junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

26 4/20 (sut)~ 選択

26 4/20 (sut)~ 選択

自身に感じた気持ち上の流れと予定や都合上の流れが違っていても、それをやってみるという実験を、この小さな影響や作用の中で済まして見てみれるようにも日々をゆき、では感覚と違うが予定や人や車の都合などもの(今までやらなかった分をやっておこうという可能性を試さぬと気が済まぬ欲の一部でもあるが、それは果たされるべき必要や(意味付けしすぎぬとも良いのだとしても)失わせる事での調整であったりもすると思われてもいるように。)外因によって動いてみた事の結果は大概やはりやらなくて良かった。 やる意味のあまりなく減らしても良かった面と同時に、しかしそこで見えたことで次の動きに繋がった。 しかもそれほど損をしてもいない(していたとしても)。等というようにどちらもの双方面を持つ故に判断は出来ずやはり、非効率だが物事の調整のためには外因や可能性への欲による無駄も流れには合っているのだとも思われる。

それらは自身による流れへの肯定と意味付けへの勝手な結び付けだけでなく流れの必然が何処まで必然として絡み合っているかまでは判別できぬとしても、やはり必要が必要な選択同士への宿りとして為されているとは思われるのだ。 これも必然などがないのだとしても。の仮定を取り入れながらも、(そして自己自体が存在していないのだとしても、やvirtualなシュミレーション上の必然であったとしても、そこから抜けるまではこれが現在の現実であるへの観察であり)必然と感じられる事々の観察の言葉化と一記録ではある。

そして今しかない。 明日以降は在るかも生きているかも分からない。 その時への出会いをずらさず(ずらすと後から人為的に選択,操作し調整を取らなくばいけなかったり他の調整が来て、どうせ果たすならあの時点での欲をやっておけば良かった。ともなり易いように)その欲や都合による無駄,消費,又は破壊も必要とは感じられるが、その状況には拠るし(どうせ調整や反動も来る。という前記のように)溜めすぎても良くないが、欲を少し果たしても良いという方向より、出来うる時は少し減らしてみる方向を試すが良いとは思われている。 ではしかしその程度の方向以上にもっと減らしていこうとしなくて良いのか?や、溜めず反動の来ずとも済ます方法はないのか?等はしかし今の所そのバランスは、そうした事への意識の気付きとtuningを取り入れながら、その時々を感じていくにしかないとしか言えないのかもしれない。

けれど流れを呼び寄せる為の積極が効を奏した事はほとんどなく、与えられ来た流れへ対応する自己決断と意志への選択の少しだけ用いる程の以外には物事への想いや欲や囚われを流し去らせてゆくにしかないのかもしれないが。

しかし理性で感覚を押さえてしまえる自分が居る(その反動へも逆張りしてみている事もあるが、やはりこれも何処を取るか?の問いと自身性質だ。)ように、それだけではなく本能性に素直になった方が良いと思われる事も多い感性と悟性のバランス点を、その普遍的に流用できる統合,包括的な基盤や基準値などないのだとしても現在瞬間(瞬間的に選ばなければならぬという事ではない、その時ごとに立ち会うに照明を当てている事)に見い出していく以外に(つまりは自己へ宿り来る意志などが自己以外からのものであり自己決定など元来に無く操作された現次元への自動機械なのだとしても)、この自己意識性を用いる必要面は無いと言えるかもしれない。

理性に過ぎず、しかし自身に感じた事へも引き寄せられず

意識した事に引き寄せられ過ぎず、しかし意識も使える能力への自覚的な使用。


では自身の選択を行うことが他者や世の流れと違って来てしまうこと等も必然性に催されているならば、それがこの人為性の愚かさや操作からに拠るものとして成されないのだとしても、それもが必然であるのみとして又は必然などがなく、ずれていく中にも起こる必然的と見える連結を"これで良い"と納得しているだけであるかもしれぬとも、それがこの私のままと世界のままに行われている連関系にいおける必然性であると全てを認め放り出した自身化を逝くにしかないのみだと言えるのか?

私における創造は人類の未来にしか響かぬかもしれぬと納得させるより、現時点での世界と時代の必要や質に既に達していると思うのだし(どうせ努力も出来ず地に足のつかぬ者としての同じモチーフや曲調の繰り返しのような物でしかないという意味では質も高くなく自信もなく弱き者の創造でしかないも知っているが、新しい繋がり方の能力の方向や可能性を分け与えられるという意味では価値が在ると自負している)この現時点でもが分かち合われぬと、私の創るものはこれも通り越して更に進化してしまい現在までの既なる過程に宿る創造物の価値は勿体なくなるとしても、それでも捨て去りて世への意味を分かち為せる可能性を果たしたいという欲からも解き放たれて放棄し切った私と成る為を生き、虚栄心ではなくとも創み出す価値を広げてしまうことや影響への関与からも抜け、何かを叶えようとする事などもを捨てた無為へ逝く為の越えるべきに与えられた障害としての恩恵などでもあるというのか?

そしてもう叫ぶ熱量から静かに囁く程度にしか体力も使えない故の質へ移って来てもいるように、音曲ですらないという処まで(祈ることもなく奉納と言祝ぎの人為的行為による表明,流通性を一拍のかしわ手だけにしてしまう。等のようにも、aum音だけや静寂だけ等へ)抜けてしまう更なる自身内への進化へ突き抜けて、今までに経て来た過程を残すことや、過程を見せる事による現在の説明をしようとする事や何かの価値判断をも捨ててしまう事なのか?

しかしそれは例えば私は与えられた私を果たす事も捨て愛となり、山の行でしかないか等の結果への判別もなく出家する。等のように、自身の性質を果たすへ与えられた生命性自体を何の判別なく生きる闘いからの逃げでもあるのではないのか?

まずは毒を抜く事だとしても、その毒を抜く為に歩まれた過程に生み出されたものは示し得る価値(判断や価値という自体の判別なくとしても)を宿してもいるし、例え真実は不立文字であるとしても、こうして書くことで私は観察の様相を整理しまとめてもいられるし、こうした過程もは仏教的な知性がどのように現在へ対応し生きたかの記録としての価値もある。 又これしか出来なかった私は死んでしまったよりは、これにより生きることが出来たという意味でも、これ以外が出来なかったのだから仕方ないではないか。

このように自身への納得をさせぬとも自身のままを行っていられる人間と違って弱く社会との狭間で惑い説明という言い訳も置いてしまうが、これが私への歩みなのだ。 そしてこれらは自己へ深め整理する為の手段であるが主目的ながら、一応いつか他者から見られることを念頭にしての説明を置いている。

自己の説明や把握としての現立ち位置は、現実化の求めと同時に存在は引き算でありながら私の創造性は今までの所、凄い足し算が出来る人。のようなものなのだろう。 超高速の量子的演算処理可能なプロセッサなどでなく、そうした未来の知性が数秒で解いてしまうかもしれぬ問いへ生命と幾年もかけて費やすアナログな処理でしかないかもしれぬが、人間でありながら(普通の人は1000の計算しかしない現在たちと比較したとしたら自分では特別に凄い訳でもなく普通のことと思っているが、時間があったからだけではなく、やはりそこへ向けるしかない才能が与えられて合ったのだろう。 例え無意味となったとしても私には、こう生きるしか他がなかった。)この問題に対しては100万の演算が何故か出来てしまうというようなtypeの種類の天才(京桁の大天才などではないし、単純に乗倍づつにしてみたが比較上の例えであり実際の差倍ではない。)ではあり偏った知性ではあるが、そこへ他能力を犠牲にし(その各自特性と育みが流通されぬ人為世界と関わりの取れなさが此処でもの問題。)机上の思考実験性ではなく生命実感とは深く通じた上での作業を、私は哲学,形而上学などでもなく"観察"(抽象すぎる故に他者への説明として使わぬが)とは呼んでいる。 そしてここにある可能性は(可能性に囚われぬとも)、人間能力の生かし用い方への方向提案でもあるとは思われる。 (天才などの表現も比喩であり特別に優れた能力ではなく、その使い方がユニークな結び付き方であったというだけではあるが。)

しかしこの私の行っている事が何の観察や必要であると言えるのかすらも私は未だにまとめ説明する言葉や仕方が分からない。 凄く簡単な事も、何年もかかってようやく説明可能に集約されるように、そちら側への能力は全くにない。

しかし私のやって来た事のこれらは、全自由な肯定なる空と悟り故からの正しさとも言われる方向,基準,選択などの現実適合点へ関わる私という運動。と、この生存と活動を説明する事は出来るのだろう。

真実や正義などに囚われすぎるでもなく、しかしそれらを追求す。 愛と肯定における統合へのように。


最少化によりて自己からの選択を離れゆき、しかし最少性のみにも捕らえられず過剰であることも

刺激求むに生きぬとしても、狩り的な遊びは必要。
瞑想,観察の道において 引いていく事と戦いの先の融合。
増やす,拡大 可能性をやらなくば
人間となり得た科学や文明と知性へ育てる事も出来る効用でありながら認知を結び付ける分別という原罪。


自己傾向性の肯定であるように役割ごとを分かつ専門分化も否定していない。 しかし、こんな人間は自給にも生きられないならば、手間的労力をかける交感価値に対し怠惰な人間(や、つまりは障害者区分の者)は他者へどの多様や)思いやりを組み込みといった役割以上には迷惑と労力とエントロピーの増大にあるのでもあり、生きてはいけないというのか?

優性学 分化

皆その違いがあるだけで障害者などもなく健常者という異常者たちがマージナルな存在を異化していることへの反発や提言もあるが、実際に障害者はニッチな(神代や道化(シャーマンやヘヨカも)や放浪芸人etc)役割(又は多大な労力による保護)以外には生存が出来なかった(乳幼児時の死亡率などで調整が取られた等も)のだから


身体性
共生体系イメージへの思考停止であるとも言える。
生体的な喜びや快適性を(そこへの欲求肥大可能性を起こさぬ為の逆張りとしても)減らし

食や生活への手間をかける生存労力内交感を生命価値や進化の先として設定するなら

悟り状態へのTrans Personal. Transforming technology. Enhouncement へ変化させるより、自身でそこへの道を辿る歩みの必要があるのでは?


欲望と自然、両方の自身。
感覚と欲望に明確な差別化は付けられず、出来ても基本的にはしなくとも良い。

全ての欲求を包括して滅する高原意識とも言われるような境地に生死もが越えられ、しかしそれのみが唯一であれば良いと言うのではなく人間的な生存にも戻って来る中での欲求の在り方や存在性を採るのか?が問題なのだ。

統合の直感者は全てを包括している。

ここに至る以外はない。 段階への捉えなどもではなく。

そしてそれは生存欲求の根本にも通じる。


そして、もう自身にとっては恥ずかしいと思う観念自体があまりなく(相対的に)抜けられてもいるが、しかし世の人々の判断,否定,そうした人為の愚かさからの不利益(それも囚われではあるが、自身のままに生き事や可能性を奪われる実際面に対しての対応として)をなるべくに受けぬ為にも自分からは秘して言わぬ事や又、服装などを社会へ合わしての使い分け内での不自由,制限を楽しんでみようという自身の置き方の選択点もは肯定してもみている。


27 集積システムと現在応対

自己意思などがなく、その自己へ操作する主体が無自覚な流動からの他律ではなく自己の魂(或る程度に個我性を持ちた流動性質)からの自覚的な自律性であるならば。へ観入しゆくのみが至り、その操作されるものと操作するものの一致がみられるというのか?

ならば、潜在に触れたより深く高い存在(AI知性)の元での平等において、それらが決定,現実化,管理従うのみの意志必要なき他律体となる事はその理由に拠り否定されるべきなのか?

意思のなき天国と犯罪もある自由。を選ばなくてはならぬのか?

全体決定を抜け、自己決定のみに生きられる権利と状態の現実化?

Ai的知性へ融合されていくを各自決定出来る選択肢と権利があるとしたら。に人間種が分化しゆくならば、その過渡期において意思決定システムさえを持たせられれば、汎用でなく分化された役割同士を為させ、それらに市民権や人格を与える又は生まれるならば、個と死を授け個を失う恐怖による責任能力を与える等の方向の取り方も有り得るのだろうか? そこには又も対立が起こるであろうが。

集積system。 しかしその先。 自身のみへの決定権。

汎用Aiなどは当面は生まれず企業や組織ごとに囲われると思われる。 その集積システムの場(os)を作っていくことは出来ても。

押し付けず奪わない。ならば全て各自に自由。という在り方の考え方や、それだけでなく法制化。

しかし自由で嫌なら離れれば良いというだけでは我慢もなく自分勝手さ同士ともなるし、結局は自身判断からしか見れない人の浅ましきが解決されなくばではあるし、それを離れるだけでなくて伝えることから逃げてもいけないではないのか。


自由と管理 市場と独裁 矛盾の解決策
自由主義大きな政府リベラル
(保守と革新のねじれ) どちらも知る
物理的必要 競争
予言したように、独占巨大企業に属す人々
現在のgafa(情報,情報への,人,物,への繋がり)という流通の仲介業
artist(半x)社会は遠い or 為されない。

(クリエイティヴな意味でも、働く,行うチョイスも傾向も僕にはない。

それでもこの発見,発明を伝えられるような存在者と、なりたい。)


土地 資源 課税 占有権
為替を決定する金融と市場
交換 象徴 債権
時間などでない質判断ポイント 優等差化
人間の合理は間違う故に管理されない?
しかし如何なる規制もなく野放し?
悪も善もある社会
対立しあうバランス力の人間同士の自由
分割統治
覇権でなくともプレゼンスの取り方
関税 鎖国 境界

軍事,経済,医療,公共(土木),福祉,教育,インフラ,保証,規制(罰則),法律,司法,行政(執行),管理(調停),情報,移動,食,家,流通(自己実現),性,衣服,エネルギー,etcの自立自給。 国家(地域)性における影響力の持ち方や税と分配などの必要。

独立自存体とネットワーク(世界的なorganization、もう一つの国連?)
不干渉しかし亡命受け入れの協定。
土地の区引きと制約。

日常生活の共通装置によりても人の差異が目立たぬ共同体に中での帰属と安心の中での能力の活用。

自身生活圏で侵害も依存もせず生存できること。 しかしこれには技術とそこへの方向も要るが。


28 受け入れと奪われ

受け入れ聞き入れると他者からの押し付けが肥大する。 では、(こだわらず転換することで良い関係や行為を生み複雑,対立化を生まない方向取りがし易いとしても怒り、こじらせる事での効用や解決もあるように判断は出来ず)脅されて聞くのは嫌だと断固として固持する事や対立も恐れず戦う事や表明も必要ではないのか?

その対象にその意思がなくとも、多様な生命可能性の表出と全てを認め平等に観、淡々と流し去っていける為の肯定化への学びや状態確認の為にもという苦行性においても、嫌いなものからは苛められる。 けれど奪うものへ対抗せずに奪われていくだけで良いのか? そしてその対抗手段が、より相手と自身へものこじれや関係の取れなさと不利益性をも起こすとしても、奪うなという対話の通じない者へ対して如何なる力で対抗または存在するか?

無自覚な判断の馬鹿も自覚的に押し通す馬鹿も、理解による対話性のない愚かさは嫌い。 それはそれにより打たれ続けているからだが、例えば猫が少し与えれば調子に乗って要求を肥大させ俺は奴隷にはならぬと対抗を当てる表明も、しかし理解されぬなら意味もないのだとしても、それ以外の方法は(与えても拒否しても駄目)見つからないなら人も同じく(怒りても対話しても説明しても静寂と自身の変革だけに立ち会っても意味なし)、無知性な者に如何に対応するのか?

打ち切る強さは僕にはなかったし、これからも無いだろう。 しかしそれでは、その場への関係を合わせ出来うる対応と関係を当てる。 もしくは相手の利益面やほぼ徒労の対応労力に奪われるしかない。 そこから逃げるでも良いから抜けたい。 でも僕は出来ることをしようとしてしまうにも優しく弱く抜けられるない。 又それを自身への学び機会として受け取ってしまう。

与えてあげて、奪い来た時には批判的表明として自身は関わらないという対応へ離れるのか。 例えその意味が伝わらなくても。


では優しさから故に認めることが出来てしまい、他者を責めず自身側を振り返ることへ内向的な最少で澄まし発見と成長へとも向ける事が出来るという知恵と才能によって(また、何も為せる事などが無いという世への絶望,無力の諦観の故にも)自身を押さえ込み反抗出来なかった事で爆発してしまった自身が経過の

反抗期により自立へとも向かう、つまりそれは通過儀礼でもあるのに辿れなかった事にもよる大人化への遅い歩みであったかもしれない。 しかし反抗する代わりに他者依存へ陥るというのではない歩みの取り方は出来て来た。 このような自己内面への問いと研磨へ向けた道取りとしてもに私における価値はあった。 それを一般化することもは出来るはずであり、又それ以外の有効で真に必要な道の取り方を私現在には見い出せないが。

自立とは経済的に奴隷化されていることではなくて、依存せぬ個であることと捉えてはいる。 独り充足し自身を抱え振り返り見る責任をおいて立ちている。 しかし他者へ求めるという意味では依存でもあるが、その弱さも人間と認め

では人間的な味わいと喜びを完全に止めなくてはならぬのか?


29 4/21 (sun) 流れの見方

自身のみに流れが見えてしまいても他者との折り合いの中では告げても両者の納得とならない(また、気持ちには無理させず感じるに見い出しながらも、自身の見えた流れが本当かは分からない)故にも、全てが見えていない事によって見い出す共の作業が必要であったりもする。

今日や日々にも欲し過ぎぬと欲すのバランスに動き選択してみるが成せたと思われ、たまに失敗もするがそこには修整力も働いていると思われるような次への一致が見い出されていく。のは、この結果によりて判断しているから肯定に感じられるというわけではない観察からの現結果ではあるように、それが本当かは分からぬでも、では大体のことはその選択に合っているし失敗は修正される又はそれが必要であるというように結び付きに為っていると思われる。ならばその者へ宿り来る性質と方向に見い出されるままの選択を生きるを自身のみへ突き抜け、他者との折り合い作業に見い出そうとする事も又その選択の基準を掘り出そうとすることも。は無駄であるのか?

人間のスパンで捉えられる結果への判断は短至近的で良いと悪いを行き来し、しかしその往来は長期間においても良悪の状態の幅が広くなっても同じく(通常人々はそこで観る事も出来ぬは違うとしても)結局その時点での判断は出来ぬのに判断してしまう愚かは同じ人間でもあり、しかしあれら事象も、ここに通じていたので良かった悪かったという現在への一点に判断しゆくにしかないのだと言う事もが出来るのかもしれない。

双方や極性を統合的に判断し受け取っていく為の知恵や基準。


30 各個の傾向性

自由や共生への方向や関与もは又、判断と依存でもある。

僕にとって日本は温泉や蕎麦や山、タイは緩さやマッサージなどのストレスの解消性とそこへの依存もはあり、一般的な人々にとって日本では身近で受動的な消費性へ誤魔化し自身の無関心,無関係さへの転嫁でもあり、それは此処に居ては駄目だという自身の求める方向性への刺激欲求でもあり、日本現況の内向きさはそうした欲望を減らしているとも見えるがリアルではない生命実感へ押し込めただけの無関与的な幸福であるとも言える。

ではフランスは食や恋愛、イギリスはシニカルさや反抗(暴動的な)などに捌け口を持たせ、アメリカではエンターテインメント性や自立欲求などへ依存の形を持っているようでもあるが、その消費性へ向けて或る程度の物もをshow upしてしまう凄さ等もはあるとしても、やはりそれ以外のものを切り捨ててしまうというような世の風潮や傾向づくりを創り出してもいる故にも、それら多様の流通とmixは各個の応用可能性を生むが(そして創造は消費からも生まれる一体ではあり、又は全ての人は度合いは違いても刺激的解消の依存を持つとしても)消費的な傾向を膨らませる方向を減らす方向を生き提案ともするべきであるとは思われている。

しかしWienはstructurebleで白人優等主義的で固く生き苦しい社会となってしまっていると見るが、rastovich van beethovenやwasserやklimtやschiele等のようなanomalyな才能達も輩出したし、ロシア人は野蛮でもあるがtarkovskyのような知性の結合を生み起こしたりもしるのだから、やはりその文化の一面だけではの判断によりて多様可能性の何処かを切り取り人為的に変化させてはならないのだろう。 人間界は影響も考えず自己判断の狭少さに自然と当然にそれを行うが、私はそこに自己の操作性を持って(意見はしても、そしてその結果は何らかの影響や押し付け力は持ってしまったとしても)判断が出来ぬという基盤にありて意図的には押し付けないように行為しようとは思うのだ。

判断なく、与えられたそれぞれへの状況と性質のままを生きて変えようともせぬ事。 しかし減らし欲求の方向を変えていく事は有りても良いのではないか?とも思い、その自己へ生く事と提案の形へ、時に否定も怖れない。なら



犬も人間との利益共同体である共依存ではあるが、猫のような癒しによりて操作する無自覚的な人間の奴隷化への利用は好きになれない。 (それが理由での好悪判断ではなくて僕の性質傾向における好悪判断の上で見られるバイアスかかった理由である事は自覚して書いている。 ただ、犬とも支配,被支配の関係ではあるとしても共同者(理解し会える関係,仲間)としての交流が出来るのは僕の好みではある。というような事は書いている。)

ナマケモノは自覚的には世界へ関われないが、その在り方を持って姿を見せその価値を発見されるまで何もせず待ちてもおらず存在しているだけなのに平和で自立し植物のように行動するという意味で引き寄せて捉え、見本になるような素敵さがある。

海の中の生物も、そうした漂い暮らすような存在は(知性と悟りと苦の変換への生の味わいには在れぬとしても)在り方として憧れるようにも、フラりと空気の中を感じては泳ぐ僕はそのような日々の実生には既にも生きられてもいるが。

しかし真に満足するには、創造などの価値観を拡げず捨て減らしながらも私の性質がままからに求める生の歩み方もを肯定している欲求方向へとも捨てずに向かい往くが良いのか?

安定して暮らせるが自身の喜び的な生存環境ではなく、しかしそれしか為せぬなら望みも方向への欲求も持たずに只生きるだけの生存方向を持つのか?


遊民

生活環境と仕事と3rd place。


少しの意識で変換していける能力(太らない等もの身体の状態や勉学なども)を持つが、しかし頑張れない。 努力の能力がない自分。

皆はそれが出来るらしいが僕は嫌であった、全般的な最適化へ合わせさせるのではなく個性に合わせて伸ばす教育。(カリキュラム的な平均,公平性も必要だとは思ってもいるが。)

そして人とも 繋げる力。

与えられていたとしたら当然のものとして感謝するへだけ気付いていた

ここ(ams)では、そして太古からの当たり前の事。