか? もしそれが唯一の悟りなる平安への輩出システムであるとしたらば、私はそれを望んでもおらず、私への感性の基盤は共有可能な相乗の創造や共生の関係世界を生み起こす助力となることなのだ。 それが真に正しいか?は見い出しながら問い自身への歩みを歩くとしても、それが私の基盤と原動力にもある望みと夢でもあるのだ。

希望とは絶望に繋がる欲望である意味では持たぬが良いが、その未来への自身を行うvisionや希求に宿り行われ動かされるしかないのなら、それが私の生きていられる力ともなってくれ、それによりて私は生きていられてもいるのだ。

ではもし世界や人類の共生的進歩への道が名も無くとも行われ得る力となれるなら、創造の力と仕事へ生かされる望み等もは役割への囚われや勿体ないという判別などもの欲求でしかなく例えそれによりて生きていられている実感や納得の動力でありても、それを捨て諦めていく事のみが正しい方向と(状況にはよるが)与えられる歩み方でもあるのか?


僕は世界のリフレクターのように反射する彼の者等の置換装置でもあるが、そのような響き方では打つ力へ打ち返してしまう自分もがその力行使の責任(と不利益)を負わされてもしまう。 ならば鐘の如くに、打たれても愛と平安の祈りへの音にて響き時空と世界へ渡る、人為の浄化装置の対自然物のように行う力への覚悟や強さへと己自身を変換させよ。 という愛への基盤に自己を置いての変革へは常にも居りている。


修道的サンガやNative cultureとは親和性も高く遥かに生きやすいが、そこにも人間関係は出て来るのだし又は真似だけでなく(もっとそこへ入りゆくとも同時に、しかし只そこへ抜けていくだけでなく)やはり里や社会への生かし方へ向けても生きたいのが私のままの現在までの方向ではあり、そして全ての生命や知性とは別環球ごとの世界の視点と創造だが、その共通のcodeを映しゆくような私の在り方の存在や創造性の持ち叶え方を探しては磨いてもいるのだ。

そして、何処へ行っても僕にやれることは同じく、こうして自身に向き合い観察と整理を統合と達成へ歩ませる(僧侶への修行や仕事に時間とられるのでもなく)聖への日常(そこに限定されず他の生活の中での行い方もあるだろうが、優先としてはそれであり第二優先は創作である事も分かっているのだから、自分の時間や創作道具なども持てない状況に置く必要はないと思う面について)を行われ生き延びてゆければ良いのだと思うのだ。 全てを捨て何処かへ行ってしまうのでもなく子供たちへ出来る事をしたり等もして、どうしてもの必要が現じられてしまうのでなければ、与えられた此処(現住所ではなく、この日常必要の置かれ方)が僕の観察と探求に深めゆく主戦場(主目的)としてもの最高が行われているのではないだろうか。(環境を変える事や現実化して欲しい状態などはあるが。)