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7 愛の上で~

7 愛の上で

そして愛とならなくとも、愛となりた上でもの両方における現実世界への対応点とは、否定や指摘や怒りにもよる提案も(例えそれで自身もがとらわれ苦しみエネルギーを使い犠牲になるとしても)思いやり観ることのない人為世界への一つの可能性である。

怒りても通じず労力と反発の無駄ばかりが苦しく分かり合えなかったが、ソフトに言った所で流されてしまい通じないのは同じだ。 一応自身の対応点として最低限は、しかも柔らかく伝えられたという納得点が持ち得れるし破壊は生まれぬが真の共有や創造的な相乗の関係は生まれない。 そしてもしそれで良いというならば最低限を優しく置く必要もなく、では沈黙と愛の存在化となるだけという祈りのような状態に他の全ては任せておくだけであり、それとは更に、愛となり世界の愛への変換の力となる。でもなく、世界のそのままを任せ放り出す愛となる。という事でもあるのか?

でもそれもはやはり、苦しみを与えられ続ける中での全肯定と愛の充足を目指し続けなければならぬ完成の為の試練や苦行でもあり、浅い楽観,肯定であることも深く世界の相や苦しみへの共感に在ることにおいてもの何処もが苦しみである中で、本当に少数の達成者を生み出す可能性の為にへの到達出来る生命方向と、その意味への為に化される世界の進行もがあるのか。

私という知性など大したものではなく出家修行者のように悟りへの高速道路に乗っているわけでもないが、そこでの制限からも抜けて現世界の人々にも通じゆく歩き生き方の道を創り興したいのだという現在世界的な真実と人為のこれからの適合点への為に置かれている対応者ではあり、そうした当然を考察している者が他に知る範囲で居ないという意味でもの存在と問いの意義は自負してもいる。そして超越的な知性者が例えその先へ突き抜けてしまった知恵を説く事になり(又は私が外部化されぬ故にも)私の意味が世界へと果たされず意味が無くなろうとも、そこへの過程を考察し示すのだという私はこの私の性質化された役割を生きている、このままにを費やされて生くしかないではないか。 いかに哀しくとも渡せなくとも、これが私の生命をかけた(存在の闘いと創作の)仕事なのだから。

この世の苦界に生き在りて、全てを捨てていながらも、この苦しみまどろむ生命たちへの共感と救いへの慈悲において生きる。 しかしその救いとは只、苦をなくした状態ではなく悲とは共感であり又、自己選択と多様を排するものであってはならないとするならば、やはり現状世界のそのままがこの精神生命の成熟へものひたすらに必要経過を果たしおり関わる自身もどの経過の一端ではあるがそれでも、何を変えるへ関わるもが良くないのかもしれぬ。

では怒りや苦しみを押し込めるのではなく認め、(1)愛となる又は(2)愛の必要さえもなく、殺し奪い来る者への対応もは(3)殺されるも良いに任せる(4)殺し返す。等の選択肢とグラフの上で、(外円)世界性へと関わる(内円)大きな敵となども戦わず身に降りかかる火の粉のみへは対応する。


8 情報,知性

世の情報量の増加もしかしそのほとんどは真に大切なものを成してはいない。 そして現在性へ流れ来る(情報)処理だけの既に一機械性(デジタル社会化)となってしまって来てもいる人間において(今までもそうではあるが違うのは)自身で考え観じることさえもなくなって来てしまってもいる。

現実的表面性への情報は金の為などのお陰でもblogなどで手にすることも出来るが本質的情報はnetにもその生命質においても無く知性(幅広く使ってしまう単語だが、ここでは本質知性であるよりも誰もが自身による知覚性の用い方としても)へと示す方向はそこではないと思うが、皆人は自分を示し分かち分かっても貰いたいのだろう。 そしてその想いや自己承認私欲求などは、私の中にも在るものではあるのだ。

囚われぬにおいても又その提起においてもの、死ぬこともは成功の一つにもなり得る未来の種子でもあり得るが、しかし有名になる為でも歴史に残る為でもなく少しでもこの人間世界へ意識を高めゆく為の仕事という成功の形やrevolutionを、生命と自然のペースで任せslowに為される自分のままに生きるということでもの霊性や本質への開花の姿を世へ灯し伝えることを求めてはいたが、それさえもを私は抜ける。

では関わりへの行為性とはたぶん、自分で他の分の事までをやろうとするでもなくて、自分の領分においての最低限を直したり置いておく位で後は勝手にそれを見た次の人がどうしようと思うか。からの連結や未来へ任せておく位で良いのではないかとも思われ、ではVisionという感覚性の欲望(そのどちらが正しいか等も分からず区別つかぬとも)を動力としては流されていく一人一人の運動に世界の自然と言う連関が生まれ置かれている。 その中での何処を選びとるのか?へのみの交感と自身こそが在るを生くのみなのだ。

人間の生み出す問題も進化などという設定の先への往き方もの全ては唯、意識一つの問題でもある。 変革とはそれのこと。


その場に宿るエネルギーとの交換に自身は自身を此処に為し相対する対象がその役割を為しているという真相性への感応による感謝と祝福同士を吐き出し与える事で与え返されもする相乗を持たらすように聖地や巡礼などもの意味もはあるが、基本的には自身が愛となるかの意識一つとその存在こそのみであるとも言えるにおいても、全ての瞬間が聖地でありてそれを宿す自身こそが歩き育み浄化媒体のように愛を放つ聖地ともなるカムミタマやソーアハムや南無アミターヴとも呼べる存在化への帰命へ生きてしまうことでもあり、ではその私の状態とは愚かさや欲望も自己自身の現在役割であると(運命的必然がなくとも、その存在同士を行うにしかない連結における連関的な必然性はある。)いう肯定性の質であることか?


知性とは知識の事ではない事は、大学教育を受けた人の増えた現在に見ても知識的な分断や対立ばかりで人間的問題が全く無くなっていないという意味においてもの既に証明されている。 それはいづれ他者同士の記憶や知識が自由に流通,内化される時代となったとしても同じことだ。


比較や相対的判断などを抜けゆき、しかし相対性から見ると色々な事が分かるものだ。 けれど例え比較して自分の良い所や悪い所の分かったとしても、流されていくにしかないのなら、そんな自覚認識的な分割(分かち方)や反省などの、又それら正当化せず多様へ目を向け全体からの統合へもの価値などを他者へ伝えたりする必要はあるのか?


自我も罪業をもを燃やす思想~タパス~へラジャス(激性)をも使ってラジャスを抜け浄性という目標設定へ向かうという方法論を私は採らない、それら(怠性も)は一体性によりて同時に育まれるものであり到達の暁には浄性もが抜けられていくからだ。 が、例え払うべき塵などない世のままを観るが悟りと入鄽垂手でありとても、そこまでは浄性を目指し又その到達地は晴れやかに清み渡るものであることは脳の反応ではありても幸福の存在化として疑われてもいない。しかしそれはつまり、目指し高め続ける方向への方法ではなく、ダウンシフトやタオイストのように逃げていく思想。でもある(私にも在る)のだ。

現実世界の全てをそのままに良しとして、行われるままの奇跡の連関を観ている歓びの状態。 それが真実かも知らず求めず(脳の感応状態の常在化でしかなくとしても)放り出された自由で在りて、しかしその(想起や性質,方向などへもの自動機械として操られてもいる)自身へ宿り来たものによる多様自由や無限可能性の中での何処を選び在りゆくというのか?という、(私個人へのでありながら全体にも通じる基準や統合性と生き方に対する)問いである。

自然や生命のようにも芸術や文化もの凄いものは最初から完成されているというようにも、そこからの試みや発展の上に複雑や多様の実験が又も一つの到達と最初の完成度である天才的な飛躍,跳躍点を輩出する閾値を越える繰り返しでもあり来たように私も今までになかった新しき人類の可能性の提案では既にもある。 それが活かされなかった事で私は私の存在化を向かえ調子に乗らず更に深めゆけたが、世界へ求められているものが放たれることもなく降り積もるだけにしかなかった。 塵にも価値があるが私は人へ開けぬ故にもか為されずが繰り返され、あまりにも悲痛が内在化され自信をも砕かれてもしまった。 これは私の変革の為でもあるが、発見せず打つことへ使いた人為の世のたちからの責任でもあるならば、その部分の責任は人間自身が取られなければならず可能性を受け取らなかったのは、それによりて滅びることを推進されるが必要と求められており又はどちらにしても無駄になるなら、私ひとりだけが価値あるものの無意味化の哀しさを広げず抱え行く為にあったのかもしれぬのではないか。


9 和と個

聖徳太子の云うた和のように、そこには一方視点からではない為の対話により双方の納得を取り付けていくような全体意志決定過程への重視でもあり、(例えば私はナウシカの現自然と生命に任せて逝くか操作,管理,支配された浄性の世界へ殺されていくか?へ関わる力や立場の与えられたとしても、その折り合いを取る(つまり対話的な双方努力)提案をし破壊の力を用いず、通じ会えなければ諦め引いていく在り方を選んでしまうであろうとも思われる。が、(もしくはその選択権との与えられた状態者であれば力の行使を怖れずに使用すべきであるのか?))しかし私は、仏陀の言ったようにその対話をも離れては例えそれが真実でありたとしても如何なる義務性を世界へ吐き出すこともなく送り出されたものはその現段階性によりて陳腐,浅薄化され、目指すべき姿であろうとも義務,強制ともされる可能性を宿すのでもあろうから、器の違うものに同じ内容を移しこもうとする事は操作欲求であるかの以前に、弊害でしかないのかもしれない。

(令和等と言うのも、自由と自立の上に成る真の調和を方向としているのに誰かに令(order)され又は一律化されるような(捉え方の一つではあるが、その意味の強い語句として)協調的な和など最も嫌いな現状性の一つでもあるのにそれを無批判に喜び、天皇(自身以外の権威性を主として崇めるは愚かであるし、外交的な意義や国家の安寧を祈る最高神官であると言うなら出雲のように宮内庁ではなく神社庁の一儀官として暮らして頂ければ良いではないか。国家神道という管理や統率も、そうした日本人の傾向もは好きではないし、実際そうなると法王のような宗教権威となるであろうので反対でもあるが。)や元号などの非効率的で(全てを効率化すれば良いという意味ではなく合理性への揺らぎ等を取り入れねばならぬが、ここで言われているのは一つの支配体系への従属のことでもあり又、時系列の非効率性のことでもある故に西暦も不完全だが暫定的には最も使用しやすい。)この漢字という意味性を持つものに対して、上の誰かが決めた事に従い何の批判的な視点もなく踊らされる一般的な日本人と言うものへの度し難さを、ここにも感じてしまう。)

情報を正しく知覚し深めゆくならば中道でありても或る程度にリベラルな感性を催すとも思われるようにも、揺らぎもを取り入れた真の合理(効率,機能)性は生命的とも言える共生性にも通ずだろうが、その自然進展に任せておけない人類の人為拡大へ否定的な提言を置くこともは私の中のcontrol欲求と囚われか。

個であることへ自立して眺め立ち会う事は現実界への適応には必要と思われる価値であり逃げと依存を自立と思っている愚かさなどを違批し嫌いてもいるが、その想いが対立や認められぬ故の苛めや苦行状態を催してもいるのなら、しかしその判別自己を止める以上に方向を示す関わり性もが必要なくすべきではないとも言えるのか?

発見された真実性への義務,強要,規制,制限,管理。


10 法や集合システム

苦による進展と到達者の輩出可能性は認めているが
人類の存続,保存という保守性を求めてはいない。

自分の事しかがない人間同士たちの中で人情的な美談さ等をあまり持たない私のdryさ等もは、しかし人々に真の幸せを叶え在りたい根底との矛盾ではない。 全てを突き抜け捨てゆく高みへと向かいありても、共感共苦の内蔵は私と世界が一体であり又も哀しき同等の愚かさでもあるを知るからだ。 そこに救いを求めては自身在り関わりもする方向性にありての行い方とは

法律等を使って関わりゆく増やす思想の方向か、なるべく簡素化(シンプルに)させていく減らす方向か(自身存在としての方向だけでなく人間社会との関わり進め方としてもの)。

全体の総和と落とし所への集積,中間システム。

区別と差別は違うとも言えるが区別は差別に至り易く又はその上に成るとも言える、その明確な境界などはないようにも交渉は必要だが、たやすく政治的な操作や駆け引きの力学に成り得る。

全ての多様を包括し多様のない状態。
情報処理としての生命交感。


過去記録や情報経過の事実基盤を共通させた、又はそこでの流動し続ける現状全体の潜在的な統計の動きを可視化もされたAIを使ってもの集計システム(結局その過程はblack boxでありそれが何の恣意性もを反映させていないかは後追いも基準による判断なども出来ないのだが)に依りて、その中間空間を現決定性として取られていくという選択の行われ方。

潜在性の質的point制による判断。と、そこに生まれる優先区別。

ではこの自身においてもは、全体の中での一視点のパートごと((1)(2)などの対立)への対応を提案や否定に当てて行くのでもなく、その円の統合的な真ん中性(3)(幅はある)を見い出し示し在ること。
(しかし肯定性だけでは...)