junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

84 6/12 (wed) ~

84 6/12 (wed) ~

あの螺旋磁気竜巻の根本を目指した峠越えの途中で崖に堕ち死にそうになった時、死なずに済んだ未来と分岐しただけで、僕はもしかしたら死んでいたのかもしれない。等とも想像を広げ気付けたように、そしてあの時にした僕の祈りの立ち会いは、現実化や死なぬよう守って貰えた為など(かと思っていたが)ではなく、死に前の生前最後のこの世との別れの時間との立ち会いの時間だったのかもしれない。

今生きているこの瞬間も、いつ死ぬか分からない生存へ立ち会い流し去っていく。のでもなくて、もう死んでいたかもしれない有り得なかった生命の、おまけのような残り時間への立ち会いなのかもしれない。

死んで味わえなかった現実を味わう事も出来、そしてこの時間を使ってここまで達し深められても来れた。 その全てが有り難い事柄とはなった。

人が危害を加えぬようにも過去や未来にも光を当て溶かし混んでゆく為にも、へ与えられた贖罪や浄化の時間でもあり、肯定の愛と交感の気付きへ人や自分へもの祈りを送り融かし込んでゆくへ尽くして生く私によっての未来へ現じていくか、もしくは生存時間の残りの最後の猶予期間でさえも、あるのかもしれない。

もし私の生が未来へと続くなら、これが様々を解消し更に進展と整理をしておく為の忙しくなってしまう前の最後の猶予期間でもあるのかもしれぬようにも、(それはこのまま続いてもらいても困るがリミットが見えて来ると信じられ区切れたからだけでもなく、ようやくこの街や生活空間にありてもの)私に与えられた場や必要が現じている現状の自身としての日常であると受け取り納得していられるようにもなれた、こうした日々の用事などもを済ましながら少しづつに進み用意し培いゆっくりと味わっていられる現在の歩みの充足にも達しては、生きていられる事の豊穣を楽しもう。

少しの事づつしか出来なくても良いと過ごす事が出来る生活存体の中に自身への必要を感じ流れて、磨き育んでもいられる日々の歩みをゆっくりと生けることの何たる豊かで有り難い事か。 これ以外の何もが出来ず社会に依存した生存であるダメさよりも、こうして存在し世界への観察と祈りへも存在を還し返して生きていられる才能と役割と仕事の恩恵を選び、与えられ受ける事も出来る私自身と社会へも感謝している私は、僧侶にならなくとも浄化の媒体としての世界の縮図の一つとして世界に意義と価値を返還してもいられている。と自身には納得しての新しい非俗非僧の聖~ひじり~の在り方にも身を転じ然じ揺られ遊し有し写し取られているが多様の一片であるを身に過ごし去ってしまえば良いのだ。


私の存在と祈りを使って、愛と気付きへ融かし込みてゆく。 苦はなくとも深め、受け入れながらも肯定によりて自然を越えた高次からの流れ自体,操作主体からの自在の肯定的な現実化をも持たらせてゆくへと渡るもを含めての提示の内容や祈りの質となるもが良く、それが全てでもあるのか?


愛と光へ流し去り、しかし湧き出して来る欲望を押し込めるのでもない折り合いに対して、欲への囚われと積極行為に生まれる連関の無駄(行うべきを増やしてしまうという関係への業や自身労力の多さ、即ちが自己利益減少の増加でもある)を減らしながらも刺激性のカタルシスへ解消する必要悪のような意義をも(又は出来そうな事は果たすまで止めようとしない人間の挑戦や好奇,探求心の内包の仕方なさ等や性質としてのgiverとtakerとmucherの需給的連結により進む総体の在り方等もを)認めてはいるが、その至り進むべき先への必然的な現在段階の経過過程も全てが良いならば、至り達する段階の欲望状態とそこへ対しての現在の欲望点の提示や関わりもは如何に在りようものなのか?

真の喜びや充足ではないが代替物によって或る程度の満足へ自己解消してしまう事で他者関係を減らす自足へ達し、それによる犯罪の減少も人口減少も独立的自存も良いとしても、しかし消費行動への動機づけとそれ以外の無関心をも生み出してしまう。 それは現在では経済的な消費行動にも結び付けられてはいるが経済至上の原理が崩れ他へ移り変わったとしても、その心の実際的な消費依存が変わらなければ同じことが起きる。

ならば自己,自我が悪いのではなくとも、欲望的利益方向への消費文化の増大や需要と供給への相乗,共依存的な共犯の関係(需要あるから提供し、存在するから引き寄せられるに肥大する。)にもよる欲望,快楽,享楽,消費の必要悪的な過剰化性へ対しての心や存在の状態は、可能性ある事はやりきってみないと足らず納得できない人間性を認めながらも(その結果を知れるから、そうではないとも知れるハリウッド映画のように)欲望(好奇心や挑戦なども含む)を果たさなくとも満足出来る、肯定による充足や安定の平安や幸福の心持ちへとも至りゆきて逝く事で過剰の増大を生まないならば、では人間生体的な欲望への実現努力や選択,行為自体は在りて良いのか?


身体,生理的な快楽や共生的な関係,生活などの生体または人工的な享楽,幸福。 又それを求めぬ放棄,無関与か破壊的創造もが必然としての肯定や実行。等の4ベクトル間の何処を採るのか?


過剰とならず、しかし欲望果たす喜びを生くも良い。というのが今後へもの人間的な中庸の選択点としても良いのならば、では例えば軍拡的競争による怖れや力の抑止力を離れゆきても防衛的武力の可能性を捨て切らないというような選択との折り合いは、机上の実験と実現の工学力を保ちてさえいれば短期間で実践配置出来るという(日本の核政策と抑止力でもあるような。 だが原子力の政策や保持には勿論に反対だ。)完全ではないが対処策の一つの均衡点とはなれるに、転用可能な他の形での生活利便の為の技術利用を持たせているも良いのではないかとも思われ(nanoやbio,遺伝子工学,情報などの分野も?)、人類間(やその拡張)の民間防衛においては、専門的関わり深度によるライフログの審査権者たちによる検証によりての情報透明性とそれによる管理,執行の武力,仲介権力を持たせておくことも(やハッキング不可能な自動自衛装置や記憶の改竄不可能性を一定時間保つ事が出来さえすれば)、或る程度の抑止力は発揮できるのだろう。

ではその警察権や武力行使への戦略建てや指揮の選択の主体ややり方はどうするか?等は司法と同じく細分化された判例などの根拠に基づく瞬時判断が(各個の関わりにおけるパーセンテージや罰則の配分などにも)必要となるのではないか。

個人の著作だけでなく発言や行為の全記録に対する責任や利益の配分へ自動的に完全管理するへ移行させゆく為のものがブロックチェーンの意味合いであれば、そこにはやはり良いものも生まれるが自由や個人の管理または融解へ向けた過程や(その結果も正しいとしても)人為による支配や操作の問題が肥大し沸き起こってくる可能性は増大する。 しかしだからといって反対や無関与へ抗したり離れるのか、そことの道を模索し歩みへ関わるのかは又も自己や個(性質,意思)と選択の問題範囲だ。

自由を奪われてでも自律意思の選択としてものどちらにしても、奪われぬという利便の為に個人は減らしていくしかないのか? それとも奪われる可能性も良しとした超越性へ向けた自己を越えた個人へと化しゆくが良い等とも言えるのか?


そしてでは、生活利便の為の技術の肥大もは何処まで人間的生活の存体や欲望からも離れていくが良いのだろう?

独立自存の可能化は関係への依存から離れ互いを必要とせず、心の関心,共通,を通して育まれていく信頼や家族の意味をも縛りや趣味性以外に解体してゆくが、自存性以外の必要性がなくなる事によって又も肉体や関係への身近な交流価値が復権するのも人間かもしれない。 ならば保守性ではなく利益として、そこへ戻って来るも考えられる可能性でもあるだろう。 そうはならぬかもしれぬし、それが正しいかも分からず只一個や全体の自身となりて(イエスのように)母もなき非情性へ超越するが良いのかもしれぬが。


自己拡張のvirtualや電子的改編と同じく、脳内drugへの関与において享楽,別世界感覚,平安や幸福(又は恐怖の地獄や牢獄)などの状態へ至り留まる事も出来るなら(しかも経済至上主義が壊れていれば、それを得る為の犯罪手段は減るとしても)無尽蔵に個人選択や他者からの洗脳,支配,刑罰などへも使用されてしまう。 それは別宇宙シュミレーションへ対する生命権利の尊重や奪わず悲痛を与えない事へのガイドライン(条項)と監査や制限を行われなければならぬと同じような問題を孕み、これらが解決されていかぬと結局どこまでも(自由と調和ではなく)自由か管理かの対立と均衡点への普遍ではなく折衷的努力の労力などもが、今後増々にも増大する事になる。

そうであれば個や同趣向同士による自由な分化などは認めるわけには(不可避な流れかもしれぬが)行かぬ全体共通の法や管理が義務つけられるも仕方がない事ではないのか? ならば選民的支配と徹底管理による方向でなければ結局 one world を求めゆくは同じであり、その目指す質の部分だけが問題であり必要であるという事なのか?

自由意思(という不可欠ではなくなった趣味性)による観察に立ち会う権利は有りても行使する者や率は少なく、その表面的自主性以外では徹底的に管理,制限された中での自由(組織によらずとも合意されたAi社会でも)に生きる生き方を選ぶしかなくなってしまうというのか?

危害を与える権利のみの剥奪であるも良いが、それをどのような基準で如何に執行するか?の共通法(又は全判断の委託にしても、誰が執行者となりてもの公平生性)の設定や取り扱い方が重要であり、それは(人類の積み重ねを何処まで取り入れるかも分からぬとしても何ちらにしろ)過去に挙げられ(証明され)た判例,範例等によりて判断されていくにしか方法はないのか?

AI的知性内での経過が情報総合した上での直感,経験則的な結論ともなり人間には判断も出来ない、その過程の証明式を数値変換されたゲームのような形で人間が断片ごとのキーストーンとなる要点へ対する一致をみさせていく作業従事の労働によりて、数学のように証明出来た物は正解であると仮定していく進み方を採るにしかない。が良いと言うのか?

自身や他生命もの身体的改造だけでもない意識の拡張的改編やvirtual,電子,drug等への没入,融合,個人の剥奪へも不可避的に進みてしまうのかもしれぬなら、管理,制限の中での自由や意思的な振る舞いを、非実体内でのprogram的特性づけとして残された個性の役割程度に辛うじての個人性が持ち得る程に解体されてゆくが良いというのか?

生体また非生体による生命的交感また生命的交感を失いゆく方向の4vectorが、此処でも選択点の必要へ見い出されてもいる。

では100と-100の中間は0であるように只、空や無となった自身へ抜けては何処にも関与や判断を置かず無行為であり、生と死を越えて生きるとは奪われ破壊されるにも判断がなくて良く、意識を持ちて味わいゆく知性過程によりて辿りゆく生存の価値や無分別へと戻る等という事もすらがなく生存は最低限に保たれるのみの無知性な植物状態へ直接に向かうが、時代などの極性相互に依存し振られる中間点などとも違い普遍的真実や中庸であるとも言えるのか?


実存の主体とは、外部環境を含めた物理的な又は概念的な世界自体性か自身が内部のみに在る精神性か、それら個の自性を越えた自性とも呼べるような根底,総体の存在や状態の仮定か等の何処にも使える故に本来は各用途ごとに定義付けされていなければならぬが私による主な大概の使用は自己や物理を越えた総合流動体の世界自体でもあり自個の根底でもある魂と言っても良い範囲(brahmah artmah)のような本質的自性とも言える存在や状態のことではある。


現時代を過ぎても技術進展は当分続くが、現代とは今後の心の時代もしくは人工的享楽や交感の時代かの過渡期であり岐路ではある。

そこに幾ら真実的な利益性もが見い出され説かれても、人は利便や快楽へも(やれる事はやりきらねばならぬへも)流れる。


食事の不要や簡易化は生産労力の面からをもっても私の元からの感覚として有りてもいるが、それは酵素,微生物食品のcubeや gel状物を補給するような食による生命交換と交感の喜び(生と死)のカタルシスを無くすもは良いとしても、その消費,解消の代替物への依存へ移行されるのだろうし、工業製品化された生産への依託へ独占させ生存基盤を委ねる事が良いとは思えない。

全てを自給する生活へ戻る事は(そういう回帰運動の方向や選択者は居るかもしれぬが全体の種としては不可避でない限り選ばぬ方向であろう。)そこに忙殺されていく制限の中での納得と充足を得ていく一つの道であるが、どの時代と段階の上にも道は宿るように、そこでの手段と効用(があるからといって)に取り込まれている必要もないとは思われ、では苦しみが真の成長へ導くという現状の手段にもそれが唯一である等と取り込まれず幸福と共生の中でも更に深め達しゆく道を(そういう者も、もしかしたら有り得るかもしれない。というだけでなく)全体の傾向化さえもさせる事が出来るのか?

生活の為と不便の中に交感の喜びを見い得ていく事と、自身のままにを行う為にでもある利便さと等の2極性の適宜を計るようにも、その意思方向(が結果には役には立たなかったとしても意識によって進み選ぶ方向への意義とはなるように)への選択肢をvisionと現在の適合に見い出していくていくへ繋げる為もの私だ。

自身の生命をもって渡り会うに生き交感と交換に立ち会いリスクを負う事の犠牲性と引き換えに採り得て来る狩り的な作業は、生物としての野生,根底的だし同等の立場(技術自体が同等ではないが同じ生き物,動物として平等であり上に立ってはならぬという思想の具現化でもある)である自然物として生きる価値を保存してもいる尊敬出来る尊厳ではあるが、その状況や技術が許すのならば生命を奪う自然の非情と重荷の循環からも切り離れた存在としての種となりゆくこともは可能または不可避なものではないのかとも思われもする。

新たな業を作り出す事もなく、獣食や虫食からも抜け野菜食の繁栄や健康的だが生食のリスクからも、その共生的依存関係からも離れ、それがその種の繁栄,拡散,増大を産み出す共生的相乗と仲介的操作であるとしても他の生体種からの搾取へ依存するエネルギー交換や循環を断ち切られた独立自存的生体へ抜けてゆく方向ではないか?

では身の周りの環境を建築する human friendly な土,鉱物,木質資源などもは、プラ,ポリまたはカーボン,シリコン素材などになった方が良く人間の独立生存的な個人化や刺激的な消費解消方法は virtual プラス少しの生体的体験(そこに家族的な共有の価値も残されてはいる)程のものとなるが良いというのか?

私はこの奇跡的な創造と到達物である人間生体の愛着や五感などをもって触れ味わえる世界の体感価値を感じてはいるし、それは只の保守的な非変化,保存欲求でもないと思うし、幾ら自律意思で選んだかのような自由に見えても人為的な操作可能性に支配,管理された予定調和の世界に生きるのは(多様や自由による犯罪や破壊の可能性との天秤ではあるかもしれぬが)嫌だとも思う。 我々は有機体の連関的奇跡であり(それを味わい体験出来る知性の用いられ方の可能性でもあり)又は既なる同一であるともいえるが、しかし同時に私は、有機物の(生産し吐き出す、それは次の循環への糧でもあるが、他者,外部との分割概念にもよる)不浄を自身へ取り入れる事への異批(違非)感や自己と他者の垣根を保つ事へも取り込まれてはいる。

そうした相反的な感覚と適合への統合性は何処に採られるが良いとも言えるのか?を自身と日々の立ち会いに観ては生く。



私の現在までの在り方は欲に追われ囚われている面もありて愚かだが、減らし過ぎる事もなく無理なく過剰になる事へは制限や抑制されてもいるように、このような状態や段階へ至れていれば良く全体平均的にもそこを目指されていれば良いというのか?

欲による選択が失敗でも仕方ない。 それを試し果たしておきたい欲を済ませておく必要があったのだと思えば、それが次回の選択へ(少し欲を果たすを減らす事は出来るし)生かされようともそうでなくとも、そのままでも良かったのならば、では欲望への流れとの許可的な適合が与えられた時にも、しかしそれを選ばないという選択を受け取る事も別機会の欲望を結局は果たすことでの必然的な補関や釣り合いを取られているのか?

ではそこに程度の差さえありても欲望の肥大に突き動かされている他者たちの愚かさも欲望の果たし者である自身に持つと同じものとして許し認め流しおりているのみであり、それでも方向は欲望を減らし人為ではない自然の流れへ触れゆくを選ぶのか?


共生的な享楽状態での幸福にも、その生命の質が深められていくならば良く、その質の定義とは全肯定によりて現在の時や場や私という個人における生命と流れへの世界との出会いに感じてゆけることの豊穣と真の創造性と価値の歓びを生きられる事だ。 その方向のみありて生ければ、あとは各自のままを連関されて生くが良い。と、その全てを許し変えようとせず各時代現在ごとでの肯定への心持ちの道のみがあり、ではそれでも共生への変換へ存在を変えるへと関わるを指向し、しかし享楽か非人為操作かや次元階層越えか現在のみか等への問いに見い出す道と交感を試行するへの自身を行使されてみてゆくも良いのだとは思う。

6/14 (fri) ~

自身に感得される潜在的正しき選択の流れと他者や外部状況の喰い違いの折り合いにもおいて、しかし少しの労力搾取だけであるならば結果は他者へも分からぬのだし、自身のままに押し通した方が流れという全体にとっても良いのか? そこで流れをずらしたならば、また別のそこへの流れと適合の生まれ来る、それも良い。なのだから、ではやはり自身を貫かず他の流れ方へ避けていくような均衡や乗り方の中での上手く行く。を選び得るのか?

又その度ごとにの常にだが、その自身に感じるものが潜在的本質に近い流れであるか?最少でなく押し通してでも行おうとするべきものか?は様々情報の中にありても見い出され処理されていかねばならぬが、それは長期的でvision的な欲望,目標,願い(創造の仕事...etc)以外の日常や分岐への細かな選択肢においては、それだけをとっても見定めるのは難しい事である。

これは貫くへ動くという決定があるならば相談や対話は要らず突き通す力の対立だけがあり、相談などの時だけ他者との関連を求め利用するが良いというのか?

しかし今の処までの結果の観察によると、その選択の瞬間まで迷うは変わらないとしても感じながらに立ち会いゆきて、自己を最少へしながら突き通さず消極的な選択の方向へ流れていった方が流れを掴み易い。 つまりそちらの方が他の流れに至るというのでもなく正しい流れであるに近く無理なく流れ易いのであるならのであるならば、感覚により流れと適合すると思われた流れ果たそうとする欲さえからも、引いていく altanative choice を此処でも採りゆくべきとも言えるのか?

得られる可能性を受け取らねば勿体ないと得ようとはしないで取らず失う事で又、他の機会や事物が巡り来るを待つへ欲望を減らしてみるも良い。が、では後で受け取られるものならば今それを得ておこうという選択も可能な現在欲求との交感において行われていく適合を受けるも良い。が、その現じた外部状況へ対して自身の想いと行動化への動きの機会などもが適合しない時は、それを行わないへ欲求と行動を減らすのか?

やってみての失敗なら納得出来るというのでもなく、行う前に分かっているのなら。や行わずとも最少に済ませ、それでも起こり来る必要性のみを受けるのだという方向へ設定してしまえるのならば、それを行い試す方が(欲望を全て滅する事は出来ず又その必要もないとはしても)持たせる方向性として正しいのではないか? そして自己欲求と行動を減らしながらも、それでも満足できず行いたいと思った想いと状況の出会いがあれば行うも良い位の行動原理へ自身をおとしこんで行くへ向かうべき方向と自己試行への決定であるのか? 又その程度が無理を溜め込んだ故の爆発とならない程に行い果たすへマネージしておければ良いとも言えるのならば、しかしその為の金や生活様態や関係との状態が適合されていない場合に、その現在の自身を押し込め過ぎぬ最低限の行使もが出来ず押し込めねばならぬに解消の仕様もがない時は欲求の 不果へ強制せねばならず、その解消は何処へ転嫁させる事が出来るというのか?

それとも転化せず強制の無理や欝屈による病化を通して(苦しみと悲痛の絶望によりて、肯定を目指す為だけではなく)哀しいが、実際に捨てる諦めと肯定へ至れる道も在り得るというように、その場合には苦痛を通して超越へ抜ける方向と道を不可避な絶望か超越かの2択的な非情の選択として受け取る以外にはないという事なのか?

(それは即ち苦こそが道であるという説明ではなく、その状況しかない場合や役割においては苦痛も悟りと越境への道とせねば苦しみを抜けられぬという苦の効用の積極的肯定ではなく肯定や喜びへ生きる為への苦の転用が不可避であるからであり、そこでもの道とすることは出来る中で与えられてしまった、それを逝かねばならず誰かが行い持たねばならぬ世の必然と一端の役割を受ける者の悲と徳と才能への覚悟でありて、その現実を肯定的な関係や発現へ転換する事は出来ぬと、ここでも全ては諦めていく方向にしかないという事か?)


全てを捨てるのでもなく取っておく必要のある後で生かせる等のものもあるように、そこにある全ては(交感せずに取り置いてあるだけの物でも)その物ともの交感だ。


仏陀の行為,基準点が全てでも多分なく、その現在ごとの状況の中での道を見つけてゆくがある。ならば、生き方の方向性さえ見つけ出され持たれているならば電子融合の技術体となりたり又どの時代の現状が現れても、その中に精神や存在性を高次元へ(又そことの流通へ)繋げるへ勝ち得ていく在り方へもの道は在するのだろう。

ではその過程を逝くのみが現在にも過去,未来にも在り、どの状況がいけないわけでもないのだろう。 しかし電子(やシリコン)化された生体越えが選択回避不可能な時代の定めであっても、そこへの過程の現在において(反動的な提案ではなく)生体による味わいと生体の制限によりても精神的な高次を叶えるに向かうという価値を挿し込みてゆくのか? ではしかしそれは、苦を通して真の肯定へ成長し悟らなければと試され続けてゆく苦行のような道の上位化とも通じてしまうのではないのか?

出来るを叶えるへ追い過ぎず、しかし生体とも共生の生活利便方向ならば良いというのか? もしくは利便を追わぬ生活の為の生存と制限の中での道とするへ戻るか、生体制限を越えた利便への人為的効率方向への高次越境へ突き抜けてゆく事での道なるも良いのか?

全てに覚りへの道は宿るが、その行き道の構築へ関する選択は(それを見い出したとしても、起こるに任せる以外は無意味なのであっても)私たちに採られゆく現実過程の歩み方の方向性へ関わる事は出来るし、それが大切である故にも私は、この問いに尽くされて来てもいたのだ。

では破壊文明拡大もの中に自身の精神のみを羽ばたかれる成長を選び得られるとしても、目指し提起するのは破壊や搾取による創造ではなく苦行ではない、幸福や共生的な多様の中での自由と相乗的共有を生存の様態としての愛と気付きに生きられる歓びの道へ開け繋げる事を求め叶えようとする(欲)は有りても良いのか? それが正しいと言えるのか?


又、何故に意識進化の結果としてだけではなく過程選択の方向としての共生を求めるのか? 過程と結果が即ち同時に一致された道であるとしても如何なる結果に繋がるかの判断を過程に採る事は、感覚や情報の整理による現在,制限された自身,知性の仮定や想像に過ぎず破壊と強制の非共生が意識の進化を催す、唯一の道ではなくとも有益な選択肢の一つなら、全てが肯定された世界の過程へ自身が関与されようとすることさえもなく自身への向き合い以外に行うことは何もない傍観へ流し眺め去って抜けゆくのみがあるのか? 又は全てが必然に生起されるに任せ感じ対応し(その対応をも最少性へ減らし)自身へ向き合い深め問うへの対峙すらをも無くす、世界だけではない相似系の自身へもの傍観へ抜けてゆくのみが必要であり、それを自己,自我を抜けるという意味であったのか?

ならば只、世界には最善と必然が流れ行われており(と、それのみが証明されたなら)、その流れを催す側への交感へ達するかどうかも自身ごとの自然に行われ起こるに任せ居るのみであり、その自身のままに感じ行うもの全ては良いが最少へ減らした自身へと向かい動かされてゆく運動も全ては定められたままに起こっているのだと只、突き抜けて放棄されていく自我判別の失われた空(Kara)のような意識(しかしそれは植物状態の未分別ではなく歓びに溢れた充実の感情,感覚,知性の統一されたような状態の実現だ。)へ至れて、何の関与性も必要とせず共生を求め目指し提起する事も愛へ世界を転換させていく事もの何もが無い。のみなのではないか?

必然が証明されなければ(それでも肯定は平安を持たらすとは言えても)全てを肯定しているだけでなく、その生体的交感によりて魂的高次の自身へ至りゆく道を生きる事や愛や相乗,共生的生存の仕方へ転換し進める関与などは向かうべき方向としての必要でもあったり、やはりその自身行為の選択点は(どちらにしても必要ではあるが愛と肯定の存在化の上に、それを行うだけではなくて更に)見い出されていかねばならないものなのではないか?


空(kuu)とは全てを生み起こし世界の大部分を占める空間の事としても説明出来るし無とは思考ではない集中状態の事とも言えるが、経験による基本的な理解としては
全てがままの肯定と愛,光一体の充足的な感覚状態の到達へ明け渡された無とも言える心へ現象を呼び起こす以前(Emptiness nothingness void)の恍惚へたゆたう充実の歓喜に味わう知性と意識の状態の事を指してもいる言葉としてに使われてもいる。


そうなれば後は愛を送るもがない、世界の愛と光を感じ眺めているだけで在るに帰還する。 その眺めに現実的な苦痛が与えられ奪い来られても只、愛で在るのみに至りて居れる処まで進化,成長出来れば良いのみであり、そこまでは愛を叶える為の苦痛も与えらるに試されての現在段階を知る機会も受けては、愛で在るをもってそれを肯定的な現象へ転換させていく事もが必要ではない還り着く先なのではないか?