junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

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では日本に育まれ来た素晴らしいものもあるが保守やルールもの自己制限同士に陥りシュリンクしていくばかりの此処から新しく世界への本質的な価値が生まれないのは(結果論ではあり、その故に越える為のものや気風が生まれた可能性もあったが。)当然でもあり、故に押さえ込まれた状況で少しは次世代の意識が転換されて来ても根本や社会のベースが変わらないのは(外圧的状況として外で発明された便益効用性が環境的に変えていく面は多少の進み方としてあったとはしても)当然であり、当面の日本には無理であろうと思われる。

本来自己へと向かう生存性の為の自由だけではなく、先進性への挑戦や思いたった事を成せる行為,選択,又は表現の(自己に為す影響への責任つまり振り返りは大切であったとしても)自由(そして、それを自身の責任で結果をも受け入れていく事も)は大切であり、しかしそれは確かに打たれた者の気持ちを害しない方が良い気遣いや思い量るへと至る事は大切でもあり、その傷付く人の存在や度合い(数値以外には計りにくい故にもの現在的な基準である数や量もは有効基準の一つであるは認めるが。)を加味する事は、立ち会う必要ではあるという事に理解する。が、その上でやはり枠にはまらないアウトサイダーこそが新しいものを創み出すのでもある事もは否定されるべきでもない。 結局どこに自身の性質のままと本質性の自己を自身が採りゆくか。へと関与,交感し続ける基準と方向が必要であるという問題の根幹と問いの内容は、此処でも変わらないのだが。

10/4~(今までもそうだが、此処での文章の大半は既に一週間以上前から書かれていたものであり、それとの間を埋めるcombineが、この日に行われたという事である。)

枠外に佇み超越を吐き出し、しかし現実や世界の人為段階ともの適合を試す私のままにも突き抜け、また私現在の動きへ納得はしつつも縛られず、あらゆる可能性と希望にも開けている中での如何なる状況にも光と愛を灯しゆく調和への変換の媒体へ私は成るへと道を現在にも歩くのだ。

生命に感じていく存在や流れとの立ち会いと創作的とも言える活動への発明,発見の喜びとは同じ同義の部分を持つが、そこへの動き自体の事を自己の生命や自由と言うのでもあるから、つまり自由とは本来自己へ深め向かいゆく為の気付きと生命交感の味わいへ各自のままに在りても生きられる状態や為のものでもある。 そして又は、その自己本性への働きの事でなくても自分の思い気付いた事は、その責任を受けるを了承しながらも(社会からの非難を受ける事への責任ではない)現実的な状況と自分のままに生きられる自由を必要とし求める事も(質や意味合いは違くとも又は共通でもあるが)非常に大切だ。

つまり、自己本来へ向かい生きる気付きと方向の生存への(心と現実の)自由が必要であるのは私にとってだけでない共通であると思われ、しかしそこには只それぞれの自由に生けば良いというだけではなく、それを示し伝える事と説明への現実への適合は(自身へ突き抜けている事を抑えなくとも)必要な事だ。

そして押し付けられておらぬのなら他者の自由を奪わぬ事。の中でもに、本質性からの自己への流れや世界と生命の連関の発見にも繋がりへの気付きを結びていく事。 それが共生でもありて、何が本質かなどは規定出来ず全てが正しいのでありても流れに触れゆく(その必要もなく為されるだけに各自の完全自由な流れ自体があるのだとしても)意味合いとは、その生存と在り方自体の歩み方の価値であるとは言えよう。

自由、しかし奪わず。は此処でも有効ではあるが、その定義と範囲は曖昧,抽象が故にも各自によって如何ようにも判断,解釈されてしまうが、だからにも思いやりとは義務として自分を抑え他者の顔色や如何に判断されるかを伺う事ではなく生命界にも交感して殺さず奪わず無駄にせず、他者や自身の本質にも聴き入っていく事である。などもを、その言葉で示すだけに頼らないで(分かる人だけが観入できるのでもなく)ちゃんと(全てを求めずとも程よくは)説明を置いていき、肯定のみではない指摘面を置くのは大切な人間への対応であると思われる。 そして奪う力に如何に対処するのか?へ個人として加わらず対処もしないという選択は良くとも社会的に野放しにするへ対処しなければヒトラーは侵攻も虐殺もするのだから(ガンディも反暴力を示せても武力闘争や血が流れたからにも彼の思想を生かせたようにも)暴力の効用へ如何に対処するか、暴力の効用を如何に使うか。と同じく規制や管理や執行力の持たせ方もは、共生や奪わぬという事へもの共通法規のような制定も必要なのではないか? 人と自分の自由と共同,共有を両方とも求めると同じようにも。を私は考え身近の中にも立ち会いている。 が、しかし意識一つの変革に目指すのは、その無駄な対応必要ばかりをも産み出し続ける人為の操作強制などを減らすへ近付ける事からものものでもあるが、そこには又も振り返すであろう人間の内蔵された愚かさや善悪二面性もの人為肥大の面をも楽観せずに(意識も環境も進展,変換されたとしても)知りて取り入れての 方法が必要であるからにも更に難しい。(そしてそこへの対処無意味,不可能性を常に繰り返し与えられ思い返されて来た経過と私による問いと学びだ。)


日本人にとって寺も皇族なども権威なのであり、その役割も(外交や伝統保持の依代になっている等の)認めるし必要であり、実際に行っている行為も実に尊く徳の高い在り方へも結び着いた(お朝事や護摩焚き等の一つだけを取ってさえも)行いや仕事だが、その権威に頼り依りて生きている人々の自個のなさへは批判的である。 (そこにはそれなりに意味や理由があるのだとしても、そして勿論それは日本だけでなくもっと個人主義な英国(領)でもなのだから不思議だ。が、何処を見ても未熟で野蛮で遅れた文明と知性種である人間現在にとっては、そうした現況が当然であるのか?)

その役割への気遣いから尊重し意見を挿し挟まず意見を聞いてしまう事も理解するし僕もそうではあるが、そこへ自身の考えを持って(勿論それは浅はかさによる対立ではなく)意見を入れたり時には否と言える事も大切と思われるが、そういう行為は(現在日本では特に)尊敬も常識も無い行為として、それだけをもっても非難の対象と成り易いのだろう。 そのくせ、それぞれの権威や覇を求める人間同士でありての対立や力の使用の中での調整が必要であったりもする。 そしてそこへの僕において行える均衡や解消の採り方は否定への否定などのように打たれた者として打たないでと言える役目とcounterの思想も納得しているにしかない現在の自身(全てにではなく愛の意識のみへ解かせている事も出来てはいるが選択の一つとしては)でもあるが、それを認めながらも本当に肯定に在れたら又は徳の高い人の繋ぎ方や調整とも成れたのならば、(例えそこには否と言える大切さも有るのだとしても)それだけと成れるが良く、それが至る目標の先でもあるのか? (僕はbeatnicsでもjediでもなく菩提薩埵~enlightenment being~と在り逝く道を在りてにも目指すが、その到達と過程と私と全体は如何なる形での統合に結ばれるのか、過去聖賢に学びながらも私は問う。)

此処は言うけど、それ以外は宜しくというような、対者へもの人格根本否定ではなく二重基準を設けたような応対も当然のように僕には思われるが、やはりそれは尊重の故に意見も言わぬと同じく感謝しているから問題点も伝えぬというような、選り分けが出来ていない状況とも言えると感じるし、それとこれとは別。という当たり前が出来ず、個で見て立ち合う事の排除された社会や人間の姿が健康的であるとは思えぬし自分を出さぬ事での(出し過ぎでも良くない勿論そこにはバランスと、それを感じようとする方向や能力も必要とはなるが)表面的調和への押さえ込みが調和的な成功ではないと思う。 そしてこういった見方からの提示も有りて良い必要とも思われているのだが、そうした見方という分別,相対化された感情の自身こそが無くさなくてはならぬ対象なのか? (全てが良いと認めては人間嫌いへの判別は減らし、諦めた共存としてもの共生に立つ自身へと向かい作りゆくのであるとはしても、その全くに分別を用いず基準化などへの運動も持たず何が良いのではと思う事すらも捨て自己意識も自己の為すべきを為す等をが無いのか?)

全てが無く、無いものすらもが無い。 又は全てが無いとは全てが有るとも同じだ。 そうした真実からに触れては震え学びつつも、そうした解釈の一端や過去の権威にも自身をおもねるな。 (しかし勿論、全ての者がそのような知性に生きられるわけではないから、方向としてはこう言いても方便として、これで良くこれが全てだという事はあるのかもしれぬが。)

見方も一つで排除される自身もを、これで良いと納得させる事は出来るだろうし人々はそうやって自身を押し込んだ納得を生きてもいるのだろうが、それでは反対の方向を押さえ込んだだけでもありて爆発が待たれる又は更に自身を抑圧へ押し付けた状態での日々を乗り越えさせていくような思想でしかない。それは一見の受け入れと、これで良い。の悟りにも見えるかもしれぬとも又は大人の対応というものもは、(それは慣れの牢獄でもあり自身生命への強制、つまり奪う事や強化,強者勝ち残りの競争原理の思想でもあるにおいても)そういう事ではないと私には存ずる。

そうした設けられた垣根の外からに関わり発見し進めるアウトサイダーこそによって次の世界が創られる。のだから私が障害者でもあるから等の理由づけも必要はなく、(理解への説明には使えるが)そうした価値のみからによっても新しいものの生み出される(勿論その全てが良いというのでもなく表現の自由には責任も伴うが)可能性への価値が認められてくれていっても良いのではないかと思うし、そうした事も私には言いたい事と言える事でもある。(アウトサイダーでなければ変えられないという事ではない。 そうでもないと動かない現状においては、である。)

そして私は私の生命と道と在り方の与えられ方の全てに満足,安心しては折り合うよりも突き抜けてはしまおう。 共有とcode化を私に試し創りながらも、付いて来るに任せては自身行い離れていれば良いのだ。 成るように成る。へ任せながらも、私への成され方を観るに見渡す。

引いていく思想のようにも、その引いた事による結実が結び着いてくれる事への結果は得たいが現在実際の私に、方向の欲求や引けていなさもはあるが、自然に為されて生きる事の価値とそれ故こそにも起こる利益や成功を、私には行い言うへとも現され結実されていきたいのではある。 これもは欲求だが、自身を導く方向として良いではないか。 そして私のままにの現在は、こうしてものように繋ぐ事と言葉を求める過剰の中の遊びと実験と開発であり(僕のflowなどはfree jazzや各種音楽のessenceと物真似でしかないかもしれぬが、それを歌で行った発明の意味でもに有り、又それは私において目指され開発された功績ではなく与えられた自然の結果でもあったようにも)この生の結果は私にも知れず、流されるしれないを受けて与えられていく事への覚悟と、出来るのは現実,現在への交感(気付きの知性的能力の程度差ではなくて)と選択だけだ。

格好良いものは真似したくなるもは分かるし、その後へ繋がる意味合いなどはあるかもしれぬを認めているとはしても、自分の独自~オリジナル~でないものは格好悪いし面白くない。という価値観にはある。 そして発されるものが、比べる為のものや競技ではなく(競技などで判別される世の比較基準そのものが遅れている。)、そのものの価値として吐き出されている創造が如何に響くか? 本質に通じた存在と震えに至るか?が、全てではある。

そして芸術とは生み出されている生命そのものの生存を生きる事であり、又その者の本質において行いたい事を行いたいままに行いているか。でもあるArt of Lifeを私には言うが(つまり、その生命と存在自身の創造どちらもの事)、その者の在るがままで在る事以上に本質の基準は付けられず、優劣化は起こらずとも、では破壊の創造という自身を与えられてしまった者の芸術を(囚われや欲求によるもにであれば、解きほぐすへ関与方法も考えられるが、自在としてそれが本質であるに選択されたものであったら)如何に押さえ込ませ又は責任を取らせ奪う力へ対応するのか? )

Lukeは、そこ(破壊と創造の人間関与)から身を引いた世の傍観者となりて闘うのでもなく世界へ関与する者たちの各自の働きと連関に何が起こりゆくかは任せては、自分の生んだ種へ対する責任を果たすと同時に希望の種を生き延びさせるだけの最小限の関与を最後に置いた。において正しいとは思われるが、正しいと思われる真実からの一端ではなくて(その場への対処としての正解は無く、各自の対応への判別の事ではないが)これが私と世界にとってもの共通真実の在り方または方向である。を見つけ出し示したいのだ。

10/7

生存と存在と意識の深底に達し触れ合う流動との流通,越境,同等,一体への交感に起こる、味わいと震えと愛の状態,自現,肯定歓喜,充足や静穏,自由と自在の心と行為選択などへも至る、その意識と方向にもより流されていく生命自体なる事が、(必然も魂もなくても、又は全てが必然のみでありて流れや魂の自己本体などに触れ行く必要もがなくとも)私に言われるSpirit Songではあり波動と自然~jinen~空と色,自己と他者,(Being of Living,Nature Flow,Nature Harmony,Wind Voice,Endress energy,Walk in Beauty,Dance in Concordance,Horizon Dance,Life in Integration,Presence is All,All is Well,)などを結ばれている統合へとも繋ぐ一致への基盤ではあるを創りあげては来て既なる私に生きている。

しかしもっと超然として、上手く示せなくとも堂々と在れば良いのだとしても自身の根本に自信がなく、揺らぐ私を悲観や疑う効用の才能の上にも突き抜けていられずに他者を求めてしまう依存の弱さにも在りもするが、それによりてこれが全てだと言わぬとも、その時その時が在るのだと自身の経験から(悟りの説教的な強制的共有ではなく)優しく言い置いてあげる事が出来る事への効用は生まれ来るへ向かっているのかもしれないように高さを感じさせぬとも普通の人間たちにも普通に分かり、尚且つそれは価値が伝わらず当然の合いの手くらいにしかならず取り入れて貰えなくとも、その表面上の言葉では、こちらもあるよ。 でもそれで良いよ。という柔らかい置き方と何でもが良い中での意識ひとつで転換を置き換えている気が付かれなくても陰徳を積みては独り充足しているだけ。のような在り方が出来るのかもしれず、俺は人生を肯定する。 受け入れては待ち、与えられるもには与えながらに自分のままに在る。そんな聖,賢の在り方を私には奏でる。

傷を負いて再生産へも繰り返す業の出処ともなってしまった人たちの、どうしようもなさへ対しても、こうすれば良いのだという決定的な癒しや救いの現実具体化への力は私に生めなくとしても(もしかしたらその奇跡は音楽などの流動の力に宿っているのかもしれぬとも)人間なるを諦めて突き抜け、しかし寄り添い分かつへ諦めぬようにも、私は彼等の世界とそこに生み出されるものを見ながらも(本当に徳のある者は楽にそこから抜けてしまう独りと究極を味わえるを選択し易いのかもしれぬとも)何が自分には(例えその価値の見返されなくとも、しかしそれで良い設定よりは良い物は広がり評価される世へもの一助とはなりたいが)与え関わり生かし分かち合えるかの業や仕事への階梯や歩みを感じ与えられ歩む者であるを選ばれてしまった者(そこにも縛られずの自由へは抜け任せながらも)なのだと自身への自在を生きる。 それは人間と世界に生きねばならぬ苦しみと有り難さ両方の道ではあるが、もう私は苦しみの因果からは抜けて生きていられていきたい。 苦難を感じるのは現実具体に打たれるからではなくて愛と慈悲の自身化の内に世界(から先に抜けてしまいながらも)を感じるからの故のものとなり、そこへ何を創み出すか。への為の震えや力と成るが良い。 助けてと心は言い出す、それさえもが私への創造と意識への力となるように。

そして意識的に使える言葉の魔法へも置ける立ち会いへの余裕も少しは出て来たか?とは思えるように現在への段階を踏まえては進み(言わぬとも良い意識にて済ますの 選択も)、では残す事と残さず世界の実際的記録の外へうち捨てていく解消や亡失への生贄,犠牲,葬儀,的な前進力,効用,又は納得の取り方の双方が(その各自選択のどれもが良いという以外での)統合的に運用されるべき方策や一致点を探るのか、それとも現在の多様文化のそれぞれ如くに捨て去る犠牲のお陰で進めるというような世界のエネルギーの交換原理(絶対真理ではなくとも実際的な真実の一面(資源の採掘量に対して使用量や対価が設定され燃焼へエントロピー増大によって宇宙へと出る等のように))にも基づいた在り方が残り続ける各自の選択(民族自決のように),過去からの継承などへ委ねるばかりであれば良いのか? (つまりこれもは自由の上の統合的共通の問いと考察動力た要件の一つではある。)

しかし文化的背景の力は案外にも柔らかく強く、今後の時代の混沌に合わせて復権しゆく事もあるのかもしれぬが(過去本質性,人間生体性の保持方向運動は人為肥大世界への反対圧力や又は少数のみの次世代の種を残す分化力でしかないのかも分からず、それでも各自に宿る俺はこれを行う。へと生きるのみなるを否定はしないが。)それで良いのままだけでは狩猟などの生体的交感と自然界の調整力一端を担う(良さと悪さ、奪うを少なくしての生存が可能となっても奪いて得る)生命の養い方を背負い続ける事などをも良しとしていかねばならぬ等においても(原住民文化の役割,調整力,生きる力などや畜産的殺生と肉食よりは良いとしても、生きたい命を奪う調整や肉食を止めていった方が良いのでは?に関してもの、統合的共通など求める必要もなく各自真実の自由選択と分化だけが在れば良いと結論付くなら、それでも良いが)それがこれからにも良い生命交感の姿であると言えるのか(微生物共生も利用や搾取との関係であるに 差別が出来ず度合いの差であるのみかもしれぬが。)?である。 (しかしsportsのような形へ転化されるのが本当に(暴力衝動の発散と楽しさ等へもの)健康的で統合的な結実であるとも思えないのではあるが。 しかし各自の性質や能力を伸ばして生きられる各自のartと共有の社会を目指す。とは、そういう事でもあるのであり、ここへの検証も為されていかねばならないが。)

10/8

人類文化の辿り来た経過や、その時にしかなかった奇跡ごとの生命としての記録を残し辿る効用は有ると感じられてはいるが、それが生活内の文化として残るには、その生活に一致した文化享受と育成の実存的な担い手たちによる最適解(とは彼ら自身の風土的最適でもあり、しかし他の多様価値との流通の(悪い意味ではないglobal化)の中でもの自分達への融合,均衡や最適)に適していなければ、他の快適さや格好よさとの比較においては捨てられる又は便宜性や快適性へ流される。 その中で、不便でも自身等の拠って立つ背景と文化的誇りのオリジナリティを保つという個人また集合内での運動は未来種子の為の現在人為社会方向への反発力ではありながら、保守的な依存傾向でもあるとも言えるように、そこにも感じたから正しいというだけではない自己思唯や反芻が求められる(考えなければ行いてならぬという事ではなく先ず行う者が居ても良いが、こちらにも反発されぬように価値があると示しておきたい故にもの提示)多文化間バイリンガルとして適用される最適解を求める能力は(自己肯定かもしれぬが私における超越と現実の適合を目指す自己内運動のように)必要と思われるのだ。

技術が記録メディアの簡便性を持たらすと同時に低質化を催し続けている(そこにも高質を求める消費は生じるが、以前mediaと同等のものを更に高いコストで再購入せねばならぬではような無駄)のが現在までの動きだが、ではアナログ(類似,相似,又は物理量)で記載されたシンプルな変換方法であるレコード版などへの方向は物体としてもの物理情報が多過ぎて電気以外の資源の消費も大きい故にも(工業製品であるからについては自個製造出来るかもしれぬが)やはり総体一般的な方向とはならぬようにも、それら生体や自然性に基づくlow techや原始主義の方向は技術肥大への対抗,反対運動的な一端でしかない(わけではないが)面が大きく全体トレンドにはならないと思われる中で、分化されるだけではない人類共通方向を見い出し、本質における到達への過程の普遍,真実的共通の 平等と、多様や自主の一致は如何ように(俺はこっちで行くのだという原生主義でも人為技術方向のどちらかだけでもなく)見い出されるのか?を私は問い、解く。

そして、それが例え過渡期の技術や使用としかならぬとしても、現在への生命を使い感じてはゆく発見は楽しい。

現在までの着物は最適性を欠いている。 しかし生産や市場との最適を求め過ぎると(宇宙時代では特に綿などは着れない。故に自身等で作るというチョイスは有り得るとしても)和服どころか(ジーンズさえ既にジャージになったように)タイツのようになってしまう。 風が通り余暇があるようにも風土と人間(生体)が合った適合と、(上流だけが着られるのではないテクスチャー等もを含めた)生産への消費量を共生へとも近づけたようなバランスの均衡が如何に取り得られるかは完全に到達せなくとも生活の利便と原生(つまりは技術と生体)へもの考察の対象であると考えられるを示しては分かちたいとも思うのだ。 (このような表現しか出来ない私ではあるが。)

では箸を使える方が良いのか、字を書けるようになるか、言葉を覚えるか。等までを含めた、やった方が良い理由は付けられるが又それも覆されるかもしれない(箸よりもスプーン又は手で済ませた方が効率的で器用さや頭と生体の直結の効用はあり得たとしても帳消し又は他の事へ能力を生かせるかもしれぬように、字はなるべく覚えさせず言葉よりも非言語やtelepathy能力や新技術への適合へ向かわせた方が良いのかもしれぬようにも)のならば、それは保守的な伝統や自分が辿った道を継承させたいという欲求(それ自体が間違っているとは言わぬが)以外の理由は(全てに理由付けられなければ行いてはならぬというのでは此処でも無い。)何であるのだろうか? それは例えばもし努力方向としてあっても良いのだとしても、行いたくない者へ対して行わせても良いのだろうか? それは正しいと思う判別へ無理強いして奪っているだけの、無用で無駄で搾取でもある努力なのではないか?という問いとも同じでありて、肉食なども同じく、そうでない方が良いという自己の真実へ理由を付けられたとしても、その押し付け又は意見言う事もすらがないという事であるのか?

しかし身近な共有関係各位に対しての自己を意見段階だけでなく押し付ける事(俺はこうだから肉は頼まない。 ゲーセンやjunk cultureは少しは認めるとしても与えない等のように、それは強制でなくとしても方向を挿し込む事も含めて)や、そこで生まれる各自の我慢相互に自由が制限されるとしても怖れず、判別,間違いかもしれぬ可能性,自己の強制をも自覚し認めた上に行為するを分かち合い(この自覚さえもが要らぬのか?又、この自覚あれば良いというのか?もあるが)響く面だけでの自然同士の共有を良しとし、ではそこに生まれるかもしれない反発や非響鳴が有り起こり得たとしてもを認めているがばかりであるのが、自個同士の基盤でありて、しかしなるべくには闘わず折り合える所だけで折り合い、意見は言うが出来ねば、又は我慢と自由の均衡量が崩れるならば勝手にしろと放り投げて共有出来ぬ不便益を受ける事もを気にしない。という事のみなのだろうか?

肯定的提示の一辺倒ではなくとも、否定方向やフォローの入れる事や入れ方も大事であるとは思われるのだが、如何なる結果もなどは我々人間に判断なども出来ぬのではあるのだからに、自分はこう感じたけど、どうだろう? いや、こっちでもあるのでは?等というように示せれば。の、これで良い。だけに至れるだけであるのかもしれない。 言いたい事を言い行いたい事を行い自分のままに在るを良しとし他者と共有できねば放り投げている。 その基本の上で、しかし相互の共有適合が自然に成り立たぬ場合の不便と利便,我慢と自由,強制と相乗などの天秤においてもに、(完全な共有が無いとしても、では全て捨て離れるのでもないのだからに)如何に最適な均衡点を採り入れている事が出来るのだろうか?という再度の繰り返しを今更にも問うが、もう苦しみの中からに惑いて見い出されていく関係や方法に歩まされるのは僕は拒否する。 上手く行く現実化の中での幸福な歩みでなければ、それが如何に私を進歩させるものであっても僕はもう歩まないぞ。と 設定し(それが超越からの社会ともの適合ではなく浅き俗化を生み出すのではない事を望み設定しながらも)脅しつける程の如くに。

この日常に起こる事象を観じ適合しゆきて、未来を描きながらも未来へ怖れる事はない、現在への私と生が揺れるを感じよ。

(以下5段落,メグmailからの抜粋含め。) 愛の意識だけでの転換も出来るようになりて来ているが、超越と現色を結びたい私のように自由だが共有も求める。 しかし、もう上手く行かない生存の中で独り受け入れるへ闘い続けるなんてのは無理だ。 もう死にそうだからというのは対外的な分かり易い説明でもあるけど言い訳でもない自身の実感であって、もう俺は苦しみと非現実化の中では無理だと追い詰められはいる。

上手く行かず、パートナーシップや人間が決して変わらない事などもの苦しい事から最高に最大限に学んだ。 でも、もう苦しい中でやってくのは嫌だし無理だ。(これも求めでもあるし、追い詰められているかは心の状況や表現次第であるが、自身の設定にとっては、拒否もを伝えている。) 一方的思い込みや判断へ押し付けられる事からは離れて、そことの分かち合いの冒険的な楽しみには在り入りて逝きたい。(逝くは死去の意味ではなく僕の中では行くとほぼ同義に使われているが方向へ向けての行く事よりも、もっと過程や全体を通して歩き過ぎ去られていくイメージの言葉だ。)

求めると現実化が逃げていくが手放せるとやって来るというのも、確かに流し去ってみたら急に来たりする事は多いが、求めていても捨てていても来るものは否応なく来る事もが多く、また方向性は大切だったりもするように、結局その求めるか捨てるかも意識の設定の部分だけであったり、又は成るようにしかなっていない現在自身への生命と流れへ宿るものを感じていく中での 現在交感が求めたり流し去ったりしていく動きに流れが付いて来たり与えられたりもする事は変わらない。 つまりは求めるも捨てるも両方だけに偏る事は出来ないとは思われ、そこにも統合の在り方方向と現在適合の最善がある。という私の考え方ではあるが、もう少し言うとこれも両方が真実でありどちらにも流れが生み起こされる。という僕の設定がそれを生み起こしているに過ぎぬのかもしれず、本当はその偏ったどちらかへ信じ込んでしまう事が絶対に正しくないとも言えないのでもあるかは分からないのだが。

越えられないものは来ないというのも考え方としては良いけど半分は嘘で、(結果論だし越えられたはずだったのかもしれぬけど)越えられず死んでいった人は幾らでもいる。 人を救う為の方便として使える事はあるだろうけど信じ込んでる精神論者とかは、自分が目の前で子供殺されて、下水に閉じ込められて、いつ出して貰えるかも分からずに死ぬ事も許されず身体が腐っていく苦痛を与えられても、人を恨まず愛をもって越えられぬ事はないと言うんだな?と言ってやりたい位であり、そういう浅い悟りと今より良くなっただけで一方的判断は変わらない人と世の愚かさが多い故にもの絶望と真の進歩と幸福への期待の出来なさは常に感じ諦めてもいる事が出来るようにはなったが。

上記の浅い精神論者の話しは勿論、世界は自分の鏡だから自分が全てを生み出している等というのも一面の真実ではありても、それだけが真実ではないのと同じこと。 自分が悪くなくとも殺される事例,事実は沢山ありて(死も生も垣根なく良いとしても彼らは肯定によって肯定が回るという意識設定を信じている事において、又カルマ的な現生以外の事は本当には分からないが彼らの言っているのも現生においての自己の事ではあるから)拷問にかけられても、自分の成長の為の恩恵だ感謝しようと、そこまでの覚悟や認識を持って言えるんだな。とは(浅き平和主義とも同じく殺され奪われても愛のままであり、対抗や暴力的な心を一切に起こさないんだな。と考えた上での真の平和主義とならねばならぬようにも)思うように、それはその場面で本当にそう言えなくても良いが、そこまで考えずに信じ込んでしまう事と浅はかさに対しての考察提起のアンチテーゼではあり思い込みによる強制による進歩を(現在よりは良いと認め共同出来る点もは探すが)根本的には認めておらず、その進歩の方向と達すべき 先を如何に共有,共同出来るようになれるのか?が真実発見過程以外の僕の課題と真実に基づく関係や適合への発見の求めでもあるのだ。

10/10,11,~

自由と共有の両方への求めもは自信もなき自身からの表れ方であるようにも思いてもしまうが、それこそが統合への希求力によるものの裏打ちと照査ではあるというようにも自信をもちて居れば良いだけの事なのかもしれない。 (それは相互のどちらかだけではない自然と人為,隠遁者と街の刺激や世俗、等もの対象さえ違えども何処までもの交換と交感があるのみであるにおける全ての事象の統合を図り採りてゆく希求力とも同じもの。) 何が正しく何処と比べて徳が高いか低いかと判断もなく、僕は自身の独自に在りて行われるだけ。であり且つそれは統合への本質衝動と役目に照らされているものだとも知るに、振り返る謙虚さとこれで良いの自信や肯定感にもの両方へと 佇む安心へ立命しては、しかし他者たちもが独自に在りて(自身から沸き起こる独自な感性や創造の自身を持ちている人があまり居ないという面もを含めて)為されるだけの世界と多様に既に在るを見ては人も皆、判断されたくないのは同じであろうにおいてはantiや指摘も入れるへ恐れぬし共有を求めながらも、基本に全てを認めているのだ。

自分のままで在り自己開示しゆきながら、その私と互いの共有を育むへ操作なく自己真実に思われる本質なる判断も押し付けず自他の壁に閉じられてはいなくとも自他の区分における侵害を持たず、しかしその私も私以外もが本来一体における流通へ垣根や言葉であるかをもを越えて達し導かれてしまうような自然な帰結が催される意識と存在の設定においての日々と流れと関係や創造の現実が起こるへの私を渡してしまえば良い。と私は必然への任せへも揺られるがばかりの根本還元へ直接に無為に為され関与する存在の力そのもの、のみへと移行していく。

会話や協調的関係の作り持たせ方などを
学術的に示したところで(背景の一つへは意味を持ちても)人々の通常知性や状況に作用もせず(文明が崩壊した後の社会には意味を持たないというように)根本的な意識の転換へは挿し込まれず且つ新たな常識というルールへの縛りや制約,規定,構築的な他律の生存などをも生み出しかねず、勿論それは全く不必要というわけではないが基本的に分類など(何の為かには依るが)あまり役に立たない。 それは科学の否定ではないが類型分けによる把握などは根本や本質への関与,影響を持ちにくいという意味であり、その性質持つ者の仕事や考察への排除ではないが、これも根本性へ向かい対する考察の方向と認識についてではあるのだろう。

全ての人の性質や流れや必然上の連関が、一切の無駄もなく関与し合い流れてはゆき質にも方向にも差別,優劣が付けられぬのだとしても、(そして幾ら本質や真実と思われる事にも判断がつかぬような知性分別上の無分別でありても)自己を超えた本質,又は流れに近付き触れる方向という生命の味わいと歓びや真の幸福の在り方,方法にも関する共通は得られる相互と一体において目指されても良いものにも思う。 如何にそれが遠く彼方であろうとも突然の変革が起ころうともの、どちらにも囚われず取り込まれず、只その自身を置くばかりの愛の顕現へと向かい歩む、ひたすらな生命の姿と流れ去り逝く現在への歩みのみが連めき果たされていくを与えられ果たし、私には観るのだ。

私は世界にして、統べてこの世を生み起こすものの一体である観入に浸して、しかしその肯定に自己にとって都合の良い現実化を催してしまうばかりの、肯定には現実的事象にも肯定のみが回る等という浅はかさには取り込まれず打ち切って、けれど幸福な生の為もの幸福な道を歩む時の結実へと向かい迎えられていく設定と超越への限定はせずとも恩恵を受け行くような生の在り方へとも移行する。

俺は此処(俺の道)を歩く。 何もに均衡以外の無駄はないのだから、未熟で至らぬ自分を気付き見返す、その謙虚さと自信のなさもに歩みながらも、判別は付かぬ選択への立ち会いという(選択は減らした方が良いような無駄ではなく)生命の用い方の歓び自体である、自身と現在への私の歌を奏で歌われよ。

no rule, my rule.
ようやく私は私のままに在るままで在る事を自身に突き抜けて認める事が出来るようになって来た(それは勿論、自身の以前からに同じだが)対者への恐れに惑うよりも(どうしようもなき自分を行っていれば、周りも受け入れざるを得ない説得力が出て来るというヨシノさんのケンさん等の話しのようにも)俺はこれで良い。 しかし他者を聞かぬのではなくて、その中で見い出される方向をゆく事に自信もって他者の見方など気にしない放り出し流し去り自身の生へ真っ直ぐに行って生きるだけの開示へとも進む。

それは僕なりの目立たぬ暮らしや方違え等の技術実践もは既に行いてもいるのだからにも、これ以上の寄り添いへ適合しようとし過ぎる事もなく(それはこれが自分のartだからと気を張ったからの故ではなく)私は私のままにを生きられる方向や環境を(それが不可避であるから。の理由からであってさえにも)目指し求め進み捨て、又は関わり自身への存在に現れる全ての創造を表出させてゆく行為へもの自在体と成りゆくが良いのだ。という事にも通じてはいるし、又はもっと我が儘に自身のみのままで他者との折り合いや見られ方にも気にせず行いながらも角が立たず破壊的解消点としての事象が現化しなくともopenな一体流通の愛に開けた存在性をもっての肯定と幸福の共有が現化してゆく、愛への解消,(調整,均衡,適合,知性判断にも拠らず真の幸福と調和,共有と統合的な共生への方向と創造)へと創み起こす媒介~media,art~体となってゆく示現の自在へ渡る存在と転換(魔法)の灯を灯すのだ。 それがこの道を歩むという事の生命過程と完成同時の価値と行き方でありて、私はその道を灯すへの創造と存在の自然な現化自体の道を、与えられ為されて、私のままに歩む。

そして最近はこのように、突き抜けているへ諦められて来たと同時に、人との流れも上手く回り始めているように感じられる。 が、少しの収穫期が一時的に来ていても又も流れ去ってしまうのか。や、待つ事にも慣れてはいるし、いつも最善が最高の時との組み合わせで与えられ来る事への経験や信頼も経て得ては来ているように安心し、少しづつに進む過程を味わいていけば良いのみなのだとはしても、やはり少しのご褒美が来ただけで終わってしまうのでもなく(その時の幸福を味わい目の前の現状を一歩ごとに行いて歩み、生命や選択の流れにも交感し全く無いよりは有り難い感謝でもあり、勿論に不満ばかりでもなく現実状況自体も柔らかくはなったが限界である事や現実化の流れが来出してくれることへの)根本的な自己の求めと必要へ結び着いてくれなければ困るのは変わらないのであり、
~10/13,~
現在の段階を負っていくには必要な道のりだけが有るのだとしても、本来的にそれは大した高望みではない(自然と生命交感の本質的な生活や存在状態に住みたいというような、又は良いものは広がり分かち合われ与えたら得られるというようにも)普通の事を求めているだけでもあるのだからにおいても、ちゃんと現実化への流れが至り来てはいって欲しいと望みはするのだ。

その者への必要と機会が(与えられない事によって育まれる面もあるのだとはしても)与えられ生かされる世へと進む転換は(それで止まってしまわぬならば)望むし、他者や社会よりも、とにかく自分は限界である。や、生き残りの為。や本質のみの 最少限へ引いて行き、生きる歓びとはこれだろ?と提示できる未来への種となる為にも早くその現実段階に至り着く事を、僕は望むも恐れぬし、それが望まぬ委ねと愛へ任せるのみの超越と人間世界尺度での二重基準での行為,提示ではありたとしても、その共生的相乗の相を目指し人間的な判断の私を置いていく事も厭わない。 (しかしそうした言動の方法と同時に超越や静寂の象形をも提示と共通への流通と心地好さとしてもに分かつ姿へ移行される事もを身へと照らす自身化に目指したいと思うが。)

すぐに完成はしなくても、その創作過程へは入りたい 。 しかしそこへ行き着く為にもの引いていくを身につけるへの生死の体験と、他の全てがvision通りに起こり最善の動きを最大にしたと思えるのに現実には結び付かなかった去年の旅と消耗も、ここに結び着いて来たと思われるように全てが完全で在りて最高が為されて来たを、待つ事すらもなく任せるのみに歓び感じるばかりだが、けれどそれでも私はもう苦しみに惑い現実化せぬ中で独り行い続けるのは(苦しみを脱する為と交換に自分の仕事を為されなくても良いという方向へは望まぬにおいて神(と呼ばれる総体の流れ)は私の全てを知りて起こすが、それでもそこへの勘違いへ動かされぬように自身の意識でも私は真に幸福に私を為される祈りへも観入する。)拒否するにおいても、真の幸福とは知性にも拠りての統合へ至る肯定と全一体の愛的状態へ存在が至る事ではあるが、真に幸福であるとはそれでさえも抜けた、只その一人一人を各自のままに揺られ行われ過ごし去られゆくばかりの生命体験を、最高に味わわれ充足する歓びへ在りゆく事と、それが他者に行われず捨て離れながらも自身がその全良へ達しゆく事でもある。が、しかし苦しみも含めての現在世界自身を肯定するばかりではあるとしても現実化へ生かされる生命共生的社会の創造へ私が(しかも、そして又それがその共生か破壊か等もの判断や操作によりての新たな業と循環を産み出す事もないように願いも置いての)苦もなく生かされゆくだけの段階や収穫へ実り乗る、その最高や幸福の質を私は方向として求め設定はしてしまった。

誰かの分や現在までの徳を消費してるだけなのでは良くないが、もう上手く行くのだと先程にも念じながら来たところであり、事故などで解消しなくても結果には何事もなく少しの機会位で済んでくれるのならば悪くない。

私は光と愛(とも言い得る存在の状態)では在り、しかしその為が故だけではなく意識や祈りが向けられていても居なくとも私化してしまった、既と常在のままで在りての光と幸福と平安と調和の浄化,媒体であるにも至った事を意識の設定,操作だけではなく感じられている。 それは意識に澄んでいない時も意識の質に余計で雑な人間影響の受けるもが少なく、沸き来ては在る意識の性質,底辺が澄んでいるに済んでいるを感じられるが故にでもありて(多少は揺らぐ事もありえるかもしれぬとも)もう自身の基存,基盤化へ大分には達したを感じているからにでもあるのだ。

歌へのflowが常に出るわけではなくなって来た事への意味付けや、又は人間との折り合いが取り易くなった事,付き合う相手の種類等も俗化したからではなく、そこでの調整や遊び方も出来るようになったからであるとは思いたいが、如何なる意味をもを越えて只、私に為されるを受けて流され任されて、自身の望みと必要へ感じた選択と方向への設定の現在を生きるままに流されてゆくを楽しみ遊ぶのみの自在となってしまえば良い。だけが有る、へ充ちる私を私で在るのみへと渡してしまえ。

連関への物事の起こり方を予測し備えるは良くても、そこへの制限や無駄な予測などは必要もない。 潜在的感覚の想起やvision等というのも、そこへ流される現在の行動動機づけの為の幻想でしかない。 しかしその現在と生命を味わい受ける歓びで在る以外には、必要への望みが果たされ現実化へ至る迄は常にそこを求め続けなくばならぬ状態と不満との均衡状態が続くのか?において、しかし物事の流れの進み方の順序や、この必要を経て次にはこれが来て。等の段階など踏まえる必要もなく結び着いた時には急激な進展が有るかもしれぬというように、予測における準備や進行の方向は思い描いても良いが、如何なるが自己設定づけ等も柔らかく対処し在れるように在りて段階判断は愛への一如の私であるがままに成るのみへの委託へとも叶えられるへ、吹き飛ばしてしまえ。

そしてでは機会あるからといって拾わないかどうかにも、流れと自己と他者と人為にも依る最善が起こるばかりへ動かされる一端種子であるが私に感じるばかりへ流されよ。 しかしそれは囚われに拠る苦しみに惑わずとしても、その自在とは囚われではないという思い込みの肯定だけでもないという真相性の中でもに自己を向かわせ導く方向の設定に因りてにも流されるのだと、私は存在に行い方と方法を世へと解く。

愛と幸福を生み起こし、(苦を持ってにも与えられる成長機会としての最高,最善ではなく現実生起への流れへ、しかし肯定が肯定を引き寄せる等という思考範囲の限定にも制限はされず、囚われぬ肯定へ囚われる事もなく自己と示現のままに各自多様と必然を為されながらに、その方向は)最高な流れへともの最善へと引き寄せ繋ぐ結ひの結実へ達し実りを受ける事の出来る私と世の全ての者への希求であるを生命,生存に置く私の日々との連関に私は学び続け、深くから湧き立つ地湧の菩薩と仏陀なるが心にもほどけ超越へと突き抜け越えた一体の自由を歓喜と奏で、私は人に在りて人に非ずを逝きている既なる"Satchitananda"の
実存なる真実、意識、至福の存在を流れているが歌の自身なのだと軽くまといて世界を渡るに渡しゆく、現在の祈り以外もが私の望みも経過と現状もの全てが任せるのみの、生存の味わいに遊し佇み引いている、私は生の歓びを知るものの愉楽に生きる者としての存在を奏でる。

自在と自由と存在のみにも達し深め結ばれた、この詩を詠う者にして、望んでいてもいなくても、来るべく流れは来るに日々と私の適合を泳ぐ。

10/14

暴動の効用においても如何に対応しゆくのか等へもの私は、私と世界の最高なる愛,光,幸福,調和,歓び,自然,などが一体と七つのkeyにも宿った虹の戦士と、もうなったのだ。

気付いては(気付かなくても)光を当てる。 癒しと上手くいくが、成る。へと、意識を澄まされていく。 状態や行為の内容にも依らず、成される私はそれで在る。へと、追い詰められた事にもよって自身へ納得し(設定による制限や業的なくびきの再循環を生むへ経ずとも)設定出来るまでになれたのだ。 肯定的現象を生む為の肯定ではなく只この生命の肯定は楽しみ歓ぶ為にあり、では徳の消費でもなく私には全てが上手くゆくという設定の云われの説明は肯定が出来た為に起こるのではなく、その段階への存在(肯定も含めての)にもよる流れが化され来たと感じられる中での収穫の内容と方向への設定を自身に納得出来るようにもなった、操作なき自然による少しの傾向性へ関する操作が宿ったように感じられる(本当にかは知らぬ)という事であるとは言い得ていけるかと思うのだ。

捨てる事で先に進める等へも得ようとする事も、捨てなければならないだろうか。は必ずしもであるかは分からず設定はせず、私は任せている流れに為される中での意思にも宿る、宇宙全ての流れが想起する世界の自身を観る者だ。

人の受けた災害などからも自身への在り方や世界の様相を知り、思いやりに寄り添いながらも慈悲とは、しかし常泣観音からの卒業でもあるように人の事は人の事と突き離れた冷たさ,客観にも在りては自身のみが如何に世界へ行為するのかへの生かしを行う。 災害や洪水などもが業を浄化する為や犠牲の効用の為の必要であったなどと言ってしまうが例え正しく役割のみがあるのだとしても、そこへの優劣的判断の差別や区分へ至るような増長,傲慢は、もう私に負いて来た経験に拠りても、せずに済んでもいるのだ。

深く観渡し人間を捨て離れた人間でも在り慈悲で在るとは、そうした短絡的ではない全体包括と生命混交の交換にもおける真実発見への希求。 私のままに在りゆきて、それが私に言えること。 ならば、考えるな,感じろ。のような言葉での人間意識を次の基層底流の段階へとブラッシュアップさせるへ僕にも言える事は例えば、行うんじゃない,在るんだ。のような言葉であれば開出できるのかもしれない。 定義付けや哲学的な構造化を伴わぬとも硬度で深いが、しかし操作ではなく方向を分かち共通の潜在的な感覚や共感へとも響く。 そのような言葉と言葉への説得力を持つ存在,生き方,表発へと化せる私の創造を持たせたいのだ。