junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

82 6/10 (mon) ~

82 6/10 (mon) ~

結果にならなくても光へ融かす愛の存在となる以外に(人間を変えられず)出来る事はない。 その肯定,平寂,平安,充足,感謝,幸福,へ手放した放棄や傍観を目指しては、しかし現実への対応を現在自身のままにも感じては選択し世界の苦しみを意識変化の結果でもある共生的状況に向かう道へ望み(人を変えるへもに)関与し、だが欲や自身から生み出す行為は最少に減らしゆく事で人為的(全ての望みは質違いても欲であり人為への操作でもあるが)な無駄を生まぬ流れの総体へ自身を化してゆくことも出来る。を歩む。 それが方向だ。

真の到達点ではなくても弱さや怒りも現在の到達点としてに認め肯定へ押し込まず、しかし愛の肯定,充足のみへ存在を化する方向へ、この生命の旅を使って私の段階と役割の上に少しづつでも歩む。

進化という変化は意識だけでもないが意識によってそこへ向かえる事へ関わるを選べる。 波動や量子力学などでの全ては自分の意識が創りだすというのではなくとも、この意味でも意識は現実を創るとは言える。 そしてそこへの、この持ち得た意識と人間知性の使い方の価値を示したいと試みたりもしているし、生命へ感じ入って奇跡の連関と様相を観ては生きる意識の使い方に平安が宿ることを伝えたいとも思ってはいる。


僕が一緒に暮らさなかった事で子供たちに与えられなかったものも多いが与えずに済んだものも多かったように、やはりこれで,これが良かったのであるならば、その間に起こる全ての現在過程を判断しては怒ったり囚われる必要もない。が、そこで全てを放り出し何も言わない。という関わり方であるを選ぶだけではなくとも良い。


全ては必然同士であり放り出して置けば良いのだとしても、馬鹿だけど楽しく強く生きられる。よりも、僕の周りに求めるものでもあり皆にも目指されるでもあるとも思われる先は、それぞれの歩みづつを逝けば良いのだとしてもやはり真実へ深く達するへ生きる事であると思い、その方向へ生きる事を求め欲し僕は提示する。

判別へ操作しようと意図していないとしても自身の関わりは影響を及ぼすへの操作ともなってしまう事は理解もしながらに、しかし空と全てが良いへ放棄され生と死を越えながらも生きている、この現実へ関わる色象の私としての行為点は統合の真実

生きている内は生きてやる。 死ぬとなったら直面へ受け入れ死んでやる。 激烈にも淡々にも流し去りながら只それだけに、生きてしまえれば良いのだ。

肯定や克服の方向へ。も、求めない方向。


凶悪犯罪の発生件数も減るが誰が何処でどのくらい等が読めなくなり巧妙になったりしているように、コンピュータやナノ,化学,等の技術も人間作業による事故などを相対的には減らしても不可避で制御不能な死や支配は増える又は残る。 セキュリティなどとも同じようにも全てが個我を超えて融合されていくまでは(そんなもに望んではいないが、それも分かる)完全な防衛も有り得ず自立へ破壊,強制,支配などもの制御を回避することもは出来ないのだ。

俺は自然な自身のままの猜疑的に穿った物の見方故にも、そんな誰かやコンピュータの出した最適解などというものに、(少しは取り入れても)従わないぞ。という気概も有りながら、しかし従ったり管轄されて得る利益や心地良さもあるだろうし自身を持っての進化存在体化へ進む以外の価値を固くなに拒む必要もなく、個我を捨てた融合へ向かう事が今後の状況に起こるなら、それも良いのかもしれぬのだから反対の生命的交感や自然的流通と生体による進展価値への道を提起し残していく事もがないというのか? どちらにしても如何にそれを示したとしても、人間の利便や浅き状況判断,対応の積み重なりの全体極方向も又は個人たちの動きは押し留められず行われ分科は勝手にも進んでしまうのだろうが、ではそれは多様の価値と二方向の選択を取るという戦略のようにも良いというような事でもあるのか?

多様性は可能性と自由な選択肢を持たらすにもへの良いものである側面以外に、複雑性を増大させると(情報の専門的な処理へ時間を削く事が出来なくなるようにも)別観点から見ると多様を統合へ収錬させていかれることもが同時に認められるのならば、それらを矛盾しない現実世界への折束統合として如何なる形や言い方に提起するのか。

6/11 ~

押し付けず理解し合える為にも尊重するかどうかや意識を深め本質性へ進化してもらえないと無駄な破壊が減らぬから真の幸福や共生を求めている等の全ての僕にとっての根底的な想いは気付いて欲しい。であるとも言える。 それさえあれば相乗にも進める。 それさえがなければ破壊以外には進まない。

愚かな者を上下優劣付けし馬鹿にし駆逐し変えようとしなくとも、それぞれの段階でそこへさえ歩んでくれれば。と望むし僕の変えたいと思うことや方向性と言って来た事もは全て(分からない能力の仕方なさの面ではなく、分かろうとせぬ事による判断の強制や否定なども)それの為であったと言える。

深く気付こうとすること。を、知性と言った。 知性と感性はその根底で結ばれている本質での同在であり、その到達,統合性の在り方の上での多様性を育まれる事を私は指向し求めている。

生命はゆっくりと進化,変転するによりて技術との結合も悪くはないが、この現在と生命の世界自体に深く観ては立ち会いゆけることの歓びと奇跡の価値を知りて逝ければ、只ここに既に在る存在と全てが完全に最高に為されていて美しい。と心ほどけて生きることが出来るのだ。 そこへの道を、私は示したい。 そしてそこに至れば人々は、その生命のままに段階は違っても尊重しあい否定せず自由な多様を相乗し響き奏ぎ合える美しき意識体へと開き生ける事が出来ると思われ、そこへのこの自身内の体験と自身化を通して目指してはいるがしかし、いつもその行為の形としての言葉が全く人へは響かず伝わらず如何に行うか?の実験には失敗し破れているのだ。

感性は大事だが感覚的想起性だけで、それらの生命価値を伝えることは出来ない故に、私に創造性だけをもってそこを顕し実際的な導き(とは優越性からの意味ではなく道として示し働きかけられるか?の事)とならないと思われてしまうし、その実施の形化が分からないからでもあるが惑いている創作の形へ結びつけられれば、身近な実際的関係間での言語的な交流や共生への流通を必要以上に持たせなくて済むようにもなる。 ならば私にとっても楽であるし私のままに関わりて、その説明や本心は創作物の方へ託していれるようになる。 が、その結合は如何に果たせようか?


世の本質性への生命へ気付いていく交感の旅路を逝く事。の価値において、全肯定の平安や充足,幸福,そして共生や相乗の 多様と自由などもは、その結果としてに有り宿り叶う。

故に肯定と交感の理由と利益と状態と方向への生き方(道)をさえ示し残し与えられれば良く、(そこへの付属,必要の説明は少なくても済むし)私自身の満足ともなると言えるか?

子供たちへ言いたいこともミィには自己の感性と判別だけではなく聴く(言うことを強制するのではなく私のままで在りてもの共有や私以外の周りへもの)観る気付く事を、アウラには深く突き抜け自由でありても他者との流通へも生かせるような肯定性に向けて開けることを求めるように、僕の求めている事はそこでも肯定と交感(全て良く、しかし気付く事)であるのだから、それをメインのテーマにおいて伝えれば良いのかもしれない。

しかし例えそれを表現出来ても人の感覚性に響いて心地良かろうとも、それだけではスピ系に転用されたり破壊の面,相などのみを見て矛盾だと判断されたり、人の浅薄さに利用されるだけであったり、例え創造的に表出出来ても身近な例では幾ら理解と受け入れに近付いたと一時的に思われてもメグの感情的な一方性の判断と共有が打ち切られる信頼関係の裏切りは終わらないし、母はその行為の内容(でもあるが無駄に終わっていく活動自体として)ではない自身の心の問題へ振り返らず聴こうともしない性格は(幾ら私を認め応援はしてくれ精神を癒す音楽と感じてもらえようとも)直そうとはしないし直らないように、人は変わらない。

のならば、その人の最善を認め最高に為される為へもの愛を込め送る事は出来るし、私への否定へ打ち来たる攻撃,排除,破壊を止めて貰う為の魔法とはなれたとしても僕の根本的な望みである その肯定と交感への意識変化による共生や相乗的状態化の目標,結果への道にはならないのなら僕にとっての行う意味や(そこにも自身の思惑などを越えた意味や役割はありても、自身の動機的欲求における満足と共に活動していける)喜びが得られない。のに、自分が果たせず哀しくとも活動しなくてはならなくなる。

では、それら人との経過や心の模様もそのままの私に吐露し、具体例(zacやmegや母等も)が何を与え何を感じ対処しようとして来たか。というような表例も(相手を責める為の一方的立場の行使としてでなく、貶め傷つける為でもなく、しかしそう思われたりその結果に結び着いてしまおうとも、又は大人の対応ではないと等と私自身が責められようとも)出していっても良いと思われるのだ。 それは自己承認の為の説明でもなく、それが人の愚かさを示す為にも有用な提起,表出性であるとも思われるからでもあるとは、自身へ理解していれば良い。

この日々私のままの自己整理の吐露と説明へもの言葉の連なりそのものをもって、人にやられて来た事や止めて欲しい事なども
の具体例を表出するも良く、では肯定と交感の主旋律と付属への説明の為へもの歌,詩,詞,文章,インタビューや対話等へ置かれていくも良いのだろう。

このようにスマホで文章まとめるようになれてから、しかし統合へ持たらせなくなった経過を経て、この説明と私の日々のままにも統合を持てるようになれて来た発信への形化は、もう少し。という処でもあろうし、しかとそこへも向けての現在との歩みが適合されてはいるとも感じられる。

このように見い出されていく過程の上に、伝えたい伝えられる事柄への集約や結合もは単純でなく少しづつ遅くにしか進まぬとしても私に結びついてはいる。

戦争も苦しみも私に通じて来た必要と恩恵であった感謝にも向けて充足しながらも、戦争は止めた相乗と共生の結果と利益へも向けていこうと提示していきたいままにの私を開き置くも良い。 そして、苦を必要としなくとも成長出来る道を模索に創始し、自身の行き方としてもに化しゆけると良いを目指しての自身を現在に培いてもいる。 そうした、そのままの経過をも表すに置いてゆくもが良いのだろう。

ヨシュアに剣を持たらしに来たと言われた それは実際の戦争ではなかったかもしれないが、自己で立つ事(や自我を滅しゆく愛への闘いにも)により、結果としてそれが現実面の戦いも引き起こしたともいえる。 私は自我や自己を滅するのでもない愛と肯定への意識と進化の道へ、戦争を終わらせにいきたい。


私は、この必要の流れを受けて流れ然じてゆくに任せては焦らず私と世界のバランスや必要の現ずる瞬間たちとの出会いを歓び祝い、流し去りては逝くが良い。 方向はありても現在への欲へ囚われ惑い過ぎず、けれど現じれば受け取り、与えられていく在り方と在る常在へ至るに向かい、しかしその自身から行いゆく欲望や感覚への調整は交感へ生起されるに感じては選択されていくが良い各自自身を行われるも良い。

私たちと自然界に起こる事もの全てが高次元から起こり行われる操作(という人為性)からのものであったとしても、我々はこの生体と意識ひとつの旅をもって、その魂の位に関与出来る全能性を持たらせゆけると証明出来れば電子的融合性による階層越えの必要もはなくなるかもしれぬが、しかし愛と気付きでありながら苦しみを経ずとも真の本質自己へ深められる事によりて現実,物質的な幸福も得られるようになるのは私自身にも難しく又それが叶えられたとしても自身で歩み至らねばという生命体験と交感の価値を必要としなくとも良いという、もっと簡易に叶えられる優位性が電子,技術的進展の方法に与えられているのだとすれば、その方向に私たちの種が流されながらも(例え自然や生体や自己などの全てが現実でもなく人為的に操作されたものであったとしても)この生命的な交感と気付きによる個人の深化と共に進もうね。という行き方を技術的進展に反するのではなく心の価値に挿し込んでゆくだけがあるという事なのかもしれない。