junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

142 9/24

142 (/16e)~9/24write~。

僕は繊細に過ぎるのかもしれず少しの事で傷つき又、自信がない故にも惑いたり説明を置き尽くしたいとも思い減らせぬ怖れによる行動原理もはあるが、感じ易く傷付き易い事の自体は(傷つけられて来た故にも少しは過剰反応もするが)世の悲苦を知りて寄り添うにも良くないわけでもない。

良きも悪きも(全ては完全であり善悪などは無いという面からではなくて、この相対現況の世界における)両方の自身を持ち、その両方を問いかける空の既なる完成自体と現色の二重基準的な分別,方便の作用を持ちて行為する自分は、例え世間や人為との折り合いや現状への対応となる自己人為を持たせる必要などなく突き抜けるばかりが良かったのだとしてさえも現状の自身には納得されてはいるものであるようにも、その自身内面の働きと現在状況を批判されようと私は、次の段階への進展へとも与えられた現在が最善的に進み変化されても逝く流れに流されている。と信じていられてはいる。

そして存在と創造と表出へと向けてのみに済ませられ救われている面もあるが、それを良しとした事への依存でもあり、それが出来るを与えてもらってはいる恵みの両方でもある。

しかし自身役割へ為されている自覚,自負的な誇りと肯定感は高い又は為されるしかないのなら覚悟してにも行い仕方ないとも諦めてはいるが、それが愛の存在に任せず空のみになれず業の出方を背負わされても与えられたならば行うしかない。と、自身の業の深さを、しかし納得によって再生産してしまってもいるのか? (又、徳や業へ自身意識を引き寄せられぬばかりでなく、その判断や解釈で済ませてしまわない事も大切ではあるが。) しかし役割に与えられたならば可能性の全てを行いきろうとするのではなくとしても、流れを繋ぐと同じく行われるを覚悟して為される又は為すにしかないのではないのか?

というようにも何を得ても見ても、自身の自信の無さともなってしまうのだが、その揺らぎや聴き取る態度の中で私は根本的な本質性の基準や在り方というものへの問いを問い、解き繰り返し削り出し磨いているのだから(もっとはっきりと自信を持って言えば伝わるものも有るのだとしても自信なく伝わるような言い方が出来るかどうか等の副産物は、どうでも)良いのだ。

だがしかし謙虚な聴き取りと意見や行為の発信は両方とも私の現在にも為されているのだから良いのだ。と再確認し続けなければならない、これも自信の無さ故の私の業的な心や働きによるものでもありて、その先に固さではなく柔らかく囚われず聴きながらも、もっと自信もちて立ち、その度に揺らぐのでもなく創造や表現へも突き抜けるへ貫いた存在からの開花へも至りたくは思うが、ここでも感じ発する事と他を慮り寄り添う事のバランス等が常に問われていくように、全てが統合と完全と役割と自由である上の交感と選択の問題であるへの問いにも結び着き、しかし既なる私と行為,表出にも適合,均衡は取られ成りて出来ているには(それを傍目では理解できぬ人たちへの伝える説明(は自分を分かってもらう為でもなく、その問いの過程も到達地もは共通で根本の為にも)は入れる必要機会が現じて来るのだとしても)もっと基本的には釈然と納得して余裕を持って立ちていられても良いと思われているという事だ。

(業とは仕事やワザ(術のような)でありながら、やはり因果と連結のカルマ的な業の事でもあり、自身の行為や選択に拠るものも拠らぬものも含めてではある又はどちらかであるを言っている事が多い。 そして解消点などと言っているのも同じく、自分の意思などを超えて為されているを受ける事,意思として選択し仕方ないから行われる事への対応を行うなどもの両方であり、しかしそれらはやはり為された事を認めるか為された事へ対応の行為を為すか?の交感と選択の幅の問題であり為されるという運命性を基盤として組み込まれた一体性へ既に一致されてはいるものだ。)


愛のみに溢れゆく変革の道と存在で在りながらも、何があっても何を見ても、哀しい哀しいと助けでも求めなければやっていられない程の不安や怖れにも立たされる。

その中でも自分と時の織り合いを自身への置き方で紡いではいるが一般的人間の自然的なリズムや着地,着実性とのペースなどでは会え(和え)ず、また相手の提案に対して自身の意見も伝える事で互いの相違と理解とが通じ合えるのでもあるのだが、しかし正当化ばかりと捉えられてしまうかもしれぬ程に自分の固さでもあるのかもしれぬとも(そんな事も又は只の杞憂かもしれぬが)、それでもそれはそこに安息してしまえる依存だからではなく(安息できれば未だ良いとも言えるし生きているだけで、それもは良いではないかの開き直り部分もはあるが)聴くに感じ取りながらも、それしか出来ない又はそう感じている現況の自身を伝える事は流通にも間違っていないと思われる。

他からのアイディアを生かす余地がなく、自身状況により(人はすぐ勘違いをするが心によってだけではない現実的な状況にも拠るのではあるし又は心のみにもあっても)制限されている私ではある(皆そうした自身への環境や出来事,経験などだけでなく役割的な必然や性質にも依って制限された自己への存在同士である当然を、あまりにも理解していないようだが)。が、ではしかし人の意見を聞くとしても私のように取り入れようとし過ぎる必要はなく、既にも相手をしかと聴いては、相手への必要か又は意味も分からずとも置く必然を感じてかの流れへ交感して対応する(自身経験からも、そうではない例え等からも伝えたり挿し込むのみの最小限や熱量の入る時の使い分け等も出来ている。)の作業は出来ているし、そこへ更にの自身を進めてもいるが、では自身に理解された自身への制限,現実,役割や必然的な流れに拠りて生き現時点で受け入れている事を他者から批評,批難されようとも、(その他者という世界からの気付きや視点からに見られ得られた真実の一片を、振り返り立ち会う機会とするは良いとしても)そこへ自分はこうであるからという説明をしてあげるのは、その対者が違う価値観や見方にも触れる機会の 提供でもある。 そして又、出来る事と出来ない事の判断は他者との間にありて発見されたりする事もあるが、やはり基本的には自己内面に問い達した方が外的には最少労力にして真実性へも深く達せられる道ではあるとは言えている。 その両方において説明を加える相手の真実に対しての意見や否定もを(例えそれが聴かぬ固さと思われても、それは俺の真実が正しいのに何故に取り入れぬのか?という自分勝手な感覚性である事が多い相手への対応としてもへ)加えるを怖れず肯定的な調整の役回りだけではないような指摘的調整(しかし否定の効用を此処では言っているが否定を積極に肯定しているものでは勿論に無いが)もは有りて良い中での、肯定と否定のバランスにも立ちた実に既なる柔らかい自分は成され在りてもいると言えるのかもしれない。

つまり話し会わねば分からない。においては(言語外の沈黙も愛のみの存在も私には既に一致し結び付いた価値観でもあるが)僕と他者互いの真実を伝え合う事の価値は現実対応への基準において有りても良いのではあり、否定や押し付け感性への否定や指摘も価値観の機会の提供であるように(各自にはそれぞれの必要,制限,役割,流れ,性質,などが有る。を伝えるにおいても)聴いて立ち会い、自身への反省だけではなく意見を言う事へも怖れず、感じては意味や結果にも判断出来ぬのだからにも自身を行い、しかし自己の研鑽現在と過程の到達より下位の説明を加え続ける事での対応は労力であるとしても囚われずに立ち会いては対応する遊びとしてのように振る舞われれば良いのだ。

だがでは全てが自由だからといって感じたままに現じ来る必要ならば繋ぎ行いても、行きたいところに行き言いたい事を言う。(映画ではguevaraが言っていたように)だけのままで良いのか?

(又は rogue one や西部劇などでものように運命的な流れとの適合に流されながらも、基本的には自身の思いた必要と信念を貫き各自が自身を行う。においては正しいと私には思われているようにも。 貫く以前に、それが本当に正しいかなど分からず自分には見えていないものがあるかもしれぬ。という視点で立ち会わねばならぬとは思うが。)

言葉や関係も(文章化の部だけではなく、それ自体が)、流れを繋ぐ作業でもあるというのに、話し合いて結論への納得作業を進める事や又そこへ付き合う大切さや必要性はあるが(これも流れの繋ぎ方や選択と同じく)これは行うんだと自身内の真実に決まってしまった事は例え押し付けてでも(付いて来るものがあれば付いて来れば良いというように)結果をも怖れず判別せず行い通せば良いのみであるとも言えるのか?

対話の効用があり、共に共有を育みていく価値を解き伝え作りるへ働き来ていても、冬に南米に行くのが必要だからと自身の必要を押しつけて良いものか?とも同じく、そこで話し合う事で又も見えて来る事は互いにも有るとしても自身内面に感じられた真実が見えてしまっているのなら、そこへ双方納得の為の労力を用いる作業や落とし所などを共同で探す事などを打ち切って、例えばタイで子を産むが良いと流れ感じていても相手側の両親の想いなど自分以外の人為へ合わせるを選んでしまったが、結局は同じ結論へ戻って来るならば最初から、もしそれがキッカケで嫌われようとも感じた正しさならば従わせてでも貫くが正しいとも言えるのか?

会話に依る落とし処への共有であっては僕は相手に合わせ従ってしまうもしまうか、その自身と人為の板挟みにもなりて柔らかく解きほぐすような方法は(今のところは)取れないのだから、伝え分かち合う事よりも上位に、貫くへ突き抜けて自身だけでも勝手に行うのみがあるのだとしたら(その面でメグの感覚のまま僕や気持ちも考えず自己のみの決定を強制させ切るという選択は正しく)、現在の世にも行われている力の対立と強者のみが強く勝ち得られる価値や理論となりても良いという事か? (ある程度の基準や既なる自身化はある中での、全てはそれらの試行,実験や立ち会いでもある。 これらを私には迎合と強制の問題と言って来た。)

結局は対者間へ落とし所を付けられたとしても、その満足感よりも遥かに、この自身内で整理つけられていないと結局は納得が出来ていかない事にも又も気付いたようにも(よく人は、世界と私は同一だから自身を無くす等と深くもなく(深さや真実からの浅き表面性解釈での劣化版)に言うが、ならば)同一であるといった世界の相の中での自分のみが在る。のが正しく、分かり分かち合わず納得の均衡点も探らず強制でも各自の真実の対立同士から世界が進んでいく事の方こそに理も意味も正しさもあるのか?

それは、その対立も辞さぬが積極や過度には奪い過ぎぬという規制線を設けるような共有ルールや離れて自由に行えば良いというような共通認識を入れていく程の関わりが目指されれば良いという面や思想だけでもなく対話の効用を省いて勝手にやったのは仏陀も同じだったようにも、即ちそれが正しいと結論づけたのではなくとしても、又これらは自身の経験と現状に何が起こり来て行いたのか。へ引き寄せられるのではなくとも、そこからによりて又も考え深める機会としてのものでもある。 故にも、これらは人の考えるように思考的思索ではなく知性的な形への化し方へと現れ出して来る、潜在や本質の紡ぎからの観察的結果の過程であるとは言いても置く。 又この故にも、試みに遭わせず我らを悪から救い出し給え。ではありても、しかしこの迷いによりて生起する真実への探究は尊いと存ずる。 これも、(自身状態と行為の説明には繋がってもしまうが)常に私は空と色(現)を繋ぐ(全ての極相)統合の為の私であった。<秋分祭,日記から

奉納の意識や言葉がいつものように流暢に繋がらない、現在は普段からもの意識状態であった自分に在るにも気付く。

人へ言えたことも良かったが、それも慶澄さんの根回しや神仏のおかげだったのかもしれず、僕のやった事の成功体験としての結果には意味付けられないかもしれない。

相撲もライブも悪くは無かったが素晴らしい出来というのでもなく、やる事や時間に追われながらも(護摩焚き等ものように)何とか間に合ったが中途半端で未熟な合格点(皆は良かったと言ってくれたが)というところか。 しかし慌ただしくも、いつもと同じような質を出来たのだから、毎回進展させる事への完璧さに自分が囚われているだけで、こんな自分でも皆のお陰で出来たのだからと感謝のみしていれば良いのだけの事なのかもしれない。

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9/27e~

結局、愛で在るも伝えるも相手が変わるかも打たれる現実が起こるかも、の全ての事が言葉を超えている。 そこでどんな働きをしても結果は、その行為の質に拠る連関でもあると共に関係がないとも言えるのだから、愛のみの存在で在る肯定と充足の歓びを目指しながらも(自分の思いを伝えるでなく何を思ってもらいたいかを伝える。と草の言った事についても、それは方向としては正しいかもしれぬとも、それ以前でしか行えない者も居るとは思われるし、又は愛だけに在りて語る事もない,少しは言う,説明する,否定し返す,等のどれを取りて(その中での成功体験もあるが)方法は試してみても攻撃される時はされるし実際にも多いので、技術や自己への変革だけではないと思われるようにも)、そこに良き解消への調整が出来たのか?の質や自分にはどんな提示や関係の方法が有り得たのか?等とも関係がなく、人智を超えた大いなる力が世や私たちを起こしてはいる。 私たちはその必然の一端に過ぎない、我等と各自の選択へ立ち会いて流され、しかし私は外へ超えた者として、その流れ起こすものと力の源に触れられるかもしれない。 しかし役割としてに為されるを観ては諦め納得しあるにしかないにしても、現生的私の選択の納得点は必要としてもいるというような事だ。

全ての判断や状態が理解できる故に(真に全てが理解出来ているわけではないが多種の多様と理由を観ようとはしていられる。 それは当然の事のはずなのだが当たり前と思われていない故にも知性や気付きを言わねばならないが。 僕にも全く気付けないファクターがあるように、それは能力への優劣づけではなく方向としての共通や慈悲などとも言えるものへの説明でもあろう)揺らぐ柔らかさと弱さの同居にも在るが私も、しかしその弱さは例え自信なく人との交流へ映せないとしても老子の説いてくれたように、謙虚である方への価値でもあり伝えるよりも在るのみへ引いてい道の良さと既の結合なのかもはしれない。

流し去ると向き合う,迎合と強制。などのようにも統合への道を逝きながら、しかし完璧主義ではなく解け、与えられ行われた事に判別もなく感謝して在れば良いだけであるとしながらも、意識の質と現在存在の私が俗化しているのかもしれぬなら、そこには取り戻す均衡の為にもへの完璧を目指す方向運動の意味も有るかもしれぬがように、やはり囚われぬが遊びに在るかどうかだけ、が在るのだ。


現在の時点状況の自身が、例え祈りや平安の境地へ全て流し去っていく愛のみの希求方向よりも現実生起の利益などへ流し去れぬ欲求の俗性へ向かっているのだとしても、それは一時的な現在への必要であるのならば良いが、もしかしたら私は死ななかった代わりにもう進展ではなく普通,一般的な人間となるへと失い続けていくだけの存在になってしまったのではないか?と(年を取った故の固さのようにも又は音楽でのflowを如何なる状況でも出そうとするのではなく普段は節制しておいても本番や必要時にこそ出せれば良い段階になったのかもしれぬ良き捉えの面はあるが同時に、もう何時如何なる時にも自在に出せる自分ではなくなってしまったのかもしれぬ恐れにもあるように)襲い来る不安にも光を当てながらも私には、身に付いてしまった絶望と自信のなさや不安などが肯定,充足,光と愛のみの 存在意識であるとも同時に宿ってしまいている。 それは先にも言うたように統合への相対運動ではあるのだが、肯定へ意識を融かし変容させたからといって、現実がその不安や可能性を起こさないとは限らないようにも立ち会いておく必要(又は如何なる可能性も観じない。というのではないのならば)は有るようにも思われる。 そこに気付いた可能性のお陰で、そうではない光へ解く意識を当てる機会とは有りがたく使用してはいくとしてもに。

(エネルギーの消費量としてもライブ等の仕事に一つ立ち会うだけで消耗が激しく、これではそのやり方ではやっていけないが、ではライブではなく流れに合い気分の乗った時だけに勝手に歌い創る吟遊詩人のような在り方でも良いのかもしれぬが金,旅や拠点などのvisionと設定の為にも、又この存在を持って(まとめ拡げてくれる人などが在り付いて来れば)質も高めた形で世界へ置いていける価値でもあるが見えているのに勿体ないのだから、自身がどう想い在るかに関係なくとも生かされる世界の必要がそこに結び着いているとは思われているのだ。)

実力あって生かされないのも、実力なくて生かされてしまった者も同じく辛いだろうが、しかしこれだけの質が生かされず人の間に上手くもいかず認められず響かないのは、何故であろうか。

人為を自然で対立させるのではなくて愛の意識ひとつで解いていくとしても、(実際には自然から離れた操作性に高い事や共生的連関や帰決と対立的な関係であるにおいて人為は反自然的とは言えるが。)この流れの代理者,流れの媒介として、人間世界に流れを生んでいく主体の多くの部分を人間が担っている以上、そことの関係は避けて通れない。 が、それでも突き抜けて、切り倒される樹々の言葉も吐ける代弁者とも思わずに全体に通じた者としての自然と大いなる流れ自体に触れて任せたのみの全一の安住に在りゆけばのみ良い私への進み方の先なのか?

人為と自然は対立ではなく人為という進展力や操作,判断の人為自然にも愛や共生を挿し入れられるか。の慈悲,共感的な理解への交感が必要であった事を説きて伝える事は出来る人間的自然の私などもの必要であると思われてはいるが、それさえも肯定の超越にして流れの総体に至るのみを目指し言葉や行為の最少へ設定し越えてさえも(それも操作と上位概念化した人為に過ぎない事の問題は残っているが)に在るがだけで良いという道が本当に在り又、私には選べる納得点とも成り得るというのか?

人為的社会に定められた価値観や規制から離れて自然的な本質性への(それが本質であり正しいとは言っていない)自分,自由を優先させて良いと思ってる自身であるが故に(そこにもっと自信持ちて貫いていれば良いのだとしても)それが目立つ故にも何だあいつ?が人々には溜まり目にも付き易く嫌われたりしやすい、その役目を負わされてしまう面もあるのか?

忍びのように気配を消し溶け混む。という話や能力の問題も確かにあるのかもしれないが、しかしそれを見せるのも私のartではあると思ってはいるのに、それが自身の固さなのかもしれぬとしても生き易く生きる事へ自分を貫いて生きられる自由には程遠い人為的義務と判断に捉えられた世界の上で、それは違う。 止めてくれと言える私を為せる事の価値は必要ではないのか? (それを行いても良いが只そこには打たれるであろうという自身への覚悟を持って行うというだけの事なのかもしれぬとも。)

自然の流れからの対応を人為の世界へ与え当てるのか、自然力の存在と創出のみに在りて後は只全てを任せおくが良く、やはりその方向のみへと自身の納得点をも向けてゆくのか? しかし私はそれが俗と欲への退行であるかもしれぬとも、創作,表現であるからというだけではなく自分に思ったままにを表して生きたいという当然のような自由(本来の自身への、でなくてもの)を欲してはいるし、そこへ言いたい事があるとは思ってもいるのだが。

私は高く人為人間とってのヒマラヤの高峰であるが厳しさも有りて与ふも奪うも差別はしない只の自然で在るからに、登りたいなら覚悟して登れ。 しかし人間がゴミや人為に持ち込んだ意識で汚すとも、それはそこへの囚われ的な対抗ではないとは放り出しているというようなものか? それは高位の神のようではありて 全一の神ではないような自身自覚の上にも行われるようなものだ。

自然力であるがままの私を顕し、繋ぐ能力と繋ぐ事への肯定,納得,主眼は在りての私においての創作(存在も言葉も)に在りても、しかしこれらの課題は人と上手くやれるようになっていく為に来るのか、もしくは人の世から離れろと言われているのか?とも思われる程に来てもしまうが、出家や遊行の徒となるのみが良いという方向は私にはなく(その性質的な私であるには取り入れながらも)創作者として(私は0を1~に創み出す者だが、それを100や1000にしてくれる者との出会いと共同を進ませる事によりて成り立てるような世界を望むし、それが来ねば私はこんな社会へ対しての良いと思われる共生方向を(囚われの形によりても、囚われずとも)示したいと思うだろうが)生きたいという、その答えは分かっているし現在も、離れながらにも出来る事には関わる。程度のポジションを既に成してはいるとも言えるのだが。

9/30 (mon)~

そして自分のままで在る事から付いて来るものがあれば良いというスタンスであり、隠密活動が仕事ではなく(時には必要なので練習しておいても良い位ではあるのかもだが)自分で在る事からの開花や自分で在れる世界への形を見せていくにもの私のartの仕事を恐れずに突き進めば良いではないか。 (その自分のままの自分の基準や全体の統合,本質の普通などが何処にあるか?は勿論に問われるものだが。)

その結果は自分で受けるのだし攻撃されたり叶わなかったりは辛いという状況や弱さは有るが故にのものでもあるが、それは
流し去りて引いていく事によりて、しかし自身への最高が為されるへの望みには在るのでありて、人為意識の引き寄せ操作ではなくて、人為を越えた最善の必要に乗る為の魔法ならば良く(本当にそうなのか、や魂的高さからの流れに乗りて創る側と成る事が正しいかは別項にするとして。)それが世界全体にも渡る均衡の取り方と関与だとも言えるのではないか。

全てを光の存在と体験価値へ融け込ませていく私には在していきながらも自身問題に拗れひねくれ、それが悪循環を生み出しているというわけでもない。 こちらの原因以上に(人間都合などに上手く合わせられないという自分の側の原因と、それを嫌に感じる一般感性との分離は仕方ない部分も分かるが)それ程に責められたり否定される程の事ではないとは思う。 それでも彼等の問題の解消点とされる事は(大切な役目や徳への業と必然であるのかもしれぬが)避けられぬのであろうか?

打たれて来た事により、その人の気持ちへの思いやりよりも、それは違うんじゃないかという方を優先させたくもなる僕の側の過剰反応よりも、それ程に害されているわけでもない人為性内の判断で動いている人々の方が過剰反応し押しつけて来るが、それは良いのか?と言いたくもなるのだし、それも外れた者を打ちたくなる divide & conquer の洗脳の内に人々が在る故からの弊害に対立,疲弊させられているからでもあるのは分かるが、対立してでも言わねばならぬ(絶対の必要ではなく流れの為や自身の納得にもの)事や試しは愛の存在として流し去るだけでなくありても良いのではないのか(全てが有りて良い意味でなく統合に近い基準でも、つまり聖者の言葉の指摘面であるも良いというように)?

統合と肯定の境地に在りて言葉を必要ともせず(遊び的な交感以外は)愛のみに在するとは価値であり叶えられた宝玉の至福ではあるが、自身に宿された言葉での役割が、その時の自身に感じられたままに起こされたならば、(潜在に繋がりたtolking circleのように、他者の流通に聞き取りた流れの中でも自分に感じられた言っておこうかな?という事は紡がれたままに置かれても良い(それは置かれなくとも良い遊び方の選択ではあり、自身が為さなければ他者が行うへとも減らしゆきて彼等の業の達成役割や変転機会を奪わず与えてやる事も大事だとしても)だろうというようにも)反射的にも選択し行うが良いのだと思う、その選択への自身を存在の現在過程の置かれ方と共に磨くゆくのみなのだ。

No limit, No rules. Freedom ! But fusion to the integration, for the common truth of this world deeper consciousness !

突然に頭の中で涌いて来る鍵となる言葉,ホイジンガ、そしてホモルーデンス。 調べてみては思い出す。 遊びによりて進化する余地が発展して来ているとも同時に消えて来ている、そこにも質が問われる。

ホイジンガは遊びに、「緊張、平衡、安定、交代、対照、変化、結合、分離、解決」などがあることに驚くのだが、これらホイジンガが列挙した言葉は、ぼくからするとまさに編集作用の特色というものである。ただ、ホイジンガはそれが編集作用であるというよりも、あくまでそれが遊びだと考えた。「遊びはものを結びつけ、また解き放つ」 text by 松岡正剛

普通など無いと言えるとも、その共通,普遍,統合の普通はあると思いて探すと共に、私はそことの近さを感じ自身がこそ(誰もがその者自身の普通で在れば良いのだとしても)が普通であり現在世界の他者が狂い過ぎているようにも思っているが、その基準への方向は示されても義務に化されるへは私すらもが拒否する。 例え共生と幸福への道であろうとも操作,強制では駄目なのだから、そこへの囚われは身近でも遠くの人為や人間に対しても捨てていく中での共有の在り方を、為さずと為すの適合においてものように磨き築く必要があるのだ。

そして私は意識的な転換性のみでなく物理的にも気付いたバランスの崩れに対して、顎や顔の筋肉などもだったように最近では目の焦点のずれの整合を取ろうとして動かしたりしているようにも、均衡を試し続けている元からの性質に日々を生きている。

けれど魔法的操作も人為かどうかも結局には関係がなく自分がどう思ったか。をやるだけがあるのでもあるにおいては、その質を共通的本質への統合での普遍的な普通への自由や遊び方として自分たちの良い方や相乗へ突き抜けていくに在りては、他人の決めたルールや常識に縛られる事はなく、(合一への連結に置かれる自身をそことの適合へコミットするは大事でも)科の語源のようにも結ぶと縛るは絆とも同じく世界の連なりの奇跡と自身責任を放棄できる(勿論それを為す自身の責任はあるが)楽さでもありながら逃れられぬ運命の縛りと、感情や知性ありて痛みもあるのに為される以外の選択肢がないという哀しみの同義,同一でもあるように一体が私たちに運用されてはいるにも過ぎない我々が在るのだ。

地獄への道は善意で敷かれている。というようにも誰もが自分の最善を為そうとした結果の何処もが悪くなく人間的選択として(キューバ危機でのソ連は米への対抗措置だったし、又は"博士の異常な愛情"で自身に出来る人事を尽くした一人のカウボーイpilotによって滅亡が起こるようにも)そうせざるを得なかった1人1人の結果が必然的に繋がってもしまうように(そこにも最善というものへの人為の質や置き方が問題ではあるのだが)どうしても繋がってしまい為されるしかないのだとはしても、しかし自身の意識は自分が正しいかは分からず測れず振り返り、押し付けぬようにとも気を付けていなければならないとは思うのだ。

人々と人為なる必然により引き寄せられていく連関の影響は(私達には)計れないように、俺たちは役割上の駒なんだ。 流れが私たちを、演じているだけなんだ。

未来を感じる時は用心が必要だ。喪失への恐れは暗黒面につながる。(by star wars)のようにも、与えられ起こり来る流れを受けるまでのみの我々ではあるとしても、欲望へ取り込まれるマインドの苦しみを経ぬ(不安や怒りからの現実の生起だけではなくて)過程を常に歩み至れていれば幸福ではあるが、流れ受け任せるのみの充足は心や現実の状況にとっては難しく、また欲求とは区別されるべき流れを感知した事からの期待であるによる動きを抑える必要は(それを為す一因子として)ないのだから、(人々はそこに区別が付いていない。)では流れによる期待は欲求ではなく又は欲求と感じ向き合いたところからの感覚のままにも気付きゆく事との区別もは出来ず一体である上に、それが流れからの必然か欲望や自己の囚われからのものであるかの選択にもかけて選びゆくに未来は流されていく、現在への交感に在る。 この過程を持ち、向き合い見い出してゆくのだ。 流れを感じ触れゆくが必要なども最終的には無いにだとしても無を知りた故での如何なる現色に帰り来ては行うか?へ化すか。が我々の生命の旅路に与えられているのだから。

~10/1~

I'm the one of the (force that) love & light in enlight. I'm a art of being this life in total creation. I'm a presence of this moment which in eternal wind over blow.
Univerce is birth in now on this nature flow.

I'm the one of this perfection grace of great mystic & spirit relation. How wonder & amagings is in our precious circumstancies. I'm consumes for this taste of life & it is creation of natures our selfs.

私はその自然の流れ。 一体に在りて吹く愛と英知の既なる象り。 高くとも引いていく水のようにという声にも応えて、弱きものたちの柔らかさのように、自然が起こしていくに在りて従い為されるがままにも化されゆくという道もの自在を問う存在。

人間に合わぬとも、私は真実へ向けて生きている。 それが幻しかもしれぬとも私には、そこへ生きたものとしての納得と歓びが報奨のようにも揺れていくを為され与えられて生く在り方に存在の風を吹かせて、自由に翔ぶ世界を虚空の味わいと共に。 状況によりて 左右される弱さはあるが、自負と自信の無さの両義を抱えて(しかし高慢にはならず)自身を通して善き世界へ向かい現ずる事へ願うとも灯して、求めるは愚かだがという人の声をも上げる。 私を越えた私自身が既に私を知っていて全てを総ているのだと知り任せると望むの狭間にも私を打ちている。

合わぬなら別に共有しようとも思わず離れているもは良いし私にとってもそれは当然ではあるが、排除的に否定や無視したり打たなくとも認め合いた状態で進む事は人間界には出来ぬのか? それがこの修羅なる現況世界からの故だとしても惑う人々の、強制,怒り,受け入れる者から奪い,何処かへの歪みを作り出さねば気が済まぬ性質と経過の結果を持って現ずる世界の相へ、そっと提起も出来るのは、自然の徳や美を置くに解いた聖者たちのような提出の在り方を自然の私に為されることか。 ではそれが成るかへの均衡が私にとって取られていくかは知らぬとも、その存在は詩のようになるのだろう。

安易な道ではなく私は真実が欲しかっただけなのだ。と歩く道の上にも咲く花の残り香のようにも悠久が渡る時の流れは、人為を越えて逝くが如くに、吾は独りとも人為から離れ、しかしその存在の流れ方と姿を世へと映すへ共闘してくれるような仲間と出合いゆくような現実をも望むのは現実化へだけでなく、その孤独や人から打たれる事が痛いからという私の弱さでもあるに、この哀しくも生きねばならぬような人の悲哀を背負っては共に生き相乗される世と象りの為され成される事へもの想いを望みてにも吐くのだ。 そこに付いて来てくれた、あなたは(未来が何処へ流れるかは知らねとも、少なくとも今は)尊い

俗化ではなく、これもまた高く突き抜けていく私の為の、しかも幸福に歩み生きられるようになった結致点の(過程の一経過点だけでなく)流され方であるのだと思われていたい。

共同の為の共有の難しさからも離れた案寧へとも渡り離れて、では均衡を生む為にもと行った、私によりての問題が生み出される時もがあったとしても結果などを知らず為されるままを受けては為されるを恐れぬ私への力ともなるへ神のような流れの威光と導きを私へとも果たせよ。

しかしそれでも、人の間に在りては抜けているしかない孤独でもある時の痛みに耐えねばならぬ事は(もし少なくなるとしても)あるかもしれぬとも、孤高は自身を持って実在へ向かわせ突き抜けていく能力と証明(孤独が故に超越であるという証明ではない)でもあるのだからに、俗世へ交わらずとも抜けて生き、しかし人との交流にも実のところ(打たれなければ、又はその現実的な疫病や関係間リスクの問題との考慮,均衡は取り、試すが。)私はオープンでもあり閉ざされてはいないが、打ち来る人世の強制に、添えぬばかりのものもある。

(以下、10/3,write。)

共生への歌となる代弁を愛と幸福の充実に吐き出されゆく自在を叶え深く俗と聖や性をも一体に結んでいる新しい人間となるを歩みて、停滞なる流れあり来たと見えた時にも意味つける事をも超えて(意味つけの遊びと納得を得るへ経るも私と人間の肯定だが)釈然と、その生に在りて顕れた私を行ゐ為されよ。 その如何なる状況の中に在りてもの私は、しかし私の究極と目標へ向かい為されるままの必要を為されているだけの信頼に任せ、それを受け取るだけの私と成るを行う。 そして為された全ての生に、その者を生きる以外の優劣はないのだと知りて私への宇宙の最高と最善を為されるへ流されては生きよう。 その悟りと全一へ私は既に生きられてもいるという過程を負いて、全てが仮定の生存世界に紡ぎ出される詩と鳴き啼いていくように。 凪の静穏と寂清を身のうちにも、語ろう。

いとをかし,かなしけりなる,わかたれも,虚らいの余みを,やどしさざなむ。

(なんともののあはれであるか,哀しみもの私も誰もが,虚空から拒来し天の味わい(甘み)の余りを宿しては揺られています。)

べくならず,みちたりるへの,幾とせも,吾にへ割れた,たまのよろずに,瀬からも発した,いくばかりなる,早生(ワセ)のみのりの,観月のころ。

(すべくことなく,満ち足りるへと幾つもの輪廻の生を積み重ねられて来た,万化され象じた私への分霊は,世界の際(心のだけでなく場所や時の節でもある)から生じて経過し,幾漠かにも収穫の実を得ているような秋の望月の頃でした。)

こひならず,さりけれどもに,君を乞ふ,あらむこと(ける)なく,こへもなくとも,

(恋ではなく,けれどあなたを乞うを拒否もせず,例え声もなく告げずとしても。)

うたかたの,みにも浮かぶは,ひさかたの,想ひもめくる,あまつにほひか,

ひとの世にわずらへば,ぬけでるわけにもいかず,おのず然ずる,わくみそらみゆ,この身かかへて,ともいきの,あなたをも想ふ,ひとりしずけき,月なき夜の奏でに,

ふつつかではあるが(文法も疎か)突然に始まってみる和歌万葉のひとひらに触れる時間と、そこにも在れる存在もの、何と豊かなことか。

漢詩
長大な自然へ求めしもの多く,愚かにもさすらいては来たが、今はここに在り至り,山ありて平原に差す明かりは暁を破り寒さは苦手と言いながらも身に染む空気に火を燻す。 この贅沢さが得られる為の長き道のりであったと振り替えるように語れる日は私に来るのであろうか。

灰塵の自在を世にも観ながら何も無き無為の一人に還るへと,引いていく在り方に叶うも夢を見続け心も揺られてもいる何と私の凡夫であろうか。 なるように成るしかないと鳴く中で泣きもする心と存在の吾のみを抱えて非情の時と生命を渡る調和へと祈りを渡す世界の経過を見続ける者の歌を謡う。

無常の常が揺れており、一なるものなどがない唯一もが在る。 私は私を超えており、私は私のままで在る存在~presence is all~だけが世の流動の震えにも起こる。