junna-note

It's notes of spirit journey like my daily recorded that's a thing for share with this world as well.

128 9/1

128 9/1~

愛の存在と在る状態となる。

その瞬間への与えられし生を味わい観入しながらも、心いま此処だけでなく意識で光へ融かすへの気付きを当てていくにへとも流し去る。

離れ、関わる。 流し去り、向き合う。 の均衡と統合への関与や選択の中で、私を愛の存在へ転化する。

全ては最善だが現世利益的な幸福も求め苦がなく、心身の健康,愛の関係,創造の仕事,旅と拠点,富と繁栄,世界と私の,真の幸福,自由なる遊び。の最高に完全に果たされ生かしされ叶えられ歓び輝いています。 ありがとうございます。

神の視点的な俯瞰のようにも私たちを見ては祈り又は、愛と真の幸福と最善へ任せた自身の状態へとも化す。

全宇宙と振動の生命世界根底と魂次元の(横も縦も全方向と包括の)私を越えた私自身が成るを在る光自体と流動に充ちる。

21:21~

未来を先取って書き置くも出来るようになっていたようにも、そこへの現在が適合されていくをなぞり取りて、未来からの光円錐が全てへ渡って差し込むように、そしてその頂点は全てへと満ち拓く光の爆発や遍満へ行き渡るように私と世界の今と過去と全てを照らしている何にも無駄がなく最善でしかなかったようには思える、この一点を到達地の今後へと適合されて生けるを行き会わせ歩み取りて逝くのだ。

I'm walking. I'm walking on my way of life what it to be totally freedom on nature flowing & creation of existence.
(私は、自然の流れと存在の創造に対する完全な自由とは何か、自分の生き方を歩いています。)

私は私への存在と芸術を成している。

統合,適合,均衡,操作,欲求,等もが、ひと連なりの一連にも区別は付かず選択の自然と人為にも宿る必然性(が有りても無くとも、どうしようもなく我々を越えた連結,連関性の必然を起こす流れが行われてはいる。)の質的方向の境界,基盤付けは難しい。

魂的な流れとの関係に触れる必用もなく又は、それのみで良い。 が、やはり流れを受けて流れる事に最善,必然を感じているように如何程迄に自己による選択への観入を必要とし目指し行うというのか? 肯定一つの心と生存,存在という過程を(目標に辿り着かぬとも)逝く味わい自体を歓びへ融かすゆくのみにも在るという創造以外に現実関与の判断,意思,意識と具体なる私各自への創造同士を逝く事や、それを根底,潜在的流通の自己最少や魂次元段階での連結へ関与する自己最大などもの何処に判断と操作を置くが良いと、(消去法的な全て良しの肯定ではなくて積極的な到達目標としての肯定へ見い出し)置くが良いというのか?

意識によりて改善されたい事を最善へ融かし込む光を当てる。 それも欲望ではあり本来に在るがままでを取り戻すとしても、しかし花粉症を克服する均衡を採るのか、現在の人間としての花粉症を受けるという均衡を採るのか。のようにも、つまり為さずを為すか操作への意識と光の当て方により為そうとするのか等の均衡と選択の取り方。 しかしそれは依然にして秘された深奥なる魔術。でもあり、それを感じ生きる為の我等が在る。

均衡と適合の意味合いは違いても似て同じような状態や目標ではあり、流れとの適合を選び感じ行い為し得れば均衡も為されるという程には言われていて良いだろう。

では奪われず与え合う存在の共存、という一つの現化目標地が達成されぬ場合にも
歩む事自体が必要事態ではあり又、如何な状態判断にも取り込まれず何が力へも用いず委ねず使用されず囚われず、それは必然か等にも関係なく肯定のみのままと幸福の最少達成(労力が最少かは分からず却って難しいかもしれぬが)基準へ歩むがのみで良いのだからにも奪わぬ共生世界化などを求めぬが正しいのだとしても、~(9/2)~
どうせ生きているのなら私は共生的な関係や状態を望みてはしまう人間としての形へ現れた喜びでもある必要と欲望の愚かさでもあるを生きて、しかしそれを生きても良いのではないかとも思う面も大きくある。 (そんな事は当然であるのに何を言っているのかと思う人へ対しては無知性であると言っておこう。)

単純で当然にも有り得るような、共生的な相乗という在り方と目指し方すらもが難しい人間というものには(2極性また無限多様を含んだ人間において当然,簡易に叶えられるという意味ではなくて、しかし気持ち良く生きたいね。 奪い合わずとも相乗可能な共生への為の目標と理解の道もある。等を発見し目指し自身によっても行える。という当然が出来ぬという面では)自身の出来る事で働きかけるを求めてもいるが、もう諦めて放り投げてはいる。 苦の循環を子孫や生命界へも創出させたくはなく、その為にも私は私の生を使って闘っているが成るようにしか成らぬへ為されるだけへとも任せて逃げ生き延びては種なるを遺せるへの存在を培い目指し世界への自身こそを高めるにしかないという闘いを続けてはいく。

光を当て愛を送り愛と成る存在変革へ在るだけの私を生きて、共生的関係や自己を生かせる事も含めて種なる拠点必要などの為にも現実化は欲しいが、自己の段階を認識すると同時に如何なる制限への設定もせぬに自身を置く事もが私には出来るへは達せてはいる。

昨日、群れから弾かれるような事は、特に日本人は良く有るし大人になってもだ。 感性的には素晴らしいのだから自分たちの事をやってれば良いんだし、響く人で遊べば良いから気にする事ない。 でも世はそういうところだから順調に行き過ぎるよりも勉強になるし上手く行かない人の気持ちも分かるようになれる。と子にも言うたように実際には他者関係に弾かれたり否定されて気にはしてしまう自分でも言ってあげられる事はある。

しかし自己の感性や感覚よりは、他者からどう見られるかで生きている個の無き日本人の間にある事での問題は多いが(それは真の自己を越えた自己最少と最大化の同時では無き全体主義的な滅私のような質性の違いではあり、日本人は人々に言うように新たな文明へ寄与する能力も持つが、その質は自然,共生,理解と多様自由の上にも成り立つ黄金期の方向ではなくてテックへ吸収された非生体なる自己越えの方向へ転んでしまう可能性もあるように現在は人類にとってもそれは同じく分岐点でもあるのだろう。)海外では個であるが基準である故にもの生き易さはあるが、表層または潜在からのであっても自分を基準とし過ぎた俺がこう想ったのは押し付け押し通すというような力の対立と強者の論理なる世界ともなるように、真にその変革性が為されぬ限りは何処も同じように人類には絶望的な諦め感しかなく、又もし進展へ向かえたとしても、その範囲は感覚的に自由に共生的に在れても真の進化などへは到達していない故に又、いづれ破壊への拡大を持たらす可能性を宿し続け苦のない成長は良い方向だがそこでの成長可能性も奪ってしまうのかもしれぬようにも、やはり私の想い求める世界の現化可能性については期待はほぼ完全に出来ないだろう。

そして真に進化などが出来ぬとも共生的な生存を叶えられるかもしれぬ段階への進化へさえも現在の人間には余程に少しづつの進展力を与えていく位の各自役割や性質に近い所での参与となるにしかなく、(政治もBiも、その過程,途上への関与の仕方へは各自選択への自身状況との関与があるとしても)アムスで思ったように日本も世界もは自身等に持たれた制限によりても今のようなままでは後50年たっても変わる事は出来ぬであろう。 (それは操作されたものかもしれず、)その環境が変わってしまえば享受,消費者である人間たちの社会も考察各自の知性や存在段階も変わってしまう事は充分あるかもしれぬとも、そこへの自力では達せぬならばの過程は災害など悲惨経過への期待を経なければならぬようにもなる。 それは災害や破局と死ぬ者たちの積極的な肯定と人類の業と全体調節の為に仕方ないから死んでくれ。 そして新たな世界が来たら良かった、ありがとう感謝し供養します。で済ませてしまうような事ではないが、しかし災害や破局的結果と経過も全体進展の為の連結であるかもしれぬを見ては、理解なども放り捨てながらも残りた人間の自身等内の均衡や納得を取る等への為に理解へ利用する利点または必要性はあったりもする。 しかしそれでは災害期待への欲求にも引き寄せ、その依存により任せ自身等で創り向上へ関わろうともせぬを催させるかもしれぬを把握する又は意識へ挿し込む事も必要とはなるであろう。 (それを話し言葉の関係,時間などの制限の中で伝えきる事は至難で伝えられたとしても大抵においては意味にもならぬが。)

戦争も絶滅期も手放しで良しとしていく態度は、捨て離れて囚われぬ超越性や俯瞰によりて観ていくには良くとも、その世界の為に自己を為し(その結論は傍観的無関与であったとしても)創り出していこうとする世界の中の自身というものを失わせるへの提案となりてしまうかもしれない。

それは自己と自己の判別性を減らし無くしゆく事と同時に自己のままに在りて最大化へ画して全体主義的な滅私へ吸収されず、しかもその自己のままとは表層自己を無くしゆくだけでなく顕在化された現在総合体の自身のままを感じたままにを(深き観察などというのも伝えたところで、各自自身の感覚や段階に拠りてしまうへ任せるのみしかないが故にも)ゆくにしかなく、そこにも必然が為されているのだとしたら何を変えるも無意味であれば(必然のみが起きているのか必然を生み起こしているのかは区別がつかず区別必要があるのかも分からぬとも、変えたところで必要があれば又も他に変わりが出て来るだろうにも)自己を減らし魂的な自己へ 近付いていく必要等もは有るのだろうか? 魂的な自己の潜在や流動へ触れての感覚や選択に達しゆくという在り方は進化への道としてではなく、ただこの生をどうしようもなく生きねばならぬなら、その味わい方として深めゆく事が面白いからであり、それによる正しき選択かどうかの区別判断も能力の開花と関与などというものも不必要であるのかもしれない。ならば更に混迷でありて何を生の基準としたが良いのか?へは只生きて為される生の連続に感じては生く事以外にはないのか? (そしてそれこそにおいてすらにも、人々の言う知性で考えていても深めるにも行為せねば意味がない等というのは、そこへの一理を取り得るとはしても論外であり、この自己と選択と感覚の問題と視点などにおいても又それ以外においても彼等の言う浅ましき真相点を真実基準として無条件に取り入れる事は出来ない。)

未分化の個から超個へ本当に至れぬのかは特例的には有り得るだろうが通常全般の道としての適用は、結論づける事は出来ぬとも確かに難しいだろうとは思われている。 ではその生体の一個総合体の奇跡としての個(personal)を基盤としてこそに深めゆける世界への立ち会いと見えていき方もあると思われている価値や、主体としての個を通してこそに発見し経験し成長させるへと歓びては、突き抜けた最少であり最大でもあるに矛盾もが無い超個へ至る道と境地は見い出されるというのに(絶対とは言いきれぬが)やはり僕は同意や共感してはいるのだが、それでも考えず忘れ流し去るだけの未分化的状態を通しては任せるへと祈り託すのみであったり(そこまで委ねるへは各自の段階における納得や体感的な理解のみで良しとする事はありても仕方ないとはしながらも、本質的には実は理解的な知性にもよる納得は要るのだとも思われ、私におけるjunyanaによるbakthiが持たれ待たれているようにも思うのだが)、それが生体のなき全体融合の無私という方向(それが間違っているとも言えぬのだから、野生,原始主義的な人々は理想化されたイメージ等の以外に、そこへの説明を考察し与えては欲しいとも思うが)を取りゆく事ともへの均衡,整合や到達への理想目標や行き方を、考じ講じられねばならぬというのは、祈るだけと他力性の存在化や電子的融合へ自己なき状態への動きに一直線に吸収されていくのでもなく(そこへの批判へ一直線に取り込まれるのでもなく)特例者や次世代者などが、何か出来ちゃったからこれで良いだろ。という以前の現在の私たちには(又はそうなった後においても)考察されていかねばならぬとは思われているのだ。

未分化の恍惚が正しいのならば(この知性に達した意味や価値付けを理由として利用や採用するのでもなく)しかし植物状態の無反応(確かに愛の恍惚はそれにも近いが)や徳ありての認知症的存在化した人などや赤ちゃん又は動物,植物等が最も素晴らしい中で我等は只、知性という枷による苦を産み出す無用の上に下層存在化された現れに過ぎぬのかもしれず自我を経てこそ行き着くのが最上的な価値である等と意味付けされたものの意味などは無いのかもしれぬ中での、それでも自我と個ありて故こその(それによりて現生の味わいを生き、超個への道へ使用も出来るという価値判断づけを見い出さねば哀し過ぎて存在出来ぬから等という理由以外での)積極的な超個への未分化方法以外での理由と行き方を見つけ出さねばならぬが、それでも全ての存在と段階状況には既に悟りの道や偶発的必然などもが内包されている上で、我等への生体は(これが悟りへの唯一の道として現れたからではなく、幼児から自我への進展過程を経てしまった種や存在の中での悟りへの在り方もは有り得るという道の見い出し方に過ぎないのかもしれない。 ならばtrans personalでの個こそに超個へ行けるという理論自体は(我等の歩みの中でどうするか?へは適用や使用は出来ても)崩れる。

そして、それらとは奪われていく意味をも越えて苦しみなくとも真に成長できるのか等もは自我,個の問いと同じくに有りて、自我と知性と分別の故に深め感じゆけるように(その苦の現状は苦しく叶うをも求めてはしまうが)苦が有りてこそに深められて、それがなければ満足してしまい突き抜ける動力としてはいけない我等性は確かに有る故にも苦は無くそうと努力してさえも良くないというのか? それは人為操作,強制からのものでなく自然界に起こる生老病死の最低限に関してからの生き方の問題へ還る事は求め正しくとも感じるし、それこそは原生的な(原始至上主義ではなくとも、そこにも近付く)生存性社会や存在化を求めるへの理由でもあるが故にも、では人為による苦の生産を減らすへは関わり、しかし自然界の働きや不都合を抑制しない中での又はその操作や便益性との折り合いや均衡の取れた形での関係や技術の使用性を見い出されなくばならぬにもよる中で、生命との感覚や観察に苦を越えた肯定と愛を目指し叶えゆくという状態と道を創るへと目指すが私と世界の必要と突き抜けていく基準であるとは言えるのかもしれない。

そしてどうしても自身と他者へも共有可能な成長への行き方と生存(の質)性をも求めてしまうが私ではあるが、真の幸福などと思わずにも例えば知性的ではなくとも感覚的に感性が共有でき、一方的には否定などして来ない人との間には心地よくは居られ(草深,幸喜,秀征,由くん,ヒロくんetc)そことの関わりにおいても自身の言った事へも振り返り自身への成長へ向けてはいられてもいる現在のようにも苦を経ぬとも観察し深めてはいれるのだし、真の深き知性と幸福などを求めぬとも人間は、この生を味わいては共生的な現実利益性にも在りて生きられる幸福となれるが良い上に成長や進化出来得る可能性も育めるという程度での、人間とはその程度のものであれば良いのか? そうでなければ未来(真の悟りではなくとも或る程度の共生社会化以降)への知恵とも成り得ぬのだから故にも、先ずはそこを目指すのか?とは(真の進化なくば又も破壊が起こる故にも、今回機会を生かせられればと思う私の人類への絶望と囚われも外し段階的にしか進まぬのかもしれぬであろう世界へ折り合った進み方としての存在へ 生まれ存在性を取るという事なのかもしれない。

これも真の幸福と進化への到達ではなくて過程(Biか金のない世界かのように、金のない共生性か、それをも越えた真の進化かのようにも)の取り方と現在適合への均衡選択でありて、又その超個の存在性と在り方というのは魂的な段階越えや宇宙総体的な知性への 同化を想定するのか又は仏陀的な心と最少による正しき均衡点や調整点でもある統合もしくは中間へもの基準性を生存自体へ見い出していく事か?等は実際現在の私自身における問いと観察とも同様のものであり、つまりは私の最終目的地と到達の在り方とは何処である目指すのか?へもの探究や掘り出しでもある世界と同時一体に通じる自身を通してを生きては在るのだ。

しかし感覚は合いても共有は取れないメグとの関係のような例もあるが、それは僕の共有,相乗,共生性への囚われである以上に、やはり一方でしか見ない(自身を覆せぬ自己のままの正当化、つまり観察的知性の足りなさよりも相手を理解しようとする事(思いやり)などもでの世界の感得の否定でもある、自身判断だけで開き直り成長は(しても流れ来るに任せ、それは良いとしても真相を知ろうとした事による世界の味わい方での喜びは得られず与えられる世界を消費(創造も消費だが)するのみでありて)出来ず故に、真に共有も出来ぬ事での問題ではあるとも言えるだろう。 その時だけの真実(それさえも見い出せぬ人ばかりだが)に寄り掛かってしまい判断と正当化加えてしまいたり振り返り見れぬ人ばかりとの中での学びの故に、それらとは適合点の対応も持ちながらも基本的には(そういう人ではなくてもだが)自身積極関与からの行為からは離れていなければならぬと分かったように、では社会もは同じく幾ら生命界の為にも変える必要を感じていて関わり闘い慈悲が為にへも努力するにおいても自身のみの生以外は諦めて心の囚われず離れている基本を身に付けていかねばならぬは自身に出来る事を生かすへと無駄な事への消耗をも産まず(そこにも勿論その行為各自への流れは生まれていくとはしても)最少により機を為されていくにも流され自身必要の以外での因果の影響を、なるべく世界に巻き起こさぬによりて傷つかず傷つけぬ為にもの在り方でもあるが故にもなのだ。

しかし私も感情的反応や囚われでありてもなくても、鐘や鏡のように相手への同じ力で打ち返してしまう表現を持つ位は、その価値に相手が気付こうと気付くまいと表明態度やパフォーマンスとしても又は世への可能性を置き残しておく意味でや実際での提案としても良いと思いてもいるし、愛への変換の意味での合気道的手法面は存在において行われれば良いのでありて待機説法のように打ちて来た機会に合わせ打ち返してみる事は、暴力へ対しての制圧や交感的な身体交流を用いた遊びへ転化してはいるが自身の中と相手からの力の使用を止めてはいない合気道の現実対応力の側面のようにしては押し付けの暴力に対して押し付けるなという対効力を当てていくにおいての同じではないかとも捉えられる。

そしてしかしそれは相手より上を行くことで闘わぬ、つまり否定を制する力で圧倒する事を一つの眼目においた手法ではあり、こちらには受け入れる強さがあるから打ちて来ても良いぞというのではなく人を攻撃すると返され制される可能性もあるぞと世へ潜在的にも示し挿し入れてもいるような置き方や、その人間の暴力性や能力に応じて身体を用いたいという欲求も認めては、しかし闘いよりも交感同士に気を合う流通を持つにより鍛え練習するという遊び方へも転化されている方法とも捉えられる。 という意味を見い出せるにおいても尊重し学ぶ事が出来るが、では僕や対人間の在り方や手法自体としてそこから適用出来る物は余裕を持つ程の優位性からの眺めで対機的な人間対応へ囚われず攻撃されても世の理知的な運動力を伴った上の力で返せるぞと示しておくことによって打っても良いではなく打つと制圧されるかもしれぬと思わせる相手の利己心,利益判断や怖れも利用した力の使用を恐れぬへ交感の遊びを用いるという方法(それは現在に既に為されているもの)であれば良いといえるのか?


全てが自由,多様で何が指針と見い出されていたかや方向性よりも(それも現在時点の自身化へ通じてはいる大切さではありても結局は)現在感覚に起きた事へ対応してゆくにしかなく(心身健康の為や愛へ押し込めての反動すらも良いのだとはしても、それを反動へ出さずに済む為にも)、現在の自身にとって何処が納得出来るか?ではあるのだから、最少的な自己へ近付くのも自身の為でもあると同時に、行いたいならば行うしかないも良いと認められており、ならばその自身にも全体へもの指針とは、やはり攻撃も良しではなく受け入れるだけでもなく心では受け入れて囚われずを目指しても態度では力へ対しての制圧力を用いる方向であることが適合にして中間でもの基準ではないのか?

それとも如何にその指摘などへもの質が、相手の理解と思いやりの上でのものであったか等にも関係がなく、幾ら相手が間違っていても又は判断的な攻撃をして来たとしても、自分が打たれたくないようにも打ち返すべきではないのか?

私は傷つく。 自身の創造を行い、その力とも灯しては、他者から受けるものなどを気にしないと心を張らなければいけぬ愛への方向が故の惑いにも在りて来ては自身へ愛を強制もせず、(それでも心は囚われを越えた愛とはなるを目指し進むが)存在と対応を分け二元的方法も良しとしてしまう理想と現実や内面のみと関与や最少と最高のようにも通じる柔らかな均衡の取り方を現じさせても良いのではないだろうか。

流し去ると振り返る,忘我と自個,のようにも、その統合的基準点への均衡や適合は両方真実性を認めたところからの組み合わせの問題であるのかもしれない。 しかしそれでは、各自の考え方に任せるしかない抽象は余計に増すのかもしれぬ故にも基準を示し置きたいが、それはこの書いて来た記録の繋がりから読み取られるものもあるだろうし、それを僕においてまとめて示す事が出来ぬのならば基準化は、この種による次の人の仕事へ渡すへの糧となるも良いのだろう。 私は此処に私を置くという仕事を続けるだけを生きるのだ。 そして現実化しても流れ去ってしまうとも、誰にもおもねぬ僕自身の方向設定によりて生活出来たり旅にも行けたりするようにもなって来れたのだし、心一つの状況にて全てを幸せと感じるか苦となるかは覆るが、実際状況は良くもなって来ている現実状況も伴ってはいるのだから(そこを基調としておもねると、良くもならなくなった時に又も絶望へ陥るかもしれぬ故にも現実化状況での判断や依存や期待をせぬようにはせねばならぬが)どう何が如何に成るかの 設定,判断はせぬとしても、きっとうまくいく。 その為に、この用意も行われ続けて来たのだというような納得への意味付けや期待も過度でなく覆され観ながらには持たれていても良いのだとは思われる私において、結果にも囚われず何が来ても受け入れ対処し死なずとも生き延びるのだとしても(人間的弱さが何か信じられる解釈へすがりたいようにも)、私が為され真の幸福と共生性へもの世への役割へとも生かされるはずだと思い描き信じゆくのは(本当かどうかに関係もなく思い込みは覆しながらも)生きる力として使用されても良いのだと認められる(自己現在の正当化的肯定でもあるが正当化的肯定だけではなく)ようにもなっては来れたのだ。


世界は自分の鏡だから自身状況が反映され学びと必要の為にも返って来るというのは(その面もあるというには認めるが)、しかし自分は全て悪いから世への批判を無くし押し込め又は愛となれたらば人為に打たれる事もない等というような自己責任論の事ではなく、そうした面での現実化も起こる事はあるかもしれないが絶対ではないし(そうだとしたら自然界が人間に傷つけられ奪われているのは自然界自身の責任であり破壊されて当然という事にも繋がってしまうだろう。)そのような浅い時物の判断に利用されてしまうでもなく、思い込んだ方が現実と成る思い込んだ者勝ちのようなものでもあるので肯定的な現実化が起こっているから高く真実に近いわけでもないというにおいても、振り返れぬ自己正当化が故に自身への現実化が起きている状態を見る事も多いように全てではないが人々の浅さの証明となっている事も多いだろう。

何が幸せかの定義にもより現実的獲得も僕は否定しておらず二項的真実を認めているとしても、やはり浅くとも現実的利益は得られているのみによる幸福であれば良いという判断や、それが最高の実現生命だという意見に汲みする事はなく違うと思う。

深く観れぬ又は自身判断のみである阿呆でも感覚よく人に開けて生きれるならば良いというのは、只生きるための生命力や他者利用に関しては正解であっても僕には違うと思われ、そこに質性を求めてもしまう。 そして何をやっても突きつめれば何かには成れるから良いのだという人の意見については何の仕事でも良いというなら、それは経済至上主義の一環でしかないのだろう。

経済よりも独自~original~であり真似ではないことの強さもは有り(だからといって真実に近いかは別問題ではあるが)しかし独自で在る人は生き辛く経済的に困窮しておりて社会的な発言力も持ち得ない弱者(それが例えば貧困ではなくともrainbow gatheringのような経済方向へ関わらぬという肯定的な場合においても)である場合が多く世を変革するような力とはならないが、それが離れ眺め変革への動きや巨大なダムをも崩す一差しともなるかもしれぬ時代の機会に会いても、そうした過程を採るへは関わらぬ傍観的な又はalternativeのみでもある在り方と行動基準の採り方の積極的肯定であり、人間を諦めながらも意識変革への仕事を諦めないのは自身への宿り来る機会や実現での結果を待ちながらにも、しかし逃げ伸びては物質世界が自体により勝手に崩壊した時の種となるのを待つ位にしか行為も関与も協力もしない。というので本当に良いとは(自身納得であれるかの以外に又はそう自身が信じられるものを見い出されなくばいけぬ探索の為にも)言えるのだろうか?

~I'm a style. It's not of fashion.~
~I'm spectator to be my self with what is direction of truth. & I'll have a choice to do for just what I can create.~

そして世界とも同じように家族は自身等によって切り開き培い、そのものが何とかなっていってはくれるだろうに任せ放り投げても良いのだろうが、僕においてこその感覚や共鳴性において与え育み培い合えるものの良さと価値はあるとも信じられているように、何が出来るかや又は出来る最少のみでなく自身の最大限化をも目指し関わる事と関わらず捨て自身だけを生きる事とのバランスを取られてはゆきたいし、そこへの想いや過程へ対する提案や意図の提示へも在りて良いとは思われてもいる。

捨て流し去り自身変革と本質自己のみへ向かい合い交感しては生きるを味わう価値と成長を喜びながらも成長を求めず(信じる為の期待も良く囚われるへの期待もせず)自身に出来る最少のみを置き行い自身最大限化の可能性を試し発露しゆこうとする事へもの選択や労力や闘いや力の世界に巻き取られる事も流れと役割(真に必然でなくとも弱き人間の自身を、そう納得させるにおいても)に感じられ又は流されたり、その時の感覚や現在ごとの性質や自己越えたものに為されているにしかない事での一体などもは、しかし言葉においては置かれる矛盾でありて(言葉でもの明確な現し方を探しながら)も、実際的感覚の既にもある統合の一致であるとは言えてはいるのだ。

何を話し伝えるか等においても、別に僕はコミュ障害でもなくて(勿論たまに自身の思いや基盤共通が皆も同じだろうという、思い込みのみで行ってしまう事からの失敗もないわけではないが)同じような感性や共有土台で分かち合える人が少ないというだけで何故か(何か働いてないけど上手く行っていて楽しそうというヤッカミなどもあるらしいが、それは自分の努力で作りあげて来たものでもあり自分にとっては相当に苦難を経て来てはいるのだが、そこへの想像や思いやりは全くにもなく一方的判断ばかりがある)必要以上に攻撃されるような事が多いのだが、そんなやつや人間社会に対しては、僕の価値を自身創造の出来る事以上には置いても関わってもやらないよ。という基本スタンスには離れてしまうも良いのだろう。 そしてなかなか充分に(理論的説明,集約よりも肯定的熱情などの方が受け入れ取り入れられ易いという面はあるようだが)僕は既にも、そうした行い在り方を為し得ているとも言えるのは、子供との交流において何を言うかへ言わぬとも良いが言い又の機会にその上での面を伝えたりするにおいても必要的な流れへの行為,言動化は出来ていたり、他者間にもおける議題へ対しての提起をまとめ集約し基盤を底上げするにも置き、しかしその場の人々の状態や必要以上には言う事も無くて良いなどと観ては止めて放り出すというように均衡も取れているのでもありて、聴く人の間では言葉でも自身を為させる事へ結び付いているのだからにも、僕に障害があるのは判別的な人為と浅さへ対してではあるだけなのだ。

そして母などもがように、意識と方向性が良ければ良いという事でもなく感性が良ければ何でも良いのでもなく、(ヒトラーのようにも)魂的に深いかの質でさえもなく一方的な制限体自身からによる判断の押し付けを行わず他者だけでなく自身や世界への理解へ振り返るという基準は、それ故の強制や義務的縛りにはならぬが良いとしても、あると思う。 そしてそれに対する対抗力(強制とも言えるものだが)の用い方は、(その度合いは問題であるし、一つの事を選択し決定し行いてしまえば次に現じる現実と状態への制限と因果を生んでしまうとはしても)やはり有りて良いとも思われてはいるのだ。

では身口意へ対し貯めずにも吐いた後で、自身の中では覆す意識の光へ流し去り転化させていても、しかし社会的存在としての人々の言葉を使用し表面的に共鳴し必要を感じては置くような対応や交流への説明においても、その表現に宿った身口意による他者影響へ対しては(そこへも自身に中での愛と変容の意識を当てる事は出来ても、その労力以前で済ませる意味においても)如何に行われ吐かれるかを考慮されているべきなのか? 過程的な存在でもある私という探求と惑いの現在にも在りて超越的な視点と愛と肯定の真実面のみを言うのでもなく社会の肯定的解決への改善点のみでもなく、だから駄目なんだというような事も解決への提案への大切な事と思っているのだが(そもそも解決されるべき何かが在るという設定づけ自体が突き抜けた超越ではないとしてさえも)、それを行いた事による他者影響を(それはその人のものと捉え方へもの責任だとしても)孝じるにおいて如何なる表現ならば(何が駄目ではなくても)良いと言えるのか?

音楽にも同じく伝える為の言葉と説明よりも自分への意識をtuningする言葉への化し顕し灯し方。であるを分かち会いでの形にも至らせる。 しかし到達への過程を現す事が到達性への手段,戦略とも一体であるように、やはりそれは不可分な面も有ると思われ私に行われている現在の選択点にとっては既に為されている面も有ると言えるとも思うのだ。 他者間においても自身のみに在りても同じように必要を感じては選択へ行い(対抗的手段化必要時以外においての通常においても)、自身説明も惑いもを含めた統合や多様への価値提起や到達過程への姿勢や考察現在とも共に至り得るべき地点への獲得されて来た多分の真実に関しての観入断片を(対者等が気付くかは知らずとも)挿入していられてもいる。 しかし雑な意識への影響を催さず、もっと肯定的でもある集約された到達,統合性へ引き寄せてもくれる音楽的,関係的にもの言語の使用方法は(この現在を逝くしかないを認められた上にも)考じられていく立ち会いを日々に意識していってはみている。

伝えようと等とし過ぎず思いもせず対応するに話しているのは上から教えを垂れようとするよりは良い。が、その者の段階や状況に合わせて必要分+ alphaくらいで関係しているだけよりも、もっと超越的な存在のみでの付き合い方へ行ききった方が良いのか? (どちらも自分の納得や現況に合わせた選択の良しではあるが、ここで言われているのは社会的な言葉への置き換えなども他者状況や待機的応対でもなく到達へ近い存在などを世界へ放つ在り方と成る方が良いのか?等の事。)


向き合い振り返り,捨て忘れ流し去る。の各真実と全包括のようにも、何処にも縛られぬ固定を避けた在り方によりては各自の中での観察を行い続けていって貰えたら良いというだけの事でもあるのだが(そんな僕の嫌な事や求めている事も明確さを帯びて来たのだが、しかしそれは共生への理解という人為や自我を何とかする等の以前の単純さではある事が為されないようにも)大抵の人間は全ての真実と自由の上に開き直るばかりではあっても、そこに統合への創造と過程を自分で歩こうともする事すらが出来ない。

一方的判断も嫌だが自身の感性で生きておらぬ故の判断である質もが更に嫌であり、(勿論その自律の度合いなどは程度の差であり誰も真に自律などしておらぬが)ではこんな価値を見ようとさえもして貰えない人間や社会などへ対して、肩書き的な人間判断への対応の力を持つにも反対だった僕だが、肩書きのみからの印象判断ではなく自身からの創造による社会化された価値と結果へ対する承認的判断によりて自身の為したかった事を認めても貰えるような力は(zacなどのような状況においても)認めてもおり持ちたいとも思えるようになった 。


叶わない事における欲求の肥大を経てはいるが今も最高を与えられてはいるに生き、創造の仕事のみが叶うかにもよりて他もが叶うか叶わぬかもの私の今後の結び付きは二分化されてしまうかもしれぬが、そこへもの自身設定へ取り込まれず例えば拠点の流れの来ぬならば日本であるへも囚わず、先ずは出て行くことへあるもが良いのかもしれない。 それが如何なる見える結果へ繋がらぬとも放浪の性質は生かされるかもしれぬし、それはしかし晴明神社で言われたような呪にも設定されずとも、音楽家という選択へ導かれたのは放浪性と創作的な世界との関わりへの基盤として折り合ってはいる発明的な折衷案への自然な結び付きでもあったのかもしれない。

何かを成す事よりも小市民的な満足と地域社会への滅私充足や市井の聖者であるという価値観にも縛られず、何が得られぬとも自足ではあるに生きて向かいながらも自身の本来性に基づき何が行いたい行われるべきと感じている事ならば為すへも向かい、しかしそれ認めてしまえば殺人者の創造も罪に問えなくなるかといえば彼等は彼等の責任として人間社会的な現生での罰と刑期判断等を受けるも仕方ないのか?との折り合いは取りゆきながらも(人道的な刑務環境作りも有りうるという等のように?)、その本来性の自身というものや、そこへの自由においては奪う事への囚われ(生きている以上どうしても奪っている部分等ではなくて意図的な排除の傾向化であるような)は無くなっていく事を(それだけで全てが解決されるかは分からなくとも)社会と人間の基盤傾向化させていく事は出来ると 思われ、つまり如何なる時代となったとしも人には善悪がそのもの自体に有るのだとしても、その出現リスクは(徹底管理でなくとも)最少化できる(が、それ以上は諦める?)というような均衡策を持つ事も有り得る可能性ではないか?

(上記文の途中から9/4~)

ならば本来性(とは真の本質,非実在的実在性の段階までの事ではなくても自身への役割ではあり尚且つ、欲求と囚われによる意図的破壊や強制力への判断,操作,人為欲求もは生まれにくい状態ではあると言える程には潜在的深さにも近い状態への希求ではあり、又その僕の望みの部分の何故に 潜在的本質性への進化,深化などを目指したいのかの理屈面の補強理由でもあるとも言える。)に目覚めるへ生き、その自由に在れる状態が人間に喜びを持たらし(最少対応性以外の自衛力や法規の施工,執行に伴う権力,管理を必要とせぬとも)自由を奪わず奪うという基準は何であるとは最少に定め(自己能力や意思に基づかぬ事をさせられる。や理解なき操作と押し付けが為される。等か? そしてそれは生命権にも対応出来る。)奪う者には如何に対応する(全体統一されていない条例的な各地域での多様と自主選択もそこに尊重,保持されている共同体自決だが内政干渉の固辞などではなく共に緩く干渉もされあっているような状態を作る事も出来るように思われる。)等での憲章的共通は、こうして活用可能となれるかもしれない。

全体や型の為に無私であるを目指した傾向性は昔の日本人にも勿論あったが多分、昔の人はもっと個が立っていた。 つまり今のように画一的では無かったと思われる。

自己ありた故からこその超個が絶対条件かは未だ分からないが、やはりその進め方への提案にへは自立(経済的なものではなく又は孤独でもない、自身本来へ向かいて立ち存する事。と言っても良い。)を経ての、その自身本来へ向けて余計な人為を(人為も、それ自体が悪いものではない。)抜けていく方向への作業でありて、僕にも過去経過に行われようとして来てしまったように自己なくした超越へ目指す事(それもそれ自体が間違いではないし又、必要な経過でもあったが。)へと自身を押し付けてはならぬのでもあり、それは自由による道を選び持たれる事にも通じているのだ。

進化という変化は、それまでに起こって来た原因にもよりて至った現在という環境,状況にもよる傾向や性質性において可能性の許容範囲での、どちらの多様を実験するへ向かったかの自然的連結と過程の現在けっかではあるのだが、そこにはその生体や種の(意思にも上がりて来る分はある)想いのような傾向性と、つまり生体からの方向性や自主(とも言えるような)選択によりて為されている面は有るというように感じられている故にも私は私の意思や感覚による選択にも、その現実化を物質的に催していく力は(波動や量子力学などの面でなくとも)あると思われ、その使用法を自身へも行いながらも説いている。

深い考察ではなくて軽口で言ってしまう事もあるが、鳥は気持ち良いから飛んでいるというのも(生態的にも適合してしまっているから。が最もなる理由であるは勿論なのだが、人間は歩く生体を現況までには与えられていたから。という以外に、歩く為に生きている。 必要からではなくとも、気持ち良いから歩いている。とも比喩表現だが言えるようにも)そうした自主選択面の以外としてもの或る意味では本当だ。

では自身の選択と方向性によって、苦しい過程を経なければならぬもあったが何とか暮らし養育費も払い時には必要性への望みによって旅にも行けるようになったのだとも(だからといって何処でも通用するわけではなく日本に生まれた私の状況などに、つまり先程にも言った現況に拠るところは大きい、許容範囲の中での可能性の試しではあるのだが)言い得るとも思えるように、それは現実へも作用する愛の存在化を味わい日々に逝く事と、捨て去った事にもよりて囚われを抜けていく度に(繰り返しであるも多く今のところ現実化と流れ去るのが交互にも来てはしまうが)身体性への進化,変容,関与以外の意識と存在による流れの宿り来たる現実的な影響や波動的な意味もあるようには感じられてはいる。

では意識で設定する目標金額の望みなども楽になる余裕の為にも少し欲張っておく等でも良いとは思うが、必要だからと待っていれば何の行為へと化さぬとも(必要ならば行為の内容が又も見えて来るであろう面はあるとしても)意識の方向と捨て去ってもいくへの、愛の存在化だけで良いのか? そして流れ来た時に逃さない方法は未だ僕にも分からないが、その時に感じた自身を行為しての結果が成らぬとも、それは自身への必要ではなかった流れであるも見えていたりもするし(そう思っても判断つかぬ故にも、試してはおいたりもするが)又、必要であれば次の機会が起こりては来るし、その間の得られぬ苦しみは学びとしながらも自身には耐えられていれば良く耐えられる事である事もが多いとは感じる。 しかし学びとはしながらも、なるべく耐えるのではない充足自身の在り方、もしくは得られる事もが伴いて欲しいとは思うが。

得られぬ事ばかりを言うているのではないのだが、得られている事も有るはずだからそちらを見ようと言われれば、比較して日本のホームレスは世界の貧困やシリア難民よりも恵まれているから満足しようという理屈づけと余り変わらない事も多く(勿論それが比較でありたとしても、持ち有りているものや良い面を生かそうという提案と意義には同意しているが)、自分を本来性に生かす形での自由や必要が与えられない(社会もの)状況や不平等において(役割も運も違う人々等の皆が同じ繁栄に至れるか?は分からぬし直接的にそこのみを指しているのではないが)その本来自身への自由,必要,状況は与えられるべきであるという
平等を起こしたいと思う望みを、(望みは良くないと消されるのでもなく)抱き伝え行為する、私の言動と創作や方向へも転化され提起されていくは良いとも思われているのだ。

それらは現実化欲求も捨て去ったが上でもの現実化欲求と言っても良いものだろう。

誰か特定の主人へ盲目的に仕えさせられる事への反発を抱かされるのではなく、自分の生活の為という自主的選択であるによるを利用し諦めさせ反発対象を隠され経済化した現代の奴隷制において、しかし貨幣の有益性も理解出来る故にもなのか、それは反発(例え心ではしていても)や覆す対象とは成りにくいらしい。 そしてギリシャでの民主や文化が有り得たのは奴隷の有益性が社会を回し自身等へもの恩恵を与えている事も理解していたが故にもなのか多分、奴隷達からによる変革というのは起こりにくいのではあろう。

外圧と侵攻がそこでの安定を壊し、そこで築かれた文化を破壊しながらも次の世界の多様の中での動きへと流入させ進ませたように(破壊は嫌だとしても歴史的な必然性を感じられる視点上からも視られれば)、そこでも一極集中ではない多様が外部に存在している事の意味が有り得たのかもしれぬが、では外部がない状態へ世界が統一されてしまえば逃げ場も変革への力(暴力,武力的対抗手段でない事を想いながらも)を用いる事が出来得る選択の可能性すらもは凄く低くなってしまう。 では例え英米の陰謀であったとしても現在の香港のように、その一部に組み込まれた内部からの多様,自由への運動や穴の開け方は(イスラム国,ウーマンリブlgbt,etcもの良いも悪いに見えるも、もしかしたら他の意味の為に利用され賛同されているのかもしれぬとも、本人たちは自分の信じている良い事の為に自身を用い行いているだけではあるように、その可能性にも気付き自覚は用いながらも、全てを把握して動く事は出来ぬ又は判別せぬならば動けなくなるのだからにも人間にとっては或る程度に仕方ない事であるともは言えるようにも)一つの在り方の実験としての指針を示してはくれるのかもしれないと観ている事は(観ているだけで良いのか? 判断出来ぬからといって何へも関わらぬのか? 如何に世界や共同へ関わるのか?等はあるが、)出来る。

破壊に拠りて、歴史の必然的(にも見える)歯車が回り始める事はあるが(ヒトラーによるユダヤ国家建設なども)ではユダヤやロマなどもの放浪の民が経路を分けてさえもスペインや日本(それが本当だとしたら)など最果てへ辿り着いたように、そこには物語的な暗号なども無かったであろうと思われるのに(ロマは口承だろうが、それに関して秘された全体共通の伝説など無さそうだしユダヤでは、そこまで共有可能で分かり易いコードの封入が行われていれば解析されているだろう。)どうやって、そして何を目指したのか?とも好奇心が思う。 又そのロマの移動が、多様を挿し込む為に何故かも分からず、や抽象的な理由で歩き出してしまったのかもしれない。し、次の移動を促進する為に何かに突き動かされるように各地での排斥者が突然に声を上げ石を投げてしまったのかもしれない。 が、しかし世界の計画に尽くされる為の動きがあっただけだと俯瞰で捉えられたとしても、その為に一体どれ程の悲劇や苦しみが、それを行う主体,当事者たちには与えられたのだろう。と思うと、もし必然的な連関への精霊段階的調整や神的意志の計画がありての為に世界が為し動かされているだけなのだとしたとして、そこへの絶対的な信仰が求められ受けるしか選択肢がなく意識,自我,知性ある故に哀しいのだから痛み,苦の無い為にも無条件の肯定もしくは未分化の分別なき恍惚のみへ生きるのが正しかったのだとしても、又は肯定に至る事もなく勝手に苦しむが良いと放り出されているだけなのかもしれぬとも、やはりこの世界に生きるのは余りにも無情に過ぎるのではないか?

子を殺せと言われても例え生や死などの全てが幻想でしかなくとも、僕はそんな神を疑うし背いて逃げ闘い後の世までの苦難を 背負わされるかもしれぬし又はその選択を強いられ世界の為に殺さねばならなくなるかもしれぬようにも信仰しなくとも良いが信仰せねば勝手に苦難が与えられるだけの非情なのかもしれない。 しかしもし試練に耐えてこその成長や繁栄が本当だったとしても、一度約束しておきながら更に試練を与えてから乗り越えたから再約束する等という手法は自分で契約と言っておきながら卑劣ではないのか?

ではせめて平等ではない世界のままにも(本来自身自由の為の仕組みの事ではなく)各自への必要や段階を生きるしかない進み方や顕れ方もは違うを認めるにおいても、自己防衛や家族という垣根性をも持った生き残る術のようなものへ向けて生きなければならぬというような強さの論理や人より上に立つ又は相対的に負けない等の力に生き抜くか、それが出来ぬ又は嫌であるならば強者に負け奪われ死んでいくを認める中での肯定性の安寧を身に付けるしかないというのか? その中間的な在り方と道は当然あるが、そこにもやはり生き抜く為の力と境界,単位による比較,不平等があるのではないかという意味においてもである。

キューバ危機に関して核戦争前夜は、回避出来たのは考えられぬ程の奇跡であるとも思え、ぎりぎりだが最後には均衡的な動きと現在までの結果を与えられて来た人間の自浄力のようなものへの楽観もあると共に何らかの外部からの関与が有ったのではないかという憶測も信憑性を宿している程にも(それで滅びてはいないだろうが)破局的状況を免れたのは、信じ難いような偶然的な連結の上での均衡でもあったようにも、来ないかもしれぬが来るかもしれぬ災害へ備え、来なければ良かったというようにも選択肢を用意しておく事は自分だけでない皆にとっても良い事とは思われるが、それも金銭的状況や生活労力上の余裕などや又は個人能力,性質,方向にも依るものでもあるし、そして物などを用意し過ぎていても身動きは取りにくくなり、その時の必要に応じて必要ならば与えられるという身軽な意識へ設定してしまった方が良いのだろうか? 世界の破滅の時には何も持たずに山へ逃げろというようにも、しかしそれはその時には。であるならば、やはり通常は必要そうな物へ用意し重くとも持ちておくというような(生体本来の本能的な力ではないが)生存を道具で補助する事へ労力を用いる(運搬コストの金や体力なども)方法を選ぶ事との適合,均衡を、如何に取れば良いとも言えるのだろうか?