junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

58 5/4 (Sat)~

58 5/4 (Sat)

幸せは幻想だ。 苦しみと同じく。
自我も色象もは仮像ではあり、しかし我等の現実だ。

全ては、虚無だ。 虚無は充実へ救い、emptinessへと殺し吸収するもあるのだ。
無極であり、極相もある。
一切差別なく、判別もある。
無一物なり全一体なる、無為であり有為。
それら相反の統合を歩む悲苦と慈悲と愛の私だ。

人類の進化を限定されず、しかし引いていった先にある深化の超越を。 在るがままでの到達を。私は目指すものであり、この太古からの知恵と連綿を通り、しかし本には書いてくれていない私だけの、誰も逝った事のない道を逝く。

花のひとひら、舞い散らす、私に巡る小さな衝撃(カタルシス)。
見えない波で見たならば、これも何か大きな一つの宇宙の干渉。

このような出会いが、日々の有機的連なり同士の世界との交感。 この生体が実存でなかったとしても、そこに織り為された連関が僕を振るわす。

この苦しみと幸福の私を創作へ、託し上げていく。 それは誰の為でもない、自分の為の歌。であれば良い。

僕の中の語られてもいない素晴らしき良さと、どうしようもなさとの並立や共存には、(全てに意味がなく虚無への回廊だけが在するのだとしても)それによる価値と私だけへの意味が為される。

捨てられない(囚われ)から苦しいのも分かってる。 でも涙出て来るのも、自分の苦しさの為に(それも一因であり、そのお陰だが)悲しんでいるんでもないんだ。

自分だけが何故?という想いが大きいからであるのも知っている。 でも対抗せぬと奪われるへの意思提示が出来ぬも知っている。

愛は自己を変革しても周りと現実を変えず又は現実を変え起こすかもしれぬに試すも良いが、その結果を求めず只ひたすらの愛となり光の自身を存在化させていくへの旅を日々に巡り生きて、しかし愛となるという変革の力を使うが良いのか?それをも引いて及ぼさず引き離れて生存による世界との連関や関与を抜けていくべきではないのか?等もの自身での理解と納得が欲しい、それなくしては選べない(という愚かさと本質性への生き方の同時)故の存在からの問いなのだ。

故に私は愛への変革へ向けて生きながら、そこのみにも縛られない。 例え答えの出なくとも、そんなこと止めろ。答えなど求めぬとも委ね只、愛になれば良いんだ。と言われようとも、これが私に与えられた生き方と(全てが消えていくだけの無常と虚無であったとしても)私にとっての意味なのだ。

伝えられぬから分からなくても仕方ない。 伝えられても分かっては貰えないだろう。 それでも僕は僕の現在を逝くぞ。 これしか出来ない僕だから。 これが、与えてもらった此処(個々)だけの宝物だから。

放り出しては生きる。 では全てが各自の自由で良いとは、全てのそのままを必然的生起と連結と捉え見ては全ての繋がりと絡まり合いが一時的結果を判別性に見せても判断せず他者活動達の折り合い点への行き方(戦争や破壊もすらを)に任せては関わらず生くが方向なのか?

結果判断を放り出した上で、しかし普遍,真実方向と思える事を自身に見い出し(その判断を)又はその見い出すという方向性への生き方を提起するへ関わる事なのか?

それは、自由の一因子としての私と私への真実が何処を選択してに生きるのか?でもあり又、必然的と思われる奇跡的な連結の根拠を問い求める事で、この必然の中への自身の置き方を解いているのでもある。

書き連ね見ては徐々に進むしかないのなら(そして答えは出ぬのでも)、哀しくとも、これが僕の与えられた小っぽけな人生だ。 苦しくても、あと何十年かを(人変的寿命が~80年~程だとしたら)生き延びれば良い。(電子的擬我は苦痛を覚えぬでも済むを選べるだろうし、この私自身は死ぬのだからに。) これが生きた、私の軌跡だ。

愛で在るだけ。 もしくは愛となる必要すらもなく囚われし煩悩の凡夫であるを肯定して浅き楽観も享楽的幸福も良く、又は共生もなく破壊と苦痛と絶望のままでも良いへと、何の方向でもなく自然に変転していく流れに(触れる事もその流れの力と開花の操作もなく)委ねているがだけが真実か?


欲望を押さえようと思えば押さえられる。(方向によって在り方や生理現象は或る程度に段階によって選択,現実化出来る。) しかし感覚と欲の区別もつけられず欲も良いのに欲を捨てる欲は?等のようにも何故欲望を押さえるのか?や、では何処までを押さえ、そして無理するのでもなくどのように捨てるのか?等の選択の方向基準を見つけ納得出来なければ僕はそこへと向かえないのだ。


提起の為だけでもなく、怒りや対抗により問題や対応が明確化されるような効用もある。 そして放り捨てる事と同時に、この真実や物質的生体や子供などへの執着によりて生きていられてもいる。

この観察へ進めた事は現在の他者より時間があるへ恵まれていたからだけではなく、この特質がこの生活や生存への形態を私へ呼び起こした。

たぶん私の道は独覚的観察と愛の存在化なる信(身へもの心化の力)の両方であろうがままを歩き、その肯定道と否定道を共にして往くのだろうに堂々巡りは少しづつにもの上昇を進み、もし高め深める必要もなく又は私以外の者へその役目が移行されてしまうかもしれぬとも、私に与えられた現生の現示を逝くにしかないのだ。

過去の僧などの性質者たちにあっても職役としての俗か(これが大半)、惑い続けるか、惑い抜ける為に何処かへ突き抜けた信仰となるか(教祖なども)、真に悟れるか。しかほぼなかった中で結果は分からぬとも、その真の悟りへ佛けきれるか?への道は歩いている。 神の次元へまで至れなくても、私はそこへの一歩だ。

この(自身に感じられている現在次元での)必要が結び付き為されているように見える(故にこれが唯一(もしくは少数の分岐,重奏)世界であるようにも感じられている)が、行いと選択の上に必然的連結が連なり付いて来ているだけなのかもしれないのならば自由意思を起こすへ関わり来るもの私を越えて統べるもの、の 想定の条件設定は変わって来る。

現次元内で重なり合った世界の集束されるへ向かった相互の連携がある?

光速度と同じくエントロピーも仮定的な証明でしかない故にも、伸び縮みする時間の方向は一方ではないのなら因と果の逆転も有り得る、というより未来という座標点ともの相互により現在の観察点へ至る事象の生起は織り重ねられていると思える。

ただし無限に産み出し続けられているパラレルワールドなど(それこそ一義時な時間の捉え方でもあるし、その可能性は提起,検証されて良いが、安易に取り入れる周辺者たちの浅はかさ)というものがあるとは思えぬとしても(マルティバースは勿論否定していない。)量子コンピュータに出来るのに、遥かに複雑な情報処理機構の宇宙が同時並列的なシュミレーション宇宙を有み出し続けていないとは言えない。

私はその重複した並列性の中の一つのシュミレーション体であることは、ほぼ間違いがない(その仮称的存在の、virtualというものの定義にはよるが)自覚による世界の観方は取り入れている。

振動の起こり方とその我々は当然のようにホログラム的ではある。が、意思によって物理性を越える程に(壁を抜ける瞬間移動する等)意識が現実へも及ぶとは言えるのか?(では安易な疑似科学のフォロワーも信じる者はそこへ進み救われるというように、それで良いとも言えるのか?) 理解なく思い込みや阿呆でも救われ実現するなら(引き寄せの自己利益使用のようにも)阿呆やエゴ欲求のまなの能力開花方向であるも良く、その結果さえもが到達へ至るなら過程の取り方。という価値すらみが無意味で只の不必要な阻害要因でもあったのか?

またその操作を何処まで人為力として使うか。や、それによっての宇宙への負荷,影響が考えられなければならない。

又、生体的にそこへ、そして如何に至れるか? 技術,生体越えの電子的生命としての階層越え出来るならそれで良いのか?

電話の実現で分かったことなど(人為的な世の中での便宜性はあったとしても)、本来この生体個の交感同士を相互のシンクロ(共鳴)性においての関連が偶発的にも起これば良い程ものでしかなかったという事だ。 それ以上に必要ないものを、しかもその能力の退化, 退出の対価によって目指し生んだだけであってtelepathyなどの能力開出への方向や憧れは、そのような存在への異怖や尊敬へのもにであった事だろう。 つまり超越性自体が目的ではなく超越的な存在への可能性への憧憬であったのだろう。 しかしだからといって生体を退化し電子化された越境性への実現が良くないという理由は未だ見い出せないが。

意識は現実にも作用するであろうが、共振的に出来事を折り合わす程の調整に(つまり他次元の流動にも関われるが、全てを統べる段階までは関われない。)どれ程の度合いまでそれを人為自己性へと(必要性への欲求と感覚の区別も付かぬに、それぞれ想起の自由をいく事すらも認められているとも言えるのに。)使用出来る又はするのか?

もしくは全てを統べる段階まで、技術によって至れれるようになるなら、(勿論その影響へ対する義務としてもに意識の段階が上がっていることは必須だが)それも良いのではないのか? エントロピー消費と増加の人間となりたとしても、高次の段階性者は恐れずに宇宙の創成と破壊に創り換えゆくもを自由行為するのだろうからにも 。

光速へ近付く質量の増大によりエネルギーを取り出すを意識の力の関係によりて催す程にプランクスケール以下の事象(解体と運動と再結など)を統合的に運用出来る(とは思えないが)か?

質量掛ける光速のニ乗(それがどのように取り出せるのかすらも僕には分からぬが)によりてのエネルギー(熱や拡張的連関性の事?)という等式を、核分裂や融合的な関連化ではなくて物理状態を変化,操作出来る力へと変えられるというのか?

質量が空間を曲げる力でもあるのなら、その重力もしく速度が

越境する重力とは何?
ダークマター 意識
波,網状

伝播

見えないものも重力波(重力は次元を越境する故に、光速以上の伝派性もあるかもしれぬと思えるし)によって、その相互的な作用すらも観測可能になると思われるが

空間は分割可能ではないのか。 根拠はないが、そのような想像も取り入れてはみる。 震える物質化の場としての自体が揺らぎと振動の重なり合いではないであるとは言えないか?

波と粒の紐(弦)状態を起こす空間こそが揺らぎや摩擦的条件付けを起こしてはいないか?

その別次元からの構成要素の断片(piece)ごとが時と場所を越えて運動(と言えるのかは分からない)実存しあっているような可能性もないか?と思われるのは数学的想像ではなくて揺らぎこその本体,根底性を想起するからでもある。が、もしそのような可能性の考慮があったからといってどのような意味付けと発展の種となるのかは分からず、あくまで(発見と提起の露見者となりたいからでもなくて)今後連結への思い付きの範囲であるとは言いおいておく。


情報処理の連関性が知性であるなら、情報を生み出し続ける自体でもある宇宙は、もし惑星や恒星や銀河間の繋がりの回路があるのなら超意識に或る統合性を持ち得ているかもしれぬが、その連携は電磁波でなく重力波や空間(や素粒子)の超常性(何処にでも存在出来る。)などによって成されているのかもしれない。

そうした空間の座標づけを高次元的視点から行うこと(数式化)の出来たら量子的な状態を変化させるにより物理性を操作し又、高次元的な視覚性での体験も(量子的なふるまいの一部ごとを処理するによって)得られるかもしれない。

重力波により全ての動き、つまり想念や波動もの宇宙に記載された情報全てを(ノイズは乗るかもだが)見ることも出来る。

ブレーン膜の触れ合うごとに派生する新しい宇宙

物質である粒の性質と物質でない現象としての波が、その(光などの)存在条件の中に重なり合っている

観測問題

究極観賞者に見られなくとも、それは可能性シュミレートの中に実現している。 可能性は重なりあって結論を選ぶまで存在するが(選ばれた時点で消される?もしくは次可能性の為や決定項の進み方への相互干渉力として保存,進行される?)

この必然的絡まり合いの進行が今次元での選択各個による唯一の結果ではなく重なり合ったシュミレーション世界ごとの干渉にもあるならば、そして宇宙(を越えたもの)がスーパーコンピューターならば、この現実的物質性への世界(を起こす初条件さえ設定すれば現実次元は生まれ他次元もは運行される)を無限分岐させ続ける事も可能であり簡単か。

観賞と決定意思者の想定は必要か?


59 苦と求め

最高開花への道として深め続ける事の出来る苦しみの効用はあるが、それのみが唯一の道ではないのだろう。 しかし悪い生の次は善い生などのような輪廻像ではなくて、(火の鳥で我王が言われたように)人類の中で苦しみの役割を与えられ演じ続けなくばならぬような生の姿も有るのではないか。

苦しみから生み出す為の生もあり人類の共通にあると思われていても各自にことごとく違う環世界ごとの集積,連関の進行だけがある。

その中の、普遍。を目指し取り入れる。 私は人類に属してはいるが、人類の為などにも縛られない。

全てが無駄になっていくを目の当たりにしても、祈りの存在化へ鳴っていくしかない。 世を離れ打ち置いて、我が存在からの、世界との静かにも拓く共振へ在す。

嫌だと思っている限りそれは来るのなら、呼び寄せることもなく否定も肯定もせず投げうっている。私に取り入れ完全へと吐き出す濾過器の役割を誰かの代わりに受けようともせず、光在るがままの完全に任せて


60 5/5 (sun0) 5:55 ~

39年前のこの時間、私は生まれていた。 単位をもって過去を振り替えるのは、現在を思い出すには良い仕組みだ。

世界は私を派生し、世界は私(から)の派生状況だ。 私だけが在り生み起こし、私はかくも小さい。

何て多くのことがあったのだろう。 世界にとっては些細なことが、私を創りあげて来た。 何て無意味な行為(もの)なんだろう。 こうして書かれたもの(私も世界)もは又、塵へ還りゆくまでのもの。 そんな歓びは一瞬に哀しみは永遠に在り、捨てていくまでの過程だけが終わらないのだ。 何処までもいこうとも変わらない無常の変綿、揺らぎへ還るまでの記憶たちの創造(と生命という情報処理)の連ね(歴史)だけがある。

私は愛になる。 全てを包んで泣く鳴動の愛を共振する。 赦しを乞う謝罪と与えられた生命への感謝に、生まれ換わりゆく事と変われなさに、現在との向き合いに行われている響鳴の自身に、静かに荘大な時を生み起こされている。

これは詩(芸術の為の)ではない。 生存からの詩~ウタ~である。 意味なくとも、この詩感を残す。

刻々と刻まれる線を辿りてみるように潜在的な感触に触れていく、それを存在を貫き巡る震えとも称している。

これが私の時と生命との立ち会いだ。

投げ捨てて求める、ささやかに拓く。

孤独を昇華する闘わぬ愛へ、生存の創造を闘う。 叶うともしれず、菩提の道を逝く。 与えられた全てが、生命ですらない生命の世界と自体が揺り動かされる平安を寂している。

そしてあの意識を減らしていった、現実との境に降りていく。

呼吸,数観,マインドフル,流動感触,flower of life などを通して、意識の根底にさざなむ聲を聴きに逝く。 それは平常的意識もすらが深意識との全体に包合された大自然の本体と同じものだ。

現実と生存はそこへ創り換えられる。

少しづつに達せられていかねばならぬ無限の力との触れ合いに向かいて、それを生存と日々の進行へも取り入れている。

生還へ再生し、瞬間毎との適合が私の上に起こっているを観ている。 ゆったりと自然は転じ、進むのだ。

焼き増された羅列だが、私への(我が)生命実感からの言葉。 示現する宇宙の波を、遥かに微かに語るのだ。

愛の本然(本源)へ観入を深め、望むでもなく待つように過ごす、現在地へ帰還する。

気づきによりて深められていく。

ごめんなさい、ありがとう。

自身を捨てて自身を成す、世界をなくし世界に為される。

愛の現実化、生存の創造、真の幸福。

全ての信託へ任せている境地に佛ける。

私はこの日々の転換を行く既なる調和。

最善の到達へを叶えられては私は和む。

望みは望みのままに、全てはこれで良いにくつろぐ。

生命転換。 達成と円環。

身体は生まれ変わり続けている故に違う自身であるへ変われる等とも同じく、過去を打ち切る思想の愚かでもあることよ。
一つの結論に頼るのは簡単なことだ。

愛の本質と現在の自身に生きている、今ここからの全体化。

現在私に統合されて、しかし過去と未来もの全てを癒せ。 例えこれがまさに歓びと苦しみの同居した状態であろうとも。

何為せず失われ欲望に望む哀しみも捨てていった諦めも、私に抱える愛しい全体からの一部。


では自分意思決定範囲以外の事に、流れを繋げる為の行為すらもを置かないか?

操作と人為によるカルマ(関わりにいる連鎖)を生むに関わらぬ。のなら、ではピンと来る自身を越えた流れ来たに触れた時以外での一切の積極性を持たないか?

ならば身近範囲での対抗的な処置の肯定,他の手段のなさも、無関与以外の無行為性に流し込むのか?

得られるチャンスがあっても、自分の流れでないと思えば受け取らないのか? その時々に感じ選びゆくしかないとしても多分それは大概において正しい。

待てども来ぬが、描いては流し去る。

手に入らない。なら(手に入るとしても)、得ようとしない。だけが真実の幸せか?

流れのままにをゆきて得ゆく者も居るが、流れに任せほどけ在るからといって現実化の来ぬ者も居る。

流れで手に入ってしまった者は簡単に捨ててしまえるが、目指してようやく得られた者は簡単に捨てられぬのも当然だ。 故にもフリーライドを怖れもする。 僕が用意したものを簡単に捨て、それが執着ない在り方だと(そうだとしても)肯定へ開き直る事なども、だ。

Visionに対しての現在自身を選択する。事は自身のままを他者へ押し付ける事でもあり欲望の選択でもある。とは言えぬのか?

原因による結果の支配を受けない自由、への知性,自律。(欲望ではない)による到達が自由意思による共通到達,命法,純粋理性と言ったカント理解の、それは自由の定義と道の一つの形。しかし理想に過ぎ又は知性上位者の支配にも転換され易いのでは?

自己意志の根底。 自由や選択も基準。

人間を越えて生体に生きる。 生体を使って個を無くす。 欲を捨て望まず現実化も望む。 最少へ抜けて行為する。 それらの選択点や死なず電子知性や全体化するは何故違うか?への仏教などもは説明をしてくれてはいない。 これは誰も示してくれてなかった真実と幸福への探索。

全てが自由で破壊も良く、しかし愛,肯定と共生を目指す。事から、それさえも本当か?と疑い問い離れた段階へ進んだ私で、しかし方向が定まらぬでは何処を選びとる事も出来ない。

愛と肯定と方向と共生的幸福もを疑い捨てて現実利益も煩悩も破壊も非生体も肯定する処からの世界と自由を眺める選択と真実の基準を探る段階を生きている。 この探険が何を産み起こさなくとも、僕は僕の必要と内化の上昇を歩んだ。

才能は創造へ生かされなくてはならない。 けれど私のままに生きるとは、求めることも捨てるのか。

流れは得るとしなくても人為にはばかれても、必然的な流れとの適合,合流を生み起こすのか? ならば流れに乗り合いていく必要は何故にあるのか? それを他律とは言わないか?

答え出ぬとも問い観じては逝く。 欲求や段階の、現在の自身を生き流されるままにも任せて。


61 場所

もう場所は戸隠,飯綱エリアで良いので、自分の自由に使える土地と家が欲しい。 どうしても山に、此処に住みたい。

場所作りし薪割り子供たちも近くには住み戸隠小学校で良いというvision

木は建材,薪、藪は垣根、草木は牛馬などに食べてもらい小川で発電、浄化池、トッカン工場、炭焼き陶芸釜なども作っていく。ので、森から切り拓くのでも良い。

最初は豊原上の台形地で良く、その後にも移せるが(ゲルなど湿度,降雪に対応出来ない物ではなく)気密,断熱にもしっかりした建物が良い。 家族では住めぬので、子等の家はbikenの建物で土地は借りるのでも良い。

金が必要だが、出来ることでやっていくにはやはりトッカンなどは後からついて来る可能性のものであり(母とも関係出来ぬし自身の力の振り分けとしても出来ぬ)自分の仕事成り立つ他は無さそうか。

聖者,仙人であり吟遊の歌人のように自身に充足し他者へも緩く開け学校なども提供する。

母は物産直売兼ねたカフェをやり、僕等は祭りもやれたら良い。


62 5/6,7 ~

このままじゃArtist,哲学,聖者,家族,としてもの何も捨てられず何もかもが中途半端で終わってしまうだけじゃないのか? それでもそうした何処か一つへ突き抜けられなくてもゴッホがコミュニティや牧師をも目指したように、これしかいけないのなら、これが私の逝く道なのだろう。 愚かでも流されて生くしかない。 到達されぬとも、その者(自身同士)を生きるしかない。

そして僕の目指している何処か一つの突き抜ける先とは(それも叶わず結局は半端な結果に終わるかもしれぬとも)、これからの共生的進歩のart,霊性,交感的深さ,共生的関係や暮らし等の一体となった人間的歓びへの存在と創造なのでもあり、この現在が既に、その進歩帰着の当然,普通(もの凄く高き到達,超越者でもなく)への先取り体であるだけであるとも言える。

これらが理解と納得への判別だが、それにより結局はこの自分のままで。が分かるに至るのだから分別は、その全肯定を知るへ高めゆく為の以上には要らない。 しかしそこへ高め培い逝く道には分別過程が要るとも言え、肯定のみ。へ止まってしまっては成長は止まってしまうとも言えるし、自分と全てがこれで良い事の段階判断は普通出来ないのだから、判別により更に高く進んだ肯定の真実を深く削り出していく事は大切な知性(現在,限定的な我等においての。であり真の超越的者には、そうでないのかもしれぬが)交感の道とも思われる。

では判別を止めた肯定への超越へ向かいながらも、そこへ至る為には判別を止める事が出来ないというのか。

もっと潜在に触れた者も神のような媒介者も意識高く他者へも伝えられる知性も世界を良くしている徳持つ者も素晴らしいartistも行為者も居る中で私は、この存在と観察においては負けてないという競争的な比較性にアイデンティティを保とうとしているだけではないのか?

又、ここの処まとめられず問いばかりだが、それらの上から俯瞰して全てを解く鍵(key)を手に入れさえすれば解決出来る。 その為にへもの活動従事でもあるのかもしれぬが、この観察し書くのみの存在と創造を肯定するという依存の肯定であるだけではないのか? それでもこの自身を生きるしかない。のは結論であろうとも、そんな愚かな自身可能性を把握していく認識も必要ではなかろうか?

例え存在の質という高さと本質へ向かい逝く為の自身と段階各自のみがあるのだとしても(段階区別はなく段階区別による認識も在る。)、そして個我的魂は存在せず宇宙の進展に合わせた魂的階層からの必要,現状段階が生命化へ顕れて来ているだけかもしれずとも全ては平等に、その者自体を逝くしか他に何も無い為されるのみの徹底的な運命論的悲哀に諦め流され生きるしかないと自身意思への想起も統べられた決定に従うのみであり自由意思などないのなら、その総体段階の主体者(そのものではなく、それも下位構造だが)へ近付くへと技術によりても拡張し自己意思下に置く移行を目指すのは何故に良くないと言えるのか?は運命に従うのみの存在から現在よりは高次元の運命を創る側の自由を目指す事ではあるが、その段階においての自己などは残ってはいない状態へ分解再結合された別の存在へ変容し又は変容していないと行けないのであって、結局は更なる総体から為される運命の実行体となるに変わりなく、物質的今次元の段階に在る自身を高次元の別状態の自身(魂)からに触れては為されて生くのみを良しとしていく知覚の自性を生きるのみであるからではないか? しかしそうだとしても、今次元の制限よりは自由になる高次元段階へ移行していく魂的高みを(今次元へ通じた魂の現状において魂からに触れた高みを生きるというだけでなく)目指し今次元から存在を抜け消していく事や 、その別の意識状態が全体性の歯車として自己を(今次元のようには)持たない状態であるならば個を無くし全体へ融合していく電子的存在へに技術化が間違っているとは言えないのではないのか? 例えそれが今生体性を持ちながらにも逝ける道でありても、その苦しみによる少数輩出の仕組みを抜けて生命味わいの自身ごとの各自を歩ませ進化させてゆくという過程を飛ばしても良いのではないのか?

その次元にある自己の状態が全体融合性に近付き自己性を持ちてはいなくとも、そこへ至る自己の意識進化は(高段階での行為,選択性にも関わる故に)必要であり、その為の意識の進化へ人間が歩まなければ一足飛びに行かせるわけにはいかぬとしても、それを技術的進展がカバーし又そこへ至れば意識は共通的な進化段階を得なければ存在出来ぬなら、その進化段階へ半強制的にさえも(自己選択権は認めるとしても)繋げ進ませてしまう事は、(この生体的な奇跡を棄てるのだとしても更に高度複雑な奇跡の連関へ結び着くにも)間違っているとは言えないのではないか?