junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

76 5/25 (sat) ~

76 5/25 (sat) ~

空は雲一つなき快青。
未だ繁茂す前の雑草たちの繁りも、闘い終わった私には全てが懐かしい。

岩上黒身の子鷺立つ川辺に、鶯の鳴く、もう暑き春の日。
子等を連れ来て遊んだ或る日を思い出す。

また柳の下、川中の岩を跳び水に親しむ彼の時を、過ごしたいとも望む私の、想いのままに、生きても良いのだ。

少しづつ何もかもが変わっていってしまう新しきへの変転が、何とも哀しい。

河岸の階段、植彩、家、人々の営意。
公園の木洩れ日、川水の音、風の触感、堤防に座り眺める私、登り来た蟻。
変わったものと変わらないもの。 全てが私を流すもの。

世界は私が関与せずにも進み去り、私は行為なく歩き風わけて泳ぐ中での行為を置く。 世界は私を過ぎ去っていく
眺めては何することもなく生きゆくがのみの快感を独り身に編まして、止まぬ世界の音を、聴いて、いる。

苦しみは私の同一へと去り、死は生の一部へ去ってしまった。 私には只、今日を生き抜く、存在の、生きている。だけが在る。

この私という変革をもって、あなたへの祝福を送ろう。 世界を踊る。 誰に聴かれていなくとも、この生命の価値と事実を時の一端に放ち、宿して。

滔々と流れる円還への還流が、私なる散文の詩をこの世へと連れ出し、私とは唯、この現存を語るものの流れだ。

ただ生きる。 ただ流れる。 私を、そこへ連れて来た。 苦しみを越えて至りた先の生命が、揺れて、在る。

哀しくて哀しくて、仕方がない。 涙と心が溢れている、この独りでも、に世界を送ろう。

愛に満たされ死を越えて、誰とも満たし会えずに哀しい哀しいと泣く、苦しき独りにも充足する。

同じ言葉を重ねてしまう私が詩にはならぬ(又は詩にしかならぬ)ように、しかしその何度もに積み重なる実感に、どうしても涙出てきてしまうように打たれての、私を震える。

このような苦難の世で、それでも大きく奪われ過ぎてはおらず(比較ではあるのだとしても)にの自身を与えられて生きて来られただけで、如何に恵まれ幸せであったかというのみの、この生命に在れての自身を歩めて良かったと、実感を深めもする。

諦めの言い訳ではなく、言い訳でも良い。 すべてが善く、なってしまったのだから。

雨の日も晴れの日も麗しく、これで良い。だけがある。

愛と苦しみという同等が常に同居している

違う時間や気候の、午後の日差しや暑さや青い夕刻にも似た、じとっと焼けたような切ない匂いの昔を思い出す今日に流れて、今日は何故かやけに哀しい。 為せなかったことと、与えてあげられなかったことの日々生きた郷愁が打ち上げて来るからなのか? もう死ぬのかもしれないなと思いながらも歩きゆく日々の潮へ生きているだけに抜けられたはずなのに、何故か哀しい。 こんな日々を生き来た日常ではあるが、思いては何度でも涙溢れ来る。

分かり易いカタルシスへも頼りたくなる程にも孤独だ。 溺れなくとも、僕だって認めて貰える愛の関係と温もりが欲しいんだ。


何が用意されていてもいなくも、 時間だけが僕を然じ解決されていくを待たなくてはならない事も多い。

希望の欲望へ期待せずとも、その為に歩める。のも良い。

自身解釈で聴かず棚にあげ、それを押し付け来る(それのみで対応する)ことを否定と言い、(知識ありても)馬鹿という。そうした自己定義された言葉を説明することさえも叶わず、何をどのように伝え置こうとも無意味であるに、もう言葉化すらも出来ず愚者からの人為と強制が僕を絶望と適切な表現へ表す努力さえからも捨てさせた愚かな無知性表現にさえも更に化させている。

そうした理解能力は知性でもあると言えるが、知性絶対主義の事ではなく当たり前の多様相互関係への共通や理解態度(外形ではなく自身内の)や方向性の事であり、脳機能的な個別の理解能力(個人格差のどうしようもなさ)の事でもない。

人のせいというより、これは事実的な経過把握と思われ知性的分別も捨て言葉も捨てるが良いのだとしても、僕はその孤独と克服へ闘い立ち続けるには疲れているし、人間の愚かさが僕を殺そうとするのだ。

5/29 ~

無理に関わり会わず捨て去り離れるも良い。は一つの解だが、安易に離れるしかないという解釈へ逃げるなら、人間とは分かち合う方向行為を一切に捨てて関わらぬ又は他者を滅し去るしか自身を保ち生きてゆく方法がなくなるような他人や共生可能性の排除にしかならない事もが伝わらない。

なるべくに自身の世界へ関わる業を抜けながらも、しかしその状況がそうした理解なき強制の他者へとの時間や関係や対応への連続をもたらすのなら、例え自身が苦しくとも怒りへと表出しては、それ以外の提起可能性が取れぬことも仕方ないと覚悟しているにしかない。

愛の存在で在るへ向かいながらも否定や指摘も(その結果や影響も)怖れず同等に生きる。 けれどそこへも膨らませない自身を制するバランスを、日々と私への最善に選び取られていくに任せる。 私に与えられた流れは戦争や犯罪へと化されずとも最小性の中にも育まれて来たように、この私と周辺において済まされてはいる。

社会的連係の判断たちは常に二元的振り分けの単純さ(と少しのみの複雑性)の解釈を押し付けて来るが、これらは他者のせいにした言い訳でもないのだ。 全体はその連結の作用反作用で進むは良いが、その強制と反発の愚かと無駄から私は奪われる事を抜けていたいと放り離れる。

私は自身内部に相反と統合の状態を宿して(普通の事であり皆誰もが本当はそうだと思うが、そうではないらしい世においての比較としての多様と分裂と統合を持つに)は、何もかもが一義的な解釈を当てられ他の解釈可能性を奪われる言説ばかりの社会と人々の間で(勿論全ての可能性を告げる訳には行かず、各種専門性の中でのコメントを選ぶのだとはしても)それが最大平均的な解(全体功利)ではありても、その浅はかな判断は違う、止めて欲しいと言う事は絶対の正義ではなくとも悪いとも思えない。 当然と思われるだろうし、自身でもの何度もの確認ではあるが、その自身で在るがままを行うも良い。

しかし自分の力でやってやる。と自身の力では足らず遂行も出来ず人の助けを待ち頼るしかない僕でもの同時に、この役割と特殊技能での自身がしかと自身に立ちゆくのみに繋ぐ。 その結果が繋がらなくても何処へ繋がるのだとしても、この一つしかない生命への宇宙過程を逝かされるにしかないへと任せきる非情を覚悟し流し去れ。

とても普通一般に働く事なども出来ない。 それでもこの存在と潜在的創造性への才能あるによりて、そこでの自身へ与えられるであろう働きへ信じられるという役割可能性の顕れ方ではあるが、才能も独自性もないのにそれしか出来ず、この貧窮を生きねばならぬ。というような存在生存さえもが如何に無駄でもその者を生きるしかないというような世の現じさせるかもしれぬ可能性と悲哀と多大な喪失感情の中で生きる人の救われるには一体どうしたら良いというのか?

先日事件のように絶対殺意に対し絶対防御が出来ぬ対応不能性にありても、対処の仕様も必要だがやはり根本的な不充や欠乏感を満たし埋めていく(リスク軽減の為の全体解でもある)総合的な解決へ向かってゆかねばならず(現世,現実へ関わるならば)私だけではなく人々の皆が、それは私の中にも在るものだと理解することからが必要であり加害者に対しても、この誰が成り得ても不思議ではなかった選択と結果の悲哀へもへの追悼を自身等への教訓へ送らなければならぬのだ。(例えそれが発信されても、民もmediaもそこへは向かぬが。)

初めから人間嫌いであったのでも他者のせいにしたのでも愚かさを馬鹿にしたわけでもなく、打たれ続けて我慢,忍耐と肯定への自己否定による成長,変革の努力や歩みのみに在りては否定される強制に打ちひしがれて来た経過が私を作り、そこには確かに過剰反応もあったが少量の他者原因へ大きく打ち返して良いというような無根拠な自己正当化や理由づけではないのだ。

そして如何に愚かかが分かって来た人為の世から突き離れ諦めながらに、しかし何を如何に伝え関与するかへの身近さからもの実験には失敗と否定と絶望感の肥大ばかりが返ろうとも、この事象の我に起こるは肯定への変現をゆく為であると共にやはり如何に対応し何を伝えるか?への必要や学びを行っているのではないかとも思われるのでもある。


感情の状態を判断されるようになっても、歓びと悲痛を同時に抱えた私のような存在は一般的な文脈の中ではどうせ正しく理解しては貰えない。 これは特別な特権意識などではなくて、現在ではの判断codeに含まれていないからだ。

故にも私は名誉の為に有名人となりたいのでもなく、(その役割の生かされ方としての必要がその状況化を求めているように)名と肩書きによる発信,影響力を持つにおいてもの新たな意識や存在の置き方へもの提示を役割とするへ求めてもいるのだ。

そして肩書きとは(それによる人々の判断なる浅はかさが好きでもなかったが)、私を為す事の結果においての(又そこへと向けた)自覚であるにおいては何の制限もは必要でなく、それは自己を名付けられず自由で在ることと自己を規定される中でもの自由を得ることの同位の様相のようでもある。 そのように自己への生起事象を観察し分別立てる事と、しかしそれを外し去っていく事の同等が同時に行われていく解体と構築の同相に在りて良い。


こうして重なり合う事象からのメッセージを自動受動的に受け取る自身現在への連関に掘り出す機会とし観じゆく日々と生命の出会いが、それのみをもってもの麗しさであると言えるもには生きていられるこの才能と生命創造に恵まれてはいる私を感謝しては、何処への結果へ流されるとも現在を感じては育め。

伝えるを諦め自身のみへと闘い又は闘わず愛へ呆け去り、外部他者へもの愛とのみ成り、しかし伝えるを諦めぬにも闘う。 矛盾と思うなら解説もせぬで良い。 これが私だ。 誰でもない、original(originalityづけという依存ではなく先にも言ったが本来は誰もが当然の共通であると思っている。)な生存への統合と宇宙現在顕現の一端だ。

故にも、人為的な選別で自己や生体を改編するのは(ゲノムや有機的な事象などもの相関が全解読されたとしても、そしてそれが愚かな破壊を生まぬ共生的な全体功利の最適解ではあるとしても)自身へと与えられた環境と発現の因子や連関を技術,化学的な改編で断ち切るべきではないとも考える。

この2極同時を会わせ持った二律相反的な人間と宇宙本来の独自の相を、それが如何に平和な社会を制限も少なき自己権利の名の元にも創り出し引き上げるかもしれぬとも善性のみの優性的な性質などへと導かれる事ではなく、そこへの意識と技術が交わり進む事とは人間,物理の制限と意識を技術の進歩により改編させる事では無いのではないのか?

しかしでは此処でまた、他者の破壊や収奪可能性への自由か制限か。の対立における調整,均衡点を、その時点に達成された段階ごとに選びとっていかねばならぬ中での現在と未来の過程と結果終息地の想定において如何なるものと定義し提起することが出来るというのか?が課題であり私の立っている生存性質の自体と現在地の一体だ。

つまり自由の生み出す問題へ対しての善という最大功利の為の自己消去や生体の改編という自己選択(優性的理由においては、それしか最善的な選択肢はない)の名目による新たな非生体化という制限。等を如何に個や生体の生み出す愚かさと均衡を取るか?ではあり、ではそこに最適解は存在してさえもいるのかいないのか? 仏陀の言うたような自己を制限した自己制限の抜け方の方向は普遍,唯一的な真実でもあるとは言えるのか?


77 起きた時に覚えていた夢 5/28

インドだろう湖 汚い uma捕まえる漁船の網には象ばかりが大量(大小10以上)で離す

端では囲われた澄んだプール 飛び込むと一気に深い底へ(25m程)潜り 人々も遊んでいる(ここからは欧米的人々や繁栄社会) 上がり潜り(ドルフィンキック試すと少し速度は鈍り、しかし到達) 自由に泳ぐ 息も不自由なく
下からも繋がった大プールへ 女性と水底カフェ空間へ 踊り注文
時間により皆出る 鉄階段回りて下通路へ

何日間かの盟友女子 別れ前のよりそい 約束 ノートを交わす? 通路を光へ抜ける

バスを待つ 服未だ バス間に合わなくなりそう 紙荷物整理急ぎまとめる 車鍵の置き場に困り置いていくと取られるかも 通る中年の3人組に相談 車返さず荷もそのままに乗っていけば良いと気付き解決 (この辺りからは日本)

車で19号らしき山間を長野方面へ走る 友か山へ寄ろうと思う


集まり調理や談笑しあっている他者家族の大人たち子供たち 宴のよう 小さくなる薬を飲んだらしく大多数が子供に 隣の14~18位の青年だったらしい男子とオモチャの話 何人か話し人も多いがストレスではない 同行女性は他で食事作り等か 火を囲みて寛ぐ

竃の焚き火 僕は歌い出す 手の空洞で反響 しばらく歌い繋がりてしまい コーラス的メロディなると皆も合わせ始めオームで立ち上がる すると炎がphoenixに燃え上がる 朱に発光し燃え散らばる顕れ
写真とろうとしていたら火の世話へと横切る人 普通の火に戻って来て彼を退かそうかと思ったが1枚は撮り(また燃え盛るかもしれぬしコーラスは続いていたがメインが抜けていると縮んでしまうので)歌を続けるへ ~ この辺りで夢から覚めた。 8:30頃


小市の家を母片付け料理しているを訪ね 今日はふるまいでもあるよう 僕は子供
父居りて、こんなに変えてしまってと言いながら、しかしきれいにはなっている
この家に住んだら等は言っても無意味と、しかし壁に沢山飾り直された絵を見ながら聞く、こうした絵を見ていたから写真やろうと思ったのか?と(それも僕へ繋がる意味があったのか?という意味でも)

そうではないがと隣の通路部屋の本棚探しソファ~奥の廊下の方へ向かったを追う、これを読んだからかも。と一冊の本、先程気になり手に取ろうかと思っていた唐草風装飾の greenbook。 ページにはポケットで中にはステッカーのような家に絵などの切り片たち。 戻ると母は未だ忙しそう、父は死んでいると思い出す。~ 11:11頃起


78 ~5/29 (wed)

この夏のような頃の、しかし今日は爽やかな春の日の匂い。 抜けてゆく風に触り、季節の生み出す情感、鶯や山菜やらの五感に立ち合う我が時の生命ゆける幸せに爽々と流ぐ(なぐ)。

嵐も凪ぎも大海の船に過酷だが、それら全てを楽しんでしまうように天に任せて天に頼らず、惑うも良しな惑いを抜けり。


人工的programの生み出す連なりの中にも勿論、奇跡的な簡単には見えておらぬ複雑神秘の連結性は生まれるが、(物理,身体もが宇宙のシュミレーションや脳の見せるvirtual存在であったとしても)この我々現在に感知する自然現況における連結へ交感し気付き響き合うようにも共生する自身表象化の生存,現在,世界そのもののArtは既に貴重この上ない、その価値に気付くだけで入り生きられる生存の最大開花へ与えられた恩恵ではないのか。という価値と感覚のみが真実であるかは分からなくとも伝え興したい方向としての私は自身を与えられ持っている。

そして必要ではない些細な事で起こってしまった結果もすらが又それも必然であったように受け取られ、外事や小さな事で流れずれて合わぬとも、それもまた調整されていく中での流れとは感じられてはいる。

全てを決定されたくはないが決定への後押しは欲しい。 例え自己が幻で自己をなくすも欲望でも(そして決定への事象は自己越えた処から与えられ来るのだとしても)、決定の主体者は自身で取るのだ。

その自己決定の意味もがなく人為的設定からの最善解を受け取ることと変わりはないのだとしても、そして自己拡張の延長に自身上位(新たな神、なる依存先)の自身が置かれ在るのだとしても、そこからの正しさに全てを規定されずこの個的総合体としての個人的自己を持ちて意思想起され選択,決定の主体者となることが必要,重要な事ではあるのか?


ビリヤードの何処へ当たるか0.01mmや秒速の違いや角度への震えまでが決められているというよりは、それでずれても次の局面で9の代わりに7が落ちるなどのように全盤の配置や繋がりが多少変わったとしても総合的に起こる事やそこで及ぼされる心象の集束は、ほぼ変わらぬ結果をもたらすのではないかというような流れの調整は完全にもう記録されてしまったものの通りに進むのではなかったのだとしても(その総体を起こす者の意志があるのかも分からなくても)連結に絡み合った総合象の必然性は有り得ているとは思われ、そこさえも書き換える魂的段階への関与における操作などもは必要がないのではないのか。

よりてでは行為の主体者である自己の感覚や行いがずれぬように流れに従えれば無駄なくて良いとはしても(無駄を省く意味さえもなくとも自在性という自己満足は得られる?)、ずれても調整されるように必然が起こっているを眺め良しとしていれば良いのだろう。

起こりた事象が何であり多少の違いがあったのだとしても、そこへ対する何を感じたかのみが自身達各自への全体へもの影響を持たされるのでありて、つまりは全てが心の捉え方次第のみであるとも言える。


数学的証明や整合を待たぬとも、この知性ひとつでの真理的な到達へは至れないのだろうか?


5/30 (thu)

愛を送るのでもなく自身が愛で在るのみで良く怒りを表することも良い。が 、それでも愛を送ることが相手の現状などへも資する私の行為の報い方ではないか。 真に知性と幸福へ変える目論みもが必要なく、相手が充足しながらに後は勝手に各自の段階でその道を歩くに任せれば良いのだ。


奪う権力的力の使用者や愚かな人為強制者などのように、あちら側かそうでないかの二元分別で見てしまう私でも只、何の区別もなく呆けるように判別なく奪われるも良いままに突き抜けていく為の私があるのか?

どうせ人の性質は、身近でも(死ぬまで、ほとんど)全体でも変わらない。 それで良い、それで良い。だけになるべきなのか。 それしかないのか。

自身で在ることは捨てず、しかし可能性の全てに明け渡される強き柔軟さと在る。

全体の肯定と愛に流され、易きや他律に流されず、他者の築きを全て受け入れ取っていくような空(kara)である必要はないと思っているが、苦しい基本の中でこれで良い自分である事と愛の平安の中でこれで良い軽みでもある同時や両持の自身であるが、その両方である故に軽くはなく重い。

それでも愛であり苦しみを忘れぬ私のままに、離れ関わらず闘わず世の悲苦を救うへ闘う孤高でも開けて両方同時一体の自身にしか在れぬなら逝け。 そこへの自信と充足に泣きながらも奏でて。

それでもこんなにも自信がない自身のままのままに、しかしそれも良い、与えられた私への育みでもあるのだ。


解の出ず、この過程ゆくにしかない私が誰に否定されとても、これを逝くしかないままにを生きる。 けれど自己の肯定を説いているのではない。 自己と全てが全体を肯定し、そこに深めゆかれる各自の交感と生命の味わいを逝く道。 そこにはもう、解が出てもいるのだ。

しかし流れから又は突然の想起からの言葉化や解答を紡ぐ事は出来ても、そのテーマ自体からの答えを(真実とは何か?や今、何を伝え表明したいか?等のようにも)即出する事は出来ない自分ではあるが、それでものやり方などが自身にとっては必要とされている。

説明の在り方はこれ以上に上手くならなくとも良いとしてさえも(そして何を言い置かれたか等もは、あまり重要でないことも多いのだとしても)やはり、その如何に表出するのか?はflowへの想起と流れへの乗り方という創造化の自身においても必要である。

怠惰な時もあり、反動で進む時もあるように現在と自身への観察,交感へ対応,適合しゆくだけが真実。 その全てが正しくて良い。 与えられ出現するものだけがあり必要だけが必要に起こる。

しかしそこでの真実的基準への分別や選択の方向は必要ではないとなどとは言えるのか? 自然のみに流れ在り、乗り,出す事もない遊びと出現の存在のままに在りて為すのみであるのか?

まとまらず堂々巡り的な進展、又は同じ事の繰り返しと滞流であるかもしれぬとも、その意味も知らず判断もせず安易な肯定もせぬが、流されて生き私への生を生くしかないのは知っている。 誰に認められず哀しく痛みも時にありても、これでしか生きられぬには納得して往かしてあげるは自分しかない。

自身を捨てて自身を行為す。 真実などに取り囲われなくとも、の真実を目指す。 これが私だと肯定しながらも、全ての私(制限も得た物もの充実も過去も未来も)を越えてゆく。