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5 闘い

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5 闘い

現実的転換への操作もは必要とせず、全てが自由でどちらもが有りの上での何処を選ぶか?

意思(と思われているもの)による選択か、与えられたものを行われるだけの生命か。 それは自由意志を起こす元因,拠り所を何処に設定し置くのか?でもある。

全ての選択もは良く自身の納得のみであるのだとしても、ではこの全てを捨てた中での生命の目的は?

世界と戦う対峙においては打たれ家族など居ては守れない故にも、子供たちと関わりその可能性を与え育むへ関われなくとも(哀しくとも世の中などはそんなものだし死んでしまっていると思えば関われぬとも仕方ないものだ。)そしてこんなにも弱く出来る事も少ない自身のままにでありても身を尽くし使用するのは、死をも恐れず家族を守る必要をも捨て去りた世界という大きなものへの関わりへと歩むが我が闘いの方向性であるとも言うのか?

成長へ教えられるというcontrol方向も真実の価値への生き方欲求や判断もなく、自身のみであるも家族もを捨てている。 もしくは世界などを放り捨てての、そちらのみに生くべきか。等は選択しなければならぬようにもなるのかもしれない。 何かを成す為には何かを犠牲にしなければならないようにも。 しかしそれら得るものと失う物のバランスや差し引きはバーターではないのでもあるし、私は今もこの生存を自身と家族と世界の為の一体に尽くし尽くしてはいると言えるが。

何かを得る為には何かを捨て失わなければならぬのだとしても、それは全く同じ比率でなければならぬ事は無いようではあり、どちらか全てを捨てぬとも少しを諦めては大きく前進させる事は可能なのかもしれぬが、しかしもしくはそうであったとしても、どちらも全てを得ようとしていくのは得られぬ限り苦しみとなってしまうが故にも、全てを捨て諦めているのではなくとも家族か世界か自由か他者か創造か生活か等もの選択が迫られる事は(それが真理ではなくとも)充分に有り得る世界の可能性である上で、それが私に為されるかも、その時にならなければ如何に選択するかも答えが何であるかも分からないとしても思索と探求の仮題としておくのは此処にも妥当である。

自身を設定へと規定せず、しかし現実化が来ないなら、その状況の中で自身を選択し行いゆくにしかなく、近しい身内との対立による学びと愛への転化が外部他者間へと変化して来た現在地点においてものように、その最小限で試し得て来た処からの愛の成果を拡大しゆく状態で試しゆく段階にあるも分かるが、例えこれが突き抜ける私の課題と動力の最善と恩恵でありたとしても、もういい加減にしろという位に疲れ果ててもいるし押さえ込めぬ故の爆発だけではなくて又、愛の存在だけではない対抗も(最少労力による均衡を目指しながらも)認めている現在が故にも、そこに起こるかもしれぬ対立や破壊の無駄への適合,対応の労力に付き合っていたくない為にも、人為の押し付けからによる対立に巻き込まれず苦しみもない事へ(それが自身の原因などにも拠らぬ自身への必要であったとしても)至り着けゆく状態もを願い求めるが、それもは自身に計り知る事も出来ない成り行きが(自身での方向は持ちながらも)行われゆくへ任されていくにしかないものだ。

それとも囚われぬならば戦争の無駄と破壊もゲームのように自由に楽しむへ持ち行いていくも良いとは言えるのか? 囚われず(破壊のほとんどは自己という囚われや怖れによるものだとはしても、そうでなく)自己に与えられたと感じられた又は感じ為される自己性質などのままに行われるものを怖れなく(為されるしか選択肢がない自身や必然的な自然の非情だとしても)行われる任せる事と、その納得の為にもの選択(方法が見い出される常の必要でもあるが)への覚悟のみが必要とされているのか。

つまり囚われに拠るとも拠らぬとも、その自身へ宿される必然(がありてもなくても)の上に何を自身が選択し、その結果を受け取っていくかの責任もに立ちて納得出来る行い方を如何に自身で選べるかへ感じられるか、だけがある。 世界の多様自由選択の方法に答えが有るのでもなく自己性質にありても、それを唯一の基準とするのでもなく任されるにも行うにも、その納得点への動きを如何に感じ取り得たかだけがある為へもの、感じる事の価値と道がある。

否応のない自身か家族か世界か。の選択を迫られる、幼き時からの想像内の思考実験のように私は自己と人類なら人類を選べるが家族と人類では未だに迷うだろう。 殺し奪い来る力に対して(その実際状況が自身に及ぶかは関係なく、それでも平和主義,非暴力と言えるのかにおいても)愛となりて殺されるのか,奪うなと提示するのか,子や大切なものを守る為にも力により機会あれば殺し返すのか。の選択も同じく未だに惑うが奪い殺し来る彼も自身と同じく、その囚われや自己経験にもよって選ばされて来た世界の流れの役目を行っているだけなのだと理解して慈悲を送り愛となりては自身唯一の選択と世界同士の間にある対応として殺し返す事や対抗するも間違ってはいないのだから、例え守る事や境界を保つ思想が自己保持の囚われであっても、それは世界唯一自己同士の生存と選択の応対,交感の結果としてもに悪いとは言えない。

又、僕は戦争になっても戦わない。と覚悟を持って思っていた。 しかしこうして命を捨てられたものこそが何にも囚われず何かの為に等と言う比較,優劣すらも持たずに(もしくは家族や何かの為に)、その状況に際してしまった時には戦うべきではないのか?

軍国主義下での教育や社会状況にありては、もしかしたら私もそうだったかもしれないと感じ想像する能力を用いては しかしもしこの性質性の私に生まれていたのなら、やはり積極的荷担も(世論形成の一部としても)しなかったであろう。

しかし戦争を持たらしにやって来たとjesuaにも言われたように判別つかぬ世界の過程の取り方としても、又は人間の持つ外交手段としてもの暴力使用の可能性を使うこともを全くに認めていないわけでもなく人間的アビリティの使い方や弱者の手段や意思の表明として、又は自衛力や私刑の効用も(積極的にではないが世界への対応具体手段として)認めてはいるが私は、マルクスのように変革の為の積極的な武力の使用という種を撒く事に汲みする者でもない。

人間の暴力性は仕方ないが、それが無知性であることは問題だ。 武力装置の解体は目指し得るものだが、それを保持しようというoptionも残しておいた方が良いのかもしれず(ただし外来知性からの襲撃に備える等においては、圧倒的な先進技術による侵攻を計画するならば武力などという非効率さを使用しないであろうが(皆そこに焦点をずらされ洗脳されているとも感じられる)、しかしそれでも或る程度の対抗力と即時配備の可能性は有った方が良いのかもしれない。)未来などが見えても見えぬとも決定の決着点は自身にも全体にも取り得ず、その(議論が無駄で消費材にしかならなくとも)相対作用における過程を経ての決着点を採りゆくにしかないのだろう。

では、正しいかではなくとも自身visionに従い現在を起こし置いていくというように、未来の想像からに現在の進み方を考察し採り入れるという人間的な能力の使い方をも否定し減らし、可能性を追わない。 やれることをやらない。という方向へ向かわれるべきなのか?

自分を高めてどうする? 改善性などへの欲望,向上,執着へ依存させているを自覚し抜けていくべきではないのか? それは引いていくのではなく成せる事への成功や強さを求め続けるか?でもあり、その自身を高める先や目標への質や方向への問題と問いかけでもあると言える。

金という国家の信用を保つ為へもの武装や実力装置というのも一理ではあるが、金が失くなっても人間の意識と交流の実際的な形が変わらなければ、暴力装置は止まらない。 そこにあるのは暴力も良しとしての システムへ取り入れていくか暴力の制限を如何にして行うか?しかないではないか?

そして金が失くなっても得る事が選択可能になれば、例えば飛行機など資源搾取への歯止めが(皆が旅や外食を享受すれば資源量の消費は増大する)一人づつのモラルや選択に任せる以外には効かせられない。 勿論それは金の縛りが無くなり自身生活での余裕や共生の気持ち良さへ生きられるようになれば、自身拠点での生活を作り育む喜びや定住性ごとでの(3ヶ月~は落ち着いて一ヶ所で住み、たまに多様を取り入れに行くような)旅の仕方が一般的になり余程の旅人気質か(そのほとんどは簡易な航空を採らないであろうが)もしくは状況享受の欲望肥大者や仕事上の必要でなければ、選ぶ方法ではなくなると思うが、それでもその自由選択のみに任せていては資源消費の可能性は残り続ける事に対しては、規制は少なくが望ましいがやはり各自に任せただけではなくて共通方向への規定や(ここで言うなら例えば、乗る程に逆加算されるマイル制など簡易な対応は当てられるが、問われているのは規定や制約を個人の自由に対して何処まで設けるかである。)ここでも仕組みか、エントロピーを増大させぬ技術の発展か等は意識次第の以外に求められているのだろう。

故にも、その私にとってのだけでない共生の基準,調整点の発見や発明と提示は課題であり必要なのだ。 そして仕組みと技術への方向は示し私にも考察はするが、それは他者開発の役割ではありて私の主軸役割は意識の変革根本に関する仕事へ超越と現実を繋ぐ事ではある。

これは私の、愛の存在化のみへの闘い。でありしかし、その愛によりて表出への具体行為の現実対応を何処に置くのか?が、空と現を通ずにも繋ぐ常なる問いではある。 それは全ての聖なるに通じて行われて来たものではあるが、今のところ僕に読み取れる範囲で彼等にはしかと示してはくれていなかった(いるのかもしれぬが疑い学びながらに掘り出す)ものへの問いと現在世界への適用の取り出し過程なのである、問いは即ちが(結論に出なくとも)哲学である。