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4 電子生命化方向

143-1 4からのまとめ。
4 電子生命化方向(仮題)

自我が問題なのでさえもなく、特に人間界は作用と反作用の相対や愚かだが対立を通じての全体による弁証法に進みてもいるように、その保守と革新などものような均衡の取り方が必然性への適合を起こしてもいるように任せて、私は世界と対照の私内部でそれを行いゆきては、それ以外での外部に関わる必要もはなく、又は関われぬがままの自身を生くにしかないというのか?

個と生体を捨てて個と生体へ還り来る生の歓びとなるという仏陀の方向ではありたが、では何の結果も方向もを知らず生命への囚われを捨てたなら、死へ抜けてしまうことの肯定が何故に違うと言えるのか? 例え最少でありても資源消費し奪いて生きているのだから、生の奇跡を体感し生きるを味わえる歓びという囚われ以外の理由で生にある必要などはあるのか?

ここにも、生命価値への各自の簡易な結論づけを持ちて判断しゆくへの利用が行われるだろうが、そこに留まらず進みた者こそが、その果を得るへ至るへの(個人結果としては至れなくても)生命の価値と資格を歩んだ者となれるのだろう。 それぞれでの役割を為され在るに、その道を逝かぬ者も良いのだが、せめて否定,排除,判断強制の短絡を当てないを願うと置いてはおく。

死か電子生命的な融合かなどの極端へ個と生体を抜け変容させるか、もしくは出家のような最少を目指す歓喜の為の苦行でもあるか等の、いづれの極端における普遍的な中庸点または到達点への判断へ振れずとも個や生体性を抜けないという在り方の中での、しかし肥大せず押し殺し過ぎぬ基準点を採るには倫理,道徳,常識のような緩い(固い強制とも使用,転化される)共通認識が現在のように人間の社会的段階に合わせたものとして置かれてあり、その速度と成り行きで進みゆくへ任せては未来の到達,理想方向を見い出して提示へ関わる必要も私の行為の全てが要らないのかもしれぬ。

しかし現代には(そこへの反発力も生まれるが少数であり)全体への方向性を挿し込まないと否応なく非生体化(個人の全体中での情報化)が進んでしまう時代の分岐点にもありて今後の流れへの喫近の対応としてにも、そこには関わる事の出来る余地が未だあり又、我等は現色としての行為体である故にも何を感じ見い出し最少を基準に在りながらも行為と自身を選択するか。に動きて良いとも思われている上で、私にはどうしても、そこへの観察と動きの選択が行われるのだからに立ち会うが良く仕方もなく、ではこの経過と発見種子を踏まえて次の問いへの発展もへ繋がる。

死か電子化か。 出家的放棄と最少生存か。 又は個と生体を保ちながらに享楽,快適方向へ流される肥大も自己減少を義務とするのでもない中庸的基準点を世界の可能性における各種多様の保持ごとにおいても持たせ得るへ向けゆくのか、その歩みと関与は仏教的とも言えるラディカルな価値転換であるもなく、グローバル化にも漏れる各地の文化,気候風土的な多様,自由選択に任せられたような規律,美徳,人間的感情の変転にもおける道徳,倫理的な現在の動き。であるに任せおけば良いのか?には、先ずは生体価値の捉え方において次元の階層越えを目指すかどうか?でもあり、又は共生的享楽~well being~や利便の方向性を何処へ見い出していくか?でもある。(過去の生体的ポテンシャルを取り戻す事や、それを持って暮らす事は既にも人間には不可能だ。)が、その極性同士の中庸点とは苦行に見えても過去とも統合に一致している差幅の中に収まるのかもしれない。(そして最少影響へ生体を減らす価値よりも生きるに価値が優先されるならば、何処かでは苦行に生きるしか真の歓びと幸福は有り得ないのかもしれない。)

そしてその何処も全てにおいて基準点とは未来と過去の普遍であるのかにも関わって来る包括的統合が、中庸,中道,とも呼ばれる中間システムを採るのかどうかにも関わっては来るのだろう。 それは大体の指針として正しいと思われる理由づけは採用もしているが明確な証明には至りてもいない故に、この問いの中の同居にも進行されなければならないと思われる。

それらを一端整理すると、
1,死か電子化か。
1,出家的放棄と最少生存か。
1,個と生体を保ちながら欲求肥大も減少義務でもない中庸的基準点があるか。
1,次元越えの存在を目指すか。 その存在性とは、どの基準となるか。

1,つまり生体か非生体のどちらか。と、どちらにおいてもの、
1,統合的基準と普遍的中庸点の同一、又その状態の明確化。
1,共生的享楽や目指すものの基準。
1,そしてそれを義務化させず自由,多様の人間的動きに任せて、方向提示もせぬか如何に関わるか。

そして、
1,死ぬへ減らすより減らし生きるが価値ならば、その到達の歓びへの苦や制限は必要不可欠か。等が此処での出て来た整理,対応事項であり、

1,真の幸福,自由,自個などの真実基準と、その方向を義務,強制なく挿し込むか?の問いと選択であるとも一端集約させておく事は出来る。


では次元越えへ進む形が時代や宇宙の必然的要請や目的,意思、又は連関からの決定的必然によって否応なく押し流されているだけがあるのかもしれず、過渡期存在の人間現在の形と価値を惜しみ保存する事への労力や提示へもコストもかけず全体の中での落とし所を持ちゆく中庸運動への反発力も持たせず、速度を持って生体や個的な人間と自然世界との関わりの形を抜けさせていく事が間違いであるとも言えぬ中で、(しかしそれは間違いかもしれず分からぬなら、そこへの作用と反作用の人間的動きを繰り返していくだけが正しく、判断出来ぬ故に賢者は離れ遠ざかる。も間違いではないが現在と今後の状況は、その人間の関係における進展をも排除された否応の無さ(技術的利便への依存にもよる、それは人間的意思による決定を挟もうとも挟まなくとも、どちらにしろ人為肥大傾向の流れではある。)に流されてしまうかもしれず、そこへの到達的目標方向を示せなくとも考え方の可能性を、こうした考察の故にも見い出し提示する事は出来るかもしれぬにおいての私は私の為し方を探し、求める。)次元を越えた他階層にも流れる私(個的な自身ではない)の流動へ触れていく事は神の全一へ辿り着くまで遥かに終わらない旅を逝かねばならぬ事なのか? しかしそれをもう此処で止め魂的な流れに意識し触れながらも、この現次元的我等のままで生き関与する中での共生や真の幸福を見い出す道を模索し創造する方向とするのみへと選びとってしまう事が、何が正しいのかも分からなくても、求め続けなくてはならぬ道は修羅であるという解釈の故にも、正しいとも言えるのだろうか。

それともやはり、求め進展し量子的な情報体と化されたり高次元を目指し続ける事により至り着ける歓びが有り、又はそこでの役割責任の質も変わり重くなるかもしれぬとも我等が知性存在は、その性質の業から逃れられず否応なく運ばれるのかもしれぬならば、求めぬ現状況に与えられたもので満足するという最少方向は現在でも機能していないのに少数の分化程度にしか不可能な理想でしかなく更には、技術的進展方向への動き(による喜びと苦しみ、どちらもの拡大可能性の道)を阻害するだけで(減らしゆく事も又、喜びであり苦でもあるのに)進展欲求方向による喜びや技術面もの果実は(少ししか)得られないという可能性も生んでしまうのかもしれない。

そして進展を目指す事への動力ともなっている人為が悪いとは(私とは合っておらず無駄な作用を生み出しているだけで)言えず、それにより進み又は対立へ生み起こされている意味も深いのかもしれぬのならば 私は合わないので、その対立作業から抜けています。という選択を示す以上に出来る事などもは無いのかもしれない。

この現次元的な我々を生きることのみこそに価値があるのだとしても、その目的地や行き着く先が、推進と反発などもの人為という自然や、そこに起こる必然にもよりて超次元への存在変容へと自己を拡張されていく事や、又その先にはもしかしたら生命奇跡の体験体となる有機体への再帰結的な縮少もが宿るかもしれぬようにも楽観(という、それも一方面)に過ぎてもならぬが遠大な未来への可能性視点において我々が生体と生体による交感の歓びを捨てた後にも取り返し還りて来れる再価値化や、生体不便や手間にも遊びながらも不便を越えた自由と共生と深い真実に基づいた意識体が立ち上がって来る事も有り得るのなら、(多少は必要だが技術化を待ち頼らぬとも今このままでも至り着けるのに、その間の不必要な無駄や破壊もすらが良く)無駄なだけの遠回りでは無い故に、どんどん技術や人為方向への進展へ進めさせれば良いとでも言えるのか?

現在の私と我々にもおける、知性的判断と発展などを必要ともせず又そうした分別の過程が苦しみであるのかもしれぬとも 、しかしこれを必要とも感じては辿り行っている私のようにも(その具体の行き道の採り方は今はともかく)意識の発展を求める事からは降りなくて良いとも思っている。が、真の意識,深さ,幸福,共生などの状態を探求し求める事は、そうした人為の目指すものの進展欲求や過程採りとも、ひと連なりではあり又、現在より良くはなったとしても意識の進化の辿り着く先などは遥か彼方に長大で途方もないのだから、では少しづつの進展なども求めず(私において為されてしまう観察,整理の動きは仕方ないとしても)意識するのは意識も知性もを減らしていく事の方面だけにであれば良いというのか? その未分化な状態が我らの幸福へ抜けてゆくが道(ではないと思っているが)なのか?

意識も現実具体も少しづつにしか進展しないによる次の共生時代への絶望もあるが、理想への過程(basic incomeや政治のようにも)を踏まず目指すのか、その過程への関与(が理想到達点を阻害するかもしれぬとも)するのか?の選択においても、意識は少しでも進展すれば現状より生き易い故に(その表面的な共生文明の先に拡大された破壊の再開可能性があるのだとしても)良しとするか、もっと突き抜けて達した(相対的比較ではあるが)意識の状態進展を諦めず(囚われ指摘,対抗してさえもにも)目指すか、進展などの一切を止めてしまうが方向か、の選択性にも通じてはいる。

幸せや共生的生存への現実利益さえも求めると苦しいから(囚われず方向としては求める。のでもなく)止めてしまうのならば、死なずとも生命の最少へ向かうによりて達する目標地設定も又、欲求への苦行(例え方向が正しければ良いのだとしても)ではあり、では自身を呼び起こしてゆく方向や選択への立ち会いや意識すらもが要らないというのか?

例え達すべきと思われる理想地が見えたとしても、そこへ関わる又は任せることは如何にして選びとられ又その方法の方向は、その状態ではないのでは?という否定ではない肯定的な提案などを見せるというだけでは、しかしそこに方向性ともいう夢への囚われを叉もや与えてしまう事にもなる。のならば意識の統合,到達への進展、現在よりは良い進展、進展も意識も諦め減らすへの意識と進展、など何処においてもには在る、結局は進展欲求の方向と進展手段を如何に採るのか?の選択でもありて、原始と電子と既にの中間でもある生命状態の全多様と無限可能性の上での何処を私たちの方向とするのか?にへも連なり通じた、全ては選択へ関する問題ではある。

(9/16頃~加筆,そしてこの連関が次へとも自然に繋がっていく現在の奇跡と経過の相を観る。に立ち会い私は為されるへ流されていくままにの今日を行う。)