junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

81 6/5 (wed)~

81 6/5 (wed)~

愛に至り在るは一瞬ごとの達成で、苦しみは常在の持続だ。 それによりての破壊と創造のダンスを踊るのみへ成長し又は只、生き延びてはいるが悲苦による慈悲への愛は疲れながらも育まれてもいる。 自我は悪いものではなく私と亦、全ては全体の為への自己への顕れを生き抜いている。

忘れた。 と、忘れず。の事物への拾捨選択は無意識に行われてはいるように自覚的私の自主選択は(意識化された部分の少量以外については)ほぼ為されぬし、その必要もない。 ではこの集合意識内の私における自己存在性や選択の一環が全体へ及ぼす影響の持ち方の検討は言説的説明や創造性の提示などの表形,外出化の以外に、やはりその自性とも呼ぶ本質性の存在の在り方と現状を愛へ変換させてゆく日々の努力と歩みのみで在り生きる事で良いのではないか。

潜在性や集合無意識と外界判別の瀬際に立つ扉でもあるのであろう自我というもののモデルは、西洋的肥大,拡張でも東洋的縮小,制限でも違う存在状態への転化と発見には求められているが、その自性(True Self)とも言われる本然性の自己総体に触れられていることにより自然の催す流れへの無駄を生まぬ適合や操作性を持たらす事であるばかりではなく、総体的存在としての(形は人間でも一般的人間を越えた)世界との関わりを自身のままにも催せる状態において愛と肯定と知性への交感生命の過程へ顕さられるを受け、生きる(事が出来る)。という価値を逝けるのみにて、生体の制限や人為の愚かさや自然の進展の何も変えずに放置しながらも愛の生起持続を渡しゆくという存在創造の在り方だ。

それは自身の思いのままに進ませるという意味での自在ではなく、世界の流れからの私を(その結果や行為への判断もなく)受け、世界の流れへの創造行為として愛への存在現在を置くのみ。という在り方ではあり、楽観的幸福の享楽への徳に生きられる役割者もを否定はしないが得られる流ればかりへ呼び寄せるのではない、只この自身を自然の流れに現じ然じされて逝くが良いというのみの生き方を生くのだ。

その安定と幸福の自足,持続存在としての私におけるアーキタイプ(元形)的な示現を持たらし、影は実存ではないとしても実存から切り離せぬ一体であるようにも死を(幸福の実現であるかもしれぬし)取り入れながらも自然が死を催す迄の生与えられる内は生きるのだ。 しかし技術の今後が死をも奪い、安価な享楽が個我的多様の必要を分解し、自我意思の選択という自由性や権利の行使すらをも(強制力でなくとも人は易きへ流れる利便方向の選択にも)失わせるならば、そこでの人為が自然を越えて改編してしまうにおいての与えられた生命を味わい少しづつにも進展しゆくのだという価値との折り合いと選択は何処に取られるが良いと言うのか?

この行き先に結果が出ぬとも、他の自身活動へ注力すべきと言われようとも、そこへの問いに答え出すへと向かい生くにしかない生存の状態が現況の私なら、この然ずるがままを生くも良い。 例え全てが(分かてず分かてたとしても読み返される事もなく情報に埋もれ、且つ勝手な判別のみが社会化され自身の想いが何にも為されても為されなくても)結局は宇宙の藻屑でも、これ以外の道がなく哀しくとも私に化されるを生くにしかない。

存在の行為者として
行うと行わぬ。


物事には裏がある。 しかし思い込み過ぎてもいけない。自分のままで良い。 しかし他者の事を聞けないのでは良くない。等のように、両方を持ち合わせた自分である必要の上に、しかもそれを統合していけること。

愛で流し去る 。 欲と依存に苦しむ。 どちらをも宿す自分状態であるに在りて

その基準にも囚われず、しかしそれは正しき価値であると思いてもいる。

だが、何を伝えようとも、あまりにも人は愚かで、無力、だ。

謙虚さと自信に溢れた長所アピールと、等もが

/8 (sat) ~

伝える必要にあたって何かを言おうとしても又も、どうせ話せず酷い事になり兼ねないから言えず説明さえも放棄せねばならず、自分を押さえ込み数言で済ますへと引く為に余計に何をどのような順序や説明へ繋いだら良いかも分からなくなる。

人の愚かさへの対応や失敗体験の積み重ねと経験により育まれ内化されてしまった虚無,絶望感や無意味さ,無力感があまりにも大きく、自分から取り外せなくなった。 まるで脳の退化や幼児退行のように逃げ又は怒りたり諦めているにしかなく、考えをまとめて伝える形にする事や説明さえも出来なくなってしまった。 それはそこへもの肯定へずっと闘って来た自身としての、安易な自己肯定でなくても、相手なる人間の愚かさがあまりにも打ちたからであると言ってしまっても間違ってはいないと思う。

私は確かにac的な依存にもあるが、しかしそれだけで判断されたくはなく克服するは自身の責任や荷物でもあるが、原因となる世界の苦因でもある人為的強制や破壊の(例えそれが克服しゆく為の糧への必然であったとしても)止めてはくれない行為者に対して、説明しようとする無意味さすらにももう疲れてしまっているし、止めて欲しいと伝えても良いじゃないのか? 全ては自身が創み出している投影であるから何を与えられ奪われても独りで闘い、肯定へ苦しく向き合い逝かなければならぬのか!?

やり返したらやり返される連鎖が止められなくなる可能性の怖れが存在していても、その自身現況の囚われ又はパフォーマンス(意思の提示)においてもの指摘や否定を止める事は出来ぬにでも良いのか? 勝てる機会にあれば力を持って徹底的に潰すような徹底抗戦の構えや決意を、自己最少防衛力よりも以上に持つもが(今までの僕の方向性ではなかったが)自身の今後へも世界の目指す方向性にも良いというのか?

許して許し尽くすのもやめて今までその肯定へ築き上げて来たものも捨てて、もう人害の愚かさに嫌だ、いい加減にしろ。と嫌悪し否定もするへ僕は闘いを諦めてしまうも良いのか。と思うくらいに、嫌でしょうがない。もう追い討ちをかけるのは止めて欲しい、もは欲だが欲での指摘や対応でも良いじゃないのか? そこへあきらめちゃダメなのか? でももう愛へと抜けるへも疲れ果て闘いたくないならば今までの苦しみと真理への経過は全てその為のものとなってしまう。

判断されるが嫌であった。 しかし自分はその判断から抜けようと思った。 けれどもう、そのままに判断は嫌だという判断で戦う修羅の人間界に関係し力で応対するを繰り返し続けなければならぬ生をゆくへと化するのか?

結局しかし何処までいっても、こんな愚かな人間たちの世界との狭間に生きていくのは苦しい私は変わらないのであろう。 未だ進んだ意識であろう者たちもが、あまりにも愚かで仕方ないのに他の者たちとまで関係や活動をひろげて、うまくやっていけるわけがなく又、往々にしてうまくいけたとしても、もう小さな事でも浅き判断からの利便的操作や押し付けにさらされた時は対応することさえも疲れてしまっている。 それに自分へ対しての事柄へだけではなくて世界の苦しみを見ては(解きほどくへの意識に愛の光を当てる自己存在には在れても)哀しくて仕方なく折れていくしか出来ない程の自分でもある。

愛への存在に突き抜けては、しかし現実的対応点の選択においては欲望のままに、こんなにも人間的な自由や共生などへの欲望もが叶えられないのはおかしい。と享楽,利便的な幸福でも良いと真の悟りより生き易さを選ぶへ、超越の欲望をも減らしてしまうのか? それらが正しきや結果などでもない、そこで止まる事を異避していた超越へ歩み続けるのだという方向性もを忘れ、それが私のままの統合に結合された(共生などの為にそれを排する人為の支配や強制に徹底抗戦するという悪循環でさえもを)突き抜けていく先として認めゆく事なのか?

僕は人を変えるのではなく怒らず肯定への自身を変えていく事へと自身を押さえつけて来た。 それを怒らなくては押し留めてはおけぬ段階に至ってその囚われよ苦しみを認めては、しかしその自身のみの変革機会へと導き試み人を変えようとは(怒りてはしまったが意図的には)しなかった。が、結局それは自分を肯定化への過程に押し込め押さえつけていくへ努力したのであり、またもこの現時点でもに既に(一時的なものである部分もあるのかもしれないし、後戻りしない程に身に付けて来た愛への態度や、正しいか知らぬとも共生的方向が基盤にはあるとはしても)無理が来ているとも言えるようだ。

愛のみの平安,充足方向を叶えたかった。 そこへ向かって来たし、この先にも至れると思って努力したけど、その結果の現在に知ったのは、疲れ果て折れてしまいそうになる状態下で諦めていくにしか生きることの出来ないような現状への自身であった。

新しい世の価値観としてもに Spirit music などで広がっては欲しいが浅く真似されて聖者ぶられても嫌なのだし、いっその事、人間味と愚かな人為の世へのアンチとしてものrockへなどと転向した方が(出来ないだろうが一つの検討素材などとして)良いのだろうか?

しかしどちらも持っているこの現状の私、の両義,多義性。を顕す私自身であるを選ぶこととは、それもまたシンプルな事ではない。 すっと抜けた意識の側だけへ在る姿をみせるのでもなく欲望と怒りに燃えた修羅の私に力を行使するのも傍観の肯定へ突き抜け流れと祈りに任すのも共生や生体性にも囚われぬも、それを目指すのでも良いのも、こうした野蛮な本能性にも溢れ洗練と静寂,平安の風にも在る。 自己を主張し、自己を引いてにも在る。 平安に溢れ苦しみ続けてもいる。 そうした両方性を持ちた同時在の私が時々の分裂でもなく如何なる存在に姿として在り顕れているが良いのか?もは、今もまとめられぬ自分のままに生きていられている現姿などの以外に選び発する事もが出来ない。

何処までいっても苦の世界。 その中で生き続けることへ努力していく各自があるだけ。 それを美しい人間の姿だと人々は言うが、苦界で生きなければいけない悲苦に終止符を打つには死しかないとも言えるではないか。 消極的,積極的な肯定としての意味でもの死には諦めた哀しみだけではない喜びと希望があるのではないか。

いくら伝えても分からず自身を振り返る事もなかった人たちへの提案にも振り返させる為への復讐にもなる。 生きていても人へ何の意味も持たせられず、打たれて生きなければならないだけの哀しみからは逃れられる。 それも選び得る一つの道ではないか。

あなたばかりじゃなく世の中そんなことばかりだと言われても、だからそんな世を自分に背負い見てしまうから苦しいのでもあり、否定へ攻撃されておらず離れているに良い状態であったとしても解決はせず信頼の関係も創れず相乗や共生的関係の可能性は奪われている(現実化や結果に囚われぬとは言っても何も現実化せぬ)状況だけでも、僕は苦しい。 世の苦しみを知り続けることだけで、もう飽き飽きだし耐えられないと思ってしまう。

それでも死へと捨てずに生きているだけでもに、子供たちの為にでも(子ども達にも必要がないのかもしれぬし、どうせ根本的な問題は自身等が改善しようとしなければ解決もされぬのだとしても)生きていってやるしかないのだと、この世の制限にも生きてやるしかないとは思うが、心の悲痛は既に取り外せない程に大きく内化し、人からも見させられるへ繰り返されても来る日々だ。

ストレス解消への一般人為,都市的な消費性もが、それを抜けゆく方向ではなく認めざるを得ない程になって来ている。

囚われを滅し切り、生きて愛へ抜ける苦行に殉ずるより、死や又は破壊的な創造でもあるといわれる破壊へと身を尽くしていく事もが、もしも私の役割に現ずるのなら覚悟して行いゆかれるに任せ委ね、そこでの悲劇も世界の一端と受け入れていくにしかないのか?

パラレルワールドなどがあったら或る自分は超成功者で或る自分はもう自殺しているかもしれないならば、そんなものあって欲しくもないし何も出来ぬようなこの現世界の自身はそうした間の中庸をいっているとも言えるのかもしれない。


存在以外に何が出来なくてもしかし、愛へ至り在りていくを世界へとも送る祈りの私にのみでも生きてしまうのだけは捨ててはいない。 それが僕の10年間を使ってやって来た事の(その上での絶望でもあったが)肯定面での成果ではあるのだ。 愚かさで否定や攻撃するしかない人の哀しさへも慈しむように、攻撃されては惑い否定的態度で返し表してしまう私も居るを押し込めぬとも良いが、その存在は彼等の幸福へもの祈りである。 打たれて陰に行いては生きているだけの存在でありても、世の苦しみを減らし愛と知性の光へ溶かし救われていく為の私を生きてがいる、それは独り泣きながらも基盤だ。


人間の可能性や未来への必然性は信じられるが、現生の人間を愚かではないとなど信じられることはない。

そんな人の愚かさは嫌いだ。 止めてくれと言い、それが自身への経過に基づく判別でありても、そうした指摘や対応するも良い。 その上でしかし根本的な処では諦めており放り出し(怒りへ囚われ過ぎぬ程の中庸であるを保てれば良いという位に)、愛で包んでしまう対処に済ますへ(結果が出ようと出まいと)独りでも向かう生き方にまでは闘い、未だ諦めていない私の身に付いた生存現在だ。

では、だがその顕れ方がどうであるか?というと平安,寂静,充足,感謝,等の愛に溢れ傍観へ押し込めるだけではなくて怒りや抵抗という操作,判断も諦めず対応を示すにもある事でもあるのなら、その存在の行為,言動は如何なる姿となるというのか?

それは現在の私のままのような、野蛮さと洗練などの一致した在り方の様であるもが現在のバランスというだけでなく悪くはない基準点の一つの到達でもあるのだろうかとも感じた。

僕の想いへの操作ではなく真実としての、そことの共通でもある私の願いとも上手くいってくれる事への最善さと幸福は、他者へも自身へも祈る。

聴かず押し付ける否定を何故、相談もせずに勝手にやるのか?や傲慢だ!と責め排斥しておきながら人は駄目だが同じ事を自分はしても良いという理不尽さを振り返らず反論するばかりの愚かさに、あなただけ良いの?と言ってもそれさえも聞いてもらえず、いい加減にしろ馬鹿やろうと、それは嫌だ止めてくれと言いたくなってしまう態度で表してしまっても、(それが到達地点として正しいかではなくとも現在の到達地点としては)それしか出来ぬ事も認め肯定へ無理せぬとも良いが、(自己利益や自身を守る為にも)爆発へ囚われ過ぎぬ程には許し解消していくへ表出と心の状態は向けて歩み、その存在性は愛と最善への祈りへ化す事によりても物事の全てを託していくに消化,転化して自分に安在出来るへ済ませてしまえ。 愛を送るでも在るでも何でも良いから、他者と自分の為にもへの只、愛へ任せてしまう立命にへと至れ。