junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

18 4/18 (Thu) ~

18 4/18 (Thu) ~

やっと満開となりた桜、風そよぐにも舞い散る。 なんて哀しい風景なんだ。 毎年に宿る、ようやく実りた春の巡りの瞬間に行き会いて、私にも花の降り来る景の中の一部となる。 見せてくれた一刻の凪ぎ止んだ立ち会いの時に分かれて、また僕は歩きだす。 まだ死なずとも良いか。や、これで死ねるかと思う程には春や花にも依存してはいないが。

苦しいよぉと痛み叫びが、大丈夫だと身でもの解けが交互に繰り返す波のように僕を揺れ、足元に転がり来た一輪の花穂を拾い上げてみる。

川柳の若芽はすっかりと芽吹き、山に頂く雪は熔けけれどこの新しき始まりに照らし合わせ象徴に結び付けるだけの愚かさはもう無く、この日々の変化のままを私の人生に流されて逝く者か。 何為せず才の生かせず人に打たれて孤独にひねくれ旅へ逝く体力も自身の場をつくる提言への気力や金も関係も得られず子等へこのような姿しか見せてやれぬとも(深めゆくことすらも失われ、只の囚われだけとなりてしまいても)、生きているだけを歩めるが増しだと生きるのか。

特別と普通の両方を抱えて、何か小さな創作などを喜び誰に分かてづ活かせぬ才を失わせ、ひっそりと死にゆく為にを生きねばならぬのか。 しかし何が為せるような器ではなく今までも、フラりとしてゆく事にしかなかった私ではないか。 それでもそのように捨てた自然の在り方での関わりの形と成れたらと思ってはいたが、それさえもを捨てるのだ。 それともその目指す所は只、怠惰にも流れ無駄に過ごしてしまうような在り方をこのままに生くしかないという転化へと、肯定しゆくがべきなのか。

この世界は今も何て美しい。 しかし人為の世に生きるは苦しい。 けれど人為でないにより生きることも諦めた弱く私の頼る先などすらなくて、結局は生老病死と自己の哀しみにも戻り来るのか。 そこには肯定への諦めと、引いていく在り方の自由へ歩む以外の変革がないのだろう。

川流れ風は吹く。 私を時へ送り出し流し去る無常と変綿の自然が歌を歌っている。 私の上に虚無は積もり私を通して世界へも語りかけている、この唄を歩き出すのだ。

右側の街からはサイレン。 左手側からは何か合図の花火があがった。 山裾の里寺は今日が祭りか。 何年来は何年越しかを考えるも出来ぬ程に過ぎ去り、あの頃の子ども等はその容姿すらもを変えた。 けれど過ぎ去る時の中に生きるしかないように
も あの時の観音祭の桜樹の容形と、ここを歩く僕のみは変わらないように、既にこの哀しみは私の一体なのだ。

儚いけれど長い。 綿々刻々と移り変わりゆく世の相の今日という現場の記憶に、忘れ去られてもいく人類の一端に連ねた私の想い(世界)を書き遺してもいる。

遥か流れ、あとは静か。 せめての思い出を残しておこうか。 私の中に積もる連綿を虚無へとも還して。 生きてみるだけの無駄ながら、世の一潮に夢を見てもみたのだ。


19 観察の状態 破壊の実在と破壊の破壊

死んでしまうくらいなら、せめての創造へ残し置くへの闘いへも向かいては生くが、この心身状態だけでなく怠惰な何も出来ない自身の故にも生存し観察し子供等の為に世話できる時は関わらせてもらう程にしか生きられない日々を生き延びる生存(を高める為でもなく)だけの闘いで手は一杯だ。

行う価値を手離し独り静かに在りゆきて、身体実践からの感覚でなくば真実を辿れないという全体の最適解にも捉えられず生命には深く感じている交感の内実ではある私であるが(そして書く環境と知性のみの道という最少と生命使用の活かし方でもあるが)しかし、自給的な共生系への関与交感も捨て托鉢的な仕事をも離れ、自然界と社会からの搾取に生きる私の愚かさに、歩く程度の身体性にしかあれぬも行住坐臥のみの最少を得てはいると納得はさせてみることは出来る。

何の理解も意味付けも納得もは必要でない只肯定の境地へ宿る為にも、このような私の分別や理解欲求または低知性(化)にもおける活動と囚われへの生命使用など愚かさにはありても、それこそをもそのままに、全ての者がそれぞれのみを行うにしかない肯定へ通じて在るへ逝くだけか。

では与えられた場所の現状肯定でありながらも、自分の生きたい生き方を選び目指し求めることをも捨てるのか? 全てを捨て自由に任せ傍観に眺め非知性なる愚かさをも認め行為も離れた自由在の歓びに化され在りて、せめてもに何かを目指すことすらがなく拷問されても判断も自死のチョイスすらもなく生の味わいと喜び微笑むのか?

そうして全てを越える為には、その証明を自身に知る為にもの試験が為され来る試練を肯定へ溶けさせなければならない。 それは真の歓びという完成へ達するまで宿り来る苦しみの道だが、では全肯定のみという真の幸福を唯一の欲求質として求め向かうことも捨て、深め至る進化方向などでなくとも楽観的で共生的な在り方であれば、(その段階の愚かさにまどろむ苦しみでありても、それもは少しづつの進展にも近付く方法でもあり)良いというのか?

又は悪魔の誘惑も退けず、そのパンを受け取る人間的な弱さのままへ寄り添う事や、自身を捨て逝く為に苦行的修行が死へ近づけるなら例えそこへの疑問があってもの自身さえもを捨てて身体とその生体のよる感得の道と価値をも捨ててしまうというような肯定へ変革されることが全肯定の行き先ではないのか?

全てが与えられた自身各自の必要を感じ選択し行くことならば、その意志へ化された宿りが世界の破壊や悪魔という神の役割の一相を為す事も世界と自身の一体における私を怖れもなく為し潜在的真実に近く故に行う勇気や無判別の高さでもあり、例えそれが嫌でも、そこへの人間界的な反動に殺され返されようとも(自身が悪魔となり故に罰され苦しもうとも)行われるべきを受け取り為すのだという覚悟と肯定境地ではないのか? それを自由を奪うものからは奪い返す。という正義や共生価値側からの判断の囚われの行為化ではないのか?

人類を滅ぼす。破壊的種と文明を広げる。又は優性的に改変する。などが良くないと云える判断根拠はなく、そこには生きたいという利己性からもの自動反応があるだけとも言える。 それでも私はこの現在にもある共生的な連関の奇跡を観るに育まれる人類と知性の生かし方の可能性への導きと示しを求め感じるが、それが正しいとさえも言えるかは分からない自身一人への内面と世界との交感に深めゆくを生くのだ。

そしてでは、私には対立の間に置かれる敵などが居ない。 全ては私自身であるからだ。という在り様と、一方判断の浅き視点と打ち来るが馬鹿は嫌いだ。というような私の実感を認めているにおいても、それではないというタガを外した故にもの私の中にもあり吹き出されたかった否定や愚かさの肥大を許し認めているだけで良いのか?

放り出して自然の結果に任せる私は自然の宿り自身でもあるが、その世界への私を(通しての人類種自身等の)何処に立たせ選び往くのか?への問いの羽ばたきと連続がある。


20 無為と人為

無為を放浪す。 このままで良いのだ。を呟く必要もなく口づさみ、自信もなく無明の塵を纏いてさすらふ、それこそもの悟りを覚す。

私は人為を嫌う判別性の愚かさでもあるが私に言われる人為とは自我,利己,怖れ,怒り,好奇心,向上,自己承認,拡大欲求etcのことではない。 それらの生み起こす操作,支配,否定,攻撃,一方的判断性,執着,による破壊,無駄,正当化,逃げと依存,それらへの自覚せぬ浅さ(人間的能力である知性の不使用)、つまり生命交感の味わいに有機的連結の共生相の奇跡を見ようともしない事、などを愚かさであると呼んでいる。 そしてそに聴き観じぬ事を即ちが否定であると捉えてもいる。 その否定と愚かさに否定を返す提言は私の囚われでみありたがそれだけでもなく能力と性質の自身でもあったそに選択も認め、では何処の選択を採りゆくのか?への方向を無関与へと転じさせゆくべきであるのか?を問いている。

私に宿り私を操作する自立意志なるを起こすものの総体,実相(潜在的実在や自性とも言う)とは


一つずらすだけで一つ以上の複合的なズレを生じさせるのに(それも私へ通じた必要を起こしたが、ヒプノで解決したにより次の問題がより大きく起こったようにも。(対者間での自身の置き方に因)(しかしそれも次へ移る為に済ませた必要過程ではあったと思われるが、全ての過程を肯定してしまうという捉え方の問題なのか?))

有機的分解可能なエコ性でありても、人為的行為によりて他へ回せた筈の分解労力を環境への負荷や連結系へ負わせる

エントロピーの観点から見たら何もすべきではない。 又はエントロピーの増大化の為の装置や運動体なのか?

人為的変化は組み合わさった奇跡的な連結を切り書き換えてしまうバランスを取り戻すにも非常な努力と資源が必要となるかもしれず致命的な影響を及ぼすのかもしれぬ

利便性が悪いのでもなく、しかしこの目先の人間利益の視点だけでの便益性により破壊を創造し続ける人為社会と各自の意識に


意識の根底は多次元なる流動振動状の私性にも繋がっているとしたら、物理的

意思による現実の操作。

ほとんどの問題は技術の発達を待たなくても、人の意識のみ変われば解決できる。 又、その意識が変わらなければ技術が進歩し利便や享楽的な快適さが成り得たとしても人と人の生み出すものは問題を作り続けるのだろう。

人の愚かさが否定に打ち来るは止めて欲しいし、それでも自身のみに在る個と孤に安住に向かいては歩むが、現在が既に属せず関われず孤独で失っている故にそれを恐れ過ぎなくて済む強さでは有り得てもいる。



発信する以前に、それは哀しく自己意思ではなかったとしても、まず毒を抜くと言われた仏陀の実践を送るしかなかった恩恵に預かっているを与えられ、どうしてもそこへとも最低限性にも歩むしかなかった才能の生かされ方を光栄とも思う。

便利さ 手間をかける 予定の為に生きていくように

怠惰とは虚栄心に使用されない効用も含んでいる。


21 4/19 意識の段階~

意識の表層と深層を気付きにより切り替え又は並行に使用(併用)する。

別の人格が仕事をし運んでしまってくれている。 記憶や意識が他へ飛んでいっても、作業してくれている。

説明と理解やcanselle(否定)を当てる。 しかしそれら根本自身(高次,魂)は全て知っていると任せるに安住し全てが良しへ還してしまう信託に在る。

いつでも自身において瞑想的に心臓を止められる段階まで来たれば、自死方法として発見であり救いでもあるが未だ奥があるへ この生あり味わえる内に歩くのだ。 それが自身性質各自に規定されてしまったそれぞれを歩むにしかないという覚悟への無情であるとしても。


波のsoundひとつにしても今まで聞こえていなかった種類や場所からの連なりたちが凄い音として聴こえるようになった。

それは自然という神からの声を聴いているのとも同じだ。

上を見上げると流れ星。 祈りの瞬間でなくても、存在の瞬間という地平との混交。

Mindful と呼ばれる状況。
これは人間における狩り的な遊び。

三角形上方部担当の突き抜け行動しゆく男性性とその生活土台を支える現実的基底部の女性性。 (戦場の兵士とカーテン素材で悩む妻などのモチーフのように、)それは役割の分担や別次元的異相と多様の癒しにも通じる効用もあるとしても、その双方に理解がなく溝の埋まらない事だけが問題。

何かを求め突き進む欲求方向の質が問題となるだけで、男性性がその傾向性を持つ故に悟りへと迎える(自己を絶えず歩ませる)事が出来、女性性はその基盤である社会や生活を形造るものであるという分担性への区別は、それ故の差別では本来なかった。

そしてどの段階と優越の区別もがなくとしても、三角形は比較には用い易い。 けれどそれは優等意識などだけではない。

自然界が円であり四角を生まぬのは単純に、その効率に比して複雑だったからでもあるように。 そして人間は、それを作り出せるようになった人間という知性種化への奇跡でもあり、しかしその人為自然から統合のtrans personal な知性体(フラワーオブライフ内の多面体構造のようにも。)へ向かう存在の方向性等もは利用出来るものなのだろう。

神聖幾何学
セラクト。

他者間の理解や調整の為の外交的アバターAi同士が関わる事へ外部労力化できても、感覚の全てがacucess可能な未分化的交流状態にまで化されていくことは必要か?又は止めないで良いのか?

それは Life log が何処まで必要で、何処まで流通させるか。や、その多方面展開間での制限,承諾権利をどのように採るか?等でもある。

22 宇宙と人間

知性とは情報であり宇宙のcode自体(識)の事も言うことが出来る。 空間に拠りて呼び起こされた生命は流動。

全ての流動,宇宙,自然,魂などは只"生命"のみであるとも言えるが、その宇宙の微細と包合などの総体における生命とは振動そのもののこと。

それを書いたものを神とも言うだろうが、しかし我々にとって如何に残酷でありても宇宙は関与せず共苦への慈悲を行使するのは我々という神と世界の顕れだ。

生命のartである世界という創造瞬間への立ち会いの味わいに生き、その自然創出の遊びや生命の流動へ

本質的潜在性に触れたものを spirit song とも言う。

識,受,色

光によりて視覚可能な物理的把握の対象の全ては生まれる。
では光を反射せぬ状態は暗や黒なのか? 人間の色覚にとってそう見えるだけではないのか? 光当たらぬによりて光を吸収してしまう。


人間の小ささ
質量が大きい程に応じて宇宙の体感覚にもある意識レベルが違う?

神とは途方もない存在。

意識があるから苦しいだけで、宇宙と世界は途方もなく 我々の生死や自我一個など取るにも足らぬ程の物。

23 潜在層

ではこの意識の深底へと降り繋がる程に、その通底が他次元の物理性とも繋がり、又それは他階層の自身への拡大を持たらす事であると本当に言えるのか?の証査や、それが唯一目指し得る方向への欲求なのか?

そしてそこに達し往くを深めた宇宙の力~force~を現実化という操作に利用するは良いのか? その真性の源は(Brahmanまでこの身のままで至れるかは分からないし成仏と涅槃の違いのように、この身のままに至る必要などもないのかもしれないが至ればそのままに自身などは停まるだろう。 それを知りた私としてを生きるのだ。)全てに流通している真実性において現実的選択へもの相違も対立もなく同じものとなるのだったら、そこからの選択は本質に近いからといって本当に正しいとも言えるのか?


真は信によりても通ずが、では至る方法は真実へのjunyana(独覚)と、信によるbakthiの同時,両輪と私には感じられている。

意識は恍惚でありても、しかしいつでも(朦朧ではなくハッキリとした )明智の中に

存在の震え。や高さ、と言うだけで良く、それのみが重要なのだ。というは、しかし抽象過ぎて"本質"などもの定義が出来ていない。 いづれ科学や技術がその数値化を成すかもしれぬが、そのpoint的固定による優越,格差が生まれてしまう。


24 strengh

胎児の記憶へ交感し(mistyなサウナなどでも)私に何を想っただろうかを取り出されてみる。

完全に母体状態に異存した環境で、体温調節されず温度が上がりすぎても逃げられない自覚。 しかし怖れ過ぎず大丈夫だよ。と言い聞かせながらも実際には死んでしまったり後遺症へ至ったりしてしまう場合も有り得ることへの委ねて良いだけではないという覚知。
(自分の事として捉えてしまうptsd要件的な共感共苦へもの資質。)


しかし例えば、弱き者だと思われるかもしれぬ他者判断への怖れを越えて自身の想いを告げるという強さを得られた。と、そこでの効用面への寄り添いや自己認識における意味合いへの理解を示すことは言葉化出来たとしても、もっと強き克服を方向として求め力使う者などのcontrol欲求などに対しての批判を置いても良いのではないか? またその方法とは?などにもへの、優しく理解しそこの意味,効用にも寄り添うという自身性質の(そのままを認める強さにはあるとしても、打ち切り突き抜け離れて(ヘヨカ的孤高にも)行うという強さにはあれない)弱さには、これで良いのか?という惑いもがある。

強さ~strength~とは強く乗り越えることではなくて(人間的質として、その面もあるが。)弱き自身のままを認め(他者もを受け入れ)てあげられることへの克服。の事ではあるのだが、そうした その時に上手く言葉化が見つからずまとめられなかったものを、後から書きては歌詞などへ出せば良い。のかもしれない。

克服へ強くなるのではない弱さを受け入れる肯定方向への克服と強さを伝えられる為の経験の私への生かし方を、唯この生きるにおいて叶えるへ生きる事を目指してもいる。

こんな意味で一生懸命やってます。というように何にでも理由と正当性付けようとする風潮に抗がう為にも、うまく言えずに何となくそう思ったからしたんです。位に流してしまうような時分でも良いのかもしれない。 その意義説明を加えたくはなるし、表現出来ぬを後悔し上手くやれるようになる方向を追いかけてしまうが。

理解をも捨て離れながらに、その必要性との中にも在る。

25 欲と現状

流し去りて、肯定の愛と全てなる光へと在る。 しかしその愛と成り在る必要さえも流し去り、又は流し去る事もないというのか? 方向や真実という唯一の欲の必要もないというのか?

自身の望みすらも捨てるのか望みのままに惑いても目指して生きるのか? 小さく閉鎖的環境の中に生きる安定に充すへ向かうのか? 最少方向へ欲求自己を減らしながらも現実化的な幸せや生かし方を諦めぬのか? に在りてはしかし、


自立意志の選択など或る程度は外部委託しても良いしどちらを選んでも良いことがほとんどだとしても(Yesと出たらそうだと思えるし、やはりそう言われてもnoだと思う事もあるように)、自身に納得するには自身で選んだ感覚が必要だったりもする。 そこをも取り外して委ねても良いのか?


全体や他者の幸せなど考える余裕も必要もなくても、せめて自分の為の幸せが欲しい。 もう苦しみに生きることには飽き飽きだ。

輝かぬとも良い。 駄目だとも思わずに、この自分自身に居れば良いという肯定の響き(輝き)にあるが良いのか?

結果が現実化に付いて来たとしても、この真実への希求が見い出され癒されなければ どちらにしろ私はそこを求め続ける作業に居なければならぬのだからにも、その猶予期間が長すぎて他へ活かせないとは言えども そこへ費やす事の出来た恩恵と才能の生かし方への恩恵であったとも言える。

けれど少しづつに状況もは好転してはいるが、それでも普通的な行為力にも至れないし今後は老化による下り坂も進むのだからやはり、もう普通と言われるような行動の基盤は諦めた状態での歩みを取らなくてはならない事は変わらない。

減らし退き引いていく在り方への移行は、私の状況と性質性の両方からに宿り高められていく個人的成長の方向ではあるが、その退いていく在り方で在りながらの価値を広め伝えたいという欲望の私もは、しかし自己承認や自己弁護の説明としてではなく、その私の役割と意味があるを果たしたいのだという欲望への生き方の肯定に同時にもある。