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6 暴力性 (10/9,10~再構,加筆)

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6 暴力性 (10/9,10~再構,加筆)

少しくらい人類が進歩したところで一方面からの判断の押し付けによる表面的調和や共生にしかならず、現在状況より良くはなったとしても本当に意識が進化,変革されたわけじゃない故に却ってその状況のお陰で更に進む原動力が生まれなかったり阻害や否定されたり、根本的な人間性は変わらぬから、いづれ拡大された破壊を又も繰り返す、期待の出来なさへの絶望感と決して終わらぬ、一方性という人間の浅き強制と暴力を如何に転換させていくへの関わり,提起,創造が行えるか?という私のテーマではあるが、これらthese~テーゼ~への命法によりての動力(これが全てではないが)にも進む。 しかしもしそこに統合,普遍の共通が見えたとしても、如何にしてそれを挿し込み(この考察過程の表出の以外に)置き換えるのか?

浅きへ対して転換させようというprovideであると言いながら、それは私における真実に近いと思われるだけの分別的なcontrolでもあるかのように、暴力性を出させぬmanagementにおいて暴力ではない方向へ押し込んでしまったり又は会話などによる方法へ転化してしまっても良いのか?

それは押さえ込む事による反動や弊害への恐れだけでなく人工的な技術によりて暴力性を取り除けるのかもしれないとしても、その根本的衝動や破壊効用を無視して他の形へ転化する事や、無視でなくとも肯定へと転化する為へと 暴力を認めるというのでもなく、その暴力自体を認める事が大切ではないのか? 安易な暴力も戦争も否定されるとしても、それも質と方向に同じく(マハーバーラタに言われるように、そして戦士性質の者だけの事ではなくて)暴力による破壊と創造は(無駄な人為の浅はかさと欲望による破壊は止めて欲しいと私の心の囚われは共生や生命に寄り添う慈悲にも願いてはいるが)我ら人間の判断などを越えて起こっているのに、それを共生的でないという理由付けからにも、抑え止め込んで良いのだろうか?

会話も恐れや条件反射的反応などものどちらもが人間的アビリティであり、又どちらもは(破壊なき共生や相乗なども)欲望である。 そして欲望や拡大や破壊は、人間と宇宙の根本衝動との同一,相似ではあり、人為という自然でもある。 そして無為の流れに従う人為は、自己越えた統べるもの(の決定,上位の人為,操作性)へ委託してしまう事でもありて、全てが流れのままであるなら俺は流れなどに流されず打ち切り自身で切り開くという在り方と決定への流れもが悪いとは言えず、我らとは如何に流れに触れようとも、そことそれ程に違わぬ只、司られゆくだけのものでありて全てが正しいと放り出された中に関係してもいく自分があるのだ。

やり返す事には反動が生まれ、そこには破壊しか生まれぬことはないが破壊的無駄は多くはなる様々な資源の浪費ともなる。 故に戦士的な実際武力役割者においても、それを行為の方法としては持たせぬという説得,提起理由にはなるが、それだけでは上記の内容には応えていない。

例え相手を傷つけたら自分も痛いのだとしても、やられたらやり返したい私も正直にいって有るのだし、それは人間誰もに持つ共通の衝動への理解でもあるが、ではその(囚われなくとしてさえも)打つと痛い自分を傷つけぬ為にも止めた方が自分を守る為にも良いのではないかという利己的判断の自我とその利用もは何故に良くないか? つまり純粋暴力,暴力的対応や抑止,その為にへの自我や利己欲求の利用,等の何処においてを採るかの選択と基準発見衝動でもある、世界の相を観る事による本質性への掘り出しと、この過程が提起自体だ。

3の力に対し3では返さず(例え反射的にでありても、立ち会われ囚われの反応ではなくとも)表出の0と愛の存在のみではなく1の提起を目指す自己の現状ではあるが、しかし10で返し破壊するもは(相手に通じないのは同じならperformanceとしても)分かり易くて良いのかもしれぬではないか。 囚われでなく全てが良いへ流し去り充足する自己へ達する事と方向は先ず大切な優先ではあるに変わらぬし暴力的対応を望んでいるわけでは勿論にないが力と行為の使用可能性においての、これもはやはり人間の暴力性も認め取り入れた上での現実対応の私と世界の置き方への現状に対応した思考実験の一端である。

存在のみに在りて、これも全ては光や愛であるといった判断ではあるが意識と気付きに光やキャンセルを当てていくのみで在ることと、その自己存在からのままに創み出され来る又は創み出したいと思われる現色行為の選択や創作の具体や、生死なくとも自衛,対抗,批判力や伝達などもにおけるテクニック面との折り合いや融合の形が、つまり仏性顕現の全ての生命における生命使用の現実実用面が此処に求められており私に問われているが仏陀もChristも自己を減らした自己で在り肯定の愛で在る。等の以外を置いてくれておらず現実対処と行為の方法は、やはりその存在への性質や環境条件に合ったもの。としか共通統合の基準化は為されていないと見えるのだ。

合気的な応対。(受転流還) しかしそれ以上に、始め(と、それ以前)から受ける事すらもなく流し去ってしまう。 起きて来る生命の味わいへの傍観のみでの無反応,無行為という基準は尊く正しく求め方向ともすると同時に、世界の本質への変換へ関与する私の繋ぐ能力と創造を生かし置かれたいと思う、それは欲望への依存でもありつつも(自己肯定面を見つけようとしているだけでもなく)それだけではない(又はそうだとしても私性質であるに行われるしか仕方がないとも言えるのだが)置き為され方への(自己の想いへ制限されずとも)希求だ。

食も性も、その度合いや質性が違うだけで破壊,壊体による自己化という暴力であるには同じではあり私にも、そうした刺激によるカタルシスの排出を求めてはしまうものだが、では同じく消費や依存の力でもある音楽や如何なる創出の作品化などもが(意味などを超えて現在世界への立ち会いと自身を為せば良い人間,生体,自然のままであるのだとはしても)必要もなく打ち切られてゆくべきものであるのか?との、人間を捨てて人間へとも還る両立の均衡点は依然に問いながらの歩み(それ自体が完成ではあるが)に試し在り逝く私ではあるのだ。

その質や意味合いもを問わず全ての生存に顕れる行われたい事がartであるのではありても、例えばsportsは欲望の肥大的な転化方法であるから違うのか? 音楽でも本質性に基づく物とそうでない物の比較優劣を付けるのか? 戦争や政治にも、人為肥大への運行や技術方向での動きにも、それらが良きも悪きも分からず、その時の自身に出来る事を精一杯にも為して生きていくだけに動かされてもしまう人間の、そのままで良いという以上に目指すべきへ取り入れられる基準が有り得るのか? 又その本質に触れた行い,や存在,や創出,かどうかで伸ばすか制限させるか等の基準が決まりてしまうのも良いのか?

それら一部の高いクオリティを生み出す為の消費材的な無数の不必要が文化的ミームの相互干渉性においても必要だという立場は(少しは有るとしても)取らない故にも、(又それら方向を用いながらも現在自身に起こる運動や行為の全てを肯定しているのだとはしても)高クオリティの方向基準は如何なるものと見い出され又それを目指すべきものともするのか?と、そこを目指すべきが正しいと設定してしまい、その方向だけが正しいと言いてしまって良いのならば、しかし存在の質とは如何に在るべきか。という本質的最少の目標方向自体もが、やはり欲求や規制において同じ事ともなるのであれば、その質や方向や意味付けや基準目標設定などの如何なるを取る差別化の以前へと(能力あるから向かい使おうとする事すらもを)打ち切り捨てていく、手段と現出に依らぬ存在のみの方法,出現以前化への帰還欲求へ向けてのみの方向に質や正しさを設定するのみならば、それ位は唯一の欲求や自己実現の向かわせ方としてにも良い、誰もが中にある(誰もが生かし向かえるとは言えないものとは思われているのだが、それでも目指し得る唯一目標としての)仏性への創造という生存のみの能力の生かし向かわせ方の共通であり、他の出現,創造能力の全てはその質性判断もが要らず、その生存,存在,意識のみの為に打ち切られていくへ使用されるべきなのか? それが人間に還り来たところからの非人間化への超越運動である自然の行方と生体の全使用先であるとは言えるのか?

もしだとしても、そうした現色的な自然へ表され宿され流される以前の流れ生み出す根本の自己ではない本質自己のみへの意識の清浄にも判断への生起を催さぬ澄み渡る明瞭さの生存へと、不要なものからを伐り離れて~cut~いくと同じく、存在の示現を愛と本然の根本,源初へ返還させてしまう手段のみへと、この生存を使用,変換するのみがあり、ではそれを生み催す為の又はその境地から沸き起こり産み出されて来てしまう生存と性質形態化への自然な宿りでもある等の現色的手段が創作や音楽と言われる手段であれば、それならば採るという空と色の統合された運用バランスでもある基準となるとは言えるのか?

その切り離された意識の自在からに生み出され興る自然の流れ声のような自身を打ちいだしていく事の本源性が未分化の未現と示現の二元,分別世界に渡りて起こされていく、それを差別を越えた光と言い光からの存在化ともいう自身の目指す自性,本性の置き場ではある。

では清浄にして差別の分別もなき本来と一体でありながら、自身と他者の垣根や現実的生存保持の為でもの不浄の観念などが、知性や創出という光と本性の現出の以外としても(又はそれともの一体にも)に有りていく事は良くないと言えるのか?

忘己利他では利己搾取が肥大する可能性への力も貸すかもしれぬように人間判断にもおける善性だけを基盤,共通としたならば(社会ルール,常識倫理的な遵守への窮屈さでもあるし)その善性を利用される余地と共に全体主義的な方向収束への運動力へ使用,誤用されていくかもしれぬに(それも言葉や人間的解釈の浅さの問題ではありはするのだが)、幾ら自身を減らし越えるが真実的基盤に近い設定と言葉への表れであっても、やはりそればかりを単的に言うのではなく伝わらなくとしても説明は必要な(言葉などへの自己正当化の理由付けではなく)大切さではないのか?

自然ではなく髪を剃り落とす人為性と、糞掃衣のように朽ち捨てられたたもののみを用いるという人為性ではない自然嗜好への人為性などにおいて、その自己を棄てる意味では同じ人為選択性の中での採り方の違いではあるが、その度合いにおいて巡り来たものだけを受けるのでもない積極の範囲基準取りの矛盾を感じもするように、現実生体的不浄であるへ自己を捨てるのが心の清浄であるというのは、もし例え中庸性における究極的な統合との到達一致点であったとしても、やはりそれ以前に比べても度合いは軽くなったとはいえ苦行の傾向や思想ではないのか?とも思われるし又、現在での中間性の採り方において(悟りへなど皆が逝ける必要もなくとも、しかし皆が逝ける道を見い出したいと私には思うように)にも、それのみが従うべき普遍の統合地ではなく、そこからに学びを得ながらもその選択の幅とは一様に決定された戒律的な規範(原始仏教とその内在傾向性の基々には組織的階層化は避けられていたし制限の中から大いに育み学ぶ効用価値は認めながらも、一つの価値範囲と権威において多様や個人が制限されていく道が古代インドには受け入れられ易かったとは言えども、今後人類への私に想う統合基準に成り得るとは思えない。)ではなく、もっと自由に自身で選んでも良いもの(自身による考察である以外にも自身,自己,性質などへ対して最適化できるような取り入れ方の道)ともなれる方法はないのか?とも探す。

それらにも暴力と非暴力という対立の暴力や判断,相違(マハーバーラタと平和主義)をも統合へ繋ぎゆく(個人の解釈採りの面だけでなく全体共通の適合と最適である)基準と自由,総合と多様,自身と世界の一致が見い出されていくべきであるのが今後人類の進み方への必要と一助であると私には信じている、仏陀の説いた正しさ(正道)の基準(未だ明確な提示ではないもの)にも学びては、過去と未来の思想をも統合へと繋げ。