junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

155 10/25

155 10/25~

幸福(物理的)に真の幸福へ深め達する。と同じく、楽に在りては自在に為される私を目指すへ(傾向,性質各自の方向を)設定し私に目指し想うは、私と世界の愛,光,真の幸福,歓び,調和,共生,自由自在,の全てが自然に完全に最高に果たされ生かされ叶えられ輝く生命瞬間ごとへの立ち会いの現在と交感への感謝と充足の(達成方向の)存在へ生きること。

僕において話す能力しかなったならば表現者として社会に認められ、その場を与えられなければ成されにくかった(全く方法が無かったわけではないが)ように、書く事から話せる事へとも向かう現在の過程性は(その結果が本当に出現するかは分からないとしても)僕にとっては良かったようにも(現在地点から見た判断ではあるが)思われる。

たくさんの足りぬところや偏りもあるが、実にバランスの取れた存在へ辿り歩みているようにも見える私の現化体を通して言われたい事とは様々なバランスの統合者性がある中で、これが最高(私への最高、ではあるが)の到達だと言いたいのではなくて互いに絡み合う各自の役割との中で生きているに偏りも含めた自身同士を置いていくという価値や何が統合的で優勢的な人間の姿と到達性であるか等といった人々の判断や思い込みを解く事へ働きかけられると嬉しいとは思う。 そして各自そのままで在るを認めながらもその、そのまま。の質や形として原生的文化の担い手たちの存在性に関し向かいて生きる姿のような自然の価値や人間的善性の方向へも見い出しては本質的な生命使用性の復興にも響き繋げられたらと思いもする。

進化の自己言及性のオートポイエーシスというシステムにも組み込まれたホロン(全体を構成する要素がそれ自体、全体としての構造をもつ場合の、要素,部分としての一つの全体。全体子とも言う。by wiki)としての各部野素子としての我々が在りて、この恒常性(ホメオスタシス)の一環を形成する触媒と機能している。 それを私は、私たちを種子や全体中でのミームや流れと連結の媒介などとも呼ぶ、大いなる流れが全体に一致して動き連めかれ繋がりているにおいての私と全ては一体の運用であり、連動の起こす流れを時間という経過に視てはいるが、その流れさえもなき振動的現象だけが全体にも貫いている。


(以下3段,松岡正剛氏の解説文,)<
動的平衡システムとしての生命系は、入力と出力の流れのなかで持続的に、ゆらぎを解消しながら自己維持するシステムたらんとしている。

生命系の各構成要素は全体を維持するための目的によってそれぞれの位置と機能が示しあわせていると見た。そこには、部分は全体に関与することによってのみ機能する或いは全ての部分は互いの原因とも結果ともなっている。

(エントロピー相転移)
階層が安定しているとき、生成のプロセスの産物そのものが生成プロセスを自己触媒的に調整しうるというのがハイパーサイクルで、ここでは自己複製的な構成素の自己とシステム全体の自己とが重なってきて、そのことが階層分化を促している。 これらの自己組織化理論は、ゆらぎによって新たな秩序の形成がおこるということ、階層は自己生成されているということ、そのようなことが可能になる自己の境界の決定には非平衡開放系という状態が関与しているという見方が有効であることを天下に知らしめた。
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11/1

僕において映し示し出されたい創出とは、存在そのものの生命に映り込んで来る本質的な質のようなもの。 だから僕は自身を撮し、そこに宿る価値を感じさせたいとも思っているのだろう。

熊谷守一(勿論上手さもありてのものだが)の示したものとは、その創造物においてのクオリティによる評価を基に残るか無駄かを判断されるのでもなく誰もが、その者であった存在の質によりて判断,評価されるような芸術の形を生み出したのであったのかもしれない。 (如何なる判断をも持たぬというのではなく、その創作物自体より、それを産み出した者の存在性と質が問われるという事ではあるが。)


年を取る(どの感性にも、その時の価値と貴重さと真実が在る。事において、優先化区別~priority~されるわけではないが)事は、実現出来る手段を備え(しかし技術的な面での意味だけではなく)違う諸相事物を生み出すへもの俯瞰的な本質と思われる視方への高みへ進む経験を深めながらも、子供のような純粋で直感的な洞察の感性もを鍛え率いていられる経過体であるにおいての創作的段階や師事される導きてと成り得ていられる価値も有る。

思いついた自分にとってのアイディアを試す事がクリエイティビティではない。 欲求と本質的感覚に明瞭な垣根が付けられぬ(付けられるかもしれぬが)ように自身想起の追求を全くに否定されるものではないが、やれることはやろうとすると同じく、それは資源や生命の消費的な活動と拡大へ(消費と創作に区別なく一体であるとしても)費やされてしまうどころか、ほぼ本質的なものを生み起こさない現在経過までの人類性に対する方向性への警鐘と提起だ。

何が本質と言えるものであるか、への一つの基準として歴史的な転換の意義が有ったかどうかは(picassoのように)(ある事もあるが)結果でしかなく、それが基準なのでもなく、如何に苦しんだからや熱量というのでもなく(結果的にそこに含まれる事もある)モディやゴッホにも感じたような、その存在の質を数値化する事は出来ない。 又そこでの差別化を進める事は、その存在への正しい対価を得られる為には良くとも優性や優勢的な判断,区別に使用されても良くはない。

血脈的な優性性というのは(dnaが証明したように)(しかしその差別的観点と判断は人間と時代による価値観に制限されたものではあるだろうが、ここでは人生に深められ継承されたものに深められたものは在るという意味で、有るを)認めざるを得ない。故にも文化的に高貴な血筋というのも有りはするのだ。が、だからといって例え優先順位を付ける必要性が有り来たとしても(その時に、文化的,進歩的な素養を優先させるというpriority付けは確かに有効さも有るが、そこだけでは汲み取れない多様の中からの価値はanomalyとして取り込まれる以外には必要ともされず)、排除される大多数の一人一人が持つ人間的感覚の価値は捨てられ遺棄される事が正しいと言える(彼らはそう信じているのかもだが)選択であるのか? それは、それ以外の選択肢を始めから放棄されてしまっているから故の選択肢への彼らが肯定ではないのか?

11/4

情報管理された部分以外に出て来た情報を放置しているのは、陰謀論などとなった方が信憑性を薄らせる効果もがあり又その点と点を結んでも全体を結ぶ決定的証拠にはならないからでもあり、それがあるという事を臭わせ示しておいた方が力への恐れと絶望,無力感を生み出せるによって反抗力を押さえる警告(ブラフ的な面でも)や排除力を生めるからでもあり、(それらは最初からの計画だけでなく結果論への用い方と力側への吸収であったかもしれないが)又は内部者からリークされぬのは、やってる本人たちが(洗脳的教育によりても)正しいと信じているから。だけでもなくその状況自体が、リークされた所で人間社会的な運動や現象化への末端でしかないに終わり、そんな生命かけた結果がタブロイド的情報の一行的な人々の娯楽刺激の一端でしかない(大多数にとっての無関心と関心は情報的消費材でしかなく、それは特別な関心者たちにとっても繋ぐという娯楽作業(そこに意味がないとは言わないが)ではあり、それ以上の力とはならぬが大半以上の常ではある。)無意味さを、結果としても自然に教えぬとも雄弁に物語っているからでもあるのかもしれない。

ではそれらとの対決や否定による提起手段ではなく、直接的利害同士の(幸いな事に、やられたから対抗対処するしかないという状況には(社会や人々の世界から間接的には打たれているが)陥っていない自分と状況の優位条件~advantage condition~を生かして)その部外からの闘いであり、しかし融和的な提起の在り方へ向かう事へ自身の生かし関わり方を見い出してゆく事も出来るのではないか? (それは例えば意識の進展へresourceを用い、破壊によらぬとも進められれば地球には同居しながらの黄金共生時代と誰もがの利益を生み出せるかもしれないというincenriveづけを与えるように)相互と全体の利益への融和,統合的な方向性の提示を持たらす事も(例え政治や発言的な関与の自身性へ基本は置かず、その存在の方向だけで在るに世界へと関与するのだとしても)結果に繋がるかは分からずとも目指し得るようには思う。

しかし彼等が、破壊の故に天国を作り出す為の活動と信じきっていて正義の為の悪を為す役割と使命であると自覚して(その後の栄光もしくは泥を被る,つまり天使へのルシファーの帰還もしくは悪として罰せられること)を分かっていてもの覚悟に行いているのなら誰もそれを否定も判断も排除も(対処も対抗もせずという意味ではない)出来ず、彼等が問答無用に彼等の計画以外のものは殺し奪い操作,管理可能下におけば良いと納得,割り切ってしまいているのならば、そこに為す術もは無いのかもしれず人間的な心への働きかけもは、彼等もが持つ信仰からにとっても意味を持たぬのかもさえしれない。 それでも、そこに如何なる提案としての自身に成り得るのか?は立ち会いゆかれる価値が(結果への意義があろうとなかろうと)在る。

こんな時代でも生き残れる素養を発揮し、自分等を守れるか?へと次世代の種となれる者の自動的な選別へ試されているのかもしれぬという可能性もは有り得てもおり、そこへ金持ちは資金投入し易い事や貧しくとも意識的にそこへの自己努力や資源投下して結果的にパンデミック宇宙線などの遺伝子変異にさらされても生き残れたならば合格というような基準もが(あまり他者へそれを分かち伝播させ、つまりその総量を増やさせないならば良いというようにも)有り得ていないとは言えないのかもしれない。 しかしそれでも、生き延びては次世代種子ともなる意識の進化と生活状態の共生的進展への過程を灯すへの活動や関与や提起へもの私には成りていたい。

そしてその傍観性は私達のみが生き残るのだというような傍観性へ抜けた者たちとは違い、世界への直接的な対決性などからは抜けながらも統合でありながらも且つ共生的相乗の幸福可能性へと(それが本質かも分からず囚われかもしれぬにおいては自身にも問いゆくとしても)向けてゆく生き方としての挿し込むような静かで存在基盤の故からの提案と関与と闘いだ。

愚かで変わらぬ人間というものの全体量を減らさなくても良い状態を想像し目指す事も出来る方向性として提起する事は出来ても、しかしあらゆる全包囲的データや情報の統合と結果が(過程的連関の意味合いではなく結果としても正しい)否応もなく、人類の縮少が必要であると(洗脳性以外の真実として)証明されてしまってもいるのだとしたら如何なる提案もは無意味となる(自分にとってだけでなく伝えようとする他者内での意味合いにおいても)議論または可能性の掘り出しと研鑽もの不可となるのかもしれないならば、共生的過程などを望み判断する小さく愚かな人間的知性の私が既に無意味で対抗力としかなっていないのかもしれぬ私こそが、正義という判断と愚かさの代表でしかないのかもしれぬ。

11/5

しかし私は、自身の真実と自由を願い統合の共通と共有を求める。

救い難い衆生を救う環境,時代,文化的な背景の転換によって、根本は変わらぬとも生命の質に関する時代を進める事は出来るかもしれぬへの希望や可能性の提案は可能なのかもしれぬようにも、それが共生などへの囚われであり正しくないのかもしれぬとも分からぬのだからにも、そこへ資する私を置いていこうとする現生時代の私での関与に在り行為しゆくもが亦良い。 その行為の内容を、存在と愛のみの方向と実現に拠りてもに堀り出し対応し実現しようとしゆくもが良いともするのだ。

その瞬間にしかなかった奇跡に気付いて、それが過ぎ去ってしまったならば又それも良いのだけれども、ではその時すべきものがあるのかに気付こうとはする事。 それを流れに乗るか合うか等とも呼んでいる、その意識での気付き以上にすべき事はない中での、ではその選択や行為(動作だけでなく、そこでの意識の起こり方もである)へもの気付きへの立ち会い方ではあり、(つまりは気付くのみの立ち合いと、その気付きによって何を行うか?においての)主眼は流れに乗り行い繋ぐ事(動作的行為に起こる結果性,それは副次物であって)よりも、単純に世界との交感媒体と化した私存在で在るを生きる事とも言える。

つまり存在に感じ世界に明け渡され流され任され行わずとも生きる事の基盤へ捨てながらも、しかしその感じたままの自身を何ものにも縛られず、生存のみの創造と生存からの創造自在を繋ぐ私へ向かうがのみであり、それは愛の実存化によりては起こる方向と自然の私化された生命の形と世界の奇跡だ。

制限の中での遊びや創作の生かし方などもは(締め切りありてに追われなくばやらぬ人の基本性質のようにも)確かにあるが、人為的構築性の縛りの増大化現在から抜けていく自由を、私は私と全ての生命に求める。 それは自由選択の意義や価値の事ではなく本質統合の方向へ向かい生きる事が価値として在り(各自の道のままに)育まれる生命の、自己最少にも受け取り行い流れながらに自由に感得される自己感覚のみに奪われずとも生きられる最大化の事であり(それは本質の為の自由な現況という意味でさえもなく)最少の充足へ向かい触れて生きる事との同時にのみに在り得る選択,行為,生活,状況と自由の同居の事である現在の私のような生き方(それは仏教的な減らしたからこその、それ以外に道があるかは知れずとも肯定のみになれたらば心の自由と充足は成る。という意味への制限でもなく)を(各自の歩みや性質のままでありてもを)往く状態であるを知りて来た事での説明でもあるのだ。

私はこの生存で在れる事を自身にようやく認められるようになった。 私の真面目さは破壊と壊体を通さなければ至れなかったであろうように、疲れが故に休まねばならぬ状態から、気持ちが良いから休もうと認め在れるような心身状況となれても来たのは病気と制限からによるものでもあった。

苦しみは成長の為の必要ではあるが唯一,絶対の道ではないのかもしれず、しかし共生的状況の現実化による享楽性のままでは真の進歩は制限される新たな制限でも在るのかもしれぬが、ではそこを技術が埋めるようになるとしたらばその変容は如何なる程度のものとして認められ人為的構築性を組み込み生体的連関からの離脱を認めるというのか?

欧州の一部が意識の進んでいるというのも人間の根本が違うのではなく単純に、社会の成熟度としての周りや環境的な因子によるものも大きい(勿論、自個が立ちているかや、自身等で作り上げて来たものの経過の違いや進歩の度合いは有るとはしても)に過ぎない。 その場所の波動的な要素は(長野では良い活動や先進さは受け入れられず後追いの中間的な心地好さのみであり又は続いても、それらも小市民的な繋がりと生活以上には開けず吸収されていくのも、しかし爆発力はないが落ち着いている良さのようにも)それぞれの場所や役割の必然性や多様の分担があるにおいての否定はなく認められているべきであるが、その 各地の性質,波動や多様独自性にありても共通である統合,本質的な意識の開花への方向と生命へ繋がりてゆく事は求められても良い。 それは人間界の諦めと投げ出しと共に捨ててはいない関与性と同じようなものとして育まれた各地の多様の中からの良さを取り出しては伝え繋げる交易のような交流への流通を担う意味と価値でもあるのだろう。

日本人の変容は著しく激しく洗脳的な操作が故のものでもあったが未だ独自性を残してもいる、そこに在るvalueのように退行と進展は同時でもあったのであり地求人となりゆく素養を身にも就けて来たとも言えるのだ。 それは田舎の洗練なき固着性や縛りと素野で和やかな温かみとの両方を知り越境しては共存しても在る私のようにも相反と共存を同時に受けている解体と進歩への過程取りが絶妙に行われて現在に結びついている(保守,懐古性としてでなくて)奇跡の世界の連関結果が私化や現時代化されているを観てはいるのだ。 それは全ての時代と段階にも顕れるものではあろうが、現在此処に結び付いているものが既に大変な奇跡の煌めきであり、流れ去ってしまうのを勿体なく感じるように立ち合う妙智の観察へ生命現在を費やし吐き出しているとも言える現状況化なのだ。

最近の若い者はと言う視点や判断は確かに浅はかな自身等の作り来た状況への保守的反応である部分も大きいが、それだけではなく実際に生命的な本質性や交感能力などでもの経年劣化が起こりている事を感じる事からの警鐘であろう事にも目を向けねばならぬ双方向同時の真実を視い出している視点が問われ発出されていかなければならない。

全体最適解においては正しいかしれぬとも個別最適解においては犠牲にされる現代の不自由性が、しかし個別自由と効率の最大化へ技術が向かうのならば、そこには独存へ繋がりを切られた生存と性質が育まれてもしまう。

では不便さは確かに世界との自身,生体,感覚的な交感と流通を生むが、しかしそれのみが正しいとも僕には思えない中で技術の正しい使い方であると思われるガイドラインと不可侵な規律性が構築されていかねばならぬとしたら、そこには又も自由以外の制限と罰則,武力,管理などによる規制性が生まれてもしまう。

人類の進み得る道は現在から全く正反対の分岐であるが、その方向を選び得るのだとしたらばstar trekは一つの解だ。 しかしAiとの融合が押し留められたとしても環境や状況への適応の生体は変化を避けては通れないであろうとは思うが。 いづれにしろ人類は破壊文明ではなく、その任を受ける事も出来る才能もあるが、そうした方向へ生かし得るのか?への、このようなfictionの力にも(それが本当の未来予想図ではなくとも理想による現在の道呈の為へ)描き示す事は出来るだろう。

11/6
しかし例え黄金(期と呼べるような)文明が起こり得たとしても共同体や文明圏の自衛問題と同じく、その自足や共生が外部からの又は内部からもに侵害されるかもしれぬ可能性があり続けられているのなら、そこに武力,規制力を持たせておく事は、例えその場が共生的でありても周囲世界が破壊や混沌である事へ放っておいて良いのか?等にとっても同じく必要ではないのか?

それは現在の覇権国家的な統治下に置こうとする動きではないとしても、良いものと(という判断だが)思われる達成を他文化と共有する事や破壊を共生へとグローバル化させるユニバーサルな統治機構へと拡げる動きの必要性も認めるものでもあり、逃げただけでは暴力や搾取の力を止められない(最低限に可能な手段ではあるとしても)のだし、追放では破壊者達の共同体や他文明への侵略主義の助長へ力を与えてもしまい兼ねない。 ならば有効なのは管理,執行の武力と、それを背後にした交渉力の担保などでもあり又は罰則の持たせ方などでもあるのだろうが、個人の死や個我が希薄になった世界での個人的選択への責任の持たせ払わせ方などもは希薄化し(支払い義務などによる責任は国家的仕組みが保険的に肩代わりもしてくれる中で)制限力にならぬばかりか、死刑という個我と個に属する記憶の削除や刑務的な奴隷労働という極端さを排除するとしたらば、そこに残る期間による服役などとは現在へ関わる可能性は失われるとしても未来へのタイムマシーンにも過ぎなくなったり(冷凍保存や情報的関わりの禁止によりても、しかし独自生存可能な生活環境下で生きるに慣れていて、しかも人権侵害されぬ状況であるならば)し、ではその更正への動きとして思想強制する事もなく又、自己断片化したprogramの(記憶や継承)ミームを増殖させぬようにし自然的経過を人為管理に抑制する事も等もは、一方からの強制的な執行力(例え、それが間違っていても多数や全体の最適解と思われるものへ個人を抑制させる武力(自体ではなくとも)のような強制力)を是認してしまう方法であるとして完全な方法とは(過渡期の理想状態に寄与したとしても)成り得てはいない。

意識の進化と、そこへの環境的整備,進展が備われば、それだけで自然に触れさせる更正,交感の生命力を取り戻すへ育む事や北欧(スウェーデン)のように柔らかな刑務の方法は自然にも在り得るが(又は決定的な黄金文明への転換などもは得られ得ないと諦めての一旦現在ごとをbetterへ歩まていく実験にしかないのだとはしても)その人間内部に内包された根本を、決して繰り返さぬ状態や絶対非侵害の文明へと徹底的に帰化,帰属させてゆくには不足なのだとは言えよう。

例え経済至上的な主義の原理から、価値が転換されゆきたとしても、それだけで解決されぬものが有る事への考察であり、それは究極の到達点を求め過ぎなのかもしれぬとはしても理想は描き求めなくば、そこへの可能性も示せぬし特に私は自身にしかと理解されているもにでなければ自信を持ちて伝え提案する事などは出来ぬのだ。

与えるばかりではなく罰則を与えたりする文明の方向などもは次の世界の姿への現在岐路においての伝説的な継承方向性に宿りてしまうかもしれぬように、私はこの思考実験によりても見い出されるprincipal的な指針を自身化するへ創り出さなければならぬという(それが本当ではなくても)自負を持ちての世界への立ち会いとなりゆかねばならぬ私に立ちてはいる。 未来の思想を私に宿さねば、それは示し得ぬミームなのだから宇宙的な視点での文明の形を見据えてに拠りての提案となる必要があるのだ。


究極的には肯定主義であるように愛のみの一択ではあるかもしれぬが、それを必然性に任せたままだけのような自然至上主義として人間や生命種の運行や宇宙の2極相反の働きのみへ任せて殺され奪われるも認め居るだけで良いというのか? 自己防御もが無き逃げるのみの文明の姿と破滅的文明種の拡大を阻止する事もなき放り出して(侵害されるかもしれぬ)束の間の現在のみを生味わいて生く事のみが正しいと言うのか? それでも自己と、その共有,共通,共鳴関係者との間だけで流通し高める意識と存在の力だけに在りて向かう事だけが、私等に出来うる事の(行為面でもの)全てであるのか?

又それが例え如何に本質に近かった事へと寄与する手段であったとしても、金儲けや消費材生産への才能はクリエイティヴではないと判断なども出来るのか? 全て能力や性質は与えられた恩恵と役割として為し果たそうとすれば良いというものでもないが、現世界と人類において搾取を基にした又は搾取でなく平等な機会の分配などへと向けた動機でありても、その経済,政治,交渉,デザイン,情報,編集,戦略,実際戦闘への武力や管理etcにおいてもの能力によりて動いている社会の相や各自の才能があるのならば、その組み合わさりと連関における意味合いが進行されてもいくのであり、それらの能力を成そうとさせぬ方向ではなく良い使い方と思われるへ転換させていく事は、(僕の創造を経済的な流通にも乗せるのか?への囚われとしてではなく抜けていながらも)有りても良いようには思われているのだが、それでも経済的原理を全くに利用も価値付けへ力貸す事もなく離れて対価をも得ぬような自存の在り方へと向かうがのみが正しいと等と言え経済的成功に拠る経済以外の価値への提案,転換でさえもがなく、脱した最少自由性の塊となるへばかりへ己を用い使うのだろうか?

生み出したものにより対価を得るのではない社会原理と成りゆけば、しかし貧する者を減らしたとしても、自身を生かす(自身と生存のみによっても生命の価値は尽くしているが)事によりて富める権利や得られる可能性もが潰えてしまう。ならば、その報奨や報酬系を刺激せぬ動機は自己の創造と他者との共有,分配というような依拠へ(それを通した承認,自己確認欲求へとも)依存する事ともなろうにおいては、それをも抜けねばならぬ面からすると不完全なのではあろう。

僕は自身に行われた存在と結果を持って、その他者からの承認面にとってもに人から良い方向に導かれたなと思って貰える意味で、感謝されるような人間になりたい。 つまり承認欲求であるかは分からぬが、(それを外したとしても)陰徳を積むばかりでなく実際的に、あの人は良いものを私や世界へ産み出し与えてくれたと思って貰えるような、実際成果の結果を出せるような人(と、その創造)と成りたいと思うのだ。

それは金でなくても良い動機ではあるが、皆が同様に自身の求める必要にとって自由を開出し最大に生かせるようになれる恩恵を平等に得られ富める事を望んではいる。 その新たな社会原理(原理など必要なくとも人間界には必要とされてもいる)を人間各自の方向性や模索方向へと照らす為にもへの私の提起があり、そこへの答えは必ずしも完全に出されていなければならぬわけでもないのだ。

人間界と、未来への現在地点でもにおける価値を生み出す為に現在の私が何を出来るのか? この立ち会いと観察の活動従事や創作,拠点などの求めと流れの他にも費やす事が出来る、私と適合の流れの用い得る方法などが出ても来るのだろうか。とも時の流れに合いてゆく身を浸してはいる。

本当にそうであるかの現実的結果には関係なく、次世界の方向性種子となってしまうかもしれない自身で在るという自負と責任においても、この真実への考察を続ける。


10/14(月)~今後具体の流れ方vision

市内で民泊,即ち長野区に住まい。
or初めから山の拠点で勝算あれば良いが、先ずはビジネスを軌道に乗せる。

翔ぶ為の着実さと、ここで賭けに負けたら又も全てを失う。 これは人生に3度あるという中での2ndチャンスかもしれない。

山と街を繋ぐ場所と、ずっと思っていた。 その機会が、やっと巡って来た。 民泊の 成長産業で基盤を作る。

不動産は落ち目だろうが、インバウンドは伸びる。 日本が駄目になる可能性もあるが、そうではないかもしれぬし、その時の活動関与の種ともなれる。 今が投資好機だ。 しかし資産の投下量や経済的運営の才能(デザインや広報なども)がなければ、軌道に乗せるも難しいのだが。

これが進むのならば、バイトも旅もせず俺は冬も含めて、これを用意し創るに向かいて、もう始められるも良い。 外国人への何かがしたかったのもあるし友達も呼べる。 しかし物件の流れも待ちながら旅に行ってくるは過ごし易さの過程採りにとってもの選択の自在性でもあるのだろう。

物件は街中候補,2軒は有り。
しかし利益率は(5割~管理委託すると更に)低いので、値段設定を高くしても回転し人が来るような立地(しかも貸主や周囲にも理解あり問題のない)そして、売りとなるような付加価値付けが必要。

融資なら,1.2%/年率として4700y/100万y辺りで、500万の物件を20年,23000y/月でpayする。という事らしいが、山でなら融資ではなく数年を賃貸で払い終えた時点で買い取りと同様となる。という条件設定が効くと良い。

戸隠,飯綱or八ヶ岳エリア(又は北海道)等で山が見え広く開けていて人少なく(後ろは国有林のみのような)安い処、が希望。 且つ、川ありて温泉もあると良い。という条件を設定している。 (peru,nzも良い。)

街中であるのなら、自分等も住み込めると良かったり(部屋数必要)特色としてのwork shopやイベントや飲食もあり、直ぐに過ぎ去ってしまうだけの人との交流でもないco-livingが民泊より良いのかも。 山住まいであればartやashram特化も出来るし掃除も各自にしてもらい作務へのpoint制にしても良いし基本はキャンプ場民泊としておくも良い。が、それだけで経済的基盤が成り立つか?ではある。

物販,work shops,ギャラリー,ライブ,山歩き,(ガイド),学校,馬や陶芸,etcも出来、旅しては仕入れて来ても良く、free boxの着物などは祭りで使用も出来る。


僕等-ルール作りと経営管理
(茶,薪,犬馬),

立丘-(管理費人件費,利益回収率,物件,等を聴く。)

kohji(?)-陶芸,炭,

  • 管理人(予約管理,宣伝,フロント,英語etc,リネン,),
  • 交通(夕方,山へ、午前,街へ),tour,

倫子-インテリア,
母-ガレット,薬膳,シリアル販売,
メグ-oil,
文香-massage,yoga,

等で、皆も繋げる。<リーディング>
1.山民泊-感謝し暮らすには良いが厳しさもあり勧められず移動(流れ去ってしまう)、つまり、その経験や挑戦に納得は出来ても経済基盤出来ず。という事か?

2.街民泊-我欲に見えても奉仕となっている情熱的に動きて扉が開く。

3.南米-社会道徳から反していても行動し、それがないと自分らしく元気で輝き生きられない(美徳への学び)と共に欲しいものが得られ行きたい場所へ辿り着く。

以前の占いでは、
8/8~1ヶ月18日=9/26、拠点。
~2年16日=2021 4/24、創作仕事。

もし9/27のakiから拠点の流れが繋がったのだとしたら、創作仕事の軌道に乗りて経済的心配なくなるまで持ちこたえられれば(経済的に成り立たぬとも)良いが、それは宛てにはならぬ予測でしかない。

流れを見るにも先ず(1.2.は置いておいて)は南米の旅で自身が何を感じ得られるか。であれば良い中で見ていけば良い現状ではある。 (しかしその間、進まないであろう映像の編集作業はどうしたらば良いか?)


102頃,8月前部での、私の暮らし現実と具体のビジョン。

家,エネルギー,薪,創作(動画),
聖者,茶(cafe,サロン)(ws),ライブ,
道場,庭,キャンプ場,(祭り)
馬犬,炭,陶芸,

(遊歩道,公園,アスレチック,
忍者(performance),
学校,(美術館,ギャラリー),
観光tour,送迎,映画ロケ地,
半自給,蕎麦,浴場(温泉),
技術開発(空翔なども)etc..)

体力もなく出来る事も少ないが、これらに繋げられる自身の夢に向けて歩める土台となれる場所に入りたい。

これらテーマをまとめて人にも説目し易くするには?

それはshala宿,庭,キャンプ,聖者,寺,カフェ,自給,コミュニティプレイス,家作り,ws,等の中で何処に主軸を取るか?でもある。

生き延びて創作者としての発信へ向けていくとしても、やはり年金以外にも旅用にも金は必要。 ならば先ずは民泊から?

しかし先ずは居住とアトリエ,cafe,イベント空間,庭,薪林,犬etcからで良く、
聖者,創造,場所作り(とイベント)等との生活が出来るようになっていけば良い。 そしてテント張り放しやゲル借りるなどをキャンプに貸すか始めても良いだろう。

が、ベースとなる家はなくてはなので探しているが、どうせ他の場所へ流れ求めて旅に行ける程の金も体力もないし北海道も屋久島も船などで遠いし余程の流れ来なければ今回は、もう何処かへ求めに行くのではなく最少の範囲(県内)で、そして子供たちと近くで足場固めていたいし(創作の仕事で回るような旅にも今は未だ行けないのだから将来の移住を見据えていくにも)やはり戸隠飯縄エリアに一度は住んで、本当に合っているか等も含めて試し知りておいた方が良い。という事で、

やはり候補は豊岡の古民家と森、(湧水跡地や)展望苑などでキャンプ場。

戸隠別荘地(~将来はキャンプ場,スキー場,ガールスカウトの森etcも視野に)。

又は大井辺りの民家,ログ,杏の家辺りや(小川,伊那谷,)八ヶ岳(富士見)、

(北海道なら上士幌,旭川などの上川郡、~八雲,(北斗や七飯,)室蘭など)になるのだろう。

乗倉,開田,飛騨山脈
屋久

その中での今の可能性は、
古民家と森、もしくは展望苑などでのキャンプ場。か(湧水跡地、)戸隠別荘地も。 (大井,伊那谷,富士見)

しかしそれらも潰れていく。
事業計画を建て融資を受ける?

八方塞がったまま、どうしようもないのか?
それとも捨てて将来への基盤の為にも、
出家(台湾,インド,nz)
タルタン寺,戸隠修験。
蕎麦屋林業,竹細工etcでバイト。

求めないことへも又も求める。
死んだと思えば何でも出来ると言われるが出来ない。なら、やり方を他へ変えるか?

それもは新しいやり方と、そこへの希望という欲望を転用してるだけだが、それでも(しかもこれしかないという望みでもなく自分意志として希薄で消極的なのに)現作業も捨てて身体活動にも無理させて他を試すのか?

山の暮らしに移れないなら別の労力と金をかけて生活水準を落としてまでも希望ではないアパート等へ入るのか? それが現実に足つけた、とりあえずの対応なのか?

一足飛びに求めて来たのでもない。 でももう何年もで疲れた。

体力も気力もなく出来ないと思っているが、それは自我と欲の惑いが捨てられぬからなのか?

苦しいのは叶わないから。の欲であり、死んだと思えば生きていられるだけとなる。としても実際の現実が痛いのだ。

環境を変えて身体も使ったり平安方向だけでなくアドレナリン活動を取り入れたりもすることも良いのかもしれぬが、しかしそうした生活状態への望みへは状況は動かない。

自身の行える事、を果たすのに固くななのか? 自身を明け渡して他者,利他の為などへ生命を捨てて生きてみること等なのか?

結果などの為でなく、もっと徹底的に捨てていくのか。

何て欲も業も深い凡夫だ。 こんな生に何でなってしまったんだ。 でもそれも与えられた生の味わいという、悟りの味わい。

凄い創作を見せる事で創造の消費へ膨らますより、人の心や弱さに寄り添える仕事となれることが求められている?

名誉などの欲求の為に追い求めているのか? いや役割を為したいや、可能性や能力を何故に活かせぬや阻害もされる事を認めねばならない?などの欲求ではあると同時に納得への問いと模索。

この作業の為であったとしても心が、依存の対象を変えているだけではあるも知る。

自身への変革も出来ぬのに人へ教えられるようにも(道場など)結び着くわけがないとしても、しかしあまりにもこの自身現況と生活の以外に何も出来ない。

いやこの探究自身が変革と救いへの方法と呼び声だ。

自分も望みもを捨てて死んだと思えば東京でライブ活動などへ向けて生きるも良いか?は、いややはりそんな無駄や破壊的手段へ自身を追い込ませていくのでもなくて出来る範囲でだが(この切羽つまって来ている状況でもの)、楽しいと思える理想への方向に生きてやらなければとヨーロッパでの学びと挑戦の結果も踏まえてにも思う。

では日常の進み行い方においても創作一つをとっても行うべきことは多いが、ずっと疲れているが基本状態の中で、これ以上は良くはならない前提での出来ることを組み立てていった方が良い。


拠点も中途半端な処を手に入れて手を入れるより結び付く最然へも任せて焦らずとは言っても、それでは創作活動や経済状況の叶わねば起こらぬを求め続けねばならぬようにもなるし、現状生活の苦しさから抜けたい想いや緊急的にも抜けなければならぬ必要が迫った場合にも困るのに、このように探す手段の、人,net,不動産屋,直接現地探しetcが全部ダメなら、どうする?

やはり予定建てや家族や南米なら映像作品にしたかった事やパソコン機材などもどうするか?なども全てを捨てて、冬にはPeruへ行ってしまう。が、こちらでの流れ来なかったならば僕の性質的にも求められている不可抗力な流れであるのかもしれない。

旅中の映像,