junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

74 5/22 (wed)~

74 5/22 (wed)

全てを自身への変革へ転換させていくしかになくて、誰に頼るわけにいかぬのも知っている。が、もう疲れたのだ。 独りきりの歩みと孤独な闘いに。

赦そうと思っても、その現実実際の存在がそこに在るのを見てしまうだけで苦痛なんだ。 離れ見ないように押し込める事は出来ても、もう自身だけが愛となる闘いへ生きるのは疲れた。し、我慢せずとは愚痴をいうこと等へ共有出来れば良いわけではなく解決を求める。が、やはり何処までいっても人間には通じない愚かさと現状を見せつけられる。

諦めずに踏み込めば開く事もあるのかもしれぬが、それにも体力は要るし私への性質は引いていく方向での役割を持っていると思われてもいるのだ。 では弱くては、奪われても内向へ深める以外に生き様がないのか? 人為による、現状までの過去と未来の可能性の(例えそこにも必然的な過程と流れが在り、この生命体験の中で如何に感じ味わい生きるかだけの修行があるのだとしても)あまりの無さには、もう飽き飽きなんだ。

結局答えもまた次の疑問へ分解されてしまい分からぬに問うだけでありて、この長き僕の歩みと闘いの中で培われたものは、それでも愛の自身化へ向かう事とも共に抱えきれぬ程に大き過ぎでもないとはしても、虚無と絶望の基盤づけでもあったようだ。


共有可能な隣人同士が只相手の問題を押し付けられる理由によって奪われる人為世の縮図に、話を伝えることさえもへ自分を押さえつけて生きなければならぬことへの異避感や拒否反応が酷くなって来ている。

囚われぬようにするのさえもに疲れていて、もう努力もしたくない。 それでも努力するのはひたすらに、対応しようとする事によって、もっと悪い事態を引き起こさぬ為に自分を無理にでも押し込める事だけで、その状況が更に僕を何故相手の理由で可能性を捨て奪われ俺ばかり我慢する!?という想いとの悪循環をも生んでいるとは気付くが、では他に如何なるが出来ようか。


自身への流れと他者外部からの流れの違いに合わせて生きるのにも、対応は出来るが労力を使うのだ。 用事一つの取り方にも、その縛りとの中で折り合わなければならない不便さ。

流れによりて生きていくしかない日々と必然を感じ行い会いていきながらに、1週間かけてデモを4つ送り1週間かけて休むようなペースでの人間が、社会や人との中でやっていけるわけがない。

自己欲求に過ぎぬとしても夢へ向けて歩みたい。と思い目指しつつ、その結果性以前の(攻撃されていなくても人間との関係や進め方の方法が取れないであろう)活動性自体すらへからの怖れに、僕には無理なのだと諦めてしまいたくもなる。

もう止めてしまおうか。 生きていたいのに、つい頭に出て来てしまう言葉。

誰に分かってもらえないかもしれないが、こんなにも、やっとのことで生きている。

生きているのが、苦しくて仕方ない。
生きてやる。と呟いて、今日を歩き出す。

愛の風はらみ、清らかに爽やかに身を纏いながら、こんなにも覚悟しなければ生存ももとない我が身上に、理由もない涙が今日も流れる。

堂々と存続し、颯爽と独存しながら、この相反と統合(ambivalent unification)な状態の私は、偽り繕った形ではなくnaturalに自信と笑みをたたえ背筋に伸あり自然な芯に呼吸し対応機動力も備えた武芸者のように空気を泳ぎながらも、この世の苦しみを我が身事として苦しんでいてもしまう。


拒否感に引き寄せられていては良くないとは知りながらも、もう足元のおぼつかなさやまるで半月ぶりに外の空気を吸ったかのような胸の痛みに、長く吐き出す溜め息の以外に解消の仕様もなく、私を叶える形でのカタルシスは訪れてはくれない。

この私に宿り来た神秘と経過を現すのだ。 それを行えるのは自分だけではないか。と思いながらも、ゴッホたちのように死が私を生かす最大過程なら、それを避けては通れないではないか。 欲求を捨てて生きるへと生きてしまうへ在りながら、もう少し、生きていてみようと思う。

我が子たちに何が与え残せるか?の実験までもが失敗と悪循環を催すかもしれぬとも、もう全てと生命を棄て、諦めてしまいたいという自分もいるが、生にすがりついてでも、それがどんなに格好悪くなろうとも、生きていってしまいたい。

死によりて残した世への意義が最大化されようとも、弱さを認め生存をも越えた姿を見せている意義にもあろうとも、この世への絶望に死んでいった哀しみの生き方を、子供たちにも分け与えたくない。

これは僕の囚われかもしれず生を捨てられぬ愚かさであろうとも、そんな生き方の結果を理解もされず子等からさえも馬鹿にされようと、そして死は敗けではないと肯定的に向かう事も出来るとしても、それでもこの生きている存続の闘いの姿を見えぬとも存在に語れ。


どのように生きていたとしても、その結果に起こり来る事は紙一重で、成功と最悪もは事象の少しの掛け違いでしかないようなこと。 それでも私を平和の道具とさせて下さいと祈るような意思が、それらを分けるのか? いや、それはやはり過程の一つの取り得方に過ぎない。 そして私の成されぬも如何なるが起こり為されるも死も、全ては必然の宿り着くものだ。

多少の増減や前後の模様があっても、流れは修正,調整されながらに進む。と見える、その物理次元化される他次元との相関連関の中で今次元からの作用,変容力を持ち使え得るならば、ではその人為,自己的な操作に、成長の為の苦を滅しても良いのか? それとも苦のなくとも深化され得る方向意思によりて、それを選ぶ事もは出来るのか?

その愛の空間力への自身を向けながらも、どうしても世の苦悲から突き離れられない自身との状態を抱え逝かねばならぬなら、それが私と現在世界の必要過程なのだろう。と受け取り、死も良いし死ねるか神に問うて願かけて試してみる等も良いのだが、避けられぬ迄は死なずに生きてみてやろうとも思うに、生を捨てて生きゆく強さを形取りての存在,過程を生くのだ。

どうすることも出来ない対応不可性に生きていなくばならぬとも、私への生命は少しづつにも然化する。 その過程を根気強く諦めずとも歩むのだ。 放り出して放り出さず、死へ囚われず自己を捨て去り生へ囚われ自己を捨てず、生体を抜けながら生体の味わいと交感の生命価値と歓びに生きようと私への感覚が言うのなら、この現在点にも選択し、苦も苦とならぬ境地,自在へ抜け遊ぶ心一つの変革へ然化されゆく(人間という知性が故に悲しき道でも、)を私に渡されては生き歩むのだ。

答え未だなくとも、この道を歩むしかないではないか。 何処へ辿り着くかも分からねど、この真実へと問い向かいゆく才能は与えてもらえた我が生命への恩恵を逝け。

世への自身を尽くし与えては、この世から与えられた状況の中に受け取りてゆくしかないのだからに。 苦しいという叫びの声は、存在からの祈りなのだからと。

何が私に言えるのかもはこうしたような、しなやかで力強い歌となれ。

愛の存在,関係,創造,場所と流れ方,世界,幸せ(自由,共生,調和,平安etcも)へ生かされますようにと祈り語る、肯定と交感の道を逝く私にもっと自信もって生きて逝けば良い。に、私を奏でられ象れ。

こうした知恵と現化の示し在り方の分からなくても、我が現況の創作連続を為されては生くしかにはないのだからにも。

問いて踊るしかないのなら、理解可能な形へまとめられぬとも遅く適合可能性を模索できず労力と疲労に惑うとも、この生を受けて為される孤独な存続が支えてもらえる相互の関係を持てぬかもしれぬとも、絶望と虚無の諦めは在りても私は未来と希望への怖れを持たざる肯定化への進化を方向にしては、この世の現じ方へとも関わり示しゆきたいと望む現在地の逝き方とは成りているのだからに、その人為自己操作欲求の結果や行方をも知らず私のままにを行為せよ。 そこに繋がる悪循環も失敗も結びつかなさも私と世界への必要が起こるだけなのだ。と最小限に行為し在りても、その私のままに生きてしまうに流れの付いて来るを求救の方向としてしまうに生きるのだ。 それ即ちが期待でもなく期待すること。

如何なる結果をも捨て放ち、ては求める。 存在を行方へと熔かせ。 過程なる実りを逝く、これ即ちは道~dou~である。

合一は塗り潰された単色ではなく、全てを含んだ無限の点なのだ。 全次元の時の連なりは、その前後からみると大きさもなく点へと戻る。という展開図的概念の一循環性だけが在るというようにも、如何なる複雑も単純へ帰化,往還してもゆくだろう。とは想像できる程に、我々は中間なる存在の次元に全てを渡る宇宙,世界を奏でては生きる心一つの変革体へ帰化(気化,聴か)せよ。

私の涙は重力波にも記載され、存在の全てが粒子の量的状態の奥底からに私を象る。 この宿られた幻象は本然からに結びつけられている現れなのだ。 知性と意識が故に為されるだけの以外に苦を感じなければならぬ不幸は、そのまま苦を越えていく為の稀なるtoolと、歩めるが歓びへの可能性。

非常に貴重な機会しかない、その知性的感性の存在と期間にも在り得る生存を生かせても生かせなくとも、宇宙の現像としての変転素子たちなる我等の合一なる集合,離散の転回,合流だけが点滅に流れ在る。

そしてしかし全ての連結が催した不可思議なる力と奇跡が、この個という一種の総体,統合を生み、持ち与えられている自己,自我という個別体験の奇跡を味わいての生を往く。 意識の変革と肯定の愛は、光と闇の総体を統合の源初(光)性へと展化し、この然じさせる象形は、自然と人為を混合に総べてもいる。 私は制限された知性で遅くとも、螺旋的進展に展開されている宇宙の一つの然じる場を意識的に自身の物として生きてはいるのだ。

苦と疲労をも、この生きる為の力へ変えていく。 そんな非効率で不便だが、私への現在なる歩みだ。


誰にも(意図,積極的には)ぶつけず吐き出さず、自身のみへと闘って来た。 でももう、いつ開けるとも分からない道を行き続けるのは(今までの全てが今に至り着き、苦しみも良かった。 でもその上にこれからは苦のなくてもいける道を自身の未来からに逆算し生くのだとしても)疲れた。

その辿り着く結果へ皆が至ることでもなく僕の役割や魂の段階が、そこへの道をゆく事の為にあったのだとしたら、ここで死んでも既にもうそれを果たし宇宙への結合へ分波させている。 この道を生きたという相と可能性を(例えそれが失意と失敗の内に終わっていても)世界へ残す役目を私には果たしたではないか。

けれど、このままでは苦痛に殺されてしまう。 こんな私を、神様、助けてください。


75 5/23頃 ~

求め過ぎずとも、求めるも認め只、流し去る愛と在る。

わ(私と全ての、輪,環,和,○)が愛(I)の存在開花。 (○ + I (わあい) = Φ, (ファイ)をひらく。)を意識へも置き、私はこの日々を生き抜く。にも只、生きている。

死にたくはないが、いつ死んでも良いように死を取り入れて今日を生き、世の苦しみがなくならぬとしても、未来と過去の全てへの愛を送る。 南無アミダ佛。

愛と真の幸福と知性を求めている。
知性とは、(知識を結び付ける力という人も居るが、それとも同じく)一方向からに見ず多様価値や全包囲的可能性を見れる事。でもありて故に、(それのみが全てではなく判別を抜けていくのだとしても)如何に深く気付き真相や本質に触れゆけるか。や、他者への理解に見渡せるか。等でもある事を私は人々へも希待する。

それぞれの段階と必然の中で、全肯定への交感の生命日々をゆき、その結果と過程が共生や相乗可能性を伴ってはいる。

確かに私は囚われて返し、人へ求めた。 しかしそれ自体は間違いではなかった。

人が愚かに一方的に打ち来ても、自身も持っている別の一方性を直す機会とみたり自身のみの変革へ歩み、その肯定へと押さえ込んでしまった自己抑圧が、押し付け来る他者への怒りと、それにもよる苦しみに落ち込んだ過程もが、しかし現在に続く必要であったように(それは必要だからと逆算するようにして自身へ引き寄せてしまったものではなくとも)、同じ地点に行くのなら苦しまず淡々と観て流し去れれば良かったとしても苦しむしかなかったのが自分なら、それも良かったのだ。 苦しみに毒されず、しかし苦を忘れぬ。 そんな私と成れるへとも生きてゆくへとも来たのだ。


何が与えられても愛である覚悟にも生きている。しかし、愛となりゆく者から奪わないで下さい。 苦痛になくても更なる進化へ深め辿り逝かせてください。


爆裂し身体からの悪きものは破裂し流れ出しては光へ熔け、新たな光が私を再構成,結線していくように一度死んで光の場へ再起していくイメージにも生まれ換わる。

生命交感の肉体に生きて、死んで新たな存在へ融解されていく。 そんな生き方の価値が、あるように思われてもいる。

未来からの過去へと未来へもの現在からの広がりの全てが、光へ解きほどかれてゆくへの私を照射する。

与える,与えない,否定する。のどれもかを取らなくてはならず私の存在態度が如何に在りても、私に触れた者やつまりが世界の自体もが、真の幸福と愛と真性に運ばれてゆくようにとの、祈りを解いている。

そして地球や世界が奪い合われる苦の状態になったとしても私を濾過した全ては光となりて、僕は愛で包んでいく存在となる。

その在り方が、世界を愛へ変換しゆく力や享受された恩恵を生んだ要因の一つとなったかもしれぬなら。に対して自己承認的にその時の者たちから感謝され認められなくとも良いが、そうした愛への変換が為され獲たことは知って貰える意義もあるのだろう。

残され分かち合われること。 それは名誉や何かの結果意義の為ではない。

最近読んでみているイーガンは物理用語に溢れた面白さはあるし文学的な物語性などを僕は求めないので、もっと減らしてくれても良いくらいだが、そして僕も詩の至上主義的信望を置かぬが、それにしても詩や伝統保守性が愚かな滑稽さへ描かれ過ぎているし、それにここには本当に震える本質的なインスパイアが感じられない。

それに現代からが直面していくAI,ナノ,暗号(つまり個人と他者の融解)等の問題が描かれず、(管理権力などにおいてもが)あまりに理想化されているのは、その理想的到達点へ思い描かせる為なのか、(そして仮想存在の優位性による物質世界の探索というテーマや興味,設定による未来可能性の一形態を先取しているだけでもあるのかもしれないが、)もしくは陰謀的な意図を持っていると捉えられても仕方ない程でさえもあり、人為制御方向性に過ぎる。


各自の創作に、有り得る未来の一可能性を描くは良いが肉体人としての、そしてそれこその能力の生かし方や交感,交換の仕方があるのではないか?


5/29.30 ~

私もやはり肉の欲求に惑い操作され物理的身体の制限や関係へも苦しんでいるが、そうした事も苦しみを通してこそ真の肯定へ成長できると同じく必要な、そしてそれのみで完結し到達出来る聖賢たちに示されて来た仏陀の道ではないのか? それが合っていてもいなくとも、私はそちらの傾向性による人類人為方向への歯止め的な提言とはなれる。 そこでの価値を非生体化の利点や捨て抜け去る事との整合に併合させていくこの動きも他者と分かち合われる前の私内部の問いと深部への掘り出しだ。

ここまでやっても答えは出ぬが、それでも私に宿り来る内面必要からの生起なら、その与えられる現状況にも合わせて生くを決してしまえば良い。 もし他の誰かが答えを出してしまって私は分かち出す一翼にさえもなれず、この行為が無意味になったとしても私にとってはそれを丸のみでは信じられなかっただろうし、自身に問い解いた必要と価値の現じであったのだから。 私はこの生を生きた。それだけがある。に、良いのだ。

しかしこの生体の奇跡と自然の変展を使いて肉体を越える精神の成熟へ然じ越えさせ進化されていく道と価値。は、確かに一様な皆のものにならない。 それでもそれは共生や非破壊への奪われぬ相乗などよりも高価値の苦しみや惑いの中で一部だけでも達し抜けてゆけという優位価値であるのか?

僧や隠者や探求,求道者であるという上位概念の区別,優劣意識に取り込まれなくとも、しかしそれはやはり真実的な価値,本質に近い生き方ではないのか? そうだとしてもやらねば止められず全体の連携相関の必然性の中で起こり行われていく人間のままに過程を流され行き着く処まで行ってから、その価値を発見し気付き戻って来るような進展ものどちらもが、近道か遠回りかも分からず(生体も非生体の道も)同じように苦しみと新しい破壊も生み出して進む中での自然が必要に流しゆく道取りであり全体共通化などしなくても、全部済まさぬとも引いていきては自己最少にして苦を滅し抜けてゆく道もあるよと、そっと誰かが選択可能な為にそこへの道と方向を置いておく位のものであっても良いのかもしれない。

例え自分が完全に捨て去る現実化ともなれずとも、この研鑽の記録と生の存在にて、そちらの方向もあるのかもしれぬよと示してあれば良いのだろう。 例えそれが間違いで非生体化が最善で最速な叶え方であったのだとしても私は考え方をどちらにも規定せず、この問うが姿を残しているのだ。 故にも答え示せなくとも、この生き方を通しての方向を打て。

人為,人工的な流れと自然の流れ、どちらにも高次元からの流れや本質的潜在性への観入の仕方などもは残り宿るであろうが、人工的設定からの連関や仮想空間(や電子的視点)での全制御可能な体験継続を往くよりも、有機的な実際物理次元での世界という幻における体感を行く価値の優位性とは何だろう。

それにおいても自己による意識一つの変換で現在のみにも真の幸福へ到達可能であり無駄な進歩への期間と創造や破壊の無駄を行かぬとも良いという価値はあるし、その意識において科学とも進展させ別次元的な体感性も取り入れていくことは悪くないとも思えるが、それは何も求めぬそのままで在る事よりも意識変容への操作と欲求へのそのままで在ること。ではないのか?

何も求めず只、在る。ことと欲求もの只、在ることへ何もを求めぬこと。 つまり欲なく在るか欲あり在るかのどちらへ求めもなく抜けるか?でもあり欲なくす求めと欲求は方向としては良くとも絶対の正しさや価値とは言えるか?


苦しみを経ても更に肯定へ至るのだという真実性はあるが、苦しみなくとも神のような意識の肯定と交感の歓喜状態に至れるのならば、それで良いのではないか。 そして現在の私にもそれを目指しながらも難しいならばのように、では技術が自己や人類を善性のみへ変化させる事が出来るならば、その改編も自己や努力と言う枠を越えた愛への苦の超越として良いのかもしれぬし生体において肯定化の平安を目指すのも又、程度の差でしかなく人為営為や出来ることの増加なる方向であるは同じではないか。

つまりは生体における意識の変換が先か(勿論こちらの方がベターとは思われるが、そうはなれないだろう人間において)人為的な超越へ向かうが先か。の方向さえ共通へ示せれば又は見つけられていくならば、どちらの過程でも良いと言う事か。

それとも身体と交感における道は、それが唯一的な方法と価値であるからではなく只、技術的な辿り方や変容方法が無かったからであるというだけの事なのか?

長期間生命は、しかもクロックアップされた体感速度時間の中では特には享楽や暇であるしかなくなり個としての探求や役割の必要もは少なく、(そのprogram的性質に残される個我的分担はあっても)全体へ融合するだろう。 ではそれが何故に違い個的選択や生体的交流が必要と言えるのか?


現在は岐路の一つだが、過去にも全ては重大な岐路の積み重ねではあったのだ。 そして知性化出来た宇宙が有ったからというだけでなく、それらのほぼ全てが奇跡的な一致に恵まれていたことを考えると知性化生命の生まれる可能性の確率などよりもずっと増大な奇跡的確率が続き流されており、この宇宙が唯一ではないとしても相当に意図された貴重な煌めきの宇宙であると(例えシュミレーションの一つであるかは知れぬとも、我々視点からは遥かに壮大で神秘的な奇跡であるという意味では変わらず)思われるのだ。

この水分子とあの水分子が出会い走ってきた私に当たると設定された確率は天文学的な数値だろうが、その設定を外せば雨降り来て当たるは当然のこととも言えるように、それは視点や設定の置き方の違いでしかないとも言える。 そうした視点の見方の違いのままに、(こちらもあるよ。ではなく)そうではない ! と言い張り合っている対立が人間現在の社会や関係の愚かさだ。

未だそのような段階で継続されていくしかない我ら属する種の状態なのだ。 哀しく怒りての相反でも愛の充足へ向かいて私という存在の歌を歌え。 この結果でなくとも、失敗でありても良いのだ。 これだけが私の生命の意味であるのなら、只この生存を逝け。