junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

150 10/16

150-2 (?) 10/16~

在る,のみの生命と自然なる存在を味わい感じ生きるという創造へ。

神も魂かも関係なく深く交感し、味わう事が生命の歓びであり、それが慈悲,共生,全ての繋がり,なる私と世界の自身が一体だ。

故にも真実の自身への自由であり、そして自由。だが、奪うな。 知性ある故に侵害せず調整者となれる最少において生命を真に楽しむ幸福の行方を叶えられる。

命も名も金も要らぬ、心の自由さによりて大事を為す事へも自身を捨てて(又は自己の欲と大義,奉仕に垣根もなく)行うもが出来る世への関与者でも在るに足れ。

人の評価など、時代によっても移り変わるもの。 認められるような出しまとめ方が出来ぬでも時の趨勢に任せ、時代の必然が起こるにも放り投げていてしまうも良い。

そして一部の創作的な成功者と、その目指し方ではなく誰でもが行ける幸福な生命の叶え方の道としての在り方を(それのみにも囚われず)同時にも宿しゆきたい私の次の段階が実り出しているのかもしれない。

では創作者でありて世へ広がり関わりたいのは意識の進化と変革の為の希求と原動力でもあるが、もしそれを外せば拠点,旅,家族などの為でもあるvisionと自身性質を生かした生活への必要を 繋ぐ為である金(又は金が無くなれば代わりの実現手段,しかし人間関係に頼る労力手段ではなく)を求めてもいるのであるのだから、そこがクリアされれば響かず良いものが広がらぬ世界へ共生,相乗,意識の変革仕事と役割能力を生み置かれたいと望む事さえもなく捨て去って隠居的な遠目に世を眺めながらも悠々と自然に在れるがばかりの自己生を奏で叶え在れたら良いのではないのか。

そこを目指しては音楽や創作の共有手段が如何に成されるかへは、その生活自然からの帰結に委ねている泰然自若と悠然を構えた姿にも由る次世界種子となりゆくを置きゆくが良いのではないのか。

僧侶や仙人などと言った肩書きもは判断の為に(も使われてしまうが)ではなく、その者の設定や性質,傾向性を示しておけるものとは使用出来るように私の在りたい在り方を灯す為への使用となれば(それは名前とも同じく必要もない又は、その意味付けに引き寄せられ過ぎる事もなくとも影響は及び個人や性質の識別材料ともなるように)良いのだとも言える。

自分にやらぬで良い事はやらず、徳を積む機会へ奉仕しなくても徳を擦り減らしているわけではなく又、言う事は言うようにも自身のままでもを行いながら、しかし増長はしない。 各自に出来る事行えば良いのみではあり、自身は愛へと化すのみへ融かす、存在への仕事を続ける。

個人主義と利己主義は勿論に違うが、利他の喜びもが利己や社会でもの功利の為でもあるといえるなら、その自己利益原則を世界の(最大ではなく最適的な)幸福へと生かす動きは可能でもあろうが、それだけでは容易に又も自身利益の追求欲求へ吸収されるのでもあり、また利他は利己よりも快楽が大きいとはしたとしても、どちらかではなく人間はどちらも持つものであるが理解の基盤に持たなくてはならない。 つまりは利他的な幸福追求への利己や個人の道が共通化されたとしても、利己的欲求は容易くも復権するのであろう事や一つの基準への規律で押さえつけられぬ事を含めた多様自由の上の統合普遍とそこへの動きが見い出されなくてはならない。

如何なる設定にも関係がなく流れが起こり行われ現実化へ実現されていくだけであるのなら、つまり方向性の設定は自身の進み方における現在への納得(依存的な期待との区別はされるとしても)条項程度の意味や影響しか持たぬのか、もしくは積極的な効用価値を意識の力として持たせていられるのか? 現在へと化され宿り来るvisionや流れとの連結生起は、その起こるであろう未来からの抽象や大枠を含む(曖昧にしか見えぬが)さざ波のようなものであり、現在への設定はそこへ対応しているだけで、その設定や方向により未来が起こっているわけではないのが基本的な理解にもあるが、しかし意識によるキャンセルや現実化もは起こりているように見えるようにも、では自己への想起や意思が全て未来も含めた時の連結,統合運用からの生起でしかないのか、自己意識や意思,設定方向が未来への関与や働きかけを生みている余地や部分も(又どのくらいに)残りてはあるのか?

自己に感じられる運命などは現在の自己選択へ関する為に宿り来た真の運命的決定ではない変換可能なものでもあるだろうが(ではそこへの連結に何を想起させるか等を何が決定しているのか、魂的な主体性の意思が行いている等と本当に言えるのか?でもあり)又もし、その運命というものが(あるとして)完全に(もしくはもっと明確に)把握され分かってしまったら、その知性体である私たちは全くに運命の奴隷(今でもだが、分かっていても逃れられないという意味で)として寸分に違わぬ一瞬毎の決定を行われていくにしかなくなり、ではそれが潜在的にも達した真実であったとしても決定や選択の惑いもないが、その喜びの味わいや自己意思,人間的意識の必要がなくなった存在へ自個を無くし何も気付くも考察するも意味を持たぬ生存体となる事が幸せであると言えるのか?

ならば、それが潜在的本質に近い知覚ではある存在でありたとしても私たちにはこの(現在と生命と世界の奇跡的連結への感謝を催す以外での)世界の不可思議の理解へ達し流れと必然生起の全貌を知る人智へと越える必要などもなく、惑い流され続ける人間でありながら人為の剄を抜ける分だけへの宇宙や生命全貌への理解,共通と発見が有れば良いのみのバランスと又は現在もに(危うい均衡と進展だが)必然的な動きと均衡は最早の既に完全に取られている、我々はこのままの為され方で自分や利己と思われてもいる各自への生起の中で、自己を越えた総体に流されているかどうか等への気付き等もが必要なく人為にも為されている完全のみが在ると(多分そうだが確証はないのに)信じられ委ね放棄しては個人としての現れの我を、感じたままの現況に行為し連ねられるのみを自己意思もすらが ないのだという理解の上で為されるのみがあり結局は自己も全てが無き上で、この自身に感じ表れた事を欲望かにも関係がなく行うがばかりの宇宙素子と一端を動かされるのみの非情に費やされる私たちと各自の責任の取らされ方など(カルマ的ではなくとも人間相互の中でもの人為自然にも連関される)があるばかりに任され、ではそこにはその自身が如何に感じようとするか?のみへの方向や感じ方の手段(としてのart)だけが在れば良いというだけであるのか。

ではそれが自身と生体を持ちいて運ぶ在り方への肯定でもあるが、その感じ方とは結局やはり宇宙と生命の連結的奇跡や生体,現在,生存と為される事の肯定や感じ方、又は魂的な次元超越の階層などともいった真実性(が有るかも含めての更なる深さ)へも触れてゆく為のものではあって、潜在や深い本質と流れの実体に触れていく事は運命の非情または運命の操作へとも通じ繋がっていくものではあるのならば、その意識レベルが上がっていない状態で技術が達してしまう事は幾らその過程が正しく生存の 本質と歓びに基づいた方向へ採られたものであったとしても、つまり流れと生命の本質へ如何に感じ生きてゆくか?はそれ自体が、生存も生死もを越える方向を内蔵しているのではあり、その結果が生体のみの生存へ還り着くのか又は何処へ行き着くかを現段階の(倫理とも言えるように、人類の方向選択へも関係する)基盤と関連へ発見し構築し示さなくてはならない。

ではその複雑にして完全的に催される連結を知りて為されるしかない絶望性に自個をも失い生きる選択肢しかないのではなく、連結を催し操作する精霊,聖霊的な階層の存在へ至る事が我らの方向や目標であり、それへ至る為の手段や技術が人間にも内包され化されているのかもしれないならば、いづれにしろその人為的操作段階に関われるだけの意識の進展,変容が過程採りの必要とはなるが、それは技術の進展度合いに関する意識の持たせ方でしかなく、そこには人為増大の抑え方などくらいがあるだけなのかもしれない。

10/19~

では次元を越境,超越した魂の段階へ潜在を掘り出し達し、それ自体となりていくのか、それを知りてそこからの流れに流されるだけの人間と生体の現在的な自然統合点を帰還する目標地として設定し、変転するのみの法に任せず人為発展を拒み保持するという人為に在る又はこの現在性への変転を既に化されて来た人間生体性の中でのみの変転ならば受け入れるというのか。の、目標想起や設定次第で方向は全くにも異なる。

そして方向とは自己意思生起へ宿るものの全決定である面からは自己も方向も無いし必要もないとは言えるが、そこに宿り来る(必然や総体がありてもなくても)想起性における自己が何を選ぶかに拠りて起こる(又は何を選ぶか?自体の為にも)現実具体は方向が作り出している効用や利用価値や設定の力として(進化が、どの生命レベルでの変容影響へ催されているかは分からなくとも)有るとは言えると思うのだ。

10/21~
つまり自己をも越えて全てが為されるにおいての方向などは存在もせず必要もなく、しかし現実具体の自身や世界を動かす未来への運動における方向性の働きは(進化への関係度合い等は分からぬとしても)有りて使用も出来るものであり、ここにも有ると無いは矛盾ではなく視点の置き方の違いだけによる、一体の運用なのだ。

人為も無為一体な自動生起でありながら、その運動の現象体である私たちに起こされる無為や自然を目指す人為を持つという事の矛盾はなく、しかし便宜上の言語効用として無為と人為を分け隔てては説明,把握する事も無駄な破壊(と見える創造一体であるが)を産み出す非共生の判断,強制の人為を愚かさと判断,差別しては止めようという方向へ照らそうとする事もは全一体への放棄ではないとしても無難な必要と効用ではありて、では只、愛の祈り成れば良いのみでありながらもmessage(protest)を告げる試みや行為へ動く事もは例えそれが真実,本質という差別,判断,操作,自我に基づくものでありても、この私などは小さく限定,現在的な知性でしかない事をも自覚しながらに、宇宙の現在を起こし関わり宇宙そのものの起こるを為される一端としての自動生起の選択体であるを巡り行えば良いという全肯定の無差別と現在肯定の無差別と(傍観,無関与,静寂,非言語,等と、行為,関与,関係,言語など)肯定の相互と矛盾の間にも、一体と統合の運用を目指す(必要もなく目指される)のだ。

全てはそのままに在りて起こされるままの各自と連関と責任と作用の進行に放置され任されていれば良い中で、ではどの程度に関わり自己に感じ思われた方向を(本当かも分からず操作欲求とも一体な中で)告げ提起し引き寄せようとさえもするのか? 引いて任せ在るだけでなく(基本的態度として正しいが)時には少し強く言う事などもが相手の為にも良い提起であるとしたらば、どの程度に行い変える方向を示し得るが良いというのか?へ対してもの現在ごとを感じゆく選択の問題と立ち会い方ではあるに例え本質が規定などできぬとも、その交感の遊びにゆくがだけを、では示し分かち合える提起とするが良いという事か?

表面的対応の根本に在るものへ対して未だ問題化へ現じていない潜在的問題性への機会と必要(本当に必要であったかは知れず自己の思い込みであったかもしれぬ事へもの視点や把握,自覚は必要だが)へ対応を当ててしまうと、しかし相手は否定されたと捉え理解はされぬばかりか問題なき未現の問題を表層化させただけで無駄な関係とやり取りの労力へ破壊を生み出したのは、こちらの問題となってしまい奪いている事にもなりかねない。ならば、自由と各自のままで在るへ放置し不利益や愚かな判断,強制などの未現の問題への共有,提起機会を感じた自身のままで在り怖れず行いたくも、しかし奪わず。の基準の為には対応も 当てない(自身が正しいか間違っているかは分からずとも)可能性への関与をも放棄する在り方のみが正しく良いとするのか? しかし奪うではないを基準とし目指しながらも私は、自身の自由にも従って可能性への(その囚われには依らず無関与は基盤でもあるが)行為と関与へ感じる必要のままにも選択しては在りたい。ならばそれは、奪うな。と可能性。の均衡作業でもあると 言えるような自由な自分と自由な他者との統合性へ関する考察であるは此処でも変わらない。

自身と他者の統合的共通が自由同士のままにも自然に共有されるような関係や状態を私は求めてもしまうが、そんな理想ばかりを(方向はある程度には大切でも、そこへ囚われてはならぬ)自身や世界の共有基盤と設定してしまっては、又も欲求へ苦しみ関係の取り方へとも惑い言う事や操作への提起方向も良しとしてしまい兼ねない肥大への可能性をも生んでしまうかもしれぬなら、関係性だけでもなく理想の方向などへ何が提起出来るのか?等の世界への関わりすらをも捨てていく、可能性と方向提示より全自由であるへ放り投げ捨てて、奪うなのみの最少へ自身を化し提起できるもは、それだけのみであろうか? それとも肥大させぬならの方向を自身へ化し(課し)自覚もしているならば、関与における言葉や可能性へ対する自身に感じた方向や真実への操作,提起,行為を持たせても良いと言えるのか又その程度はどれくらいまでのものであれば良いと設定され、そこへの規定も必要となるのだろうか? そのバランス採りの採用基準を見い出そうともしている現在との観察と日々の結合事象自体でもあるを生く。

しかし人には返報性の原則内蔵があるように、愛で在る存在を世界や対象へと送るのみの自身であるにおいても、そこへの現象は返り来るにも還る。

待つ事で在るもを捨てて愛を送ることもがなく、在ること。だけが有る。 その中での私をのみが生きゆきて愛のみへ在る事を送り、待つに在りても現実化へは凡そ半年程で達する状況(その把握や意味付け判断へ捉えられ囚われずとも又、長期的周期性もが有りたようにも)を経験,観察されて来たようにもの自身必要へ最高が成される状況化を求めながらも心は自由に囚われぬ自身を目指し為されるに成されていく方向の持ち方は変わらない。

操作系人為は好きではなくtaoistや禅僧のように在りての在り方と歓びの創造を働きかけながらも、将来的にはzokuchenや虹の身体のように 現実,物理越えの仙人性を目指す現況にありては文人のような生存の創起に生く、その何処もにおいてもの愛の一元を私に灯してはいくを変わらぬ方向に持ちてはいる。

故にも奪わず放棄された肯定のみの歓びで在りながら成長と可能性への自身の感じられたままでの提起と関与,行為への気付きと選択の味わいを持ちて真の自身と世界の同時,一体,根底での流通へと向かう心と物理的な自由にも目指し達を歩きゆく。

そして私に目指す音楽等による魔法などもは、その愛と肯定のみでの真の幸福達成と成長方向への自然転化を催し起こすような流動根底からの流通に響き関わる存在の力に震え紡ぎ出され表出される現化への源流における無為を照らす愛のみへの魔法存在(という錬金術に徳を減らすも増やすでもなく)を示現するflowの灯火とはなりて、しかしそのflow出るかにも拠らぬ、もっと自由でほどけた(記録の為や競技のように出さねばならぬものでなく)在り方を然じられてゆくにはの方法もを私は必要とし、求めはする欲求ではなく 必要を為される為への方向に現在を感じてゆく、これらの全ては観察という生命に交感し、達するが魔法自体だ。

そこへの気負いはなくとも日本人の代表として(見られもするから)の恥ずかしくない自分を(なるべくにそして実際にも)現じては来れたが、それをも越えての地球代表としての在り方や理想地点を今後の自身へも意識して生きてはいてもみるように、宇宙的な視点からのこれからの人間への俯瞰にも基づいたような(本質や基準など本当には無かったのだとしても)私の行為や存在や日常も創造もを視てからの選択採りともなりてはいるに在るのだろう。 (恥ずかしくないかどうか等もの主観性もは、しかし人間的な判断を越えてに為されているものでもありて動物としての人間や、この生体をも楽しんで行われていく事もとの適合は(統合かの如何んにかも関わらず)此処にも自由と統合の融合が目指されて観じられてはゆくものであるが。)


会話の実践原則~Maxims~,協調の原理,
Quality:質,発言は真なるものとなるようにし虚偽であると思うことや根拠のない事は言わない。
Quantity:量,発言には必要なだけの情報量を持たせるようにし、必要以上の情報量を持たせない。
Relation:関係,関連性があるようにする。
Manner:様態,明瞭に話す、即ち、曖昧さや多義を避け、簡潔に順序立てて話す。

ではここでの私における不要は量と多義であるが、それらからの逸脱をポライトネス規則,原理でもある事でのいづれかに当てはめていくにおいて、押し付けない(距離: Distance),選択肢を与える(敬意: Deference),聞き手の気分を良くする(連帯: Camaraderie)等の分類やテクニック面での把握効用は確かに表面上の面で使用や機会の一つとはなるが所詮、人々の進展の根本に作用する効果は薄いし自身等と全ての根本元因に達しているものではなく、私のままで在る事と他者流通との中で感じた自由と外部規律,規制,制限や方法での行われ方への選択肢の採り方には、もっと他の根本,統合的なベクトルや度合いからの方法,方向や基準化の為される事を必要とされていくが、私と今後世界にも求められている。

10/23~

多様を含むpotentialと未来への空白余地を残した自身への結び着くものを育んで来た者との新たな交感の機会と到来に育まれるを待たれるへと私を渡す色の染め方へとも操作ではなく、その責任にも意識して向き合う現在との立ち会いの流れ(私)の中で、起こる日常の過ぎ逝き方の中にも観じては生く、それはこんな(そしてどんな)私でも何が与え分かち在れるか?にもある対応や態度と存在の人間世界への提案にも同じく、過ぎ去るがだけの生に組み込まれる現況同士の響き合いが為され在りている。

(以下2段,日記より),
人々からの想いや、又この空間に在る自身を作りて来たものたちとの交感の時間でもあるに、親しみ独り楽しむ。黙想のように、しんと身を澄ます。

ギターで歌少し出してみるが、発声すらも良く出ず。 (自然に生まれ出て来た子守唄なども全く思い出せず浮かびもせず、幾ら今はこれでも良いのだと言い制限の中でもの出し遊び方を試すのだとしても、あまりにも世俗化してしまってもいるのだろうか?) しかし、この今を背負っては生く。

思い出は自分という存在を作って来たもの。過去の記録は、それを引き出すもの。 そして今此処が、豊穣な時間。

死んで行ったものたちや過ぎ去りていった過去の記憶たちとの全てが此処に、この僕にのみにも結び着いている。 これを味わう事が出来るという私への奇跡の体験にも身を浸しては親しみ、それは無駄な事などではないと云う。

私への自然が現化する。 何処に流されているのかも知れず、自身の想いと方向にも縛られず、私への現化の全てを超越と日常の相互が同伴に宿されて奏で象る。

かつて在った想いたちの行き着く先が何処であろうと、その祈りは無駄でなかったともいうように、行方も知らず方向にも自身たちの生命を宿し揺られては生くがばかりの無常に無条件な流れへの無知性的判断の私たち現況段階が愚かにも哀しみ喜びては生きていく者たちの定めとさざめきに、私はそっと寄り添いてにも吟う静かな間隙を埋めるような間の空にも充ちる休符の中の音量。

静観しては心を動かさず、けれどこの無常のあはれに心を動かし観じ入っている。 私は独り尽くせぬ非情の運命のたぎりを、この身にあまして顕れた哀喜にも託す愚かな人間と一人を逝くが紡ぎ。

そしてしかし、如何に凡夫なる私でありてもの制限と自覚の中に育まれては巡る、ほんの少しづつばかりの歩みの一端同士の煌星に何が為されいくが良いかも任せ判断は捨てられ進化や進展と退化や破壊への区別なき時代の進み方の中に、全ての統合点ではなく何処が目指すべき真実か等もが見い出せぬ中での現在が統合の事象(自称)自体としてに結合された、この点のみを生くにしかない時と永遠に司られ排棄されていくがだけのままの私等を事祝ぐ祝祭へと向かい迎えよ。

そしてこの制限された生命や現在の私達の中での、しかし新たな進展への動きを諦めず何処までも行おう。 無制限の可能性と新たな扉だけが私には揺れている。

流れが全て決定の範疇にしか行われぬものであるなら受け入れるのみだけが在りて、流され出ていく現在を"在る"事以外の何もが無く知覚さえも要らぬが、かといって、この心揺らがずともに生き渡りてゆく事の出来ぬなら、さざめくままに煌めく私たちの存在語りの宇宙の物語を紡ぐ種子としての私は、こ(個,己,此処)の自分を語る。

愚かでも星がたり、固どられた型の経過の人形に、しかし操るものとの主客の分離を越えた私は一体に存ずる事が出来る、その魂と生命の唄と呼ばれる詩であるを歌う。

人為にも流れは宿り来るが、人為を越えた流れへとの会い方に行き当たっていく方法が生命という世界の感じ方に面白く、では予定か即興かで面白いのは即興的な選択との冒険に立ち合わせていく現在のみに生きゆくというによる適合との遊びであるが、そのどちらでもが良いのなら何故に自然な流れとの行き合い方を目指す人為であるが良いと言えるのか。

どちらも流れであり流れは起こる(定めでありても起こると見える、起こすと起こされるの主客なき一体、人為と無為の本来は無分別においても)が、それでも目指し感ずる交感の在り方は(規定ではない方向だとしても)、なるべくに人為を差し込まぬ最少によりて流れからの現在と生命を感じ選択していくのみである事の理由は、連関されていく調整へもの無駄な関連を生まず宿り過ぎ去りていく流れとの過不足なさに受け取りゆく方法であるから故になのか?

しかしこの主眼である流れとの自然的な一致へ最少性の自己(人為)選択を当てていく流れへの乗り方(には人との都合合わせは少ない方が良いという一概性はあるとしても)の立ち会わせゆき方に、適合が上手く噛み合わぬ時の(それもがその時の最然,最高と観ている充足と任せのままにも在るが良くとも)二律相反的な不足感などにありては如何に選択と瞬時の適応を為し行い置きゆくが良いというのか。に対しての、空である私に在して紡ぎ置かれるものが、そのままに最上であるというような遊び方に至れるのであれば全てが自然の然化自体である貴重な現在最高と体験価値ではあり流れにそれ以上に乗ろうとし凄い潜在的な流れと真実象を紡ぎ出そうとする眼目すらは外されていけば良いという方向へ舵を切りゆくべきが、現在の私の更なる成長へもの時期であるのか。

つまり潜在に触れての流れを紡ぐ事ではなく既に全てが潜在,本性,真実のみで在り自然に取り出された選択と体験の出会いである現在と私こそが何を為そうとなどしなくとも(凄いartを生み起こせず真実称系の形を見せられぬとも)それが進化と意識への目的自体へとも成りているに継承されてもいく、この性質の違いだけが役割の端子ごとのように置かれ紡ぎ出されている世界の相だけがありて、人為に置かれる自然も人為を減らして触れた自然もの何処までもが良く、魂的段階との流通における流れの掘り出しが主目的ですらも無くなっていく現自身と現世界こそが全てであり良いという在り方へとの生命交感のみが残りてゆくばかりか。

そこに技術との折り合いが生体かどうか?等もに関係がなく、この現在を味わい感じ行いていく各自の事態が在るに良く、全てが良いの自身と現生命との交感に生きる姿,存在性のみが残る。 何伝えるべくもなく伝えるべくは、それのみともなる。

本質の流れを紡ぎ出す眼目すらは失われた自然そのものが行われ、その時ごとの真実が最高に行われているのみと在る充足の、それを象る言葉へもの私のみが在るに在し創み出していく事がばかりか。

紡ぎ流れ出させるflowとはそれの事。 潜在に如何に触れた本性真実かにも関係なく、潜在に如何に触れたか?は生命との交感に感じては生きたか?それだけのものとなる。 そして常に空にも(幸福に真の幸福へ歩める事のようにも)私の統合と最然への一致が、引き出せるかどうかの気負いや魂,潜在に関わらず成るがばかりが成るを生く、これが成長,深化の現在と宇宙の私を生くがばかりの歩みと愛の世界の継承,象形の進みゆくが彼方への動きと煌めき。 紡がれるがままの紡ぎ歌の(繋ぎ)連結だ。

歌声,流れの 潜在的繋がり方,歌詞などものどれでもがすらにない、存在と表発の言葉と自在性のみという在り方と、又その一体的な運用が起こるべき到達と段階への私が現状へ与えられた更なる成長への意味合いと意味,判別をも越えた静かなる観賞が私の現況に爆発してもいる日常を浸しては渡す。

ネイティブアメリカンのように(共通code内における生命の使い方方向や流通は必要だろうし、それを作り持てるかのみへ主眼が移るのかもしれぬが)上手く歌う為のものでもなく誰でもが出来るが根元的なものと交流する揺らぎが含まれてもいるような声帯の使い方でもある歌い方(張り上げる高音刺激な波やラトル的なnoise(じゃわり)などへ突き抜けてゆきて、では歌いあげぬとも密か静かにも宿るflow音流を魂の歌としてもいく変換方向への転換の現在から、良い声などが出なくとも張り上げ叫ぶ人間外の声のような交感性へ起こすのみという気持ちと性質各個を置き換えていくような方法へと亦も還りゆくのか?

しかし、その時点での自分を置くがばかりであるにおいては現在の私は張り上げ歌うには疲れてしまいても居るし歌うと、なるべく歌いたくないと心が(その心に引き寄せられ過ぎぬとも)想うのだからにも、歌わねばならぬ機会や時の到来に合わせて(そう感じたものが本当に必要だったかは分からぬし流れとずれている流れであるを感じたとしても、その機会に自在に対応し得る状態の自分では在る為に)flowを出す又は全連結の最然を歌やflowの技術にも関わらず表出するにはの基本は、やはり囁~ささや~かに在りては意思をも含めず良否も無くした空~kara~によりて生み出されるものとの立ち会いを、交感や選択へ深く入ろうとも思わずに入りている存在のままにを世へ映す流れとの行き会いが自在と化された自身化のみを目指すが良いのか。

目標意思的方向性などを持ちても良いが、その方向性は人類への期待などでもなく(絶望ではなく諦めている)、放り投げ何が目標や理想か、その為の自身に与えられる必要の設定などをも捨てているが、現況への幸福のみを望みては、過ぎ去りてゆくに心は囚われず生命交感の真の幸福への愛に満たされた充満の只、空で在る。のみ。 つまりは設定と方向制限などなくとも現実的幸福も私の必要において為され与えられる事は望むとも同時に、他は何も必要がなく意思の生起や知性,選択の分別も含めず只、空になりて虚空の一端子なるが私にも鳴りいている全てが必然へと心は囚われず任せ放り出し過ごし去りていくのみへ生命経過を味わい交感せねばとも思わずに交感し尽くしている私化の自在に在るへ融けてゆく事が、この生体のみに在りてもに目指される、生命変換の行き先であろうという決然でもの結論か。

(~10/24),