junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

49 4/29 (Mon)~

49 4/29 (Mon)

良いも悪いも淡々と私独りの中に観つめては流し去る。 人世と虚無に想ふ哀しみと、青すらも宿し緑々と萌を茂る春が来たとも踊る心に踊らずに、私は歩き座り呼吸す私を灯している。 眺める、時の豊かな事よ。 静かに立ち会う生命の実りよ。
(静かに眺め、立ち会う景と時との交わりの豊かなことよ。 それは生命の実り。)

時に若く時に老齢な心の変転の両方が、その生命に感じる恩恵と現在達成であるを、独り静かに知ったのだ。 知ることも去り、知ることへも生きる。 思い描いても思い患わず、未来への憂いもなく過去は現一点に結ばれている。 ほどけた後にも残る郷愁のように、自身いつかの死に様を思いてにも我が故郷は揺れている。 世界は今日も美しい。と感じられる、此処に今日も私は生きられている。 過ごし去ったものも得るものもを捨てた、惑いと不惑の合流(あいま)にて。 生命には非情にも過ぎる、この日々の体感だけがある。


私は自然だ。 そして私と流通し理解するのも自然だ。(真に理解し会えるということではなく、近い存在であるような共感を持りていること。) 故に何を求めて何が出来ずとも、自然へと任す。という悲痛なる覚悟だ。

< 5/1 ~ >

僕は埋められない程に、なんて孤独だ。 まとめるを(そしてどこからの理解と統合への深め方を)諦めても、この作業だけが、僕を癒してもはいる。

繰り返された人間の哀しみへの救いに宇宙は、その者を生きること以外に応えない。 生きているだけで苦しい。が、それでこそ私はこの道を歩めた。

何か特定の事物へ対して思い出すのでなくとも(それも有るとも言えるが)、生きているだけの哀しさに涙出て来る。


パートナーや絆への愛着へ依存しているのではなくて、それとの囚われを通してからの課題に向き合わせてくれている。 その関係における哀しみは、僕の必要から産み出されて手放せずにもいるもの。 でも僕だって、誰かから、承認されたいさ。

厭世的な人間になってしまったが、享楽,共生的な環境実現した社会では、そうはなれなかっただろう。 社交ではなく離れての生活スタイルへの望みや提案方向の私や、そこでの真理を求めての歩み方を与えてもらえたのかもしれない。

人間の愚かさが嫌いな自分を、どう処理し対応させるかは未だ未解決の課題として私の試みに与えられてもいるが、肯定しては孤独に苦しくひねくれていく事も私の歩みの肯定ではないのか?

理があっても硬直は良いものを生まないように言う事を聞けば調子に乗る猫の脅迫に自身が付き合わされるが嫌だからといって一切を打ち切る在り方が良いとは言えないが、ではしかしそれ以上に如何に対応の良策が有るというのか?

受け入れると肥大する。 愛へ向かい在ることは出来ても愛と理解の関係へ転化す事は出来ない。

母の行う嫌なところと祖母のものは同じであり母は祖母の否定と攻撃を止めなかったのに、それを止めて欲しいからの気付きの為に同じではないかと指摘する事を(しかも拡大した力で行われ不利益や損害を被る関係であるのに)何故、僕だけが止めなくてはならぬのか?

人はほとんどに、その先天的な性質も変えないし情報などは自分の傾向を補足する為に取り入れられ、話しは通じ合わないものだ。

祈りも自由も義務化や同調への圧力だ。


50 4/30 (tue)

雨は良い。 晴れて追われるでもなくて、こんな人間でも生きて居て良いように思えさせてもくれるように優しい。

天気の話し位しか必要もなく調度良かった日本人の心持ちも理解は出来る。 話す必要などそれ程に重要でなく、通じ合えぬ対話より自己決定同士の絡み合いと闘いと均衡点の折り合い,集束もは有ったのだろうから。

個人であることと共存的な調和を図る事は同等の必要ではあり、それは到達地から示された義務の履行ではなく各自度合いを認め合うという平等性の上から、それぞれの特質,役割を傾向性にも囚われずに自身のままを行う事で分かち合うという意識のみで(技術の到来を待たぬとも)現在にも為し得れる共生と減らした上での、しかし技術へも進み方の適合とはなれる。

そして言葉や対話に囚われても良くないが、対話つまり聴こうとする事での対者や問題の対象への立ち会いの方法と可能性は個の深化(と、そこからの社会化)としての意味と効用を持つ故への提起はされて良いと私に思われるてはいるが。


貧乏にも効用があるという肯定や納得がそれを放置,消費材化させる。 持つものは持たざる者のルサンチマンのガス抜きと呪いの吐き出し場として、持たざる者は持つ者の比較,優位づけ材料としての共依存的相関,同犯の装置(互いの必要悪)として機能してもいる。

説明や納得に比較や意味づけは用いるが、それが自身(や人間差異も)の本体ではない事もは理解されている。

では2つに別れた極相などもは幻想であり矛盾でもないのかもしれぬが、それも視方と分別の価値,効用を宿している、この物理次元上の制限知性としての我々の武器ではないか。 例えその制限を越えられぬとしても。

深め進む方向への自己拡張と欲求は良いといえるか。もを捨てた只、煩悩のままに在る全てと自身を良しとするのか? その選択の基準も義務化もないと言うのか?

創作的な消費や欲望も只の受動的消費よりは良いのだと比較するならば、しかし只眺め存在し受け味わうだけという生命もへの積極は最たる受動的消費材化でもあり、やはり死へ抜けてしまう事だけが唯一の選択肢なのか? それでも奪いて生きている理由と価値は意味づけ説明も出来るのか?


生命の創造を旅逝くが、自信もなく苦しい自分で生かなければならない。