junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

38 捨てていながら~

38 捨てていながら

胸のメダイが、今日の私を打つ。

乗り遅れる事の出来ない wake up call のようにも聴こえる

貧しき者は救われる。 その時が来たれば振り返る事もなく山へ向かえと言われたように、もし私の目指す生存圏の用意出来てもいなくとも、その捕らわれも捨てているに徹し生きているだけでも良いと思うことが出来るには少しは気も楽にしてくれる。 しかしそれは何千年も来なかったもの。 現時代は確かに文明の岐路地ではあるが、だからといって黄金時代が来るのだ(しかも私の生きている内に)等と信望していることなどは出来ない。

天国に居られる事の出来る徳はあるが(徳と魂の高さはイコールではない)しかし天国に居なくては死んでしまいそうになる程の自身や弱さも知り、与えられてはいる。

上手くいく人間も居る。が、私や私の家族のように上手く行かない人間も居るのだ。 しかし私はsocialに開けた人間ではないかもしれぬが、あらゆる可能性の受け取り方(closeで有りながらもopenである)に開けているとも言える。

捨てている程に現実化もは開ける? その照査のような出来事もはあるが、全くに全てがそうだとも言えない。 そして得る為に捨てるのは功利的な操作だろうが故にも分からずにそれをやるのは嫌なのだ。


39 天国 (Ams)

天国はある。

PaiやAmsなどは平穏な天国であり忘れてしまいそうになるが、世界は刑務や支配と抑圧の人権状況へも、たくさんの人々もが苦しみ続けてもいる 。 この世は何て地獄なんだ。

新しい地球文明が生まれ来始めている。 だからもう大丈夫だ。と思ったがしかし、

それらは真に霊性的な意味での発展やhigh consciousではなくて現世界のtop classには達しseedであるを叶えて待ちている状態(stay,wait)でimproveは止まっているがquality of lifeや機能,合理性と人間,共生系の並存における世界首都(metropolis)の現在地ではあるが、しかしその遺産を消費していくだけで多分もう新しいものを生み出さないであろう段階にもあるように見て取れる。

そして蒔かれた種によって繁栄されているが乗っかっているだけとも言え、自身等によってクリエイトされないと本物であるとは言えないというのは、この世界の現況と同じだ。 それでもこの地に結び着いて来た奇跡を感じ感謝してもいるが。

Artistであっても余裕を持って暮らせる社会ではあり、変な奴ではなく感性やその能力を持った素晴らしさという(それもが絶対ではないが抑圧されるよりは)当然の評価感覚を基本には持ちている中での生き易さはある。

しかしそれでもやはり、この安定社会の上に新たを創り出さぬとも楽しんで生きては働く事で生活を保ち作っていければ良い人たちではあるが、それでも未だ資本主義に囲われて(大分抜けているし物への依存をそれ程に必要としてもいないが)いるし、又やはり僕の場合はその生活保つ為に働く事すらも出来ない故にも全く適用させる事は出来ないのでもあるが、では私はこの私の先進存在性(や、こうした先進社会も)の生存の在り方を伝え広げるArtとは成り居たい。

Viva la freedom revolution ! People power for the evolution ! (I Am stardam from ADM's vibration !)

Asiaは精神文明の担当も出来るし、それは現欧米価値観のグローバル化された既存基盤に挿し込んでいくだけであるとも言えるが、未だ先の事であり先ずこれからはusの west coast に文明の実験,先進地は移りゆく(また彼の地は独立を模索,先導するだろう。)


頑張ってではなく楽しみながら楽しいからやる。という当然の感覚でも自由を価値観として目指す方向でもなく、互いに縛りあい押さえ込みていく固さ(こちらに行っても駄目。 あちらを選んでも行き止まり。なので考えなくば進めず一つの事にも労力がかかる)や同調圧力は政治の問題だけでなく一人づつのメンタルの故にも日本は、今のままでは20年どころか50年たってもこうした先進地へも世界首都的な文明の発信地にもなれない。

しかしそれらは人々の質が風土の傾向性のどちらを選び転んでゆくか。等でもあるが、その人々の質は結局その場所の波動や影響性に依るように突然に又はいつの間にか変わっていくかもしれぬにおいて可能性の限定は出来ぬが、現在を見ると世代で少しずつの意識が変わるくらいでは潰されてしまう方が大きいであろうようにも余りすぐの変換へ期待は出来ぬし何か大きな破壊による転換は必然の物なのかもしれない。

縛らず自律した個人性に深め進めるUniqueさ、やoriginalであること。

Cosmopolitanであるとは行いの事ではなく、その意識や感性のこと。

しかし日本人から離れた感性で生きては在るが、その謙虚さ等のポライトさや精神性に面で私は身にも付けた日本を背負っているとも言える。 それは知れて良かった価値なのだ。 私は日本の人々の狭い感性や価値観の押し付けなどに打たれることや閉塞感なども(この地に居る時の自身もそれを為している一部であるかもしれぬが)が嫌ではあるが、この風土,情感や文化に生まれ育めた世界の可能性であったことには感謝と恩恵と必然の結び付いた一つの私化であったことを感じてはいる。

日本での同調圧力は及んでもいたし
しかしこの自身に在るにのみに在りた事において大しての影響を及ぼさず流せていたとも言えるだろうか。


40 4/25 (thu) 最少と現実化欲求

幸せに(深く)成長する生へ向かう私と世界で在る(道を)を願う。

冬に帰り来なかった事で酷くこじらせずに済んだ事は(どの状態を通りたかの違いだけで、緩やかな上昇線中の悪化の下方並行線側を辿ったとしても帰国時点からの釣り合い点が同じで、例え改善への薬にまではならなかったのだとしても。 つまり結果は同じであったかも分からなくとも、その過程を選べる状況が与えられ自身にも選べた事で)幸福に日々の道を過ごせた(金が終わらせてしまっても、そこへ使って良かった)納得実感ではある。

だが、日本に帰り来てからの情感や風土と戻り来た生活ペースも久々に味わえた良い刺激にはなった暮らしもの安定だが閉塞の暮らしと環境に慣れていく事は出来ない。 そして行為必要は少ない事も言い訳としてだけではなく、(季節への立ち会いは気持ちや感覚へも作用はするが)春であるもは私の心模様への並行に流れ、無行為,無気力,哀しみ等は(以前よりは改善しているが)やはり虚無へと大きく開けてもいる。

そこに充実して小さく落ち着いていく事が出来て行ってしまうようになるのも恐ろしいが、もう嫌になって来てもいるのに現実が付いて来ない状況が繰り返されるのも、やはり苦しい。

少しづつの変化にも任せての日々を逝き、何も望まずこの生存と(子と)書く必要だけの充実のように現在のままへ充足し減らして行く以外の、この自身にとっての生命実感の歓びがなく此処に居たくない感覚などもによる私の性質や生存のままの現実化方向の欲求は求め描いてすらも捨てなくてはならぬのか?

そうした、明日世界が滅ぶとも林檎を植えるが人間だとしても、私は(そして世界の共通方向もは)為す事の欲を追わず減らし植えない欲求の方向のみへ行くべきか?を私は問う者だ。

この問いもの過程を示す創造の形を目指すのだとしても、私はその答えも吐き出し方もが未だ分からない。 そして(その整理や活動等までの余裕もないし、又)それしか出来ぬなら、これが私に与えられた最大の必要と注力の先でもあると実感し納得できてしまってもいる。 これが私の必要ならば例え世界への意味がなくても、これをやるしかないじゃないか。 この活動への種を撒き植える以外に、生きる余力も体力も活動力も知性もが足りないのだとしたら愚かでも、この与えられた私を逝くにしかないじゃないか。


41 人為と享楽

人間と世界と共生と進化への行き先と行き方にとって、何が最もなる幸せか?から見るに見つけてもいく。 そこに、知性が産み出すものの次の姿の質や関わり方も存在の仕方もは逆算され現在へ組み込む事も出来る。 人間が滅びる方が良いのか?や共生や理解の必要さえもないのか?等もの答えへと問い、人間という限定された環世界にとってからさえも何が真実か?へ近付く事は出来るのだ。

脱構築の為へもの構造化を使う。

享楽的な消費性と快適な生存性(現世利益的な享受)などは勿論違うが拡大か縮小かのベクトルで見れば、どちらも人為便益の為の享楽と纏めておく事も出来る。

最少と電子生命方向。
しかし押さえ込むのでもなく、ハンモックやダッチオーブン的な技術。
人為自然の単位づけ。

この楽園を味わう事が出来る。 それだけで良いのに、それを知るには知性と苦しみと希救が必要であったのか。

人間の生み出したものなど。
無駄を生まぬこと。

しかしどのような意味付けもは、私たちには真実や結果判別などが(想像は出来ても)感知出来ぬにも無意味だ。


42 技術と今後

人類の愚かさは、取り返しの付かぬ処まで押し進んでしまうかもしれぬ

存在の共生的奇跡と連関体があり、物理的人間に在るという事を留めてくれている。


有機的な生命奇跡の連結と体験は、しかしそれ(生命)自体を変更(破壊)出来るようになる迄の過程であり、技術が生命を利用していると迄は言わぬとも、この知性というのもは新たな電子的知性を生む為の経路であり、それが種の到達なのかもしれない。

Nanoや量子化された電子生命はしかし有機的な結合性や構造体化を持ち得るのかもしれない。

自立意思。
ブレインインターフェイスもiotもnanoも
操作されるへの怖れ。 では量子コンピュータが暗号化を強固にしたとしても?

汎用Aiや融合可能性の以前にhackやcontrolもされる
元々に自由意志などがないのだから

意志的(慈悲的?)に決定する者の知性を上げる
(潜在集約システム)

仏性的な知性へ進化できるなら


人型猫
意思を伝えられ、技術アクセス権を持つ愛玩動物の市民権

豚への胚移植 クローン
それが通ってしまった後の時代状況では、例えば娘の命を助ける為にヒト豚(となりている可能性の存在)か娘かという命の天秤では私も、こちらを選ぶかもしれない。 だから、その時代の前に可能性と実現性がありても止めておく。という人類の置き方も必要ではないのか? 命に差別は付けられない。

それとも悟り(仏性)への認識知性の高さや質で、(以前noteにも買いたように、自己意識で動いているのではない蚊やvirusなど未分化固体や種が悟りていないか等もは分からないのに。)その命に順列がつけられるのだとしたら、人間間でもの知性または存在性においての格差や生命利用(奴隷,カースト,臓器提供,実験体etc)もが認められてしまうのではないか?

又はそこまでは行かぬとしても、トロッコ理論での優先などで5人の一般人よりも人類への発見や影響可能性の有るカントは助ける等という判別は有りて良いというのか?

優性学の復権と加速の時代において、平等は自由から介離していく。
自由選択による種の分化 os更新
子孫による選択可能性

もし自身の存命中に可能となれば疑似人格(アバターAi)のvirtual空間での複数分化的活動も、その他者との融合的流通性も或る程度には認め(責任と同意の持ち方。 自己の責任おえぬ事までもの誓約社会になる?)死後の

生体自身はbrain netの interfaceやnanoの
可能な限りは入れず繋がず切り離し、極限て的なextreemさではなくとも現在のように風土を感じ立ち会う旅のように生体的な交感に生きて、個としての死も取り入れる。


Virtualも全て否定でなく取り入れられても良いが、ソロバンが残っているように本などの物理的体験性も又はsportsも残るだろうが、一度失ったpotentialは基本的には取り戻せない。



独立的自己のままに他者との折り合いを持たぬ生活と、家族,共同体,地域,全体との生活(生存圏)的な関わりは?

安楽死

クロックアップされた意識状態(で1秒間に10年分の体験が情報処理されるような)の速度で生き世界を体感できるなら、この個をもって(も持たぬとも)長く生きていようと思うような必要すらもなくなるのでは?


惑星移住 移動性種 約束の地
技術により人口問題は解決可能

改変必要に際しての光合成

揺らぎも取り入れた合理性。 効率,利便などもの肯定。 しかし利己,功利性との折り合い

生き物はアルゴリズムで生命はデータ処理。であった場合に知能は意識から分離し、高度知能が自身より私たちを知る事態。というユヴァル n ハラリの想定と提起は流石に集約されてはいるが

恒常性


43 雑記、メモ

どの人も人間の中で暮らしているから、そこから顕れて来る創造物の全てには(story的かなどの度合い等があるだけで)人間が描かれているとも言える。

人間的知性においても理性的考慮などが感得されるものと思っていたが、それは違った。

言語づけと同じく、保守自体が悪いのでは勿論ないが、習慣やイメージ付けから人は離れにくい。


それは記憶に残るかも?と思ってしまった事は、価値の高くない情報断片でも残ってしまうことが多いように、既に想起されてしまった事に対して別の意識づけをする以前にも先ずキャンセルをかけておく否定形の効用をも使う。
(又、チック的な解消の方法もあるが、その行為への依存,肥大させぬ事との調整の難しさもあり、しかしそれも意識の自覚によりて取り戻す事は可能だ。)

幸せであってもそうでなくとも子供時代を人は、もう失われてしまった有り得た世界への可能性の内合として懐かしくとも想うのだ。

人は現在の時間での感覚や観念でしか捉えられない。 だから子ども等などの日々の成長具合を見て驚き凄いと思ってしまうが、それは過去の自分との比較が上手く出来ていないからという一面でもある。

次の時代に移行するのを待つのでもなく、創り出す私に提起する。

それでも、人が人を殺そうとしていた時代(戦争や殺人だけでなく遺伝子操作やsystemへの迎合)が昔はあったらしいと驚くような未来の人たち(居たとしたら)には、この観察や感覚も響いてくれるのかもしれぬのだろう。


44 脳と意識 (知能とは?)

全ての認識は脳が創り出している。
(視覚野における青白きバグ(?)(4/5))

頭の中のフォルダー(階層立て)分け。
選択肢の中の選択や自我内の統合,統治。

別系統から発生した0,1の2進法意識も有機的な連結へ或る程度に近付くのかもしれない。

惑星意識は既にもう在る。のかもしれぬが、もしかするとそれを生み出す為の人類がテクノロジーによるニューロンnetwork的な通路,回路のインフラ整備をしているのかもしれず、その為の機械や過程であったのかもしれない。


45 管理や暴力

自身と相互利益の為の功利的な平和。

仏教のように生死を捨てている。 少林寺にように火の粉は払う。 合気的に制圧はする。 殺す事から自身の中の囚われを切り捨てる、活殺剣の諸刃性を用う。 交感の遊びや防御の為の技術が転用されてしまう。

信じず疑う心による危機管理や納得への安定と、信じ活かし合うopenさ。

坊主という無個性化は社会からの義務と縛りにも通じる。

銃刀法などもの権力による自衛の管理

武力組織に頼らぬのではなく 頼れぬ時。や、そこからも独立している為にも管理されぬ事。

核や銃でなくとも電磁波兵器(思考盗聴,集団ストーカー,マイクロウェィヴ)や、弱者の抵抗手段を奪う鎮圧兵器。

プラズマ兵器,ケムトレイル等、又は握手一つでも殺せる殺意への防御不可能性。


安易な暴力は問題だが、誰も楯突けない権力や才能と引き換えにした傲慢さが通る状況に対して(海老蔵事件のように。)変える事も出来る可能性の為にも(人格は芸と関係なく、それらも放り出していれば良いのだとしても)誰かが対抗力を用いる事で提起や反省の機会となる(暴力組織やそこからのプロパガンダ,宣伝,対抗交渉力の持ち方、等の擁護ではないが)犠牲となる必要もあったりするのではないか?

Mediaの情報操作
偽旗作戦
伊丹十三 宮崎勤 日航
冤罪
特捜地検 マトリ,公安,別班

裁判は出ている証拠で判断。 つまり正義や真相へは関わらない。
人質司法 人権 移民局


ワクチン 他者や全体が受け持ち犠牲になって打ちてくれているから打たぬという選択も出来るという現状。


46 豊かさや消費

経済活動の中で豊かになり自立生存圏の創出投資を目指すのでもなく経済状況からも外れて豊かになる方法も、ある?

創り出されたものの生産と保存のバランス。 コレクター的な依存も違うとしても、その時の価値判断で全て捨てていってしまったら(民芸的な価値も)何も残らない。


所有でなく、その物などともの出会い。である体験(アクセス権)となっていく?

電話やmailではなく会って話す現実的な交感を、偶然との出会いにおいて その場に行われるものなら取り入れて良い。(?)


与えると与え返したいと思う人間の習性を利用する?

競争の原理を抜けながらも、ブルーオーシャンを取るには?

言いたい事を10分に纏められるか?
自身のMedia化。



客や金が入れば雇用を増やし、その分を更に稼がなくてはならなくなる農耕以来の再生産への奴隷化。

薄利多売で利益分を設備や雇用への再投資へ回しても仕事と雇用を生んでいるだけで無駄と資源浪費の破壊を生んでいるだけ。

資本の投下で住民利益は出ても規模の大きくなると、大企業に管理されるようになる。

それでも中国などのように複製ばかりでも、生産しているだけ消費するだけの社会よりは良いというのか?

大企業などに対抗(対決?)するには個人的な恨みなどしかないのかもしれない。 そうでなければその利便性に囲い込まれて、管理されぬという気力さえも失くし奪われているかもしれぬから。



78:22とは、大気の組成と同じという事は安定性はあるが変化もする法則であるが、自身の動きへも求める完成度,真実と感覚,しなやかさと努力,文と音,etcへのバランスへ取り入れている事も出来る。


僕一人成り立てば良い事へ生かし回せる基点となりてゆけるが
金得ても、全てへ使うわけにはいかない故の投資の選別,判断。

とりあえず生き延びて無農薬栽培や種を採り小さな自給や商業コミュニティを作り残しておく位には母のやって来た事も結び付いているが、Chemical(bio)やscience(微生物)の知識、建築やメディアやガラス環境(又は書類仕事や手続きも)や企業などものやりたかった事 (文章 カフェ) シリアル(非常時準備)の結合先は
しかし僕もだが、人と上手くやれない人たちは?


特許

アースモルタル 吹き付けスチロール
混合率 透湿,防水率
焼きゴテで滑らかに焼け切れる

3d printer や 土器のようにアースバッグ的な物を積み重ねていく方法?


47 相互と統合

法や縛り、禁止や制限などもの必要性と自由,多様

受け入れる受容と包合からの、日本人の美意識でもある型,様式への秩序化。

引き裂かれた相互や極性の共通や統合。


答えへの求めから離れる。と、答えを求め問い続ける。

捨てていく欲望は欲望的とは見なされないのか?

出来るからといってやろうとするのは自身もであり、出来るからといってやらぬのか? (昔の日本人のように)

人間から離れ世界とも関わる。
保守と変革。

個的な最適解の対応と全体解の矛盾の適合。

物を減らすと増やす。
減らす基準,方向の中に、増やすをも入れる。

また一つ出来る事が減りた。 もしくは
減るという事へ増える。


48 4/28 (sun)

Note媒体を移す事でメモに追い付き効率化出来たが、まとめられなくなった。 しかしこれ迄も散々に繰り返し問い解きて来た事であるのだから、この日々の記録と整理も必要なら応じながらも比率はそろそろ創作物への転化へ(創作を為すべきであるかも問いながらに自分のままに)抜けていく事へ切り替えていく頃でもあるのかもしれぬ。 何かを犠牲にせねばならぬが人間であり又、どうしてもまとめられぬ私であるならば仕方なく現時点での卒論にもならなかったが、どうせ答えのみを出しても理解はされぬのばらこの問いの形を如何に投げ掛けるか?へとも移行するタイミングにようやく至り来ているのかもしれない。 (メモも整理労力も全くには捨てぬが、統合部分が少なくなるにおいて、この安易で思い付きの部分が残され易くなってしまうかもしれぬは理解を頂きたい。)

この書きた物をまとめるへ結び繋げる(その過程や missing ring の出現)にこそ発見があるのに、そこからも引いていく時期なのか? 日々の感覚を書き、少しはまとめるとしても大部を放置し又この残すこと自体は捨てなくとも、前進するには何かを後ろへ置いていかなければならぬというようにも。 (全くに止める訳ではなく、それもこの現在自身の流れ方に少しづつ進ませる試みではあるが。)


流れがなくとも行うことで流れの付いて来る事を意志によって切り開く等という言葉に言われてもいるが、そこにも自身と世の適合の流れが行われているだけであるように、創作の能力が与えられているのだから自身のままを行えば良いのだというのも本当だとしても、与えられたならば行うしかないじゃないか。という生き方は苦しく、それをやった結果せっかく無理は良くないと納得,選択出来るようになったのに、(書く過剰を諦め減らしたら、やはり書く必要があるとも思われるように又は私のままに在る事で人との関係での流れが取れずずれてしまう事もが良いとしても、もっと人の為になどへ生きねばならぬのか?のようにも、)もう僕には試す事さえが無理ですとも願い、闘わず普通からも退いていく在り方での流れの受け得方へ移行してはならぬのか? (現在の自身は現在のチョイスに流されれば良いとしても、その向かいゆく方向の基準として。)

感じた自身のままに無理せず在れる利益への流れと他者の自己利益が噛み合っている時、それでも自己利益の楽へ向かわず互いの交流点を創り出そうとする事で生まれる結果性へと生きる自己犠牲性を取り入れなければいけぬのか?

ライブや人為タイミングに合わせようとしないでレコーディングだけ。へ引いていく等であるより、出来るようになる自身化を方向として目座すのか? それは当然、捨て抜けた在り方の上に出来る事へも試す事としては良いが、そして遊び楽しみながらにその時の自身自然を置くだけ。なのだとしても、やはりそこには人為との兼ね合いに如何に合わせ流れを生み出すか。や自然である以外に引き合わせる操作(無理)ではあり、又それが(人為外因によりても自身の引き出す能力の現場化しなかったにおいても)出来ず良いものを生めなかった時の納得が取れないならば又も苦しむ。 それでもその行い為す事の闘いへ私の能力(や流れの来ぬとも流れへの意志なる欲望)が望むなら、自己承認や名誉の為であるかを問う必要もなく、行わなくてはならぬか?

気を抜いて自由自在であるよりも、叫ぶ。伝えようとする。事が悪いとも言えないように、過剰が私を消耗させてもその役割を示されねばならぬのか? 自己犠牲にも、疲れたというのに。

世界を背負う(自意識過剰や小っぽけな個に背負ってる等と思うな。の事ではなくて、この共感共悲のこと)悲痛の上での肯定と悟りの輩出システムはそこを歩んだとしても至れるかも分からず、また苦しみからの呪いと悪循環へ回り易いハードルと苦の世を拡大し続ける中での悲情な仕組みだ。 故に私の至りつく先が分からず更なる苦であるかもしれぬとも、生まれたこの世の運命(定めされたものかは分からぬとも、連関に催される私への結合はある。)としてを生きていってみるにしかない。


叫ばずに呟くだけ。 進化は静寂へ還るなら、為し得た事の分かち合われぬにも引いていくが良いではないか。 残すには、残す程に、人類の可能性へ創作と言う消費を与えてもしまうから。

それでも、もう人類は(身体だけでの100m走タイムは更新されぬように)新たな創造的作品や革新を生み出さず焼き増し文化に入ってしまってもいるように、(例え僕に果たされぬなら他の誰かがやるのかもしれず僕は能力さえも捨てる業と道を持ってしまっているのかもしれぬとしても)そこへの新たな能力の使い方を点火し注入する意味も待たれているのかもしれず、行うべきがあるなら結び付くままに為されよ。

僕が如何に無意味であっても、こんな自分を逝くにしかない。

成すことは苦しい。 それでも成さねばならぬのか。

流れ打ち切るも流れのままに、自身選択点を何処に置くのか? 流れを取らないという流れを(自己意志欲望へ、又は減らし行わぬへ)取るのか?