junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

55 5/1 (Wed)~

55 5/1 (Wed)~

愛となるだけが、苦しみから抜け救われる唯一の道と在り方の全てであるを歩くとしても、そして祈りは最終到達の目標であり手段でもあるかもしれぬが、そこばかりへと逃げ込むんじゃなく闘うんだ。

私(自覚自己)とは(魂などがありてもなくとも)この物質存在からの副次物でもあるが、この五感的生体の人間としての苦しみや体感性を経ては得られる唯一ではないかもしれぬが生体的生命交感という道と効用があるのではないか?

意識が全てに作用するか等も分からずとも、宇宙の力に触れる意識の用い方は確かにあるようにも思われるが、宇宙の無限のフロンティアへ目指し拡大しゆくだけではない、進化の目標地や設定が在り出来るのではないか?

死ぬくらいなら創作へ奉仕するとしても、創作の能力が捨てられない生かしたいと僕を苦しませるのか? いや、それだけではなく出家的にあったとしても、存在の創造と観察に生み出されたものを伝え人限界とも(又はそれ以外へも)分けたいとも思ってしまい、なのに人間と上手くいかない自分における惑いは全てを捨てた自由になるまで同じなのだろうから。

愛欲(カーマ)のよりて新たなカルマを作りだそうとばかりしてしまっている自分をも知りながら、多分うまくいくから大丈夫だろうなどという楽観性で蓋をしてしまっている愚かなる私でもあるをもっと徹底的に切り捨てなくばならぬか。

私の中だけに処理し昇華しゆくのは素晴らしいと同時にそれしか出来ないが、何の判断も必要なく流し去り任せ逝けば良いだけだとしても、例えばこの子たちに何がしてやれず共に暮らさない方が子等にとっても良かったのかもしれないという意味付け,判断などのように人間的私の納得には成り易い。 故に、それは弱さであっても全肯定ではなく肯定面(positive面)的肯定であるかもしれぬとも、そこに囚われるわけでもなく判断を取り入れるもは良いのだ。


親がなくとも育つと子の事など放り出しておかぬといけず、自分の力で生きていけるようにしてあげる方向へ育みながらも、あんなに感性や遊び方も似ていてしかし人へ伝えられること出来ず先天的にその囚われや怒りの性質面を持たせてもしまい上手く人と折り合えぬ孤独に陥るかもしれない(今で済ませてしまえてくれるかもしれぬが)アウラの為に、僕は死ぬわけにはいかない。 あの子を独りにしてしまう。

母親が自身を棚上げで人を責めたような事を僕はしないが、それによってアウラが頼ってしまい自分の力で立つことを阻害してしまうかもしれず又はこんなに心配しなくとも素晴らしい自身からの開花へ至りていってくれるかもしれぬがそれでも、全くにこの世界からの逃げ場がないよりは良い。 それが僕に用意し与えてやれるかも分からないとしても孤独が真実への動力となり最も正しい在り方だとしても、感性が生かせず理解されず孤独に毒されるよりは一人でも分かち分かり合える体験と関係の可能性を残しておいてあげたい。 僕には与えて貰えなかったものだから。


子供たちが勝手に自身等の力で克服していってくれるかもしれぬが今のままでいくと(そこに未来を判別し限定せぬとはしても)彼女たちの性質やそれによる対立性などは膨らむ事ありても解消されてはいかなそうだ。

ミィは浅くとも感性的には本質的に近く、自己肯定感と世界との関与力も持って生くであろうにおいては自立し離れ私からの学びも関係もそれ程に必要としなくても良さそうという面で苦しみと孤独の心配はしていない。(感じる問題点は彼女の方が多いとしても。)

アウラも、その自身内面に問いゆく性質は与えてしまったがそれ程の知性へ深められぬのに孤独なだけとなってしまうかもしれぬとしても(そうした可能性に現実化への意識は送らず、そんな予想を両者とも覆してくれるかもしれぬし、僕に何が出来ぬとも任せ彼女等自身の生きる力を信じてあげるとしても)そして

例え僕が生きていて関わる事で、何が果たせず哀しい生き方を果たしてしまうを見せてしまうかもしれぬし死んで関わらぬ方が結果への判断性は良かったのだと見えるかもしれぬとしても、それでも彼女に出来ることを与えてあげたい。 世界へと関わり開け置けないのならば、最小限にも尚更だ。


僕は自分のしてしまった愚かさであったことへの後悔(思い至ることでの解消でもあるそれは悪い意味でなく正しい後悔)ばかりでもある上に、

彼女たちが苦しみを受けるだろうことにも彼女たち自身が世の苦しみを生み出すことにも、この世への絶望,無力感が止まらず(何があったのではなくとも、離れゆくが良いのだと判別,納得出来たとしても)或る意味、今現在の恵まれた環境や幸福な関係もがあるのだとしても涙が出て来てしまう。

苦しまなくては真実へ深め逝けぬなら、生きていることによる可能性などを手放し捨て死にゆくが良いのではないか。 例えもし宇宙に小っぽけな人間にも意味と役割あろうとも、苦しみを産み出し続ける世と生の中の育みから生存自体を解き放ち止めてしまうことが正しくないと(途中で止めてしまっては深められぬし、それが本当に正しいか分からぬからにも安易にそれを勧められないのは分かるが)何故に言えるか?


反省,振り返るとは本質や真実へ観る立ち会い自体のこと。 故に囚われでなければ(又は囚われでありても)正しい後悔と同じく深め観る生命の交感,気付きの味わいとして良いのだ。

お父さんの想いで作り残してくれた家も、僕の経験(と日本から出れた)になっただけで目的には繋がらず無意味にしてしまった。 あの時もあの事も僕が愚かで悪かったなぁと人へ与えてしまったものにも後悔してばかりもいる。

もっと子供へ感じて接してやることが出来なかったことにも気付いては、しかしそれは完璧主義すぎるものと分かっていても、振り返り気付く事の出来るのは正しい。

子供達との時間は僕にとって幸せだ。 だが幸せの後には失ったものや(そして失うであろう世界の可能性への絶望感にも)手に入らない幸福の姿と対比にも鮮烈な苦しみが心と波に揺られ来るんだ。 それでも生きてやると思った。 だけど苦しいんだ。

例え全てが愛だとしても(そしてその認識の中に生きられる歓びが時に宿り来ようとも)、生きているのが苦しい。

如何に人生という与えられた道と生が非情で哀しく、虚無,諦観,絶望,無力でありても、その与えられた自身を生きるにしか仕方ないのだ。

苦しくても孤独でも、自分の中に消化できるのだから。 生み出し方の分からなくとも、この自身の創造を逝くにしかない。

いくら存在の深み(浅くとも本質性であることではなくて人間世界的にも統合へ深められること)で在り生きるが最重要な価値であるとしても、現在世界では生きづらく(只でさえ、その作業は苦しいのに)弾かれ孤独な交感へ立ち合わなければならぬ苦しい生き方であるのは変わらない。(特例として幸福に悟る者もあるかもしれぬが、やはり一般化出来る真実への深め方とは当分はなれないのであろう。)

苦しみは

少しの経験だけで自身のものとして済ませられる場合や人もいるし自身へ結び付くにしか全てはないとしても、大体は経験してみただけで生き方にまでなってないんだ。 僕は愚かだったが、どうしても変われない自身化と共にした年月の中で育まれたぞ。

人間が居る限り、程度の違う地獄でしかないのかもしれず真の進化へ向かえなければ共生的享楽,幸福の社会も(マシなだけで)無意味だ。

人間の質などは大して変わらないから基準は、人種で多様性も少しは取り入れながらに天才たちという能力の差で選別し人工を削減する(そして恐らくそれは地球の為にではなく人間の愚かさから抜けゆく為という名目もあるだろうし、確かに度し難い人間で在る事は認める。)というのも或る程度に理解は出来る。が、そうしたエリート主義などには違和感がある。 ではそれを踏まえた上での他の提起可能性などは何処にあるのか。


赦し認めほどけるへ抜けながらも、闘うんだ ! 囚われでも、こんな世界を愛と幸福と共生へ向かわせる慈悲の為に僕はうまれ、生きて来たんだ。

負けてたまるか! いくら死が歓びであり正しいかもしれぬとも(本当に納得する又は不可避な状況とならなければ)俺は負けないぞ。 世界へ奉仕することすらも忘れ放り出されて例え愛や平和が自己のみのものとしかならなくとしても、俺の望むものが苦しみのない世界の達成へ向かう為にあるのなら、この命を生命の幸福と共生へ使ってやる。 今が既にその為の現状だが(体力などもなく状況に合わせながらも変わらないが)、例えば人と関わる時にそれを基盤として自身を突き立つ事などへ恐れずに行為する強さにはなるだろう。

けれど只でさえも苦しいのに奪い来る関係者(人為だけではない)や自由に生きられない状況への対応は更に消耗させ悪循環もを催すが、それ以外の対応は分からず(例えば対抗せざるを得ない。や対効力を使わず溜めることになっても諦め押し込めての転化へ向けるしかない。又は疲れていても怒るしかない。等)愛に在りては奪われ押し付けられるだけで良いのか? もう僕は、こんな世界で生きていけない。 これを抜けてこそ開くのだとしても、後どれだけ犠牲にして生き続けなければならぬのか!?

何故にこちらばかりが受け入れ折れなくてはいけない!? 何を言っても意味なく人間などに通じない事は分かった。 それを学ばせてくれた恩恵への感謝と、しかしそれはお前だ! 止めてくれとも伝えたい自分のままにも正直に奪うもの者への愛となりながら現実的に対抗の力を使うが何故わるい?と、この問いに闘いてもいる。 そして生かせず共生出来ず愚かに深めぬ者たちに私と世界は、現在も打たれてもいる。

しかし結果も焦るな。 幸福が地獄へと変わるように自身だけでなく世界の地獄も幸福に変わるかもしれぬし、私も上手く行っている過程を行っている。

他者へ繋げず(繋げられず)自身に消化,昇華し済ませながらも、苦しくて生きていられない。 それでも闘え。 世界の為に、与えられているなら、この生命を生きろ! 叶えられなくとも無駄になろうとも何が成功であるかもがなく、この生命の寂静と平安化への私へ生きてしまうしかないのだろうから。 苦しくても苦しくても祈りても存在のみにも、この生を生きる。 その成功を逝け、放ち世界への可能性に与えよ。

そして愛に呆けて生きる持たざる充実者であるが私の宿命なら(その道が達成されず何処もに為せず苦しいままであっても)、そのままに流されて生く存在の想像へ生きて、方向性(なる欲望)はありても流れゆくに合いゆくだけの、この自然に無為を流々と逝く創作の生命を奏げよ。


56 情報と保存

この書く整理以外の創作の持ち方の試しながらではあるし少しづつに見えていく事ではあるが、創みたいものの明確化が出来ず向かい方が不明瞭な故にも(例えば体験して来た事の多さ故にも何処をどのような形に切り取り世へ出すものとするか等もの)生かし方の分からなさ。

書き付け足す事の出来ても、まとめられなくなってしまった。 勘違い的な浅さの部分も何らかの次に繋がる種であることは多いとも見るし恥ずかしながらも書き置くが、これではその直感という素材を洗練させられない。

私にとっての言葉は広義に使われ一義的に使用されていない。

言葉に出来ないものを他へ向けるか言葉へ込めるかの違いでしかないものを否定されるな。

本は過去と未来可能性の体験
積ん読などと言われるものも、その物理的な環境性において方向tuningなどへもの影響が及ぼされているから その物体存在や背表紙などによる意識への進展や過去体験へものアクセス可能性などを宿している


そして今のところnetでは断片情報しかない故にも、様々な知性や体験たちの分化専門情報たちの集積へのアクセス可能効用もがあり、また手でめくり探し当てる物理的な干渉への関係はタロット等と同じように偶然的出会いを持たらし飛ぶことも出来る断片ごとへの不連続なアクセス性(人間の繋ぎ合わせる能力にとってものメリット。 その代わり理解の浅薄や利用解釈も産み出し続けるデメリットでもあるが、だからといって他者と自己の同一解的流通を取り入れ続ける事が有益であるとは限らない。)を持つ、不便でもあるが現在技術の中でのコレクティブラーニング手段としては想像性と自己観察による自己内強化,拡張への最適解でもあり依存消費材の種類としては本質性に近く(誰もがそこに至れる方法ではないし、世界の何処もと同じく浅深差異は大きくもあるが)、物質故の身体的負担(と生産,維持コスト)は必要とされるが脳的な負担(virrtualなbrain net等の情報処理のように)は大きくないものとして人間に寄り添い続ける普遍性を持ちた情報技術の一つであろうか?

工業製品 資源利用の方向
人類は物から離れるか?

死んだら全て自身にとっての不要になるのだから、過去の体験と未来の可能性への現在に結び付いて生きる。のは、

自己と記憶

その時に手に入る物で何とかするサバイバル的思考とやり方より、その時点ごとにしか手に入らない物で用意しておくサバイブへの保険や可能性の獲得,保持の思考


57 生活方向

歩く、書く、食べ、消費(本やtv等)、考え創る。 子供や用事(交流や買い物)や坐と祈り等の以外に、今の僕の日々と必要の流れはこの位。

ならば火との暮らしが必要だったりはするが創作や活動の在り方とバランスは、そうした山での環境において焚き火で歌い交流も持てるようになれれば良いが、しかし山であるより街の刺激と近い生活とマンネリした安定であるに生き延びられれば良いのか?

山でなら歩く、自宅カフェで書くor創る、食べ、火にて歌録や交流。 子供も来れば良いし、会いに行くのでも街は週2回程で今の自身でも足りる。 やはり日本に居ても、こうした場の日常化を目指したい。

そしてそれらなら現在ペースでも出来るが少しづつにも、このようになら昼間からの活動へ移行していくことも難しくない。
10am 創作 (場所,子供etc)
3pm歩 ~ cafe
9pm食 ~ dvd,net,本etc

持ち得たい創作の内容は、このような ペースで暮らし書,歌,映像,文,etcから思索の記録,曲,mvと映像作品作り,本etcへの発信へ繋げ、人との会合は少なくmedia露出もライブも少ない売り出し方で世界を回り各地滞在数ヵ月中の何週間かを祭り化する目標へ向かう。

契約金プラス売り高で3年で3億円程を得られれば旅や拠点作りへ回せるが、もしくは映像作品作りとしてtv局の企画として旅をしたり、映画プロジェクトの一部として場所つくりへ進めても良い。ならば、なるべく高く売りたいとし金あれば投資(基本は自足生存圏作りの活動や技術開発などへ)にも回せるとしても、それ程にはなくても(年500万前後?)良く、節税対策は母に仕事を回し給金もdonationベースとなれば良く、プラスで入った分は各国の通貨のままスイスなどに預け半分ほどは仮想通貨へも回す。 となれば、発信の形化とprojectへ繋げる力のみあれば個人事務所でも良いのでproducerとbrainのteamが居てくれれば(bandは雇いでも周辺人物でもdika omkaのように現地調達でも可能)機能する。

(そしてこのvisionがpresenへの自身方向の明確化へも使える。)

故に結局、その同センスとメディア化の能力(本源性と洗練、枯れていながら最新)の人と出会い話しもスムーズに掘り拡げ、そこへ繋げてくれるか。が重要。

その僕や心身の状態も理解してのやり方と、支えてくれる人間も必要。

海外での売り出し戦略。
Visual (youtube),Show style,
Media (interview),
話題作り (映画音楽,賞)

ファンクラブ(grateful dead)
Artist印税

テーマを持った活動。

Media化、snsではなく。
文章(note 本)
映像(mv(写真,絵) 旅 tv 映画)

show(聖地 演劇

Donation経済


(説明の為にもの自身の設定。)

寡黙な発信
障害のある天才

テーマ 全てが必然の連関 肯定 調和 共生 生体 苦しみ 諦め引いていくダウンシフト 虚無と闘争 極端

やはりFlow乗らない時にやっても、それは良く出ないし違う物に変質してもしまう。