junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

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4/12(fri) 2019 4:20e~ 4/13(sat)

受け入れて流し去り交感なる生命の味わいに深めほどける自身独りの充足にも向けて生き、(苦しみこそが肯定へ捨て交感に旅を逝かせていく避けられぬ成長の糧や必要であり哀しくとも、)その方向が私に宿り私を流す。

真の幸せという状態と至り方の発見と実現を(それもが欲や方向への操作でもあり、又は自身意志などですらない自身とは自動生起の機械でありても)求めて、この私を 生くに観じて囚われぬとも、他者と世界へ如何に分かつかへとも関わり、捨て傍観の自由へと抜けながらも受け流し転じ還す愛への対応となるへ生け。

愛とは唯全てへの肯定である、その人間内の感情的な生起に宿る状態のことであり、祈りとは愛を送るもすらがなく只その存在状態に在りゆくこと自体ではあるが、ではしかし愛の祈りに在り世界への自身を返すという対応とは又それも世界への自己関わりにおける操作でもある。つまり自身の意思宿る意識こそすらが(自身へ宿り来るものからに操作されたものであると同時に)世界連関へ関わる自身存在に在ることから自体の操作,欲求でもある。

ではこの意識の発展である(進化か退化か等でもなくて進展結合の自然結果の)知性(知性なくば悟れぬか?は分からぬとしても知性によりてこそ意識的に自身等の逝く先や進化もの方向を選択し、世界を観渡し気付きの味わいに往く事も出来る。 そして我々は地球上において初めての又、知られている限りでは唯一そのアビリティを持ち活かす事もが出来る生命種である。)に内蔵された人為なる自然や欲求利己の萌芽が育ちた現状況と今後もの肥大傾向もは可能性としては否定出来ず、またその根源である pre personal とも言われる無為,未分化状態にもその者の傾向という分別は(意識的でなくとしても)あるというように自己結合の構造や個体性を持つ状態未満もの全ては或る意味での利己である(自己生成や展開の為への世界の利用)とも言える故にも、例え知性とは生かし得る手段の一つでしかなく絶対条件では無いのかもしれぬとしても、それは恍惚的な静観へ達し在りたとしても知性を捨てた廃人(植物状態)となることが目指すべき先の悟りではないとも思われてはいる。

では天才でなくても夢持たぬとも良いが、聴き観じ自立的に考え深め見渡しては、しかし世界とも開いているという存在への感性と生存を育むに生きること。などもは現世界への対応に伝えられることではあるかもしれぬとも、それは方向性に関わる自己意識の選択を催すことへの操作でもあり(この連関性の世界に自己同士を置く事で成り立ってもいく事を否定してはいないが。)又、現人為社会の時代も技術もの方向はcontrolや拡張ばかりではあるが、しかしこの私もが他者へ対しての真実へのcontrol欲求などであり、無為性へ抜けるのみへ生くべきなのだろうか?


結果に囚われず経過を大切にするとは言っても、その経過による結果の起こり方にも判断など出来ぬのだからにも、その過程の選び方への判断や成長の押し付けへの方向を見い出すさえの囚われを捨て全ての選択から離れ捨て関与せず行わず傍観へ達観し、殺され奪われるも良いがままに任せるという選択であるがべきであるのか?

例え苦しみを抜けても、自己となるを生きゆく以外の外がなく、共生なども押し付ける事は出来ぬし、してはならない。

しかし何の影響や結果が分からず判断出来ぬといっても、その影響などが自身的には見えたならば例えそれが自身に望むものでなかったと自覚していてさえも、(それが自身の真の意思か等も分からなくとも、その時の自身に宿りた世界への関係の必然性の一環であると納得して)その時に行いたいと思ったものは行うが良いというのか。

流れのずれる時は又も流れに合いゆく時との噛み合いに進むと僕の経験には(賢者は歴史(事実)に学び愚者は経験(思い込み)に学ぶと言われていても)見られているようにも、流れからの選択や必要性とは自由意志や何を感じたか?などさえにも関係がなく、それを行う(又は行われる)しかないのか?

可能性あるものは試したいという好奇心的な人間欲望は小さな規模であるとはしても同じように私の中にもあり為さずとも捨ててしまうへ克服されて(いこうとすらもして)いない。